明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和37年
あゝ青春に花よ咲け,愛さずにはいられない<I Can’t Stop Loving
You>,哀愁のトランペット,赤いハンカチ,アカパルコのお転婆娘,イエロー・バード,石狩川悲歌,忙しくても来てね,一週間に十日来い,いつでも夢を,内気なジョニー<Johnny Get Angry>,ヴァケーション<Vacation>,江梨子,おもちゃのチャチャチャ,かっこいいツイスト,悲しき雨音<Rhythem of the Rain>,悲しき片思い,悲しきクラウン<King
of Clowns>,可愛いベイビー<Pretty Little
Baby>,君を慕いて,霧のカレリア,銀座の恋の物語,草を刈る娘,クライ・クライ・クライ,恋のゴーカート<Go-Kart Twist>,恋の曼珠沙華,恋は神代の昔から,コカ・コーラの歌,心の届かぬラヴ・レター<Return to Sender>,これが男の生きる道,コロッケの唄〔こんがりコロッケにゃ口もない〕,ゴーカート・ツイスト<Go-Kart Twist>,五ひきの仔ブタとチャールストン,五万節,さいはての慕情,寒い朝,さよならさよならさようなら,三百六十五夜,サンライト・ツイスト<Go-Kart Twist>,ざんねんソング,史上最大の作戦マーチ<The
Longest Day March>,下町の太陽,島育ち,出世街道,ショボクレ人生,新撰組の唄,ジェニ・ジェニ,太陽の下の18才<Go-Kart
Twist>,太陽はひとりぼっち,大学かぞえうた,ちょうど時間となりました,ツイスト・ナンバー・ワン,てなもんや三度笠,遠くへ行きたい,ドント節,ナカナカ見つからない,中山七里,長いおさげ髪,涙の日記,なみだ船,虹と共に消えた恋<Gone the Rainbow>,ハイそれまでョ,花咲く街角,花の折鶴笠,バックナンバー1050,ひばりの佐渡情話,美少年忠臣蔵,振り向かないで〔Yeah Yeah Yeah Yeah〕,ブンガチャ節,星屑の町,ボヒーに首ったけ<Bobby’s Girl>,未練ごころ,無責任一代男,モスコーの夜は更けて,ユキコの灯,ラ・ノビア,リンゴちゃん,ルイジアナ・ママ,レモンのキッス<Like I Do>,ロコ・モーション<The
Loco-Motion>,ロッカ・フラ・ベイビー,若いふたり,若いやつ,わかれ道[幼なじみさ],ワンモアチャンス,Bobby’s Girl,Go-Kart Twist,Gone the Rainbow,I Can’t Stop Loving You,Johnny Get Angry,King of Clowns,Like I Do,One More Chance,Pretty Little Baby,Ramblin’ Rose,Return to Sender,Rhythm of the Rain,Speedy Gonzales,Sunlight Twist<Go-Kart Twist>,The Loco-Motion,The Longest Day March,Vacation
あゝ青春に花よ咲け(2015.2.10)
昭和37年,詞:宮川哲夫,曲:渡久地政信,唄:松島アキラ
「流れる雲は風に乗り」と始まる歌。
タイトルに「青春」と入っているように,青春ソングである。「やさしき君を一目見て ほのかに燃えし恋ごころ」という具合だ。
「君は命の花なのと」などとすぐに命の安売りをするのは少々気にいらないのだが,ちゃんと「夢見るために夢に酔い」「恋するために恋に酔う」という青春の本質をついている。
本来,シャウトすべき歌ではないと思うが,酔っぱらってくるとこのようなメロディーを思い切り叫んでみたくなったことがあり,カラオケで探したがその店にはなかったので,『あゝ青春の胸の血は』1)を代わりに唄った。
『みちのくひとり旅』2)などでも水割り1杯くらいのエネルギーを放出できるが,おじ(い?)さんもたまには青春ソングを唄いたい気分のときもあるのだ。他人の眼を気にしていたらカラオケは唄えない。
1)「あゝ青春の胸の血は」(昭和39年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:舟木一夫)
2)「みちのくひとり旅」(昭和55年,詞:市場馨,曲:三島大輔,唄:山本譲二)
哀愁のトランペット(2019.4.3)
昭和37年,詞:古川益雄/Pisano,曲:Pisano, 唄:アイ・ジョージ
「Ricordo il suono d’una tromba」と始まる歌。
曲の多くの部分がトランペットを聴かせるために作られているが,一応歌詞に日本語の部分もある。
当時の人気曲にニニ・ロッソのトランペットによる『夕焼けのトランペット』(昭和36年)や『夜空のトランペット』(昭和39年)などがあった。
また,マカロニ・ウェスタン『荒野の用心棒』(昭和39年)のテーマも印象的なトランペットだった。
要するに,この当時トランペットは人気楽器のひとつだった。
赤いハンカチ(2013.2.9)
昭和37年,詞:萩原四朗,曲:上原健六,唄:石原裕次郎
「アカシアの花の下であの娘がそっと瞼を拭いた」と始まる,あの娘との別れの想い出の歌。裕次郎の歌では5本の指に入る名曲だ。
「怨みに濡れた目がしらにそれでも涙はこぼれて落ちた」は「目頭『に』涙がこぼれる」のではなく「目頭あるいは目じり少くとも目『から』涙がこぼれるのではないか」などと私が下らないことをいろいろ論じる必要はない。「怨みに濡れた目頭」と聞くだけで眼が目に浮かぶ。
大ヒットしたので昭和39年に映画化される。主演はもちろん石原裕次郎,他に二谷英明,浅丘ルリ子,笹森礼子,芦田伸介,金子信雄など,皆懐かしい顔だ。
岡本敦郎は「汽車の窓からハンケチ振れば」1)と唄っていたが裕次郎は「赤いハンカチよ」だ。太田裕美は「ハンカチーフください」2)と唄っている。
いずれも元はhandkerchiefなのだろう。kerchiefを辞書で調べるとネッカチーフのことらしい。ところでpocket chiefというものがある。そこでchiefが共通の言葉かと思って辞書を見たが,私の小さな辞書には関係無さそうな意味の単語しか載っていない。
Handkerchiefは昔は手巾と訳したらしい。逆に手巾を和英辞典で調べるとtowelとなっている。手巾という文字から想像するのは手ぬぐいである。私の頭の中では手ぬぐいはタオルではない。結局handkerchiefはそれまでの日本語では正確に表現できないと考えた人が多くカタカナ表記になったのだろう。Hephurnがヘボンになったりヘップバーンになったりするのと同様,音主体か,スペル主体かでハンケチになったりハンカチになったりと種々の表記が生じるのだろう。
1) {高原列車は行く」(昭和29年,詞:丘灯至夫,曲:古関裕而,唄:岡本敦郎)
2) 「木綿のハンカチーフ」(昭和50年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:太田裕美)
アカパルコのお転婆娘(2019.5.26)
昭和37年,詞:漣健児,曲:F.Garcia,唄:スリー・ファンキーズ
「あるとき イカした女がひとりで クルマをスイスイ運転してきた」と始まる歌。
彼女の車は「イカしたスポーツカー」。ぼろバイクでフルスピードで追いかけたら後ろに白バイという歌。
佐々木功も同じ歌を唄っている。佐々木のほうが少しアップテンポで,リズムもはっきりしておりツイストを踊り狂うならこちらのほうが合っている。スリー・ファンキーズ盤はより歌謡曲側に寄っている。
イエロー・バード(2017.4.11)
昭和37年,詞:Keith Bergman,訳詞:音羽たかし,曲:N.Luboff,唄:ザ・ピーナッツ
「イエロー・バード 愛の小鳥よ イエロー・バード 甘いその歌」と始まる歌。
イエロー・バードで甘いその歌とくるなら,カナリアしか思いつかない。もっともイエローがどんな色かは判らない。イエロー・エンベロープは日本では茶封筒と呼ばれているし,イエロー・ドッグは日本でいう赤犬らしい。ジョルジュ・シムノンの推理小説「黄色い犬」というタイトルから黄色いレモンのような色の犬を想像してはいけないと聞いたことがある。カナリアにも色の種類があるが,まあイエローと言えるだろう。
「あの人の住む町へ この想い 今一度届けて」と「放してやりましょう」と当時の言葉づかいだ。今なら「放してあげましょう」となるのだろう。
石狩川悲歌(2015.9.9)
昭和37年,詞:高橋掬太郎,曲:江口浩司,唄:三橋美智也
「君と歩いた 石狩の」と始まる,初恋の思い出を歌った歌である。タイトルは石狩川エレジーだ。
どのような事情で別れたのかは不明だが,「二度とは逢えぬ」とは言っても死別ではないだろう。この時代,種々の理由により二度と会えないということは珍しくなかった。
例えば当時地上の楽園と宣伝されていた北朝鮮への在日朝鮮人の帰還事業がある。また南米などへ移民する人々もいた。これほどでなくても,国内でも交通・通信事情は現在と比べて格段に悪く,唯一と言ってよい通信手段は手紙だった。
そういえば,このころこの歌のように「エレジー」と曲名に付けたものが何曲もあったような気がしてきたが『月のエレジー』1)位しか思い出さない。もっと昔に戻っても『湯の町エレジー』2)位か。
1)「月のエレジー」(昭和36年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:守屋浩)
2)「湯の町エレジー」(昭和23年,詞:野村俊夫,曲:古賀政男,唄:近江俊郎)
忙しくても来てね(2017.8.18)
昭和37年,詞:枯野迅一郎,曲:遠藤実,唄:五月みどり
「忙しくても来てよネ ないしょで来てね」と始まる歌。「私って馬鹿ね 馬鹿な私を可愛がってね」
『おひまなら來てね』1)の続編。この仕事に慣れて来たのか客に対する要求がエスカレートしている。作詞者は異なるが『一週間に十日来い』2)もこのシリーズだろう。
1)「おひまなら來てね」(昭和36年,詞:枯野迅一郎,曲:遠藤実,唄:五月みどり)
2)「一週間に十日来い」(昭和37年,詞:小島胡秋,曲:遠藤実,唄:五月みどり)
一週間に十日来い(2016.10.23)
昭和37年,詞:小島胡秋,曲:遠藤実,唄:五月みどり
「見れば見るほどいい男」と始まる歌。
「トコトン酒場」というのがその店の正式な名前なのかどうかは不明だが,少なくとも通称にはなっているのだろう。そこに一日一回以上来てほしいという歌。「小皿たたけば手拍子そえて」とあるのでそのような酒場なのだろう。
「人の前ではつれないが 胸の中では手を合わす」と当時もツンデレ風はあったが『ツンデレ』1)という言葉はまだなかった。ツンデレは人目を気にしてのことなのだろうが,この歌のケースは営業戦略であった可能性もある。
1)ツンデレ: 人前ではツンツン,二人になるとデレデレという意味か。平成10年代中頃から使われはじめ,初めて用語集等に収録されたのは『イミダス2006』(集英社)らしい。
いつでも夢を(2012.12.15)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫/吉永小百合
「星よりひそかに雨よりやさしく」と始まる第4回日本レコード大賞受賞曲。「おもちなさいないつでも夢を」という歌。
戦後,日本の経済はずっと右肩上がりできた。この頃,まだ貧しいがそれでも5年前,10年前と比べれは,多くの人の生活は良くなっていた。この先も良くなっていきそうな予感があった。テレビ受像機も半分くらいの家庭に入ったようである。戦後初の国産旅客機YS-11が完成した。多くの人が将来の夢を持つことができた時代である。
現代よりもはるかに物の乏しい時代,電化製品も少なく不便だった時代,携帯電話どころか固定電話もない家庭が多く,テレビは白黒,エアコンもない。車を買うなど夢のまた夢,海外旅行などは月旅行並みだったが,それでも夢が持てたと思う。
それにしても吉永小百合はいつまでも若い。いつでも夢をもっているからだろうか。うーん,橋幸夫は少し老けたかも。
江梨子(2016.4.16)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「冷たい雨が降る朝に 一人で江梨子は死んでしまった」と始まる歌。
佐伯がどのような考えでこの詞を書いたのかは解らない。このような死別の歌は無いわけではないがあまり数がないように思う。『野菊の墓』1)のように状況的に珍しいというわけではないと思うのだが「死んでしまった」と直接的に言葉にしているのはかなり珍しいのではないか。
周囲の大人が若い男女を引き離す話は珍しい話ではなかった。昭和中期以前の純愛・悲恋ドラマの一つのパターンといって良いのだろう。しかし,この歌の原作に相当するような話をしらない。この歌のヒット後,大映で映画化されている。
嫌いではないが,流行歌としてはテーマが重すぎる。酔った勢いで唄い,座が盛り上がる歌が好みだ。
1)「野菊の墓」(伊藤左千夫,ホトトギス,明治39年)
おもちゃのチャチャチャ(2014.1.26)
昭和37年,詞:野坂昭如,補作詞:吉岡治,曲:越部信義
「おもちゃのチャチャチャおもちゃのチャチャチャ チャチャチャおもちゃのチャっチャっチャっ」と始まる歌。
人気のある曲らしいが,私にはその良さが解らない。子供たちが寝ている夜中におもちゃが踊っている歌なのだが,『Toy Story』1)の先駆けというような位置づけなのだろうか。おもちゃが自立的に動く話はピノキオ2)などのほか多数あるように思う。
チャチャチャといえば『チャチャチャはすばらしい』3)という歌があった。
1) 「Toy Story}:平成7年公開のディズニー・アニメ。
2) 「ピノッキオの冒険」(カルロ・コッローディ,明治15年)
3) 「チャチャチャはすばらしい」(昭和30年,詞:Enrique Jorrin,訳詞:音羽たかし,曲:Enrique Jorrin,唄:江利チエミ)
かっこいいツイスト(2019.6.23)
昭和37年,詞:漣健児,曲:メンゾ―ジ,唄:弘田三枝子
「かっこいいのよツイスト 踊りましょうよツイスト」と始まる歌。
原曲はリチャード・アンソニーのTwist and Twist。
ツイストを踊ろうと呼びかける歌。パンチのあるミコちゃん。この曲・この唄なら,何も考えずに,ノリノリで踊り続けられるかもしれない。
悲しき片思い(2017.9.1)
昭和37年,詞:John F.Shroeder,Michael E.Hawker,漣健児,曲:John F.Shroeder,Michael E.Hawker,唄:飯田久彦
「こんな気持ちが どんなに淋しいものか」と始まる歌。もっともその前に「ウォーウウォゥウォゥウォーゥ・・・」というのが入るのだが。
元歌はHelen Chapiroの「You Don’t Know」。弘田三枝子も日本語の詞を唄っていたように思う。〔後で調べたら,既に昭和36年の歌として『悲しき片想い』を掲載していた。〕
英語版の歌詞は「Woah, woah, woah, oh yeah, yaeh・・・」とあって、「All though I love you so, Oh you don’t know You don’t know just I feel」と始まる。
当時,「悲しき」と名前のついたレコードが沢山あったような気がする。外国のポピュラー・ソングが多数日本語に訳され日本語でカバーされていたが,原題には「悲しき」に相当する単語が無い曲の邦題が「悲しき~」となっている場合が少なからずあった。
当時は好きだと打ち明けられない片想いの歌が多かったような気がするが,その後は『逢えなくなって初めて知った 海より深い恋心』1)と言うようなのが主体に変ったように感じる。松尾和子の歌はこの歌より古いが,それは主人公の年齢が高いせいだ。若者の歌で後者のような歌が増えたのは少なくとも5年,大よそ10年後のことのように感じる。恐らく当時はまだ『男女7歳にして席を同じうせず』の気分が残っており,男女が気安く会話することが少なかったからだろう。それが,次第に気楽に友達付き合いするようになり,別れた後で恋しさに気付くようになったのだろう。更にその後になると付き合った後に別れる歌が出てくる。昔は死別や親に引き裂かれるなどの歌はあったが,当事者同士の都合で別れた歌はあまりなかったように思う。
1)「再会」(昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:松尾和子)
君を慕いて(2016.3.6)
昭和37年,詞:下条秀人,曲:佐伯としを,唄:新川二郎
「あの女(ひと)の花のくちびる」と始まる歌。
新川二郎は独特の歌声だ。藤島桓夫系なのだがもう少し普通の声に近い。北原謙二にも近いかもしれない。やや鼻にかかっているのだが,その感じが藤島や北原とは少し違う。渥美二郎の唄を初めて聴いたとき,新川二郎を思い出した。発声や唄い方が似ていると感じた。
「初恋の君はいずこに」と「ほろほろとギター爪弾く」歌。
当時の歌は初恋の思い出を長く引きずっているような印象を受ける。逢えなくなってからの時間が長い。当時は次の出会いの機会がなかなかなかったのかもしれない。
霧のカレリア(2015.9.30)
昭和37年,
昭和40年だと思うがスウェーデンのバンドThe SpotnicsのKareliaという曲がヒットした。これには詞がついてなかったが邦題が「霧のカレリア」である。私はこれを聴いたのだが,昭和41年の歌本に唄:ダーク・ダックスとして司ひろしの詞が掲載されていた。ダーク・ダックスの歌の記憶はないが,The Spotnicsの演奏は何度も聴いた。©1962とあったので昭和37年としたがもう少し後の曲とすべきであったかもしれない。
The Spotnicsの演奏では間奏にロシア民謡『トロイカ』が挟まれていた。タイトルに引きずられているのかも知れないが,私にとってはThe VenturesのDiamond Headはハワイを想像させ,この「霧のカレリア」は北欧を思わせ,どちらも好きな曲のひとつであった。
なお,スプートニクはソ連の宇宙計画の名で,スプートニク○号という人工衛星がいくつも打ち上げられていたが,曲から宇宙のイメージは感じなかった。
銀座の恋の物語(2011.12.7)
昭和37年,詞:大高ひさを,曲:鏑木創,唄:石原裕次郎・牧村洵子
「心の底までしびれるような」というデュエット定番曲である。知ってはいるのだがなかなか唄う機会がない。銀座の恋などは関係ないということだ。「若い二人が銀座で」というだけで,お金持ちの坊ちゃんか,真っ当に稼いだ金ではない金を使っている若者の話のように感じてしまう。映画のストーリーはそうではないので「真実の恋の物語」というのも解らぬでもないが,やはり「銀座」に引っかかる。
長じてからも銀座などへ行く機会はほとんど無い。かといって新宿でもないし,もちろん赤坂・六本木でもない。神田・御茶ノ水界隈をうろついているうちに巣鴨になりそうだ。そういえば昔は秋葉原に行ったが,最近はご無沙汰だ。比較的最近,電子部品が欲しくて何年ぶりかで大須へ行ったが,部品屋の数が激減して街の様子が変わっていた。
このころ通学していた中学が移転した。新築校舎だったのだが,机などはそれまで使っていたものを旧校舎から新校舎へ各自手で持って運んだように思う。団塊世代なので1学年500人くらい居たと思う。1500人近くが机を持って道路をバス停三つくらい行列したかと思うとちょっと変な気もする。しかし,今ならとても運べると思えない距離なので記憶間違いかもしれない。
旧校舎は道路からかなり下がった位置にあり,ちょっと雨がひどいと校庭は池になっていたが新校舎ではそのようなことはなかった。
草を刈る娘(2017.5.4)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:吉永小百合
「お前と道連れ 裾野さ行けばヨー (まんずまんず)」と始まる歌。
石坂洋二郎の「草を刈る娘」(昭和22年)が昭和36年に日活により映画化(吉永小百合,浜田光夫)されたとき,映画内で吉永が唄った歌。
農村の娘の歌。映画は観ていない。吉永の印象は都会的な印象で,このような田舎娘の歌は合わないと思うのだが,映画では田舎娘を演じているのであり,演技の中で唄われればリアリティも感じたのだろう。
「岩木の山」とあるので青森県の話だろうか。石坂は弘前生まれで青森や秋田で教員生活をしていて,本州北部を舞台とする小説を何篇も書いている。戦後すぐはもちろんのこと,この頃でも東京は遠く,それでも集団就職などで中学卒業後すぐに東京にでてくる者も多数いた時代だが,この歌は地元で農作業に励む男女の歌である。
クライ・クライ・クライ(2019.7.19)
昭和37年,唄:倉光薫
「あのこは僕に 小さな声で もうサヨナラと囁くけど」と始まる歌。
元歌を唄ったのはジャック・スコット。飯田久彦もこの歌を唄っている。また,飯田久彦が唄った『花咲く街角』1)と混同してしまうこともある。これはどちらの歌も後半に「クライ クライ クライ」という歌詞があるからだろう。もちろん二つの歌はかなり違う。この歌では泣くのは自分だし,この部分のメロディーは後にいくほど音程が低い。一方『花咲く街角』のほうは泣くのはお前だし,後になるほど音程が上がる。それでも歌の最初で女性から離れて行くというのは同じなので印象が似ているのだ。
1)「花咲く街角」(昭和37年,詞:Del Shannon,日本語詞:漣健児,曲;Del Shanon,唄:飯田久彦)
恋の曼珠沙華(2020.11.2)
昭和37年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:美空ひばり
「思いかなわぬ 夢ならば 何故に咲いたぞ 乙女の胸に」と始まる。
「摘んで捨てても また咲く花よ」「女の恋の曼珠沙華」という歌。
解りやすい詞だが,曲が古賀のイメージに合わない気がする。古賀ならもっと日本調になりそうな気がするのだが,この曲はバタ臭い。
東映映画『三百六十五夜』主題歌。
恋は神代の昔から(2012.4.25)
昭和37年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:畠山みどり
「恋をしましょう恋をして」とお気楽な歌である。「恋はするほど艶がでる」,「いやよ いやよも すきのうち」などといい加減なもんだ。「恋はニキビのようなもの ひとつ消えてもまたできる」といいながら「恋は死ななきゃなおらない」とも言っている。
歌詞には「昔のひとは言いました」とあり,確かに「想われにきび」などという言葉もあって昔からの言葉がちりばめられているようだが,「恋は死ななきゃなおらない」というのは初耳だった。森の石松1)の評として「バカは死ななきゃなおらない」というのは昔から有名だが。
畠山みどりは袴姿で衝撃的なデビューだった。
この年,米国の偵察機がソ連製核兵器がキューバに設置されたことを確認した。米国のケネディ大統領はキューバの海上封鎖を表明し,世界中に緊張が走った。結局数週間でソ連が核兵器を撤去して危機は回避された。
1)清水次郎長の子分。石松が,次郎長親分の代参で金比羅さんへ参った帰り,大阪淀川の三十石船の船中で,やくざ者に詳しい相客にスシを食わせて(「スシ食いねぇ」はそのときの石松の台詞)次郎長の子分の貫禄を尋ねる。相客は上位16人まで名前を挙げるが,石松の名前は出てこない。最後の最後に思い出す場面「大政,小政,大瀬の半五郎,遠州森のい・・・」ここで思い出し,森の石松が一番強いといわれ,石松は喜ぶが,「だけとあいつはバカだからねぇ」と続けられる。(広沢虎造:「清水次郎長伝」石松三十石船道中)
コカ・コーラの歌(2018.11.15)
昭和37年,詞;K.Nanamura,曲:N.Miyazaki,唄:Crazy Ken Band
「コカ・コーラをのもうよ コカ・コーラを冷やしてさ」と始まる歌。
もちろん清涼飲料水のCMソングだ。何度も何度も商品名が登場し,最後は「スカッとさわやか コカ・コーラ」と終わる。
商品名や会社名が登場するCMソングは少なくないが,これほど連呼するのはそう多くはない。それらの中でも最も印象に残るCMソングだろう。特に最後のフレーズはこの商品のキャッチフレーズとして定着した。
これが男の生きる道(2017.10.11)
昭和37年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:ハナ肇とクレイジー・キャッツ
「帰りに買った福神漬けで 一人淋しく冷飯喰えば」と始まる歌。
2番には「いやな課長に頭を下げて 貰う月給は1万何ぼ」とあり,当時はそういう時代だった。
昭和35年に岸内閣に代わって登場した池田内閣から所得倍増計画が発表された。実際昭和36年から45年の10年間に2.3倍(一人当たり消費支出で比較)になった。高度成長は昭和30年から18年間続いたのだ。『ALWAYS 三丁目の夕日’64』1)より2年前であり,まだまだ豊かとはいえないが,希望が持てた時代である。とはいえサラリーマンはこの歌のようにようやく飢えを脱しつつあった程度である。
堺屋太一が記者会見で「巨人・大鵬・卵焼き」というコピーを披露したのが昭和36年である。当時の子供の憧れのおかずが卵焼きということだ。時代が少し前後するかもしれないが,病気見舞いに卵をもっていくこともあった。ついでにいえばバナナも高級品だった。子供の頃,「ガマの油売り」や「バナナのたたき売り」などの台詞を覚えようとしていた時期があったが,バナナでは一房1000円からスタートしたように記憶している。当時は1ドル360円の固定為替レートで,輸入品のバナナは一房月給の1/10〜1/20の値段だった
それでも三種の神器と呼ばれたテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫はかなり普及し,次の夢は3Cと呼ばれた自家用車・クーラー・カラーテレビとなる。
コロッケの唄(2015.3.16)
昭和37年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:五月みどり
「こんがりコロッケにゃ口もない」と始まる歌。「今日もコロッケ明日もコロッケ これじゃ年がら年中コロッケコロッケ」などと言う個所は古い歌1)をそのまま使用したのだろう。
この歌は歌詞の中に差別語が使われているということで発売禁止になったらしい。文脈から差別を意図して使われているとは思わないので発売禁止は過剰反応ではないかとは思うが,この歌詞を聴きたくない人がいるのならば止むを得ないのかもしれない。時代がそのような時代なのだろう。但し,文学作品など,後の時代に忘れられるのは仕方がないが,後の時代の基準を基に不適切などと言って過去の表現を抹殺することは許さることではないと考える。
1)「コロッケの唄」(大正6年,詞:益田太郎冠者,曲:益田太郎冠者)
五ひきの仔ブタとチャールストン(2014.3.12)
昭和37年,訳詞:漣健児,曲:Artie Kaplan, Paul Kaufman,唄:森山加代子
「ごひきのこぶたが ごひきのこぶたが ラジオをきくと」と始まる歌。
原曲はThe Shimmy Shakeというタイトルのバンド曲らしいが,Connie Francisも歌っている。
精神面で論じることはない。ただただチャールストンが好きで,曲を聴くと踊りだす。ツイストなどのように新しい踊りやリズムが紹介されるときに,このような,『踊っていれば全てハッピー』という歌がでることが多かったように思うが,ディスコ時代になると新しい歌で○○ディスコというようなものを出すのではなく,既にある歌をディスコミュージックにアレンジしてディスコ○○というような形で出されるようになったように感じる。
五万節(2016.11.22)
昭和37年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:ハナ肇とクレイジー・キャッツ
「学校出てから10余年 今じゃ会社の大社長」と始まる歌。
いまじゃ○○というのが次々にでてきて,それぞれが「パチンコで取ったピースが5万箱」とか「飲んだビールが5万本」などと「5万」という数字を使って自慢?するホラ吹き歌。当初の歌詞では「タクシー運転手」と「ヤクザの大幹部」を歌った箇所が問題ありとされ,「野球の大選手」と「名うての事件記者」に変更されている。
オリンピックを前に建設ラッシュで好景気だった時代の歌。
さいはての慕情(2017.5.28)
昭和37年,詞:あらかわ・ひろし,曲:B.ロバーツ,唄:克美しげる
「落ちた涙はどこに行くか あまい夢はどこへ」と始まる歌。
原曲を唄ったのはリックとランスでタイトルは「Where The Four Winds Blow」。
ザ・ピーナッツが唄った「Where does a tear go after it has fallen」と始まる歌があったと思い,捜してみたが,タイトルなどを思い出さないまま放置していた。この歌の日本語歌詞が似ているのに気づき,インターネットで曲を聞いてみた結果,同じ曲だと確認した。
ところが,克美のこの歌の記憶がない。リックとランスに関しては名前すら記憶にない。ピーナッツの唄っている様子がyoutubeにあったがこれも日本語で唄っていた。日本語歌詞は違うが,小林旭の唄もyoutubeにあった。私の記憶ではピーナッツが英語の歌詞で唄っていたのだが。
詳しいことは忘れたとはいえ,50年以上経って突然思い出すのだから,当時の私の印象に残った曲だったのだろう。克美しげるに関しては『片目のジャック』などを思い出したのだが,作詞者や作曲家等詳しいことが解ればまたこの記事で取り上げよう。
いずれにせよ,当時の私はこのような曲を聴いていたということだ。
寒い朝(2012.8.22)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:吉永小百合/和田弘とマヒナ・スターズ
「北風吹きぬく寒い朝も」という歌。「北風の中にきこうよ春を」と素人っぽい発声ながら,吉永小百合が生真面目に唄う歌である。吉田の曲も素直であり,佐伯の詞もまじめ一方という感じで,当時の吉永小百合のイメージそのままの歌であり,吉永小百合は今もそのイメージを変えていない。
「いじけていないで手に手をとって」と良い子の見本のような歌だ。このような歌より,少し影がある歌のほうに魅力を感じるが,良い子の歌も必要で,このような歌を吉永小百合に唄わせることは素晴らしい。「奈良の春日野」1)を吉永小百合に歌わせるなど,フンだ。
1) 「奈良の春日野」(昭和40年,詞:佐伯孝夫,曲:大野正雄,唄:吉永小百合)佐伯の詞としては珍しく,「青芝に腰を下ろせば鹿の糞」「鹿に梅干やったらば」とかあって,あとは「フンフンフンフン」と繰り返す歌。
寒い朝(2015.4.24)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:吉永小百合/和田弘とマヒナスターズ
「北風吹きぬく寒い朝も」と始まる歌。
「北風の中に待とうよ春を」と,現状は厳しい環境下にはあるが将来に希望を持ち,強く生きようという,吉永小百合のイメージどおりの歌である。あるいはこの歌で彼女のイメージが決まったと言っても良いかもしれない。
彼女は小学生のときからラジオ東京(現TBS)系の『赤胴鈴之助』1)に出演していたらしい。私はこの連続ラジオドラマを聴いていたが,吉永小百合のことは知らなかった。
吉永小百合を知ったのは日活映画『キューポラのある街』2)によってである。小学校の低学年の頃は校庭に巨大スクリーンを張って,暗くなってから,一般市民にも公開で映画鑑賞会があったが,その後,授業の一環として映画館に行くようになった。この映画は学校から授業の一環として映画館に行ったものの一つだ。
当時は私も成長期だった。彼女は私より少し年長で,成長期の数年の差は大きく,私はサユリストにはならなかったが今では同世代,見かけは私よりはるかに若い。
1)「赤胴鈴之助」(少年画報に連載されていた漫画,初回のみ福井英一,以後竹内つなよし,昭和29年〜)(連続ラジオドラマ。ラジオ東京,昭和32年〜)
2)「キューポラのある街」(日活,昭和37年,出演:浜田光夫,吉永小百合ほか)
さよなら さよなら さようなら(2016.12.21)
昭和37年,詞:星野哲郎,曲:山路進一,唄:北原謙二
「赤いパラソル くるりと廻し」と始まる歌。
このフレーズが強烈な印象で,漫画の一コマを見ているように画像が目に浮かぶ。動画が浮かばないのはリアルな経験ではなく,このような映像も印象に残る形で観たことがないからだろう。
「わすれられない 初恋小道 さよなら さよなら さようなら」と北原の独特な声が記憶に残っている。
三百六十五夜(2024.6.23)
昭和37年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:美空ひばり
「みどりの風に おくれげが やさしくゆれた 恋の夜」と始まる。
昭和21年から23年にかけて雑誌『ロマンス』に連載された小島政二郎の小説『三百六十五夜』が昭和23年新東宝の市川崑監督で映画化された。主演は上原謙である。このとき主題歌を担当したのが西條と古賀,唄ったのが霧島昇と松原操だった。
昭和37年,今度は東映で映画化され,この時の主演は美空ひばり,彼女は主題歌も唄った。この映画には高倉健,朝丘雪路,山田五十鈴、鶴田浩二,平幹二朗などが出演している。
ざんねんソング(2023.7.11)
昭和37年,詞:浜口庫之助,曲:不詳,唄:守屋浩
「向こう通るは女学生 三人並んだ その中で モストビューティーが目に浮かぶ もしもあの娘が 彼女なら」ということで懸命に勉強し,外国で修業して帰って来たときには「あの娘は誰かの 妻だった」とか,可愛い娘を求めてわきめもふらず歩いていたら,後ろから可愛い娘がついてきているのに「背中に目がない 悲しさわ」と進行して最後は「ざんねんだ ざんねんだ ざんねんだったら 寝てしまえ」と終わる。
浜口はときどきこんなコミックソングを書いているようだ。
下町の太陽(2011.11.3)
昭和37年,詞:横井弘,曲:江口浩司,唄:倍賞千恵子
「下町の空にかがやく太陽はよろこびと悲しみ写すガラス窓」。第4回日本レコード大賞新人賞受賞曲。
私から見て最も歌の上手な歌手の一人。声が優しいのが良い。童謡・唱歌を唄っても上手い。昔から俳優・女優で唄も歌うという人と,歌手で映画・演劇にも出るという人がいる。倍賞千恵子はどちらか良くわからないが私にとっては歌手だ。石原裕次郎や加山雄三は俳優で唄も歌うというのが私のイメージであり,石原・加山が高度成長期でバブルに入る前の昭和を代表しているとすると,倍賞千恵子は浜田光夫や吉永小百合と同様古く懐かしい昭和を代表していると勝手に考えている。
「縁日に二人で分けた丸いあめ」だけが歌詞に出てくる二人の思い出。「あぁあ〜太陽と今日もまた」と,お天道様に対する信仰もまだ生きている。
島育ち(2014.4.25)
昭和37年,詞:有川邦彦,曲:三界稔,唄:田端義夫
「赤い蘇鉄の実も熟れる頃」と始まる歌。奄美大島の歌である。もともと昭和14年に作られた新民謡らしい。
「朝は北風(にしかぜ)」などと標準語とは異なる言葉もあり,大島の雰囲気をよく伝える詞だし,メロディーも島の雰囲気がある。
奄美群島は明治12年,大隈国に編入され,廃藩置県で鹿児島県の一部となった。戦後,米国はこれを琉球の一部とみなし,日本から行政が分離され,一時,奄美群島政庁が置かれていた。昭和27年,サンフランシスコ平和条約で日本の主権が回復されたのを機に一部日本へ復帰,昭和28年末には全面日本復帰となった。沖縄が日本に返還されたのは昭和47年である。
米国統治下の奄美群島では,日本本土と切り離されたため経済規模が縮小し,基地のあった沖縄に比べ資金の投下も少なく,経済的に困難な状況が生まれ,祖国復帰運動が起こった。現地の小中学生が血判状を提出した例もあるという。
敗戦の結果でも,自然災害の結果でも地域によって住民の負担は異なる。自分のことで精一杯という状況でも,負担の多い地域の人々に思いだけでも寄り添っていくことが必要であろう。大気汚染や水質汚染などの問題も顕在化してきている本土だが,高度成長の上り坂の途中であり,人々も今日の暮らしだけを見ていた時代から明日の暮らしを想像できる余裕ができ,大島などにも目が向くようになったのだろう。
昭和38年には三沢あけみの『島のブルース』1)が出ている。
1) 「島のブルース」(昭和38年,詞:吉川静夫,曲:渡久地政信,唄:三沢あけみ/和田弘とマヒナスターズ)
出世街道(2013.4.11)
昭和37年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:畠山みどり
「やるぞみておれ口には出さず」とはじまる歌。男歌であることは判るのだが,いろんなことを詰め込んでありすぎるような気がする。1番では「一途な夢を」追いかけている男のようだ。2番は「敵は百万こちらはひとり」と1番の「一ぽんどっこ」というのと呼応しているのだが,「あの娘の涙がつらい」とやや違うものが混じってきている。3番では「おれの墓場はおいらがさがす」と夢が挫折しそうな雰囲気で4番では「あの娘ばかりが花ではないさ」と恋愛も不調に終わっている様子だ。
4番で「出世街道色恋なしだ」と言っているが,「あの娘の涙」などに構わず出世街道を突き進もうという歌なのだろうか。
この頃はまだ,皆が,馬車馬のように働いていた頃ではなかろうか。終戦後の食べるものに苦労する時代は終わっていたように思うが,まだ,貧しいといわざるを得ない人々もいた。しかし,より良い明日が来ると信じて働くことができた時代ではなかろうか。公害と呼ばれた工場廃気や廃液による大気汚染・水質汚染が顕在化し始めていたが,多くの人がいままで手にすることができなかった品物を手に入れることができるようになってきていた。たとえば国内のテレビ受像機は1000万台のレベルに達した。ほぼ半分の世帯に1台のテレビが行き渡ったのである。しかし,ソニーやホンダのような企業2)を起業するには少し遅すぎたのではないか。ガラスの天井3)ではないが,眼に見えない壁にぶつかり挫折した人も少なくなかったと思われる。恋を犠牲にしたのに・・・。
1) 水俣病らしい症状は戦時中からあったが,昭和34年に有機水銀原因説が出た後も原因は特定されず,最終的に原因が特定されたのは昭和42年である。四日市喘息もこのころ顕在かし,四日市付近の魚は異臭により売れなくなり,付近の漁業は昭和40年ころを境に衰退していった。
2) ソニーもホンダも昭和21年の創業である。
3) 女性が社会に出て出世街道を登っていく途中で,眼に見えない障壁があるという意味で使われている。しかしこのような障壁を感じるのは女性だけではない。
ショボクレ人生(2019.3.6)
昭和37年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:植木等
「バーやキャバレーじゃ灰皿盗み」と始まる歌。
その他,数々の小犯罪(「勘定は人まかせ」のように犯罪認定はされないだろう行為も含む)を挙げ,「みっともないから およしなさい」と唄っている。
当時は東京オリンピック前の建設ラッシュで景気は悪くなかったはずだと思うが,当然現在に比べれば人々は貧しかった。このような小犯罪は今より多かったのだろうか。『衣食足りて礼節を知る』という言葉があるが,当時はまだ衣食が不十分だったのだろうか。私の記憶ではこの10年前に比べればはるかに改善していたと思うが。
もっともこの10年後でもパチンコ屋で「落ちてる玉ひろい」などという光景は見られたのでいつの世もある程度の割合でこのような人はいるのかもしれない。
新撰組の唄(2017.9.16)
昭和37年,詞:牧房雄,曲:小川隆司,唄:三橋美智也
「葵の花に咲く時代の嵐」と始まる歌。
私が子供の頃知っていた新撰組は鞍馬天狗の敵役だった。チャンバラごっこで新撰組になりたがった子供はいなかったように思う。沖田総司など名前も知らず,近藤勇と虎鉄という名前だけを知っていた。それがいつの頃からか,土方歳三なども有名になってきた。恐らく知っている人は良く知っていたのだろうが私は知らなかった。
昭和40年からNET(現テレビ朝日)系で『新撰組血風録』が放映されてから知るようになったのかも知れない。このドラマでは栗塚旭が土方を,島田順司が沖田を演じ人気だった。
いずれにせよ私にとっての三橋美智也が唄った新撰組と言えば,『あゝ新撰組』1)であり,この歌の影は薄い。
1)「あゝ新撰組」(昭和30年,詞:横井弘,曲:中野忠晴,唄:三橋美智也)
ジェニ・ジェニ(2015.10.21)
昭和37年,詞:Enotris Johnson, Richard Penniman/訳詞:漣健児,曲:Enotris Johnson, Richard Penniman,唄:鈴木やすし
「Jenny Jenny Jenny イカシた名前だぜ Jenny Jenny oh! Jenny Jenny」と始まる歌。元歌は昭和32年。
ロックとは何かが今でも解らない私だが,この曲についてジャンルは?と聞かれるとアメリカンロックじゃないの?と答えるだろう曲。
曲に乗って無心で体を動かせば,嫌なことは全て忘れられるのではないかという曲。歌詞は関係ない。その意味では盆踊りも同じだが,盆踊りは振りを覚える必要があるのでやや敷居が高い。
歌詞には「Spinny Spinny Spinny激しいリズムだぜSpinny Spinny oh! Spinny Spinny」とあるのでこのリズムはSpinnyというのだろうが,私は知らない。踊りはツイストの系統だ。
踊りを見て楽しいのは振りが揃った盆踊りの方だが,自分で踊るなら無心になれればどちらでもよい。結局『踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々』ということだろうか。
オタ芸1)の揃った動きを見ると,独自の個性ある動きの集団より,揃った動きに好感を感じる自分を発見し,同じ血が流れているような気がする。但し,踊っている人々の顔をみると,オタクたちより盆踊りの輪に軍配を上げたくなる。
1)「アイドルオタクの芸」の略?
太陽はひとりぼっち(2017.1.30)
昭和37年,訳詞:タカオ・カンベ,曲:ジョバンニ・フスコ,唄:園まり
「レクリプス・・・ たそがれのローマ 夏の陽ローマ トレビの泉に 沈む陽よ」と始まる歌。同名の仏伊合作映画(主演:アラン・ドロン)の主題歌。映画の英語タイトルがThe Eclipseである。
高校の軽音楽同好会がこの曲を演奏したのを聴いたが,このときアルトサックスがメロディラインを演奏していた。これが目の前でアルトサックスが演奏されるのを見た最初だった。
「むなしい恋の 涙のエンジェル」と終わる。エンディングのギターも印象に残った。
金管楽器に関しては一時ニニ・ロッソのトランペットがヒットチャート上位に在ったころ聴いた。何曲かは耳に残ってはいるが,歌(詞)はないので昭和の歌ではない。あとはムード歌謡のテナーサックスが印象に残っている。
歌を思い出さない(歌はなかった?)ので項を立てないが,アラン・ドロンで『太陽・・・』とくれば『太陽がいっぱい』(昭和35年)を思い出す。こちらの主題曲も記憶に残っている。
ところで,この項を書くために雑誌「明星」の付録などを見ているのだが,園まりのこの歌に©1962 by C.A.M.Italyとあったり,著作権の記載ないものもある。この当時は著作権の取り扱いが雑だったのだろう。別の資料にはタカオ・カンベ作詞となっている。原語の歌は聴いた記憶がないので,曲に日本語の詞をつけたのではないだろうか。そうであれば訳詞ではなく作詞だろう。
昭和の後期には著作権はほとんどがJASRACによって管理されていたようだ。これは歌詞・曲ともに管理しているのだろうと想像できるが,この歌の場合,原曲の著作権を管理していたのがItalyの組織または個人だとしても,日本語歌詞とイタリアの関係がよく解らない。私が見ている歌本には日本語歌詞のみ記載されており,楽譜の記載はないのだが。
補足:原曲はL’eclisseでMinaが唄っている。当時聞いた記憶はないが,Minaの唄は素晴らしい。
大学かぞえうた(2013.9.29)
昭和37年,詞:仲田三孝,浜口庫之助,曲:仲田三孝,水原皓一,唄:守屋浩
「一つとせ人はみかけによらぬもの」と始まる歌。十一までいって,最後は「おわりとせ尾張名古屋は城でもつ」ときて「そいつぁゴーキだねそいつぁゴーキだね」と終わる。
それぞれ具体的な大学を想定しているようだが名は伏せられている。作詞・作曲は異説もあるようだ。自然発生(はしないので誰かが元歌を作ったのだろうが)的に学生の宴会などで歌われていたのを採譜したものであろう。最近は聴いたことはないが,昔の学生の宴会では(カラオケはなかったが)いくつか定番の宴会ソングがあり,数え歌も何種類かあった。
大学数え歌(2019.2.8)
昭和37年,詞:仲田三孝,補作詞:浜口庫之助,曲:P.D.,唄:守屋浩
「一ツとせ 人はみかけに よらぬもの」と始まる歌。
「軟派張る奴ぁ ?大生」とか「ぬれ手でもうける ?大生」など大学の特徴を歌っているようだ。大学名は伏せてあり,「?」は「ン」と唄っているが想像はできる。ただし,地域依存の地元大学を想像するかもしれない。特徴としてはガリ勉タイプ,農学系,宗教系などのほか女子大もある。
昭和37年の大学(短大も含む)進学率は男子21.9%,女子16.5%だった。平成27年にはこれが男子56.9%,女子54.5%になる。学生数が増えた分,大学は多様化した。
ちょうど時間となりました(2014.6.4)
昭和37年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:畠山みどり
「与三郎さん 怒る気持ちはわかるけど」と始まる歌。
一番は与三郎とお富,二番は小原庄助が一人で登場,三番は白井権八と幡随院長兵衛,四番は間寛一が独り登場する。今,これらの人物がどの程度有名なのかは判らないが,当時は誰でも知っていただろう。
これは一種のパロディと言ってよいのだろう。しかし,似たような言葉にオマージュとかパスディーシュとかあるようだが,具体的にこれらの違いが良く判らない。
最後は「ちょうど時間となりました」と終わるが,これは浪曲などで,口演の区切りでの決まり文句のようなものだった。たとえば「丁度時間となりました。一寸一息願いまして又のご縁とお預かり」などと終わる。例えば30分口演で話が一つ終わると次の話の最初の部分を少し語り「丁度時間となりました」と終わるので予告編を少しやって終わるという形だ。
ツイスト・ナンバー・ワン(2015.5.24)
昭和37年,日本語詞:池すすむ,曲:Dee Joey, Glovey Henry,唄:藤木孝
「この世に女神が一人いて イエイエ イエエエエイエ」と始まる歌。
原曲は「ペパーミントツイスト」という曲らしい。
同じ頃小林旭とフォー・コインズも「ツイスト・ナンバーワン」という極めて紛らわしいタイトルのレコードを出しているがこちらの原曲はChubby Checker の「The Twist」(日本語詞:水島哲,曲:ハンクグローバー,1960)で「ペパーミントツイスト」とは違う曲だ。同時期に小林旭とフォー・コインズは水島哲の日本語詞で「ペパーミントツイスト」のレコードも出している。それほどツイストが流行ったということだ。
非常に紛らわしいが,私にとっての「ツイスト・ナンバー・ワン」は藤木孝の曲だ。
藤木の歌では,女神は「ツイストやめて」と頼みに来るのだが,「駄目だ 無理だ」と拒否し,「体がしびれて とまらない」と踊り続ける歌になっている。
過去に種々のダンスが流行したが,短期間に爆発的に流行ったのはツイストだろう。ツイストを踊ると腸捻転になるという,フラフープが流行した時にも流れたような怪しげが噂が流れるほどだった。
てなもんや三度笠(2017.10.24)
昭和37年,詞:野香川登志緒,曲:林伊佐緒,唄:藤田まこと
「雲と一緒にあの山越えて」と始まる歌。
朝日放送制作でTBS系で放映された喜劇「てなもんや三度笠」の主題歌。
関西地区では最高視聴率64%越えという人気番組だったらしい。
主人公の名前『あんかけの時次郎』は市川雷蔵主演の大映映画『沓掛時次郎』のパロディだろう。
遠くへ行きたい(2012.10.18)
昭和37年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:ジェリー藤尾
「知らない町を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」という歌。
何故か理由はわからないが何となく心が晴れぬとき,この歌が心に染み入る。ジェリー藤尾が好きだったわけではないが,この歌だけは魅かれた。
この頃,遠くへ行くのは大変だった。東海道新幹線の開通は昭和39年だから当時はまだない。青春18きっぷの前身である青春18のびのびきっぷの発売が開始されたのは昭和57年である。高速道路もなく,自家用車も極めて少なかった。複数の社から360ccの軽四がでてはいたが,パワーもなく,道路も悪いので長距離は大変だった。自転車は電動アシストはもちろんなく,変速機もなく,サイクリング車はあったのかも知れないがほとんど見たことがなかった。唯一見るスポーツタイプの自転車は競輪の競技用自転車だった。普通は実用車,リヤカーを引いたり,酒屋や牛乳屋が配達に使うものとか蕎麦屋の出前に使うようなものだった。いわゆるママチャリの登場は昭和50年代の後半ではないだろうか。可能性はオートバイが一番高かったが,当時ツーリングにでるというような話はほとんど聞いたことがなかった。大型オートバイにサイドカーをつけてということも無かったわけではないという程度だ。雑誌にはいろいろ紹介されていたが実際に走っているのを見るのは稀だった。歩いて旅するほど暇のある人間も極めて少なかった。・・・と思う。
この年,堀江謙一が小型ヨットで単独太平洋横断に成功した。米国の宇宙開発は,初めて有人で地球を周回したのがこの年である。
遠くへ行きたい(2015.11.13)
昭和37年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:ジェリー藤尾
「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」と始まる歌。
気を許せる仲間がいないからか,親友がいるがたまには独りになりたいからなのかは判らないが,世間のしがらみから逃れたいというのだろう。
「愛する人と巡り逢いたい」とも歌ってはいるが,ガールハント・ボーイハントのような軽さは全く感じられない。漠然と愛に恋しているのだろう。
心の病まではいかないが,心が疲れているのだろう。
心が疲れる,あるいは心を病むということは昔からあっただろう。しかし,心を病んだ人が他人に対して攻撃的になるというのは最近のことだと感じるのは気のせいだろうか。
ドント節(2016.6.10)
昭和37年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:ハナ肇とクレイジー・キャッツ
「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と始まる歌。
1970年代の一億総中流社会に向け高度成長期まっただ中のサラリーマンの歌である。
クレイジー・キャッツのメインボーカル植木等には青島・萩原とのトリオによる多くの無責任シリーズの歌がある。植木等は真面目な性格で,一連の不真面目?な歌を唄うことをためらったが,僧侶である父親から,『煩悩を脱し切れぬのは人の常,人は誰も悪行をなす。そのような人々を救うことこそ弥陀の本願』(?)と言われ『スーダラ節』1)を出したところ大ヒット,以後この無責任シリーズを唄うようになったとのこと。もちろん私は植木とは面識がないが,真面目な植木の姿の報道を何度か目にしたことがある。また,私の高校時代の先生の一人が植木等と『1本の煙草を分け合って吸った仲』だったそうで,その先生の言葉からも,植木が無責任男ではなかったことが伺えた。
恐らく,当時の日本は何も特別なことをしなくても経済成長する時期だったのだろう。戦後の焼け野原から最新設備への投資が行われ,人口は自然に増加して消費も労働力も拡大していた。日本列島改造や東京オリンピックによるインフラ整備は自然現象ではないかもしれない。ベトナム戦争など他国の不幸な状況が日本経済に資した面もあるかもしれない。原因はともかく,このような時期だったからこそ終身雇用と年功序列は成り立ったのだ。このような制度の下,労働者は安心して会社のために働くことができ,経済がますます発展したのだろう。ポジティブな循環である。無責任社員はいたかも知れないが大部分は真面目に働き,だからこそ無責任社員に対する非難と羨望が入り混じった気分からこのような歌がヒットしたのだろう。
日本が数少ないトップグループに入ってからは『モーレツ社員』が表に出て来ざるを得なかったが,それに疲れ『モーレツからビューティフルへ』となり,その後経済が次第に低迷していき『一億総中流社会』から『格差社会』へと移行していくことになる。
この時代には『モーレツ社員』という言葉はなかったが,実態はあった。『モーレツ』などという言葉を冠しなかったのはそれが普通のことだったからだ。
『モーレツからビューティフルへ』は徐々に浸透してきて,まだ景気の良かった時代,正社員になりモーレツに働くより,必要に応じてアルバイトをすれば正社員と同等以上の収入が得られるので,空いた時間は自分の好きなことをする,あるいは本当の自分をもとめて『自分探し』をするほうが『ビューティフル』な生き方だと思うような人間が増えた結果,不景気になると『格差』が開いてしまう。
1)「スーダラ節」(昭和36年,詞:青島幸男,曲:萩原哲昌,唄:ハナ肇とクレイジー・キャッツ)
2)モーレツ社員:昭和40年代後半から50年代前半頃の流行語。昭和45年の石油会社のCMでの「オ〜!モーレツ」からか?昭和53年には「24時間戦えますか?」という栄養ドリンクのCMが流れている。まだ「モーレツ」は健在だ。
3)モーレツからビューティフルへ:昭和45年の複写機会社CMのキャッチフレーズ。
ナカナカ見つからない(2019.9.8)
昭和37年,唄:スリー・ファンキーズ
「この広い世界の どこかにたったひとり 僕のお嫁さんになる人がいる」と始まる歌。
この後,テンポアップで「あの娘かな この娘かな あれ違うかな」と捜すがナカナカ見つからないという歌。
赤い糸で結ばれている相手を捜そうというのか,白馬の王子様が現れるのを待つファンタジーの男子版か。特定の誰かを恋するのではなく,恋に恋している状態の歌。
女子のことは解らないが,当時の男子は多くがこの状態だった。男子が数人集まると雨夜の品定め1)のような話題になることは珍しくなかった。美人投票のような話題はあまり出なかった。美人に関しては新入生で○組にすごい美人がいるなどという噂があっという間に広まり,学内で誰が美人かというようなことは上位の数名は確定しており話題にもならなかった。話題はそれぞれの意中の人の話だ。これが面白いというか,アッと驚くような名前がでてくることが少なくない。元々の好みか,ささやかなきっかけがあったのだろうが,人の好みは様々だと驚く。これだから人生はうまく行くのだろう。
告白して(当時はこのような言葉は使わなかった。頻繁にはない話なので何と言ったかは忘れてしまったが,交際を申し込むと言ったようにも思う。)Noと言われた話はたまに聞いたが,多くは想うだけで告白にまでは至らなかった。ちなみに,Noの理由で多いのは他に好きな人がいるや勉学・クラブ活動で精一杯などだ。Yesの返事をもらった話は聞いたことが無い。無いわけではないのだろうが,秘密に深く静かに潜航していたのだろう。校内で交際が明らかなカップルはほとんど見たことがなかった。
Noという返事をもらったのかどうかは知らないが,近くの女子高の生徒に出したラブレターが回覧されて,出した他高の生徒が笑い者になっていたという噂を聞いたことがある。このような噂を聞くと恐れをなして,うかつに告白などできないと思っているうちに卒業となってしまうというのが普通だった。
1)紫式部「源氏物語」帚木
中山七里(2019.1.10)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「中山七里の お地蔵さんに あげる野花も かなしい供養」と始まる歌。
橋の股旅物のひとつ。映画「中山七里」(主演:市川雷蔵)の主題歌。歌詞の意味は明瞭で,情景も目に浮かぶのだが,映画を観ていないからか,なぜそのような状況になっているのかが解らない。映画を観ている人にはよく解るのだろう。
長いおさげ髪(2011.11.22)
昭和37年,詞:神津善行,曲:神津善行,唄:守屋浩
「長いおさげ髪あの娘のことさ」という歌。
昔は髪の長い娘が今より多かったように思う。少なくともバブル期までは結構いたが,バブル期にはおさげはほとんど見なかった。この頃はおさげが流行っていたのだろうか。北原謙二などもおさげの歌1)を唄っていた。
中学のころはやや街という感じのところに住んでいたので田んぼはあまりなかったが,小学校の周囲は田んぼであった。しかしあぜ道を帰ることはなかった。鎮守の森といってよいようなところはあちらこちらにあった。
このころはまだ車は多くなく,荷車を引く馬などもいて道路に馬糞などが落ちていた。犬も人を手伝って大八車を引いていた。
1)「忘れないさ」(昭和36年,詞:三浦康照,曲:山路進一,唄:北原謙二)
涙の日記(2014.7.12)
昭和37年,日本語詞:みナみカズみ,曲:L.Darvel,唄:スリー・ファンキーズ
「涙で書いた日記を見るたびに」と始まるが,続いて言葉が出て来ずに「Wo…Ye…Wo…Ye….」となる。次の意味ある歌詞は「初めてのデイトの彼女のことば」だ。
元歌は昭和36年Barry DarvellのLost Loveだ。当時,歌詞の中に「Wo・・・」「Ye ・・・」とかが入る歌が何曲もあった。それそれメロディーは違うので歌詞のこの箇所を見るだけではどの曲かわからないが,メロディー付で聴くとどの歌かがわかる。
この詞は月曜日から始まって日曜日まで,それぞれ何が起きたのか,彼女との出来事が日記に書かれている。木曜日まではよかったのに,金曜日からおかしくなってしまった。涙で書いたのは金曜日以降だろう。
しかし,金土日の3日間で彼女をあきらめてしまうなんて,よく理解できない。
なみだ船(2012.6.19)
昭和37年,詞:星野哲郎,曲:船村徹,唄:北島三郎
第4回日本レコード大賞新人賞曲。「な〜ぁ―〜みだのーォオォオォーおわりのひとしぃずくー」という歌。
デビュー曲1)が発売後直ぐに放送禁止になったので急遽発売されたらしい。この放送禁止歌はどこで聴いたかわからないが,何度も何度も聴いたことがある。有線放送などでは流されていたのではないだろうか。「流し」のサブちゃんらしく,場末の飲み屋でリクエストされそうな歌ではあるが,放送禁止にする理由が理解できない歌だ。まあ上品とは言い難いのでこの歌を唄い続けていたら新人賞は取れなかっただろう。同年新人の倍賞千恵子の上品さとは天と地の開きがある。
同じ作詞・作曲者で急遽発売されたこの「なみだ船」はその後の北島三郎の路線を決定付けた名曲だ。歌詞は北の漁師のままならぬ恋の話で,思いを共有して聴ける人は少ないかもしれないが,北島節に聴き惚れた人は多かっただろう。歌謡曲の世界に漁師物というジャンルを新たに開拓した歌だ。
1) 「ブンガチャ節」(昭和37年,詞:星野哲郎,曲:船村徹,唄:北島三郎)
ハイそれまでョ(2014.8.19)
昭和37年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:ハナ肇とクレイジーキャッツ
「あなただけが生きがいなの お願いお願い捨てないで」と始まり,一転して「テナコト言われてその気になって」と続く。植木等がメインボーカルの歌である。
1番はキャバレーの話である。そのような所に出入りする年齢でなかったが,市内に大きなキャバレーがあるのは知っていた。
2番は自家用車の話である。このころから自家用車が一般家庭でも現実に近いものとなってきた。実際に自家用車が普及しはじめるのは昭和40年代に入って日産のサニーやトヨタのカローラが発売されてからであろう。
3番は妻の話である。「炊事せんたくまるでダメ 食べることだけ三人前」とボヤいている。この時代からこのような妻が出現し始めたのかもしれない。
この歌はコミカルソングだろう。
植木はこのころから多くの映画で『無責任男』を演じている。
花咲く街角(2017.2.20)
昭和37年,詞:Del Shannon,日本語詞:漣健児,曲:Del Shannon,唄:飯田久彦
「お前はぼくを泣かしたけれど 今ではラリーに捨てられ泣いている」と始まる歌。
原曲はDel ShannonのHats off to Larry。日本語詞の歌を坂本九も唄っている
「つらいだろうね サアお泣き クライ・クライ・クライ 涙が枯れるまで」といい気味だと思っているのかと思えば「淋しい気持ちがわかったならば 早く戻っておいでよ」とくるのでようやくそういう歌かと判る。
当時はそれほどまでに傷ついたのに,いまだに想い続ける男に共感を覚えていたように思うが,今ではストーカー予備軍もしくはストーカーの歌のように聞こえるようになった。
花の折鶴笠(2017.12.26)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「花の折鶴 とび立つ夢を ままよ 見たのさ 朝空に」と始まる歌。
東映映画「花の折鶴笠」(大川橋蔵/橋幸夫)の主題歌。
「三度笠 つばさに見立て」とあるように映画は股旅物である。
バックナンバー1050(2018.6.17)
昭和37年,詞:松井由利夫,曲:水時富士夫,唄:松山恵子
「テールランプをにじませて 夜霧に消えるキャデラック」と始まる歌。
「あゝあの人は行ってしまったわ」という歌。
最後の「想い出の 想い出の バックナンバー1050」が印象に残る。
車がキャデラックというのが昔を思い出させる。
この記事を書き始めた時,Wikipedia情報では昭和42年に東芝から『未練の波止場』1)のB面として発売と記されていたので信用して昭和42年発売としたが,その後『未練の波止場』は昭和32年発売との情報を得た。東芝からの昭和42年発売は正しいのだろうが,これら二曲の歌詞が昭和40年代としては古すぎる気がする。恐らく昔の歌を再発売したのだろう。こちらの歌は昭和37年とする情報もあったのでこちらを採用することにした。昭和37年にしてもキャデラックはやや古い気がするが,ありえない車ではないように思う。
1)「未練の波止場」(昭和32年,詞:松井由利夫,曲:水時富士夫,唄:松山恵子)
ひばりの佐渡情話(2015.12.6)
昭和37年,詞:西沢爽,曲:船村徹,唄:美空ひばり
「佐渡の荒磯の岩かげに 咲くは鹿の子の百合の花」と始まる歌。
美空ひばり主演の東映映画「ひばりの佐渡情話」の主題歌。
私のようなリズム音痴には出だしからそれぞれの音をどれだけ伸ばせばよいのか解らず,生バンドが唄に合わせてくれるならいざ知らず,カラオケに合わせて唄うのはとてもできない。昔のテープ時代の音だけに比べて,映像に唄うべき歌詞が出てくる今ははるかに易しくなったのだが。
「なじょして泣いた」と何度も出てくるのが印象的。佐渡の言葉なのだろうが私は知らない。両親の実家は新潟県だが,新潟県でも本州では「なじょして」ということばは聞いたことがなかった。もっとも,数10年前までの田舎では隣の中学で言葉が違う場合もあったほどなので地域による独特な言い回しは珍しいことではなかった。
映画は観ていないが,映画解説を見ると現代劇で,劇中に浪曲『佐渡情話』を演ずる場面があるらしい。寿々木米若の『佐渡情話』ならよく知っている。
そういえば米若の発音は『佐渡い~佐渡いと草木ぃもなぁびく』だったし,虎三は『次郎長親分こわい〜ぃしと』だった。昭和30年代では訛や方言が聞き取れないのは珍しくなかった。『イヌ・イッチ・ケ―(NHK)』,『しやしコーシー(冷やしコーヒー)』,『おすす(御寿司)』などは普通だった。
美少年忠臣蔵(2016.7.18)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「涙を飲んで振り仰ぐ 赤穂の城の天守閣」と始まる歌。
前奏には一部『同期の桜』を思いださせるような旋律がある。
赤穂四十七士の歌ではあるが,大石主税と矢頭右衛門七の名のみ現れる。美?少年ということだろう。
戦後の一時期,GHQにより上演を禁じられていた忠臣蔵だが,解禁後年月が過ぎ,私も忠臣蔵については観たことがあったに違いないのだが,大石主税は知っていたが矢頭右衛門七はこの歌を聴くまで知らなかった。
四十七士は討ち入り後切腹となるが,このとき右衛門七は18才,主税は最年少の15才だった。二人の討ち入り参加は父親の影響が大きいだろうが計画性があり,既遂の犯行だ。一方,八百屋お七は14才なら未成年扱いで極刑にはならなかったはずだが15才ということで火あぶりになった。彼女の場合は自分の意志だったのだろうが,少女の思いつきの犯行で実際にはボヤで終わったらしいので未遂事件と言っても良いかもしれない。然し,どちらの場合も15才は成人と同じ責任を負わされ,同じ法で裁かれたのだ。
ところで,忠臣蔵はタイトルから解るように『忠臣』と評価する立場から書かれている。しかし,話の元となる赤穂事件は江戸時代から評価が分かれていたようだ。その後も時代と共にいろんな観点で評価されている。恐らくは評価者の思想・立場などにより見方が異なるのだろう。ひとつの歴史的事件に対していろんな面を異なる切り口で示すことが歴史の研究なのだろうかと疑問を持ったが,考えてみると私が観たものは多くがエンタ―テインメントで研究書を読んだことがないのだった。
振り向かないで(2017.6.22)
昭和37年,詞:岩谷時子,曲:宮川泰,唄:ザ・ピーナッツ
「Yeah, Yeah, Yeah, Yeah… ふりむかなッハハッハいで wohho, hohohohoおねがいだッハハッから」と始まる歌。
当時は外国のポピュラーソングに日本語歌詞をつけて日本人歌手が唄うことが広く行われていた。ポップス系の歌は全て外国に原曲があったと言えるだろう。この歌が最初の和製ポップスだそうだが,服部良一の曲などもポップス的である。服部良一は海外ポップスが和訳されてヒットする以前にポップス系歌謡曲を作っていた。宮川泰以降は海外ポップスの和訳が格段に減った。
ブンガチャ節(2020.3.16)
昭和37年,詞:星野哲郎,曲:船村徹,唄:北島三郎
「あの娘いい娘だ こっち向いておくれ キュ キュ キュ キュ キュ キュ」と始まる。
北島三郎のデビュー曲だが,テレビで三回唄ったところで放送禁止歌になってしまった。
なぜ放送禁止になったかについては『キュ キュ キュ』がベッドが軋む音を連想させ『公序良俗に反する』と判断されたというのがよく言われている理由だ。しかし,ベッドが軋む音というのは取って付けた理由のように思える。この曲の作者は船村徹となっているが,巷で流行っていた春歌を採譜したものらしい。思うに,この歌を放送禁止にした者は元歌の春歌をよく知っていたのではないだろうか。曲を聴いてすぐに放送禁止を決めたが,歌詞を読んでも禁止にするべき理由が見つからず,無理やりベッドが軋む音などという理由をこしらえたのではなかろうか。
春歌と言えば,昔はよく聞いた。学生時代の宴会では必ず春歌が唄われていた。これは私が参加した飲み会は男子学生オンリーだったからかもしれない。唄われていた春歌はほとんどが既存の歌の歌詞を変えたもので,オリジナルと思われるものは少なかった。ブンガチャ節の元になったらしい春歌も勿論知ってはいたが,何かの替え歌だと思っていた。
星屑の町(2015.6.23)
昭和37年,詞:東条寿三郎,曲:安部芳明,唄:三橋美智也
「両手を回して 帰ろ 揺れながら」と始まる歌。
第4回レコード大賞歌唱賞受賞曲。
歌詞の意味はよく解らないが雰囲気は感じ取れる。酔っぱらって夜道を歩いている雰囲気だ。「瞼を閉じて」歩いたら危ないと思うのは現代の考えだ。当時は自動車などほとんど走らない道路がいくらでもあった。「揺れながら」というのは踊りながらと解釈できるかもしれないが「涙の中をたったひとりで」という状況を考えれば素面であるとは思えず,千鳥足ということだろう。自宅へ帰ることと故郷の田舎に帰ることが懸けられており,現在は自宅へ向かいつつあるが,故郷へ帰ろうと考えていると私は思う。しかし,明日になれば,故郷へ帰ることは忘れ,いつものように仕事に出かけるのだろう。
三橋美智也の唄声は民謡を連想させ,民謡は故郷の田舎を思い出させる。この歌は三橋の歌唱と不可分な歌だと思う。
未練ごころ(2015.7.22)
昭和37年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:こまどり姉妹
「死ねといわれりゃ死にもしよう」と始まる歌。1番の終わりは「忘れたいのに今日もまた 夢であなたに逢いました」だ。
「私はやっぱり だめなのね」とこの時代は『悪いのは私』の時代だ。いつから『悪いのは私じゃない』に変ったのだろうか。香山リカの『悪いのは私じゃない症候群』1)が出たのは平成11年だ。平成11年にはこの風潮が蔓延していたのであり,おそらく10年以上前,即ち昭和末期からこの症候群患者が増えてきていたのだろう。香山はこの風潮に症候群と名付けてネガティブな評価をしている。これはバブル崩壊と関係があるのだろうか。新自由主義によってもたらされた競争社会で生き残るための知恵なのだろうか。
民主主義と平等主義は異なる概念だが,一部重なるところもある。例えば,一言で平等と言っても,機会の平等や結果の平等など様々な平等がある。ある人は『悪しき平等』などという言葉を使うようだが,これは普遍の真理ではなくその人の価値観にしたがって『悪しき』と判断されたものである。その意味で,私の価値観での『悪しき』平等主義の信奉者が増えたのが『悪いのは私じゃない』症候群患者が増えた原因だと考える。
私が若い頃には,海外生活のガイドブックには『日本人はすぐ謝るが,海外では簡単に謝ってはいけない。』と書いてあった。類似の表現として,外国人は謝らない場合が多いが(特別なことではないので)そのことで過度に憤慨してはいけないというような記述もあった。国によっては謝ると訴訟で不利になるとか,別の国では『全ては神のおぼしめし』などと自分の責任を認めようとしないなどの記述があった。ということは,ようやく日本人のメンタリティーもグローバル・スタンダードに近づいたということだろうか。
土井健郎の有名な本2)が出版されたのは昭和46年だ。当時は社会に余裕があり,人々の『甘え』を受け入れる社会的余裕があったのだろう。この歌は土井の本の約10年前で,日本の社会に余裕があったとは言えないが,東京オリンピックに向けて経済が成長していた時期だ。誰もが来年は今年より良い暮らしになると信じることができた時代だ。
『悪いのは私』と甘えることを許すことができるには精神的なゆとりが必要だ。『ゆとり教育』によってもこのような精神的ゆとりは回復されなかった。いつかこのような精神的ゆとりが回復されるのだろうか。
1)香山リカ:「悪いのは私じゃない症候群」(ベスト新書239,平成11年)
2)土井健郎:「甘えの構造」(弘文堂,昭和46年)
無責任一代男(2018.10.17)
昭和37年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:植木等
「おれはこの世で一番 無責任と言われた男」と始まる歌。
「上役に毎日ごますり ゴルフに小唄にゴのあいて」とあり,これらが当時流行していたのだろう。
「いねむりしながらメクラバン それでも社長になった」
最後は「こつこつやる奴はごくろうさん」と終わったかと思うと重ねて「ハイごくろうさん」という台詞が入って終わる。
当時は戦後が終わり,東京オリンピックに向けての高度成長期だった。誰もが成長していた時代なのでこのような無責任社員も社長になれたかも知れない。その後,モーレツ社員になり,経済的には世界のトップランナーになった後,バブルに突入する。オイルショックはあったが,難なく乗り越えた気がする。平成になりバブルがはじけ現代にいたる。
ところで,もう少し後の時代では『小唄自慢は社長さん 浪花節なら専務さん』1)とか『仲人マニアの常務さん ゴルフゴルフの部長さん』1)などとなっている。時の流れに負けずに残っているのはゴルフと小唄のようだ。バブルの時期はゴルフ場の会員権の価格はうなぎ登りだった。
1)「サラリーマン小唄」(昭和47年,詞:木下竜太郎,曲:白石十四夫,唄:大月みやこ)
モスコーの夜は更けて(2018.1.18)
昭和37年,詞:Matsuovsky,訳詞:音羽たかし,曲:Soloviev.Sedo,唄:ザ・ピーナッツ
「スズランの花あわく 匂う街角に」と始まる歌。
原曲はソ連の歌だが,昭和37年に米国で『Midnight in Moscow』というタイトルでヒットし,これを受けての日本語版。
『モスクワ郊外の夕べ』というタイトルでも知られている。日本語の歌詞も穂高五郎版,楽団カチューシャ版などのほかにも種々ある。
原曲が作られたのは古いので,ザ・ピーナッツ以前にも日本で歌われている。ダーク・ダックスの唄などを聴いたような気がする。
ユキコの灯(2018.12.13)
昭和37年,詞:横井弘,曲:岩代浩一,唄:仲宗根美樹/ボニー・ジャックス
「白銀(しろがね)けむるアルプスの 小屋にやさしい娘ひとり」と始まる歌。
タイトルの「灯」の読みは「ひ」。
「いとしい人の 眠る谷」とか「雪崩をきいて 目をとじて」という歌詞が状況を表している。悲しい歌であり曲もその悲しみをよく表している。名前が「ユキコ」とカタカナ表記になっているのは,字は異なるが読みが「ユキコ」という自分の名前が雪崩を呼び寄せてしまったのではないかと,感じる必要のない責任を感じているかのようだ。
ラ・ノビア(2013.11.13)
昭和37年,詞:F.Jorge/あらかはひろし,曲:J.Prieto,唄:ペギー葉山
「白く輝く花嫁衣裳に」と始まる歌。元歌「La Novia」はスペイン語で昭和33年に作られているらしいが,昭和36年にヒット,イタリア語でTony Dallaraがカバーして大ヒットになった。
「その目にあふれるひとすじの涙を」とあり,「いつわりの愛を誓い」ともあるので意に沿わぬ結婚である。英語にも訳されており,世界的な大ヒット曲であるということは,世界中どこでも不本意な結婚というのがあったのだろう。
リンゴちゃん(2016.1.14)
昭和37年,詞:西沢爽,曲:狛林正一,唄:神戸一郎
「リンゴちゃんっていうのはネ ちょっとオデコで可愛くて」と始まる歌。
「街ですれちがう」だけの関係の「娘さん」にこっそりつけた「アダ名」なので誰も知らないアダ名なのだが,「逢うたび」に「遠い故郷をおもいだす」という歌である。
都会へ出てきて,知り合いもほとんどいない。直接会う以外のコミュニケーション手段は手紙しかないという時代の歌だ。もちろん,すれ違うだけの相手に声をかける勇気もない。当時は方言・訛が今よりもはるかに強く,言葉に劣等感を感じている地方出身者が多数いた。
ルイジアナ・ママ(2014.10.2)
昭和37年,詞:Gene Pitney,漣健児,曲:Gene Pitrey,唄:飯田久彦
「あの娘はルイジアナママ やってきたのはニューオリンズ」と始まる歌。
「さあさ陽気に騒いで踊ろう ジルバにマンボ スクスク ドドンパ チャチャチャ 踊ろうよロックンロール」とあるがそのような雰囲気の歌である。
歌詞中に「from New Orleans」とある個所を日本語的に発音しないので何と言っているのか聞き取れなかった記憶がある。英語は習っていたが,歌詞の他の箇所で「やってきたのはニューオリンズ」とあり,fromならばニューオリンズから来たことになるのでfromであるはずはないと思い込んでいた。
ゴーゴー喫茶ができたのはこの少しあとではなかっただろうか。まだゴーゴ−ダンス自体がなかったと思う。
ルイジアナ・ママ(2015.8.18)
昭和37年,詞:Gene Pitney,日本語詞:漣健児,曲:Gene Pitney,唄:飯田久彦
「あの娘(こ)はルイジアナママ やってきたのはニューオリンズ」と始まる歌。
「あの娘はそっと打ちあけた ぼくが好きだって」という歌で当時の男子の夢の歌だろう。当時はそのようなことは現実にはなかった。少なくとも私の周囲には。バレンタイン・デイ1)とか制服の第2ボタン2)の話など聞いたことすらなかった。可能性があるとすればラブレターだろう。これは目立たないので他人のことは判らない。自分がもらわなくても他人ももらっていないだろうと,知らぬが仏で平穏な気持ちでいられたのだ。
歌詞ではこの告白に「ビックリ ギョーテン 有頂天」で「ジルバにマンボ スクスクドドンパチャチャチャ 踊ろよロックン・ロール」と舞い上がっている。なぜ日本で生まれたドドンパ3)が入っているのかと不審には思うが嫌いな曲ではない。
1)日本でバレンタインデイに女性から男性にチョコレートを贈ることが一般的になったのは昭和50年ころかららしい。この頃は既に義理チョコも出回っていたが,もう少し前は本命チョコしかなかったのだろう。
2)昭和35年の「紺碧の空遠く」という映画に,主人公が特攻出撃前に軍服の第2ボタンを渡すシーンがあるという。出撃直前に逢うことはできなかっただろうし,ボタンを紛失したままでは済まなかったと思われるので映画中の創作だろう。昭和58年の「春なのに」(詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:柏原芳恵)に「記念にくださいボタンをひとつ」という歌詞がある。
3)都都逸とルンバを足したものとのこと。
ロッカ・フラ・ベイビー(2016.8.22)
昭和37年,詞:Benjamin Weismarr/Fred Wise/Dolores Fuller, 訳詞:漣健児,曲:Benjamin Weismarr/Fred Wise/Dolores Fuller,唄:佐々木功
「赤いレイをかけたあのこが 腰をふりながら」と始まる歌。原曲は昭和36年Elvis Presleyが唄ったRock a hula babyである。
なぜかプレスリーの唄はあまり聴いた記憶がないが,私が聴いていたラジオ番組などであまり流されなかったのだろう。プレスリーの唄は彼の没後のほうが聴いたかもしれない。「フラ」とあるが,もちろん曲はハワイアンではない。
佐々木功はテレビで観た。当時の印象は脚が長いというものだった。ローアングルの映像が多かったような気がする。
全体としては,これもロックの一つなのだろうと思う程度で特別な思い入れはない歌だ。
プレスリーはロックの殿堂,カントリーの殿堂,ゴスペルの殿堂など各種の殿堂入りを果たしている。キング・オブ・ロックンロールの称号も得ている。プレスリーの歌をたくさん知っているわけではないが,どの歌がロックでどの歌がカントリーなのかとか,一つの歌の中でこの部分がゴスペルなのだろうかなどと考えながら聴いても明確に区別できない曲もある。私の感覚が鈍いのかもしれない。
若いふたり(2012.2.8)
昭和37年,詞:杉本夜詩美,曲:遠藤実,唄:北原謙二
「君には君の夢があり」・・・・「若いふたりのことだもの」という歌。北原謙二はすこし鼻にかかったというか,独特の声をしていた。というか,この頃の歌手は皆特徴があったような気がする。この曲はドドンパの代表曲のひとつだろう。
歌詞にはないが,何となく貧乏そうに・・・特に貧乏というわけではなく,当時の世間一般なのだが・・・感じられるふたりが将来に夢を持ち,共に歩んでいこうという歌で,ささやかな幸せが感じられる。「ふたりの夢をよせあえば」とあるが,いろんな可能性が感じられる。少なくとも当時は共に夢を語り合うことが普通にできたということであろう。
工場が次々建設され,仕事はいくらでもあり,贅沢はできないが食べるものに困ることはなく,毎年昇給していく時代だった。夢の超特急新幹線がそのうちにできそうだったし,東京タワーもそのうちにできそうだった。
ただ,大気汚染などが徐々に深刻になりつつあったのだが。
若いふたり(2014.11.14)
昭和37年,詞:杉本夜詩美,曲:遠藤実,唄:北原謙二
「きみにはきみの夢があり」と始まる歌。
北原の鼻にかかったような声が特徴だ。藤島垣夫と同系の声だがその後はこの系統の声の歌手はすぐに思いつかない。
曲は私が思う典型的なドドンパのリズムで今聴くと懐かしい。
詞は典型的な青春ソングである。
若いやつ(2016.1.19)
昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「若いやつなら胸を張れ 空は高いよ広いよ青い」と始まる歌。
TBS系テレビドラマ「若いやつ」の主題歌。昭和38年は橋幸夫と倍賞千恵子で松竹により映画化されている。
青春応援歌というようなジャンルの歌である。このころから青春ソングの全盛期が始まる。青春ソングの中心は何と言っても舟木一夫だが,橋幸夫も股旅ものだけでなく,青春ソングブームにも一役かっているのだ。
戦後の苦しい時代を経て,世界第2の経済大国へと,伸び盛りの時代の日本の歌だったのかもしれない。
わかれ道(2017.7.16)
昭和37年,詞:三浦康照,曲:遠藤実,唄:北原謙二
「幼なじみさ喧嘩もしたさ」と始まる。「好きだと一度もいわないけれど じっと瞳(め)を見りゃわかるのさ」とあるのに,最後は「忘れよう 忘れよう わかれ道」と終わる。
互いに好意をもちあっている間でも,社会的あるいは家庭的な事情で「わかれ道」を進むのは仕方がないと諦めていた時代の歌。
ワンモアチャンス(2017.3.18)
昭和37年,詞:池すすむ,曲:B.ウェインステイン,唄:藤木孝
「ワン モア チャンス ワン モワ チャンス オール ユー アスク イズ ワン モア チャンス ツー ブレイク マイ ハート」と始まる歌。
藤木は英語ではなく,カタカナで唄っていたように思う。
当然原曲があるのだろうが記憶にない。
Bobby’s Girl<ボビーに首ったけ>(2018.9.18)
昭和37年,詞:Gary Klein/Henry Hoffman,曲:Gary Klein/Henry Hoffman,唄:Marcie Blane
最初に男声が「You’re not a kid anymore」と2回言い,「What
people ask of me “What would you like to be now that you’re not a kid anymore?”」と答えると,再び男声で「You’re not a kid anymore」とあった後,「I know just what to say I answer right away」と唄が始まる。何度も「I wanna be Bobby’s girl」と繰り返されるのが印象的。
ところで,「Bobby’s」というのは所有格だろう。このような表現は当時は普通のことと思っていたが,今の英語でも同じような用法はあるのだろうか。ウーマンリブ運動が米国で始まったのは1970年代に入ってからのことだからもう少し後のことだ。
Go-Kart Twist <Sunlight Twist><ゴー・カート・ツイスト><恋のゴーカート><サンライト・ツイスト><太陽の下の18才>(2011.10.31)
昭和37年,詞:ルチアーノ・サルチェ,曲:エンニオ・モリコーネ,唄:Gianni Morandi
「E gira e gira e vai, E non fermarti mai」で始まる元気のよい曲。歌詞中に「go-kart」と「twist」という単語が何度も出てくる。日本語でも誰か1)が歌っていた。アクセル全開で走りまくるという感じである。
ツイストの曲としては流行末期の曲のような印象を持っている。この曲をかけてツイストもどきに身体を動かしていると小さな悩みは吹き飛んでしまいそうだが,深刻な悩みがあるときには聴こうという気にならない。
1) 「サンライト・ツイスト」(日本語詞:水島哲,唄:伊藤アイコ),「太陽の下の18才」(日本語詞:あらかは・ひろし,唄:木の実ナナ),「恋のゴーカート」(日本語詞:大谷亘,唄:青山ミチ)。元歌はカトリーヌ・スパーク主演のイタリア映画「太陽の下の18才」の挿入歌。伊藤アイコには別の曲で「太陽の下の18才」という曲がある。
Gone the Rainbow<虹と共に消えた恋>(2018.6.15)
昭和37年,詞:Paul Stookey, Mary Travers, Peter Yarrow, Milt Okun,唄:Peter, Paul and Mary
「Shule, shule, shule-a-roo、Shule-a-rak-shak, shule-a-ba-ba-coo」と始まる歌。
元歌は17世紀アイルランドの「Siúil A Rún」という曲で,この歌の冒頭部は,元歌のアイルランド語(ゲール語)を英語表記したものらしい。英語をカタカナ表記したようなものだ。当然,私には何のことか解らなかった。英仏戦争の頃,愛する者を戦争に奪われた女性達が唄った歌で,その後米国独立戦争の頃には米国にも伝わって歌われたらしい。
歌詞の中で何回か現れる「Johnny’s gone for a soldier」がこの歌で最も伝えたいメッセージだろう。
ベトナム戦争に対する反戦歌として唄われた。
I Can’t Stop Loving You<愛さずにはいられない>(2013.12.20)
昭和37年,詞:Don
Gibson,曲:Don Gibson,唄:Ray Charles
「(I can’t stop loving you)I’ve
made up my mind」と始まる歌。( )内はコーラスでRay Charles が唄い始めるのは「I’ve made up my mind」からである。
当時(実は今もだが)ヒアリングが全くできず,(当時は英語の筆記試験もできなかった。というと現在はできるのかと訊かれそうだが,英語は高校を卒業してから大分気合を入れて勉強したので,少なくとも当時よりは現在のほうがマシだとは自信を持って言える)歌詞を聴いてあれこれ言うことはなかったが,Ray Charlesの歌声は意味がわからないでも心を揺さぶった。ソウルとは何かということは知らないが,Ray Charlesがソウルの神様ならば,あのような歌がソウルなのかと何となく納得してしまう。
念のためU tubeなどで聴いて見たらいろんな歌唱バーションがある。聴き比べてみると,私が昔聴いていたのは,どちらかというとソウルっぽくない。新しい録音のほうが私のイメージするソウルに重なる。多分,年を重ねると共に唄い方が変わったのだろう。ソウルっぽくなくても,やっぱり聴きなれた昔のレコードバーションに近い歌唱のほうが,魂の歌という印象を受け,私は好きだ。
Johnny Get Angry<内気なジョニー>(2011.10.13)
昭和37年,詞:Hal David,曲:Sherman Edwards,唄:Joanie Sommers
「Johnny get angry, Johnny get mad」というところとか「I want a brave man, I want a cave man」ところなどが耳に残っている。というかここだけしか聞き取れなかったというべきなのだろう。
当時,小さなテープレコーダを持っていた。A4版百科事典くらいの大きさで,2.5インチのオープンリール?がかかるやつだ。当時エアーチェックというような言葉はなかったと思うがラジオから流れる曲を,スピーカの前にマイクを置いて録音して何度も聞いた。歌詞が聞き取れないので声も楽器の一種として聴いていたのだろう。テープもないので何度も何度も上から重ねて録音した。
King of Clowns<悲しきクラウン>(2017.8.1)
昭和37年,詞:Howard Greenfield,曲:Neil Sedaka,唄:Neil Sedaka
「Here I come The king of clowns」と始まる歌。邦題は「悲しきクラウン」。
詞には「though」や「but」などの逆説の接続詞が何回も出てくる。「Ever since the day that you found someone new」,その日以来,やや状況は異なるが『涙隠して今日もまた』1),『明るく明るく走るのよ』2)と『顔で笑って心で泣いて』という訳だ。場所は変わっても心情は同じということか。そういう時代だったのだろう。
1)「街のサンドイッチマン」(昭和28年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:鶴田浩二)
2)「東京のバスガール」(昭和32年,詞:丘灯至夫,曲:上原げんと,唄:コロムビア・ローズ)
Like
I Do<レモンのキッス>(2013.8.10)
昭和37年,詞:Dick Manning,曲:Dick Manning,唄:Nancy Sandra Sinatra
「Johnny boy Take it slow Don’t you know Don’t you know」とメロディーに載っているのか台詞なのか解らないでだしの歌。続く「She may kiss you」からが歌かもしれない。米国での発売は昭和36年のようだが,日本でヒットしたのはこの年だと思う。
歌詞は極めて平易な英語であり,曲もそれほど速いわけでないので私のような英語音痴でもなんとか歌詞が聞きとれる。
Nancy SinatraはFrank Sinatraの娘である。この歌は彼女のレコードでは2枚目くらいで,まだまだ知名度が低く,ラジオでレコードがかけられるときもFrank Sinatraの娘だということが頻繁に紹介されていた。宇多田ヒカルがでたとき,藤圭子の娘だと紹介されたのと同様だ。
米国ではあまりヒットしなかったようだが,日本では大(かどうか数値的には調べていないが)ヒットで,みなみカズみの訳で日本語バージョンもあった。ザ・ピーナッツや森山加代子が同じ歌を出していた。日本語バージョンのタイトルは「レモンのキッス」だ。私は全てをリアルタイムで聴いたが,この歌に関してはNancy Sinatraの歌が好きだ。
One More Chance(2018.8.5)
唄:Victor Wood
「One more chance, one
more chance, All ask you is one more chance, To break my heart」という,後にも何回か繰り返されるフレーズから始まる歌。
そっちから別れ話を切り出したのに,今更もう一度チャンスをと言われても,僕も昔ほどバカじゃない。という歌なのだが,君に対する想いが残っていそうに感じられるところに趣がある。
誰が唄っていたのか覚えていないので,YouTubeで捜してVictor Woodの唄を発見したが,私が聴いたのは彼の活動期より古い気がするので,誰の唄を聴いたのか正確には解らない。
過去に昭和37年の藤木孝の唄として掲載しているので,同じ昭和37年とすることにした。
Pretty Little Baby<可愛いベイビー>(2014.12.26)
昭和37年,詞:Nauman Bill/Stirlling Don,曲:Nauman Bill/Stirling Don,唄:Connie Francis
「Pretty little baby, Yah,
yah」と始まる歌。
「puppy love」の歌である。「Meet me at the car hop」とあるので彼は車の運転ができる程度の年齢なのだろう。私は「puppy love」というのはもっと幼い,ままごとのようなものかと思っていたが,年上の(教師のような)相手に対する思いも「puppy love」に含まれるらしい。但し,この歌では「While both of us are
young」とあるので相手もそう年齢に差はなさそうだ。
中尾ミエが『可愛いベイビー』とのタイトルで漣健児が訳した歌詞を歌っている。当時Connie Francisの唄も中尾ミエの唄も何度も聴いたが,英語の歌詞の意味を理解することはできなかった。今,日本語の歌詞を見ると英語の意味と大差ないように思うのだが,当時は日本語歌詞の「ベイビー」を乳幼児の意味に理解して聴いていた。
Ramblin’ Rose(2017.9.28)
昭和37年,詞:Noel Sherman and Joe Sherman, 曲:Noel Sherman and Joe Sherman,唄:Nat King Cole
「Ramblin’ rose ramblin’ rose Why you ramble, no one know」と始まる歌。
当時,歌詞の意味は全く解らなかったが,なぜか印象に残った曲のひとつ。
なお,歌手のナット・キング・コールは東方常秀1)のスタンドとは全く無関係である。
1)荒木飛呂彦の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」第8部「ジョジョリオン」の登場人物。スタンドと呼ばれる超能力使いを発現させることができる。
Return to Sender<心の届かぬラヴ・レター>(2018.7.5)
昭和37年,詞:曲:Winfield Scott, Otis Blackwell,唄:Elvis Presley
「I gave a letter to the postman, he put it his sack」と始まる歌。
喧嘩した恋人に謝罪の手紙を出したのに彼女は宛先不明と書いて返送してきたという歌。
繰り返される「Return to sender, address unknown No such number, no such zone」というフレーズが印象に残る。
私が知っているプレスリーの曲は多くは発売よりずっと後になって聴いたものだが,この曲は数少ないリアルタイムで聴いたプレスリーの唄のひとつだ。
Rhythm of the Rain<悲しき雨音>(2016.2.11)
昭和37年,詞:J. Gummoe,曲:J. Gummoe,唄:The Cascades
「Listen to the rhythm of the falling rain」と始まる歌。
邦題は「悲しき雨音」。あらかはひろしの訳をザ・ピーナッツが唄ってヒットしたらしいがあまり記憶はなく,主に聴いたのはThe Cascadesだ。
曲はポップスだが詞は演歌だ。当時,歌詞が聞き取れたはずはないのだが,現在の私の英会話と同様,言葉を聞き取るのではなく,テレパシーで内容を感じていたのだろう。あるいは当時ポップスがラジオやテレビからよく流れていたからだろうか,すんなりと耳に馴染んだ曲である。
Speedy Gonzales(2019.8.12)
昭和37年,詞:David Hess, Buddy Kaye, Ethel Lee,曲:David Hess, Buddy Kaye, Ethel Lee,唄:Pat Boone
「It was moonlit night in
old Mexico」と始まる台詞があった後,「La la la la la lalalala…」と続く女性のスキャットが入り,唄が始まる。
歌は「You better come home,
Speeky Gonzales」と始まる。
当時は知らなかったが,Speedy Gonzalesというのはアニメキャラで見た目はソンブレロをかぶったネズミらしい。というより,『全メキシコ最速のネズミ』という異名があるそうなので,ネズミそのものなのだろう。
軽快な曲で,当時はこのような曲がロックなのだろうと思っていた。
歌詞はもちろん聞き取れはしないのだが,Pat Boonにしては珍しくコミカルな歌だと感じた。
The Loco-Motion<ロコ・モーション>(2013.6.13)
昭和37年,詞:Gerry Goffin・Carole King,曲:Gerry Goffin・Carole King,唄: Little Eva
「Evrybody’s doin’ a brand
new dance now」と始まる歌。あらかわひろしの訳を伊東ゆかりが唄っていた。
当時は海外ポップスのラジオ番組でヒットしている曲は直ぐに和訳されてテレビ番組で日本人歌手が唄っていた。Little Evaも伊東ゆかりも同じ程度に聴いていた。
そういえば,中学の英語の先生が,アメリカのレコードを聴かせてくれた。ポップスというより,カントリーが多かった。
ラジオといえば,私が住んでいた地域で電波が一番強かったのはFENだった。進駐軍向けの英語放送である。ただ,超高速で話していて全く聞き取れないのでほとんど聴いたことは無かった。
The Loco-Motion(2017.11.5)
昭和37年,詞:Gerry Goffin,曲:Larry Norred,唄:Little Eva
「Everybody’s doing brand-new dance, now」と始まる歌。
あらかわひろし訳を伊東ゆかりが唄ったカバー版もある。
昭和48年にゴールデン・ハーフがカバーしている。ゴールデン・ハーフはこれ以外にも古い洋楽を何曲もカバーしているがメンバーのエバちゃんとLittle Evaは全く無関係である。
The
Longest Day March<史上最大の作戦マーチ>(2011.11.6)
昭和37年
「Many men came here as soldiers」と始まるのだったと思うが,レコード等を持っていないので作詞・作曲・歌唱など誰だったかわからない。よく聴いたのはミッチ・ミラー合唱団だったような気がする。「The longest day the longest day this will be the longest day」と比較的聴き取りやすく歌詞がメロディーに載っている。
小学校・中学校では運動会の練習の多くが行進練習だった。昔は「君が代行進曲」や「くろがねの力」などがかかっていたと思うがいつからか「クワイ河マーチ」や「史上最大の作戦マーチ」などになった気がする。いまでも「クワイ河マーチ」を聞くと行進曲だという感じが強い。「君が代行進曲」や「くろがねの力」は歌なしだった。歌詞が不適切だと考えられたのかも知れない。歌無しなら,ほかにもいろんな行進曲がある,というより軍歌や戦時歌謡の多くは4拍子でどれでも行進に使えそうに思うが使われなかった,特にパチンコ屋でよくかけられていた「軍艦マーチ」などは運動会で使われた記憶がない。また,クラシックのマーチもかけられた記憶がない。とベートーベンやモーツァルトの「トルコ行進曲」などを思い浮かべていたらワーグナーの「双頭の鷲の旗の下に」がかかっていたことを思い出した。
あと,運動会というとオッフェンバックの「天国と地獄」を思い出す。
Vacation<ヴァケーション>(2016.9.22)
昭和37年,詞: Hank Hunter, Gary Knight, Connie Francis,唄:Connie Francis
「V-A-C-A-T-I-O-N In the summer sun」と始まる歌。
漣健児の日本語詞を弘田三枝子が唄っており,邦題は「ヴァケーション」。
長期休暇の楽しさを唄った歌。楽しそうな歌だが,『楽しそうさ』の度合いでは弘田の歌のほうが勝っているように感じる。
英詞は夏休みの話のようだが,日本語詞は夏休みだけでなく春夏秋冬の休みの話がでてくる。英詞にある「pizza stand」,「drive-in movie」,「juke-box」などは日本語詞には現れないようだ。
昭和48年に米国のピザチェーン店が日本上陸するまで,ピザは日本では極めで珍しい食べ物だった。昭和37年頃日本にあったスタンドと称するものはガソリンスタンド,コーヒースタンド,カレースタンドなどだったと思う。スタンドバーというのもあったと思うが私は行くような年齢ではなかった。
映画館は沢山あったが自家用車はほとんどなかった。もう少し前なら小学校の校庭に大きなスクリーンを張って夜に映画が上映されることはあった。もちろん車で行く者はいなかった。
ジュークボックスはよく解らないが米国製の映画やテレビドラマではよく見かけていたし,その後年齢がすすみ,酒を飲むようになってから,洋酒を飲みに行くとジュークボックスがある店は珍しくなかった。
日本語歌詞にはスキーが登場している。昭和31年,猪谷千春がコルティナダンペッツォオリンピックで日本人初の冬季オリンピックメダリストになった。スキー男子回転でオーストリアのトニー・ザイラーに次ぐ2位に入賞したのだ。トニー・ザイラーはこのオリンピックでアルペンスキー回転・大回転・滑降の三冠を達成している。その後映画俳優に転身し,日本の映画やCMにも登場した。昭和30年代初期は雪国に住む者以外がスキーをするにはかなりの経費を要したが,次第に用具の価格も下がり,スキー場も英美され,スキー列車の運行なども始まり,第1次のスキーブームとなった。第2次スキーブームの原因は昭和47年の札幌オリンピックだった。