相聞  ROUND8 

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本歌    あらざらむ この世の外の 思出に いまひとたびの 逢うこともがな   (和泉式部) 

作品No.43 あま去らむ この夜ノタノの 思出よ いまひとっ飛びに 逢うこともがな    (近藤朝臣)

現代語訳  郎女様は去っていかれたようだ。病んでおられると聞く。こうしてこの夜、余は茨川の大樹に、豪州のこあらとやらのように抱きつきながら、しみじみと遠い日の山吟行を思い出すことよ。丁字尾根から御池岳奥の平、土倉の尾根、美しい霧に包まれた吟行。特にノタノ坂から茨川へ下る秋の道は絶品であった。郎女様の魂もあの行路を同行していたのだ。ああ、余に翼があらば、ひとっ飛びに治田峠を越えて、お逢いできるかもしれぬのに。お逢いしたいものよ。

注) この和泉式部の切々たる歌を、かつて余は黒ちゃん麻呂改め怪傑葉里麻呂の鈴鹿百人一首のおたんちんぶりに触発され、「あらざらむ」を「あら、足らん」とやってしまった。しかし、やはり和泉式部のこの歌は切々たる精神的世界であり、そこに少しでも通じるものをという思いはあった。だから今回の作となった。中河与一の小説『天の夕顔』は、確か全編にわたってこの和泉式部の歌がつらぬかれていたような。

管理人解説  第一句「あま去らむ」は切れ味鋭い。大学の方でちゃんと仕事をしているのかと危ぶまれるほどの出来である。鈴鹿百人一首史上、名句の一つとして記憶しておこう。歌全体としても現在の心情を吐露していて味わい深いものとなっている。
 もしも翼があったならという切実な願いは人類積年の夢であるが、未だに個人が簡便に飛行できる術はない。しかし人間は満たされない欲求こそが生きるエネルギーになるのであって、二本足でドタドタ歩いているくらいがちょうどいいのである。朝臣も「郎女様にお会いしたい」と言う願いが糧となって、未だに餓死することなく歌を詠んでいられるのだろう。

 耽美(たんび)的な作品で戦前の文壇に足跡を残した作家中河与一の恋愛小説「天の夕顔」はベストセラーとなり戦後、六か国語に翻訳され、アルベール・カミュから激賞された。


本歌     夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く   (大納言経信)

作品No.44 夕されば 樹林の回廊 訪れて 女(あま)や麻呂やと 秋風になる     (柳澤郎女)

現代語訳   朝臣さまにお逢いしたい一念が、私に不思議な力を会得させました。 それは夜な夜な「樹林の回廊」を訪れて、「バック・トウ・ザ・フューチャー」と呪文をとなえると、わが身から魂だけが遊離して、時空を超えて朝臣さまのところに飛んでいけるのでございます。 この間も、ぶなの尾根に朝臣さまと女さまや麻呂さまたちが楽しく集っておいでの時は、私の魂も一緒に浮遊していたのでございます。 朝臣さまが、ぶなに抱きつかれている時は、私がぶなにすり替わって仕舞いたいと思ったものでございます。瞬時に空間移動する技法はブラウン博士はとっくに完成しているのですが、私の方がバージョンアップを怠っておりまして、ぶなとすり替ることが出来なかったのでございます。 私も常々技法を磨いて、最新のバージョウンアップをしておけば、魂だけでなくこの身も時空を飛んで、過去だけでなく未来へも自由に行けるのにとつくづく思ったものでございます。 私たちは一体今、何次元の世界に生きているのでございましょうか。 この間、巴菜女さまが朝臣さまの歌の門下生となられたことも知っております。朝臣さまはもがもが申すことがとても得意でございますので、喜ばしい事でございますが、何しろ今はひもじさに耐えておられるはず。にも拘らず精神だけは高く保たれておられるのは見上げた処でございまして、私は愛してやまないのでございます。 巴菜女さま、授業料はどうか食料で払って差し上げて下さいませ。 また歌の宗家であられます葉里麻呂さまが、新たに歌を編まれたので、 [葉里麻呂さまの今回の歌はまた一層ズッコケに磨きが掛かって極限の域に達しておられる。このような境地はいかなる心理状態なるや?。私の知る処では太宰治の「人間失格」に匹敵するように思われるのですが、そは深読みし過ぎなるやしらん]。 ともあれ朝臣さまは其方の方でも、もがもが活躍さていてお元気なお姿を拝見できるのでございます。 さて!今宵は何処にひとっ飛びに参りましょうか。

管理人解説    魂だけが遊離して別の場所に移動する事を幽体離脱と言う。一般に死後に起こるとされているが、生存中にもその現象が起こりうる事を示唆する記述が聖書にある。

 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。 (「コロサイの信徒への手紙」第2章5節)

 この相聞シリーズも時代考証という概念はなく、主人公と作者の境界も曖昧である。支離滅裂と言う事も出来るが、アインシュタインの相対性理論や「人間失格」の主人公葉蔵と太宰の境界が分かちがたいと言うこと等を考えると決してデタラメではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にデロリアン号というタイムマシンが登場するが、筆者もタイムマシンの製作を試みた事がある。 誘導コイルの中におたまじゃくしを入れ、特殊なパルス電流を流して一瞬にしてカエルにする計算だったが、何としたことか足すら生えなかった。しかし理論的には可能なはずである、たぶん。
 筆者のズッコケ歌が、「人間失格」に匹敵するとは何の事だろう。あのようなアンポンタンな歌を作っているようでは人間としての資質が問われると言う事だろうか。或いは都合よく解釈すれば、主人公が道化の仮面の裏に深い懊悩を持っていたことに例えられたのだろうか。まあ、前者であろう。
 巴菜女は御池岳がいたくお気に入りの様子だから朝臣に食料を差し入れる展開は無きにしも非ず。しかし二重遭難になるような気がするなあ。
 「芦のまろやに」→「あまや麻呂やと」の置き換えは見事。「秋風になる」も魂として参加している事が爽やかに表現されていて良い。そして現代語訳もなかなかオチャメになってきて喜ばしい事である。


本歌    秋風に たなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ (左京太夫顕輔)

作品No.45 秋風に なりゆく妹のたよりより  もれ出づる月の影のさやけさ  (近藤朝臣)

現代語訳  かの霧の丁字尾根吟行を魂が同行していた人は、秋風となっているのかも。そうか、そうならばあの月は秋風になりゆく人の便りからもれ出て輝き、こうして余のところまで届いているのだろうか。なんという澄みきった明るさであろう。
(注)不思議である。茨川のしんとした夜、大木にもたれていると考える。一方で月を見ては、かような歌を浮かべつつ郎女様を想う。同時に空腹の波が押し寄せてくると、何年か前の晩秋、幸助の池真昼の宴を思い出す。東池でただひとりしみじみとあんぱん・かっぷぬーどるとやらを食しながら、静寂のただなかで晩秋を味わったのち、幸助の池までふらふらと行けば、太郎麻呂氏と近江左近氏が宴会のさなか。「杣人殿とかかる場所であったも何かの縁、食していかれよ」と二人のおすすめ。キムチ味噌鍋に近江地鶏、豆腐、うどん、おじや、命の水。近江側の山の道標が不備であると精力的に道標整備に心しておられる近江左近氏のザックから登場するごちそうの数々。あの幸助の池の美とともに、うまかったなあ、もう一度食べてみたいなあ。そんなことも思い浮かべてしまうことよ。

管理人解説  本歌を作った左京太夫顕輔はなんというロマンチストだろう。下の句などはちょっと涙がちょちょぎれそうである。杣人氏の作品は妹(いも)という言葉を使ったことが古式ゆかしくて格調高い。
 煌々とした月明かりに照らされる茨川の夜はネオンに害された都会の夜の対極にあり、その風情も格別だろう。目を閉じてその様を思い浮かべればベートーベンのピアノソナタ「月光」が聞こえてくるのである。 ああ、それなのにそれなのにキムチ味噌鍋が登場するのが杣人氏らしい。まあ、月の光なんぞ腹の足しにはなりませんわなあ。あなたのキムチがよく分かる。


本歌  思ひわび さてもいのちは あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり   (道因法師)     

作品No.46 思ひわび さてもいのちは あるものを 浮きにたえるは 魂なりけり   (柳澤郎女)

   注) 浮きに「たえる」は は「耐える」と「絶える」のカケカケ詞でございます  

現代語訳   朝臣さまを思い嘆き悲しんで、この身は臥したままでございます。けれど魂だけは地球の引力というものを超越しているものですから、「バック・トウ・ザ・フユーチャー」なのでございます。 この間もキムチの良い香り立ち込める池のあたりをマヨマヨして、楽しいひと時を過ごしていたのでございます。 でも、この身は今にも命のともし火が、消えてしまうのでは無いかしらと思う程、衰弱しているのでございます。いかに魂とて生身あっての「たま」でありますゆえ、命のともし火が絶え絶えであることを、朝臣さまにどのようにお伝えしたらよろしいのでしょうか・・・・・・ と、これ位申しましても、お帰り下さらないご気性は良く存じております。

管理人解説    魂になってさまようというと円楽あたりが得意とする古典落語「悋気の火の玉」を連想してしまう。郎女の火の玉に煙草の火を点けてもらえばさぞ美味いだろう。
 浮きにたえる、つまり重力の影響を受けないということは魂に質量が無いことの証明になる。科学的解明はさておいて、労せずして山に登れる事になる。登山者はこれをどう受け取るか。ロープウェイのお客に見下ろされながら汗水垂らして登る登山者気質からすれば、やっぱしつまらんと言うことになるだろう。
 しかし郎女の魂の目的は登山ではなく、朝臣の安否だ。恋心のパワーが推進力となって魂を自在に移動させられるのか。でもせっかく飛べるのなら鈴鹿の航空写真を撮ってもらいたいなあ・・・などと支離滅裂でとりとめの無い空想をするのであった。


本歌    きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねん (後京極摂政太政大臣)

作品No.47 ぎりぎりです 吾悔しこの夜の さみしさに こころ悲しき ひとり屁も出ぬ   (近藤朝臣)

現代語訳  もう余も疲労と空腹でぎりぎりのところのようだ。まだ夜は明けぬ、なんという悔しいことよ。こころが弱気になり悲しくなって、もはやこの廃村にただ一人寂しくポツンといて、屁さえ出ないことだ。

後世の注釈者  杣人の錯乱状態はぎりぎりきところまできているようだ。歌人『サラダ記念日』タワラマチ流の「ぎりぎりです」なんて現代風の初句から急に古典調?の吾(あ)へと。さらにはこの嘆息とも解釈できる歌には、前歌にて「今ひとっとびに会うこともがな」と飛んででも逢いにいきたい、だけど僕には翼がないとまで嘆き悲しんでいるのに、「命絶え絶えと申しても〜お帰り下さらないご気性」などという郎女の風の便りを聞くにつれ、精神も落ち込んでいる様子がうかがえる。
 そんな中にあっても、結びの「ひとり屁も出ぬ」には、葉里麻呂の「嵐吹く→お尻拭く」の歌の香りだけでなく、当時杣人が好きであった尾崎放哉「せきをしてもひとり」や、それをうけての山頭火の「烏ないてわたしもひとり」の自由律俳句の影もみられるのはまだ「ぎりぎりです」というよりも少しく余裕すら感じられる歌となっているようだ。
 尚、「あらざらむ〜」という和泉式部の歌は『天の夕顔』の主題ではなかった。杣人のミスである。『天の夕顔』の冒頭は和泉式部の切々たる恋の歌ではあるが、以下の歌だ。「つれづれと 空ぞ見らるる 思う人 天下り来む ものならなくに」
 偶然か、天から愛しい人が下ってくるのではないのに、空を見上げてしまうというこの歌とこの相聞のたどり着きつつある状況はなんと似ていることだろう。ついでながら「天下り」とはこんな美しい意であるのに、この言葉を汚している現代の一部の破廉恥さも指摘しておきたい。

管理人解説  本歌(後京極摂政太政大臣)の現代語訳は次の通り

 こおろぎが軒端近く鳴いている霜夜の寒いむしろの上で私は自分の衣だけを片敷いて、たった一人で寝るのであろうか。わびしいことだなあ。

 これを読むと筆者の憧れる、公園でビニールシートやダンボールのお住まいで寝ている自由人の方々を連想するのである。しかし仮にも従一位の摂政太政大臣が不況の影響でむしろの上に寝ているのでもあるまい。この歌は「足引きの〜夜をかもねん」を手本にした恋歌なのである。すでによく朝臣の状況を反映した原作である。
 さて替え歌の方であるが杣人氏の作風が遺憾なく発揮されていて、格調が高いのか低いのかよく分からない作品である。一句は和歌にしては変だが、切なく訴えてくるものがある。五句のような下ネタを相聞に使うとはけしからん(人のことは言えない)のであるが、何も食べないと腸内醗酵も起こらないという医学的根拠に基づいた表現ではある。幾分開き直りの感情も入っている。尾崎放哉も「屁をしてもひとり」と言い切るセンスは無かっただろう。もしあれば尾崎放屁と名乗ったかも知れぬ。「せきをしてもひとり」より「屁をしてもひとり」のほうが更にわびしい気がするのは筆者だけだろうか。


本歌    なげきつつ ひとりいる夜の あくる間は いかに久しき ものとかはしる 右大将道綱母)

作品No.48  なげきつつ ひとり臥す夜の 逢えぬ間は いかにさびしき ものとかは知る   (柳澤郎女)

現代語訳   本歌の右大将道綱母は、「蜻蛉日記」の作者として有名であります。 道綱の母は「蜻蛉日記」で夫藤原兼家の訪いを「待つ身」の苦悩と情愛を切々と綴っています。 その昔の女性の心情も、今の私の朝臣さまをお待ちする心情も、まったく同じでありますことは、 人を恋う気持ちはどれ程時が経ようとも、普遍的なものなのでございましょう。 あらためて「蜻蛉日記」を読んで見ましたら、一層その気持がわかるのでございます。 道綱の母は「あるかなきかの思いに漂ふ、かげろうのようなはかなき日記」と記しておりますが、 まこと、私も朝臣さまの面影がかげろうのように、ゆらゆら揺れて漂ふのでございます。

管理人解説   この作品はパロディーというよりも一つの独立した歌の如く完成度が高い。なかなかの名調子である。「ものとかは知る」は現代語では思い知ったというような意味に取れるが、「かは」は反語であり、どんなに寂しいものかあなたはご存知でしょうか・・・と言う意味である。かげろうのようなはかなき命ながら、郎女は燃える思いを朝臣に突きつけているのである。 しかし朝臣は「ぎりぎり」で屁も出ないようであるから、その思いを受けて立つだけの体力も無さそうである。


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