1. 鈴鹿山脈/登山日記
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1976年(昭和51)に近江史料シリーズ2として滋賀県地方志研究家連絡会により復刻された活字本。成立年代、著者不明。巻末解説に成立年代の推定がある。『淡海秘録』などの異本ありとのこと。

鈴鹿山脈に係わる記述を拾えば、甲賀郡に村落が幾つか。蒲生郡に綿向嶺(熊野権現、那智、吉野の蔵王権現を勧請して三所を並べ…)。神崎郡香津畑(香津畑越ト云ハ伊勢ヘ通ル海道筋也弟越トモ云往還ノ大道跡アリ)、左目(此村ノ奥山ニ阿育大王ノ塔アリ九重ノ塔…扣鐘アリ…東風吹雨降河水出ル也)など。愛智郡に君ヶ畑(奧ニ八風峠ト云アリ北伊勢八田越ノ道筋也近江テハ八風越ノ路ト云…銀山…惟喬尊)、高野(永源寺…瑞石…飯高山)、白鹿瀬(東光寺)、百済寺、花沢(花ノ木)、変わったところで平流山(平将門の首塚、彦根・荒神山)。

犬上郡王子ヶ畑、床之山(鳥篭山)、床ノ浦、河内畑(河内風穴)、中村(天狗谷)。坂田郡に伊布貴(伊吹山、嶺に池水アリ、伊吹弥三郎)、霊山(嶺ニ大池アリ)、鎌ヶ刃

なお、附卷に古城の絵図がある。内容は観音寺城(蒲生郡佐々木山古城)安土城(蒲生郡安土山古城)小谷城(淺井郡小谷山古城)四ツ谷城(蒲生郡奥津保中ノ四ツ谷古城):石子山西端にあった、人魚塚、人魚の淵とか記載あり、鎌掛城(蒲生郡鎌懸山古城):正法寺の東に醫王山、藤兵エ殿ヶ池、ハイ坂山とある、長寸城・佐久良城佐和山城

本書では千種街道は既に「大道跡」の扱い。八風峠、八田越、八風越は同一か。何故にアショーカ王の塔か。何かと興味深い。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2019-08-17)

伊賀国の地誌。阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の神社仏閣・史跡などが記載されている。

鈴鹿山脈は阿拝郡の東端なので、上柘植村に記述がありそうだが見当たらない。その上柘植村の「風ノ森」に「風ノ宮ヲ建…倉部山風ノ森」とあり、風神として志那都比古ノ神、伊勢津彦をあげている。「倉歴山(暗部山)」は「近江ノ堺也暗部野広漠なる野なり」としている。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

1980年(昭和55)に近江史料シリーズ4として復刻された活字本。復刻の前書によれば、全十二巻のうち四巻(五、八、九、十)を割愛。巻末に成立年の推定がある。『淡海地志』として編纂され、『淡海志』『淡海府志』などの名の写本があるとのこと。

第二巻「山川水石記」から鈴鹿山脈周辺と思われる山名を拾えば、伊吹山本霊山、仏返峯、あさみか岳、さゝほ山、ひつくい山、勝山、八尾山、三国嶽、保月山なべじり山、鈴か嶽、飯高山、釈迦岳、水晶嶽、綿向山、銀山、鈴鹿山、布引山、蔵王山。他に滝、石、塚、穴など。

第七巻「海陸行程記 土産記」に山越えの道。鈴鹿関係は油日越(→つげ)、本道安楽越(土山→坂下)、おきす越(鮎川→おきす)、大川原越(大河原→こもの)、仁正寺越、千種越(かうつ畑→千種)、八風越(ゆずりほ→桐畑、信長云々)、君畑越(君畑→初田新町)、無名(おちの畑→山口)、五そう越(五そう→土岐)。鈴鹿峠が見当たらないような。仁正寺越には説明なし。土産の犬上郡に「さゝの尾山(天狗石せんにんがたけ)」、尾河原(すヾ虫)?

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2019-08-20)

随筆集。著者は尾張藩士・天野信景(1663~1733)

湯の山温泉の風景画七枚を入れた記事が下巻にある。前の記事に享保6年の伝教大師九百回忌があるので、湯の山温泉へ入ったのは享保6年7月7日(1721)、著者58才のときか。湯の山温泉は貞享4年(1687)に廃泉から復興されて賑わっていた時期だ。

P381「湯本の図」の薬師堂は冠峰山三岳寺の名称を前年に許されている。(『菰野町史』P457)また、温泉を発見した浄薫が「羅漢山、焼筈山、湯女守山」と名付けた(同 P450)とあるが、南とされた方向に焼筈山が見える。

P382-383 の図には冠嶽(カマガダケ)、産所岳、菩薩岩がある。地獄谷は何処のことか。温泉の縁起(同)に金谷地獄谷とはあるが。あるいは古い絵葉書に「鎌ケ嶽頂上より地獄谷眺望」とあるが三ツ口谷上部のことか。冠嶽には「湯本より一里山を分て麓に至り登る事数十町」とあるのは武平峠からの登山路か。産所岳側には一ノ谷、池アリ、白滝とある。

P384-385 には、薬師堂背後の湯守山に観州嶺(クニミタケ)とあり「此所にて冨士見ゆる」とある。現在の西国三十三ヵ所の最上部辺りか。カシミール3Dで確認すると温泉近辺の山に邪魔されることなく富士山を見られるが、図の端正な冨士は嘘っぽい。尾城、桑名城、そして燐火(ヲニビ)まで書き込まれている。

P386-387 は元湯と薬師堂。元湯の三本杉は見晴らしの良い所だったらしい。

P388-389 は青滝(蒼滝)を見に出かけたとのこと。左に大きく青滝が描かれている。左端の不動堂から右へ歩くと、小さく「此所より滝見ゆる」とある。現在、蒼滝不動から尾根を東に歩くと小祠があり滝が見えるので、それを表現しているのか。青滝上流の「御滝」は岳不動の一ノ滝のことか。菩提山、右側の屏風岩、右端の古塚はさて。

P390-391 は左下に「大石」がある。現在の大石橋の北側から南の馬ノ背尾根の端部を見たものか。伊勢湾には帆掛け船が見える。山頂の「獅岩」は見当が付かない。当時はハゲ山で何かと見えたのか。

P392-393 は「湯山入口ノ図」だが、何処から見ているのか解らない。左端が温泉か。

記事の文末に「産所か岳のうえに湖水あり」とある。観光施設により山頂が荒らされる前の御在所岳に登りたかったものだ。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01、更新 2022-07-31)

近江国の地誌。著者は膳所藩士・寒川辰清。近江国の総論の後に、郡毎に村の記載(総目録)が並ぶ。下巻に鈴鹿山脈に関わる甲賀郡、蒲生郡、野洲郡、神埼郡、愛知郡、犬上郡、坂田郡がある。

道路(卷之四)に鈴鹿山脈に関わる峠越えの道がある。伊勢路九道(鈴鹿越、安楽越、小岐須越、大河原越、仁正寺越、千種越、八風越、君畑越、大君畑越)、美濃路七道のうちの二(長競越、島津越)。仁正寺越は日野町西大路から千種に越えるものらしいが詳細の記載がない。西尾市岩瀬文庫の『近江地図』では千種越と大川原越(菰野へ越える)の間に「千種江越」として山越え道が書き込まれているが見当が付かない。千種越は根平越、長競越は中仙道、島津越は五僧越とある。元禄国絵図などと要照合。

鈴鹿山脈の村は卷五十二甲賀郡の大原荘あたりから。記事を追うと、大河原村に「大河原山 高山なり」、「鎌田舊跡 大河原山の中、鎌が岳にあり」。また、大河原越は総論では大久保村へ出る路だが、ここでは菰野へ出る道。

蒲生郡甲津畑村に、水晶岳は伊勢国界、水晶が出る、玉の緒山とある。北畑村に綿向山があり、笠掛馬場、山伏居場などとある。

神埼郡の冒頭や和南川、杠葉尾川に水晶嶽、釈迦岳、御池嶽が見える。同郡の最後あたり、左目村に「姫ヶ瀧:左目村より三里奥塔の尾にあり」。「釈迦岳:神埼郡の東極にあり」。山上村に「これより東を畑の内と云」。

愛智郡の冒頭に「東は伊勢の国界初田山」、北菩提寺村に「押達明神社」、南花澤村の花の樹「春秋の彼岸に花咲…実生にも生ぜず。継木にも生ぜず。奇木なり」、百済寺村に大萩が見えない、藤川村に藤川山の西に高懸山窟あり。君ヶ畑に「当国にては八風越の路と云」とは何か。

犬上郡の冒頭に中霊山篠尾山、三國嶽鈴ヶ嶽御池嶽、桃原村等に「畑也」、五僧村に三國嶽、鈴ヶ嶽、御池ヶ嶽、中霊山。

坂田郡の冒頭に梓河内山、浅見が嶽中霊山が界とある。続いて中仙道の磨鍼巓伊吹山梓河内村に風穴、山麓にあるとのこと。

土産に甲賀郡の忍者地黄煎は蟹ヶ坂飴か。神埼郡には水晶が岳などから水晶を産するとある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

伊勢・志摩・伊賀の地誌。国の総説の後、郡毎に城邑、郷名、村里、神祠、山川、陵墓、梵刹、古蹟などが整然と並ぶ。漢文の引用が多く、歯が立たない。三重県県史編さん班の解説が「『三国地誌』と川口維言」にある。

伊勢国:官道、間道に鈴鹿山脈の峠道の記載あり。祥異には人魚とか。何かとありそう。

桑名郡(卷之九)神祠の多度神社には引用多数。山川に多度山の他、風土記からの山名もあるが詳細不明とある。

員辨郡(卷之十三)山川に龍箇嶽(宇賀村の上方)、丹生川山(丹生川村の上方)、銀山、治田山、藤原嶽、三國岳、和田嶽など。三國岳に「一名熊坂嶽」とあるが著者側の錯誤か。和田嶽には「伊勢国風土記」にない「石川村にあり」との記載がある。藤原岳の一部か。

朝明郡(卷之十五)山川の鈴鹿山脈関係は福之山(田光田口村)しかない。朝明山は處所詳ならずとある。なお、米洗川を迹太川とし、糠塚山や斎宮に小祠、「御松さま」があり、天武天皇の神宮遙拝の地としている。

三重郡(卷之十七)山川には多数の山岳が記載されている。鎌嶽(水澤・薦野の上方)、御在所嶽、國見山、曾宇利山(この三山は薦野の上方、北勢の大山)、湯山、羅漢山、由那毛理山、三瀧山、雲母峯、止知谷峯(この六山は湯山にあり)。大山とされた曾宇利山は宗利谷の存在を考えると雲母峰の北側一帯か。羅漢山は羅漢石がある潜門滝の東側付近か。由那毛理山は湯女守谷(稲森谷)左岸の湯の山温泉の湯元がある山か。止知谷峯は栃谷北側の菰野富士か。三瀧山は現在の地名からは見当が付かないが、三岳寺跡奧の岳不動にある「御滝」付近を指しているのかも知れない。

さらに多都久多山(役小角護摩を修法せし處)、鉛山(千種の上方)、水無峯、切畑山(八風山、北勢一の大山)、薦野温泉(僧浄訓夢の告…慶長年中より今の如し)など。

鈴鹿の山と谷』では『三国地誌』からの引用として「宇曾利山」の名称を出しているが、活字本の『大日本地誌大系』(1917,大日本地誌大系刊行会)、『定本三国地志』(1987,上野市古文献刊行会)には上記のとおり「曾宇利山」とある。錯誤か。

鈴鹿郡(卷之二十二)神祠に椿太神社(御船の石坐、椿か嶽、鞠倉の大山)、石大神、鈴鹿神祠(三子とは鈴鹿嶽・武名嶽・高幡嶽)など。山川には鈴鹿山、三子山、中津子山、筆捨山、羽黒山、明星嶽、雞足山(鳩胸丘)、仙家嶽(仙朝入定の処)、石大神、屏風巌、御贄山、入道嶽(大峯本山方の入峯中絶し…)、鞠倉(椿嶽の頂)など。梵刹に野登寺。古蹟に鈴鹿頓宮、御所谷。

伊賀国阿拝郡(卷之五十九)山川に多数の記載あり。北打山(北は江州油日櫟野に界う、東は勢州加太に界う、山頂に円丘あり是三國の界)、曾呂山(北端山、南端山、烏山、尉峯、東は加太山に界う)、徳輪洞(小邊羅山、加太山に界う)、柘植山、倉歴山、菲澤山、清水山、大杣山(北打山以下並上柘植村)、鈴鹿を離れるが霊山寺山。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

伊勢国の地誌。一部が『伊勢国風土記(群書類従)』に似ている。なんだろう、これ。桑名郡から始まる。

鈴鹿山脈に係わるものを拾えば、員弁郡に篠立山観音寺「倶盧尊仏伝教大師麓ニ風穴有」、熊坂嶽「長範砦城跡ナリ」、藤原嶽「惟高親王隠遁…」。朝明郡に福山「西行法師庵跡」。三重郡に三箇山「國見嶽 御在所嶽 冠嶽 神鳳抄曰三ヶ山御厨是ナリ」。鈴鹿郡に鈴鹿山、鶏足山野登寺、関雄山。

篠立山観音寺は明治末期に山中から移された観音堂(いなべ誌広報誌)のことか。なお『神鳳抄(群書類従)』には鈴鹿郡、三重郡に三ヶ山御厨を見つけられなかった。

東京国立博物館デジタルライブラリーにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

『淡海国木間攫(こまさらえ)』の一部が『彦根旧記集成 第4号』に収録されており、犬上郡に鈴ヶ嶽、御池ヶ嶽、三国嶽、鍋尻山、阿弥陀峯、霊山、床の山(大堀川の北)、古佐和山(彦根城の北東)、荒神山、磯山が列挙されている。

本書は湖東及び湖北の地誌。膳所藩の『近江輿地志略』の不足を補うために彦根藩により編集されたもの。増田忠雄の『近江古地誌解題』とともに、犬上郡の一部のみが『彦根旧記集成 第4号』に収録されている。成立時期は増田忠雄の解説に「天明頃の編ならん」との引用がある。

滋賀県立図書館で『淡海国木間攫』を検索すると収蔵されているが、国立国会図書館には収蔵がない。『彦根旧記集成 第4号』が国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。

伊勢国の地誌。鈴鹿山脈に関する記述は峠道程度。山岳名など記載された記事はあるが位置は曖昧で、地理的に比定することは難しい。

員弁郡総論に龍華越、治田越、ホウツキ越(保月村、多賀神社詣路)、「篠立」に篠立風穴は佐目村の風穴と「相通ス」、「西野尻」に野尻越、藤原岳、熊坂岳、熊坂長範とある。野尻越は龍華越(すなわち鞍掛峠)か。また、「員弁川」の水源は鈴ヶ岳、藤原岳、治田銀山、宇賀山中などとある。鉱山は「東禅寺」に「当山銀及銅を産ス野尻及近江多志田君ヶ畑等近山皆銀山アリ」とある。

朝明郡には福王山根平越(善住坊)の項あり。朝明郡総論に田光山、國見嶽、水無瀬山、杉谷に八峯岳、八風峠、朝明川に八峯嶽、國見嶽の名称がある。朝明川は近江境界の八峯嶽から千種村の北>竹成村>永井村、支流が國見嶽>切畠田光村>小島とあるので、八峯嶽は朝明渓谷周辺、國見嶽は八風峠周辺となるが、さて。杉谷の項には、本邑の上に八峯嶽あり。本書より後の『伊勢国細見図』では釈迦ヶ岳の位置に「国見岳」とある。影響を受けたのか。いずれにせよ具体的位置は読み取れない。(元禄国絵図近江国、天保国絵図伊勢国、同近江国は現在位置付近に釈迦嶽を書いている。)

三重郡総論に千種越、甲津畑越、根平越、鳥居戸山、鳥居戸越(菰野>大河原)、水澤越、鎌ヶ岳、千種に朝明川ノ水源片倉山、ユルキ石ト云巨嵓、釈迦ヶ岳、冠峯山三岳寺(鳥居土山、御在所ヶ嶽、鎌ヶ岳)、西菰野に湯ノ山、青瀧、カサネ石の名称がある。湯ノ山は「悉く阪路ニ屋宇十戸計其半ニ浴室アリ」、カサネ石は蒼瀧の後に「東南にカサネ石ト云巨石アリ二箇上下ニ重ナリ」とのこと。

鈴鹿郡総論に大河原越、鮎河越、安楽越、東街道、名称はないが加太>柘植の山道を掲げ、さらに長峯越、アケビ越を書いている。鈴鹿山(三箇山)では臼杵ヶ岳・雨乞い、立烏帽子長峰越(古ノ中道)も出てくる。坂本の項に野登寺があり、「野ノオリ山」の登山口(坂本、上野、小岐須)や地名など記載あり。なお、鈴鹿峠の記述は坂上田村麻呂・鈴鹿御前など大量にあるが、荒れた画像なので古文を読む気力が出ない。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

陸軍の地理書。全三巻。総論の後、国毎の各論では地理と過去の戦の概要が述べられる。想定外の教科書としても使用されたが、軍用地理書としては貧弱な印象。

鈴鹿山脈の記載は僅か。伊勢誌には「美濃ノ境ニ熊坂峠アリ近江ノ境ニ藤原嶽・釈迦嶽・冠嶽・鈴鹿山アリ…」。伊賀誌は記載なし。近江誌には「南ニ甲賀山アリ…伊吹山アリ…伊吹彦根ノ間ニ磨針峠アリ」。美濃誌にも記載なし。

国立国会図書館で兵要日本地理小誌を検索すると多数ヒットする。最新版は1879年(M20)の活字本『兵要日本地理小誌』だが地図の収録が増えた程度。『大日本国全図兵要日本地理小誌全図』は大雑把な内容の地図だが伊能図がベースか。また、字引、摘解などの解説書が多い。字句の訓や説明があり、例えば「冠岳」には「カムリガダケ三重郡」「カンムリガダケ山名三重郡ニアリ」とはある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

教科書。目次なし。頭記に地誌らしく神社寺院諸山高低瀑布、諸川支流原野廣狭諸邑戸口学區區画驛路里程郵便役所函場、渡船場所港湾岬角、存城廃城、陣屋址古城址土産近江八景が並ぶ。本文に何か書いてあるが、これで教科書になるのだろうか。

諸山高低に伊吹山がない。鈴鹿山脈は、中霊山(本霊、北霊、三國岳ノ東北にアリ)、油日山、綿向山(伊吹山に亜ク)、水晶嶽(千種越道ヨリ廿一町)、布引山(佐久良川北、土山・水口間の二ヶ所)、三國嶽、御池岳(山上平地にて池三十餘)、釈迦ガ岳。

明治期の教科書のうち、画像を閲覧できるものが幾つかあった。

なお、霊仙山については、河村祐吉、北川舜治、谷村晴光は「北霊山、本霊山、中霊山」派、奥田栄世、川添清知は「北霊山、本霊山、南霊山」派。

滋賀大学学術情報リポジトに「近江の郷土教科書 : 明治前期の地域版教科書を中心に」がある。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01、更新 2025-02-23)

明治初期の官撰地誌。全国誌。全七十七巻。『明治政府の地誌編纂事業と国民国家形成』(2002,島津俊之)によれば成稿は1874年(M07)とのこと。

卷之八:伊賀には鈴鹿山脈関係の記載なし。卷之九:伊勢山嶽に藤原嶽、三國嶽、鎌嶽、御在所嶽、鈴鹿山、雞足山。下記のとおりだが、鈴鹿山の記載「近江伊賀界ニアリ」は誤りだろう。

  • 藤原嶽:員辨郡坂本村ヨリ壹里。近江界ニアリ。
  • 三國嶽:同郡篠立村ヨリ壹里貮拾町。近江美濃ニ跨ル。
  • 鎌嶽:三重郡西菰野村ヨリ貮里拾八町。近江界ニアリ。
  • 御在所嶽:同村ヨリ貮里拾八町餘。近江界ニアリ。
  • 鈴鹿山:鈴鹿郡坂下驛ヨリ拾九町。近江伊賀界ニアリ。
  • 雞足山:同郡坂本村ヨリ貮拾五町。西ニ連ナル山ヲ仙嶽ト云フ。

卷之二十三:近江山嶽に綿向山、水晶嶽、釈迦嶽、御池嶽、三國嶽、中霊山、磨鍼嶺。中霊山の位置「三國岳ノ北東」は『近江輿地志略』を引用したのか間違っている。或いは、三国境の三國嶽と同名の山が別に存在するのか。

  • 綿向山:甲賀蒲生郡界ニアリ。高膽吹山ニ亜ク。山麓北畑村ヨリ三拾五町許。日野ヨリ麓マデ貳里。
  • 水晶嶽:蒲生郡東界ニアリ。伊勢ニ接ス。山麓千種越路ヨリ貮拾壹町。
  • 釋迦嶽:神埼郡杠葉尾村ヨリ壹里貮拾貳町餘。
  • 御池嶽:愛知郡に属シ。伊勢ニ跨リル。山上平坦ニシテ三十餘池アリ。山麓茨川村ヨリ壹里貮拾四町。
  • 三國嶽:犬上郡ニ属シ。伊勢美濃ニ跨ル。山麓大君畑村ヨリ壹里拾八町。愛知郡御池嶽。鈴嶽。其南ニ聳ユ。
  • 中霊山:同郡落合村ヨリ壹里四町。本霊山。北霊山ト共ニ三國岳ノ北東ニアリ。
  • 磨鍼嶺(スリハリタウゲ):坂田郡下矢倉村ト番場驛ノ間ニアリ。下矢倉村東界ヨリ六町餘。望湖ノ勝地ナリ。

美濃国山嶽に烏帽子嶽、三國嶺。

  • 烏帽子嶽:石津郡細野村ヨリ貳里。伊勢ニ界ス。伊勢ニテハ熊坂嶺ト稱ス。
  • 三國嶺:同郡上村ニ属ス。山下時山村ヨリ壹里。烏帽子嶽ノ西ニ並ヒ。美濃伊勢近江ニ跨ル。

磨鍼嶺を除く12山が『日本山岳志』の本編に収録され、その登路として引用されている。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。なお、広島大学図書館教科書コレクション画像データベースには、1875年(M08)とされる「日本地誌提要」の洋装本第1冊~第8冊が収録されている。(作成 2019-07-01、更新 2025-02-23)

教科書。上下巻。目次あり。郡毎に山川、神社、寺院、村落、古蹟などが記載されている。教科書としては詳細な部類。

鈴鹿山脈周辺の山岳は、上巻甲賀郡に、大河原村の東、伊勢国界・蒲生郡界に白倉峯、御山所、金岩山。御山所の南に鎌ヶ嶽。黒村の東に伊勢と接する方丈嶽。鮎川村の南東に三瀧嶽,日雲山。笹路村の東に三子山。土山村の東に大岩山。山中村の南に高畑山。油日村の南に油日山。

蒲生郡には伊勢国界に水晶嶽。西大路の東に綿向嶽、龍王嶽。日野の東に音羽山。左久良川の北に布引山。

神崎郡には伊勢国界に釈迦ヶ嶽。

下巻愛知郡には君ヶ畑村の東に御池嶽、絶頂に三十餘の池あり。銀、政所村の鑛山より出。

犬上郡には大君ヶ畑村の東、三国界に三國嶽。五曾村の北に中河内山。大君ヶ畑村の東に焼尾嶺。大君ヶ畑村の南に鈴ヶ嶽。一ノ瀬村の南に八尾山。保月村に鍋尻山。

坂田郡では醒ヶ井の南に北霊山。犬上郡の界、美濃国界に本霊山、その西に中霊山。三霊山絶頂に池。上丹生村の東に仏返山。梓河内村の南に梓山。

明治初期の鈴鹿南端(甲賀郡)の山々は、大方の教科書の記載では現在の山岳との比定が困難で奇々怪々。

滋賀県立図書館近江デジタル歴史街道にて閲覧した。国立教育政策研究所の明治期教科書デジタルアーカイブにはPDFがある。(作成 2019-07-01、更新 2025-02-23)

教科書。目次なし。鈴鹿山脈の山名は同著者の上記『近江地誌略』と同様。巻末に地名の呼称訓一覧表がある。山岳が含まれているので手っ取り早い。なお、当時の「滋賀県」なので若狭国の記載もある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01、更新 2025-02-23)

教科書。目次なし。郡毎に山川や村落の名称、特産物などが並ぶ。

鈴鹿山脈周辺の地名を拾えば、阿拝郡の境界に加太山、三國ヶ岳。桑名郡に多度山。員弁郡に龍ヶ岳、藤原ヶ岳、治田山、三國ヶ岳。朝明郡に國見山、編笠山、八風峠、福尾山。三重郡に鎌ヶ岳(冠ガ岳)、御在所岳、鳥井所山、水澤山、菰野山、温泉。鈴鹿郡に鈴鹿山、三箇山、明星山、仙ヶ岳、鶏足山(野登山)、入道ヶ岳、羽黒山、筆捨山、加太山、狼谷山、錫杖ヶ岳、石大神山。現状とは異なる朝明郡の國見山は勢陽五鈴遺響からの引用か。

国立国会図書館デジタルコレクションにて。なお、教科書コレクション画像データベースは広島大学図書館デジタルアーカイブへ2024年に移行した。(作成 2019-07-01、更新 2025.03.04)

教科書。目次なし。荘毎の記述が続き、最後に甲賀郡内の高山、大川、道路が記載されている。

鈴鹿山脈の山名は青土荘(八畳岩、於岐須越、「春夜枯草ニ火ヲ放チ風ニ随テ蔓延シ焔光数里ニ達ス」)と油日荘にあるが詳細は最後の高山にて。記されているのは、

  • 冠ヶ嶽(鎌ヶ嶽)1100尺(大河原)
  • 四十九嶽 900尺(鮎河)、日雲嶽 850尺、西ヶ嶽 850尺
  • 合螺嶽 1200尺(黒瀧)
  • 冷水ヶ嶽 750尺(山女原)
  • 野戸峯 750尺(山女原)
  • 三つ子山 700尺餘(山中)
  • 橒尾山 950尺(山中、東海道傍ニ聳ユ山)
  • 鈴鹿山(総称)
  • 高畑山 1300尺(神)
  • 油日嶽 950尺(油日、伊賀国柘植山ニ接シ)

高畑山と油日嶽の標高差は不適当と思うが、実見していないのか。また、この時期の書籍に那須ヶ原が出て来ないことは不思議。既に『伊能大図』には茄子嶽とある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

教科書。若狭国を含む。明治10年に発行された『滋賀県管内地理書』に対して『改正滋賀県管内地理書』。目次がないので構成が分かり難い。学習用教材として『滋賀県管内地理書訳図』がある。

鈴鹿山脈の山名を拾うと、南北及び本霊山、仏返山、梓山、磨針峠大物山、八尾山、中河内山、三國嶽、焼尾嶺、鈴ヶ嶽八風嶽、釈迦岳、御池岳(記載された位置関係はオカシイ)、白鹿背山、斧磨山、押立山水晶嶽、綿向、龍王嶽、音羽山、布引山白倉峯、御山所、鎌ヶ嶽,方丈嶽、三子、高畑、油日山、大岩山、三瀧岳、日雲山。位置関係は同時期の教科書とほぼ同じ。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

教科書。目次なし。冒頭の犬上郡全図に中㚑山、五僧越、三国山、焼尾峠・焼尾越、鈴ヶ嶽、八尾山の地名がある。

山名は山野の項に彦根山(金亀山)、佐和山、大洞山、里根山、千鳥ヶ岡(長久寺山)、荒神山、鞍掛山、勝山、鳥籠山(床山、飯盛山)。彦根周辺の幾つかの山は開削されているようだ。鈴鹿山脈は三國嶽、五僧越、中霊山、御池ヶ嶽(三十餘池あり)、鈴ヶ嶽、焼尾峠(焼尾越、大君ヶ畑越)、鍋尻山、阿弥陀ヶ峰(杉坂の北)、八尾山、敏万寺山(敏万寺村の東)、多賀山(その北)。大堀川の水源として坂田郡の本霊山。なお、佐目村と河内村の洞窟の説明あり。また、物産の項に桃原の淡柹(淡し柿)は食物中の佳品とある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。なお『犬上郡誌 高宮町史』(1986,昭和61)にも『犬上郡誌』として読みやすい状態で収録されている。(作成 2021-09-10、更新 2022-07-26)

教科書。目次なし。若狭国を含まなくなった。

鈴鹿山脈は甲賀郡に高畑山(全郡第一ノ高山ナリ)、白倉峰、三雲山、麓二野アリ竜王平。御山所、鎌岳、方丈嶽、三子山、此一帯ヲ総称シテ鈴鹿山、油日山。蒲生郡に水晶嶽、綿向岳、龍王岳、音羽山。神崎郡に釈迦嶽。愛知郡に御池嶽,八風岳、白鹿脊山、百済寺山、押立山、泰川山、鷹取山、岩倉山。犬上郡に三國岳,焼尾峠、鈴ヶ嶽、御池岳、八尾山。坂田郡に伊吹山、本霊山、北霊山、南霊山、梓山、仏返山、磨針嶺。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

教科書。目次なし。鼇頭(頭注)に質問が書かれている。

山野の項に四大山として白倉・御山所・冠ヶ嶽・釋迦ヶ嶽(大河原村)、四十九嶽・日雲ヶ嶽・西ヶ嶽(鮎川村)、合螺ヶ嶽(黒滝村)、三ツ子山(笹路村)、杓尾山(山中村)、油日嶽(伊賀伊勢国境)、那須原峯(櫟野村)。道路の項に杣街道、菰野越・大久保越(大河原)、小岐須越(黒滝村)、安楽越(山女原村)など。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2020-01-02)

統計書。国立国会図書館デジタルコレクションを検索すると、明治~大正の滋賀県統計全書を閲覧できる。最も古いものが、この明治16年度版だ。

第五:山嶽の景状に山名、所在地、登山口と距離の一覧表がある。ただ、整理不充分なので、標高欄が削除された明治17年度版によれば、鈴鹿山脈関係の山岳名は狗尾ヶ嶽、小狗尾、高畑山、大ヶ谷、白倉峰、御山所嶽、鎌ヶ嶽(或ハ冠ヶ岳ト云)、釋迦ヶ嶽(大河原村)、龍王ヶ平、合螺ヶ嶽(巨巌重疂頗ル峻険満山雑樹鬱茂シ登路ナシ)、那須ヶ原山、龍王山(神村)、油日山、河内山、中津古山、高間山、三子山、綿向山、金岩山、龍王山、水晶嶽、釋迦ヶ嶽、御池山、三國嶽、鈴ヶ嶽、八尾山、霊仙山、奧ヶ原峯(榑ヶ畑村)、横距離(榑ヶ畑村)、アサミヶ嶽(上丹生村)、三國ヶ嶽(榑ヶ畑村)、阿弥陀ヶ嶽(一名仏返トモ云ウ、梓河内村、上丹生村)。

この表は明治33年版で整理され、狗尾ヶ嶽、高畑山、白倉峰、御山所嶽、鎌ヶ嶽、釋迦ヶ嶽、龍王ヶ平、那須ヶ原山、油日山、三子山、綿向山、金岩山、龍王山、水晶嶽、釋迦ヶ嶽、御池山、三國嶽、鈴ヶ嶽、八尾山、霊仙山、アサミヶ嶽、三國ヶ嶽、阿弥陀ヶ嶽となった。

明治39年版では大幅に縮小され、標高(尺)とともに御池山、綿向山、鈴ヶ嶽、釋迦ヶ岳、霊仙山、油日山となった。選定基準は不明。

大正04年版では収録数が増え、御池山、雨乞嶽、御在所山、天狗岩、鎌ヶ嶽、藤原嶽、綿向山、鈴ヶ嶽、龍ヶ嶽、釋迦ヶ岳、霊仙山、杉峠、八風峠、日本コバ、鍋尻山、龍王山(西大路村)、高室山、三國嶽、那須ヶ原、高畑山、油日山、観音寺山(蒲生郡老蘇村)。大正05年版で巻末の附録へ移動した。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2020-08-15)

官撰の全国地誌。『皇国地誌』の編集方針が変更され、内務省地理局から各地へ職員を派遣して編集された地誌。1886年(M19)に『大日本国誌 第3巻 (安房)』のみ出版されて未完となっているが、伊勢国などの原稿が東京大学史料編纂所に残されている。これを、ゆまに書房が原稿用紙に書かれたままの画像で出版している。画質が荒くて少々読みにくい。

鈴鹿山脈については奇異なものはない。収録された山は、藤原岳、三国岳、龍ヶ岳、鈴ヶ岳、八風山、福王山(福山)、釈迦ヶ岳、鎌ヶ岳、国見岳、鳥井戸山、猫正岳、御在所岳、雲母ヶ峰、入道ヶ岳、椿ヶ岳、三箇山、鈴鹿山、富士山、羽黒山、明星ヶ岳、仙ヶ岳、鶏足山。富士山は関富士のことだ。

説明文中に次のような文言がある。八風山「北に峙つものを編笠山…田光越と称す」、釈迦ヶ岳「釈迦像を山中に蔵し故にこの名あり」、鎌ヶ岳「東辺別に一峯をなすものを鎌ヶ谷山と称す…漸東し腕延丘陵をなすものを長尾となづく二村の堺とす」、国見岳「菰野村に在り鳥井戸山と相対す…湯山より上る」、鳥井戸山「千種村に在り御在所岳の北少し東に位し近江国蒲生郡界を限る」、猫正岳「山腹鉱泉湧出す」、三箇山「南峰半服今宮址を存す」などとある。

なお、伊賀国の原稿に「那須ヶ岳」があったが鈴鹿の山はないようだ。近江国、美濃国は原稿が存在しない。皇国地誌については「皇国地誌の編纂-その経緯と思想-」(一橋大学機関リポジトリ)を参照。

2025年3月1日、国立国会図書館本館にて国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧した。(作成 2025-03-03)

農商務省地質局は、現在の産業技術総合研究所・地質調査総合センターの前身。三重県を含む標高一覧「各地高低表」、滋賀県を含む標高一覧「各地高低表」を見つけた。

  • 桑名郡:多度山(417.0m)
  • 員弁郡:龍ヶ岳(1182.0m)、藤原ヶ岳(1142.0m)
  • 朝明郡:福王山(564.5m)、編笠山(1016.0m)
  • 三重郡:釋迦ヶ岳(1089.9m)、御在所山(1153.8m)、冠ヶ岳(1151.7m)、鎌ヶ岳(1254.0m)
  • 鈴鹿郡:小岐須山(981.5m)、鶏足山(941.3m)、仙ヶ岳(1093.2m)、安楽越(483.1m)、雨引山(462.9m)、屏風岩(471.1m)、前山(892.6m)、舟石山(767.5m)、鉢ヶ窪(828.0m)、霧ヶ岳(675.5m)、白木山(614.2m)、参考に錫杖ヶ岳(678.4m)

冠ヶ岳は何処なのか。鈴鹿郡には正体不明の山名があるし、何故か入道ヶ岳が見あたらない。滋賀県には適当な山がない。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2020-08-16、更新 2025-03-04)

名所案内。度会郡から桑名郡へ群毎に山川、神祠、梵刹、原野、池泉、樹石、城砦、古墳などを列挙。項目多数なれど鈴鹿関係は興味を惹くもの少なし。

鈴鹿郡の山川に鈴鹿山、筆捨山、羽黒山、観音山、関山、石大神山、水晶山、雨引山。野登寺に野登山の名称あり。他に頂礼井屏風岩、鬼ヶ牙、鏡岩

三重郡の三重川(三瀧川)、三乃瀬に御在所ヶ嶽、鎌ヶ岳、冠ヶ岳の名称のみ。三岳寺址に「千種村字鐘突堂ニ在り」。谿淵に楓渓、壹乃谷。池泉に薦野温泉。

朝明郡に朝明山(所在詳ナカラズ)、尾高山(釈迦ヶ嶽ノ東麓)、根平越。員辨郡冒頭に藤原ヶ嶽、龍ヶ嶽の名称。洞窟に篠立風穴。なお、桑名郡に多度山。

『三国地誌』『勢陽五鈴遺響』など各所に引用文献名が見える。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2020-07-01)

未完の全国地誌。国立国会図書館に原稿らしいものがあるので閲覧したが、鈴鹿山脈については成果なし。

『大日本府県志』は巻之1-4巻之10-14(国立国会図書館、送信資料)が出版されたのみで未完となった。『河井庫太郎と未完の『大日本府県志』-吉田東伍になり損ねた男-』(大阪公立大学)の文末にある全巻構成によると「75. 山嶽」が予定されていた。

国立国会図書館デジタルコレクションを検索すると古典籍資料(貴重書等)として『大日本府懸志』が出てくる。原稿かと思われるが、国立国会図書館内限定なので現地で閲覧したところ、資料の[83]が「山岳編(東海道)三」、[85]が「山岳編(東山道)五」となっており、伊賀、伊勢、近江、美濃などの山岳が収録されている。

しかし、内容は原稿以前のものだった。編者・河井庫太郎による『日本地學辭書』から山名・解説を切り抜いた短冊が1ページに1枚貼られているだけの状態だった。したがって、この資料は『日本地學辭書』と同じ内容に留まっている。

2025年3月1日、国立国会図書館本館にて国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧した。(作成 2025-03-02)

名所案内。近江国の総論の後に、神社仏閣、名所などを東海道、西近江路、中山道、御代参街道、朝鮮人街道、北國街道、北国脇往還に沿って荘毎に記載してある。「荘」は馴染みがないので困る。

甲賀郡の油日谷に油日嶽、那須ヶ原山、その範囲を逸脱すると思われるが、高畑山、龍谷峰、龍王峰。

井原荘は中山、猪鼻、笹路、山女原、黒川、鮎川、大河原を含む地域で、枸(ぶな)尾山、鈴鹿山、三ッ子山、冷水嶽、霧ヶ嶽、日雲ヶ嶽、野戸ヶ峰、四十九嶽、西ノ嶽、鎌ヶ嶽(冠ヶ峰)、釈迦ヶ岳、龍王ヶ峰、御山所嶽、白倉ヶ峰(小池アリ)の山名がある。枸尾山は「山中村の南にある高山にして高九百五十尺其東北に高畑山あり」だが、高畑山は神との境界なので適当な山が見当たらない。なお、『三国地誌』の鈴鹿郡の神祠・鈴鹿神祠に「三子とは鈴鹿嶽・武名嶽・高幡嶽」、伊能大図彩色図に武名尾山とある。日雲ヶ嶽、龍王ヶ峰は明治初期の教材用地図に記載されたものがあるが具体的な位置は不明。釈迦ヶ岳は「鎌ヶ嶽の東にあり」とされたが既に井原荘内ではなく錯誤の気配がある。峠道は大河原越、於岐須越、安楽越。大河原越は『近江国輿地志略』とは内容が異なり菰野へ越える道。

青土荘に黒滝を含めているが、黒滝村の東に合螺ヶ嶽、その北に鎌ヶ岳。黒滝村の東に野戸ヶ峰より来る不動瀑布。

愛知郡の岸本荘に観音山(大覚寺)。小倉荘に白鹿脊山(東光寺)、永源寺、髙掛山窟(藤川村の山中)、政所鑛山、君ヶ畑、八風峠(茨茶屋村)。

犬上郡の甲良荘に八尾山、大君ヶ畑。多賀荘に岩窟(河内村の山中ニアリ)、三国ヶ嶽、冷ヶ嶽、御池ヶ嶽(汚物を投げれば大風を吹起こす)、正法寺山(徳川家康の勝山)、鳥籠山。

坂田郡の箕浦荘に磨鍼嶺、三霊山(本霊山、中霊山、北霊山)、仏返山(三霊山の北に在る高山なり)。天保国絵図には「仏返」が書き込まれている。

蒲生郡に綿向嶽(笠掛馬場、山伏居場)、『近江輿地志略』と同様に仁正寺越佐久良荘に千種越、水晶嶽(玉ノ緒山)。神埼郡の姉御園荘に釈迦ヶ岳。

北国脇往還の坂田郡に膽吹山夜叉池

日本山嶽志の引用書一覧に『近江名跡志』、略号【近名】と記載されたものは本書のようだ。水晶嶽や綿向山の引用が一致する。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01、更新 2022-07-20)

教科書。目次あり。

東山脉に鈴鹿山脈の山や峠越が列挙される。すなわち三國嶽、鈴ヶ嶽、御池ヶ岳、龍ヶ嶽、釈迦ヶ嶽、御山所、鎌ヶ嶽,合螺ヶ嶽、三ッ子山。霊仙山(本中北ノ三山)、鍋尾山(誤字か)、高室山、雨乞嶽、綿向山、龍王山。峠越は寝物語、五僧越、焼尾越、沼田越(誤字だろう)、八風越、千種越、菰野越、大久保越、安楽越、鈴鹿峠。

何故か、鈴鹿峠の項に山脈から離れた山の記載がある。すなわち、梓山、仏返山、磨針峠、正法寺山(鳥籠山)、蟹満寺山、八尾山、高取山、日本こば、綿向嶽,龍王山、(鎌ヶ嶽ヨリ岐分スル)三瀧岳・日雲山など。なお南山脉に高畑山、油日嶽。さらに河湖の芹川に本霊仙山、鍋尻山。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

名所案内。第三編に伊勢国伊賀国、第四編に近江国

鈴鹿郡の野登寺に「安坂村石ヶ嶽の頂上字船石に屏風岩あり…一名を鬼ヶ牙」とあるが、何処から持って来たのか。

甲賀郡の総説に御在所山、白倉峰、鎌ヶ岳、方丈ヶ岳、三ツ子、高畑、鈴鹿山、油日山の山名がある。蒲生郡に、東境に水晶ヶ岳、その南西に雨乞ヶ岳、綿向山、龍王岳と続く。甲賀郡との関係をどう理解しているのやら。神崎郡に釈迦ヶ岳、八風ヶ岳、龍ヶ嶽。愛知郡に八風ヶ岳、釈迦ヶ岳、藤原岳、御池岳、白鹿背山、斧磨山、押立山。犬上郡に霊山(本霊山、北霊山、南霊山)、三國岳、焼尾嶺、鈴ヶ岳、八尾山、鳥籠山。阪田郡(坂田郡)に伊吹山。「八風ヶ岳」という表記は類例を知らない。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-08-17)

奥書によれば岡田静堂の『員弁雑志』の補遺に相当するとのこと。著者は1901年(明治34)に60才で没している。

員弁郡の山岳として五山(三国ヶ嶽、熊坂ヶ嶽、狗留孫ヶ嶽、藤原ヶ嶽、龍ヶ嶽)を記載しており、御池岳の登山記録がある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2024-07-16)

地名辞書。全四巻。全巻目次第1巻:府県,国,郡,市,その他第2巻:山谷,鉱山,その他第3巻:港湾,岬角,その他第4巻:山陵,墓碑,城址,その他。山谷などの分類項目毎に五十音順で収録されている。

鈴鹿山脈周辺の地名は、油日嶽雨乞嶽梓山(梓河内に属す、其西方に連れるを佛返山と云ふ)石大神山(石大神)岩經山・岩根山(筆捨山)岩名山(多度神社の東峯)犬上山(鳥籠山)飯盛山(鳥籠山)岩倉山(愛知郡秦川村大字岩倉の北、山上全郡の形勢を一見)伊吹山御茶屋山(亀山城址の北にある高丘)音羽山(蒲生郡西大路村大字音羽の東方)御池嶽(三十餘の池)押立山(北に連れるを秦川山)

加太山鎌ヶ岳(冠ヶ峰、湯山)銀山(治田村に属す、即ち丹生川山の東麓)観音山(関町大字新所の北)熊阪嶺枸尾山(甲賀郡山内村大字中山)百済寺山鶏足山(野登山、南方合螺ヶ嶽と相連る)御在所嶽(鎌ヶ岳の北方、其北方水晶嶽、千種越、釋迦岳等)小岳

庄内山(石大神山の別稱)白鹿脊山白倉峰(甲賀郡の北端、東北蒲生郡に跨る、其南方に三霊山)釋迦嶽(千種越の北)笙ヶ嶽(養老山に相接す)水晶山(鈴鹿郡野登村大字安阪山)鈴鹿山水晶山(玉緒山、蒲生郡の東境、千種越の南、山麓千種越路より二十一町)鈴ヶ嶽(御池嶽と相並立)磨針嶺仙ヶ岳

立石峰(多度神社の西南)多度山高塚山(桑名郡)玉緒山(水晶山の別稱)高畑山(高旗山)鷹取山(高取山)多賀山(山中有名の多賀神社あり)高室山厨頭冠(蒲生郡西大路村大字蔵王に属す)鳥井戸山(御在所岳と相連)鳥籠山(飯盛山、鍋尻山、犬上山、犬上郡芹谷村大字向之倉に属す)

長尾山(桑名郡)那須ヶ原山鍋尻山(鳥籠山)南宮山丹生川山入道岳野登山

旗山(阿山郡東柘植村大字上柘植の東方)羽黒山八峰山・八風峠治田山方丈岳(鎌岳の西方)秦川山日雲ヶ岳(鮎河村大字鮎川の東方)敏満寺山福住山(切畑の北方)福王山(國見山の東方)筆捨山藤原嶽(南方竜ヶ岳と相連)佛返山(三霊山の北)

丸山(阿山郡東柘植村大字上柘植の東北、旗山に相連)丸山(高塚山、桑名郡大山田村大字北別所、山頂四望)水無瀬山(菰野の西方、冠ヶ岳北方に連)明星岳御砂山(桑名郡深谷村、日本武尊)箕山(多度山)三ッ子山(笹路の東に冷水嶽、霧ヶ嶽等)御池嶽三國嶽(南方焼尾嶺、鈴ヶ岳)美濃中山美濃御山(南宮山)

山下岳(員弁郡西北端、立田村大字古田の西北、三國岳と相連)八尾山養老山(田跡山、多度山)湯山(鎌ヶ嶽の別稱なり)

龍王山(綿向山其東南)龍ヶ岳霊山(鈴鹿郡観音山の別稱)霊山(霊仙山、中霊山、南霊山、北霊山)

綿向山烏帽子嶽(熊坂峠)小山(桑名郡古濱村大字御衣野の北、多度社の南)尾高山

沼湖には所在地のみだが姫ノ池(甲賀郡大原村大字神)

石大神山(イシオホガミ)、枸尾山(クノヲヤマ)、白鹿脊山(シラカセ)など、フリガナを信用できない迷惑な辞書。五十音順の整理なので検索に支障あり。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01、更新 2022-07-20)

樺太、台湾を含む全十巻。うち、巻4近畿に伊賀国、伊勢国、近江国が収録されている。卷4の構成は第一編:地文(地形、地質など)、第二編:人文(沿革、政治宗教、産業など)、第三編:地方誌(市町村)。

伊賀国の鈴鹿山脈は、三國嶽、油日嶽、旗山、加太越。更に霊山寺山などの布引山地に及ぶ。記載は山名、標高、地質が列挙される程度。

伊勢国は養老山脈に笙ヶ嶽、養老山、多藙山、裏山、多度山。鈴鹿山脈に三國嶽、烏帽子山、大君ヶ畑嶺、御池ヶ嶽、藤原ヶ嶽、治田越、龍ヶ嶽、編笠嶽、福王山、八風越。千種越の北に釋迦ヶ嶽、水晶嶽、南に御在所山、千種山、鎌ヶ嶽。その山中に鷺の湯、湯の山等の温泉場。水澤嶺、入道ヶ嶽、仙ヶ嶽、鶏足山、安楽越、三兒山、白木山、雨引山、鈴鹿嶺、高畠山、三國嶽、旗山、加太越。

なお、この時代には、加太越以南の霊山寺山、錫杖ヶ嶽、笠取山、尼ヶ嶽、大洞山、三畝山、局嶽、堀坂山なども鈴鹿山脈として記述されている。

近江国の鈴鹿山脈は、油日嶽、三國嶽、高畠山、仙ヶ嶽、鎌ヶ嶽、釋迦ヶ嶽、龍ヶ嶽、藤原ヶ岳、三國ヶ嶽、霊仙山。雨乞嶽、綿向山、龍王山、日本コバ、高取山、鈴ヶ嶽、鞍掛山、杉山、鍋尻山。また、野洲川の水源に水澤峠、鈴鹿峠。

なお、卷3中部の美濃国に、三國ヶ嶽、ミノナカ山、霊仙山、仏山の名称あり。

地図もなく山名が列挙されるので、分かっている人には分かるが、分かっていない人にはサッパリ分からないという典型的な本に思われる。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2021-02-13、更新 2022-07-20)

当時の書籍、地図の情報を整理、引用して成立した山岳辞書。東京地学協会の創設者でもあった榎本武揚子爵の題辞「仁者楽山」で始まる。

本編と補遺の構成で、鈴鹿山脈周辺は本編に伊吹山 P310、養老山塊 P312、鈴鹿山塊 P315、伊賀山塊 P323。補遺に伊吹山 P594、鈴鹿山塊 P595、伊賀山塊 P600。補遺の追補に朝熊山P671がある。(リンク先は全てが国立国会図書館)

記載内容は、山名、別称、位置、登路、標高、地質。また、一部の山では引用元の略号を明記して山の詳細が書かれている。登路は出発地から山頂までの距離のみ。出発地が不明瞭な場合、編者が[括弧書き]で補っているが根拠不明。

巻末の山岳表には標高とその根拠地図、登路の根拠書籍、地質が示されている。

記載された標高は二種類ある。地図を出典とする標高と、編者が地図から「予想」した標高(凡例)だ。例えば、山岳表の阿弥陀ヶ岳は位置が不確かで読図できず、編者による予想値400mが棒グラフを破線表示して記入されている。出典は空欄だ。現在、阿弥陀ヶ岳は876m独標の山と認知されているので、編者の予想標高を信用することは危険と知れる。また、地質の出典は凡例にあるとおり、農商務省地質調査所の二十万分一地質詳図などによる。

出典の略号は凡例に「引用書名略号」の一覧表がある。鈴鹿山脈で使用されている略号と引用書名(根拠書籍名、根拠地図)の対応は次のとおり。

鈴鹿山脈は本編に、霊仙山、三國嶽、烏帽子嶽、御池嶽、藤原嶽、福王山、釈迦嶽、水晶嶽、御在所嶽、綿向山、鎌嶽、雞足山、鈴鹿山。補遺に、阿弥陀ヶ嶽、三國ヶ嶽、アサミヶ嶽、臥龍山、鈴ヶ嶽、八尾山、龍王嶽、白倉嶽、金岩山、龍王ヶ平、三子山、狗尾ヶ嶽、高畑山。なお、補遺の伊賀山塊に那須ヶ嶽、油日山。鈴鹿山脈から離れた臥龍山を除くと27山になる。

別称は、霊仙山(霊山)、福王山(福山)、水晶嶽(玉緒山)、綿向山(綿面山)、鎌嶽(釜嶽、冠峰、湯山)、雞足山(野登山)、鈴鹿山(高畑山、高旗山、旧称片山、三箇山、多津加美坂、加屋坂、三神山)。

本編の13山の登路情報は、12山が『日本地誌提要』、残る福王山が『勢陽五鈴遺響』にある。うち、水晶嶽以外は当時の二万分一図に山名と標高が記載されている。日本コバ、鍋尻山、竜ヶ岳、入道ヶ岳なども地図に記載されているが、登路情報を収集できなかったので『日本山岳志』には収録されなかったのだろう。

水晶岳は『日本地誌提要』に登路情報はあるが二万分一図に山名の記載がない。編者は根ノ平峠の北の無名峰(三等三角点)を水晶嶽としたが、これは誤りだろう。「水晶岳は何処にあるのか」に整理したとおり。

補遺14山の登路情報は滋賀県の統計書からの引用だ。例えば『日本山岳志』の出版時期から『明治33年度滋賀県統計全書』が見やすい。うち、鈴ヶ嶽、龍王嶽、高畑山、油日山は標高の根拠地図を二十万分一図としているが、当時の地図からは読み取り困難で標高の根拠に疑問がある。残る10山のうち多くは当時の地図に山名記載がないので所在不明だ。標高の根拠は空欄で、編者による怪しい予想標高が記載されている。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。なお、リンク先の資料は本編の鈴鹿山塊のP316-317の次にP320-321が誤って挿入されている。(作成 2013-06-15、更新 2025-02-25)

上・中・下の三巻構成。上巻は古文書などの資料と小字名一覧。中巻は時代史。下巻には土地志(山嶽志を含む)神社志寺院志城砦及屋敷趾志古跡名勝志など。上巻にある常任委員・中川泉三(『伊吹山案内』の著者か)の緒言によれば、完成までの十年余に、編集方針の変更など紆余屈折の様子を覗える。

この時期の坂田郡のうち鈴鹿山脈の領域は、柏原村、醒ヶ井村、息郷村(西坂・番場を含む)、鳥居本村(男鬼・武奈を含む)。伊吹山の説明では、この山を鈴鹿山塊のうちとしてはいるが。

上巻に小字名の一覧があるが、1975年(S50)の『近江国坂田郡志』に新しいものがある。

下巻の土地志にある山嶽志には、膽吹山(伊吹山)、霊仙山、阿弥陀ヶ嶽(仏返山)、七尾山、臥竜山の説明があり、続いて山名一覧表がある。この一覧には、例えば梓山、清滝山、床の山、霞ヶ岳(一名嶽山)、八葉山、佐和山、太尾山、梅ヶ原山、磯山がある。これも『近江国坂田郡志』に新しい山名一覧表がある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2024-02-16)

教師用資料。地理科、歴史、修身科、国語科、理科、農業科、算術科の順。

地理総説に龍ヶ岳、藤原ヶ岳、三國岳の名称がある。郡内21村について、第二章で地理、第三章で歴史(神社、佛寺、古址、古墳)を扱う。治田村では、治田鉱山について現時廃鉱と簡素にある。山郷村には田代池、暮澤池の記載がある。やはり山岳に関する記述は少ない。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。Googleブックスにある慶應義塾図書館の書籍画像は、地図画像が欠落するなど品質劣悪。(作成 2020-06-14、更新 2022-07-20)

教師用資料。修身、歴史地理、国語科、算術科、理科、農業の順。

歴史地理の総説に地勢があり、鈴鹿山、雞足山、仙ヶ嶽、入道ヶ嶽、錫杖ヶ嶽、明星ヶ嶽の記載がある。名勝に筆捨山、羽黒山、観音山、椿山(石大神)、屏風岩。

関町に錫杖岳、観音山、富士山、城山、関山がある。錫杖岳の項に、市街南方に三山があり、中央が加行山とある。名勝旧跡墳墓に観音山、關山(關雄山)、古屋敷(白石明神)。

坂下村に鈴鹿山、三子山(三箇山)、長峯山、船尾山、富士子山、筆捨山がある。長峯山に富士子山、兵治尾、駒尾、中津山の記載あり。船尾山(1878尺=569m)は村の南西にあるとのことで地域的には村外である那須ヶ原山のことか。「尾崎を以て境界」とは坂下村、加太村、近江側の境界であろう三ツ頭山のことか。富士子山は村の南方野々谷、西に篠ヶ谷山とある。河原谷川に水源をタギ岩山。東海道分間延絵図では坂下宿東端の川の上流に「字河原谷」とあったがタギ岩山の記載は見当たらない。

加太村は3ページしかない。山は錫杖ヶ岳(768m)のみ。

椿村に入道嶽(椿ヶ嶽を含む)、祓山、御幣山、瀧山、やけんぎょ山、大諸山、石大神山、愛宕山、東愛宕山、丸岡山がある。瀧山は県境とのことだが位置の見当がつかない。入道嶽の登路は山本と大野から。

庄内村に國見山、仙ヶ岳、白石山がある。國見山は野登山の国見石だろう。白石山は「國見山の東方」とあるので鳩峰か。白石鉱山がある。

川崎村の小谷山は西側の三角点「川崎」87.0mのことか。峯城跡がある。

野登村に雞足山(釜谷川、宮川)、仙ヶ岳、御所ヶ平山、舟石山、錐ヶ岳(錐ヶ瀧)、雨引山がある。雞足山の登路は野登村と庄内村から。我女川の水源に石尾山、岩坪川の水源に錐ヶ瀧。仏閣の項に雞足山野登寺。名勝旧跡墳墓の項に、仙ヶ岳の白瀧、水晶山、雨引山、石尾山、御所ヶ平山(陶器類の破片等 …)。

白川村に明星岳、霧ヶ岳(近江国境)、羽黒山、國ヶ峯がある。霧ヶ岳は伊勢で使われた名称なのか。萬壽寺川の水源に霧ヶ岳とはある。仏閣に明星山国分寺。名所旧跡墳墓に羽黒山。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。また、正誤表がある復刻版が個人送信されている。Googleブックスにある慶應義塾図書館の書籍画像には正誤表があるが1ページ分しか画像がないし、全般に品質劣悪。(作成 2022-08-09)

三重郡地誌。明治29年に朝明郡を併合済み。山岳に関する地理はとても貧弱。

遺蹟名勝に三嶽寺址、福王山山岳は御在所ヶ岳(菰野村)、鎌ヶ岳(菰野村)、國見ヶ岳(菰野村)、鳥居戸山(千種村)、雲母ヶ岳(菰野村)、猫正山(千種村)、釋迦ヶ岳(朝上村)、八風山(朝上村)の山名と標高のみ。標高が奇妙。山を遠望すれば疑問に思うはず。(正誤表

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2020-09-24)

蒲生郡地誌、全十巻。うち、第八巻の地理志には交通、山嶽、河川、古蹟名勝などの項があり、「山嶽」には山名とともに簡素な説明がある。鈴鹿山脈周辺の山名は、小嶽(必佐山、小神山)、猪鼻嶽(宝殿嶽)、厨頭冠山(くりやつか)、綿向嶽、龍王嶽、丸山、左久良山、石子山、布引山、水晶嶽、御在所山、雨乞嶽。

なお、近年まで水晶岳の別称として地誌に記載されていた玉緒山がある。場所は甲津畑から北北西に伸びる低い丘陵地の西端。南の近江鉄道京セラ駅付近に玉緒神社(後年の改称らしい)や玉尾山願成寺がある。古蹟名勝の項の玉緒山には願成寺山、布施山ともある。

交通に千種越八風街道司馬江漢の日野漫遊。古蹟名勝に綿向山丸山

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01、更新 2020-07-24)

養老郡誌。冒頭に元禄時代旧多芸上石津両郡村落図岐阜県養老郡地図がある。

第12章が神社、第13章が寺院。第20章は名称旧跡古墳で、養老公園や石仏(柏尾、竜泉寺の威徳山廃寺址)など。

各町村志は第21章にある。第2節「養老村」に各大字毎に字名の一覧があり、大字竜泉寺に天平宝字の大威徳山竜泉寺があったと。また、大字勢至の項に立岩や燐火がある。立岩は八百比丘尼か置いていったとのこと。養老町史(P800)によると、この立岩の横に洞穴があり、山猫のお六という大泥棒がいたという。

第4節「上多度村」の大字小倉にある秋葉神明秋葉三社の奥宮があるという三峯山は現在の三方山のことか。「三個の石碑あり」だが、現場には2つしか無かったような。岐阜県養老郡地図には三方山付近に鳥居記号がある。

第12節「一之瀬村」の鉱山採掘始末に尾張藩の金山採掘が失敗して切腹したものがあるとか、可哀相としか。

第14節「時村」に、時山にある車駕路池は天武天皇が通過したとのことだが何処にあるのか。奥深すぎるような気がする。細野の北の車御路の森の方がまだありそう。時山八景に熊坂長範の名がある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。また、養老町教育委員会の電子書庫にもある。(作成 2024-02-01)

上下二巻の構成。上巻に対象地域に地図がある。

上巻と下巻第1編第21章までが歴史。同編第22章に「町村の沿革と町村長と小字名」があるが、鈴鹿山脈北辺の今須村は内容が乏しい。なお、小字名は関ヶ原町史通史編 別巻岐阜県不破郡今須村土地宝典の方が良い。

第3編に神社史、第4編に寺院史、第6編「名所旧跡」には多数の項目があり、金鶏伝説などに続いて竜蛇伝説の項に今須村竜王山の雨乞い(雨ツボ様)があるが関谷とは雰囲気が違う。第8編「地理」の地勢は、鈴鹿山脈としては見るものがない。

国立国会図書館デジタルコレクションにて再刊されたものが個人送信されている。(作成 2024-02-04)

上下二巻。上巻に沿革(字名)、地理(山嶽、原野等)、交通、風俗、町村など、下巻に寺社、産業、名所旧跡など。

上巻・沿革の字名に、猪鼻に火頭古、山女原に四尾草、黒滝に風越、地蔵峠、北土山に大岩など。なお『近江国全図』には鈴鹿の主稜線付近に風越と書かれている。(字名一覧は角川日本地名大辞典の方が詳しい)

上巻の山嶽には、鈴鹿山脈について、綿向山、雨乞嶽(白倉峰)、冠ヶ岳(鎌ヶ岳、釜ヶ嶽、湯山)、水沢峠、仙ヶ岳(釋迦ヶ岳)、龍王嶽竝四十九嶽(滴嶽、龍王平)、西ヶ嶽、日雲ヶ嶽竝野戸ヶ峰、火頭子山、合螺嶽、冷水嶽竝霧ヶ嶽、三子山(三兒山、三神山)、高畑山、祝詞ヶ原山、三國嶽,油日山、鈴鹿山が解説付きである。読んでも良く解らないものがある。(P41~)

原野に布引山、代野(余野、輿野)の記載あり。代野には伊賀との境界を明治九年に定めた引用文書に「ソロソロ峠」の名称がある。(P101~)

池沼竝養水路の鮎河村に「大峠の澤」がある。雨乞岳の頂上にある天然の貯水池であり、周囲30間とも、水面積一段歩ともある。30間なら直径17mほどだ。「旱魃の時村人雨を乞ふを慣例となす」とのこと。(P110)

鉱山の記載は僅か。なんと元越谷に炭酸泉の記載があるが具体的な位置は書かれていない。(P126~、P131)

交通に関する雑記に東海道での「山狼捕殺」の項があり、引用文献には宝暦13年(1763)に坂下で山人三人が喰殺されたなどの事案が記されている。(P196)

第六編町村の山女原の項に安楽越があり、「霧ヶ嶽方丈嶽の渓谷を踰ゆる」とある。(P350)

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。また、Googleブックスの資料は慶應義塾図書館の表示があるが、地図が折り畳まれたまま画像化されたり、ページが重複したりで品質は低い。(作成 2020-01-03、更新 2023-10-24)

神崎郡には愛知川左岸の山上村(紅葉尾、佐目など)が含まれる。上下二巻。上巻に歴史、下巻に寺社、地理、町村、交通、名所旧跡など。

地理志の山岳の項に、釈迦ヶ嶽、仙香山、銚子ヶ嶽、赤兀山、庭戸山、丸山、黒尾山、佐目嶽、峪道(カケミチ)山、水谷ヶ嶽、左上田山、阿ノ瀬山、稲荷山、脇山が少量の解説とともにある。

神社志に神社一覧があり、由緒記の若宮八幡神社(佐目)の境内社に塔お金社が見える。また、石塔名所旧跡にもある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。上巻は公開、下巻は何故か個人送信の対象になっている。(作成 2022-07-09、更新 2022-07-20)

愛知郡地誌、全五巻。第一巻第二巻に歴史。第一巻目次のあとに愛智郡図、第二巻に交通志あり。第三巻に地理志(山岳古蹟名勝など)、産業、人物、軍事など。第四巻に神社、第五巻に寺院。

交通志八風峠に宗長始め往来の記録が数件ある。

山岳には鈴鹿山脈周辺で、御池岳、龍ヶ嶽、甲掛山、白鹿脊山、百済寺山、押立山、松尾寺山、泰川山,高取山、岩倉山。御池岳は君ヶ畑にあり登山口から頂上まで二里十八丁とある。龍ヶ嶽は「石榑越と八風峠の中間に聳え」と誤記。甲掛山は「九居瀬の東北…山中に巨大の岩窟」とあるので日本コバ。この岩窟は古蹟名勝にある小字甲掛山中の「ヒヨガ洞の岩窟」のことか。愛智郡図には甲掛山でなく日本コバとある。押立山(海抜七百七十一米)は「古来樹木甚だ少し…山中に押立神社の舊址あり」。松尾寺山(海抜四百六十九米)は「密林鬱蒼として風致甚美なり。古刹金剛輪寺の所有なるにより」。地形図では松尾寺山の別称となっている泰川山(海抜六百六十二米)は松尾寺山の東にある。薪を取るので深林でないとのこと。

古蹟名勝には記事多数。名木花の木に紙幅をさいている。工業志小倉谷の鑛山が三ヶ所。神社に押立神社。寺院に百済寺金剛輪寺。百済寺に江戸時代の古地図があり、大峠の北に◯木社とあるように見えるが日吉神社に合祀された社には見えない。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

旧上石津郡時村(下山、打上、上、堂の上、細野、時山)の村史。鈴鹿山脈については烏帽子岳と三国岳のが出てくる程度。烏帽子岳は熊坂長範と関係して熊坂山として語られている。滋賀県境界は古文書に五僧坂で山焼きとあるが、興味を持てる記載を見つけられなかった。

時村全図が掲載されている。等高線があるが情報量は少なく、山名があるものは烏帽子岳、三国岳だけ。河川は牧田川、大木切川、赤尾川、熊坂川、幾里川、藪谷川。

第2章・本村の名称に大字小字名の一覧がある。小字名「郁利」は幾里のことらしい。時村全図と本文で用字が違う。

第8章・神社の湯葉神社に、祭神の議論として熊坂長範と流れ七社が出てくる。

第10章・古代遺物遺蹟に郁利谷洞穴、郁利谷まやのほら、がんど岩がある。日本先住民族が棲息した遺蹟と伝えるとのこと。

第11章・本村と古趾は、熊坂山(熊坂長範の旧趾)で始まる。山中に多数の遺蹟があり、何時の時代かに山窩の住所として潜伏場所であったと述べている。続いて、惟喬親王や「だだ法師の足印」がある。第12章・本村の遺蹟及地名に郁利谷金坑、藪谷金坑に続いて郁李谷風穴が出てくる。藪谷を経て琵琶湖に通ずとのこと。また、壬申の乱での腰越(古田~細野)などの地名が記載されている。この腰越は第19章・交通で江州道路などとともに再録される。ほかに、第20章・民俗に永源寺の僧が行乞に来るなどとある。

「だだ法師の足印」は何処にあるのだろうか。国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。印刷所の岐阜刑務所作業部は初見。(作成 2024-02-18)

関町地誌。謄写版なのか判読に少々苦労する。

山岳は名勝の項に羽黒山、観音山、関雄山(関山)、富士山。琴の橋は候補を挙げている。神社仏閣(関神社、地蔵院、一休和尚のことなど)、史跡(関台、聖武天皇赤坂頓宮跡、小萬の墓など)の記載あり。

巻頭に手書きの地図(鈴鹿の関付近鳥瞰図関町略図)がある。また、寛政十二年の絵図には、町並みの西端に「土居」が書き込まれている。鈴鹿関の城壁だったのか。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2019-07-01)

雑文集。目次に25項目ある。序文に犬上郡誌は編纂されたことがないとある。

山岳は略図に霊仙山、鍋尻山、三國嶽、鈴ヶ嶽が、胡宮神社の項に「清涼山敏満寺」とともに敏満寺山がある。鍋尻山の項は残念、河内の風穴の項には行者が修行したとある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2021-09-16)

  • 菰野町史(昭和16年版)

  • 編纂者:菰野町史編纂委員
  • 発行:菰野町史刊行会
  • 1941(S16) 702p
  • 国立国会図書館:公開

菰野町史の旧版。統治ノ沿革、傳記編、湯之山沿革、舊記類雑録の四部構成。

第三編「湯之山沿革」には湯の山温泉の縁起など、
平松山温泉寺(横山惟中)
勢州菰野湯山
勢州薦野温泉縁起

貞享4年(1687)の廃泉の復興後、来訪記録が二件
天野信景、享保6年(1721)「塩尻」
堀田方旧、延享元年(1744)「護花関随筆」

宝暦以後明治維新まで記事五件、内、
横井有也、宝暦5年(1755)「鶉衣」
司馬江漢、天明8年(1788)「江漢西遊日記」
嘉永、安政以後、「四日市庄野石薬師等の遊郭より娼婦上り来たりて更に俗悪なる淫蕩地と化し終には無頼の博徒東西より集り来たりて日夜賭博を開帳…杉屋旅館一戸のみ」と衰微した。この後、明治10年の傷病兵療養所設置、大正2年の四日市鉄道開通、田村林学博士の菰野山調査、高山植物の調査と続く。

湯の山温泉に関わる文芸作品が幾つか収録されている。
遊菰野山記(津坂東陽)
菰野温泉紀行(天野信景)、湯本の図の掲載なし
薦野記(横井有也)
おく山ふみ(土方雄興)、御在所岳の登山記録
冠嶽乃記(同上)、鎌ヶ岳の登山記録

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2013-06-08、更新 2019-07-01)

全七巻。日本資料刊行会によるものは、原書に従い第三巻は上下に分冊しているので全八冊。名著出版は、第三巻上下を第三卷、第四巻としているので全八巻になる。西濃印刷出版部による原本は第一巻、第五巻しか収蔵されていない。中表紙に「改訂」とあるのは、第一巻の序で大正二年に近江坂田郡志があるとしているためか。日本資料刊行会では、収録された一部の絵図は彩色されている。以下は日本資料刊行会による。

構成は第一巻、第二巻が現代までの歴史。第三巻が雑志、第四巻、第五巻が社寺志、第六巻、第七巻が古文書。

第三巻上の巻頭部に史跡地図があり、町名区画が詳しい。鈴鹿山脈周辺の山岳は「山嶽志概説」に、膽吹山(伊吹山)、霊山(霊仙)、梓山、阿弥陀ヶ嶽(佛返山)、臥竜山が解説付きであり、「山嶽一覧表」に多数の山名がある。「村名の由緒と沿革」には各村落の記載と字名一覧がある。屋敷跡には榑ヶ畑の「惟喬親王の邸趾」が出てくる。古蹟名勝は多数が収録されており、伊吹山の日本武尊の石像霊山の御池磨針嶺など。

「山岳一覧表」から、山名の一部を引用しておく。八講師山(柏原村)、兜黛山・一名向山(醒ヶ井)、香焚山(醒ヶ井・息郷村)、霞ヶ嶽・一名湯倉嶽(息郷村)、八葉山(同)など。

第三巻下の巻末にある雨乞唄は、地元の多数の神仏に願いを掛けている。弥高雨乞唄の「いや高きみ山のみ池」や、西番場雨乞唄の瀧王様、八大龍王は何処のことか。目を走らせた程度だが霊山(霊仙山)は出て来ない。上丹生雨乞唄では神明様だ。

第四巻の村社加茂神社(醒井村)無格社天満神社、平林神社、神明神社、八坂神社(醒井村)など。雑神に石神、道祖神、福の神と結縁神、大将軍者、山の神、野の神。巻末の寺院表(一覧)は宗派毎なので探すのは大変。天台に松尾寺あり。

第五巻の寺院は宗派毎の記載。これを離れた仏堂地蔵堂(醒井村)。関の石地蔵に似ているとのこと。廃寺には上平寺阯や伊吹山寺阯、大平寺阯など。霊山寺阯には不鮮明な「霊山寺之古図」や七箇別院があるが、興福寺官務牒疏の偽書認定があり、そのまま読めない。「阿弥陀が岳、釈迦が岳、仏がやし」、阿弥陀堂は「今の跳場(醒井村枝折より旱天のとき、雨乞せし所なり)」ともある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-08-13)

治田村は藤原岳と竜ヶ岳の間、伊勢側の青川流域の村。治田鉱山があった場所で、現在はいなべ市の一部。第五編第五章では「古文書では往々治田を沼田と書いてある」とあり、字体が似ているため書き誤ったとある。表紙裏に治田村略図がある。

総論では「西に藤原ヶ岳(1143m)、南河内山(1096m)、多志田山(1000m)」が出てくるけれど後二者は治田村略図に記載がない。「南河内」は新町の字で、多志田山の南面から竜ヶ岳北面の範囲を指しているので、この「南河内山(1096m)」は静ヶ岳のつもりか。

治田郷内各村の概要に麓村や新町の字名一覧があり、新町の南河内には鉱山関係の地名が多数ある。近江国との交通-治田越では、「治田越(君ヶ畑越)は、本村の新町から、龍ヶ岳と藤原ヶ岳との鞍部平尾峠を越え」との地名の使い方をしており、『北勢雑記』から山中の様子が引用されて「日岡」や「地蔵堂」が出てくる。治田鉱山は年表付きで一章分にまとめられている。

国立国会図書館デジタルコレクションにて第二刷(昭和57年)が個人送信されている。(作成 2025-01-08)

亀山高等学校の地方史研究誌。第6号~第17号、第29号~第47号が国立国会図書館のデジタルコレクションにある。目次から気になったものを拾えば、

ガンサの谷の概念図に「船石」や「錐ヶ瀧」がある。字名か。また、大正12年に安楽公園保勝会ができた。野登村の有志で野登山、石水渓、石尾山を公園化しようとしたとのこと。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。なお、亀山市立図書館に第2号~第30号がある。(作成 2024-01-14)

戦後の間もない時期の鈴鹿郡の地誌。中表紙に「青少年のために」とある。

冒頭の簡易な地図は鎌ヶ岳を鈴ヶ岳と誤記しているが、萩原が亀山市に、一ツ家が伊賀市に編入される前のもの。神社に椿大神社があり、「この神社に珍蔵されている鳥の化石は、長さ一尺三寸、長い嘴、大きな頭…変わった事にはズラツと並んだ歯…入道嶽の山奥で発見された」とは何ものか。寺院に野登寺、国分寺。他に、峰城(峯城)の戦い、当時の坂下宿の様子。巻末の略年表には天正10年に「野登寺兵火にかかり全焼す」とある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-08-12)

全三巻。復刻版が1987(S62)にある。

上巻の「地形と地質」に市内の山名、所在地、標高がある。曰く、金亀山(城山)、雨壺山(平田山)、古城山(賀田山)、大堀山(鞍掛山)、佐和山、荒神山(日夏山)、男鬼峯。男鬼峯は684.0mとある。「東山道」に鳥籠駅、鳥籠山、不知哉川があり、鳥籠山の大堀山説、鍋尻山説、鳥居本・小野周辺説がある。鍋尻山説は否定。大堀山説は、比高50メートルの大堀山が多くの歌が詠まれた鳥籠山であることに「堪えうるか」とある。

下巻・第二章経済の「戦前の観光」の項にハイキングとして、芹谷・榑ヶ畑コース(大鉄・名鉄指定)、鈴鹿山系時越コース(名鉄指定)がある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-09-02)

鈴鹿山脈の地誌としては見るものがあまりない。

惟喬親王の潜幸伝承に池ヶ原(山女原)の親王社の写真がある。また、巻末に地形図より少し詳しい地図があり、田中林業所、鉱山記号(弥栄鉱山)、山道など気にはなる。国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2023-10-16)

史話79編を収録。うち鈴鹿山脈の関係は七四「霊仙池を穢した米惣風」七五「自然の神秘河内の風穴」の二編。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-09-01)

犬上郡多賀町久徳の史書。久徳は多賀神社近くの芹川右岸の村落であり、多賀大社から調宮へのお渡りが通過するところ。

淺井方に敗れた久徳氏が話題の中心にあり、多賀大社や水争いのことなどが述べられて、戦後の芹川ダム完成で終巻となる。このなかに、竜女や、竜女が棲む霊仙山の池への雨乞いが何ヶ所か出てくる。久徳殿奥方(龍女)の伝説では、久徳城主の奥方は霊仙嶽の竜女の化身であり、久徳を守護すると述べ、竜体を現して霊仙山へ帰っている。したがって、雨乞いは久徳の村民が守護者である霊仙山の竜女・良姫にお願いに行くという形式になっている。

弁財天宮と九良介などには、竜女を祭神とする弁財天社(現在は市杵島姫神社、久徳城跡)や雨乞登山の話がある。

なお、挿入記事に高室山の惟喬親王の伝説がある。陣屋山でのことだ。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-07-26)

「新編鈴鹿市の歴史」の後にある「鈴鹿市の文化財」「鈴鹿市の祭りと年中行事」がまとまっている。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2024-02-05)

犬上郡多賀町敏満寺の史書。副題に「親と子の郷土読本」とある。

前半は水沼庄、敏満寺、胡宮神社の話題。胡宮神社の項に「磐座(いわくら)」があり、「後世このいわくらに髙麗神を祀り、雨乞の祈禱をするようになった」とある。また、青竜山の「はげ山の砂防」には、はげしばり(ヒメヤシャブシ)の記事がある。なお、山名は青竜山(青龍山)を用いており、所々で敏満寺山が出てくる。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-08-11)

全二巻。上巻は「原始・古代」「中世」「近世」の三編構成。下巻は「近代・現代」の一編のみ。

上巻「原始・古代」「中世」のそれぞれに交通があり、鈴鹿峠、斎宮などの話題がある。「近世」の「村の人々」の旱魃祈願に高山に登って火焼したとあり、富士山(木崎)、加行山(新所)、各字の高山(久我など)、明星ヶ岳(白木村)、雀頭岳(加太村)の名称がある。「入会と村々の争い」に白木山、關山と近郷との関わりが出てくる。なお、「關山=中津子山」と書いたものがある。

巻末に1692(元禄5年)の「関宿家並図、坂下宿家並図」があり、鈴鹿峠の茶屋の並びも書かれている。

下巻「近代・現代」の「交通の変貌と関西鉄道の開通」には衰退する宿場町の様子。明治初期の鈴鹿峠の家並図には堺屋、伊勢屋などが田村神社周辺にある。鉄道開通前の道中記「旅寝之友」からの長い引用があり、鈴鹿峠の伊勢屋に善哉餅が出てくる。「交通と文化の発展」では、坂下から鈴鹿峠へ登りで「立ち往生している自動車を手押しで頂上まで運んだ」という。大正5年に北白川宮が陸軍演習見学のために鈴鹿峠を越えたときも大変とある。年中行事に北在家のお経塚まいり(12月3日)が見える。観光神社・寺院文化財、巻末に一部地域の小字図あり。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-09-05)

  • 北勢町風土記 資料第一集

  • 編者:北勢町風土記編集委員会
  • 発行:北勢町教育委員会
  • 1978(S53) 429p 書誌
  • WARP

北勢町は阿下喜を中心に養老山地の南側に展開した地域だが、鉱山を擁する南部の治田地区が鈴鹿山脈の一部になっている。

南部地区の概要(P6)に治田の記事がある。鉱山は、新町と新町新田(P52)、鉱山(P224)、廃藩・武家の宝山商法(P245)、明治からの治田鉱山(P276)。おまき屋敷や伍代アイが出てくる。他にも伝説、ツチノコなど読んでいて楽しい。

いなべ市の「いなべ市郷土資料」で閲覧したが削除されている。しかし、何故かデジタルブック版は残っている。また、pdf版をWARP収集資料(例えば 2017.05.15)で閲覧できる。第二集以降はデジタル化された形跡なし。(作成 2019-07-01、更新 2022-07-20)

岐阜県、三重県、滋賀県の史跡・名勝・天然記念物および埋蔵文化財包蔵地地図。鈴鹿山脈の周辺については、

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-09-03)

通史編上下巻、別巻、史料編1~3巻の6巻構成。

通史編上巻は日本武尊、壬申の乱、不破関跡、関ヶ原の合戦など賑やか。巻末の付図には、時刻とともに推移する「関ヶ原の合戦の陣形図」がある。何時か機会があれば読みましょう。下巻では今須の林業について触れている。

通史編別巻は、字地名指定文化財遺蹟神社寺院民俗(年中行事)伝承・伝説など。鈴鹿山脈関係の話題は雨壺くらいしか見当たらない。すなわち、雨壺神社(祭神:雨壺八大龍王)と関谷龍王(雨壺さん)だ。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2024-02-05)

鈴鹿山脈の南西端である上柘植を含む町史。

地形的環境の鈴鹿山脈の項に、油日岳、旗山、烏山、加太峠の地名がある。また、壬申の乱と伊賀町の項に、大海人皇子の通過経路の候補としてゾロゾロ峠の名称がある。ただ、「烏山南方で高度を下げたところに加太峠がある」と書かれているので烏山の位置は717mのように思われるが、巻末の小字図を見ると烏山地内でないところに烏山が存在することになり奇妙だ。現地に石碑がある鴉山池は小字烏山の南にある。

植物では、引用だがゴヨウツツジ・アカヤシオが「ともに伊賀では柘植の北部に限り産するらしい。ゴヨウツツジは旗山のみに産する」とあり頼りない記載だ。バイカモの採取事例がある。

小字名などの旧地名が巻末の附録に、小字名略図が添付されている。一ツ家は既に伊賀町に編入されている。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2024-02-19)

全五巻。第四巻、第五巻は史料編。第一巻の地形に山地の記載があるが詳しくはなく、続いて地質、構造が一通りある。原村の金光寺の項に、1500年代、雨乞いで野登山に登った記載がある。伊勢国一宮についてでは、都波岐神社は椿大神社の万葉仮名が一人歩きしたものとある。巻末に地質図鈴鹿市内遺蹟・文化財分布地図が細切れで存在する。なお、第二巻の巡見街道に伊能忠敬の通過記録あり。

鈴鹿市の歴史』や『新編鈴鹿市の歴史』の拡大版といった印象。国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されているが、第五巻(史料編2)が見当たらない。納本されていないのか。(作成 2022-08-14)

東桜谷は蒲生郡日野町の北辺、竜王山の北西面(三峯山)を水源とする佐久良川の上流地域のこと。

第一編 東桜谷の歴史第二編 残された文化財第三編 伝説物語第四編 資料の構成で、口絵に奥津保古図(佐久良・北山家蔵)、巻末には詳細な東桜谷地図(二種)が添付されている。

歴史編の冒頭で、「さくらだに」の語源は先祖の霊魂が住む綿向山・竜王山の地域と生活の場を分ける境界に、確証が乏しいとしながらも佐久良太利大神宮(佐久奈度神社)を祀ったことに由来するとしている。なお、従前の奥津保という地名は竜王山が葬送の地であったことを表しているという。(東桜谷の地内を離れるが、イハイガ岳の名称もその延長にあるのかも。)

また、歴史編では西宮神社から改名された鬼室神社にある「鬼室集斯の墓」は後世の創作との見解。すなわち鬼室集斯の墓ではない。もちろん、百済人・鬼室集斯に縁がある土地であることを否定してはいない。

文化財、伝説は多数の項目が収録されている。竜王山の雨乞い、惟喬親王、人魚塚、石子山など。雨乞いは、竜王山の山頂にある竜神の依り代である石を集落の各所に持って来て大歓迎するというもの。この竜神は多武峰から竜王山へ移って来たのだという。

小綿向神社は、杣の向山から大屋神社へ昭和35年に遷座されたが、この地域と綿向山の関係は記載が乏しい。(三峯山は立入禁止標識を設置している三峯山南山生産森林組合の管理地なので歩いたことがない。安部居から佐久良、中ノ郷、小野と続く八丁地蔵の旧道路は付図の大安楽寺跡付近で終点だが、何処から雨乞いに登ったのか。)

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。

佐久良太利大神宮のところで椿井文書との係わりが書かれていたので、「椿井」で全文検索すると七件も出てきた。ほかにも、興福寺官務牒疏にある寺院が跡形もないことを不可解としている。近年に偽文書と指摘された椿井文書にしろ、鬼室集斯の墓に係わった者にしろ、混乱を生む厄介者がいる。(作成 2024-02-16)

  • 大安町史

  • 編纂者:大安町教育委員会
  • 発行:大安町
  • 第一巻 1986(S61) 811p 書誌
  • 第二巻 1993(H05) 861p 書誌
  • WARP
  • WARP

第十四章「郷土の伝説と民話」では、萩原善住坊、堂屋ヶ淵、爪引地蔵・白蛇の話、お馴染みの元旦の朝に啼く金のニワトリなど多数が掲載され面白い。

第十五章「自然編」では、竜ヶ岳山部の県境三叉路から遠足尾根方面へ「池ヶ平、加羅谷尾山、御堂尾山を経て落合橋に終わる」と聞き慣れない地名が記載され、池ヶ平は大池があったとして堂屋ヶ淵の伝説に登場している。

他に「西行庵の伝説」「連歌師宗長と山科言継卿」「観光開発」など。類書に比べて図が多くて好まくはあるが、何故か地元小学校の修学旅行の写真(石舞台古墳、宇治平等院)が紛れ込んでいる。

いなべ市の「いなべ市郷土資料」で閲覧したが削除されている。しかし、何故かデジタルブックの第一巻第二巻は残っている。また、pdf版をWARP収集資料(例えば 2017.05.15)で閲覧できる。国立国会図書館にも同様の資料がある。(作成 2019-07-01、更新 2022-07-20)

  • ふるさと杉谷

  • 編集:菰野町教育委員会
  • 発行:菰野町
  • 1986(S61) 95p B5

文化庁の「文化財愛護活動推進地区」の指定による成果を総括したものとのこと。内容は次のとおり。

  • 1 尾高の観音堂
  • 2 菰野町の誇る杉谷のクロマツ清英樹林
  • 3 杉谷の喜例踊りについて
  • 4 杉谷地区金石文の調査

本書のうち80ページは「杉谷地区金石文の調査」。石碑や石灯籠などの碑文を各1枚の調査用紙(1ページ分)に写し取った資料集である。『ふるさと田光・切畑』のような読みでのある内容ではなかった。四日市市立図書館にて閲覧した。(作成 2004-01-26)

本編、別冊、資料編の三冊構成。山東町は柏原村と、その北にあった原田村、東黒田村の合併により1955(S30)に発足し、2005(H17)の合併で米原市になって消滅した。

本編は歴史。別冊に地理民俗、美術、建築、三島池と越夏鴨、国指定特別天然記念物長岡のゲンジボタル及びその発生地。資料編の附録に文化財芸濃・民俗自然(巨木)地名(字一覧と概念図)がある。

鈴鹿山脈の関係では、あまり興味を持てるものはなし。民俗関係の記載が多数あり、梓河内には黄金の蓋があり昇天できないという「あまつぼ」の伝承がある。なお、戦前に伊勢湾と敦賀湾を結ぶ中部運河計画があったが宙に浮いた状態とのこと。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2024-02-16)

  • ふるさと田光・切畑

  • 編集:「ふるさと田光・切畑」編集員
  • 発行:田光・切畑ふるさと運動実行委員会
  • 1988(S63) 74p B5

八風峠の伊勢側、菰野町(三重県三重郡)の田光・切畑地区の地誌。菰野町のふるさと運動を契機に、聞き取りや寺社倉庫の調査になどより、まとめられたもの。

地図、古墳、寺社、城跡、八風峠、伝承、人物、民謡などが、図面や50件ほどの小さな記事にまとめられている。目次に揚げられた項目は以下のとおり。

田光・切畑史跡図、八風峠への見取図、田光・切畑字図、大正2年田光地籍図、ふるさと運動について、田光の移り変わり、切畑村、歴代区長名、高塚古墳、下江平遺跡、多比鹿神社、八風神社、、山の神、多比鹿神社・飛地境内、伎留太神社、九品寺、九品寺の黄金仏、九品寺の石造六面地蔵、光泉寺、光泉寺の鏡、乗得寺、田光城、切畑城、道心塚、清安寺、山田の地蔵、忠兵衛塚、八風峠への道、八風峠の高札、お菊の伝説、八風大祭由来、村相撲、八風の大鳥居、田光の鋳物師、郷倉(ごくら)、八風大石、禿の井、溜池、江平の水論、六谷用水の水争い、女流画家・諸岡清園、藤井喜市先生、歌人・森たね、田光里謡、松阪音頭、江州音頭、伊勢音頭(嫁)、伊勢音頭(道中)、伊勢音頭(別れ)、伊勢音頭(しめ)、大正から昭和30年ごろまでの産業、間屋、大正時代郷倉付近

掲載されている田光・切畑字図には、災害で消滅したという上之茶屋、花市場の字名が見えて興味深い。

ところで、「郷倉」の項に、「北勢の三バカ」なるものが紹介されている。田光の大フラホ、千種の大燈ろう、日野大念仏(巨大な鉦と太鼓)のことで、フラホとは旗竿のこと。オランダ語のフラグがなまったものらしい。明治24年に滋賀県側で切り出した大木を、峠を越えて1年がかりで田光へ搬入。昭和12年ごろまで、長さ37mの竿に広さ28畳の日の丸を掲揚したが、固定が出来なくなって出番がなくなった。

本書の記事のいくつかは、菰野町発行の『歴史こばなし』と重複している。四日市市立図書館にて閲覧した。(作成 2002-09-16)

  • 藤原町史

  • 編纂者:藤原町町史編纂委員会
  • 発行:藤原町
  • 1992(H04) 1184p 書誌
  • WARP

第二章「藤原町の自然」に、藤原岳だけでなく御池岳の元池、真の池の写真もある。「洞穴」の項は「篠立の風穴」など多数あり興味深い。

第十一章「宗教」に多数の寺社の掲載がある。永明山長楽寺の縁起に「当山の峯を狗留孫と号づけ嶽の尾を仏の尾と称し」とある。現在、「狗留孫岳」と呼称されるところ。鞍掛峠は龍華越えとも呼ばれたが、龍華山善長寺に「龍華の地名は往古、真言宗龍華寺があったところから出た」とあるのみ。山岳信仰の記載は僅かに二行(山岳信仰・御嶽信仰、石像伝説、天狗・しな皮の神)しかない。

この町史には伝承・民話の資料がなく残念。

いなべ市の「いなべ市郷土資料」で閲覧したが削除されている。しかし、何故かデジタルブック版は残っている。また、pdf版をWARP収集資料(例えば 2017.05.15)で閲覧できる。国立国会図書館にも同様の資料がある。(作成 2019-07-01、更新 2022-07-20)

多賀町史は別巻のみ電子化(添付の小字地図6枚を除く)され閲覧できる。別巻は史料を編集したものとのこと。

本書は後半の約六割が古文書関係。前半部に、脇ヶ畑村の過疎(p151)や小字名に使われる名称や町内小字名の一覧(p233)がある。

多賀町立博物館にて閲覧した。国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できる。(作成 2021-09-16)

  • 北勢町史

  • 編者:北勢町町史編さん委員会
  • 発行:北勢町
  • 2000(H12) 867p 書誌
  • WARP

第四章第七節「治田鉱山」で、鉱山稼業の盛衰、銀・銅の精錬方法など詳細に述べている。

また、同第五節「道と水運」では、養老山地の山越えを監視する裏山番所九ヶ所について、簡単ながら説明がある。北勢町風土記と同様に読みやすい町史だ。

いなべ市の「いなべ市郷土資料」で閲覧したが削除されている。しかし、何故かデジタルブック版は残っている。また、pdf版をWARP収集資料(例:2017.05.15)で閲覧できる。国立国会図書館にも同様の資料がある。(作成 2019-07-01)

  • ふるさと鎌掛の歴史

  • 著者:瀬川欣一
  • 発行:鎌掛の歴史を学ぶ会
  • 2000(H12) 書誌

滋賀県日野町鎌掛の歴史を話題毎に記載している。2000年に2巻構成で出版されており、2005年には著者の遺構が第三巻として出版された。 概要がサンライズ出版の内容紹介にある。

鈴鹿山脈関係で目を引くのは「神と仏の山だった小岳」。山王権現が祀られていたが、何かの不都合があり麓の村々に別れて祀られることになった。

「神の山、宝殿ヶ岳」では天津彦根命が宝殿ヶ岳に天下ったと『蒲生旧跡考』にあるとのこと。綿向神社の弟神ではある。地元では地形図に記載された「猪の鼻ガ岳」の名称は使われていない。また、東にある尖った山・砥山(とやま)は砥石を拾ったことから砥石山ともいい、『蒲生旧跡考』には厨頭冠山(くりやずかやま)とも。宝殿ヶ岳の東側には馬越という峠があり、山伏が行き交った道だったとのことだ。

2022年には別に編集者を置いて第四巻が出版されている。大岩や池、滝などの旧地名があるが第三巻と重複していたりする。

日野町立図書館で閲覧した。(作成 2024-05-08)

  • 山本の昔いま

  • 編集:山本町郷土史研究会
  • 発行:山本町郷土史研究会
  • 2003(H15) 161p B5 書誌

入道ヶ岳の山麓、鈴鹿市・山本の町民編集による郷土史。入道ヶ岳との関わり合いも大きなテーマとして取り上げられている。特に、明治の国有地払い下げによる山頂付近の土地の落札者と中腹の入会山の所有者・山本村との間で発生した境界線紛争は、終戦の直前まで続いた40年裁判として記録されている。

  • 第一章 山本のうつりかわり
  • 第二章 椿大神社の歴史
  • 第三章 清岸寺と消えていった寺々
  • 第四章 山本を襲った試練
  • 第五章 山本の仕事と産業
  • 第六章 豊かな山本への挑戦
  • 第七章 山本を大きく変えた出来事
  • 第八章 山本の昔の生活
  • 第九章 山本に息づいてきた文化や行事
  • 第十章 想い出
  • 付録一 入道ヶ嶽四十年裁判の記録
  • 付録二 入道ヶ岳の自然
  • 付録三 関連事項略年表

平成15年、椿大神社の社務所にて購入。(作成 2003-06-01)

  • 甲賀市史

  • 編者:甲賀市史編さん委員会
  • 発行:甲賀市
  • 2007-2016(H19-H28)

全八巻。地理関係は第八巻の「甲賀市辞典」に市内全域の大字の記述があるが、甲賀郡誌から後退している印象。宮越山の名称が臆面もなく使用されている。

気になった記述は、鮎河:「木地師の伝承や集落跡が伝わる…鰔川の上流の『親王の森』には集落跡もあり」(P81)とある。第六卷に「鮎河の木地屋」(P252)や大河原の木地村などあり。

黒滝:「野洲川支流の田村川(黒滝川)の源流域に位置し、かつては鈴鹿稜線上の地蔵ヶ平(じぞうがひら)峠を経て亀山市の池山に」とある。この峠は稜線上の何処にあったのか。甲賀郡誌の字名一覧の黒滝に地蔵峠があるが。(P84)

山中:甲賀町神との境にあるぶな尾山(四五四メートル)について、近江国甲賀郡村誌は「枸尾(ぶなお)山」と記し「秋気晴朗ノ日ニ至レハ富士嶽ヲ雲間ニ望ム」とその眺望を特筆すると書かれているが、余りにも非現実的だ。問題の山からだと、富士山は安楽峠付近の山に隠されてしまう。枸尾山は何処にあるのか。(P89)

土山図書館で閲覧した。(作成 2023-10-23)

  • 亀山市史

電子版として編集され、インターネットで閲覧できる。ただし、まともな目次がないのでリンクをクリックして探し回ることになる。

地誌関係は、何故か歴史分野 > 近代・現在のページ > 亀山の地誌にある。しかし、外部資料へ丸投げするリンクがあるだけ。亀山市歴史博物館収蔵の資料などは閲覧不能のようだ。

電子版の亀山町史は既に技術的に古いポンコツになっており、資料の閲覧は小さな窓から覗き見るような具合だ。科研費をつぎ込んで(yaaさんの宮都研究:IT市史亀山市史公開の条)作成された鈴鹿関の動画は、shockwaveのプラグインが廃止(2019)され、亀山市史の発行後に僅か8年で閲覧できなくなった。(その後、何時の間にか当該動画はmp4に変換されて閲覧可能になっている。)また、画像はかなりのものが閲覧不能になっている。なお、美術工芸編は書籍になっている。 (作成 2023-10-20、更新 2025-02-26)

  • ふるさと千種

  • 編集:ふるさと千種編集員会
  • 発行:千種地区区長会
  • 2019(R01) 書誌

第1章「千種の自然と文化」、第二章「各地区の歴史と民俗」の構成で、第二章に千種・音羽など七地区の話題が多数ある。興味を持ったものを幾つか、

鈴鹿山地と花崗岩地形:ハト峰はスマ(須摩)山とも呼ばれる。スマ山は花崗岩が風化して砕け、砂礫状になった山の地元での呼び方。千種地区共有地のシンボル的な山。

入会地から財産区へ:千種財産区管理会、鳥居道山財産組合、須摩山財産組合の成り立ちなどがある。

千種陸軍演習場・廠舎跡:菰野富士の名称は陸軍が付けたのもの。江戸時代には千種村からは「傘ヶ立(さんげだち、しゃがだち)」、菰野村からは「三郷立(さんごうたち、しゃがたち)」と呼ばれた。

山を巡る争い(山論)と国見岳の境界石:昔の境界争いの場として「みたき山」の名称がある。昭和27年4月30日、千種村村長と菰野町長の斡旋で、千種財産区、鳥居道山財産組合と菰野財産区が協議の上、国見岳頂上を見通した線上の巨岩二ヶ所に「界」の字を刻み、その北側を千種地、南側を菰野地として長い争いに決着をつけた。

音羽の嶽まいり:音羽の人は古くから、みたけ山(御嶽山、三滝山、鳥居道山、現在の国見嶽)を我が故郷の象徴としてあがめてきた。千種の集落の西にある猫正山(通称髙山)の中腹、標高210mくらいのところに鷺の湯温泉があったなど。P179に「ねこまさ」とふりがながある。

他に、鷺の湯温泉跡、御池鉱山跡(写真あり)、冠峰山三嶽寺廃寺跡と嶽不動、千種の"しゃごさん"、岡のなぜ医者矢田勘太郎(安政四年生)など。菰野町図書館にて閲覧した。(作成 2024-07-04)