明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明)
その他(不明)
相川音頭,会津磐梯山,愛のロマンス<禁じられた遊び>,赤い河の谷間<Red River Valley>,荒野の果てに,アリラン,アルプス一万尺,阿波踊り,泉のほとり,いつかある日,一週間,いとしのクレメンタイン<Oh My Darling Clementine>,江戸子守唄,おおスザンナ<Oh! Susanna>,おてもやん,オールド・ブラック・ジョー<Old Black Joe>,鹿児島おはら節,かごめかごめ,川崎(郡上踊り),河内音頭,歓喜の歌<Ode an die Freude>,黄色いリボン<She Wore a Yellow Ribbon>〔Around her neck she wore a yellow ribbon〕,木曾節,禁じられた遊び<愛のロマンス>[空は青く黙っている],金髪のジェニー<Jeanie with the Light Brown Hair>,クイカイマニマニ,草競馬<Camptown Races>,草津節,クシコスの郵便馬車,串本節,黒い瞳の,黒田節,げんげんばらばら,故郷の人々<Swanee River>,小諸馬子唄,金比羅船々,斎太郎節,さくらさくら,佐渡おけさ,三階節,サンタ・ルチア<Santa Lucia>,シーハイルの歌,シューベルトの子守唄,新相馬節,ジングルベル<Jingle Bells>,スカーボロー・フェア―<Scaborough Fair>,スワニー河<Swanee River>,ソーラン節,竹田の子守唄,田原坂,炭坑節,テキサスの黄色いバラ<The Yellow Rose of Texas>,デカンショ節,灯台守,通りゃんせ,トロイカ,南部牛追歌,農兵節,野ばら,はないちもんめ,花笠音頭,春駒,稗搗節,人を戀ふる歌,ピクニック,フニクリフニクラ,フリースの子守唄<モーツァルトの子守唄>,北海盆唄,菩提樹<Der Lindenbaum>,むすめさん,モーツァルトの子守唄<フリースの子守唄>,もみの木<O Tannenbaum>,もろびとこぞりて、八木節,山男の歌,夢路より<Beautiful Dreamer>,夢見る人<Beautiful Dreamer>,Beautiful Dreamer,Camptown Races,Der Lindenbaum,Jeanie with the Light Brown Hair,Jingle Bells,Oh My Darling Clementine,Oh! Susanna, Old Folks at Home<Swanee River>,Old Black Joe,O Tannenbaum,Red River Valley,Santa Lucia,Scaborough Fair,She Wore a Yellow Ribbon,Swanee River,The Yellow Rose of Texas
相川音頭(2013.9.25)
新潟県民謡
「ハイ ハイハイ」で始まり,「どっと笑うて立つ浪風の」と始まる。一節ごとに「ハイハイハイ」と入る。詞の題材は源義経の弓流しである。
昔はテレビなどなく,本の数も少なかった。従って古典も子供向けに書き直されたものが多数あり,選択の余地がないため,次々と本を読んでいくといつかは平家物語などにも行き着いたのだ。
屋島に於ける源平の戦いでのエピソードである。この戦いでは那須与一の扇の的の話もでてくる。この戦いの最中義経は弓を海に落としてしまう。これを必死になって取り戻そうとする義経を歌ったものだ。昔の人間ならこのようなエピソードは大抵知っていただろう。子供の頃見た本には義経の弓流しの挿絵があった。カラーの絵だったように思う。
佐渡と屋島は何の関係も無いように思われるが,新潟県公式観光情報サイトによれば,この歌は,もともと心中を題材とした詞だったのが,江戸時代,心中の禁制で軍記物からとった題材に詞が換えられたらしい。
相川音頭は昔,佐渡へ行ったとき,バスの運転手が唄ってくれたのを聞いたことがあるような気がするが,違う歌だったかもしれない。当時は佐渡おけさしか知らなかった。
会津磐梯山(2013.8.27)
福島県民謡
「イヤァ〜 会津磐梯山は宝の山よ」と始まる歌。
いつから知っているのかわからないが,子供の頃から知っている。「小原庄助さんなんで身上つぶした」などという詞から「身上」などという言葉を始めて知った。おそらくこの部分はリズムだけでメロディーはないのだろう。印象としてはラップのようだ。吉幾三1)はラップの日本上陸以降かも知らないが,川上音二郎2)などになるとずっと古くなる。昔からこのような形式はあったということだ。専門的には韻がどうだとか論じるのだろうが,韻だ平仄だなどと細かいことを言わなくてもいいだろう。もっとも,種々の技法を見出し,それに名をつけることにより,作詞に制限がかかり,無限にある言葉のうちで制限内だけで考えればよいので作詞が容易になるという利点もある。定型詩は『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』を観ているようで安心できる。
会津と言えば白虎隊を思い出していたのだが,3.11以後,福島といえば原発を思い出すようになってしまった。速やかな復興を祈る。行政は事故収束に向けて実行を。
1) {俺ら東京さ行ぐだ}(昭和59年,詞:吉幾三,曲:吉幾三,唄:吉幾三)
2) 「オッペケぺー節」を思い出した。
愛のロマンス<禁じられた遊び>(2014.11.11)
訳詞:飯塚広,スペイン民謡
「空は青く黙っている 雲は遠く流れていく」と始まる歌。
昭和27年のフランス映画「禁じられた遊び」でナルシソ・イエぺスがギターで「愛のロマンス」という曲を弾いて有名になった。この曲が「禁じられた遊び」と呼ばれることもある。
私がギターに興味を持った頃,ギター曲ではこの曲が最も有名な曲だったと思う。この曲の主旋律は比較的簡単に初心者でも弾ける。ギターを練習しようという場合,この曲を弾くことが最初の目的だった。ピアノでいえばベートーベンのエリーゼのためにと同様の位置づけだったと思う。この「愛のロマンス」はギターピースだけでも簡単な編曲からやや高度の技法を必要とする編曲まで数種類発売されていた。
この曲はクラシックギターの曲で,他にはクラシックギターの曲は聴いたことがなかった。フラメンコなどはかすかに聴いたかもしれない。私がラジオなどで耳にするギターはロカビリーとかウェスタン等がほとんどで,映画にでてくる流しのお兄さんもギターを抱えていた。
後のベンチャーズやピーター,ポール&マリーなどの時代になるとエレキギターやフォークギターが分化してきたように思う。
私と同世代でギターに興味を持った人なら必ず記憶に残っているだろう曲だ。
荒野の果てに(2015.12.23)
フランス民謡/讃美歌,日本語詞:由木 康,
「荒野の果てに夕日は落ちて」と始まる歌。
タイトルは「あれののはてに」だと思っていたのだが,Wikipediaによれば「あらののはてに」だとのこと。
「グロ〜ォオオオオ オ〜ォオオオオ オ〜ォオオオオ オ〜リア イン エク セルシス デ〜ェオ」の箇所が印象に残る。
私はキリスト教系の幼稚園を出たのだが,幼稚園でのクリスマスの思い出はない。そもそも幼稚園の思い出がほとんど無い。近所では山の上の幼稚園と呼ばれていたところで,通園は遠かったようなかすかな記憶がある。先生は普通の先生だった。ただたまに修道服を来た年配の婦人が見回り?かなんかで来られると,先生が本当に緊張しているのが子供ながらに感じられた。若いシスターもよく見たがこちらは特に緊張はなかった。クリスマスにはおそらくミサか何かはあったのだろうが私には楽しいものではなかったのだろう,記憶がない。クリスマスの記憶といえば自宅の記憶だ。当時サンタクロースを信じていたかどうかも記憶にないが,サンタからのプレゼントは期待していた。
この歌の最初の記憶は中学か高校だ。当時クラス対抗の合唱大会があった。その大会で他のクラスの選曲がこの曲だった。
アリラン(2014.10.8)
朝鮮民謡
「アリランアリランアラリヨ」と始まる歌。
私が韓国語で唄える唯一の歌である。とはいえ,昔カタカナで書かれた歌詞を覚えたもので,間違って覚えている箇所も多いと思う。ハングルで書いた歌詞もあるが,私がハングルを読めないので役立たない。
アルプス一万尺(2014.10.17)
アメリカ民謡
「アルプス一万尺小槍の上で」と始まる歌。最後は「ランララララララ・・・」と終わる。
元歌はYankee Doodleという米国独立戦争当時の歌らしい。元は英軍が植民地軍を軽蔑した歌だったのが,曲が好まれたのか,歌詞を変えて植民地軍の愛唱歌・米国の愛国歌となったとのこと。
元歌とは無関係のこの詞の作者は不明だが大学山岳部の学生らしい。山男に唄い継がれる間に次々と継ぎ足され,長い歌詞になったのではないか。長い歌詞のなかにやや下品な詞も含まれているので複数の人間が詞を作っているのだろう。
もちろんアルプスは日本アルプスで小槍は槍ヶ岳の山頂付近にある。標高は尺貫法でいうと1万尺,約3000mということだ。
阿波踊り(2013.4.28)
徳島県民謡
本当のところは何という曲なのかは知らない。阿波踊り自体を現地で観たこともないので,ラジオなどで阿波踊りの歌などとして紹介されているものを聴いただけだが印象に残る。
歌自体は「阿波の殿様蜂須賀様が」と始まるのだろうが,歌詞よりは「アーラ偉いやっちゃ偉いやっちゃヨイヨイヨイヨイ 踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々」とか「猪豆食うてホーイホイホイ」というお囃子のほうが記憶に残る。
この曲について「よしこの」という表記を見たこともあるが,「よしこの」を調べてみるとどうも節の名称のようであり,また詩の形式のようでもある。七七七五の都都逸と同じ形式だ。また,お囃子は笛が主旋律らしいのだが,鉦や太鼓あるいは三味線の強いリズムがより印象的だ。二拍子なのだろうか,印象的なリズムを聴くと最初だけで直ぐにわかる。
蜂須賀様というと蜂須賀小六を思い出す。矢作橋での日吉丸(後の秀吉)との出会いだ。伝説では12歳の日吉丸がこの橋で寝ていたところ小六がその頭を蹴ったのが出会いだということになっているが,矢作橋ができたのは1601年ということなので,年代的には合わないらしい。現代の矢作橋にはこの話を基に「出合之像」1)という像が平成元年に建てられたがその後移動されたらしい。また,小六自身は阿波へは渡っていない。
歌詞にでてくる「巡礼お鶴」も昔人間には有名だ。「ととさまの名は阿波の徳島十郎兵衛」などという台詞は誰もが知っていただろう。しかし,蜂須賀小六ならゲームにも現れそうだが「巡礼お鶴」はゲームには出て来そうにはない。後者は次第に忘れ去られるのだろうか。せめて歌の中ででも語り継がれて欲しい。
1) 「出合之像」 Wikipedia
泉のほとり(2014.11.3)
詞:アルイモフ,訳詩:井上頼豊,川尻泰司,長沢勝俊,ロシア民謡
「泉に水汲みに来て 娘らが話していた」と始まる歌。
井戸端会議の歌かと思いきや,場所は牧場のようだ。そこへ「髭面の兵士がやってきて」続いて「床屋の兵隊が来て」髭面が綺麗になる。
兵士が出てくるにしては陽気な歌だ。
ところで「兵士」というのは単数でも使い複数でも「兵士たち」と言わずに単に「兵士」ということもあるだろう。しかし「兵隊」というのは「隊」があるから複数の兵士を表すのではないだろうか。それなのに「床屋の兵隊」とは少し歌詞が変なのではないだろうか。
こんなことを言っているから嫌われるのかもしれない。
いつかある日(2013.11.23)
発表年:不明,詞:Roger Duplat, 日本語詞:深田久弥,曲:西前四郎
「いつかある日 山で死んだら 古い山の友よ 伝えてくれ」という歌。
以下,母親,妻,息子たち,友へとの伝言が続く。
我々が子供の頃から若者になる頃までは登山は非常に身近なレジャーだった。登山といっても,3000m級の高山に挑戦するのは限られた人々だけで,1000m級がだれでもいける山だったと思う。町内の子供会でも1000m級なら子供たちを引率して登っていた。海には行ったことがないので,引率者は山のほうが安全だと考えていたのではなかろうか。
しかし,大学のワンダーフォーゲル部の『しごき』で死者がでたりするのと前後して,スキーが誰にでも楽しめるレジャーになってきて,状況が変わってきた。外貨の持ち出し制限はあっても観光目的の海外渡航が許されるようになり,経済的余裕があれば海外旅行もできるようになった。自家用車を持つことも(これは金さえあれば以前から可能だったが)収入増と低価格乗用車の発売により多くの人が可能になり,ドライブ等レジャーの種類が増えたのだ。同時に,子供会などでも事故により引率者が訴えられるような事例がでるにつれ,引率者も積極性を失い,子供たちを山へ連れて行くことも少なくなってしまった。
多くの人々が行く山は,山で死ぬ可能性を感じない山だった。そのような山でも事故は発生するが,この歌で歌われているのは事故死の可能性がかなり高い山またはルートを選ぶ登山家だ。低い山でもルートによっては危険なルートもある。岩場を迂回する安全なルートがあるにもかかわらず,一部の人々はわざわざロック・クライミングに挑戦する。
この歌を口ずさんでいて,合唱組曲『山に祈る』を思い出した。『山男の歌』などもあった。
この歌のタイトルを忘れてしまっていたのでインターネットで捜して見たのだが,でだしを「もしも山で俺が死んだら」と覚えていたので最初は見つからなかった。このタイトルをみても「いつかある日」という記憶は甦ってこない。いまでも「もしもある日」ではないかと思ってしまう。「もしも」というのは,そのようなことがある筈がないという気分が感じられるし,「いつか」なら,そのような日が来ることを予想している感じがする。
一週間(2014.10.26)
訳詞:楽団カチューシャ,曲:ロシア民謡
「日曜日に市場にでかけ」と始まり,「テュリャテュリャリャ」と終わる歌。「月曜日にお風呂をたいて火曜日にお風呂に入り」といかにものんびりした生活のようで,恋人に自分の一週間を知らせる歌のようだ。
ワーカホリックとは無縁の世界だ。大陸で暮らすとあくせくしない性格になるのかとも思うが,要は仕事が無いのではないか。
こんなにのんびりと生活しているのなら恋人に逢いに行けばいいのにと思ってしまうが,ひょっとしたら何事も予定どおりに進まない複雑な事情があるのかもしれない。
江戸子守唄(2013.12.29)
日本古謡?
「ねんねんよい子だ ねんねしな」と始まる歌。私が聴き覚えがある歌詞は「ねんねんころりよ おころりよ」と始まる。「坊やの子守はどこへいった」とか「里のお土産になにもろた」などというところは同じ歌詞だ。小さな子供のころは「でんでん太鼓」というものは見たことがなかった。「笙の笛」は今でも見たことがない。ひょっとしたら見ているのかも知れないが,笙の笛と認識して見たことはない。
メロディーも微妙に違うものがあるようだ。
シューベルトやモーツァルトなどの大作曲家の名がついた子守唄もあるが,私は江戸子守唄のほうがよく眠れそうだ。
おてもやん(2013.6.22)
熊本県民謡
「おてもやん あんた この頃 嫁入りしたではないかいな」と始まる歌。このあたりは理解できるが,「かわばたまっぁんきゃあめぐろ かすがぼうふらどんたちゃしりひっぱってはなざかり」など何かが「花盛り」なのだろうが意味不明だ。「げんぱくなすびのいがいがどん」はかろうじて「なすび」の意味が想像できるだけだ。
子供の頃,外国語の歌を意味も解らず聞き覚えたが,この歌も同じだ。ということは何度も聴いたということだろう。そういえばテレビで踊りを観た記憶もあるが,自分で踊れるほどには観ていないようだ。
鹿児島おはら節(2013.6.3)
鹿児島県民謡
「花は霧島煙草は国分」と始まるうた。「ハ ヨイヨイ ヨイヤサ」とお囃子が入る。私は「おはら節」と覚えていたが「鹿児島おはら節」というタイトルで呼ばれることもあるようだ。津軽小原節,秋田小原節,越中おわら節など似た名前の曲が多数あるからこれらを区別するためだろう。
私がこの歌を知ったのは,おそらく小林旭の唄1)によってだろう。「青年おはら節」2)がでたときには原曲のおはら節を知っていた。これらの曲はアレンジはされているが,一部に元の民謡のイメージは十分残っている。ただ,昭和35年の小林旭は私にとってはその映画を観に行くことはない映画スターであり,昭和40年の西郷輝彦は,私にとって御三家の中で橋,舟木に次ぐ第三の存在であった。
元の唄は印刷された歌詞をみても意味はじっくりと考えないと理解できず,耳から聞いただけでは何を言っているのか正確には理解できない。
宴会で唄った覚えもないし,盆踊りで踊ったこともない。私には特別な感情を呼び起こさない,単に知っているというだけの歌だ。
1) 「アキラの鹿児島おはら節」(昭和35年,詞:西沢爽,補作曲:遠藤実,唄:小林旭)
2) 「青年おはら節」(昭和40年,詞:星野哲郎,曲:米山正夫,唄:西郷輝彦)
かごめかごめ(2014.5.25)
詳細不詳
「かごめかごめ籠の中の鳥は」と始まる歌。
詞は昭和初期に山中直治によって記録されたものが広まったらしいが,江戸時代には既にあったらしい。江戸時代の歌詞は少し違うようだが,私が子供のころには,鬼が目をふさいで中心に座り,残りが周囲を回りながらこの歌を歌って,最後に「後ろの正面だあれ」と終わって停止し,鬼が真後ろに誰がいるかをあてる遊びのときに歌われた。
この遊びをした記憶はあるが,回数は少ない。この遊びは年齢の違う子供が一緒に遊ぶときにたまに行われた。小さな子供の運動能力でも,ほぼ同等に遊べたからだ。多くの場合は同学年の友達と遊んだので,そのようなときはもっと活動的な遊びをした。
ところで,この歌詞は不明な点が多い。意味に関してインターネットで検索をすると種々の解釈があるのに驚く。徳川埋蔵金に関係するとする説とか,ヘブライ語が訛ったものとする説などまであるようだ。私にはどの説が正しいのか皆目見当もつかないが,「夜明けの晩」とか「後ろの正面」と伝わった(後に付加された?)のは単に言葉の矛盾を子供たちが面白がったからだろう。
川崎(郡上踊り)(2011.11.7)
岐阜県民謡
「郡上のな〜あぁはちいまあん出て行くと〜きーは」
名古屋に下宿していた一時期,市内の盆踊りに時々行った。新聞で見て,今日は金山,明日は東山という具合だ。一番よく行ったところでよくかかっていたのがこの曲だ。「名古屋ばやし」などの名古屋の曲とこの「川崎」や「春駒」などの郡上の曲などのほか「木曾節」など岐阜の曲がよくかかっていた。両親の里では「茄子の皮の雑炊」が歌詞に入った曲などを肉声で唄っていたが,名古屋で私が行っていたところはレコードだった。
あちらこちら転々としているのでその土地によるのだろうが,時代によっても盆踊りの曲は変わった。子供の頃行ったところは「炭坑節」だけだったように思う。これは大人の盆踊りで,一升瓶を担ぎながら踊るという感じだった。参加者の中には多くの酔っ払いがいた。
ある程度大きくなってから行った盆踊りでは,大人のための盆踊りにはほとんど行ったことがない。どうも小さな地域の盆踊りは「婦人会」か何かと子供だけが踊っているようなところが多かった。
河内音頭(2013.3.20)
大阪府民謡
歌詞はいろいろあるというか,即興で作られることもあるようだが,いくつかのストーリーのある詞のようだ。歌の特徴を文字で解るように伝えるのはどうすればよいのだろう。
先ず,太鼓のリズムが耳に残る。とは言っても,盆踊りなどに使われている歌は太鼓が耳に残る歌は少なくない。でだしは「え〜ぇ」という感じだが,「エー」とか「ハー」とかで始まる歌も多数ある。「よぉぉぉおおほぉいほい」も特徴的だが「ほいほい」という歌は他にもある。「えんやこらせぇええどっこいしょ」が特徴的かと思ったが,この部分は同じ河内音頭でも「あぁよいとこせぇえどっこいしょ」というのもあるようなのでこの歌を知らない人がいたら,YouTubeなどで聴いてみて欲しい。
私は,昭和36年に鉄砲光三郎がレコーディングしたのを聴いてこの歌を知ったので,この鉄砲節が最も親しみがある。他に河内家菊水丸や中村美律子の唄も聴いたことがあるが,中村の場合は『河内おとこ節』1)のほうがはるかに良い。この歌が平成の歌でなければ当然このページで取り上げるのだが。
私は三重県内で何度か引越しをしているが,あるところに引っ越したとき,町内の盆踊りに河内音頭(のレコード)がかかっていた。名古屋に住んでいたときには岐阜県の民謡もかかっていたし,どこにいたときか記憶がないが東京音頭がかかっていたこともある。もちろん私は東京に住んだことはない。炭坑節はいろんなところでかかっていた。そのほか,当時の流行歌も結構あちらこちらでかかっていた。結局,無名な地域では,その地域の歌であろうとなかろうと,皆が知っていそうな歌で盆踊りをやっていたのだ。
1) 「河内おとこ節」(平成元年,詞:石本美由起,曲:岡千秋,唄:中村美律子)
歓喜の歌<Ode an die Freude>(2018.6.3)
文政7年,詞: Johann Christoph Friedrich von Schiller,曲:Ludwig van Beethoven
「O Freunde, nicht diese Töne!」と独唱で始まり,少しあって「Freude, schner Gtterfunken, Tochter aus Elvsium」と合唱が続く。・・・少し私の記憶の詞と違うが。
1824年(文政7年)に作られたベートーベンの交響曲第9番ニ短調『合唱付』の第4楽章である。最初の部分はベートーベンの作詞とのこと。確かに,ドイツ語の詩集でみた詩には冒頭の部分はなかった。ドイツ語しか聞いたことがなく,日本語の歌詞は知らない。全ての意味が理解できるほどドイツ語を勉強しなかったので,歌詞の意味は不明な点が少なくないが,意味不明でも力強い合唱を聞くと歓喜が伝わって来る。
シラーが最初にこの詩を作ったのは1785年(天明5年)らしい。この頃,日本では天明の大飢饉の最中,この頃異常気象で北半球全体が基金だったらしい。原因は複数の火山噴火による日傘効果という説もある。この飢饉がフランス革命の遠因になったとも言われている。この詩はフランス革命1)後ラ・マルセイエーズのメロディーで唄われていた時期もあるらしい。
1)1789年:バスティーユ襲撃,その後1793年のルイ16世の処刑等を経て1794年:ジャコバン派の粛清。
木曾節(2013.8.17)
長野県民謡
「きぃそぉのぉな〜ぁああなかの-りさぁあん」と始まる歌。
高校の修学旅行でバス移動の最中,同級生から「正調木曾節」として教えてもらった。正調でない木曾節はいつからか知らないが,もっと前から知っていた。まあ正調と言っても,老舗の本家,宗家,元祖,総本家・・・のように皆同じようなものだと私などは思うのだが,知る人によれば,○○は創始者の長男,△△は三男の店だったのが・・・と薀蓄を語ってくれるので,何かちゃんとした説明があるのだろう。正調木曾節というのは確かに西洋音階と違う音階のような気がするが,自分で唄うと自然に西洋音階の音に変わってしまっている。・・・と思うのは自分だけで,この歌ではないが,歌謡曲をカラオケで唄うと機械は音が外れていると判定しているようなので,恐らく独自の音程で歌っているのだろう。
名古屋の盆踊りに言っていた頃,たまに「木曾節」がかかることがあった。正調ではなく,普通の,私が昔から知っている節だった。
木曽節(2016.3.27)
長野県民謡
「木曽のナー 中乗りさん」と始まる歌。
なぜか高校の修学旅行で唄った。何度も唄ったので記憶に残った。我々の学校も旅行先も道中も長野県とは全く無関係だったのだが。もちろんそのような指導があったわけではない。
そのほか,名古屋市内の盆踊りで使われていた記憶もあるが,頻度は少なかった。
山で切り出した材木は川に流され,下流で川幅が広くなるにつれまとめられ,最後は筏に組んで人が乗って運搬する。三人乗りの真ん中が中乗りだとか。木曽と言えば檜とイメージが浮かぶのはこの歌の「中乗りさん」から来ているのかもしれない。「木曽ぶし三度笠」1)という歌があり,これは中乗りさんを嫌って渡世人になる歌だ。
江戸時代,やまから一本一本川に名が割れた材木は,美濃太田の4里川上に錦織という所があり,ここで集められて筏に組む。下流の犬山・鵜沼からは二人で二つに分けて乗って来た筏をつないで一人で乗り,余った一人は返したとか。笠松まで下ると川幅も広くなり,50〜60をひとつなぎにして8人乗りになり,最後は桑名に着いたとか。更に熱田までも運ばれ(木曽檜は尾張藩が支配していたため)全国に販売されたそうだ。
伊勢湾は昭和34年の伊勢湾台風で大きな被害を受けたが,被害拡大の原因のひとつが名古屋港の貯木場にあった材木である。直径1m長さ10mの材木が20万トン,高潮に乗って住宅地に押し寄せた。風も強く,この材木が縦に回転するのを見た人もいるという。多くは輸入したラワン材だったらしい。伊勢湾台風の頃には輸入材が幅を利かせていたということだ。
1)「木曽ぶし三度笠」(昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)
クイカイマニマニ(2013.11.9)
詳細不明
「クイカイマニマニマニマニダスキ」と始まる歌。意味は知らない。Yahoo智恵袋にはペルーの民謡とあり,歌詞はケチュア語らしい。「オーニコディモオーシャリヤウンパウンパウン・・・」と終わる。
中学生2年のとき,学校行事として鈴鹿の山でキャンプをした。当時私が通学していた中学は1学年9クラスだった。(3年生になったとき,1クラスの人数が少し減って10クラスになった。)大よそ1学年500人位だっただろう。この歌はそのときのキャンプファイアーで唄った歌の一曲である。キャンプの前に歌の練習をしたのかどうか記憶にないが,練習をしていなくても歌詞カードさえあれば唄えただろう。歌唱指導は音楽の先生ではなく体育の先生だったように思う。
草津節(2013.9.13)
群馬県民謡
「草津よいとこ一度はおいでドッコイショ」と始まる歌。
草津温泉の湯もみ歌。草津温泉は林羅山も日本三名泉のひとつとして挙げたとか。歴史に登場はしていないようだが,日本武尊の開湯との伝承もあるほど古い温泉で古くから薬効があるといわれ,明治時代のお雇い外国人医師ベルツも薬効を述べている。薬効は知られていたが「お医者様でも草津の湯でも」治すことが出来ない病1)があることも古くから知られていた。
1) 「惚れた病」あるいは「恋の病」。最近は「恋わずらい」という言葉を聞いたことがないので,念のため注をつけた。
クシコスの郵便馬車(2013.11.14)
詳細不明
ドイツの作曲家Hermann Neckeの曲Csikos Postに詞がついているものだが,詞を書いたものが見つからない。私が知らないだけで誰かが著作権を持っているのだろうから,少しだけ紹介すると,「野道超え遠く」と始まり,転調した箇所は「走るよ走るよ郵便馬車」という具合だ。
小学校の運動会では徒競走の最中などにかかっていた。詞はなしだが。
WikipediaによるとCsikosは馬の意味らしく,Csikos Postで郵便馬車になるならしい。「クシコスの郵便馬車」という言い方は『馬から落ちて落馬して』の同類らしい。そこで,現代ではクシコス・ポストという名前が一般的とのこと。
しかし,Wikipediaには作詞者名等歌詞に関する記述がない。縛って天井裏に放り込んである本を引っ掻き回せばこの歌詞が載っている本が見つかるのではと思うが,天井裏に入り込むのも大変だ。
串本節(2013.8.11)
和歌山県民謡
「ここは串本向かいは大島」と始まる唄。
どうして知っているのか解らないがいつの間にか覚えた歌。
串本に海水浴に行ったとき,大島を見ながらこの歌を思い出した。
海水浴場には海岸から少し離れたところに筏のようなものがあって休めるようになっているところがあった。泳ぎは得意ではなく,ここまで本気で泳いでいくと,自力では上に上がれないほど体力を消耗する。まあ,岸に向かって泳ぐ場合は最後は立ち上がるだけでよいのでほとんど全体力を使って帰ればいいので少しは気が楽だ。このときはなんとか筏によじ昇り,少し休んでから岸に帰ろうと泳ぎだしたが,岸まで1/3程度泳いだところでもう疲れて仰向けに浮いて休んでいた。しばらくしてはっと気付いたら,岸から遠ざかっている。筏も遠ざかっている。引き潮に流されたのだろう。筏のほうが近く見えたが,筏はそこまでたどりつかないといけない。岸に向かえばどこかで背が立つだろうからと思い,岸に向かって泳ぎ始めたが,海岸に近づいているような気がしない。流されていたのだろう。必死に泳いでようやく海岸にたどりついたが,あんなに一生懸命泳いだのは高校の体育の授業で水泳のタイム測定があったときと合わせて2回しかない。
黒い瞳の(2014.11.20)
訳詞:矢沢保,ロシア民謡
「くぅろいひぃとぉみのわかものがああああ」と始まる歌。
詞をみると,かなり積極的な女性の歌である。今は知らないが,以前の日本女性はこのロシア女性ほどには積極的ではなかったように感じる。そのようなロシア女性でも自分の父親はけむたいようで微笑ましい。最近の日本女性は自分の父親をどう思っているのだろうか。
このように『日本女性は』などとひとくくりに論じたりするとすぐに叱られそうだ。昔も今も人それぞれだというのが真実だろう。
黒田節(2013.2.24)
福岡県民謡,唄:赤坂小梅
「酒は飲め飲め飲むならば」という歌。昭和17年に「黒田武士」として,昭和25年に歌詞を一部変更して「黒田節」として赤坂小梅がレコードをだしている。
一番は黒田長政の家来母里友信が大杯の酒を飲み干した褒美として福島正則に名槍「日本号」を所望し,首尾よく手に入れたという話である。講談だったか浪曲だったか,違う形だったかも知れないが話の内容は広く知られていたと思う。この槍は正親町天皇→織田信長→豊臣秀吉→福島正則と渡ったものである。
二番は「爪音高き想夫恋」と終わるので小督の話であろう。小督は高倉天皇の寵愛を受けていたが,中宮(建礼門院)の父である平清盛の怒りを買い嵯峨野に隠れる。天皇は源仲国に小督を捜させる。この仲国が捜索中に吹いた笛に応えたのが「想夫恋」である。
嫌いじゃない歌だ。
げんげんばらばら(2013.7.21)
岐阜県民謡
「ハァー げんげんばらばら何事じゃ」と始まる歌。郡上踊りのひとつである。
歌詞はいろいろあるようだが,順番があるのかないのか知らない。ストーリーのある詞だが,それぞれストーリーは完結し,他のストーリーとの関係は薄いようだ。
私がよく行っていた名古屋某所の盆踊りでは,郡上の歌も踊られており,『かわさき』や『春駒』は比較的よくかかっていたが,あとは『ヤッチク』がたまにかかる程度だった。もちろん『名古屋ばやし』などは頻繁にかかっていた。
「げんげんばらばら」は,私が初めてラジカセ(ラジオ付きカセットレコーダ)を買ってまもなく,ラジオ放送から録音して,何度も何度も聴いた記憶がある。
もともと,ラジオやテレビはいろいろいじっていたが,HiFiと呼ばれていたオーディオ機器にはあまり興味がなかった。おもちゃに毛が生えた程度のテープレコーダは持っていたが,放送を録音しようとするときにはスピーカの前にマイクを置くだけで済ましていた。音の良さには関心がなかったのだ。
その後,世の中にオープンリールのテープデッキが広まったときも,英語の練習のために買ったLL用のテープレコーダで全て済ましていた。当時のコンポーネントステレオは大きく,そのようなものを置く場所もなかったし,何より金がなかった。
カセットテープがでて,ラジカセが欲しくなり,安いラジカセを買ったのだ。テープも安いテープで,何度も何度も聴いているうちにわかめテープになってしまった。
小諸馬子唄(2013.8.22)
長野県民謡
(ハイハイ)と掛け声が入って「小諸出てみよ浅間の山に」と始まる歌。
私のような素人には新相馬節と双璧をなす難しい歌。私には音もとれないリズムも合わない。というか,リズムがない感じを受ける。馬子は馬と共に歩きながらこのような歌を唄ったのだろうか。歩きにくくて仕方がないように思うがどうなのだろう。
このようにのんびりとした歌は聴くだけでも心にゆとりがないと聴けない。最近ではこのような歌をゆったりと聴くことが無い。
尚,同じ曲ではないかと思うのだが,『信濃追分』と書いてある歌本を見たことがある。
金比羅船々(2013.9.9)
香川県民謡
「金比羅船々追風に帆かけてシュラシュシュシュ」と始まる歌。「・・・金比羅大権現一度廻れば金比羅船々追風に帆かけてシュラシュシュシュ」と元に戻り,どこで終わるのか知らない。お座敷遊びの歌として使われてもいるらしいから,ゲームの際は次第にスピードを上げてゲームの決着がついたところが終りなのだろう。ゲームの詳細は知らない。
「金比羅大権現」とあるので,神仏習合の神社だったことは間違いない。Wikipediaによれば役小角が天竺でクンビーラの神験に遭ったのが開山の由来とのことなので神道と仏教の習合というより,修験道と仏教の習合なのだろう。本地仏は十一面観音菩薩だとのこと。
クンビーラはガンジス川に棲む鰐で,ガンジス川の女神ガンガーの乗り物である。このようにヒンドゥー教の影響を受けていることは,諸外国との交流の歴史をうかがわせる。ギリシャ・ローマ神話の影響が少ないのはヨーロッパとの交流はキリスト教の普及以後ということなのだろう。昔は唐・天竺で世界は完結していたのだ。
斎太郎節(2013.3.4)
宮城県民謡,唄:後藤桃水?
「エンヤトットエンヤトット」の掛け声が耳に残る。歌は「松島アのサァヨ〜ォ瑞ィ巌寺ィほォどォのハコリャコリャ」とはじまる。瑞巌寺は伊達政宗の菩提寺である。
この歌は大正から昭和にかけて(昭和2年?)後藤桃水が「大漁唄い込み」としてまとめて有名になったらしい。もちろん私が知った時には既に有名になっていた。
他人が聞いたらどう思うか判らないが,とりあえず唄いやすく,唄っていて気持ちのよい歌だ。特に酔っ払っているとき・・・。
さくらさくら(2014.1.2)
日本古謡
「さくらさくら やよいの空は」と始まる歌。幕末に作られた箏曲(練習曲)との記述がWikipediaにある。中公文庫「日本の詩歌」別巻日本歌唱集には冒頭に「さくら」というタイトルで掲載されている。こちらの歌詞は「さくらさくら 野やまも里も」と始まっている。
代表的な和風テイストの曲と言えよう。良い歌で,嫌いではないが,今後私が自分で選んで唄うことは,まず,ないのではなかろうか。メロディー・詞とも,精神にゆとりがないとこの歌を選んで唄おうという気にならないだろう。人生の前半の歌だという気がする。
とはいえ,私はこの曲を携帯の着メロに使っていた時期があった。
佐渡おけさ(2013.5.11)
新潟県民謡
「ハァ〜ァアさどぉえぇぇ(アリャサ)さどぉえぇとぉくぅさぁきぃもぉなぁびぃくぅよ」とはじまる歌。
有名な歌なのでいろんなところに引用されている。たとえば『麦と兵隊』1)『チャンチキおけさ』2)『おけさ唄えば』3)などを思い出す。そういえば寿々木米若の浪曲『佐渡情話』などにもでてくる。
私の両親は佐渡ではないが新潟県の出身で,もちろん地元の民謡もあるのだが,「おけさ」ももちろん知っていた。親の話を聞いていると,どうも宴会の〆ソングだったような気がする。
宴会の〆ソングといえば,高校の同窓関係だと『高校三年生』,大学の同窓関係だと旧制高校の寮歌などが定番だが,もちろん校歌になったり,『蛍の光』になったり,メンバーによっていろいろ変わる。
唐突だが,最初の歌詞を見ていて突然気がついた。「さどぉえぇぇ」と書いてしまったが,私にはこのように聞こえたのだ。しかし,何かで新潟県の訛りとして『え』と『い』の区別がないと読んだか聞いたかしたことがある。有名なのがNHKで『いぬいっちけい』というように聞こえる発音だ。それなのに「おけさ」では「さどぉえぇぇ」と聞こえるのだ。米若のレコードもテープも手元になくて確認はできないのだが,たしか『佐渡情話』では『さどい〜ぃさどい〜と くさきぃもぉなぁあぁびぃく』と語っていたように思う。
米若は中蒲原郡の出身で佐渡ではない。新潟県内でも地域によって訛りが異なるのだろうか。訛りは明治以前に確立されてしまっていて,廃藩置県後の行政区画で分けられているのではなく,ましてや海を隔てているのだから当然のことなのだろうか。
1) 「麦と兵隊」(昭和13年,詞:藤田まさと,曲:大村能章,唄:東海林太郎)
2) 「ちゃんちきおけさ」(昭和32年,詞:門田八郎,曲:長津義司,唄:三波春夫)
3) 「おけさ唄えば」(昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)
三階節(2013.7.4)
新潟県民謡
「米山さんから雲が出た」と始まる歌。
もっとも,歌詞を検索してみると「柏崎から椎谷まで」から始まるものとか,いろんなバージョンがあるようだ。最近は聴いたことはないが,子供の頃聞いて印象に残っているのは「可愛がられた竹の子が」で始まる節だ。「ピッカラシャンカラドンガラリンと音がする」というのも雷のイメージをよく捉えていると思う。
ネット検索してみたら,小唄勝太郎が昭和10年ごろレコーディングしているらしい。多分,私は後になってこれを聴いたのだろう。この歌はザ・ピーナッツも唄っている(昭和34年)らしいので,世代的にはこれを聴いた可能性のほうが高いのだが,ピーナッツの唄の印象はない。
シーハイルの歌(2018.1.2)
詞:林柾次郎,曲:鳥取春陽
「岩木のおろしが吹くなら吹けよ」と始まる歌。
曲自体は大正時代に流行ったもので,これに林が戦後になってから新しい歌詞をつけたものらしい。
歌詞にでてくる「岩木」,「梵珠」,「阿闍梨」は青森県にある山の名。
私の学生時代は登山・ワンダーフォーゲル・ハイキングとレベルは様々だが,山歩きは広く学生に親しまれていた。小学校の頃から,子供会の父兄が児童を連れて電車で鈴鹿の山に連れて行くような時代だったので,皆,山に慣れていた。
昭和31年,トニー・ザイラーがコルチナ・ダンペッツオリンピックで3冠を達成,同じオリンピックで猪谷千春が日本人最初の冬季オリンピックメダリストになったこともあり,国内でもスキー人気が高まったが,雪国に住む者以外には用具だけでなくスキー場までの交通費も必要だったので,経済的に余裕がないとスキーは簡単ではなかった。
山の歌やハイキングの歌といった歌集がいろいろあったが,多くの歌集にこの歌は載っていた。
シューベルトの子守唄(2018.5.13)
文化13年,詞:内藤濯,曲:Schubert
「眠れ 眠れ 母の胸に」と始まる歌。
文化13年というのは1816年の日本ならこの年だったはずだという意味。
日本語歌詞は後になって内藤濯によりつくられたもの。
原題は「Wiegenlied」,原詞は「Schlafe, schlafe, holder süßer Knabe」と始まるらしいが最後まで読んだことはない。
新相馬節(2013.2.17)
福島県民謡,曲:堀内秀之進?,唄:鈴木正夫
「ハァーア 遥かかなたは相馬の空か ナンダコラヨート」という歌。
Wikipediaには,・・・堀内秀之進が『相馬草刈唄』を基礎に,「石投げ甚句」を加えて編曲し,鈴木正夫が独特の節回しで歌った・・・というような記述があるが,鈴木が作ったと聞いたこともある気がして良く判らない。戦後の創作というか,従来の民謡を編曲したというか,合体させたというか,要するにといいながら要していないが,そういう歌らしい。
最近はほとんど民謡番組を聴いたり観たりしないが,以前このような番組をちょくちょく聴いたりしていたときは,良く聴いた歌だ。のど自慢などでも結構唄っている出演者がいた。わたしなどには最初の「ハァーアア〜ァァア〜ァ」からしてとても難しくて唄えないが,この難しさがのど自慢の挑戦者魂に訴えかけていたのかもしれない。
詞の内容に魅かれるというより,節に聴き惚れる歌だ。
ソーラン節(2013.4.2)
北海道民謡
「ヤーレンソーランソーラン・・・・ハイハイ」という感じの歌。
私が知っているのは「沖の鴎に潮時問えば」とか「にしん来たかと鴎に問えば」とかいうような歌詞なのだが,積丹町のホームページに『ソーラン節のふるさと』というページがあり,ここに載っている歌詞は私が始めて目(耳?)にするものである。
いずれにせよ鰊漁の際の労働歌だったらしい。
江戸時代から昭和初期まで,大量の鰊がとれ,一部食用にするほか,高級肥料として用いられていた。鰊御殿という言葉がある。鰊漁で財を成した網元たちが立てた家である。
戦後の歌謡曲にもソーラン節に関係するものがいくつかある。例えば『ソーラン渡り鳥』1)では『鰊場恋し』と唄っているので,鰊漁が不調になって,北海道から本州に流れて来た姉妹の歌だろうし,『なみだ船』2)にでてくる『ヤン衆』というのはこの鰊漁に雇われている男のことだ。
単なる鰊つながりだが,スウェーデンには,世界一臭いという評判のシュールストレミングという名の鰊の缶詰がある。
1) 「ソーラン渡り鳥」(昭和36年,詞:石本美由起,曲:遠藤実,唄:こまどり姉妹)
2) 「なみだ船」(昭和37年,詞:星野哲郎,曲:船村徹,唄:北島三郎)
竹田の子守唄(2016.3.4)
京都府民謡
「守りもいやがる盆から先にゃ」と始まる歌。
歌詞は種々あるようだ。いずれにせよ典型的な守子唄(子守をさせられている少女の歌)だ。経済的困窮から子供も働かされたのだ。
昔の奉公は盆や正月には休みがあり,奉公人はこの休みが楽しみだった。しかし『五木の子守唄』1)の歌詞にも盆が登場するがどちらもお盆だといっても喜びは感じられない。今に置き換えれば,皆がゴールデンウィークを楽しんでいるのに自分は・・・というところだろうか。
貧困は差別とも関連している。格差社会の底辺にいることにより負のスパイラルに陥り這い上がれる見込みがない。
しかし,現在,このような子守はほとんどいないのではないか。実態が無くなれば歌も忘れられていくのだろう。
とはいえ,世界中で格差が広がりつつあるようだ。この格差を小さくしていく方法はないものだろうか。
1)「五木の子守唄」熊本県民謡
田原坂(2013.4.22)
熊本県民謡
「雨は降る降る陣羽は濡れる」と始まる歌。
明治10年の西南戦争を歌った歌である。
薩軍は熊本城を包囲したが,熊本城はなかなか落ちない。新政府の征討軍は熊本城へ向かう途中,田原坂で薩軍と激戦になる。激しい撃ち合いで,空中で銃弾同士が正面衝突してくっつき一体化した弾が多数落ちていたという。政府には500万発の備蓄弾があったがじきに打ちつくしてしまい,最後は激しい白兵戦になったようだ。当時の日本の弾丸製造能力は6000発/日程度だったらしいので,補充はとても間に合わなかっただろう。
この歌にも美少年が出てくる。天草四郎も美少年らしい。源義経は醜男だったらしいが美男だったということになっているような気がする。滅びの美学と関係があるのだろう。そういえば沖田総司などは本人の写真も残っているようだが,映画などでは本人に似ているかどうかには関係なく,それなりの人気俳優が演じているようだ。
滅びの美学か,判官贔屓か知らないが,古来,日本では敗者を悪し様に評することはあまりないように感じる。第三者だけではなく,敵対していた勝者までもがあからさまには敗者を侮蔑しているようには感じられないのは怨霊を鎮めるためであろうか。
炭坑節(2011.11.13)
福岡県民謡。昭和22・3年頃何人かがレコーディングしているらしい1)。
「月が出た出た月が出た」で,盆踊りでよく聞いた。
「もとの娘の十八に返してくれたら別れます(さのよいよい)」に関しいろいろ思うことがある。二つだけ挙げる。
一つは,何でも金に換算する風潮に対して,金には換えることができないものがあるということ。山下清は何でも兵隊1)の位に換算したらしいが世の中には序列をつけることができるものとつけることができないものがあるということを知るべきだ。
もうひとつは,何でもリセットすれば良いという風潮に対してリセットできないものもあるということだ。考える前に行動するということが必要な場合もある。そのとき正しい選択ができるためには過去に熟慮した経験があっていざというときに無意識に正しい行動ができるのである。
1) 赤坂小梅,日本橋きみ栄,美ち奴,音丸など。
2) 「兵隊の位」と聞いたが要は軍隊内の階級ということであろう。
デカンショ節(2013.8.31)
兵庫県民謡
「デカンショデカンショで半年暮らすヨイヨイ」という歌。
「丹波篠山山家の猿がヨイヨイ」という歌詞もあるので丹波の民謡なのだろうが,学生時代には,デカルト・カント・ショーペンハウエルの頭文字をとった歌だと聞いて,そう思っていた。なぜ丹波でショーペンハウエルかと不思議に思ったが,インターネットで「デカンショ」の語源を調べてみると,この歌を学生が郷里から持ち出し,学生歌として広まった後に再度逆輸入されたようで,この間にデカルトやカントが入り込んだという説も広くあるらしい。それにしても,その前の似たような掛け声があったはずで,その語源については諸説あるようだ。
「山家の猿」の意味は良く解らない。猿は全国に広く分布していると思うので,丹波にも野生の猿はいただろう。この猿を仕込んで芸をさせるということなのか,謙遜の比喩として自分たちのことを自称したのか解らない。
野生の猿と言えば私が住んでいる町内の自治会でときどき猿に関する回覧が廻る。食べ物が少ない年など,庭に実の成る木があると野生の猿がやってきて実を食べていくのだ。(人間から見ると)結構凶暴で,小学生の集団登校の列に石を投げつけたなどというニュースが回覧される。これは小学生が猿に石を投げつけたところ,猿が真似したらしい。もうすこし山側の隣町では通学団に猪が突っ込んだなどというニュースも聞かれる。もちろん日常的にあることではなく,ニュースになるのは滅多にないことだからだ。よほど山奥に住んでいるのかと思う人もいるかもしれないが,自分ではそれなりに開発された地域に住んでいると思っている。まあ,確かに私が子供のころはこの辺りは山だったが。
以前はもっと街の中心に近いところに住んでいた。その辺りでは猿は見たことがなかったが,雉はいた。もちろん犬はいたから,桃太郎に出てくる犬・猿・雉など昔はどこにでもいたのだろう。
灯台守(2014.2.10)
詞:勝承夫,曲:イギリス民謡?,文部省唱歌
「こおれる月かげ空にさえて」と始まる歌。アメリカ民謡という話もあり,賛美歌が元歌だともいわれている。そういわれてみると賛美歌のようにも聞こえる。
現代はGPSが簡単に利用できるので灯台の重要性は大きく低下しただろう。しかし,ロラン1)が実用化されるまでは灯台が唯一の人工的目印であり,後は天体や地形などの自然物の観測しか海上での位置を知る術はなかった。陸地近くでは灯台が船の安全にとって極めて重要なものだった。
歌詞は冬の荒波を歌っているが,灯台守は「尊きやさしき愛の心」と優しい存在として歌われており,灯台守が冬の厳しさと闘っている様子は顕わに表現されていない。灯台には僻地にあるものが多く嵐の日や真冬には灯台守の仕事はさぞ過酷なものであったであろう。
1) 電波航法システム。地上のロラン局からの電波の到達時間遅れから,ロラン局からの距離がわかる。二つのロラン局からの電波を受信すれば,もう一つの情報である海面上にあるということから,現在地がわかる。実際は二つのロラン局からの電波の到達時間差(ロラン局からの距離の差)が一定という条件が,水平面に描かれた双曲線になることを利用して航行する。
通りゃんせ(2014.2.17)
曲:本居長世
「通りゃんせ通りゃんせ ここはどこの細道じゃ」と始まる歌。
作詞は野口雨情という説もあるらしい。曲も本居より先に,成立していたらしい。
それにしても「通りゃんせ」はどこの言葉なのだろう。「通りゃぁせ」ならなんとなくイメージが湧く。しかし「通しゃせぬ」と聞くとこのイメージもかき消されてしまう。
小さな子供の頃,この歌で遊んだことがある。遊び方は『ロンドン橋落ちた』と同じだったと思う。遊び方を知ったのは『ロンドン橋』のほうが後だと思う。小学校に行くようになってこのような遊びをした記憶はほとんどないので小学校以前ではなかろうか。
トロイカ(2013.11.5)
ロシア民謡
「雪の白樺並木夕日が映える」という歌。
私はこの詞しか知らないのだが,Wikipediaには『えっそうなの!』というようなことが書いてあった。
以前,この歌をロシア語(もどき)で覚えようと思い,インターネットで捜して見たことがある。このとき発見した歌は哀調を帯びた歌で,私がイメージしていた軽やかな歌ではなかった。テンポもイメージとは全く異なっていて,荘重といってもよいような曲になっていた。それで,『止〜めた』と放置していたのだが,これを書くために念のためWikipediaを見たのだ。
私が知っている歌詞は楽団『カチューシャ』の訳だが,訳した詞は,同じ「トロイカ」というタイトルの歌だが,違う歌の歌詞だそうだ。こちらの歌は「響け若人の歌」とか「今宵は楽しい宴」とかあるように詞も陽気な歌だ。以下想像だが,この詞を「トロイカ」という同名異曲に乗せて唄ったのだろう。さらに楽団『カチューシャ』というのはハバロフスク抑留されていた日本人捕虜の楽団らしい。だとすると正しい楽譜があったのかどうかも疑わしい。おそらく歌詞と曲調が合わないと感じ,演奏スピードを上げたのだろう。アップテンポで演奏すると,悲しい曲が陽気な曲に変わってしまい,歌詞とマッチするようになったというところではないだろうか。
原曲の正しい?詞の内容は『金色夜叉』1)とか『愛ちゃんはお嫁に』2)の状況のようだ。
どこの国にも,どの時代にも同じような状況があったのだろうか。
1) 尾崎紅葉:「金色夜叉」(明治30年〜,読売新聞)
2) 「愛ちゃんはお嫁に」(昭和31年,詞:原俊雄,曲:村沢良介,唄:鈴木三重子)
南部牛追歌(2013.6.14)
岩手県民謡
「田舎なれども」と始まる歌。多分,高校だったと思うが,音楽の授業で習った。試験は一人づつ唄う。習った歌詞は「沢内三千石」と始まっていたが,多くの歌詞本では「田舎なれども」と始まっている。習ったメロディーを所謂民謡のレコード等と聴き比べると,同じ曲だと認識はできるが,かなり違う。誰かが編曲したものだったのだろうが,現在手元に楽譜等がないので詳細は不明だ。
音楽の試験では,例えばラテン語のミサ曲にあるトリル記号の箇所を正確に唄えるかどうかなどの試験だったので,民謡の歌唱法に関しても少しは習ったのだろうが,全く記憶に残っていない。当時は関心がなかったのだろう。
農兵節(2013.9.30)
静岡県民謡
「富士の白雪ゃノーエ」という歌。
富士の雪から三島,三島から三島女郎衆,化粧が長い,お客がおこる,地蔵さん,頭が丸い,カラス,娘島田と連想が続き,「島田は情けでとける」と最初の富士の雪が融けるのと対応している。
お客が怒ることから地蔵さんへは飛躍があるように感じるが,三島には言成地蔵尊というのがあるらしい。三島市公式ウェブサイトの観光情報に見どころのひとつとして紹介されている。説明によると,大名行列の前を横切って無礼打ちにされた6歳の娘を祀った地蔵だそうだ。女郎屋の客の怒りと,大名行列の怒り?は違うだろうが,理不尽な怒りということで連想したのだろうか。
最後は地蔵の頭に止まったカラスから,島田髷を連想したのであろうか。
この農兵節は江戸末期の農兵の訓練に使われた曲らしい。たしかに,この歌で行進はできそうだ。それどころか匍匐前進もできそうだ。
野ばら(2014.11.28)
詞:Johann Wolfgang von Goethe,訳詞:近藤朔風,曲:Heinrich Werner
「Sah ein Knab ein Roeslein stehen」と始まる歌。日本語訳では「童(わらべ)は見たり」と始まる。同じ詞にFranz Peter Schubertも曲をつけている。
私にはSchubertの曲のほうがドイツ語っぽく聞こえるので,ドイツ語で唄うならSchubertを選ぶ。Wernerの曲は日本語で「わーらべぇはみたり」と唄うのに適していると思う。ドイツ語の詞は大学のドイツ語の授業で習ったような気がする。
ただ,この歌を唄うならヨーロッパの少年合唱団あたりがいいのじゃないだろうか。私のようなロートルには似合わない。
野ばら(2018.6.23)
文化12年,詞:Johann Wolfgang von Göthe、訳詞:近藤朔風,曲:Franz Peter Schubert
「童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇」と始まる歌。原詞は「Sah ein Knab’ ein Röslein sthen」と始まる。
文化12年は1815年。
腕白坊主がたまたま見つけた野ばらに魅せられて手折る雰囲気の曲。
ところで,Götheの名前を見ると,ドイツ語を習い始めた頃に聞いた『ギョエテとは俺のことかとゲーテ云い』いう言葉を思い出す。ドイツ語に出てくるoの上の二つの点はウムラウトと呼ばれ,発音は『オ』の口の形で『エ』というんだと習った(ような気がする。)そのときついでに,ウムラウトの無いタイプライターではウムラウトの代わりに『e』を打つと習ったような気がする。実際,ゲーテもGoetheと表記する場合が多いように思う。
そういえば,ローマ字のヘボンもローマの休日のヘップバーンもHepburnだ。映画俳優だったリーガンは大統領になってレーガンに変った。スペルはReaganだ。
日本物理学会誌に会員からの投書欄?があったころ,物理学者Huygensの発音について何か月か論争があった。恐らく,当時も日本語ではホイヘンスと記したのではないかと思うが,誰かがどこか(外国)では違う発音だったと投書して,続いて別の人が私はこのように聞いたと投書し,さらに別の人が論争に参入するという状態だった。ホイヘンスのほかハイジェンスやハイゲンスなどの名が挙がっていたように思う。
日本は原音主義らしい(中国を除く。中国とは文字を共通にして発音は話す言葉の音で発音する。)どこまで正しいのか知らないが,ドイツ人ならドイツ語で,ローマ人ならラテン語でということだ。今の歴史の教科書は全く知らないが,私が高校生の頃,ウマイヤ朝は白衣大食,アッバース朝は黒衣大食と呼んでいたと思う。『大食』という語は唐書や宋書に現れ,ペルシャ語でアラブ人を意味するタージークあるいはタージーを音訳した言葉らしい。当時私にはそこまで学習する能力はなく,字を覚えると同時に『たいしょく』と読んでいた。英会話の最中『big eater』では通じないわけだ。
話は変わるが,小学生から英語を教えることに意味があるのだろうか。英語で自由な会話ができるためには全ての科目を英語で学んでいないと,世界史とくに中国史などは日本語で内容を知っていても英語での議論には参加できないことになる。中途半端に英語を教え,その代償として日本語能力が落ちるとすれば日本文化の過去の遺産は誰が引き継いでいくのか。英語での会話が自由にできるようにするより,近い将来実用化されるであろう音声自動翻訳機が正しく認識できる正しい日本語を誰もが話せるようにすることのほうが重要ではないだろうか。
野ばら(2018.5.16)
文政12年,詞:Johann Wolfgang von Göthe、訳詞:近藤朔風,曲:Heinrich Werner
「童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇」と始まる歌。文政12年は1829年。
原詞は「Sah ein Knab’ ein Röslein sthen」と始まる。
この曲より前にシューベルトが同じ詞につけた曲があるが,シューベルトのほうが男性的であるのに対し,こちらは女性的に感じる。
原詞は「Knabe」なので男児だが,訳詩では「童」となっているので女児のようにもとれ,私の好みは美しい花に魅かれた女児をあらわしているようなWernerの曲だ。
はないちもんめ(2014.2.27)
「勝ってうれしいはないちもんめ」と始まるのだろう。同じ名前の子供の遊びがあり,その際に唄われる。このような遊びをした記憶はあるのだが,いつのことか解らない。一緒に遊んだはずの友人を一人も思い出さないのだ。遊んだ場所の記憶も残っていない。小学校での集団での遊びではもっと激しく身体を動かす遊びをしていた。
この遊びは年の違う子供と一緒にやったような記憶があるのだが,普段は同学年の友人と遊んでいた。年の違う子供と遊んだ記憶はほどんど無く,軟式野球をした記憶がある位だ。これも同級生とキャッチボールをしていたところに上級生がやってきて場所を盗られたといえなくもない。ルール上は平等に試合に参加してはいるが,技術に差があり,ボールの滅多に飛んで来ないライトを守らされ,打順も下位だ。人数が足りていたら,ベンチで見ているだけだったかもしれない。まあ,当時は少し自転車で移動すればキャッチボールをする程度の場所はいくらでもあったから,嫌なら他へ移ればよかった。ソフトボールは下手にもかかわらずよくやったが,軟式野球は大学生になってから一度とこのときの一度,生涯で2回しか試合に出場したことはない。硬式はキャッチボールをしたことがあるだけだ。
花笠音頭(2013.7.10)
山形県民謡
私が知っているのは「目出度目出度の若松様よ」と始まる歌。
作詞者が不詳の民謡では,いろんな歌詞があり,ストーリー性の高い歌は順序が決まっているが,1番,2番などと順序が決まっていないように感じられる歌も沢山ある。
民謡は,歌詞の題材によっていくつかに分類できると思うが,この歌は典型的な目出度系だろう。新春特別番組などで唄われているイメージが強い。
春駒(郡上おどり)(2013.5.23)
岐阜県民謡
「七両三分の春駒春駒」というお囃子は耳に残るが,あとは「親の意見となすびの花は」などのように別なところから仕入れた言葉が耳に残るだけである。
郡上踊りには行ったことがないが,名古屋に住んでいた頃,近くの盆踊りではよくかかっていた。多分生唄ではなかったと思う。私が知っている生唄の盆踊り会場では,唄い手は櫓の上にいた。しかし,この名古屋の盆踊り会場では櫓はあったが櫓の上で唄っている人はいなかった。
郡上はきっと涼しいのだろう。しかし,名古屋は暑かった。暑い名古屋でこの春駒を踊ると汗がどっと噴出してくる。汗が飛び散ると言ってもよいだろう。川崎などとは雲泥の差の運動量だ。狭い私の経験ではこれに匹敵するのは三重県のある地域の盆踊りでかかっていた「夏ひらく青春」1)くらいだ。この振り付けは走り回るもので,子供は本当に走らないとついていけないが大人は走り回るというほどではないが,踊りの輪全体が大きく廻るので輪の運動量が大きいのだが,春駒では踊りの輪全体の運動量というより,輪の中の個人の運動量が大きい。手足の振り付けだけでなく身体の動きが大きいからだろう。踊っていると歌詞を聴いている余裕はない。
1) 「夏ひらく青春」(昭和50年,詞:千家和也,曲:都倉俊一,唄:山口百恵)
稗搗節(2013.3.9)
宮崎県民謡
「庭のさんしゅゆの木 鳴る鈴かけて」と始まる歌。
稗を搗くときの労働歌ということだ。昭和13年にレコードがでているらしい。インターネットで調べると,少なくとも3種類以上の節があるらしい。
昭和28年,観光用に照菊の唄でレコード化された。そのとき,「那須の大八・・・」の詞が作られたらしい。これは,宮崎県椎葉村に逃れた平家の落人である鶴富姫と,落人追討に派遣された那須大八郎宗久の悲恋の物語である。
私が聞き覚えた歌詞には「那須の大八」が入っていたし,メロディー(編曲)もお座敷民謡に聞こえたので,私が子供の頃何度も聴いたのはこの照菊が唄ったものだろう。年代的にも合う。
人を戀ふる歌(2014.12.15)
詞:与謝野鉄幹,曲:不詳
「妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるはしくなさけある」と始まる歌。
詞は明治30年に作られ,明治34年に発行された詩歌集『鉄幹子』に収められている。
富国強兵・殖産興業が叫ばれていた明治の青年の気分が感じられる歌。妻や友を選ぶにも,自分自身を向上させられる相手を選ぼうという意思があるのだろう。また,松尾芭蕉などより,バイロン・ハイネなどの方が優れていると感じていたのであろう。
ピクニック(2014.12.23)
日本語詞:萩原英一,イギリス民謡
「丘を越え行こうよ 口笛ふきつつ」と始まる歌。「ララララ アヒルさん」と来てあひるの鳴きまねが続く。種々の動物が登場する。牧場にピクニックに行くようだが,ヤギやウシはいいとしてもアヒルやニワトリは少し違うのではないかとも思ってしまう。
ある時代にはこのような牧場もあったのだろうか。私が知っている牧場には牛や馬はいたがニワトリやアヒルは農家の庭にいたように思う。
元歌のタイトルは「She’ll Be Coming Round The Mountain」らしい。これは彼女が6頭の白馬で山にやってくるという歌である。
フニクリフニクラ(2015.1.7)
詞:Giuseppe (Peppino) Turco,曲:Luigi Denza
訳詞者は不明だが日本語詞では「赤い火を噴くあの山へ 登ろう登ろう」と始まる歌。
ナポリ語の歌詞は何度も繰り返される「Jammo Jammo ‘ncoppa, jammo ja, funiculi, funicular!」のあたりしか記憶にない。日本語歌詞では「行こう行こう火の山へ フニクリフニクラ」に相当する部分だ。どこで聴いたのかも定かではないが,ナポリ語も聴いたことがあり日本語は何度も聴いたこともある。
この歌を聴くとき,多くは世界最古のCMソングという解説付きで聴いたように思う。
イタリアのナポリにあるヴェスヴィオ山は紀元79年の大噴火でポンペイ市を壊滅させた。1880年に火口まで登山電車(ケーブルカー)ができ,この登山電車のCMソングだ。成立年代は不明だが登山電車ができた時なら明治12年だ。この山は昭和19年(1944年)にも大規模噴火が発生し,その時も村がひとつ埋没している。同時にこの登山電車も廃止された。
但し,CMソングとしては明和6年(1769年)には平賀源内が『漱石膏』(歯磨き粉)の宣伝歌を作っているそうなのでこちらの方が古い。『ちゃっきり節』1)も『狐ヶ崎遊園地』のCMソングらしい。
1)「ちゃっきり節」(昭和2年,詞:北原白秋,曲:町田嘉章)
北海盆唄(2013.6.28)
北海道民謡
「ハァー 北海名物(ハ ドシタドシタ)数々コリャあれどヨー(ハ ソレカラトシタ)」と始まる唄。
三橋美智也のレコードにより全国に広まったらしいが,私は知らない。北海盆歌自体は知っているが三橋の唄は知らないという意味だ。若い(?)人ならドリフターズ1)を聴いてメロディーに馴染みがあるかもしれない。と書いてしまったら,ドリフターズのイメージしか思い出さなくなってしまった。
1) 「8時だヨ!全員集合」:TBS系で昭和44年から放映されたザ・ドリフターズ主演のバラエティ。昭和46年から,オープニングに北海盆唄の替え歌が使われていた。なお,ドリフには別になかにし礼作詞の「ドリフ音頭」という北海盆歌の替え歌もある。
むすめさん(2015.1.22)
詞:東大音感,ポーランド民謡
「もりへいきましょう むすめさん(アッハーッハハー)」と始まる歌。後半は「ラン ラララン ラン ラララン ラン ラーララ」を何度も繰り返している陽気な歌だ。
詞では,一応,木を切ったり草を刈ったりの仕事のために森へ行くようだが,2番は弁当,3番は仕事の後は踊ろうということになっており,合ハイ感覚だ。
『合ハイ』は死語かもしれない。合同ハイキングの略で『合コン』の前身だ。合コンが一般的になる前は,バドミントンやバレーボールを持ってちょっとした山にハイキングに行っていた。当時は本格的な登山からハイキングまで,山歩きを楽しむ人が大勢いた。最近の熟年登山は,若い頃山に親しんだ人々が第二の青春を楽しんでいるのだろう。
合ハイが合コンに変ったように,登山人口の多くの割合がスキーに変っていったように思う。これが昭和40年代前半のことではないだろうか。
モーツァルトの子守唄<フリースの子守唄>(2018.5.29)
詞:Friedrich Wilhelm Gotter/訳詞:堀内敬三,曲:Bernhard Flies
「眠れよい子よ 庭や牧場に」と始まる歌。
原詞は「Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein!」と始まる。
ケッヘル番号350とモーツァルトの作曲とされてきたが,作曲者が違ったようで,現在では同時代の作品ではあるがモーツァルトの作曲ではないとされている。
もろびとこぞりて(2018.5.19)
クリスマス讃美歌
「諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ」と始まる歌。
曲や詞に関してWikipediaにはいろいろ書かれているが,私には解らない。ただ,クリスマス讃美歌と書かれているのはそのとおりではないかと思う。
なぜこの歌を知っているのか判らない。キリスト教系の幼稚園に通ったので,1回くらいはまともなクリスマスをして,そのときにひょっとしたら唄ったのかもしれない。
子供の頃,毎年,サンタクロースは来たが,自宅でクリスマスキャロルを唄うことはなかった。但し,ラジオからはクリスマス・ソングが流れていたので聴いている可能性はある。また,商店街ではシーズンにはクリスマス・ソングが拡声器から流れていた。
八木節(2013.5.4)
群馬県民謡
「あああああああぁぁあ〜ぁ」と始まる歌。といってもいろいろありそうだ。わたしが知っているのはその後,「またも出ました三角野郎が」と続く。基本的には国定忠治の物語のようだが,実際には最初の「あ〜」だけが同じで,あとはいろいろありそうだ。
国定忠治といえば,新国劇の澤田正二郎を思い出す。といっても澤正はわたしが生まれるはるか前に他界しているので直接知っているわけではないが,そのような私でも名前を知っているくらい有名な舞台俳優だ。
国定忠治の台詞のものまねも何度も聞いたように思う。ものまね芸は昔は声帯模写といっていた。声帯模写の後には形態模写というのもでてきた。芝居のものまねなどは声色といっていたようにも思う。この声色の題材として私がよく聴いたのは大河内傳次郎だが,長谷川一夫や山本富士子なども聴いた。などと書いているうちに桜井長一郎のイメージに固まってしまった。
山男の歌(2015.1.28)
詞:神保信雄,曲:不詳
「娘さんよく聞けよ山男にゃ惚れるなよ」と始まる歌。
私が聴いたのは昭和30年代,ダーク・ダックスの唄だったと思う(昭和37年の紅白で唄っている)。長い詞があったように思うが,その中の最初の方だけが神保の作詞だと記されていた記憶があるが,何に記載されていたのか思い出せない。
登山が流行したのは,マナスル1)の登頂に成功した後からかもしれない。もちろん,大学山岳部などはもっと昔から登山をしていたようだ。例えば『雪山賛歌』2)は昭和2年にできているようだ。しかし一般に登山がレジャーとして定着したのは昭和30 年頃ではないだろうか。組曲『山に祈る』の元になった同名の小冊子が出されたのが昭和34年だそうだ。
昭和20年代は戦後の混乱期であったろう。昭和30 年代も私の周囲は皆貧しかった。山は貧しい中では手軽なレジャーであり,ヒマラヤに行ける人は限られていただろうが,日本アルプスなら,行けないことはなかった。鈴鹿山脈は1,000 mクラスで,夏は小学生でもハイキングで頂上まで行けるが,ルートによっては岩場もあり,ハイキングコースからロッククライミングの練習をする姿が見えた。『氷壁』3)のモデルになったナイロン・ザイル切断事件が発生したのは昭和30年のことだ。
登山ブームは昭和40年に某大学ワンダーフォーゲル部のしごき事件で死亡者がでたあと,次第に下火になったような気がする。登山ブームが下火になったのは,恐らく,しごき事件が原因ではなく,皆が豊かになってきて,他のレジャーに手が届くようになったからであろう。
1)「マナスル」ヒマラヤ山脈にある山の一つ。昭和31年,日本の登山隊が世界初の登頂に成功し,記念切手も発行された。
2)「雪山賛歌」(昭和2年,詞:西堀栄三郎,曲:アメリカ民謡)
3)井上靖:「氷壁」(新潮社,昭和32年)
Beautiful Dreamer<夢路より><夢見る人>(2014.8.27)
文久2年,詞:Foster?,曲:Stephen Collines
Foster
「Beautiful dreamer, wake unto me」と始まる歌。
元号は文久,元治,慶応,明治と続く。明治元年は1868年だ。今は明治何年とか大正何年とか言われてもピンと来ない人が多いのだろう。文久などと言われてどのくらい昔かすぐ分かる人は日本史を専門にやっている人くらいかもしれない。
作曲されたのは1862年とのこと。ここでは発表年を和暦で書いているので,それらしい年を調べて書いては見たが,月までは不明だし当時は旧暦なのでひょっとしたら1年ずれているかもしれない。
さて,この歌だが,学校で習った。何年生で習ったのかは記憶にないが英語の歌詞だったので少なくとも中学,おそらく高校ではないだろうか。当時は英語が全くできず(今でもそんなにできる訳ではないが)歌詞の意味は理解していなかった。今歌詞を見ると,使われている英語が古い感じを受ける。中学でも英語の歌を習ったが,中学では英語の時間に英語の歌を習ったので,もっと現代的な英語の歌だったのではないだろうか。高校では音楽の時間に外国語や日本語でも文語の歌を中心に習ったような気がする。
高校の音楽の試験は歌唱の実技試験だった。楽譜どおり唄えるかどうかの試験だ。スタッカートやスラーなどから始まり,トリルなどの装飾記号までを含む楽譜をいかに正確に唄うかという試験だった。この他に音楽室でクラシックのレコードを聴き,感想文を提出するというのもあり,これも評価対象になっていたかもしれない。
この歌の歌唱上の注意点は何も覚えていないので,ただ唄えばよいという1年生のときに習った歌ではないかと思う。
この歌には津川主一による日本語詞がある。こちらは「夢路より帰りて星の光仰げや」と始まる。日本語詞も記憶にあるが,これは学校で習ったわけではない。どこで聞き覚えたのか不明だ。
この歌からは,ハイカラさんが洋風の家でピアノ伴奏で歌っていそうな印象を受ける。
Camptown Races<草競馬>(2014.9.13)
嘉永3年,詞:Foster?,曲:Stephen Collines Foster
「De Camptown ladies sing dis song, Doo-dah! Doo-dah!」と始まる歌。1850年の曲。
歌詞は全く聞き取れずに聴いていた気がする。何回か繰り返される「Doo-dah! Doo-dah!」とか「Oh! doo-dah-day!」の箇所だけが強く印象に残っている。
いくつか訳詞があるらしいが,北川あさ子訳の歌詞は「草競馬」のタイトルで「競馬の始まりドゥダードゥダー まわりは5マイル おおドゥダデー」と始まっている。小学校の運動会では,歌のないバージョンが流れていたように思う。種目は徒競走かリレーだ。『天国と地獄』1)のイメージもある。こちらも歌なしで,徒競走のイメージもあるが,玉入れなどのイメージもある。
1)『天国と地獄』:オペレッタ「地獄のオルフェ」序曲第3部の別名。ジャック・オッフェンバック(1858)
Der Lindenbaum<菩提樹>(2018.5.23)
文政6年,詞:Johann Ludwig Wilhelm Müller,曲:Franz Peter Schubert
「Am Brunnen vor dem Tore, da steht ein Lindenbaum」と始まる歌。
文政6年は1823年。歌曲集『Die Winterreise(冬の旅)』の第5曲。
近藤朔風による和訳は「泉に添いて 茂る菩提樹」と始まる。
Dietrich Fischer-Dieskauの唄などがYouTubeにいくつもupされている。
ドイツ語を習い始めてすぐに,der des dem denとかいう冠詞の格変化あたりでほぼギブアップしたのだが,これではいけないと教科書以外の本なら興味が持てるかと,何冊かのドイツ語の本を買った。その中に詩集だったか歌集だったかがあり,その中にこの詩もあった。
その後何10年かの間に何度かドイツ語をやろうとラジオ講座やテレビ講座を始めたが,結局使い物になるには程遠かった。
Jeanie with the Light Brown Hair<金髪のジェニー>(2014.9.20)
嘉永7年,詞:Foster?,曲:Stephen Collines
Foster
「I dream of Jeanie with
the light brown hair」と始まる歌。作られたのは1854年とのことだから安政元年かもしれない。
この歌は音楽の教科書に載っていたが,授業ではやらなかった。おそらく高校の教科書だろう。
日本語訳のタイトルは「金髪のジェニー」だ。「light brown hair」が金髪かどうかはよく知らない。
昔読んだ本1)に,日本語と外国語では色のイメージが異なるというような話が書いてあった。この本にbrownの記述があったかどうか記憶にないが,ある色を見て何人かの日本人が茶色,赤土色,渋色,チョコレート色,ココア,セピア,レンガ色,コーヒー色,ブラウンなどと言った色を米国人はorangeと形容したという趣旨の記述があった。どうも私が思うブラウンと茶色は違うようだ。英語のbrownの日本語訳は褐色のほうが原語にちかいのだろうか。そうすると「light brown」はやはり茶色,この歌のタイトルは『茶髪のジェニー』と訳すほうがよいのではないかなどと考えてしまう。
「金髪」に対応する英語は「blonde」だろう。「fair hair」というのも使われるようだ。英語の色表現の時代推移など全く知らないが,おそらくFosterの時代にもblondeは使われていただろう。だとすればこの歌の女性はblondeではないということが。一方,この歌の日本語訳ができた時代についても知らないが,この時代,髪の色の区別は黒,白,赤,金くらいしかなかったのではないだろうか。『赤毛のアン』というのがある。『紅毛』という言葉も聞いたことがあるが,私は真っ赤な髪というのを見たことがない。「あか」は「明」であり,一時は黒髪・白髪・ごま塩頭以外を「あか」と呼んでいたのではないだろうか。
金髪・銀髪という言葉ができたのはこがね・しろがねを金・銀と呼ぶようになってからあろう。
今この歌を訳すなら「茶髪のジェニー」になるかも知れないが,私が子供の頃感じていた「金髪」という言葉のイメージと今の「茶髪」という言葉のイメージはかなり異なる。子供の頃の「金髪」という言葉から受けるイメージは欧米の映画スターのイメージで,ある種の憧れの対象だった。従ってこの歌を訳すなら「金髪」と訳すのは当然のことだったであろう。
1)鈴木孝夫:「日本語と外国語」(平成2年,岩波新書101)
Jingle Bells<ジングルベル>(2015.12.24)
安政4年?,詞:James Pierpont,曲:James Pierpont
「Dashing through the snow, In a one-horse open sleigh」と始まる歌。
子供の頃のクリスマス定番ソングといえばこの曲と『きよしこの夜』だった。『きよしこの夜』は唄えるのに,「ジングルベル」は唄おうとしても歌詞を思い出せない。もちろんメロディーは知っている。複数の日本語歌詞があるはずだが,歌詞を覚えていないのは自分で唄うことがほとんどなかったからだろう。無理に唄おうとすると英語の歌詞がでてくる。英語の歌詞を知っているのは中学の英語の時間に習ったのではないだろうか。
曲の成立はWikipediaに1857年との記載があったので安政4年としたもので,当時の日本は旧暦で,年の変わり目が西暦とは異なるので,正確には何年かは不明だ。ペリーが初めて浦賀に来航したのが1953年,日米和親条約が1954年だからその少し後,安政の大獄は1958-59年なのでその少し前だ。
江戸時代まで日本には『馬車』も『馬そり』もなかった。昔から『牛車』はあったので『大八車』などは珍しくなかっただろうが人力の『そり』はあったのだろうか。時代劇で『そり』を見た記憶がない。
Oh My Darling Clementine<いとしのクレメンタイン>(2013.10.17)
アメリカ民謡
「Oh my darling, oh my darling, oh my darling Clementine」という曲。
昭和21年の米国映画『荒野の決闘』の主題歌として有名になる。私が知ったのは中学の英語の先生がレコードを聴かせてくれたときである。
そういえば昔の米国映画には所謂西部劇が沢山あった。昭和30年代前半くらいまではテレビでも多くの西部劇が放映されていた。当時は白人中心の劇で,アメリカン・インディアンが登場すればそれは敵役としてであった。ケネディ大統領の頃だろうか,人種差別問題が大きくなるに連れ,単純にインディアンから開拓者を守るという構図の映画が減って行くと同時に白人同士の争いをテーマにした西部劇も減って行った。代わって登場したのがマカロニ・ウェスタンである。
『荒野の決闘』だが,映画を観たことはないが,ワイアット・アープやドク・ホリディの名は私でも知っていた。多分,子供向けの雑誌などにもよく紹介されていたのだろう。時代劇と西部劇は子供にとって映画の二大ジャンルだった。ビリー・ザ・キッドのようなガンマンの名だけでなく,インディアンの部族の名前とか酋長の名前まで知っていた。
なお,この曲には昭和2年に西堀榮三郎が日本語の詞をつけていて『雪山賛歌』として知られている。私がこの曲を知ったのは「いとしのクレメンタイン」が先か「雪山賛歌」が先か,今では記憶がない。
Oh! Susanna<おおスザンナ>(2014.9.4)
嘉永元年,詞:Stephen Collines Foster,曲:Stephen Collines Foster)
「I come from Alabama with a banjo on my knee. I’m going to Lousiana my true love for to see.」と始まる歌。本当に嘉永元年かどうかは知らないが,1848年の発表らしい。もちろん日本語の歌詞もあったが,資料が見つからない。
私は一時いろんな楽器を集めていて,バンジョーも持っていたがこれはこの歌の影響だ。楽器屋で安いバンジョーを見て思わず買ってしまった。しかしバンジョーの練習は全くし」たことがなく,チューニングをどうするのかなど調べもせずに,ギターと同じようにしてギターのピックで弾いていた。ただ,ギターの音と比べてうるさいらしく,いろいろクレームがあってあまり弾かないうちにお蔵入りになった。
Old Black Joe(2018.5.2)
嘉永5年,曲:Stephen Foster
「Gone are the days when my heart was young and gay」と始まる歌。
嘉永5年か6年かは判らないが,1853年とのこと(1860年との説もある)。
ペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航したのが嘉永6年である。
米国では南北戦争が1861年,リンカーン大統領により奴隷解放宣言が布告されたのが1862年なので奴隷解放宣言前のことだ。
「Gone from the earth to a better land」というのは天に召されたということ。それ以外にbetter landはなかった。
中学では英語の先生が英語の歌を,高校では音楽の先生が英語を含め何か国語かの外国語の歌を教えてくれた。
O Tannnenbaum<もみの木>(2018.7.15)
詞:ヨハン・アウグスト・ツァルナック,エルンスト・アンシュッツ,曲:ドイツ民謡
「O Tannenbaum, o Tannenbauam, Wie treu sind deine Blätter!」と始まる歌。
クリスマスキャロルのひとつで,いくつもの日本語訳詞がある。
ただ,自宅でクリスマスを祝うときにジングルベルなら唄っても,この歌を唄うことはなかった。幼稚園でもクリスマス会があったがこの唄は唄わなかっただろう。クリスマス・シーズンにラジオから流れる歌という位置づけだ。
Red River Valley<赤い河の谷間>(2013.10.27)
アメリカ民謡
「From this valley they say you are
going」と始まる唄。「Just remember the Red River Valley
and the cowboy that has loved you so true.」と終わる。ラブソングではあるが別れの曲でもある。
Wikipediaの英語版にはa folk song and cowboy music standard or controversial
origins that has gone by different names・・・とある。私は何となくカントリー&ウエスタンに分類される曲のひとつかと思っていたのだが,WikipediaでCountry Musicを調べてみるとチンプンカンプン。分類なんかどうでもいいという気持ちになってしまった。
この曲を初めて聴いたのはいつか覚えていない。可能性としては中学の英語の先生が,何曲もレコードをかけてくれたので,その中にあった可能性もある。しかし,曲を覚えたのは楽譜によってだ。後に購入した歌の本に載っており,それで覚えたのだ。歌詞に使われている英語も平明で,かつ,感情を抑えているところも良い。やはり泣き叫ぶより顔で笑って心で泣いてというほうが私の心には突き刺さる。
好きな歌の一つである。
Santa Lucia<サンタ・ルチア>(2014.9.29)
ナポリ民謡
「Sul mare luccica l’ astro d’ argento」と始まるのだろうか。歌詞は最後の「Santa Lucia! Santa Lucia!」という個所くらいしか覚えていない。最初は「ソーソード ドシシ」と階名でしか覚えていないので,音楽の授業で覚えたのかもしれない。高校では階名で唄うことはなかったと思うので,中学校か小学校だろう。他に階名が先に出てくる歌は『ドレミミ ソラソソ』1)位だ。こちらの歌は『どれみっちゃん・・・』という替え歌の出だしが『どれみ』となっているので覚えたのかもしれないが,Santa Luciaを階名で覚えた理由は不明だ。
1)「みなと」(明治29年,詞:旗野十一郎,曲:吉田信太)
Scarborough Fair<スカーボロー・フェア―>(2018.8.30)
唄:Simon and Garfunkel
「Are you going to
Scarborough Fair」と始まる歌。
古いイギリスのballadらしく,歌詞も種々のものがあるらしい。
ballad(バラッド)とは何か知らなかったので調べてみるとフランス語のballade(バラード)に相当する言葉で,韻文による歴史物語が歌い継がれたものらしい。テーマは武勇伝・ロマンス・社会風刺などが主要なものとのこと。いずれにしても私の英語力にとっては難解だ。和訳を見てもよくは理解できないがどうも「Scarborough Fair」というのは市場の名前らしい。これは『五番街に行ったならば』1)と同じで,Scarborough Fairに行ったならば昔の恋人がいるはずだから伝えて欲しいという話で良く理解できる。ところがその伝言内容が,かぐや姫が求婚者達に出した難題のように,実現不可能としか考えられない要求で,それができれば再び恋人に戻れるというものだ。実現不可能なのだ。
女性から男性に向けて同様に不可能な課題を示す歌詞もあるようだ。
要するに関係修復は絶対に不可能という歌のようだが,メロディーは修復を望んでいる,あるいは修復不能を悲しんでいるように聞こえる。これがこの歌の人を魅する点だろう。
私が聴いたのはSimon and Garfunkel盤だ。これには反戦歌詞も入っていて,詞の内容には益々混乱する。
1)「五番街のマリーへ」(昭和48年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ペドロ&カプリシャス)
She Wore a Yellow Ribbon<黄色いリボン>(2017.10.28)
アメリカ民謡
「Around her neck she wore a yellow ribbon」と始まる歌。
昭和24年のアメリカ映画「She Wore a Yellow Ribbon」(主演:ジョン・ウェイン,邦題:黄色いリボン,日本公開:昭和26年)で使われ有名になった。
首に巻いているのだからネッカチーフのようなものかと思うが,これをリボンというのだろうか。幅が狭いのかもしれない。
この曲は何度も聴いた記憶があるが,いつ聴いたのかが定かではない。
小学校や中学校の運動会の練習で最も強く記憶に残っているのが行進の練習で,その練習のときにかかっていたような気がするのだが,You Tubeで聴いてみるとややテンポが速い。もちろん歩ける速さなのだが,運動会の行進でかかっていた記憶が確実な『クワイ河マーチ』に比べると明らかに速い。行進曲を集めたようなレコードをかけていたように思うので,それ用に各曲のテンポを合わせたレコードが発売されていたのかもしれない。
別な可能性として,中学の英語の先生が,授業でときどき英語の歌のレコードをかけてくれていたのでその中に入っていたかもしれない。映画音楽それも西部劇で使われた歌が確かにあった。しかし,同じ曲を何回もかけることはなかったように思う。
映画は観ていないはずなのに,なぜかは解らないがこの歌には西部劇のイメージがある。ひょっとしたらテレビでこの映画が放映され,それを観たのかもしれない。
Swanee River<Old Folks at Home>(2018.5.26)
嘉永3年,詞:Foster、曲:Foster
邦題は「スワニー河」あるいは「故郷の人々」。嘉永3年は1850年。フロリダ州の州歌。
「Way down upon de Swanee ribber, Far, far away」と始まる。
南部のプランテーション(綿花畑)から脱出した黒人が故郷を想う歌。
こうして知っている歌を並べて書いているとFosterの歌を何曲も知っていることに気付く。いくつかは学校で習ったのだが,習わない歌も知っているのは昭和の時代にもなお,人気があったから私も聴く機会があったのだろう。
The Yellow Rose of Texas<テキサスの黄色いバラ>(2017.11.11)
アメリカ民謡
「There’s a yellow rose of Texas that I am going to see」と始まる歌。
どのような経緯でこの歌を聴いたのか記憶にない。昭和30年のミッチ・ミラーが米国で大ヒットしたらしいので,それが国内で紹介されたのを聴いたのかもしれない。
昭和35年,ジョン・ウェイン主演の映画『The Alamo』(邦題:アラモ)が公開されている。この映画は1836年,テキサス独立戦争のさなかのアラモ砦の戦いを題材としているが,この戦争中にこの歌がよく唄われていたらしいので,この映画にも使われていたのかもしれない。