鈴鹿:鈴鹿越
東海道を関宿から土山宿まで歩いた。鈴鹿峠周辺の情報整理を兼ねて、物見遊山をしながら歩いた記録を残す。
また、2月1日に土山宿~水口宿と盆天山を歩いたので追記した。
- 登山日
- 2025年1月25日土曜日
- ルート
- 関駅-鈴鹿峠-土山地域市民センター
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鈴鹿峠の滋賀県側を歩いていないので、何時か歩こうと思っていた。坂下宿で出合った人に関宿~水口宿~貴生川駅を歩いていると聞いたことがあるが、自分は関宿を出発して何処まで歩けるだろうか。
関宿~土山宿の距離は4里6町、関宿~水口宿は6里31町、関宿~石部宿は10里7町。江戸時代の男性は一日に10里、女性は8里程度を歩いたが、結局、疲労と時間切れにより土山宿で諦めた。帰路は貴生川駅行きのコミュニティバスに乗車した。
旅行記を調べると、大田南畝の『改元紀行』(国立国会図書館)では関宿~石部宿、曲亭馬琴の『壬戍羇旅漫録』(国立国会図書館)では大雨の中を石薬師宿~水口宿を移動している。乗り物や人足を利用しているけれど。大田南畝は享和元年四月八日、新暦なら1801年5月20日。曲亭馬琴は同二年六月二十八日、1802年7月27日のこと。
利用した資料
利用した主な資料は次の二冊。前者は東海道の古いガイドブックだが、忠実に東海道を歩く気はないので道案内としては充分だろう。後者は江戸幕府が寛政年間(1789~1801)に作成した東海道の地図で、その復刻本を図書館で事前に閲覧した。印刷した地理院地図に予定ルートなどを記入して準備完了だ。
- 『東海道五十三次の事典』(国立国会図書館、要事前登録、以下『事典』)
- 『東海道分間延絵図』(国立東京博物館、以下『分間延絵図』)
地図の大きさ:600×150 600×500 説明:地図表示について
赤線:経路、:関駅、
:西の追分、
:鈴鹿馬子唄会館、
:鈴鹿峠自然の家、
:岩屋観音、
:古町の地蔵堂、
:鈴鹿峠・田村社跡、
:鳥居と常夜灯、
:熊野神社、
:十楽寺、
:馬子唄公園(公衆トイレ)、
:若宮神社石碑(猪鼻交差点)、
:火頭古神社、
:非人施行田碑、
:蟹塚、
:東海道伝馬館、
:土山地域市民センターバス停、
:東海自然歩道指導標(バンドウ山 1.1K)、
:高畑山登山口標識、
:御泉場、
:岩神社、
:盆天山
関宿
関駅を6:50に出発した。関宿の旅籠玉屋、地蔵院を見て西へ歩く。前方は『鈴鹿の山と谷』に「寒風」と名称がある山だ。

江戸時代の旅行者は旅籠を暁七ツの時刻に追い出されたらしい。この時期なら5時前の出発になるので、既に江戸時代の行程に2時間の遅れだ。「お江戸日本橋七ツ立ち … 夜明けて提灯消す」なのだが、関西線の始発電車を利用しても出発はこの時刻になった。
西の追分にある休憩所でトイレを利用する。休憩所は施錠されているが屋外トイレは使えた。この先は鈴鹿峠の万人講常夜燈にある公衆トイレまで心当たりがない。その次は国道の山中西交差点にある馬子唄公園の公衆トイレ。さらに田村神社と道の駅だが、道の駅は工事中で利用できない。なお『事典』には西の追分は刑場跡とある。よくあることだ。
暁七ツの出発で西の追分を出ると恵比寿岩などは暗くて見えないはずだが、それを大田南畝は恵比寿に良く似ていると『改元紀行』に書いた。江戸幕府の役人は早朝に宿を追い出されはしなかったか。(鈴鹿:筆捨山・大黒岩・恵比寿岩 2021-12-23)
西峯という山が『三国地誌』(国立国会図書館)で「一之瀬村にあり」とされている。その西ヶ峯や鈴鹿山、三高山を『鈴鹿関町史』(国立国会図書館、要事前登録)の図中に見つけたが、西峯が一之瀬村(市瀬)の地内にある山なら西峯=寒風かも知れない。なお、この図には片山神社と加太の間に道がある。何処で長峰を横断したのやら。同書の小字図にある兜谷か。
登山中なら男性は立ちションで何とかなるが、女性のお花摘みは大変らしい。遭遇すると爺さん vs 婆さんでも気まずい。曲亭馬琴の『壬戍羇旅漫録』には京都での「女児の立小便」という一節がある。これには大人も含まれるが、当時とは衣服の構造が違うので無理だろうなと思ったりする。
市瀬・沓掛
鈴鹿川を渡って市瀬集落に入る。『分間延絵図』には鈴鹿川の対岸に宮山や向山が書き込まれている。宮山は市瀬神社の旧跡がある場所だろう。向山は一番高い山か。

市瀬集落を通過すると国道の前方に筆捨山が見え、茶屋跡(藤ノ棚立場、四軒茶屋)に到着するが、現在はここから筆捨山が良く見えないので手前の農耕地へ下りたりする。一部に露岩が見えるが上部は単調な植林で、正面を送電線が通過するなど現状は風光明媚な山とは思えない。
将来、この筆捨山の手前を東西に国道一号関バイパスが通過するらしい。羽黒山と筆捨山南尾根をトンネルで通過し、西の沓掛で国道一号に合流する計画だ。閑古鳥が鳴いている国道を見るとバイパスの必要性を全く理解できないが、リニア新幹線の亀山駅が開業すれば状況は変わるだろうか。
険相な鈴鹿川を見下ろして弁天橋を渡り、南側に一里塚跡の標石を見る。楢の木集落から東海道に入らず、そのまま国道を歩くと東海自然歩道の指導標に「バンドウ山 1.1K」とある。諸戸林業の事務所がある場所のことだ。指導標が東海自然歩道でない何処かの山頂を案内するはずもない。

東海自然歩道の歩道橋へ上がると四方草山が良く見える。南峰と三角点、そして中部電力パワーグリッドの坂下反射板が山頂の直下にある。何時もは自動車の運転中なので四方草山をゆっくりと見る機会がない。歩道橋を下りたところで刈り込まれた農道へ入り込んだが、道が消えたのでヤブ漕ぎをした。思いのほか面倒で想定外。
ヤブ漕ぎで暑くなったので超泉寺前でヤッケを脱ぐ。前方に三子山を見ながら沓掛集落を歩けば亀山市長選挙のポスター掲示板に「神巫リエル」との若い女性候補者を見た。オォォーッと近づいて見ると小さく本名が書かれている。やはり芸名だよね。候補者は現職と神巫さんだけだった。
沓掛集落の西端にある鈴鹿馬子唄会館と鈴鹿峠自然の家に到着。鈴鹿馬子唄会館は営業時間前だが管理人が案内してくれたので入って一休み。トイレあり。展示されているのは荷物を背負った目付きが悪い馬の人形。鈴鹿馬子唄で「おさん女郎なら乗しよというた」馬っぽい。鈴鹿峠自然の家は坂下尋常高等小学校を利用したもの。なつかしい木造校舎が残されている。公開は宿泊利用だけなのが残念。敷地入口の左に屋外トイレあり。
既に太もも裏の下端付近に疲労感がある。ハイキングシューズでは靴底が固すぎるか。
坂下宿
河原谷橋を渡って坂下宿に入る。道路は広いが宿場の面影はない。鈴鹿峠を控えた大規模な宿場町だったが、これほどまでに寂れるものかと思う。餅菓子「志ら玉」を製造している前田屋製菓の前を通過するが営業しているところを見たことがない。関宿にある店はいつも開店しているけれど。

道路を歩くと右に三子山の一部が見えるが、緩く左にカーブするに従って高畑山が正面に見えてくる。『分間延絵図』はこれを「鈴鹿山」と書いている。その西側に「高畑山」も書かれており、鈴鹿山と高畑山は表裏の関係だ。
明治22年(1889)に東海道本線が全通した。翌年の明治23年には関西本線(柘植-四日市)が開通しており、これ以降の坂下宿は旅行者が激減したはずだ。
明治34年(1901)に大阪の中学生たちが富士山を無銭旅行した往復記録『学生無銭徒歩旅行』(国立国会図書館、要事前登録)を見つけた。この連中のやり口は町長宅、村長宅に押しかけて一夜の宿を請うもの。栗東市小柿を出発して坂下宿に午後八時過ぎに到着し、村長松井與三吉宅を尋ねたところ木賃宿・蔦屋に放り込まれている。宿には順礼、貧僧、馬方、雲助(まだ仕事があったのか)、乞食……
集落西端の岩屋観音は陰気な雰囲気だ。撮影禁止とあり、東側には石像2体がある。承知していることを鈴鹿:霧ヶ岳・四方草山・三子山 2023-10-12の備考に残した。
『分間延絵図』には岩屋観音の南に「鷹ノ觜山」とあるがクチバシのような山は見当が付かない。北西には大きな山が三つ並んでおり「三ツ子山」と書かれている。四方草山に相当しそうなものは書かれていない。
岩屋観音から国道に出て、片山神社の石碑から狭い舗装道路へ入る。坂下の古町があったところに地蔵堂があるが、ここで腰が曲がり始めた老人が道路の掃き掃除をしてるので挨拶を交わした。岩屋観音の爺様かな。地蔵堂では線香が焚かれていた。
鈴鹿峠
到着した片山神社は平成11年(1999年)に放火で焼けてしまった。階段を登ると祠のようなものがあり、延享元年(1744)、勢州鈴鹿郡市野瀬村とある壊れた神湯釜が転がっている。
戻って鈴鹿峠の坂道を登る。片山神社前から鈴鹿峠までの標高差は僅かに80mほど。登り始めは『分間延絵図』に灯篭坂とある急坂だ。国道の巨大な「鏡大橋」の下を石畳やコンクリ舗装の道でジグザグに登り、コンクリ階段で国道の脇に出ると平坦な広場になっているが、ここは架橋前の旧道路だったのだろう。石段に変わると左に石製の四角い「馬の水のみ鉢」があるが導水パイプが壊れて水は涸れている。

間もなく広い道になって平坦な峠の頂上に達する。三重県側は植林だが、滋賀県側は茶畑になっており展望がある。『分間延絵図』には三重県側に鈴鹿坂之上立場とあり、田村社や茶屋が描かれている。片山神社に合祀された田村社跡には標石があるので、その周辺の茶屋跡と思われるところを歩いてみるが何が何やら。当時はどんな様子だったか。
大田南畝は祭礼の日に片山神社を通過しており、輿を下りて石段を登っている。その様子を『改元紀行』に書いた。
嘉永3年(1850)頃の坂下宿家並図が『鈴鹿関町史』にあり、鈴鹿峠には田村社の周辺に茶店など六戸がある。また、同書の明治初期の家並図にも同じ名称がある。このうち田村社の北側向かいの本陣茶屋・堺屋五右ヱ門の見取り図が『江戸建築叢話』(国立国会図書館)にある。座敷が四間あって三重県側に海が見えたらしい。
家並図には坂下宿に蔦屋伊三郎がある。前出の明治34年の木賃宿・蔦屋か。
宮内庁書陵部の明治とある写真帳に『勢州鈴鹿峠ノ景』があり、背後には峠道の柵らしいものが見える。現場では写真の場所を見つけられなかった。
大正13年(1924)に国道一号の鈴鹿トンネルが開通するまでは、信じられないが、こんな急坂でも自動車が通行した。『鈴鹿関町史』には、自動車が西へ向かうと坂下の人は峠へ見物に行き、立ち往生した自動車を頂上まで運んだとのこと。謝礼をもらい、子どもには峠の茶屋で菓子を買ってもらったなどとある。
鈴鹿峠の滋賀県側にある茶畑は大方が耕作放棄のようだ。背丈以上に伸びていたが、一部は刈り払われて展望が戻っている。少し歩くと巨大な石灯籠・万人講常夜燈がある。周辺には自動車が10台余。登山者のものだろう。ここの公衆トイレも良く管理されていた。
鈴鹿峠の様子を書いたものを探した。例えば、大正6年11月11日と思われる『鈴鹿峠より』(国立国会図書館)には、「峠の頂には山崎屋という一軒の掛茶屋」があって昼食をしたとある。前出の家並図には田村社の東隣に山崎屋が書き込まれており、敷地の東隅には石垣が残っていた。著者の鮫島近二は四日市の医師らしい。
荻原井泉水の『鈴鹿峠を越えて』(国立国会図書館)では、トンネンル工事のエンジンの音、ハッパの音を聞いて鈴鹿峠を越えている。牛車は往来していたが、既に峠の上に茶屋はなくなっている。大正11(1922)~13年(1924)のことと思われる。
北尾鐐之助の『鈴鹿越の関』(国立国会図書館、要事前登録)では、「鈴鹿峠の上の茶屋で甘い『ぜんざい』を食べた」とあるが、何時のことか書かれていない。
田部重治の『鈴鹿峠』(国立国会図書館、要事前登録)では、昭和18年3月に土山側から登っており、峠は草が茫々。伊勢側へ下ると新道に出たところに茶店があり、甘酒を注文して団子を買っている。戦時中のことだ。
山中
鈴鹿峠から土山宿までは一部を除いて初めて歩く。峠から国道に下りると建物が幾つかある。ここが沢の立場だろうか。喫茶店・美香には「ぜんざい」とあるが近年は自動車から見る限りでは営業している様子がない。以前はパトライトがチカチカしていた。『事典』には「銀鈴水」とあるが付近を探しても相応しいものは残っていない。
国道の東側歩道を北進すると、雑木林が終わったところに半ば埋まった鳥居と石灯籠がある。何処かで大河原の若宮神社の鳥居と読んだ記憶がある。石灯籠には「◯宮神社」とあるが私には読めない。近くにある大宮神社ではなさそうだが。若宮神社は商売繁盛の神様として信仰が厚いらしい。位置的に伊勢側から鈴鹿峠を越えてくる参詣者を迎えているのだろうが神社までは遠い。
『京・近江の峠』(国立国会図書館、要事前登録)が、鈴鹿峠を「若宮口で下車。峠はバス停から約500m三重県より」と案内しているので、この辺りに若宮口バス停があったのだろう。国道の地下横断歩道がある場所かと思う。草津~亀山間に路線バスがあった時代のことだ。
沢から進むと『分間延絵図』の復刻本解説篇に「峠を下って暫く行くと榎の東方に向羽根山(いま字名として向イ刎と書く)と駒返り山(いま駒返りの字名がある)が向い同士に並んで見える」とある。絵図に記載があるが、どの山なのか良く分からない。
その先では廃業して久しい「山賊茶屋」で屋根の修繕作業がされている。その手前の道路を南へ入ると「高畑山登山口 1:00h」の標識が残っていた。登山地図には記載がないルートだ。一時間は無理かと思うけれど。昔々、さらに奥で高畑山の標識が風に揺れてカラコロと音を立てていたが残ってはいない。当時は飼い犬がうるさくて、それ以上の詮索をしなかった。


山中交差点付近の集落が榎。『分間延絵図』には「字榎茶屋」とあって、南側に三社大明神や神応寺が書き込まれている。三社大明神は絵図作成後に同地で移転して、現在は熊野神社に改名している。
国道から熊野神社の参道へ入ると勧請縄があり、場内は掃かれて静謐さを保っている。平成とある石灯籠が並んでおり地元は資金を投入した様子だ。奥の駐車場に見えるオレンジ色のグループはハンターか。参道にはシカの糞が散らばっており獣害は深刻そう。

熊野神社の少し西側の国道から高畑山の写真を撮影した。中央右奥が高畑山の山頂、その左手前にある黒っぽい中央の山がP609m、右はエボシへ続く尾根上のピーク、左は県境尾根の630mほどのピークから北西に延びる尾根だ。
『分間延絵図』には榎茶屋の南に山が書かれており「杓尾山」とある。この杓尾山(ぶなおやま)は復刻本解説篇に「山中村の南にある山で高さ609メートル、西南の高畑山に連なる」とある。地形図の609mの独標だろうが、どのような調査をして比定したのか記載がない。見れば分かるレベルかも知れないが。
ところで『鈴鹿の山万能ガイド』(国立国会図書館書誌情報)に掲載された鈴鹿300山のリストにあるエボシに「ブナ尾山」と付記されているが何処から来たのだろう。エボシは山中の西にある454mの山で『鈴鹿の山と谷』に山名の記載がある。その後に出版された『甲賀市史』第八巻でも同様にこれを「ブナ尾山」としているが、この山から富士山が雲間に見えるという明治時代の文書からの引用は無理がありそうで、何処かに間違いがあるように思われる。
『分間延絵図』でエボシに相当しそうな山を探すと「字滝ノ谷山」や「字瀬ヶ谷山」があるが判然としない。前者は消滅した滝谷集落とは距離がありそうなので無関係か。
鈴鹿300山は「鈴鹿には宇曽利山は存在しない」の件で不信感がある。地名のネカトには賛同できない。この件はもう少し整理してみよう。

熊野神社からゆっくり下ると南側に国土交通省スノーステーションの看板が見え、前方にエボシが見えるようになるが直ぐに前山に隠れた。風が強くなって寒い。
十楽寺を通過すると国道南側に「山中城址」の石碑があるが周辺は耕地でしかない。この道路側に山神があり、黒い焚き火跡があって背後の木には縄が残されていた。祭祀が続けられている。『分間延絵図』には東海道沿いに無数の山神が書き込まれており、ここにも朱い鳥居とともに山神とある。
鈴鹿馬子唄
山中西交差点の手前に鈴鹿馬子唄の石碑がある。
「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」だが、土山の位置が坂下と鈴鹿の間でないため「あいの土山」の解釈について、珍妙なものを含めて多数の説があった。案内板には「あいのう雨が降る」、すなわち北勢地方の言葉で「間もなく雨が降る」との解釈が例示されている。以前は聞かなかったが、すんなりと受け入れられる新説だ。
ここで防風対策バッチリのハイカーが後方から現れた。東海道を歩く人に出合ったのはこれだけ。四台分ほどの駐車場があり、新しい公衆トイレは有り難い。
猪鼻
猪鼻交差点の手前で若宮神社の立派な石碑を見つけた。裏面には「昭和二十七年五月三河講中」とある。岡崎市の石工によるものだ。

人の気配がない「やまびこドーム」の建物入口から高畑山とエボシ(右側)を撮影した。今日のところ、エボシは「烏帽子」らしくは見えなかった。
以前に訪ねた火頭古神社、やまびこドーム、非人施行田跡碑を徘徊した。火頭古神社の社務所南側の山神からは踏み跡が奥へ続いていた。奥の独標P363mへ行くのか。(鈴鹿:火頭子山 2023-12-20)
非人施行田跡の石碑は小さな自然石で道路舗装に埋まって「非人施行」までしか見えなくなっている。この石碑についてネットに情報が幾つかあったが、その後『むかしむかし近江の国に… : 自然・文物もの知り事典』(国立国会図書館、要事前登録)という滋賀県編集の本に「猪鼻の『非人施行田跡』の碑」という三行の文を見つけた。無名の人が猪鼻のお寺に田一反歩ほどを寄進して獲れた米を困った旅人に施し与えたと書かれているが、石碑の字面を説明できていない。『分間延絵図』には何かと書き込まれているが本件は記載なし。
蟹ヶ坂
猪鼻から国道の切り開きを通過すると南側に「蟹塚」の小さな立札を見つけた。国道を横断し、地道の林道を下って植林へ入ると直ぐに右側に再度の立て札がある。階段道で川を渡ると小さな五輪塔があった。国道から近い位置だ。
蟹ヶ坂集落の入口にある榎島神社の道路脇に石像二つがある。それそれ双体道祖神らしいが、前掛けが大き過ぎて像を見られない。あまり見掛けないのでちょっと残念。
蟹ヶ坂から緩く下ると田村川の対岸に並ぶ山が見える。『分間延絵図』には、東から西へ字尾巻山、字寺山、字冨士山、竜王山、五瀬山が並んでいる。田村神社の参道正面の尾巻山はゴルフ場になった。竜王山(鈴鹿:大沢竜王山 2019-03-24)の西斜面には朱色の鳥居とともに「龍王宮」の記載がある。
土山宿
海道橋を渡って田村神社。厄払いの神様だ。御守りの販売窓口には人だかりがあって巫女さんもいるね。爺さんだけど巫女さんフェチになったかも。国道へ出れば道の駅では新しい建物を建設中だ。どこかの設計事務所が公費を使って思いっきり遊びましたという感じの奇抜な構造物が組み立てられている。
土山宿は何度か歩いている。蕎麦屋へ入れば、遅い時刻だが食事可とのことで南蛮そばなど注文した。東海道の案内書が置いてあるので水口宿までの行程を思案する。店主の爺様に永雲寺の北の岩山について聞けば、大岩山、低い山だけれどと返ってきた。『分間延絵図』にも「字大岩」と書かれている。(鈴鹿:大岩山 2024-02-15)
足の疲労感が強く、水口まで歩けば真っ暗になるので土山宿でギブアップする。東海道伝馬館に立ち寄るなどして、土山地域市民センターで貴生川駅行きのバスを待った。このバス停からも大岩が見える。
物見遊山での歩行だったが、江戸時代の人の半分も歩けないのは残念至極。昨年末、同じハイキングシューズで23km(伊勢:朝熊ヶ岳 2024-12-07)を歩いたときは問題なかったけれど、ほぼ全行程が舗装路となると柔らかい靴底のものにすべきだったかも知れない。特にハムストリング下端など膝裏周辺に痛みがある。
関宿に自動車を置けば早朝出発が可能なので選択を迷ったが安楽な鉄道利用とした。運賃は四日市~関が510円、貴生川~四日市が990円、バスは250円で現金払いのみ。内容が煩雑になったが、忘れてしまうので分かりやすい所に主な資料を残した。
行程表
6:50 | 関駅、出発 |
8:32 | 鈴鹿馬子唄会館(8:32-8:44) |
9:51 | 鈴鹿峠・田村社跡(9:51-9:57) |
10:51 | 熊野神社 |
11:22 | 山中・馬子唄公園公衆トイレ(11:22-11:34) |
12:47 | 蟹塚 |
13:31 | 道の駅・あいの土山 |
13:54 | うかい屋(13:54-14:30) |
14:45 | 土山地域市民センターバス停 |
追記:2月1日 土曜日 土山宿から水口宿まで
目覚めると晴れている。慌てて出発したのでザックを自動車に積み忘れた。資料もスマホもないけれど何とかなる。水口の市営駐車場(1日150円)に自動車を置いて田村神社行きのバスに新町で乗車、近江土山で下車して土山宿の東海道伝馬館へ戻った。
東海道伝馬館の出発は11:05になった。前回の延長戦だ。水口宿まで歩いておきたい。
前野集落から市場集落へ入る頃に垂水頓宮御殿跡の案内板を見る。頓宮関係の施設があった場所らしい。交差点まで引き返して南進し、池田電装から西へ入ると御泉場の案内板があった。草のなかを下ると湧き水があるけれど飲めるような状態ではない。東海道伝馬館で入手した絵地図には、斎王の飲用として使われ神水として尊ばれたが、国道の建設工事などで水脈が変わり昔の面影はないとのこと。
安井酒造場の煙突を見て、大野交差点の歩道橋で国道を横断する。北は布引山、南は長坂山から愛宕山へ続く丘陵だ。大野西交差点で再び国道を横断して水口の地内へ入った。
岩神社の前まで来た。地蔵堂を見て階段を登ると小さな岩神社があり、その上に展望台がある。野州川を見下ろし、飯道山、油日岳、那須ヶ原山など見えるが鈴鹿峠は木が邪魔だ。付近にあった岩神は戦後に国道工事で開削されたとか。ここは鈴鹿山脈から布引山を経由して西へ続く丘陵地の末端だ。
前方に古城山が見え、三筋の町へ入ると時計がある休憩所(本水口バス停)に到着した。公衆トイレはあるだけで有り難い。杉玉が下がった笑四季酒造の前を通過し、三筋の町の出口にある石橋にて予定を終了した。
大田南畝は『改元紀行』の水口の項で「市中賑ひなし」と書いた。『事典』には三筋の町の中央はアーケードがある賑やかな商店街とある。『甲賀市史』第八巻には本町商店街の伴町から夷町には昭和39年から平成20年までアーケードがあったとのこと。今は大田南畝の時代に戻ったようだ。
三時間少々の行程を普段履きの靴で歩いたが、やはりヒザ裏周辺が少し傷む。爺さんの鍛え方が足りないということかな。
追記:盆天山
同日、自動車で「みなくち子どもの森」へ移動した。国道307号沿いの駐車場の北端付近から広い歩道を登り、二分するところで右へ入る。右側は切り開いた崖で、この切り開きがなくなって峠状になったところで南側の尾根に登って東進すると山頂のようだが三角点なし。
境界杭を見ながらササの尾根を戻って西進すると水利施設らしい筒状のタンクがあり、その西側に三角点や用途不明のコンクリ柱、南側に像高40cmくらいの石像(座像)が置いてあった。智拳印のように見えるが何の仏像か。古い感じはしない。盆天山245.8mも鈴鹿山脈から西へ延びる丘陵地の末端で三等三角点・虫生野がある。
歩道右側の切り開きがなくなったら直ぐにササの尾根に登って西進するのが正解だった。駐車場から往復30分足らずだ。
名前からして梵天かと思うけれど盆天山のことは資料が見つからない。『角川日本地名大辞典』に盆天山の項があるが内容は地理的なことばかりで山名の由来はない。
行程表
11:05 | 土山宿、東海道伝馬館を出発 |
12:00 | 御泉場 |
13:03 | 大野西交差点 |
14:00 | 三筋の町に入る。本水口バス停・休憩所あり |
14:21 | 石橋、三筋の町の出口 |