鈴鹿:バンドウ・鳥越場・ゾロゾロ峠
亀山市の関宿からバンドウ(諸戸林業山林事務所)へ入って中津川沿いの道を西進し、ゾロゾロ峠を越えた。これが源義経による木曾義仲追討の道らしい。
- 登山日
- 2026年3月1日日曜日
- ルート
- 関宿・西の追分-バンドウ(諸戸林業山林事務所)-鳥越場-西鳥越-木原越-ゾロゾロ峠-風ノ森社跡-柘植駅
今日の宿題
木曾義仲を討伐するため、源義経は京都を大津側から攻める大手軍と名古屋で別れ、京都南部の宇治から攻め入る搦手軍の二万五千余騎で伊勢路から伊賀へ入っている。
この経路は『源平盛衰記』(国立国会図書館)では加太山や風ノ森を通過していることから、ゾロゾロ峠を経由したらしく思われる。伊賀から西進した義経は、元曆元年正月二十日(1184年3月4日)に平等院付近へ到着して宇治川の合戦となった。
義経が加太山の何処を通過したのか『源平盛衰記』には書かれていないが、今日は中津川を西進してゾロゾロ峠を越えるルートを歩くことにした。
地図の大きさ:600×150 600×450 地図表示について
赤線:登路、
:関宿・西の追分駐車場、
:楢の木集落、
:東海自然歩道指導標、
:バンドウ(諸戸林業山林事務所)、
:道路分岐・広場、
:林道終点、
:鳥越場、
:西鳥越、
:木原越、
:ゾロゾロ峠、
:風ノ森社跡
この地図は、GPS(Garmin eTrex32x)で取得した軌跡をデータ量削減などの目的で間引き編集し、国土地理院の地理院タイルに重ねて表示したものだ。
バンドウ(諸戸林業山林事務所)
関宿の西の追分にある駐車場を出発して国道1号を歩く。関町沓掛の楢の木集落の手前にある弁天橋(国道1号)から見る鈴鹿川は暗くて険相の川だ。


国道から支流・中津川の道路が分岐するところに東海自然歩道の指導標があり「バンドウ山」とある。このバンドウ山は諸戸林業の山林事務所(正式名称は承知していない)がある所在地名だ。最近の東海自然歩道のガイドブックでは「バンドウ山」の代わりに「まがき橋」が使われている。
5万地形図を調べると、大正9年~昭和25年に「バンドウ山」、昭和40年~昭和57年に「バンドウ」と書かれていた。また、現在でもゼンリン住宅地図には「バンドウ」と赤字で書かれている。なお、東海自然歩道の全面開通は昭和49年のことだ。
バンドウ山の地名は『鈴鹿関町史』(国立国会図書館)に「坂東山」とある。「鈴鹿郡坂下村大字坂下字中津河山林は、古来通称を坂東山(坂下山とも言う)と称し、坂下村大字坂下字沓掛の区有林」とあり、これは坂東武者が通過した場所との意味があったのかも知れない。
山林事務所を通過して「まがき橋」を渡ると、山神の祠と鳥居が新しくなっていた。ここから中津川沿いの道へ入るが、諸戸山林への立入禁止の看板がある。道を離れてみだりに山林内を徘徊したり、採取したり、火気を使用したりはしないので勘弁して欲しい。
鳥越場
緩やかに流れる中津川の左岸道路を歩くと早々にシカ二頭を見つけた。当方に気付いて、跳ねるようにして対岸へ逃げて行った。

道路が広場になり、壊れたトタン小屋があって道が分岐する。直進方向の橋を渡ると良い林道だが、自動車が通行している気配はない。その林道の終点から左岸側の踏み跡を歩くと枝谷へ入るので進路を修正して本流へ入った。谷には倒木やコケが着いた間伐材が大量に散らばっているので歩き難く、両岸は削られており高いので左右の植林帯へ登ることが出来ない。結局、鳥越場への直登は諦めた。
この谷も水害で荒れたのか。本流を奥へ入ると背丈を超す幅1mの溝状になり、これを抜けると高さ4mの滑滝があった。登れそうだが濡れた斜面が嫌だし、ケガをしたくもないので引き返して植林帯へ登れる場所を探した。結局はさきほどの枝谷との中間尾根を登るが急登のヤブで、最後は四つん這いで東西方向の尾根に登り着いた。もちろん『鈴鹿の山と谷』の「細いが良い道」は見つけられず、道を離れて山林内を徘徊してしまった。
尾根を西へ歩き、岩っぽいピークの北側を巻くと南北方向の尾根に乗った。ここは三ツ頭山(P774)と五葉松(P567)の往来があるようでテープを幾つか見た。鳥越場の鞍部へ下りると東側には明瞭な道は見つからない。下降する西側は踏み跡が見えたが直ぐに見失った。谷の南寄りを下ると土が崩れるので、ずり落ちるように下降する。これを登りに使うと大変だろう。勾配が緩み、倒木が多い谷を歩いて東海自然歩道に出た。
西鳥越
東海自然歩道の西鳥越は良い道で、植林のなかをあっさりと通過する。なお、この峠の東側の地名は字西鳥越、西側は字福釜だ。『鈴鹿の山と谷』には「西島越と聞いた」とあるが、平尾と中尾のような「鳥」と「島」の誤読が絡んでいそうだ。
倒木に悩むことがない良い道で、木原越の入口を通過してしまったので引き返す。
木原越
東海自然歩道の橋から左岸へ入るが、後は歩きやすい場所を探して歩くのみ。石積みが道を保護していたりする。場所によっては倒木が多いが歩きやすい。本流が北へ離れると前方に木原越を見上げる。右の急勾配の尾根を使って峠に達した。『鈴鹿の山と谷』が「木原越(仮)」としているように、「木原」と刻んだコンクリ杭があった。
西への下降は、鳥越場ほど非道くないが土が崩れる。直ぐ平坦な谷へ下りたので、歩ける場所を探して東海自然歩道へ下りた。この谷には倒木と間伐材が散らばっていた。
ゾロゾロ峠
東海自然歩道をゾロゾロ峠へ登る。道は流されたのか、しばらくは不明瞭なので目印に助けられて歩く。階段道が現れるとひたすらに登るが、峠手前で斜面を横断する付近は道幅が狭く、崩れているところがある。峠の標識には「ぞろぞろ峠」とあった。
西への東海自然歩道の下りは各所で補修されており問題なし。奧余野森林公園の車道に出ると、駐車場で今日の唯一出合った登山者を見る。トイレの建物は機能を維持していた。案内板の地図には、ゾロゾロ峠への東海自然歩道に「源義経木曾義仲追討の道」と書き込まれている。
風ノ森社跡
余野公園から倉部集落への道を歩き、風ノ森社跡に立ち寄って柘植駅に到着した。倉部踏切付近からは田園越しに、夕刻の油日岳~旗山が良く見えた。



風ノ森社跡は倉部集落の竹林にある。入口は南側の民家横で「風森神社遺跡」の石碑が残るだけ。明治40年の合祀先は「干天神社」と読むのだろうか。良く分からない。『源平盛衰記』には「植柘里くらぶ山風森をも打過ぎて」とある。
山道を25,000人が一列で歩けば、1m間隔として25kmになる。騎馬なら尚更で、中津川へ引きも切らずに二万五千余騎の武者達が通過する様子は、隠れ見る村人たちには恐怖だっただろう。到着した宇治川では搦手軍が集合できる場所がないので、周辺の民家を焼き払っている。何をされるか分かったものではない。
在来馬の性質を承知していないが、ゾロゾロ峠の東海自然歩道をウマを連れて歩くことは厳しいに違いない。報奨を渇望する源氏の家人達は、この程度の物理的障害はなんなく突破したのだろうか。苦労して歩いた様子が書かれてはいる。
倒木などあって歩き難い場所が多かったが、鳥越場の前後を除けばルートに気を遣う必要はほとんどなかった。現在、鳥越場を通過する良いルートはあるのだろうか。『源平盛衰記』に書かれた進軍経路の真偽は不明だが、これにて宿題の一件が片付いた。暖かい日が続いており、同書にある残雪や氷を見ることはなかった。
行程表
| 7:21 | 西の追分駐車場、出発 |
| 8:24 | バンドウ(諸戸林業山林事務所) |
| 9:36 | 中津川の林道終点 |
| 11:50 | 鳥越場 |
| 13:04 | 西鳥越 |
| 14:21 | 木原越 |
| 15:32 | ゾロゾロ峠 |
| 16:06 | 奧余野森林公園の車道に出る |
| 17:08 | 風ノ森社跡 |
| 17:40 | 柘植駅 |
備考1:義経の加太越
三重県教育委員会による『大和街道・伊勢別街道・伊賀街道 : 歴史の道調査報告書』(国立国会図書館)に「義経の加太越」があり、『源平盛衰記』の記載からゾロゾロ峠を越えたことは間違いないと書いている。
また、ゾロゾロ峠までは沓掛の字弁天よりのバンドウ越え。「西鳥越、字福釜、字大崩を通り」としている。なお、『平家物語』は大手・搦手の総勢が六万余騎とあるだけだ。
備考2:大海人皇子の大山越
壬申の乱にて吉野を脱出した大海人皇子は加太を越えており、柘植から「大山を越えて伊勢の鈴鹿」に至っている。
この大山越のルートが『探訪古代の道第2巻』(国立国会図書館)の地形図に中途半端に書き込まれているが、本文によると「可能性のある道筋を空中写真から拾い出し」たとのこと。何ソレと思ってしまった。
地形図では加太向井から山を登り、東の越川集落へ下りている。加太向井から東の加太川は切り立った渓谷で通過不適当とあるが、川沿いの高い位置に道はなかったのか。このルートは名阪国道があるので、現在はまともに歩けそうにないのだけれど。