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平成の歌

 

昭和21年〜

目次

昭和21年 朝はどこから,かえり船,蛙の笛,悲しき竹笛,枯葉<Les Feuilles Mortes>,銀座セレナーデ,青春のパラダイス,世界をつなげ花の輪に,東京の花売娘,みかんの花咲く丘,リンゴの唄,若者よ,Les Feuilles Mortes

昭和22年 雨のオランダ坂,白鳥の歌,ズンドコ節(街の伊達男)[黒いソフトにマドロスくわえ],誰か夢なき,とんがり帽子,啼くな小鳩よ,泪の乾杯,星の流れに,港が見える丘,山小屋の灯,夢淡き東京,夢のお馬車,夜霧のブルース,夜のプラットホーム

昭和23年 憧れのハワイ航路,異国の丘,男一匹の歌,河は呼んでいる<L’eau Vive>,君待てども,小判鮫の唄,里の秋,さよならルンバ,三百六十五夜,東京の屋根の下,東京ブギウギ,とんぼのめがね,長崎のザボン売り,流れの旅路,懐かしのブルース,ビビディ・バビディ・ブー<Bibbidi-Bobbidi-Boo>フランチェスカの鐘,ブンガワン・ソロ,みどりのそよ風,湯の町エレジー,Bibbidi-Bobbidi-BooL’eau Vive

昭和24年 青い山脈,アメリカ通いの白い船,イヨマンテの夜,栄冠は君に輝く,おゝブレネリ,悲しき口笛,かりそめの恋,銀座カンカン娘,玄海ブルース,さくら貝の歌,三味線ブギウギ,月よりの使者,東京の青い空,長崎の鐘,夏の思い出,ハバロフスク小唄,薔薇を召しませ,べこの子うしの子,麗人草の歌

昭和25年 赤い靴のタンゴ,憧れの住む町,夜来香,越後獅子の唄,想い出のボレロ,買物ブギ,玄海灘の狼,桑港のチャイナ街,白い花の咲く頃,白い船のいる港,ダンスパーティの夜,東京キッド,トンコ節,べサメ・ムーチョ,星影の小径,水色のワルツ,民族独立行動隊の歌,山のかなたに,リオのポポ売り,私は街の子

 

朝はどこから(2012.7.18)

昭和21年,詞:森まさる,曲:橋本国彦,唄:岡本敦郎/安西愛子

 「朝はどこから来るかしら」と始め,いろいろ候補をだしておいて「いえいえそうではありませぬそれは希望の家庭から」と答えをいう歌。敗戦後,貧困ではあるが未来に希望を持って生きていこうという歌だ。

 全ては家庭から始まるというメッセージが前面に出ているが,「もはや戦後ではない」といわれるようになり経済成長が著しくなるとともにこの歌のメッセージは忘れられてしまったのではなかろうか。

 

かえり船(2012.8.15)

昭和21年,詞:清水みのる,曲:倉若晴生,唄:田端義夫

 「波の背の背に揺られて揺れて」と始まる歌。子供の頃は良く解らなかったが,「故国に着けば」とあるので引揚船だろう。戦争に負け,全てを放棄して命からがら引揚げてきた悲しみがメロディーにも現れているが,無事故国に着いた喜びもささやかながらじわっと伝わってくる。

 内地では生活できないため外地に行った人もいるだろうが結局は全て失った。外地での生活はどのようであったのだろうか。政府・軍の黒幕あるいは手先だったのだろうか,犠牲者だったのだろうか。

とりあえずご破算でほとんどの人が0からのスタート・・・というよりマイナスからのスタートだったが,それから30年ほどでJapan as No. 1というような本1)がでるまでに復興したのだ。その後の失われた20年はどこからやってきたのか。教育なのか制度なのか。

1) エズラ・F・ヴォーゲル(訳:広中和歌子,木本彰子):ジャパン・アズ・ナンバーワン(TBSブリタニカ,昭和54年)

 

蛙の笛(2014.2.9)

昭和21年,詞:斎藤信夫,曲:海沼實,唄:川田正子/川田孝子

 「月夜の田圃で コロロコロロ コロロコロコロなる笛は」と始まる歌。

 一時住んだ家から最寄の駅に向かう道は,時期により蛙の大群がいた。繁殖期なのだろうか,道を蛙の大群が横断するのだ。これに遭遇すると蛙を踏まずに歩くことはほとんど不可能だという気がした。蛙は身近にいたが,蛙の声を「コロロコロコロ」と聴いたことはない。多くはゲロゲロゲーゲーと下品に鳴いていたように思うが,ケロケロという表記も見たことがあり,小さな蛙はコロコロと鳴くのだあろう。あるいは詩人の耳は私の耳とちがうのか。恐らく後者で,物理的な音は同じなのに,詩的な耳で聞いているのだろう。

 しかし,私にとって蛙の声は歌には聞こえるのがせいぜいで,とても笛にはきこえない。この意味でこの歌には共感できない。

 

悲しき竹笛(2013.3.2)

昭和21年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:近江俊郎/奈良光枝

 「ひとり都のたそがれに」と近江俊郎が歌いだす。昔の唄に良くあったように,1番を男性が唄い終わったあと,「そぞろ歩きのたわむれに」と奈良光枝が2番を唄う。3番は男,4番は女が唄い男女が同時に唄うことはない。

 映画の主題歌らしいが,映画は観ていないので歌詞だけから想像すると,相思相愛でありながら互いに胸の内は打ち明けていない男女のようだ。「そぞろ歩き」などという想い出があるだけで十分ではないかとも思うが,安っぽく『命を懸け』たりしていないところには好感が持てる。男女の交際に関しては制限が多かった時代だからこのような歌が成り立ったのではないだろうか。

 詞も曲も唄い方も昭和の歌の典型のひとつと言って良いだろうが,私には子供の頃にこの歌を聴いた記憶はない。

 奈良光枝は噂によると絶世の美女だったらしい。しかし,我が家にテレビが入った頃,テレビで観たがそのような印象を抱くことはなかった。女性歌手はほとんど皆同じように見えていた。男性歌手もおなじようなものだ。私が晩生だったのだろう。歌手は純粋に歌が印象にのこるかどうかで聴いていた。私が歌手のルックスにも関心を持つようになったのはかなり遅く,渡辺プロダクションの若い歌手が多数テレビにでるようになってからだ。俳優などは,単純に演じている役が重要で俳優自身に対する好き嫌いは無かったと思う。まあ,東千代之介の『笛吹童子』や『紅孔雀』などの役に魅かれたということだ。

 よくよく時代を考えると,この歌は私が生まれる前の歌,東千代之介は小さな子供の頃,奈良光枝をテレビで見たのはもっと大きくなってからの話だ。

 

銀座セレナーデ(2020.3.30)

昭和21年,詞:村雨まさを,曲:服部良一,唄:藤山一郎

 「今宵流れる メロディは 甘いほのかな セレナーデ」とはじまる。

 「可愛いあのこの すすり泣きか それとも別れの 涙の歌か」と悲しいセレナーデもあるようだが,基本的には「愛のリズムに 月も踊るよ」とウキウキ気分を感じさせる。

 歌詞をぱっと眺めるとカタカナが多いように感じるが,カタカナ語に対する有形・無形の抑圧が無くなったので,カタカナ語を使ってみたという印象を受ける。

 戦争が終わったというだけで気分が違う。その気分がこのような歌になったのではないか。

 

青春のパラダイス(2019.9.20)

昭和21年,詞;吉川静夫,曲:福島正二,唄;岡晴夫

 「晴れやかな 君の笑顔 やさしく われを呼びて」と始まる歌。

 生活は苦しいが空襲が無いだけでも幸せ。とはいえやっぱり生きるのに精一杯。そのようなときにこの歌と出会えば,この軽快なメロディーと歌詞に溢れている自由に将来の明るさが見えたのではないだろうか。「花摘みて 胸にかざり」など,今は出来なくてもすぐに出来るようになる,「若きいのち かがやくパラダイス」は夢ではないと希望を持たせることができたのだろう。

 せめて,気分だけでも明るく楽しく,これが歌の効用だ。

 

世界をつなげ花の輪に(2016.5.1)

昭和21年,詞:篠崎正,曲:箕作秋吉

 「太陽はよぶ地はさけぶ 起てたくましい労働者」と始まる歌。

 「赤旗はゆれ胸おどる」と出てくるのを待つまでもなく,世界革命を目指す人々が唄った歌だろう。

 「人民の血のしたたりは」などという題名に似合わない腥い詞だが忠臣蔵を禁じたGHQ1)も特に問題にはしていないようだ。

 真偽のほどは知らないが,総同盟・産業別・文部省・NHK・各新聞社と現代音楽協会が協力して新しい労働歌を募集したときの第2位の歌だそうだ。これが本当なら,官僚やマスコミの変身の速さには驚きと共に不信感が募る。

GHQからの覚書を受け,1月には公職追放の勅令が出ている。これを受けて人の入れ替えがあったのだろう。

その後朝鮮戦争の影響もあったのだろうが,GHQの主導権がGS2)からG23)に移ると共に,昭和25年には共産主義者の公職追放も始まる。

1)連合国軍最高司令官総司令部

2)民政局

3)参謀第2部

 

東京の花売娘(2012.5.10)

昭和21年,詞:佐々詩生,曲:上原げんと,唄:岡晴夫

 「青い芽を吹く柳の辻に」で始まり「ああ東京の花売娘」と終わる歌。岡晴夫は花売り娘の歌を何曲も唄っている。明るい良い曲だが時代背景と花売娘の身の上を考えると明るすぎる。「花を召しませ」という言葉遣いは斜陽のお嬢様を思わせる。作詞者は何を考えながらこのような歌詞をつくったのだろうか。

 

みかんの花咲く丘(2014.1.1)

昭和21年,詞:加藤省吾,曲:海沼實,唄:川田正子

「みかんの花が咲いている」と始まる歌。

レコードは昭和22年の発売で,井口小夜子が唄ったレコードもあるらしい。

子供の頃,川田正子・孝子のレコードをよく聴いた。というか,家には私が聴くようなレコードは彼女らの童謡しかなかった。SPレコードを太い鉄針の手回し式蓄音機で聴いたのだ。ぜんまい式だが,まともなガバナーがついていたのだろう。レコード盤の回転速度がおかしくなることはなかった(ぜんまいが切れたとき以外は)。小型オルゴールに使われているようなエアガバナーより高精度だったと思う。

当時は白熱電灯を使用していたが,後に蛍光灯が一般的になると蛍光灯の電源周波数による点滅を利用したストロボスコープが回転数を合わせるためについていた。その頃にはレコードもEPLPなどが一般的で,ターンテーブルの回転数は可変になっていたが,同期電動機を使えば電源周波数でモーターの回転数は決まり,あとは減速ギヤ比だけで回転数は決まると思うのに,ターンテーブルの回転数調整機能がついていたのはどのような機構になっていたのだろうか。子供の頃のことであり,分解して調べるなどということもしなかったので今となっては理由は判らないが,当時は静寂な歯車はなかったようにも思うので,歯車は使っていなかったのだろう。そういえばその後ダイレクトドライブのターンテーブルというのが出た。

話を「みかんの花咲く丘」に戻そう。子供の頃,この曲は私のハーモニカ演奏のレパートリーのひとつで,最も多く演奏したのではないだろうか。友人の一人とは二人でよくこの曲をハーモニカで演奏した。唄った記憶はほとんどないが,歌詞も悪くない。終戦直後の歌としては『リンゴの唄』2)に匹敵する名曲であろう。

3番には「今日もひとりで見ているとやさしい母さん思われる」とあり,もしこれを戦災等で母を亡くした子供の唄と解釈すれば,これ以前の風景描写も含めて一気に哀しい歌に変わってしまう。「母さん」を「姉さん」に変えて唄われたこともあるらしいが,作詞者が自分で変更するのでない限り,他人が勝手に変えるのは許されないだろう。3番の解釈により哀しい歌にもなりうるが,メロディーは哀しみを感じさせながらも軽快であり,明日への希望が感じられる。名曲と言ってよい。

自分ではある程度ハーモニカ演奏に自信はあったのだが,高校のときに上手い人間がいて,あまりのレベル差に私はハーモニカに触ることがなくなったが,後にポケットに入るサイズの楽器1)でハーモニカ以上の楽器はないと思うようになり,何年か前に衝動的に購入したが,その後どこかに眠ったままになっている。

1)      他にはオカリナとかカスタネットくらいしか思いつかない。私の演奏法ではオカリナでは和音をだすことができない。

2)      「リンゴの唄」(昭和21年,詞:サトウ・ハチロー,曲:万城目正,唄:並木路子)

 

リンゴの唄(2012.3.10)

昭和21年,詞:サトウ・ハチロー,曲:万城目正,唄:並木路子

 「赤いリンゴにくちびる寄せて」と戦後大流行した歌。あの娘をリンゴにみたてているのだろう。何も言わなくても気持ちがよくわかる・・・つもりなのだろう。

 昭和20年にポツダム宣言を受諾し,日本は敗戦国となった。GHQは公職追放,農地改革,憲法改定等次々と占領政策を実施する。皆,さぞ大変だっただろう。

 公職追放は軍国主義者を追放したことになっているが,かならずしもそうではないようだ。昭和21年には軍需産業関係者にも範囲が広げられ,政財界を中心に20万人ほどが職を追われた。このため,指導者の世代交代が生じたが,左翼の勢力が強くなり,後には共産主義者なども追放対象となった。昭和30年から追放解除が始まり,サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年に全ての公職追放が解除になった。

 農地改革の施行開始は昭和22年からである。地主から土地を強制的に買い上げ小作人に払い下げたのである。超安値で。地主は土地を取られた,小作人は土地を貰ったという感覚に近い。全国で約7割の農地が地主から旧小作人へ移った。このため,農地が細分化され,その後の大規模農業の発展を妨げたとも考えられる。なお,再び大地主がでてくることを防ぐために,種々の政策が実施されており,その一つが非耕作者の農地取得禁止や所有小作地の面積制限などが定められた昭和27年の農地法である。高度成長期に土地が高騰し,そのときに土地を売った旧小作人の成金振りを見て旧地主が・・・というようなこともあったようだ。(・・・は,何かしたということではなく,・・・と思ったという意味。)なぜGHQが農地改革を実施したのか,理由の記録に関しては知らないが,大地主が富を蓄積してこれが戦争遂行に役立ったという理解だったのだろう。また,小作人は共産主義者予備軍であり,この小作農の自作農化により共産化を防ぐという目的もあったのだろう。

 その後,種々の政策が実施されているが,農政には何を目指しているのか私には理解できないものが多い。

 憲法に関してはこのときGHQから与えられたものを,条文解釈などで一部首を傾ける部分もあるが,現在も保持している。

 

若者よ(2014.3.28)

昭和21年,詞:ぬまひろし,曲:関忠亮

「若者よ体を鍛えておけ」と始まる歌。

昭和21年は詞が詩集『編笠』(日本民主主義文化聯盟)に発表された年。作曲年は知らない。

某政党の学生組織の『うたごえ運動』の集会などでよく唄われていたように思う。詞は心が身体で支えられこともあるので身体を鍛えよという趣旨だが,右も左もなく,普遍の真理であろう。曲調も左右両派に合いそうだ。時代が作った歌だろう。この時代を背景とすれば,共感できる良い歌である。

しかし,この精神は『健全なる精神は健全なる身体に宿る』の誤解(誤訳?)と同じ精神だろう。Wikipediaによれば世界大戦の頃,ナチスドイツをはじめとする各国でこの言葉が軍国主義のスローガン的に用いられて誤解が広まったらしい。

立派な身体だけでなくその中に立派な精神を宿らせるよう祈るべきだというのが原義らしい。

ギリシア神話では神々は立派な肉体を持っているように見えるが,神道の神々は必ずしも立派な肉体を持っているとは限らないようだ。日本の仏教でも,人間の身体が特に重要だとは言っていないように思われる。『草木国土皆悉成仏』の思想である。

この歌は,身体を鍛えなければ価値がないとも聞こえるが,そのようなことを主張しているわけではないだろう。作詞者の意図は不明だが,歌を聴いたり唄ったりする者は自分の解釈で聴いたり唄ったりすれば良い。

『もしお前に力があるなら,その力を愛に満ちたものであらしめよ。もしお前に力がなく薄弱であるならば,その薄弱さをも愛に満ちたものであらしめよ。』1)というのが本意に近いのではないか。

1)      学生時代に旧制第八高等学校の寮歌を唄う前の口上というか巻頭言。実際にはこの後(トルストイ)と原著者を明らかにして,寮歌のタイトルをコールし,アイン・ツヴァイ・ドライと掛け声をかけて唄い始める。この前口上がいつ成立したのか不明であり,本当にトルストイの言葉かも私は知らない。

 

Les Feuilles Mortes<枯葉>(2018.6.22)

昭和21年,詞:Jacques Prévert,曲:Joseph Kosma,唄:Yves Montand

 「Oh! je voudrais tant que tu te souviernnnesと始まる歌。以前からあった曲を昭和21年に映画の挿入歌として使おうと詞を付けたらしい。

 シャンソンはあまり聴いていない。この歌も,岩谷時子の詞を越路吹雪が唄ったのを聴いたことがある程度だとの印象だが,実際には越路以外の歌手が唄ったのも何度か聴いたことがある。

 

雨のオランダ坂(2013.4.20)

昭和22年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:渡辺はま子

 「小ぬか雨ふる港の町の」とはじまる歌。

 この歌は曲名だけは何で見たのか知ってはいたが,昔聴いたという記憶はない。恐らく懐メロ関係の書籍でタイトルを見たのだろう。昭和22年の歌も,私が思い出す歌が尽きてきたのでYouTubeで聴いてみた。映画の主題歌らしいがもちろん映画についても知らない。

 聴いてみると,いかにも古いという印象を受けた。まず,歌詞が古い。「ガス灯」,「マドロス」,「ジャケツ」,「オイルのコート」などの単語がいかにも古さを感じさせる。また,メロディーも古いと感じる。それに,古関裕而の曲に対して私が持っていたイメージを覆すメロディーだ。古関の曲と聞くと,先ずは行進曲風の曲を想像してしまうが,この曲はそうではない。

 もちろん,私は古臭い歌が嫌いということはない。このようなメロディーに浸っているのは心地よいのだが,歌詞に対する共感が湧かず,いまのところはカラオケレパートリーに入れようというところまではいかない。

 

白鳥の歌(2012.8.30)

昭和22年,詞:若山牧水,曲:古関裕而,唄:藤山一郎/松田トシ

 「白鳥は哀しからずや」という牧水の短歌に曲をつけたもの。「音楽五人男」という映画があり,その挿入歌として作られたらしい。2番は「幾山河越えさり行かば」でこれらは牧水の処女歌集1)から採られているが,3番は「いざ行かむいきてまだ見ぬ」と第二歌集2)から採られている。

 昔は,ずっと以前に作られた詞に曲をつけた歌がいろいろあった。「君が代」は別格として,舟木一夫が唄った「まだあげそめし前髪の」3)という島崎藤村の歌がこのような歌を聴いた最後かもしれない。

1)      若山牧水:「海の声」(明治41年,生命社)

2)      若山牧水:「独り歌へる」(明治43年,八少女会)

3)      「初恋」(昭和46年,詞:島崎藤村,曲:若松甲,唄:舟木一夫),詞は島崎藤村:「若菜集」(明治29年,春陽堂)

 

ズンドコ節(街の伊達男)(2020.3.22)

昭和22年,詞:佐々木英之助,曲:熊代八郎,唄:田端義夫

 「黒いソフトに マドロスくわえ 肩で風切る 小粋な姿」と始まる歌。

 ズンドコ節と呼ばれた歌は,戦時中の『海軍小唄』を始めとして,小林旭・ドリフターズ,平成になってからは氷川きよしなどいろんな歌があり,それぞれ似た箇所があるというか,同じ曲の違うアレンジだとも言えそうだが,この田端盤だけは完全に別な曲と言えるほど違う曲だ。最後に「トコ ズンドコ ズンドコ」という詞があることがズンドコ節の名のいわれだろう。

 私が初めてこの歌を聴いたのはかなり後だが,そのとき感じたのは冒頭部は『ブンガチャ節』ではないかと思ったのだが,もちろん『ブンガチャ節』の方が遥かに後の発売だ。こちらは街で流行っていた曲を採譜したものだそうだから,田端盤が街で流行していたのかもしれない。戦前からあった曲なのかどうかは私には解らない。

 

誰か夢なき(2014.7.17)

昭和22年,詞:佐伯孝夫,曲:清水保雄,唄:竹山逸郎・藤原亮子

 「想いあふれて花摘めば」と始まる歌。

 「あざみなぜなぜ棘持つ花か たとえささりょと」とアザミがでてくるが,棘のある花として有名なバラが登場する歌より,アザミが登場する歌のほうが私の印象に残る歌1)が多い。この歌でも3番に「伊豆の紅ばら浴槽にちらし」とバラも登場するのだが,バラの箇所よりアザミの箇所のほうが心に残る。

 この歌は映画の主題歌らしいが,映画に関しては全く知らない。

1) 「あざみの歌」(昭和26年,詞:横井弘,曲:八州秀章,唄:伊藤久男),「アザミ嬢のララバイ」(昭和50年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき)など。

 

とんがり帽子(2012.5.2)

昭和22年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:川田正子

 「緑の丘の赤い屋根」ではじまり1番の終わりは「黄色いお窓はおいらの家よ」である。NHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌。戦災孤児のドラマで時計台付きの家は孤児の支援施設である。

歌詞には「おいらはかえる屋根の下」とある。屋根の下に帰ることは現代なら当たり前かもしれないが,当時は帰る家がない子供が多数いたのだ。鐘が「キンコンカン」となるのはキリスト教系なのだろうか。いずれにせよ,歌詞は明るく,曲も軽快で子供の歌として良い歌だ。

 

啼くな小鳩よ(2011.10.15)

昭和22年,詞:高橋掬太郎,曲:飯田三郎,唄:岡晴夫

 生まれる前の歌なので知らなくても不思議はないのだが,なぜかリアルタイムで聴いていたような気がする。もちろんナツメロ番組でも何度も聴いた。「たとえ別りょうと互いの胸に」なので別れの歌なのだが軽快なメロディーであり,別れであっても希望を感じる。当時は歌の寿命が長く,何年も歌われていたのかもしれない。

 

泪の乾杯(2014.8.26)

昭和22年,詞:東辰三,曲:東辰三,唄:竹山逸郎

 「酒は呑めども何故酔わぬ」と始まる歌。

 この歌は記憶に残っていないがYou Tubeで聴いてみた。ビクターから発売された戦後初のレコードだったらしい。この曲はB面で,A面は『港が見える丘』1だったとのこと。A面のほうは何度も聴いてよく知っている。

 昭和22年の社会がどのような状況だったのかは経験としては知らない。しかし自宅には蓄音機のようなものはなかったようだからレコードを買って音楽を聴くことはなかっただろう。ラジオがあったかどうかも疑わしいが少なくとも近所にはラジオはあっただろうから歌を聴いたとしたらラジオだろう。昭和30年代には商店街でレコードをかけていたが昭和22年はどうだったのだろうか。

 歌詞を見ると酒場で呑んでいるようだが,「さらば酒場よ港町 空しき君の影追いて」とあり「沖に出船の船が待つ」とあるので船員なのだろうか。「君」は恋人未満の感じも受けるが,「熱き泪か」「君が瞳に溢れたる」とあるので「君」も別れを悲しんでいてくれているのだろう。戦後のマドロス歌謡の原点かもしれない。

1)            「港が見える丘」(昭和22年,詞:東辰三,曲:東辰三,唄:平野愛子)

 

星の流れに(2012.2.18)

昭和22年,詞:清水みのる,曲:利根一郎,唄:菊池章子

 「星の流れに身をうらなって」「煙草ふかして口笛ふいて」「飢えて今頃妹はどこに」と歌詞にあからさまには出ていないが娼婦の歌である。

配給制度がほとんど崩壊してしまい,配給品だけでは生活できず米を筆頭に生活必需品はヤミ物資を高値で購入するしかなかった。山口良忠判事は法を守らせる立場にある自分がヤミ物資を利用することを是とせず,栄養失調で亡くなった。

当時はお金より食べ物を持っていることが重要だった。さもなければ物々交換できる品物である。昭和21年に預金は封鎖され,国民が使えるお金は極めて少なかった。新札が発行され,旧札と新札の交換は一人100円に制限された。残りの現金の預金は可能だったようだが,預金の引き出しには制限が加えられた。世帯主で月300円しか引き出せなかった。世帯主以外は月100円である。箪笥預金はすぐに旧札が使えなくなり,紙くずになった。3000円を超える分は完全に封鎖され,その後,高率の財産税を掛けられほ預金封鎖が解除される昭和23年までにほとんどなくなってしまった。

このような時期,戦災で家族も家財も収入の道も全て失い,あるいは着の身着のまま引き上げてきて,生き残る術として止むを得ず街娼になった者もいただろう。「こんな女に誰がした」と繰り返される。

もちろん山口判事は立派だった。ご自身の信条,美学あるいは信仰に殉じられたのであろう。このような人々を出さないように対処するのが政治だろう。

 

港が見える丘(2012.7.5)

昭和22年,詞:東辰三,曲:東辰三,唄:平野愛子

 「あなたと二人で来た丘は港が見える丘」という回想の歌。1番で初めて来て,2番で別れ,3番では昔を偲んで一人で来ている,キーワードは桜と汽笛だ。深刻さがないのは「淡い夢」だったからだろう。最近の若者に関しては解らないが,当時「淡い夢」というのはかなりの数あったのではないか。

 中学の修学旅行で東京方面に行った。そのとき山下公園にも行った。そこで,ああ,ここがあの場所かと思った。生まれる前の歌をどうして知っていたのか解らないが,何かで聴いて良い歌だと印象に残っていたのだろう。歌は知っていたが,この丘が横浜にあるとは知らなかったはずだから,バスガイドが教えてくれたに違いない。

 

山小屋の灯(2012.10.27)

昭和22年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:近江俊郎

 「黄昏の灯はほのかに点りて」という歌。学校で習ったのだろう,合唱の練習をしたことがある。

 「君をしのべば」とか「寂しさに君呼べどわが声むなしく」などとあるので淡い想い出の歌なのだろう。爽やかな歌だ。私の学生時代までは山歩きというのは極めて身近なレジャーだった。本格的な登山をする者も多かった。最近熟年グループが山に向かうのはその名残だろう。

 昭和40年,某大学のワンダーフォーゲル部で合宿時のしごきによる致死事件が発生し,ワンゲルのイメージは落ちたが直ぐにはブームは衰退しなかった。装備等に金をかけずに,個々の技量・体力に応じて楽しめたからであろう。冬山に挑戦する人の数は多くはなかったと思う。

海水浴なども経費はかからないと思うが,山のほうがシーズンも長く,子供会などで多数の子供を連れて行くとき,海より山のほうが安全だと考えられていたのではなかろうか。小学生のころ,遠足は近くの山(名前だけで実は丘)に行った。もっと近いところに海水浴場もあったが学校からは行ったことがない。この海は今はコンビナートだ。子供会では電車に乗って山へは何度も行ったが,徒歩でいける海へ行った記憶はない。電車で海に魚を獲りに行ったことはある。たて干し網が目的で遊泳する場所ではない。

 昭和22年は戦後の何もない時期で,この年には米ドルが15円から50円になった。また,53日に日本国憲法が施行された。

 

夢淡き東京(2012.12.24)

昭和22年,詞:サトウ・ハチロー,曲:古関裕而,唄:藤山一郎

 「柳青める日つばめが銀座に飛ぶ日」と始まり,「淡き夢の町東京」と終わる歌。地名が判るあるいは判りそうな歌詞としては「銀座」「聖路加」「橋」「むかしの三味の音」「浅草」「神田」「せまい路地裏」などが出てくる。これらが当時の代表的な東京だったのだろう。

 この歌は映画「音楽五人男」の主題歌とのこと。藤山一郎のビロードのような声と古関裕而のメロディーは戦後の希望を上手く表している。まさしく春を感じられる出だしの歌詞と共にこの曲の素晴らしさの基だ。もっとも,カラオケで唄うには藤山一郎の声は良すぎるかも知れない。

 

夢のお馬車(2014.6.10)

昭和22年,詞:斎藤信夫,曲:海沼實

 「金のおくらに銀の鈴」と始まる歌。2番は「るりやしんじゅのかざり窓」,3番は「金のかんむり銀のくつ」と始まる。

 1番の歌詞が「金のおくら」と始まるのは,この文を書こうと歌詞を確認していて初めて知った。何十年もの間「瑠璃や真珠の飾り窓」と始まるものと思い込んでいた。1番と2番を混同して覚えていた。

こどもの頃『しりとり歌合戦』に出たいと,五十音のそれぞれから始まる歌をリストアップしていたことがあり,そのとき『る』で始まる歌としてこの歌をリストアップしていた。そのリストは現在行方不明だが,当時はほかに『け』『へ』『ら』などで始まる歌が少なかったように記憶している。

 ところで「るり」だが,当時はこの歌でしか聞いたことがない言葉で,何となく高価そうなものだろうというくらい以外に,具体的なイメージは持っていなかった。

 

夜霧のブルース(2013.2.15)

昭和22年,詞:島田磬也,曲:大久保徳二郎,唄:ディック・ミネ

 「青い夜霧に灯影が赤い」と始まる歌。「夢の四馬路かホンキュの街か」とあるが,四馬路(スマロ)は上海の歓楽街,虹口(ホンキュ)はその近くにあった日本人街。戦前のことである。

 「上海ブルース」1)という歌があるが,こちらにも歌詞中に「四馬路」,「リラの花」,「エトランゼ」などが出てくる。発表は「夜霧のブルース」のほうがずっと後だ。島田磬也と北村雄三は同一人物という話を聞いたことがあるように思うのだが,現在出典等の確認ができない。

もちろん私は本物の四馬路はしらない。後に歴史として学んだ知識だ。無関係だが,学生時代,大学から少し離れた道路沿いに「四馬路」という雀荘があったがここにも行ったことはない。隣はダンスの教習所だったように思う。いまはこれらがあった道路も拡幅され,昔を偲ばせるものはない。

 この歌は映画の主題歌らしい。歌詞には「血が騒ぐ」,「これが男というものさ」,「嵐呼ぶよな夜が更ける」とあるので,そのような歌かとは思うのだが,メロディーは優しく,ディック・ミネの歌い方も優しい。

1)      「上海ブルース」(昭和14年,詞:北村雄三,曲:大久保徳二郎,唄:ディック・ミネ)

 

夜のプラットホーム(2016.4.21)

昭和22年,詞:奥野椰子夫,曲:服部良一,唄:二葉あき子

「星はまたたく夜 ふかく」と始まる歌。

昭和14年に淡谷のり子のレコーディングがあるが,発禁処分を受けている。「プラットホーム 別れのベルよ」,「柱に寄りそい わたし」,「さよなら さよなら 君いつ帰る」など一連の歌詞が出征兵士を悲しく見送ることを連想させるという理由だったらしい。

 Wikipediaによれば昭和16年にはR.Hatter(服部の変名)作曲の『I’ll be waiting』(待ちわびて)という洋盤として発売されている。作詞と歌唱はVic Maxwellだが,これも当時の日本コロンビアの社長秘書の変名だったそうだ。曲がタンゴだったので洋盤として通用したのだろう。

 日本語の歌はこの程度の内容の歌詞でも発禁になったのに,英語の歌はフリーパスだったようだ。この詞が戦意高揚に反すると感じたということは,検閲官がとくに敏感で過剰に規制したのか,一般の人々もこの詞に未練を感じたのかは私には解らない。ただ,戦時中に規制が厳しかったことだけが想像できる。そういえば,最近に至るまでいろんな言葉狩りがある。差別に通じるとか,ハラスメントだとかいって,いろんな表現が規制(自己規制?)される。戦時中・終戦直後は権力者が規制していたが,その後は各種団体が言葉狩りをしたように感じる。日本人は極端に走りすぎるのではないか。戦前・戦後を通じ,これらの言葉狩りに大きな力を持ったのがマスコミだ。検閲を受けていたというような言い訳は聞きたくない。マスコミが自主規制するだけでも人々に大きな影響を与えるのだが,自主規制というより提灯を持って歩いてきたように感じる。

 

憧れのハワイ航路(2012.4.19)

昭和23年,詞:石本美由起,曲:江口夜詩,唄:岡晴夫

 「晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し」という歌。軽快なメロディーと岡晴夫の明るい歌声で爽やかな歌であり,昭和25年には映画化されている。

 この年,サマータイムが実施されたが,昭和27年には廃止されている。

 当時は海外旅行も自由にはできず,庶民にはハワイへ行くなど夢のまた夢,憧れの対象にもなっていなかったかもしれない。しかし,明治18年から大正12年までは日本から移民が行っている。ハワイは元々王国であったが明治33年に米国に併合された。このとき移民には市民権が与えられなかった。先住民は市民権を得たが,権利は米本土の市民に比べると制限があった。ハワイがアメリカの州のひとつになったのは昭和34年である。

 日本国民が観光で自由に外国にいけるようになったのは昭和39年である。一人あたり,年1回,500ドルの外貨持ち出しが許可された。昭和41年には年1回という制限が撤廃されたので,1回500ドル以下なら,何度でも行けるようになった。

 昭和24年から昭和46年までは1ドル=360円の固定相場だったが,その後昭和48年まで308円,48年からは変動相場制になった。もっと以前なら,円が使われ始めた明治の初期にはほぼ1ドル1円,西南戦争後の日本のインフレで1ドル2円程度,日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した昭和16年には1ドル4円以上になっていた。

 

異国の丘(2012.2.1)

昭和23年,詞:増田幸治,曲:吉田正,唄:竹山逸郎・中村耕造

 「今日も暮れ行く異国の丘に」という曲。異国とはシベリアである。元歌は違う歌だったらしいが,シベリア抑留者の間で替え歌が歌われたらしい。この替え歌を元に佐伯孝夫が補作詞してレコーディングされた曲である。60万人とも100万人超とも言われる抑留者。厳寒の地の過酷な強制労働で多くの人が祖国を再び見ることなくかの地の土となった。

 昭和20726日,米英中(中華民国)3国よりポツダム宣言が発表された。日本政府はソ連に和平の仲介を求めようと模索しつつポツダム宣言を「黙殺」したが86日に広島,89日に長崎に原爆が投下されるに至った。その上89日にソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し,対日参戦,満州・北朝鮮・南樺太・千島列島で対日攻撃を開始すると共にポツダム宣言に加わった。日本政府は814日にポツダム宣言の受諾を通告,15日には玉音放送で終戦が宣され,ほとんどの戦線での戦闘が終わったが,ソ連戦線はその後も戦闘が続き,ほぼ完全に戦闘が終了したのは9月になってからという。このときソ連が侵攻してきた北方領土の問題は現在でもまだ決着がついていない。このとき民間人も含め多くの日本人がシベリアに連行され抑留されたのである。

 このような状況で日本は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した。」1

 日ソ中立条約を土壇場で破棄して参戦してきたソ連はけしからんとは思うが,正義の戦などあるわけも無く,このような事態をも想定しておくべきであっただろうが,このときも想定外だったらしい。現在「諸国民の公正と信義に信頼」できるのであろうか。

 満州方面に展開していた関東軍はもともとソ連を仮想敵国だとしていたはずだが,ソ連の参戦を事前に察知していた様子はみられないようだ。しかし,ソ連侵攻時には関東軍の高級将校は家族をつれてさっさと逃げ帰ったという話もある。信じられないが,兵隊の抑留も関東軍からソ連に提案したというような話まであるようだ。「いちれつらんぱんはれつして・・・・さっさと逃げるはロシアの兵死んでも攻めるは日本の兵・・・」という日露戦争の歌があるが,実際にさっさと逃げたのは関東軍の高級将校だったのだろうか。判っているのは抑留者の将校比率は低いということだ。兵隊以外に民間人も抑留されている。

 長い人では10年以上も抑留され,「帰る日も来る春が来る」と唄って互いに励ましあったのだろう。

1)日本国憲法前文より抜粋。

 

男一匹の歌(2019.9.4)

昭和23年,詞:夢虹二,曲:佐藤長助,唄:岡晴夫

 「赤い夕陽は 砂漠のはてに 旅を行く身は 駱駝の背中」と始まる歌。

 昭和14年に『赤い夕陽は砂漠の果てに』というタイトルで発売された曲のタイトルを変えて再発売したものらしい。

 昭和14年盤はソ満国境辺りでよく唄われたらしいが,「吹くなモンゴーの 砂漠の風よ」などとあるので沙漠はゴビ砂漠か。「ラマ塔」などという言葉が入っているのはチベット寄りか。いずれにせよ大陸が舞台だ。昭和7年,王道楽土を理念として満洲国が建国された。政府やマスコミの言葉を信じ,あるいは,たとえ宣伝文句を100%信じないにしても,内地にいるよりましではないかと満洲を中心に大陸に対する憧れを膨らませている人々が多数居た時代だ。この歌が流行ってもおかしくない。

 しかし昭和23年は違う。リアルタイムで聴いていないので当時の社会の雰囲気は解らないが,このような歌が流行った理由が解らない。大陸からの引揚者が大陸を懐かしんだとは思えない。その他にこの歌がヒットする理由は何だろうか。私が想像できるのは岡晴夫人気によるヒットというものだ。

 岡晴夫は戦中から既にスターだったが,戦後は人気が沸騰し,近江俊郎・田端義夫とともに戦後三羽烏と呼ばれていた。昭和24年に雑誌『平凡』が行った『花形歌手ベストテン』では岡晴夫が1位になり,以後3年連続で1位だったそうだ。

 

君待てども(2013.4.7)

昭和23年,詞:東辰三,曲:東辰三,唄:平野愛子

 「君待てども君待てどもまだ来ぬ宵」と始まる歌。昭和38年には松尾和子も唄っている。「諦めましょう諦めましょうわたしはひとり」と終わる。

 『港が見える丘』1)と関係はないのだろうが,何となく関係がありそうに思えてしまう。「君待てども」の「君」と歌の主人公との関係はすでに切れてしまっているように感じる。想い出の地に行って偲ぶのではなく,自宅に居て,ひょっとしたらなどと待っているように感じる。この二曲を比較するなら,私は圧倒的に『港が〜』を支持する。

もっとも「まだ来ぬ宵」というのは来るという期待が大きいようにも思え,それならば関係はまだ続いているのだろうが,次第に「君」の関心が薄くなりつつあると感じていることになる。「こぬひとをまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(藤原定家)」というところだろうか。しかし,通って来ぬ夫を恨み怨霊になるというような雰囲気は感じられない。「諦めましょう諦めましょう」は心に残り,昭和40年代まではこのような心情も強かったように感じる。

1) 「港が見える丘」(昭和22年,詞:東辰三,曲:東辰三,唄:平野愛子)

 

小判鮫の唄(2019.10.10)

昭和23年,詞:高橋掬太郎,曲:大村能章,唄:小畑実

 「かけた情けが 偽りならば 何で濡れよか 男の胸が」と始まる歌。

 男の胸が濡れるのは女の涙によってだろうなどとの邪推は余計か。ただ,泣くのは主に女だった時代の歌のような印象を受ける。

 東宝映画『小判鮫』(長谷川一夫)の主題歌。映画の原作は三上於菟吉の『雪之丞変化』だそうだ。

二番には「まただまされて」とあるのでそうなのかと思うと,三番では「恋は一筋 命にかけて」となっている。映画も観ていないし,原作も読んでいないからか,この歌の歌詞だけでは内容がよく解らないが,映画を観た者にはよく解るのだろう。

『雪之丞変化』自体は昭和10年松竹,昭和32年新東宝など何度も映画化されているらしい。

 曲は典型的な日本調で,日本舞踊が合うだろう。西洋のダンスは合いそうにない。更に言えば,小畑実にもやや合わない気がする。小畑なら『高原の駅よさようなら』1)だろう。和風テイストといっても『勘太郎月夜唄』2)くらいまでが小畑に合う。

1)     「高原の駅よさようなら」(昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:小畑実)

2)     「勘太郎月夜唄」(昭和18年,詞:佐伯孝夫,曲:清水保雄,唄:小畑実/藤原亮子)

 

里の秋(2012.12.11)

昭和23年,詞:斎藤信夫,曲:海沼實,唄:川田正子

「静かな静かな里の秋」とはじまる歌。「ああ母さんとただ二人」とあるので父親はどうしたのかと思うと3番で「椰子の島」から帰ってくるのを待っているようだ。昭和20年の年末に新曲としてラジオ放送されているようなので,引き上げてくるのか復員してくるのか良くはわからないが,まだ南方にいるようだ。自宅の様子から想像すれば徴兵された兵士の家族だろう。

 このメロディーと詞,そして昭和20年には11歳だろうか,川田正子の歌声,当時の社会状況を考えるとこの歌の放送に大きな反響があったと聞いても十二分に納得できる。当時の状況をそれなりに知っていて,3番まで聞くと,この歌により呼び起こされる思いは桁違いに大きくなる。個人ではどうしようもないことかもしれないが,地震や津波に比べればはるかに容易に人間の知恵で解決できる問題だと思うのに。

 4番として,「白木の箱」の父さんを迎えに行く歌詞があるような話を読んだことがあるが,これではあまりにも悲しすぎる歌になってしまう。この歌は3番までしかない。

 

さよならルンバ(2016.4.13)

昭和23年,詞:藤浦洸,曲:仁木多喜雄,唄:二葉あき子

 「このままお別れしましょう あなたの言葉のまま」と始まる歌。

 ルンバと言われて思い出すのは『コーヒールンバ』1)くらいでルンバについてはほとんど無知だ。たしかに曲は私の知っている他の歌謡曲等とは少し異なり,ややアップテンポのラテンアメリカ系のリズムを感じる。

 二葉あき子は私にとって懐メロ番組に登場する歌手だった。要するに最盛期に聴いたわけではない。

 藤浦洸は『二十の扉』や『私の秘密』などのNHKラジオ番組でよく知ってはいたが,私がラジオを聴いていた当時は,数多くのヒット曲を出した作詞家だとは知らなかった。

1)「コーヒールンバ」(昭和36年,詞:J.M.Perroni /中沢清二,曲:J.M.Perroni,唄:西田佐知子)

 

三百六十五夜(2012.10.14)

昭和23年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:霧島昇・松原操

 「みどりの風におくれ毛が」と男が唄い,「たそがれ窓に浮かぶのは」と女が唄う。再び男が「気づよく無理に別れたが」と唄い最後は男女で「鈴蘭匂う春の夜」と,紆余曲折はあったが「愛の二人に朝が来る」とハッピーエンドとなる歌。

 小島政二郎の小説を昭和23年に映画化した時の主題歌である。昭和37年にも映画化されている。またテレビドラマとしても3回放映されている。このうち昭和38年テレビ版は美空ひばりが唄うこの歌(とほぼ同じ歌)が主題歌となっている。この美空ひばりの唄は昭和37年の映画の主題歌としてつくられたらしい。

 私は美空ひばりの唄を何度もラジオで聴いたのだが,インターネットでこの歌に関する情報を検索してみて,不明なことがいくつかある。残念ながら映画もテレビも観ていないし,歌詞も詳細は覚えていないので何が本当かわからない。

 霧島・松原版から美空版に移るとき,舞台が変わって歌詞にある「道頓堀の」が「箱根の峠」と変えられたらしいが,詳細がわからない。

 もっと解らないのは,美空ひばりが出演した昭和37年の映画である。映画の筋を誤解しているのかもしれないが,美空ひばり演じる蘭子は高倉健に横恋慕する役で,幾多の困難の後,最後にハッピーエンドになるのは朝丘雪路扮する照子ではないのかということだ。もっとも昭和23年版で蘭子を演じたのは高峰秀子,照子は山根寿子で,キャストからみて蘭子が憎まれ役というわけでもないようだ。愛しながらも身を引くという役どころのようだ。身を引いておいてハッピーエンドの歌を唄うとはどういうことかというのが大きな疑問だ。ひょっとしたら,美空ひばりはハッピーエンドがあからさまな4番は唄っていないのかもしれない。唄いかたも,霧島・松原版より美空版はテンポが遅く哀愁に満ちていたような記憶がある。

 

東京の屋根の下(2016.6.6)

昭和23年,詞:佐伯孝夫,曲:服部良一,唄:灰田勝彦

 「東京の屋根の下に住む 若い僕等はしあわせもの」と始まる歌。

 歌詞には日比谷・銀座・新宿・浅草・神田・日本橋などが登場する。「上野は花のアベック なんにもなくてもよい」などと歌詞にあるが,当時の東京はどのような所だったのだろうか。東京は100回以上の空襲を受け,大部分が焼失したと聞いている。人は沢山集まっていただろうから闇市などでにぎわっていただろうことは想像できる。そのような何もない状況でも「アベック」は幸せだったのだろう。

 「アベック」はもはや死語だろう。他にも「メリケン粉」「歯磨き粉」なども子供の頃普通に使っていた言葉だが現在聞くことはほとんどない。

 

東京ブギウギ(2012.6.27)

昭和23年,詞:鈴木勝,曲:服部良一,唄:笠置シヅ子

 昭和22年に作られ,唄われ,23年になってからレコードが発売された。その後も多くの歌手にカバーされている。「東京ブギウギリズムうきうきこころズキズキワクワク」という元気の良い歌。このようなパワーが戦後の復興の原動力だったのだろう。

 笠置シヅ子は大正3年生まれとのことなので昭和23年には34歳か。大正初期の平均寿命は男女とも445だった。「人生僅か50年」というのが実感としてあっただあろう時代だ。昭和22年の男女40歳の平均余命はそれぞれ28年弱,30年強だから,人生の半分ほど生きてきた頃の唄なのだがパワフルな歌に圧倒される。私の記憶はもっと後のことなので年齢も進んでいたのだろうが,パワフルな大阪のオバちゃんという印象だ。大阪では年齢の上限なく女性ならば「おねえさん」だと聞いたこともあるが,何せ私は小さな子供で,私から見るとどう見てもオバちゃんだった。

 

とんぼのめがね(2014.3.8)

昭和23年,詞:額賀誠志,曲:平井康三郎

 「とんぼのめがねは みずいろめがね」と始まる歌。初めてラジオ放送されたのは昭和24年とのことである。

 最近の都会では「とんぼ」をあまり見かけない。子供の頃には・・・住んでいたところが田舎だっただけかもしれないが・・・沢山の「とんぼ」がいた。

 「とんぼ」が減ってきた頃,「トンボめがね」というのが流行った。しかし,どんな眼鏡が「トンボめがね」なのかは良く知らない。大きな丸い眼鏡かと思うが,東海林太郎や大村崑がかけていた眼鏡も丸い眼鏡だったが「トンボめがね」とは言わなかったように思う。

 ジョン・レノンも丸眼鏡だったが,「トンボめがね」とは明らかに違う。やはりポイントは大きさかもしれない。そういえば丸出だめ夫はトンボめがねと言っても良いような気がする。

 私が「トンボめがね」でイメージするのは,若い女優が顔隠しのために着用している大きなサングラスだ。

 大学の近くの公園には,蜻蛉も蝶も多くはなかったが,蝉だけは沢山いた。蛍などは昔はよく見たが最近では長い間見ていない。

 

長崎のザボン売り(2016.7.14)

昭和23年,詞:石本美由起,曲:江口夜詩,唄:小畑実

 「鐘が鳴る鳴るマリヤの鐘が」と始まる歌。

 歌では少女が売っているようだがザボンを食べた記憶が無い。近くで売っていなかったわけではないだろうが,両親は新潟県人でザボンを食べる習慣がなかったので買わなかったのだろう。

 ザボンは別名を文旦あるいはボンタンという。ボンタンアメは子供の頃好きだったが最近は見たことが無い。ザボン漬けは大人になってから九州に旅行した時に買ったことがある。

 ザボンを食べた記憶が無いと書いたが,よく考えると子供の頃は買った果物を食べた記憶自体がない。果物を買う余裕などなかったのだろう。食べた記憶があるのは田舎から送ってきた林檎と柿だ。あと庭の無花果,トマトは果物かどうかは知らないが,夏は家庭菜園のトマトや胡瓜を食べていた。物のない時代だったし,家に金もなかった。

 この歌の記憶は懐メロ番組の記憶にしかない。

 

流れの旅路(2016.9.18)

昭和23年,詞:吉川静夫,曲:上原げんと,唄:津村謙

 「紅いマフラーをいつまで振って」と始まる歌。

 「旅の一座の名も無い花形(スター)」とあるので旅芸人なのだろう。

 時代が違うからだろうか,私が子供の頃旅芸人の芝居を観たことが無い。付近に仮設の芝居小屋がかかったというような記憶が無い。子供の頃住んでいた地域が,戦後できた住宅地で街の中心からかなり外れていたからだろうか。しかし,街に移動サーカスなどが来た時には結構離れていても観に行った。常設の映画館はあったが,小学校の校庭での屋外映画上映などが臨時であった。コンサート会場のようなものがあったのかどうかは知らないが,歌謡ショーのようなものはあったが興行主がその都度歌手を呼ぶのだろう,スター?や他のメンバーは興業ごとに変り,一座を組んで旅をしているという様子ではなかった。

 ふと気づいたのだが,特定の歌手の前はいつも同じ前座歌手が唄っていたような気がしてきた。一座だったのだろうか。

 そういえば,街中へ行くとチンドン屋や傷痍軍人などが居た時代だが,自宅付近でこれらを見ることはなかった。

 

懐かしのブルース(2016.8.18)

昭和23年,詞:藤浦洸,曲:万城目正,唄:高峰三枝子

 「古い日記の頁には 涙のあともそのままに」と始まる歌。

 同名の松竹映画(上原兼/高峰三枝子)の主題歌。

 「涙のあと」に語らせる歌謡曲の詞は,昔は珍しくなかったように思う。『涙で書いた日記をみるたびに』1)などというのは紙媒体を使っていたからこそ跡が残るのだ。ディジタル時代ではこのような言外の言葉が減ったのではないか。『焚き捨てる古い手紙』2)なら燃え尽きるまでの時間に様々な思いが去来するだろうが,メール消去ではほとんどアッという間に終わってしまう。『手紙の中に おさげのリボンを入れてきた 涙のあとが』3)などということは手紙だからこそのことだ。このような情況は『涙で綴り終えたお別れの手紙』4)や『涙で文字がにじんでいたなら』5)などとディジタル化が始まるまで続いた

1)「涙の日記」(昭和37年,詞:みナみカズみ,曲:L.Darvel,唄:スリーファンキーズ)

2)「湖畔の宿」(昭和15年,詞:佐藤惣之助,曲:服部良一,唄:高峰三枝子)

3)「長いお下げ髪」(昭和37年,詞:神津善行,曲:神津善行,唄:守屋浩)

4)「手紙」(昭和45年,詞:なかにし礼,曲:川口真,唄:由紀さおり)

5)「わかって下さい」(昭和51年,詞:因幡晃,曲:因幡晃,唄:因幡晃)

 

フランチェスカの鐘(2013.2.5)

昭和23年,詞:菊田一夫,曲:古関裕司,唄:二葉あき子

 「あああの人と別れた夜は」と始まる歌。子供の頃は中「フランチェスカの鐘の音がチンカラカンと鳴り渡りゃ」という箇所が印象的だった。1番と2番の間に「フン・・・なんでもないわあんな人,好きじゃなかったんだもの,修道院へ入るなんでバカねえ,あの人,・・・」と高杉妙子の台詞が入っていたらしいが私には記憶がない。この台詞からすれば,この歌は俗世間に残され,2度と逢えなくなって恋しさが募るという歌であろう。台詞を削除した版が昭和24年に再発売される。

二葉あき子は広島出身で帰省のためにたまたま乗っていた列車がトンネルを出たところできのこ雲を見たとのことである。列車がトンネル内を通過中に原爆が投下され一命をとりとめたのだ。そのためであろうか,彼女はこの歌を原爆鎮魂歌として大切にしていたとのことである。

歌詞から台詞を抜いてしまうと,「ふたたびはかえらぬ人か」とか「声をかぎりにあなたと呼べど人はかえらずこだまがかえる」というのも死別のように聞こえる。きちんとお別れしたわけでなく,「ただなんとなく」「バイバイ言っただけ」であれが今生の別れとなってしまったのかと思うと「涙がこぼれる」。作詞者の意図とは別な解釈をして歌ってもおかしくはない。二葉あき子には広島に多くの知己がいただろう。その多くが,ほんの小さな偶然で幽明境を異にすることになってしまった。自分が歌うこの歌は大ヒットしている。ステージで歌う度に多くの想いが湧き上がったのだろう。

二葉あき子はこの歌を原爆鎮魂歌として唄っていた。聴くほうもそのように聴けばよいのではないだろうか。

 

ブンガワン・ソロ(2013.6.9)

昭和23年,詞:グサン・マルトハルトノ,日本語詞:松田トシ,曲:グサン・マルトハルトノ,唄:松田トシ

 「ブンガワン・ソロ」と始まる。歌詞を調べてみたが,この続きは私が知っているのとは違うようだ。この歌ができたのはもっと古いらしい。松田トシが戦後22年か23年にレコーディングしているので,多分私が聴いたのはこれだろう。歌詞は違うが私が間違って憶えたのだろう。

 昭和15年か17年に日本に紹介され,そのときはインドネシア民謡とされていたというような記憶があるのだが,今調べても何で見たのか思い出さない。

 インドネシア民謡というと『のーなまにさぱやんぷーにゃん』1)という感じの歌詞の曲を思い出すが,どのようなタイトルの歌だったか思い出せない。

1)      「可愛いあの娘」だと思う。

 

みどりのそよ風(2014.1.23)

昭和23年,詞:清水かつら,曲:草川信

 「みどりのそよ風いい日だね」と始まる歌。

 歌われている情景は1番蝶蝶,2番ブランコ,3番ボール,4番鮒釣り,5番花畑と私が子供の頃の情景だ。ひとつ違うのは3番の歌詞は「打たせりゃ二塁の滑り込み」と野球かソフトボールのようなものをやっている感じだが,団塊の世代である私の時代でも両チーム18人が集まるというのは予定を組まなければできなかった。遊びはいつも行き当たりばったりなので,野球でもしようかということになっても直ぐには人数も揃わないし,場所も限られてしまう。手軽にやるには正規の野球やソフトボールより三角ベースのソフトボールが多かった。野球をやると言っても軟球だが,グローブがあったほうが良いが数が揃わなかった。素手でソフトボールそれも長年使って本当にソフトになったボールを使っていた。もっとも,三角ベースで,キャッチャーなしにしても人数が揃うことは珍しく,試合形式で遊ぶことは多くはなかった。一人が打ち,あとは全員で守るという形が多かった。

 ボール遊びではドッジボールがもっともポピュラーだった。小学校の授業と授業の休み時間にはドッジボールが一番てっとり早かった。

 4番では「きらきら金ぶな嬉しいな」とあるが,金ぶなというのは知らない。赤い色をした鮒に見える魚は知っているが,これは金魚の一種だ。近所の小川にはいなかった。まあ,少なくとも小学校の高学年のころは魚釣りは遊びの一種になっていたが,少し前までは食料調達の手段だった。周囲には金持ちの家もあったが,特に貧乏な家に育ったというわけではない。皆が貧しく,物資のない時代だった。ほんの少し前まで,物がない時代だったのだ。食料調達の手段として魚釣りに行ったのだ。

他の食料調達は,狭い庭があったので,野菜が種々植えられており,鶏も飼っていたし,私自身乳児期には山羊を飼っていれ山羊の乳で育ったらしい。学校から帰ると夏はトマト冬はイモというのが定番だった。今でもトマトを買って食べようという気にならない。トマトは庭に成っているものという認識なのだ。父親はサラリーマンだったが,給与代わりに自社製品を現物支給され,これを近くの農家に持っていって物々交換で小豆を入手するなどということをしていたらしい。現物支給は製品が現金よりも交換のためには有利な(人気の品薄)品だったからかもしれない。そういえば煎餅なども買え(わ?)なかったのか,煎餅を焼く道具なども家にあった。

 物質的には豊だったと言えない時代だが,「みどりのそよ風」が吹いているような爽やかな時代だった。そのうちに,物質的には豊だが,スモッグに覆われ公害マスクをしなければならないような時代になり,その対策がなされて空気はきれいになったが,花畑はなくなり花壇になってしまった。そよ風は吹くがみどりとは形容しづらい。

 せめて歌だけでも,この歌のように爽やかな歌を唄いたい。

 

湯の町エレジー(2011.10.10)

昭和23年,詞:野村俊夫,曲:古賀政男,唄:近江俊郎

 いつの頃だったか忘れたがギターを買った。高校では弾いていた記憶があるが中学ではない。買って少しの間触ったが上手く弾けないので放りだしてあった。真剣に(?)弾き始めたのは高校に入ってからだろう。これもいつ買ったのか覚えていないし,現在では紛失してしまったので定かではないのだが,古賀政男の30日間ギター独習というような独習書で練習を始めた。この独習書に載っていたので曲らしい曲は「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」とこの曲の3曲しかなかった。

 当時はギターが流行していたと思う。時代劇では虚無僧の尺八や鳥追い女の三味線だが,大正前後の演歌師はバイオリンだったらしい。傷痍軍人がアコーディオンを弾いているのは実際に見た。しかし,当時はギターを抱いた「流し」だろう。私が酒をのむような年になってもまだ店によっては流しが着ていた。もう少し後だと店専属のギタリストという雰囲気になっていた。当時,付録に歌本(歌詞など文字だけ)がついてくる二大雑誌「平凡」と「明星」があったが,これらにも。ギターの広告はよく出ていた。このためか,私の同世代にはギターを買った人が多い。その後のグループサウンズやフォークソングの流行はこの潜在的ギター人口に合ったのではないだろうか。後のフォークソングの流行により,ギター人口は更に増えたのであろう。前出雑誌の付録にもギターコードが入るようになったし,曲によっては楽譜まで掲載されるようになった。また,歌手の写真なども入り,歌手もアイドル歌手が増え,雑誌自体がアイドル雑誌化していったような気がする。

 当時ギターを買う人間の大部分の第一目標が映画「禁じられた遊び」のテーマ「Romance de Amor」を弾くことであり,私も当然これを練習したが,ほかにはギター独習書の3曲を練習した。当時は楽譜が読めなかったので暗譜するしかなかったのだが,その後ある程度楽譜が読めるようになると暗譜できなくなってしまった。まあ,この辺が私の才能のなさだろう。簡単な自己流編曲では完全なワンパターンになってしまう。

 大学生の頃,休みにはよく一人で近くの山にギターを持って行って弾いていた。まともな編曲で弾ける曲は数曲なので,この曲もよく弾き,「あーぁあ〜ぁぁ相見ても晴れて語れぬこの想い」などと歌っていた。この山はマムシが出るので有名で,よく業者がマムシを取りに来ていたのだが,幸いなことに私は出会ったことがない。

 近江俊郎は懐メロ番組で何度か観た。

 

Bibbidi-Bobbidi-Boo(2013.8.6)

昭和23年,詞:Mack David, Al Hoffman,曲:Jerry Livinston,唄:Verna Felton, Ilene Woods and the Disney Studio Chorus

Sala-gadoola-menchicka-boo-la Bibbidi-bobbidi-boo」と始まる歌。

ディズニー映画シンデレラでかぼちゃを馬車に変えるなどの魔法を使うときの挿入歌。

歌詞は英語だが,この部分は意味不明。というか,歌詞の中で説明があるようにも思うのだが,私の英語力では,『あっ,英語みたいだ』と思って,頭の中の小さな英語脳に切り替えようとしているうちに意味不明の言葉になってしまい,頭の中のスイッチ切り替えが追いつかなくなる。日本語の歌詞もあったようで「おまじないはいつでもビビデバビデブー」というような歌詞の記憶もあるので,きっと魔女の呪文なのだろう。

小学校から高校まで,映画鑑賞の時間というのがあった。授業時間中に,先生に引率されて映画館に行くのだ。もちろん貸切である。小学生のときに行った中にディス二―映画もいくつかあったように記憶している。このような映画鑑賞の最後は高校の『東京オリンピック』だった。

 

L’eau Vive<河は呼んでいる>(2018.6.13)

昭和23年,詞:Guy Béart,曲:Guy Béart,唄:Guy Béart

 「Ma petite est comme l’eau」と始まる歌。

 仏映画「L’eau Vive(邦題)河は呼んでいる」の主題歌。何種類かの日本語詞もある。

 いつ聴いたのか思い出せないが,メロディーが覚えやすいからなのか,曲としては知っているし,楽譜も持っている。但し,歌詞には全く記憶が無く,歌としての意識は薄い。子供の頃,ラジオから何度か聴いたのではないだろうか。

 

アメリカ通いの白い船(2017.12.21)

昭和24年,詞:石本美由起,曲:利根一郎,唄:小畑実

 「小鳥さえずる森蔭すぎて 丘にのぼれば見える船」と始まる歌。

 歌詞にもでてくるが,曲調もハワイアンチックであり,アメリカといってもハワイのようだ。とはいえ,実際には丘からその船を見ているだけだ。

 この頃,ハワイは憧れだったようで歌1)にもなっている。ハワイに憧れていたのは石本だけではないだろう。進駐軍やハリウッド映画からアメリカの豊かさを知り,アメリカに憧れ,最も近いアメリカとしてハワイがあった。

しかし,戦後しばらくは特別な理由が無い限りパスポートが発行されなかったので,何らかの理由で大金持ちになっていてもプライベートな海外旅行はできなかった。昭和39年に海外旅行が自由化されたが,このときでも外貨の国外持ち出しは年間500米トル以下に制限されていたのでホテルに何泊かすると年間限度額を超えてしまう。経費も理由の一つかもしれないが,この自由化後最も人気を集めた海外旅行先がハワイだった。

1)「憧れのハワイ航路」(昭和23年,詞:石本美由起,曲:江口夜詩,唄:岡晴夫)

 

青い山脈(2011.12.23)

昭和24年,詞:西條八十,曲:服部良一,唄:藤山一郎・奈良光江

 「若く明るい歌声に」で始まる明るい歌である。当時の記憶は全く無いが歌はよく知っている。当時の歌は寿命が長かったのだろう。当時の歌手のなかで藤山一郎が長い間歌手あるいは指揮者として紅白に出ていたことも関係しているかもしれない。紅白の最後の「蛍の光」はよく覚えている。

 いつまで戦後と言うのか知らないが,私が覚えている子供のころでも貧しかったので当時はもっとひどかっただろう。母の実家は新潟県の農家で,食べ物に困ったことはなかったのが,父が福岡県でサラリーマンをしていたので,食べ物に困るというようなこともあったらしい。給与が工場製品の現物支給だったりして,これを売るなり交換なりで食べ物を手に入れないといけないのだから。小さな社宅に住んでいたが,当時は土地は余っていたのだろう,少しは庭があった。庭でにわとりを飼ったり,野菜を植えたり,小さな池を作って中に鯉や鮒を飼っていた。少し離れたところにある池に釣りに行き,釣った魚は当然食べるのだが,生きの良いのなどを自宅の池に放しておくのだ。そういえば,近所の人が約1mの鯉を釣り上げた(最後は網で)というので見に行ったことがある。

その中でも明るい部分もあり,明るい部分を凝集したような歌だ。

 

イヨマンテの夜(2012.10.3)

昭和24年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:伊藤久男

 「アーホイヨーアー・・・」という出だしの雄たけび?のインパクトで歌詞が飛んでしまうような歌。子供の頃,のど自慢でよく聞いた歌だ。実際の歌は「熊祭り(イヨマンテ)燃えろかがり火」とはじまる。インパクトは詞や曲よりも伊藤久男の歌声だろう。

 この歌が最近あまりきかれないのは,ひょっとしたらどこかで自主規制が働いているのかもしれない。歌詞自体は「知床旅情」1)のようなもので問題がないと思うのだが,民族問題・宗教問題はどこからクレームがくるかわからないと恐れたのだろうか。恐らく,歌唱法が現代の流行でなくなったということなのだろう。

1)      「知床旅情」(昭和45年,詞:森繁久弥,曲:森繁久弥,唄:加藤登紀子)

 

栄冠は君に輝く(2012.11.29)

昭和24年,詞:加賀大介,曲:古関裕而,唄:伊藤久男

 全国高等学校野球大会の歌と副題がついているとおり,夏の甲子園で使われている。

 「雲は湧き光あふれて」とはじまり「ああ栄冠は君に輝く」と終わる。古関にはこのような曲がイメージに良く似合う。六甲颪1)も古関の作曲だ。

 スポーツは自分で本格的にやったことが無いのでスポーツ自体を見て楽しむということが少ない。つまり,高度な技術などを見てその技量に感嘆するというようなことが少ない。囲碁や将棋を観ていても自分とあまりにも技量が違いすぎると,適切な解説をつけてもらわないと解らないのと同様だ。贔屓の選手がいたり,チームがあったりするスポーツはそれなりに観る。オリンピックなどは特に贔屓にしていなくても,日本の選手というだけで応援しようという気になり,日本選手が好成績を挙げればそれなりに興奮もする。

 このようなスポーツ界で野球は贔屓のチームを作りやすい。高校野球はまず,自分の母校を応援しようという気になる。ローカルのケーブルテレビで県大会から中継をしているので,これは技量を別にして観る価値がある。タイムリーエラーがでようとも,そこにはドラマがある。1試合でも負ければそこで終りである。イチローのレーザービームのような凄いプレーがでても,それが敵の選手であれば賞賛するより罵りたくなるレベルの低い観戦者なのだ。

 私の母校は過去に一度甲子園夏の大会で優勝したことがある。その後も僅かではあるが数回甲子園に出場している。私は高校時代応援団に所属していた。当時は夏でも冬服の学生服を着ていて,夏の大会は本当に汗まみれだった。私の在学中は甲子園には行けず三岐大会までだった。当時は三重代表2校,岐阜代表2校計4校で三岐大会を行い,そこで1校が甲子園に出場できた。それでも県大会を勝ち抜き,三岐大会まで連れて行ってもらったのだから野球部には感謝している。私の青春の一ページと言ってよいだろう。

1)      「大阪タイガースの歌」(昭和11年,詞:佐藤惣之助,曲:古関裕而,唄:中野忠晴)昭和36年に球団名が阪神タイガースになり,最後の「おぉおぉおぉおぉ大阪タイガースフレーフレフレフレー」の大阪が阪神に変えられ,曲名も「阪神タイガースの歌」になった。「おぉ」も「大阪」の「おお」だったのが「おう」という単なる掛け声のようなものに変わった。

 

おゝブレネリ(2014.11.2)

昭和24年,訳詩:松田稔,スイス民謡

 「おゝブレネリ あなたのおうちはどこ」と始まる歌。「ヤッホー ホトゥラララ・・・」のコーラスで終わる。

 英語の歌詞を日本語に訳したらしいが,2番以降は英語の歌詞と関係が薄そうなので松田の作詞ではないだろうか。

 日本語の詞では「わたしの仕事は羊飼いよ おおかみでるのでこわいのよ」などとあるが曲調は明るく朗らかな曲で,狼の心配をしているようには感じられない。

 ところで,FORTRAN1)という計算機プログラミング用の言語がある。これがIBMから初めて発表されたのは昭和29年だが,私がいた大学には昭和45年でもFORTRANが使えるコンピュータは私の手に届く範囲になかった。正確に言えば,学内の研究所のひとが作ったFORTRANコンパイラ(翻訳機)があり,使えないことはなかったのだが,メーカーから購入したものではなかった。その後,学内に大型計算機センターが作られ,そこのコンピュータは当然というべきだろうがFORTRANが使えた。理系で電子計算機を使おうという者にとってFORTRANは必須科目になったのだ。その頃なのだろうか,この歌の替え歌でFORTRANの歌というのがあったらしい。

1)FORTRAN:高水準プログラミング言語の一種。数値計算に適している。

 

悲しき口笛(2013.5.28)

昭和24年,詩:藤浦洸,曲:万城目正,唄:美空ひばり

 「丘のホテルの赤い灯も」と始まる歌。

 当時のひばりの歌声はとても魅力的だ。美声というのではないし,歌が上手い・・・もちろん上手いのだが・・・特別上手いわけではないように思う。ただ,この頃,ひばりは12歳くらいではないだろうか。「いつかまた逢う指切りで」というような部分は小学生らしくて微笑ましいともいえるが,小学生に「夜のグラスの酒よりも」などという歌を唄わせるのはいかがなものかと,年寄りの私は思う。

 とはいえ,どこか他にも書いたが,私はひばりの歌では初期の歌のほうが好きだ。後年ひばり自身が唄った同じ歌よりもだ。

 

かりそめの恋(2016.4.4)

昭和24年,詞;高橋掬太郎,曲:飯田三郎,唄:三條町子

 「夜の銀座は七いろネオン」と始まる歌。

 しかし当時の銀座はどのような状況だったのだろうか。私はまだほんの子供だったので実際の所は全く解らない。

 「どうせ売られた花嫁人形」とか「金の格子の鳥籠」から自由意志ではなく「夜の銀座」にいるようだが,「ふと触れ合うた指」を強く意識するなど,世が世なら深窓の令嬢だったのだろうか。

 昭和39年に大津美子,そのほかにも多くの歌手がカバーしている。

 

銀座カンカン娘(2012.6.6)

昭和24年,詞:佐伯孝夫,曲:服部良一,唄:高峰秀子

 「あの娘可愛いやカンカン娘」で始まり,「これが銀座のカンカン娘」と終わる。同名タイトルの映画の主題歌。

 「カンカン娘」の意味は不明だが(当時の風俗に怒り心頭,カンカンという説あり),単なるお転婆娘ではないかと思う。「虎や狼恐くはないのよ」とか「男なんかにゃ騙されまいぞえ」などとツッパッているが,「初恋の味」の乳酸飲料を二本のストローで「顔を見合わせチュウチュウチュウチュウ」などというところは高峰秀子だからこそ許されているのだろう。

 戦後の復興期の歌だが,昭和30年代に入っても,地方ではまだ貧しい生活が続いており,東京へ行けば誰でもこのような生活ができるかとあこがれて上京したのではないだろうか。

 

玄海ブルース(2015.4.12)

昭和24年,詞:大高ひさを,曲:長津義司,唄:田端義夫

 「情け知らずと わらわば笑え」と始まる歌。

 「どうせ俺らは玄海灘の」という箇所しか覚えていないが。玄海灘と玄界灘は同じ場所のようだ。玄界灘は唐津湾の沖と言ってよいだろう。私は小学2年生の夏休みまで八幡市(現北九州市八幡区)に住んでいた。玄界灘までかなりの距離だが,それでも北九州沖ということで玄界灘という地名には馴染があった。あるいは歌を聴いていたからこの地名が耳に残っていたのかもしれない。

 幼い私には「男船乗り」のこの歌は理解できなかったが,「ひとにゃ見せない男の泪」ということで男は涙を見せてはいけないのだと何となく感じていたのだろう。

 

さくら貝の歌(2013.1.25)

昭和24年,詞:土屋花清,曲:鈴木義光

 「美わしきさくら貝ひとつ」と始まる歌。鈴木義光は八洲秀章の本名である。作られたのは昭和14年らしい。鈴木が八洲を名乗る前の作ということなので作曲者を鈴木としたが,八洲秀章の曲として良く知られている。昭和24年はNHK「ラジオ歌謡」で放送されて人気になった年である。

 「去りゆけるきみに捧げん」と去ってしまった女性に去年拾った貝を捧げるというので,単に振られた女性に・・・ということであれば,何と軟弱な・・・となるが死別である。表現が抑制された歌詞からは死別であることはわかりにくいかもしれないが,再び逢うことはできないという思いが歌詞から滲み出ている。

 この歌で歌われた女性は18歳で胸の病に負けてしまう。ストレプトマイシンが昭和18年に発見され,その後特効薬になるまでは,多くの若者が結核で命を落とした。

 いろんな歌手が歌うのを聴いたが,出だしは倍賞千恵子が抜群にいい。歌詞としては最後の部分が最も重要だと私は感じるのだが,この部分の歌唱は鮫島有美子のほうが若干好みだ。男歌ではあるが,この美しく哀しい歌には美しい女声が良く似合う。

 

三味線ブギウギ(2016.7.5)

昭和24年,詞:佐伯孝夫,曲:服部良一,唄:市丸

 「三味線ブギーでシャシャリツシャンシャン」と始まる歌。

 「同じ阿呆なら踊らにゃ損だよ」とどこかで聴いたことがあるようなフレーズのほか,「飲んだ酒なら酔わずにいらりょか」,「茄子もかぼちゃも景気もよくなる」,「花と名がつきゃ何でも好きだよ」などとある種の盆踊り唄のように連想が続く。曲も盆踊りに使えそうな曲だ。

 

月よりの使者(2012.4.7)

昭和24年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:竹山逸郎・藤原亮子

 「白樺ゆれる高原に」と始まる歌。久米正夫の同名小説が何度も映画化やテレビドラマ化されていて,その主題歌らしい。ヒロインを追うと,映画では昭和9年版が入江たか子,昭和24年版が花柳小菊,昭和29年版が山本富士子,テレビでは昭和36年版が喜多道枝,昭和41年版が長内美那子,昭和47年版が北川めぐみということらしい1)。私が観た可能性が最も高いのが長内美那子版だ。歌自体はなぜか以前から知っていて,たまたまテレビドラマでこの曲が流れていた。昼メロを継続的に観る時間もなかったので,ストーリーが解るほど観たわけではないが,結核療養所の患者二人と看護婦のメロドラマだ。

 ストレプトマイシン登場前には不治の病に近いと思われていた結核の療養には長い時間を必要とした。このような状況で白衣の天使に恋心を抱くのは自然な流れであろう。「君は月よりの使者 地上にては余りにも麗しく 余りに又冷たかりしも」というのは恋に破れて自殺した男が残した詩の一説だ。本当は「冷たく」なくても,他の患者と全く区別なく対応されていても,それが「冷たく」感じるのが恋心であろう。

 看護婦が登場するメロドラマといえば「愛染かつら」2)を思い出すが,こちらは医師と看護婦の話だ。そういえば橋幸夫の曲にも「白い制服」3)というのがあった。「高原の駅よ,さようなら」4は看護婦が出てくるが相手は患者じゃないようだ。

1)ウィキベディアによる。

2)川口松太郎の小説。田中絹代・上原謙,水戸光子・龍崎一郎,京マチ子・鶴田浩二,岡田茉莉子・吉田輝雄などのキャストで何度も映画化されている。「旅の夜風」は田中・上原版の映画の主題歌である。

3)佐伯孝夫:「白い制服」(昭和38年,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

4)佐伯孝夫:「高原の駅よ,さようなら」(昭和26年,曲:佐々木俊一,唄:小畑実)

 

東京の青い空(2019.10.3)

昭和24年,詞:石本美由起,曲:江口夜詩,唄:岡晴夫

 「鳩が飛び立つ 可愛い可愛い鳩が」と始まる歌。

 とにかく明るい歌だ。

 当時のことを直接知っているわけではないが,話を聞いたり読んだり,あるいは実際に記憶のある昭和30年代の状況から想像はできる。

 戦争が終わり,空襲がなくなり,出征していた者が復員してきて家族がそろったということだけでも希望が持てただろう。食糧を始めとしてすべてが不足してはいた。バラックが立ち並び,浮浪者も少なからずいた。それでも猫の額程度の庭に,茄子・トマト・キュウリ・馬鈴薯・甘藷,その他簡単に作れるものは何でも作り,小さな鶏小屋で鶏を飼うなどして自給自足に近い生活をしていたが,近所は皆同じような生活なので他をうらやむこともなかった。

 ところが,この歌では「お茶をのんだり シネマを見たり 寄せる笑顔に あふれる若さ」などととても幸せそうだ。歌には傷痍軍人のような戦争を思い出させるものは何も登場しない。地方にいてこの歌を聴くと,東京はどんなにいい所なのだろうと思っただろう。

 私が喫茶店でお茶をのんだりするようになったのはずっと後のことだから時代が違う。しかし映画は観た。テレビ放送が始まる前で,映画は大きな娯楽の一つで多くの映画館があった。しかし,地方では映画館すら多くはなかった。昭和30年代にはまだ巡回映画があり,夜,学校の校庭に大きなスクリーンを設置して映画が上映されていた。

 自分が住む地方と東京は全く違って感じられたことだろう。

 

長崎の鐘(2012.1.19)

昭和24年,詞:サトウ・ハチロー,曲:古関祐而,唄:藤山一郎

 「こよなく晴れた青空を」と悲しい唄だが途中で転調して鐘の音に慰められ励まされる。

 昭和2089日の長崎,よく晴れた青空に突然「ピカ・ドン」と原爆が爆発した。長崎医科大放射線科の永井先生は長時間にわたる被災者治療の後自宅に帰り,台所があったはずのあたりで人骨の一部と奥さんのロザリオを見つける。二番の歌詞は「召されて妻は天国へ」で始まるが,いくら戦争だとはいえ,こんな悲しいことがあって良いのだろうか。

 この日,対日参戦の意を固め,日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連が満州方面や樺太南部に侵攻しはじめ,多くの日本人がシベリアに抑留された。これに先立ち86日には広島にも原爆が投下されている。

 鐘は浦上天主堂のものである。浦上天主堂へは高校の修学旅行で行った。カトリックの教会である。プロテスタントの教会なら原爆投下を躊躇しただろうか。

 この曲の歌詞には原爆を示唆するものは何もない。当時はラジオ・新聞・雑誌などGHQ1)により検閲されていた。これまでGHQにより禁止されていた国旗掲揚は昭和24年に許されるようになったが,検閲はまだ続いていたのである。GHQの主体は米国であり,日本が二度と米国に反抗することがないよう,工業・教育・娯楽等多方面から日本人の活動に規制をかけた。

1) General Headquarters。連合国総司令部。要するに占領軍司令部で,司令長官は米国陸軍のダグラス・マッカーサー元帥。

 

夏の思い出(2012.8.6)

昭和24年,詞:江間章子,曲:中田喜直

 「夏が来れば思い出す」と始まる美しい叙景歌。この歌も主旋律以外を覚えているので,恐らく学校で習ったのだろうが,いつのことか記憶にない。

 昭和24年なら,夏の思い出といえば新型爆弾とか戦争の終結ということではないかと思うが,なぜ尾瀬なのだろう。敗戦の事実を思い出すより,生活は苦しくとも美しい自然がある。国敗れて山河在り1)というところだろうか。この歌ができた時代を思うと,美しい自然がいっそう愛おしくなる。

1) 杜甫:「春望」: 国破山河在 城春草木深 ・・・

 

ハバロフスク小唄(2013.3.26)

昭和24年,詞:野村俊夫,曲:島田逸平,唄:近江俊郎/中村耕造

 「ハバロフスク ラララ ハバロフスク ラララ ハバロフスク」と始まる歌。二番は「母の顔 ラララ 母の顔 ラララ 母の顔」,三番は「元気でね ラララ 元気でね ラララ 元気でね」である。ハバロフスクはシベリアの都市で,戦後,日本人の強制収用所があった。抑留されていた人々によって歌われていた望郷の歌である。米山正夫が日本に紹介しレコード化されたのだが,その後林伊佐緒の歌1)の替え歌だと判明し,島田の曲ということになった。

 調子の良い曲で,一杯飲んで,手拍子で歌いたくなるようなメロディーだ。歌詞もそれにあっているが,歌っていた人々は宴会などとんでもない,強制労働の毎日であったであろう抑留者だ。ポツダム宣言受諾後になだれ込んできたソ連軍に拉致され突然極寒の地に連行されてしまいさぞかし無念だったことだろう。

 しかし,この歌には身の不運と故郷を思って泣いているイメージよりも,強制労働に従事しながら,こんな所で死なないぞ,絶対に生きて帰るんだと闘志をたぎらせているイメージのほうが強い。この歌が抑留者の心の支えになっていたとしたら,歌の力は強い。

1)      「東京バレード」(昭和15年,詞:中川啓児,曲:島田逸平,唄:林伊佐緒)

 

薔薇を召しませ(2018.1.12)

昭和24年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄:小畑実

 「若いあこがれ 楽しい夢を」と始まる。

 「歓びの街に咲くロマンスの甘い花」や「乙女ごごろは夢見る小鳩」の詞からこのような時代だったのかと思うかも知れないが,実際は「人知れず胸に咲く」というような時代だったことは最初の「あこがれ」という言葉に現れている。

 特需で景気が向上した朝鮮戦争が始まったのが昭和25年だから,それまでは戦後の最も苦しい時代だったろう。大戦が終わり,歌の世界にもあった種々の制約がとれ(別の方向の制約はあったが)せめて歌だけは明るくということで,人々もそれを求めたのだろう。

 

バラを召しませ(2019.12.4)

昭和24年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄:小畑実

 「若いあこがれ 楽しい夢を そっと相呼ぶ 二つのこころ」と始まる歌。

 「ロマンスの甘い花」が咲くといいなという,夢を歌ったものだろう。生活が楽だったとは思えないが,このような夢をおおっぴらに唄えるようになっただけでも明るさを感じたことだろう。

 

べこの子うしの子(2016.5.26)

昭和24年,詞:サトウ・ハチロー,曲:中田喜直

 「べこの子 うしの子 まだらの子」と始まる歌。

 ホルスタインの歌かと思ったが,二番は赤べこだ。

 童謡一般の印象は唱歌と似た印象だが,唱歌の方が歌詞が教育的?に感じる。ところがこの歌は童謡・唱歌と印象が大きく異なり,わらべ歌のような印象を受ける。わらべ歌ならもっと鄙びた印象のはずだが,何となくバタ臭いわらべ歌という感じで,メロディーのせいなのではないかとも思うのだが,なぜこのように感じるのか私にはよく解らない。

 

麗人草の歌(2019.11.4)

昭和24年,詞:松村又一,曲:加藤光男,唄:林伊佐雄

 「愛の涙に やさしく濡れて 咲くが女の 命なら」と始まる歌。

 松竹映画『麗人草』(初代水谷八重子)の主題歌。

 話はよく解らないが,「いまはかえらぬ 夢哀し」とあって「いくとせ越えて」「咲いて香れよ 麗人草の 花は紅 あの丘に」なので昔の思い出なのだろう。「嘆きの窓に 強く生きよと 夢に呼ぶ」などとあるので現在は困難な状況にあり,思い出だけにすがって生きているのか。

 話が分かりにくい原因は,作詞者の視点がよく解らないからだろう。途中までは女主人公の視点ではないかと思うのだが,最後はこの女主人公を観察している者の視点になっているからではないかと思う。

 私はこの映画を知らないが,映画を観た者にとっては歌詞の一言一言が重要なのではなく,全体の雰囲気が映画に合っていればそれで充分感情移入できるのだろう。

 

赤い靴のタンゴ(2014.7.30)

昭和25年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:奈良光枝

 「誰がはかせた赤い靴よ」と始まる歌。

 ラジオアナウンサーが美人歌手奈良光枝と紹介するほどの美人だったらしい。そういえば,昔は,顔が映画スター向きじゃあないので歌手になろうかなどという話もあった。当時はテレビもないのでラジオ放送を聴きながら想像していたのだろう。ブロマイドの売れ行きなどさぞ良かったのだろうと思って少し調べてみたが,昭和2430年の集計では,美空ひばり,中村錦之助,大川橋蔵,東千代之介,佐田啓二、岸恵子などが上位に挙がっている。

 タンゴの関してはほとんど知識がない。バンドネオンがあればアルゼンチンタンゴ,アコーディオンならコンチネンタルタンゴかと思う程度だが,この分類は必ずしも正しいとは限らないらしい。

 この歌は聴いたことがないことはないという程度にしか知らない。

 

憧れの住む町(2020.8.31)

昭和25年,詞:清水みのる,曲:平川浪竜,唄:菅原都々子

 「丘を越え 山を越え あこがれの 住む町に」と始まる。

 「憧れの住む町」を目指して旅しているようだ。移動手段は明示されてはいないが,徒歩のように感じられる。

 昔も今も,憧れの町というのがあるのだろう。しかし,目的の町に着いても,そこが想像していた通りの町であるとは限らない。

 この旅が苦労の多い旅なのか,希望に満ちた旅なのか,明確には判らないが,「夢をだいて ゆくよ はるばると」ということなので将来の不安より希望が大きいのだろう。

 終戦後5年,将来の不安は大きいが,それより大きな希望があった時代だったのだろう。

 

夜来香(2013.10.23)

昭和25年,詞:黎錦光,日本語詞:佐伯孝夫,曲:金王谷,唄:山口淑子

「あわれ春風に嘆くうぐいすよ」と始まる歌。

原曲は昭和19年,李香蘭の唄である。金王谷は黎錦光と同一人物で作詞と作曲で違う名前を使っている。歌手の李香蘭は山口淑子の中国名だ。芸名とかではなく,中国人李の義理の娘としての名前だが詳細を知りたい人はWikipediaの山口淑子などを参考にしていただきたい。

この曲に特別な思い入れはないが,歌詞をながめていて「嘆くうぐいすよ」という箇所に引っかかりを感じた。「月に切なくも匂う夜来香」とあるので夜の歌だと思うのだが,うぐいすが夜啼くのだろうか。中国語の歌詞を見ると「那夜鶯啼声凄○」とある。○は手書き入力を使っても漢字変換できなかった文字だ。これによると啼いているのは夜鶯らしい。そこで「夜鶯」を調べると,Wikipediaで簡単に見つかり,「サヨナキドリ」英名Nightingaleのことだそうだ。佐伯孝夫は字あまりを嫌って夜をとったのだろう。

李香蘭は昭和206月,上海で昼夜2回の演唱会を3日連続で開いているとか。昭和20年といえば310日の東京大空襲,326日には硫黄島玉砕。41日には米軍が沖縄本島に上陸,621日には沖縄が米軍に占領されている。内地ではとてもこのようなコンサートを開催している場合ではなかっただろう。当時の上海はどのような状況だったのだろうか。

 

越後獅子の唄(2013.5.17)

昭和25年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:美空ひばり

 「笛にうかれて逆立ちすれば」と始まる歌。当時ひばりは13歳くらい。少女っぽいか細い声でうたっていて,「わたしゃみなしご 街道くらし」と唄うところなど,可憐さが良く出ている。

 「越後獅子」というのは直接見たことがない。Wikipediaによると大道芸としては明治時代に衰退というので,この当時にはなかったのだろう。昭和8年の『児童虐待防止法』により児童の大道芸が禁止されていると同記事にも記載されている。「越後獅子」と「角兵衛獅子」は同じものらしいが,角兵衛獅子なら嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』で御馴染みだ。

 当時はまだ戦後の貧しい時期である。戦災孤児も多数いただろう。田舎では生活できないからだろうか,実際に見ることはなかったが,傷痍軍人は居た。この年朝鮮戦争が始まり,朝鮮特需で景気が上昇するが,景気上昇の実感はもう少し後ではないだろうか。池田勇人蔵相が「貧乏人は麦を食え」と言って話題になった。マリー・アントワネットが「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言ったかどうかは知らないが,池田蔵相はどのような考えでこのような発言をしたのであろうか。

 今,ひばりの歌をまとめて聴いてみると,やはり私は少女時代のひばりのほうが好きだ。

 

想い出のボレロ(2020.12.5)

昭和25年,詞:藤浦洸,曲:万城目正,唄:高峰三枝子

 「山川越えて 想い出は ながれる雲か 夜の霧」と始まる。

 同タイトルの松竹映画の主題歌だそうだ。

 「くるしい恋は」という詞があるのでそのような歌なのだろうが,インターネットで読んだ映画の粗筋とどのような関係があるのか解らない。

 極めつけは「むなしくかけた 夜の虹」だ。物理学というか気象学上では虹の出現には太陽光が必要だから「夜の虹」というのはありえない。何かの比喩なのかと考えても良く解らない。「夜の霧」につられて二文字の言葉として思わず「虹」と書いてしまったのではないか。月の光でも虹はでるのだろうか。

 藤浦洸といえば『二十の扉』や『私の秘密』などのNHKラジオやテレビの番組に出ていたことを思い出す。

 

買物ブギ(2013.3.14)

昭和25年,詞:村雨まさを,曲:服部良一,唄:笠置シヅ子

 「今日は朝から私のお家はてんやわんやの大さわぎ」と始まる歌。私の印象でいえばパワフルな大阪オバちゃんという感じの笠置シヅ子の歌だ。これは歌詞の面白さと歌手のキャラクターで聞かせる歌ではないだろうか。「わてほんまによう言わんわ」が9回,「おっさん」は19回出てくる。

 笠置シヅ子には『東京ブギウギ』1)という歌などもありブギの女王と呼ばれていた。東大総長の南原繁が後援会長だったらしい。美空ひばりは川田一座にいた当時,笠置シズ子の歌まねで有名で,『ベビー笠置』と呼ばれていた。これをサトーハチローは「大人の真似をするゲテモノの少女歌手」と評しているらしい。

 ところで,ブギだが,どんなものか私には良く解らない。東京ブギウギや買い物ブギはブギという名がついているのでこれらはブギなのだろうと思うだけだ。

1) 「東京ブギウギ」(昭和23年,詞:鈴木勝,曲:服部良一,唄:笠置シヅ子)

 

玄海灘の狼(2018.7.18)

昭和25年,詞:清水みのる,曲:倉若晴生,唄:田端義夫

「なみのしぶきか かもめのうたか」と始まる歌。

東宝映画『海のGメン玄海灘の狼』の主題歌。

小さな子供だった頃,家にこのレコードがあった。他にもレコードはあったのだろうがあまり記憶はない。このレコードがお気に入りだったのだろう。手回しゼンマイ式の蓄音機(名前と異なり録音はできない)で何度も聴いた。タイトルなどは覚えていなかったが,たまたまYouTubeで発見した。前奏も唄い出しも私が覚えている曲そのままだが,途中から私の記憶と歌詞もメロディーも違っている。私が複数の歌を混同して覚えていたのだろうが,もうひとつの歌が何なのかは未だに解らない。

 

桑港のチャイナ街(2012.9.23)

昭和25年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:渡辺はま子

 「サンフランシスコのチャイナタウン」という歌。

 歌詞の表記に「黄金門湾」などとあり,時代と異国情緒を感じさせる。「蘭麝の香り」などというのも「らん」と「じゃこう」らしいが,妖しい香りの響きがする。編曲も時代を感じさせる編曲で,私の耳に馴染む。

 渡辺はま子は横浜生まれで本名は「浜子」とのこと。明治生まれで,私が知っているのはかなりの年配になってからなので「はま子」と聞くと「子」がつく名前でもかなりの年配であるように感じてしまう。両親の里の周辺では昔は二文字名前が多かったようだ。「磯野フネ」というようなカナ二文字の名前を聞くと私の母親の世代だと連想してしまう。「子」がつく名前は私の世代だと思うのだが,さすが横浜のような都会では名前のつけ方も進んでいたのだろう。もっとも「フネ」さんの娘でも「磯野サザエ」というのは私の世代の名ではないように思う。

 もっとも,平安時代に嵯峨天皇が内親王には「子」をつけたので,鎌倉時代には貴族の女性名には「子」が広まっていたらしい。横浜とか地域によるものではなく「子」は上流階級の女子につけられたのだろう。

 表題の歌に戻るが,中国人の排他的バイタリティに脱帽である。チャイナタウンが形成されている大都市が世界中にある。他の国の人々も同国人で群れることはあるがチャイナタウンはどこでも規模が大きい。中国やインドは人口も日本より桁違いに多いので同じ土俵で戦えば負けるのは必然だ。個人的に付き合えば共通点は多数あるが,全体としては異なる点がいくつもあるので,異なる点を十分認識して日本に有利な土俵で戦うようにするべきであろう。国際政治の上で,日本が相手の土俵に上がっているように見えるのは私の眼が曇っているのだろうか。

 

白い花の咲く頃(2012.3.24)

昭和25年,詞:寺尾智沙,曲:田村しげる,唄:岡本敦郎

 「白い花が咲いてた」という出だしの歌である。そういえばこの歌にも「おさげ髪」がでてくる。「さよならと言ったら黙ってうつむいてた」のだからやはり悲恋の一種だろう。幼馴染と離れ離れに暮らすことになる直前のことを思い出しているようだ。淡い初恋というところか。白い花,白い雲,白い月はどこにでもありそうで。程度の差こそあれ,誰にも当てはまる。

 そういえば「花鳥風月」が昔から日本人の心をとらえて来たと観念的に思っていたが,歌謡曲の分野では「鳥」よりも「雲」のほうがよく歌われているようだ。

 この年,朝鮮戦争が始まる。在日米軍は朝鮮半島に移動,日本はGHQの指示により警察予備隊を作る。警察予備隊は昭和27年に保安隊となる。これがその後の陸上自衛隊へと発展していく。

 

白い花の咲く頃(2012.5.26)

昭和25年,詞:寺尾智沙,曲:田村しげる,唄:岡本敦郎

 「白い花が咲いてたふるさとの遠い夢の日」という出だしの歌で好きな歌のひとつである。故郷を出るとき,おさげの娘に,山に,木に,「さよなら」と云ったときのことを思い出している。山があり,木があるのだから故郷は田舎だろう。田舎娘が純真だというのは都会娘に対する偏見かもしれないが,やはり純真というイメージがある。故郷を離れて今どこに居るのかといえばゴビ砂漠やモンゴルの草原ではないだろう。遠洋漁業に出ているとも感じられないし南極越冬隊でもないだろう。故郷と似た田舎に居るとも思えない。やはり,都会で仕事に疲れている感じをうける。このような感傷に浸っていて,更に落ち込んで行く可能性がないとは言えないかもしれないが,思い出から元気を貰い,明日は元気を取り戻していつもどおり働けるように感じる。

 「おさげ髪」に魅かれるようになったのはこの歌が原因かもしれない。しかし歌に出てくるおさげ髪で思い出す少女は「さよなら」をいう場面ばかりだ1)

1)「わすれないさ」(昭和36年,詞:三浦康照,曲:山路進一,唄:北原謙二),「長いお下げ髪」(昭和37年,詞:神津善行,曲:神津善行,唄:守屋浩)など。

 

白い船のいる港(2021.7.11)

昭和25年,詞:東辰三,曲:東辰三,唄:平野愛子

 「青い海に 白い船 今日もみえるけど」と始まる。

 「恋し姿 何故か見えぬ」ので「キャバレーの中で 苦いお酒に酔いしれて」とあるが,キャバレーの客ではないだろう。結局「待てど待てど 到々来なかった」と他人にとってはこれだけの歌。本人にとっては待ち人来たらずは大きな問題だろうが。

 

ダンスパーティの夜(2013.7.16)

昭和25年,詞:和田隆夫,曲:林伊佐緒,唄:林伊佐緒

 「赤いドレスがよくにあう 君と初めて逢ったのは」と始まる歌。

 当時の記憶は全くないが,この歌のところどころには記憶がある。懐メロ番組できいたのだろうか。あるいはのど自慢などで唄う人がいたのかも知れない。

 この時代の記憶はないのでもう少し後の記憶にある時代の話をしよう。

 私の学生時代がダンスパーティが盛んだった最期の時代かもしれない。部活動の活動費を捻出するために,部主催のダンスパーティがよく開かれていた。下級生はパーティ券の販売ノルマを課せられる。大学祭ではフォークダンス大会が一つの場所で開催されているかと思うと別な場所では社交ダンスのパーティが開催されていた。合ハイ(合同ハイキング)というのはあったが合コンなどという言葉のない時代だ。

 その後は,ディスコにとって代わられ,バブルの時代になっていく。私の所謂学生時代の前の時代にはゴーゴー喫茶というのがあった。モンキーダンスの前のゴーゴーダンスをする喫茶店?だ。歌声喫茶が流行ったのはもう少し前だろうか。

 ブルースはいつの時代でも踊られていたようだが,ワルツやタンゴは素人はほとんど踊らなかったのではないか。もちろん曲はあったので,踊る人は踊っていたのかもしれない。

チャチャチャとかマンボ・ルンバ・ツイスト等々,いろんなリズムがあったが,順序はどうだったか記憶が混乱している。チャールストンなどというのもあった。しかし,私の学生時代に多かったのはジルバだろう。少し前のハリウッド映画では良く踊られていたし,スタジオNo.1ダンサーズなどの踊りも,テレビでよく観ていたからだろう。

 

東京キッド(2013.1.16)

昭和25年,詞:藤浦洸,曲:万城目正,唄:美空ひばり

 「歌も楽しや東京キッド」と始まる歌。このときひばりは13歳だろうか。美空ひばりが出演している同名の映画があるのでその主題歌なのだろう。

 「左のポッケにゃチュウインガム」とか「もぐりたくなりゃマンホール」などという歌詞からは孤児のようにも感じられるが,そうではないようだ。チュウインガムなどとハイカラなものを持っているような成金の子ではなく,進駐軍からもらったものという感じを受けるし,「フランス香水チョコレート」というのも進駐軍を連想させる。

 映画でも観ていれば,きっと可憐な演技で,この歌にも惹かれたかもしれないが,残念ながら映画は観ておらず,ひばりが十分成長した後にテレビの懐メロ番組で歌うのを聴いただけなので特にこの歌に魅力は感じなかった。

 もう少し後に,直接ラジオから流れてくるのを聴いていたひばりの歌には良い歌がいろいろあったのだが。

 

トンコ節(2012.11.19)

昭和25年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:久保幸江,加藤雅夫

 「あたなのくれた帯どめの」という歌。西條八十もこのような詞を書くのかとやや意外な下ネタ系の歌詞である。昭和24年に久保幸江と楠木繁夫で出ているがこれはあまり売れず,加藤雅夫との歌がヒットした。「ほれた私がわるいのか迷わすおまえがわるいのかネートンコトンコ」というわけだ。

 この年の大事件はやはり朝鮮戦争だろう。警察予備隊(自衛隊の前身)が作られ,レッドパージが始まった。禁止されていた「君が代」の演奏も許可になった。戦争で必要になるだろうからと金属が売り惜しみされて高騰し,インフレが進行,初めて1000円札が発行された。どん底だった日本経済も,その後の朝鮮特需で上向きに転じた。

池田勇人大蔵大臣は「中小企業の一部倒産は止む無し」とか「貧乏人は麦を食え」などと言って物議を醸した。吉田茂首相が南原繁東大総長を曲学阿世の徒と批判したり,日大ギャング事件の犯人の少年が逮捕される際に「オー・ミステーク」と叫んだり,いろんなことがあった年である。

 

べサメ・ムーチョ(2022.7.10)

昭和25年,詞:コンスエロ・ベラスケス,曲:コンスエロ・ベラスケス,唄:黒木曜子 

 「べサメ べサメ ムーチョ 燃ゆる口づけを交わすたびに」と始まる。

原曲は昭和15年,ベラスケスはメキシコの人。作ったのは16歳の誕生日前だったらしい。

 「も一度 またも一度 燃ゆるあの口づけ」と激しい愛のようだが,この歌は重病で最後が近いことを悟って,見舞いに来ていた妻に「いっぱいキスして」との告別の歌だとか。

 そのように聞くと,愛の曲なのにメロディーに溢れる哀しみの秘密が理解できる。

 

星影の小径(2016.3.26)

昭和25年,詞:矢野亮,曲:利根一郎,唄:小畑実

 「静かに静かに手をとり手をとり」と始まる歌。

 歌詞に「アイラブユー アイラブユー」などとカタカナが入り,曲も西洋風である。Wikipediaによれば利根が小畑にクルーナー唱法で唄わせたいと作った歌らしいが,小畑はそんな変な唱法でなくても普通に唄えたのではないか。クルーナー唱法というのは全く知らないのでにわか検索でなんとなく解ったつもりになったところでは,鼻濁音のようにやや鼻にかかるような柔らかい声を出すらしい。当然かどうかは知らないが,声量が落ちるのでマイクを上手く使うテクニックと込みの唄い方のようだ。『高原の駅よさようなら』1)などもこの歌唱法なのだろうか。そういえば『貫太郎月夜歌』2)よりも優しく唄っている感じを受ける。

 この歌は大ヒットしたそうだが,このようなバタ臭い歌を唄う小畑実は私好みではない。

ちあきなおみがカバーしたの(ちあきの引退後,平成になってからシングル発売)を聴いたことがあるが,ちあきのけだるそうな唄い方の方がずっと私好みだ。多くの歌手がカバーしているので演歌歌手がカバーしているバーションも聴いてみたが,この歌の私の評価はちあきバージョンが高い。但し,ちあきバーションは音楽ジャンルとして私好みのジャンルではない。

1)「高原の駅よさようなら」(昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:小畑実)

2)「勘太郎月夜唄」(昭和18年,詞:佐伯孝夫,曲:清水保雄,唄:小畑実/藤原亮子)

 

ボタンとリボン(2024.9.12)

昭和25年,詞:J.Livingston/R.Evans,訳:鈴木勝,曲:J.Livingston/R.Evans,唄:池真理子

 「都が恋し 早くいきましょう」と始まる。田舎はいやだ,都会に行きたいという歌。

 毎回「バッズァンボゥ−ズ」と終わるのだが意味不明。恐らく,タイトルの「Buttons and Bows」と言っているのだろうが私の英語力では聴き取れない。私には「バッテン・ボー」と聞こえていた。

 

水色のワルツ(2013.9.5)

昭和25年,詞:藤浦洸,曲;高木東六,唄:二葉あき子

 「君に逢ううれしさの胸に深く」と始まる歌。

 高木東六はクラシックの作曲家だろう。ワルツといえばクラシックの中でもダンス曲ということなので違和感はないが,私が知っているワルツの中で最もスローなワルツではないだろうか。詞がついているので歌謡曲かもしれないが,クラシックの一種だろう。二葉あき子の歌唱も美しい。

 藤浦洸は『二十の扉』)や『私の秘密』2)などで知ってはいたが,このような歌を作った作詞家だとはしらなかった。いろんな内容の歌詞を作っており,作詞家の頭の中はどうなっているのだろうと思ってしまう。阿久悠などもそうだが,見た目には全く似合わないと思うような歌詞も多い。

 歳をとると速いテンポについていけなくなり,このようなスローな曲も良いと思うようになるが,高齢者が唄うにはキーが高すぎる。

1)      「二十の扉」: NHKラジオのクイズ番組。(昭和22年〜昭和35年)

2)      「私の秘密」: NHKテレビのクイズ番組。(昭和31年〜昭和42年)

 

民族独立行動隊の歌(2016.5.10)

昭和25年,詞:きし・あきら,曲:岡田和夫

「民族の自由を守れ」と始まる歌。

「栄ある革命の伝統を守れ」とあり,革命歌だ。「血潮には正義の血潮もて」と血で血を洗う武力闘争を肯定していると感じられる歌。「国を売る犬どもを」などとあり,使われている表現も下品に感じる。上品な革命はないということだろうか。

世界中で過去に何度も革命あるいは政体の変更がなされてきた。血を流し政体変更へ尽力した人の何人かは名を残したが多くの人は名すら残していない。自らは血を流すことなく扇動しただけで新しい政権をとった者もいたのではないだろうか。

最大多数の最大幸福1)と言っても幸福の感じ方は時代や地域最終的には個人によって異なる。平等や公平という言葉も前提条件が違えば意味する内容は異なる。人々が生活する環境は,科学技術の進歩をはじめとして日々変化している。ある時点で最適と思われた形も時が経てば,あるいは異なる地では最適ではないかもしれない。従って教条主義は排すべきものであり,グローバリゼーションには疑問が多く残る。

重要なことは歴史から学ぶべきだろう。歴史の解釈は当然時代によって変わりうるものだが,歴史の捏造や抹消は子孫の判断を誤らせる元となるのでしてはならないことだ。もちろん,悪意が無いにも関わらず埋もれてしまった歴史が多数あることを忘れてはならない。

1)the greatest happiness of the greatest number: Jeremy Bentham18世紀末から19世紀にかけてのイギリスの哲学者・経済学者・法学者。功利主義の創始者。)の思想の一端を示す言葉。当然利害対立の問題なども検討されているが詳細は省略。

 

山のかなたに(2014.9.12)

昭和25年,詞:西條八十,曲:服部良一,唄:藤山一郎

 「山のかなたにあこがれて 旅の小鳥も飛んで行く」と始まる歌。

 映画の主題歌らしいがこの映画は知らない。原作は石坂洋二郎の小説で,『青い山脈』と同様,戦後の青春小説だ。昭和41年にはテレビドラマになっているそうだがこれも知らない。

 『青い山脈』に勝るとも劣らない青春歌謡の名曲のひとつだが,懐メロ番組では出番が少ないようだ。この時代・この歌手で1曲となると軽快でノリやすい『青い山脈』が選択されるのだろう。

1)「青い山脈」(昭和23年,詞:西條八十,曲:服部良一,唄:藤山一郎/奈良光枝)

 

リオのポポ売り(2023.9.20)

昭和25年,詞:井田誠一,曲:松井八郎,唄:暁テル子

 「カリコの山の三日月に 瞳燃えるポポ売り娘」と始まる。

 「棕櫚の葉蔭のオウムさえ ルムバ唄うブラジルの夜」とあるが,リオと言えばサンバなのではなかろうか。当時はルムバだったのかも知れない。もっとも私はルムバとサンバの違いも知らないのだが。まあ,コーヒールンバ1)や白い蝶のサンバ2)程度なら知ってはいるが。

 何度も繰り返される「ポポ」も解らないので調べてみるとさすがWikipedia,何でも載っている。Pawpaw がポーポーと呼ばれ,明治時代に日本に持ち込まれたとのこと。パンレイシ科に属する落葉高木などと書いてあっても何のことやらだが,和名が『アケビガキ』と聞くと解らないながら雰囲気は感じられる。ポルトガル語でポポというらしい。ポーポーとポポと少し違うようだが,英語もポルトガル語も同じで,日本語表記の揺れなのかもしれない。

 歌詞には「夢の匂い」「初恋の味」「ロマンスの味」「愛の香り」「思い出の味」などとあり「あまいポポはいかが」とあるのでそのような味なのだろう。

 ポポ売り娘には心痛む夜のようだが,健気にポポを売り続ける。

1)「コーヒールンバ」(昭和36年,詞:Perroni JM/中沢清二,曲:Perroni JM,唄:西田佐知子)

2)「白い蝶のサンバ」(昭和45年,詞:阿久悠,曲:井上かつお,唄:森山加代子)

 

私は街の子(2012.7.29)

昭和25年,詞:藤浦洸,曲:上原げんと,唄:美空ひばり

 「わたしは街の子巷の子」と唄う美空ひばりはこのとき13歳か。

 当時の美空ひばりの写真を見たことがあるが,なかなか可愛いかったし,唄も上手だった。人気が高かったのは当然だろう。三人娘1)時代になると容姿はもっと整ってくるが,容姿が整った分だけ可愛さが減じている。その後再び少女時代の面影が強く現れるようになったと感じるが,この時には貫禄がつきすぎて可愛いなどとは形容できなくなってしまった。

 この年朝鮮戦争が始まり,その後,朝鮮特需で日本も景気が上昇するが,それまでは中卒の8割が就職できない極めて貧しい状態だった。戦後はまだまだ続いており,親を失った子供も沢山いた時代だ。子供は社会で育てるのか,地域が育てるのか,家族か,両親か,あるいは母親か,議論より前に,この歌の子は街で生きている子なのだ。この子は「今は恋しい母様にうしろ姿もそっくりな」と「母様」というような言葉を使う暮らしをしていたはずなのに今では「街の子」なのだ。

1)      美空ひばり,江利チエミ,雪村いづみ。多数ある三人娘のなかで区別する時には「元祖三人娘」などと呼ばれる。ちなみに「初代三人娘」は黒柳徹子・横山道代・里見京子である。