相聞 ROUND3
本歌 よもすがら 物思ふ比(ころ)は 明けやらぬ 閨のひきさへ つれなかりけり (俊恵法師)
作品No.13 よもすがら 物思ふ比(ころ)は あげやらぬ 風邪のひきさへ つれなかりけり (近藤朝臣)
現代語訳 ボーッとして夜通しいとしい人のことを思って物思いをしていると、突然キツネがあらわれてきたが、そのキツネに揚げをあげなかったことだ。(登山の装備、非常食にミカンを持ってきていなかったのは愚かで残念であったが、普通、登山の入門書にもマニュアルにも非常食には油揚げがよいとは書いていない。[ミルキーとあんぱんは必携品であることは書かれずともいうまでもない。それはパロディー歌人には常識と言わねばならぬ]、だから、まず油揚はもってこんわなあ)。早く夜が明けてくれればよいと思うが、揚げもやらず、夜もあけてくれない(※)。風邪を引いていることまでが、つれなく思われることよ。
※後世の注釈者の無茶苦茶古文法講座−−「あげやらぬ」を「あけやらぬ」と掛けた言葉で一般に掛け(かけ)詞とも思われるが、厳密にいうならば、掛け詞にもいろいろあることに留意されたい。実は「かげ詞」と「がけ詞」の2種類が掛け詞もどきとしてあるのである。この歌の場合、厳密にいうならば「げ」と「け」とわずかに違う。こうした場合は「がけ詞」と解釈しうる。「け」が先にあり、「げ」の意味であとに掛けるとするならば、そうした場合は「かげ詞」という。無茶苦茶古文法も奥が深いことよ。
管理人解説 引き続き躁・・・いやノーテンキ状況の作品である。生きたお稲荷様に油揚を与えなかった事は正解である。野生動物に餌付けすることは慎まねばならない。確かに油揚もキツネの好物であるが、ネズテンは更に効力があり劫を経た九尾のキツネもころりと参る。一度キツネに化かされてみたいが、私にはネズテンを作る勇気が無い。ネズテンをご存知ない?ネズミのテンプラです。
あげやらぬが「かげ詞」・・・ノーテンキも重症です。「明けやらぬ」と「揚げやらぬ」はカナで書けばたった濁点一つの違いだが、意味は反宇宙的に違う。そこに日本語の曖昧さとパロディーの面白さがあるのだが、そこを面白いと思うかくだらないと思うかはその人の持って生まれた感性による。
本歌 なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな (西行法師)
作品No.14 なげけとて すぐには来ないと 思はする かっこつけたがる わが君だから (柳澤郎女)
現代語訳 キツネと遊んだりして、ごまかして! ハナズルズルが直るまでは、あのお方は絶対に来ては下さらないわ シャワー、朝シャン、髭剃りして、お召し物のセンスも一流で バッシと決めてからでないとダメなんだからー 私はカッコより中身を愛しているのに、そーいうことがお解り頂くまでにはまだ遠い道のりのようね
管理人解説 本歌の「かこち顔なる」とは「かこつけがましくする」と言う意味。それが分からないと見事な置き換えが分からない。その辺を書いてないところが奥ゆかしい。それにしても山で シャワー、朝シャン、髭剃りができるのでしょうか。ダンディー朝臣のことだから油揚げは持たずとも洗面用具を持参してるかも。
本歌 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに あはむとぞおもふ (崇徳院)
作品No.15 せきはやみ こころせかるる はなみずの 垂れてもすぐに あはむとぞおもふ (近藤朝臣)
現代語訳 咳はもう止み 少し楽になってきたことよ。はやくはやく、おめにかかりたいという心にせかされています。こんなにハナミズがズルズルと垂れたままでも、夜が明けたら帰路を見つけ出して、一刻もばやぐお逢いじだびものでず。
後世の注釈者−この美しい?相聞歌の世界に、「ネズテン」などという無粋なものをだしてきたことは理解に苦しむ。しかし、「ネズテン」の効果なのか、それに比すれば「ハナズルズル」の世界は、歌としてはギリギリのところで救われていて、美しく響きさえする。たとえこの作者のティッシュなどなくなっていたとしても。
管理人解説 このように一句一句の詞が本歌に対応している作品を見るとパロディー歌人としては嬉しくなってくる。崇徳院の本歌下二句はゴロがいいので無限のバリエーションが作れそうである。読者諸姉、諸兄も挑戦されたい。
管理人の曾孫 来年度から近藤朝臣--柳澤郎女の相聞が高校の教科書に採用される事になった。ところが動物愛護協会員で文芸評論家の近藤某と言う人物から、解説の「ねずみのてんぷら」に対するクレームがついたため教科書検定委員会で現在審議中となっている。
当時解説を書いた私の曽祖父は50年前にバナナの皮で滑って死んだが、何のために「ネズテン」の話など持ち出したかは不明。何の取り柄も無い人だったが、くだらない事だけは良く知っていたようである。
近藤某と言う評論家は最近「ハナズルズルの世界は美しく響きさえする」という奇怪な解釈を発表している。その特異な審美眼から、60年前にアンパンの食べすぎで死んだ近藤朝臣こと御池杣人の子孫である可能性を捨てきれないのである(本人は否定)。
なお、現日展審査委員の柳沢画伯は郎女直系であるが、審査をサボって山ばかり行っているためその地位は危ういものとなっている。
本歌 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり (藤原基俊)
作品No.16 契りおきし お言葉だけが 命にて あはれこの日も 一人でいぬめり (柳澤郎女)
現代語訳 「身を尽くしても 逢はむとぞ思ふ」 そのお言葉だけで 私はずーとお待ち出来るのです
管理人解説 うまい!本歌に対応しながら返歌としての調和がとれている。郎女の返歌の中で一番の出来と思われる。あみんというデュオが「私待つわ〜 いつまでも待つわ〜♪」と歌っていたのを思い出す。
そしてシンプルな現代語訳の中に、恋する女の一途さと情念が込められているのである。多弁を弄するよりもこのほうが朝臣にかかるプレッシャーは大きいのではないだろうか。
本歌 明ぬれば くるるものとは しりながら なをうらめしき あさぼらけかな (藤原道信朝臣)
作品No.17 明ぬれば 垂るるものとは しりながら やはりうれしき あさぼらけかな (近藤朝臣)
現代語訳 夜が明けると 冷え込みのきつさから ハナがいっそう垂れてくることは知りながらも ズルズル やっぱりうれじいものだなあ、帰り道を探じ出ぜばいよいよあなだに会える ごの明げ方ば ズルズル
後世の注釈者 御池杣人は、40代から50代にかけて一連の御池岳やぶこぎ讃歌を執筆していたことはご存じの方も多かろう。しかし、氏がアンパンの食べ過ぎで死ぬ以前(一説にはカツサンドと脱脂粉乳の食べ過ぎ、飲み過ぎともいわれるが真相は不明)、本職の方で執念を燃やして執筆した迷著に、『二本バナ少年はどこ行った−学童期の復権のために』があることはあまり知られていない。
決して豊かではなかったけれど、ギャングエイジを満喫できた輝かしき昭和30年代の子どもの世界を、あのズルズル垂れ下がっていた少年たちの生活・遊びにおける二本バナに象徴させて、その二本バナ少年たちが急速に消失していった高度成長期以降、少年・少女期が、果たして豊かなものか、幸せなのか、そんな課題意識のもとに書かれた本である。この間のこの柳澤郎女との相聞にみるズルズルへの過度の執着は、すでにこの頃から『ニホンバナ少年はどこへ行った』執筆に連なるものが内側から醸成されていたと解釈できよう。
管理人解説 なぜ作者はハナミズに対していつまでも拘泥するのか、なにかハナミズに対する思い入れがあるのか・・・と思っていたら、原点は二本バナ少年の世界にあったことが判明した。
書いてもいない著書を後世の人の口を借りて発表したことは、退路を断って自分を追い込む背水の陣と見た。名著であらんことを祈ろう。
本歌 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも (鎌倉右大臣)
作品No.18 わが君は 常にもがもが 解説こく あまりの言葉の わからないでかなしも (柳澤郎女)
現代語訳 「かげ詞」と「がけ詞」とおっしゃったかと思うと、今度は「二本バナ少年はどこへ行った・・」と来たのですね。 実は私も、そーゆーの大好きなんです。 まず「かけ詞」の下に「かげ詞」と「がけ詞」があるとの説、私はそれに「やけ詞」というのを、「かけ詞」とやや同格にあると新説を立てたい。 これを図式化すると
|--かけ詞--
| |--かげ詞
| |--がけ詞
|
|--やけ詞
「やけ詞」ってなに?・・・やけくそにかける詞です
「二本バナ少年・・」こそ、私の目指している「大人の童話」と希求するところが同方向のようです
何それ?
これは大人が読むと、はるか昔に忘れていた麗しい幼少の頃の記憶が、鮮やかに目に浮かんできて、心がとても純粋になれるという物語です
まだ、会心の作は出来ていないのですが、期待して下さっていいと思います
私の世界は、美しいメロディと風景に彩られていて、誰もがうっとりとしイキイキとすること間違いなしです
管理人解説 朝臣が妙ちくりんな道草ばかり食っているので、ついに郎女もやけくそになってミルキーあんぱん風の歌をぶつけてきたようである。しかも五句はとんでもない字余り。このあたりやけくその感じが良く出ている。「解説こく」とは私の「寝言こく」よりすごい日本語である。
そしてこちらも未完成の自著に対して自信に満ちまくったコメントは、やはり躁状態か?
もはや お二人とも私の手におえなくなってきたので放し飼いにしておきましょう。ROUND4の展開に乞う御期待!