鈴鹿:宝殿ヶ岳(猪の鼻ガ岳)
滋賀県日野町の「さつき寺」雲迎寺を訪れるついでに、宝殿ヶ岳から平子の澄禅寺まで歩いた。
雲迎寺のさつきは入口付近は良く咲いていたが、奥の宝篋印塔の周辺は少し遅かったかも知れない。今年は花の開花が早い年だった。
- 登山日
- 2024年6月4日火曜日
- ルート
- 音羽城跡駐車場-音羽城跡-宝殿ヶ岳-砥山-丸芽山-澄禅寺-雲迎寺-音羽の薬師堂-駐車場
音羽城跡
「音羽城跡伝大手口駐車場」の説明板がある駐車場を出発して階段道を登れば、本丸跡の広い空間に飛び出した。遊具が置かれており、木立の向こうには宝殿ヶ岳が見える。音羽城跡は明治以降、堰堤用の土砂採取などで破壊されているという。南側の掘を土橋で渡り、抜け穴跡を見物して林道へ下りた。
宝殿ヶ岳
考え事をしながら歩いていると、林道の分岐を見落として日渓溜の上流を歩いていることに気付いた。そのまま進んで、東の破線路を使うことにする。
破線路が近づくと南へブルドーザで開いた作業道の入口があり、次いで古い黄色テープの破線路入口に着いた。狭い谷の左岸側を登ると作業道に飛び出したが、さきほど入口を見た作業道だろうか。周辺を見回せば破線路はヤブっぽい雑木林らしい。心が折れて作業道を歩くことにする。雲迎寺のついでなので気合いが入っていない。
作業道は各所で分岐するので、上り方向を選択しながらテキトーに歩く。最近は使われていないようで、倒木あり、シダの茂みあり、ヌタ場あり。最後に東側の谷を上がってくる作業道を併せて破線路の東で稜線上の林道に飛び出した。

林道を西へ歩き、目印が見当たらない宝殿ヶ岳の入口から高度差がない雑木林の踏み跡を西へ追えば宝殿ヶ岳の三等三角点「鎌掛谷」に達した。展望なし。
点の記を調べると平成4年に更新とある。記載された地図にある「記念スタンプ台(宝殿ヶ岳)」は、当時、日野町内の山に置かれていたものだろう。小岳の点の記にも記載がある。現状、ハイキングコースとしては整備されていない。
地図の大きさ:600×150 600×500 説明:地図表示について
紫線:登山ルート、:音羽城跡駐車場、
:音羽城跡、
:宝殿ヶ岳、
:砥山、
:丸芽山、
:澄禅寺、
:「右ちょうざんざん」石標、
:雲迎寺、
:音羽の薬師堂
砥山
山を削った林道を東へ歩くと、各所で北側斜面から作業道が上がってくる。綿向修験の行者がこの山を越えたとのことだが、道跡など分かりはしない。

砥山の直下に目印があったので登ると直ぐに作業道に飛び出した。これを追って西側の尾根から山頂に達したが雑木林で展望なし。モチツツジの花が残っていた。
立ったままコンビニおにぎりを食べて出発する。山頂から東へは雑木の急斜面で、ズルズルと滑り落ちてしまいそう。植林に下りてホッとした。
平成12年の『ふるさと鎌掛の歴史』には、砥石を拾ったことから砥石山ともいい、『蒲生旧跡考』には厨頭冠山(くりやずかやま)の名称があるとのこと。町役場方面から見ると、この砥山は尖って見える。
澄禅寺
丸芽山に寄って林道終点に下り、日野町猟区の看板から斜面を下降する。何処でも歩けそうな植林尾根なので、少なめの目印を拾って澄禅寺(ちょうぜんじ)に下りた。
ここには「南無阿弥陀仏」の独特の六字名号・徳本上人名号碑や澄禅妙法和尚の石碑、阿弥陀仏や地蔵菩薩の石像、倒壊した本堂と思われる建物跡、半壊状態の庫裏などが尾根上の平坦地に残されている。




平子集落の裏参道入口にある説明板によれば、元禄期に澄禅(浄土宗大辞典)が草庵を結び、約100年後の享和3年(1803)に紀州出身の徳本上人(同)が澄禅を慕って寺を開いたとのこと。徳本はここを拠点にして周辺地域に念仏講を組織したとある。
滋賀県の寺院明細帳には澄禅庵とあり、東京一行院末、浄土宗と記載されている。一行院は同名の寺があるけれど、こちらの天暁山一行院だろうか。
現在、廃寺の状態で寺として機能していないように思えるが、単立の宗教法人がこの住所にあるようだ。活動を停止している新宗教の連合組織・新日本宗教団体連合会の会員として澄禅律院(2022.04.19 Wayback Machine - Internet Archive)があり、住職は連合会の監事を務めていたと記憶している。
狭い石畳の道を東へ下りると参道があるが、一部は雨水に削られて良くない。こちらが表参道なのだろう。車道はない。平子集落から国道を西へ向かうと裏参道入口があり、徳本上人名号碑と説明板があるが、説明板は劣化して読解が難しくなっている。
雲迎寺
ひたすらに車道を歩いて音羽集落に入ると右ちょうぜんざん、左西明寺の石標がある。押磐神社(綿向本宮)の鳥居前を通過すれば僅かで「さつき寺」雲迎寺だ。説明板には「宝殿ヶ岳山頂に祭られていた神社の別当寺」とある。寺院明細帳の浄土宗雲迎寺にも同様に宝殿権現別当などとある。
さつきは色調に違いがあるので懸念したような単調さはなく、黒っぽいアゲハチョウが蜜を求めて飛び回っていた。観光客一組との入れ替わりで独占状態だった。







境内に入ると正面の仏堂には千体延命福徳地蔵菩薩、綿向宝殿権現本地仏、音羽城の御守御本尊とある。良く分からないけれど地蔵堂らしい。開扉されており、明かりに照らされてはいるが、庭からは仏像の陰が見えるばかりだ。
左側は庫裏かと思ったが、大面積のガラス戸の奥に祭壇があり、こちらもほんのりと明るい。阿弥陀仏を拝めるのだろうか。
梁塵秘抄の釈教歌を思い出す。激しい業の夢うつつのなかで神仏を拝する修行者とは対極で、ボンヤリ爺さんには打って付けの場所だ。お迎えが近いかも。それまで歩ける山を探して頑張りましょう。拝観料はないので小銭を賽銭箱に置いて退出した。

西へ歩いて音羽の薬師堂まで来た。音羽西古墳があり、雄略天皇に射殺された市辺押磐皇子を葬ったとの伝承があるが、出土品が時代に合致しないとの説明がある。寺院明細帳の薬師堂の所在地が音羽村字御骨なので、地元では相当に思い入れがある場所なのだろう。
日野川を渡る橋の上から宝殿ヶ岳、砥山を眺めて広い駐車場へ戻った。
6時間の行程だったが少々疲れた。平子~音羽の間で出合った町営バスは往路復路ともに乗客なし。平日は1時間に1本程度あるので利用すれば良かったかも。
なお、本文のタイトルは古い地誌を根拠にした地形図の「猪の鼻ガ岳」でなく、地元で使われている宝殿ヶ岳とした。
行程表
9:45 | 音羽城跡駐車場、出発 |
10:03 | 音羽城跡から林道(林道入口)へ下りた |
10:30 | 破線路入口 |
11:02 | 稜線上の林道へ出た |
11:29 | 宝殿ヶ岳・三角点 |
12:17 | 砥山(12:17-12:24) |
13:02 | 林道終点・日野町猟区の標識 |
13:25 | 澄禅寺(13:25-13:39) |
13:54 | 国道477号へ下りた |
15:06 | 雲迎寺(15:06-15:30) |
15:33 | 音羽の薬師堂(15:33-15:39) |
15:45 | 音羽城跡駐車場、着 |