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昭和の歌曲名索引

平成の歌

 

明治

目次

明治8年 大きな古時計,峠の我が家

明治10 なつかしきヴァージニア< Carry me back to old Virginny >Carry me back to old Virginny

明治13年 君が代

明治14年 蝶々,蛍の光,見わたせば

明治17年 仰げば尊し,庭の千草

明治21年 故郷の空

明治24年 敵は幾万

明治26年 一月一日

明治27年 婦人従軍歌

明治28年 アロハ・オエ<Aloha Oe>勇敢なる水兵,Aloha Oe

明治29年 夏は来ぬ,みなと

明治31 オー・ソレ・ミオ<O Sole Mio>,私の太陽<O Sole Mio>O Sole Mio

明治32年 大楠公

明治33年 美しき天然,きんたろう,鉄道唱歌,箱根八里,花,モモタロウ〔桃から生まれた桃太郎〕

明治34年 うさぎとかめ,お正月,荒城の月,はなさかじじい

明治35年 嗚呼玉杯に花うけて

明治37年 紅萌ゆる岡の花

明治38年 一寸法師,戦友,だいこくさま

明治39 青葉の笛

明治40年 故郷の廃家,旅愁〔ふけゆくあきのよ〕

明治41年 早稲田大学校歌

明治42年 ローレライ

明治43年 鎌倉,七里が浜の哀歌<真白き富士の嶺>,水師営の会見,月,春がきた,ふじの山,真白き富士の嶺<七里ヶ浜の哀歌>,虫のこえ,われは海の子

明治44 池の鯉,牛若丸,浦島太郎,案山子〔山田の中の〕,かたつむり,二宮金次郎,人形,鳩,日の丸の旗,歩兵の本領,紅葉,桃太郎〔桃太郎さん桃太郎さん〕,雪

明治45年 汽車,茶摘,冬の夜,都ぞ弥生,村祭

 

大きな古時計(2016.2.21)

明治8年,詞:ヘンリー・ワーク,曲:ヘンリー・ワーク

 「おおきなのっぽのふるどけい おじいさんのとけい」と始まる歌。

歌詞の日本語訳は保富康午1)とする資料もある。平成14年に平井堅が唄ってヒットした。

 原曲タイトルは「Grandfather's Clock」で歌詞は「My grandfather’s clock was too large for the shelf」と始まる。

 おじいさんが生まれたときに家に来て,ずっとおじいさんと一緒だったけれど,おじいさんが亡くなると時計も止まったという歌。英詞では90年だが日本語詞では100年動いたことになっている。

 ところで,英詞が「its pendulum swing to and fro」となっているところに対応してだろうが日本語詞では「チクタクチクタク」と擬音で表している。この「チクタク」の箇所が私には速すぎるように聞こえる。『早起き時計』2)の影響だろうか振り子時計の音のイメージは『チックタックチックタック』だがこれは小型?の柱時計のイメージだ。懐中時計のようなテンプ時計ならこの曲の倍速の「チクタクチクタク」というイメージ,あるいは更に早くなって『チッチッチッチッチッチッチッチッ』または『チチチチチチチチ』というイメージだ。この歌のような大きな時計の場合,振り子の長さも長く,振り子の往復もゆっくりしており音は「チクタクチクタク」とは聞こえないのではないだろうか。

また,日本語詞では「まよなかにベルがなった」という歌詞がある。英詞で「It rang an alarm in the dead of the night」に相当する箇所だろう。しかし「ベル」というのもイメージに合わない。「ベル」とは形状を表す言葉だろう(確認はしていない)。

叩いて音を出す用途に使われるものはいろいろある。ピアノの発音体は弦と呼ばれ,木琴や鉄琴の発音体は音板と呼ばれる。鈴や鐘も発音体との衝突音が利用されている。大きな古時計に入っている発音体がベルだとは思えないのだ。

NHKの『のど自慢』で使われている鐘は『チューブラーベル』だ。もちろん『チューブラー』は宙ぶらりんではなく,釣鐘をチューブのように伸ばしたという意味だ。おじいさんの時計にはこのような鐘が入っていたのだろうか。

実家にあった柱時計(小さなものだが)の発音体はピアノ線(だろう)を渦巻状に巻いてあった。これをハンマーで叩いて音を出していた。渦巻状にしたのは叩いた後のピアノ線に復元力を与えるためと,音をある程度低くするためにピアノ線の長さを長くする必要があったからだろう。どう見ても私が思う「ベル」を変形させたものには見えなかった。

1)保富康午:森進一の「おふくろさん」騒動で問題になった追加台詞の作詞者?

2)「早起き時計」(昭和12年,詞:富原薫,曲:河村光陽)

 

峠の我が家(2016.3.18)

明治8年,詞:Brewater Higley,アメリカ民謡

 原題はHome on the RangeBrewster Higleyにより明治8年に作詞された。

 「Oh, give me a home where the buffalo roam」と始まる歌。カンザス州の州歌。

 「峠の我が家」という日本語タイトルで多くの日本語歌詞が作られている。例えば灰田克彦が昭和15年に唄った佐伯孝夫の詞は「懐かしや峠の家 木々のみどり深く」と始まり,岩谷時子の詞は「あの山をいつか超えて 帰ろうよ我が家へ」と始まる。また,龍田和夫の詞だと「空は青く緑の野辺 懐かしき我が家」と始まる。昭和41年にNHKみんなの歌で紹介されたのは中山知子の詞で「ふきわたる みどりの風 さわやかな峠には ふりそそぐ日のひかりと」と始まる。そのほかにも久野静夫は「空青く山は緑 谷間には花咲」,藪田義雄は「角笛はこだまする 山のかなたに」と始まる詞を書いている。しかし,原詞には峠や山は登場しない。そもそもカンザスは平原で緩やかな傾斜はあるが山はないそうだ。カンザスは米国では田舎の代表なので,自然豊かな田舎の家を考えたら日本では海か山の近く,原詞に海のイメージがないので山になったのに違いない。大平原の我が家などのタイトルにしようと思った作詞者はいなかったということだろう。一部の作詞者は原詩ではなく日本語タイトルからスタートして詞を書いたのだろう。

 

Carry me back to old Virginny<なつかしきヴァージニア>(2018.5.6)

明治10年,詞:James A Bland、曲:James A Bland

 「Carry me back to old Virginny, There’s where the cotton and the corn and tatos grow」と始まる歌。邦題は「なつかしきヴァージニア」のほかに「懐かしのヴァージニア」というのもあるようだ。

 この歌は高校の音楽の授業で習った。そのときに習った中では「tatos」というのは「potatos」の訛りだということしか記憶がない。

 Ray Charlesも唄っていたらしいが知らなかった。

 

君が代(2012.12.6)

明治13年,詞:読人しらず,曲:林廣守

 古今和歌集の歌ということなので捜してみると,巻第七の賀歌の最初に,「我君はちよにやちよにさゞれいしの巌と成て苔のむすまで」とある1)のでこれだろう。鎌倉時代以降の歌集では,冒頭が「君が代は」となっているものが多くなっているらしい。

 明治3年に曲がつけられたが,明治9年にこれを廃止。新たに明治13年に作曲され今の形になった。祝祭日歌の一つとして制定されたのは明治26年である。平成11年に法律で国歌と制定された。

 儀式などの際に国家斉唱が行われることが多いが,公務員であれば起立して斉唱するのは当然のことであろう。国民には自由があるが,オリンピックなど国費を使っての代表ならば当然斉唱すべきである。斉唱の際,胸に手をあてたり,肩を組んだりというのはいかがなものであろうか。これは,どのように斉唱するか,きちんと教育がなされていないから,混乱しているのだろう。

 この歌が国家としてふさわしくないという議論もあるようだ。まあ,軽快な曲ではないが,荘重であり良いのではないか。現代風な曲にしても,流行を追えばそのうちに古びてしまう。

 歌詞に問題があるという人も居るようだが,そのような人は日本国憲法に規定された天皇制に反対する人なのだろう。私は,憲法が変わり,たとえ共和制などになったとしても,特に変える必要はないと考えている。「君が代」を「我らが国」などと変えても良いかとも思うが,変えなくても良いという意見だ。YourであってもOurであっても同じようなものだ。現在使用されている各国の国歌またはそれに準ずる歌の歌詞は血なまぐさいものが多い。他国の国歌に文句はつけないが,この君が代ほど平和主義的な賀歌は極めて少ないし,この歌には神や仏など特定の宗教を暗示するものも出てこない。要するに長く続くことを願い,寿ぐ歌だ。

 以前の戦争時代に使われていたからダメだという人がいるかもしれない。占領された地域の住民が『悪い記憶を想起させるので嫌いだ』というのは理解できる。しかし,嫌われないように国歌を変えようという意見には同意できない。嫌われるなら嫌われるなりの理由があるのであり,それは責任を持って受け止めるべきであろう。先方から見ればいくら迎合しても嫌いなものは嫌い,また別ないいがかりをつけるだろう。

 自身または家族の嫌な記憶を想起させるから嫌だという人もいるかもしれない。しかし,そのような国に住み,そのような境遇にあったことは変えようがない。戦後,日本は違う国になったというのだろうか。私はそうは思わない。平安時代も,江戸時代も,明治時代も皆同じ国であり,私の父母,祖父母・・・もこの国に住んでいたのだ。もっと大昔はどこからか流れてきたかもしれないが,住み着いて以来この国に住んでいるのだ。

個人的な祖先のことは解らないが,平均的日本人は少なくとも1000年以上前から変わっていない。ここ数10年とか数100年の間に異民族の支配から脱したり異民族を支配したりして建国したわけではない。我が国の毀誉褒貶は軽重こそあれ全国民が引き受けるべきであり,自分は無関係と逃避することは許されないことだろう。逃避しないとは,歴史を学び,学んだことをこれからの生活に生かすことだ。国歌を変えることではない。

 新しく国歌を制定することに絶対反対というわけではないのだが,新しく制定するとすれば適切な方法が必要で,これを思いつかないので国歌を変える必要なしと考えているのである。あえて変えるというならば,候補を出して国民投票ということくらいだが,その候補選定をどうするかで私には名案がない。

1) 尾上八郎校訂:「古今和歌集」(昭和2年,岩波文庫)

 

蝶々(2013.9.15)

明治14年,詞:野村秋足,曲:スペイン民謡?

 「蝶々 蝶々 菜ノ葉二止マレ」と始まる歌。Wikipediaでは原曲はドイツの歌で米国を経由して日本に伝わったとされている。日本に伝えたとされる伊沢修二がスペイン民謡として紹介したのが定着していたと記載されている。

 「桜ノ花ノ 榮ユル御代ニ」という歌詞は,戦後「桜の花の 花から花へ」と変えられている。

 稲垣千頴による「おきよ おきよ ねぐらのすずめ」という2番の歌詞もあるようだが,私は聴いたことがない。3番,4番は作者不詳でそれぞれ蜻蛉,燕の歌らしい。戦後1番の歌詞改変と同時に2番以降は削除されたとのこと。

 ところで,「蝶々」だが,わたしは「ちょうちょ ちょうちょ 菜ノ葉に止まれ」と唄っていた。しかし,いつだったか,Pucciniのオペラ『Madama Butterfly』を習ったときに「ちょうちょう夫人」と習った。原作は1898年,オペラは1904年らしい。登場人物のPinkertonは長崎にやってきた米国海軍士官であるからペリーの来日以後の時代設定だろう。蝶々さんはCio-Cio-Sanと表記されているようなので,『ちおちおさん』かもしれないが,『ちょうちょうさん』だろう。旧仮名遣いでも『てふてふ』となるので,昔は4拍で発音されていたものがいつの間にか3拍になったのだろう。いつの間にかと書いたが,その原因になったのがこの歌ではないか。最初のソミミーファレレーの部分に「ちょうちょうちょうちょう」と歌詞を当てたのだが,小学生がこれを唄ううちに二分音符を勝手に4分音符と4分休符に変えて「ちょうちょ」になってしまったのではないか。『アルプス一万尺』1)では4番に「ちょうちょが飛んできてキスをする」となっており「ちょうちょ」が定着していることがわかる。

 ついでに「ちょう」というのが,訓読みではなく音読みのような気がして漢和辞典を調べてみたら「チョウ」とあった。この辞書の使い方などという細かい所は読んでいないので確実とは言えないが,他の文字を見ると音は片仮名,訓は平仮名で書かれているようである。やっぱり音読みかと思ったが,では訓読みではどうなるのだろう。蝶は漢字と共に大陸や半島から渡来してきたものだろうか。和名はないのだろうかと思いながら,「てふてふ」を古語辞典で調べて見た。驚いたことに私が調べた辞典には「てふてふ」は載っていなかった。「てふ」はあったので,昔は「てふ」と呼んだらしい。「てふてふ」は同語を繰り返す幼児語かもしれない。ということは,漢字伝来までは『むし』とでも総称していたのだろうか。

 「チョウ」という発音が音読みに聞こえると書いたが。『キョウ』はどうだろうか。『けふ』である。昔の和歌2)にも登場するので『けふ』は和語なのであろう。とすると昔から『○ょう』あるいはこれに転化するような発音が大和言葉の中にあったということだろうか。

 『あれ ちゃうちゃうっちゃう?』『ちゃうちゃうっちゃうんちゃう』などの会話にでてくる犬の名は『ちゃうちゃ』と末尾の『う』が省略されるようなことはない。末尾の『う』の脱落はどのような規則にしたがっているのだろう。日本語は難しい。

1)      「アルプス一万尺」(成立年?,詞:?,曲:アメリカ民謡)南北戦争当時唄われた「Yankee Dppdle」の作詞はDr. Richard Shuckburghとの説がWikipediaにある。

2) 伊勢大輔:「いにしへの奈良の都の八重櫻けふ九重に匂ひぬるかな」(百人一首)

 

蛍の光(2012.11.10)

明治14年,小学唱歌(詞:稲垣千穎,曲:スコットランド民謡「Auld Lang Syne」)

 「蛍の光窓の雪」と始まる,卒業式や閉館や大会の終了時などによく使われる。

もともと『蛍雪の功』は貧乏で灯油(灯り用の油)が使えなかった車胤(人名)が蛍の光で勉強し,孫康(人名)は雪に反射する月光で勉強したという故事であり,本来は「書読む月日重ねつゝ」とあるように,学舎を去るときの歌である。更に,「あけてぞ今朝は別れ行く」なので朝の歌のはずだが,今では学舎とは無関係に,時刻が夜でも唄われている。人生全てが学びの場だと言えないこともないが,恐らくは歌詞の意味は考えず,単に〆の歌ということだろう。定番曲である。

現在は通常2番までしか唄われないが,原詞は4番まである。3番は「一つに尽くせ國の為」という箇所が戦後嫌われたのだろう。4番は国土が示されており,日清戦争後や日露戦争後に歌詞が変えられており,第二次世界大戦後は歌詞を変えるのではなく歌わないということになったのだろう。

 

見わたせば(2012.11.25)

明治14年,詞:柴田清熙,曲:ジャン・ジャック・ルソー

 「見わたせばあおやなぎ 花桜こきまぜて」という歌。当時どのように唄われたのかしらないが,稲垣千頴の作詞による「みわたせばやまべには おのえにも ふもとにも」と歌詞が続けられているようだ。それぞれ春と秋の詞なので,1番と2番という形で歌われたのだろう。

 1番の歌詞は素性法師の歌1)を基にしているとか。メロディーにあわせるためだろう,57577とはいかずに5音の繰り返しになっている。「春の錦をぞ」という箇所だけ8音だが。明治になり,西洋音楽を取り入れようと努力している様子がわかる。

 このメロディーが日本に紹介されたのは明治7年頃で,賛美歌のメロディーとしてであったらしい。その後いろんな歌詞がつけられ,昭和22年以降「むすんでひらいて」として唄われている。

 ルソーもまさか自分が作った曲が二百何十年も後に,遠く東の果ての国で幼稚園児が歌っているとは夢にも思わなかっただろう。

 この曲の長い歴史を知りたければ「むすんでひらいて」を調べてみると良い。

1)      素性法師:「みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」(古今和歌集巻第一春哥上)

 

仰げば尊し(2013.9.10)

明治17年,小学唱歌

 「仰げば尊し我が師の恩」と始まる歌。昔は卒業式の定番ソングだった。卒業生が「仰げば尊し」を唄い,在校生が「蛍の光」を歌う。

 最近唄われなくなったのは「今こそ別れめ」の係り結びなどが理解できなくなったからだろうか。昔でも,小学生などには難しかったかも知れないが,高校生なら今でも助動詞「む」の活用などは習っているのだろう。実際に使うことは滅多にないので実例としていいのではないか。それに,小学生くらいなら,意味の十分わからないままに先ず覚える(身体に浸み込ませる)というようなことがあっても良いのではないか。

 教師には恩など受けていないということだろうか。教師にでもなるか,あるいは教師にしかなれないという教師など仰ぎ見て尊ぶものではないということであろうか。

 「身を立て名をあげ」という立身出世主義がいけないというのだろうか。

 今,卒業式でどのような歌が唄われているのか知らないが,卒業生が卒業式で唄う歌として,これ以上の歌を知らない。学園生活の思い出・学友との出会いと別れなどについては良い歌が沢山あるが,これらは卒業証書授与という儀式で唄うものではないだろう。

 

庭の千草(2014.2.6)

明治17年,詞:里見義,文部省唱歌。

原曲はアイルランド民謡The Last Rose of Summer

 「庭の千草もむしのねも」と始まる歌。

 しかし,これらは既に枯れてしまって,遅れて咲いている「白菊」が歌われている。「ひとの操もかくてこそ」と主題が白菊ならばなぜタイトルが「庭の千草」なのか,私のような凡人には理解できない歌だ。

 

故郷の空(2012.2.11)

明治21年,詞:大和田建樹,曲:スコットランド民謡

「夕空晴れて秋風吹き」という小学唱歌。「誰かさんと誰かさんが麦畑」1)という歌と同じメロディー。原曲の詞の内容は「誰かさんと誰かさん」のほうに近いと聞いている。

秋の夕べ,鈴虫を聞いたりススキを見たりして故郷を思う。故郷を離れてもこのようなものが身近にあるということが明治時代らしい。昭和の時代も日本中いたるところに自然はあったが,新たに開発される工場地帯の景観は「思へば似たり故郷の野辺」から変貌しつつあった。この曲のメロディーは詞に対してやや明るすぎるように感じる。大志を抱いて故郷を出た若者には良いだろう。

家庭の事情で止むを得ず上京した集団就職世代なら「ああ上野駅」)のほうが故郷に対する想いを共感できるだろう。詞により故郷恋しさに涙があふれそうになりながら,曲と井沢八郎の声が頑張ろうという意欲を湧かせる歌だ。

1)なかにし礼:「誰かさんと誰かさん」(唄:ザ・ドリフタース)

2)関口義明:「ああ上野駅」(唄:井沢八郎)。荒井英一の作曲で,「どこかに故郷の香をのせて」という曲。

 

敵は幾万(2013.9.1)

明治24年,詞:山田美妙斎,曲:小山作之助

 「敵は幾万ありとても全て烏合の勢なるぞ」と始まる歌。

 精神主義の軍歌である。

 歌詞の「味方に正しき道理あり」は当然であろう。敵のほうが正しいと思ってしまったら戦えない。しかし,正義とか正しい道理とかは人により,地域により,国により違うことに思いを至らせる必要はある。もちろん時代によっても異なる。この問題は論じてもキリが無い。情報を集め,自分自身で良く考えて,正しいと信じる行動をとるしかない。結果を見た後で勝ち組に乗じ,負け組みを非難する後出しジャンケンのようなやり方は卑怯なやり方だと私は思うが,人それぞれに生き方があるだろう。

 同じく歌詞にある「石に矢の立つためし」とは楚の熊渠子や前漢の李広がそれぞれ虎を射たのに,結果として両者とも虎ではなく矢の立った石を発見した故事のことを言っているのであろう。両者とも,後にその石を射たが石に矢を立てることはできなかったという。不可能を可能にする精神力ということなのだろうが,精神力に頼るだけでは限界があることは昭和の戦争で明らかになった。

 

一月一日(2013.1.1)

明治26年,詞:千家尊福,曲:上真行

「年の初めの例とて終りなき世のめでたさを」と始まる歌。「松竹たてて」と歌詞にあるが,最近は門松を見ることが少なくなった。私が子供のころはあちらこちらに門松があったのだが。

そういえば「旗日」という言葉を最近聞かない。国旗を出してあるのをみることがほとんどないのでこの言葉もつかわれなくなったのだろう。

最近の正月の飾りは注連飾りくらいだろうか。昔の自動車は皆正月の飾りを付けていたが,最近ではこれもめっきり減った。正面に日の丸を付けた自動車も昔はいたが,今では見ることがない。正月飾りが低賃金で作られる近隣国からの輸入品になり,輸出国が日の丸を嫌っているからではないかと疑いたくもなる。

この歌も聞くことは少ない。1番はたまに流れるが。2番まで流れることはほとんどない。2番の歌詞に「君がみかげに」とあるのをある人は嫌い,別な人は遠慮しているのだろうか。

結界であったり依代であったものが飾りになってしまったのだから仕方がないのかもしれない。次々と古い伝統文化が失われていく。・・・もちろん,国旗掲揚などの歴史は江戸時代まで遡ることはないだろうから,これを伝統文化というべきかどうかは疑問もあるが。

 

婦人従軍歌(2013.8.23)

明治27年,詞:加藤義清,曲:奥好義

 「火筒の響き遠ざかる」と始まる歌。発表年からすると,日清戦争を歌ったものか。

 「言の通わぬあだまでも いとねんごろに看護する 心の色は赤十字」とあり,従軍看護婦の歌である。人道的見地から敵味方区別なく傷病兵の看護をするという理念をもち,実際,行われたのであろう。

 幕末に締結された諸外国との条約の不平等を解消するためには日本が欧米に劣らぬ文明国であるということを示す必要があると,政府も軍も考えていたであろう。当時は戦地には外国の観戦武官もいたようだし,積極的にこのような姿勢を示したのであろう。

 メロディーは勇ましい行進曲風で,優しい看護婦のイメージはあまり無く,てきぱきと効率よく職務をこなす,有能な看護マシーンのイメージを感じる。

 

勇敢なる水兵(2013.8.1)

明治28年,詞:佐佐木信綱,曲:奥好義

 「煙も見えず雲もなく」と始まる歌。明治27年の日清戦争黄海海戦の歌である。

 私がイメージする佐佐木信綱とは異なるが,そのようなことを言っても仕方がない。

 瀕死の水兵の「マダ沈マズヤ定遠ハ」との問に対して副長が「戦ヒ難ク成シ果テキ」と答えている。

 水兵の戦死の歌であり,戦死を賛美し,人々を戦いへと向かわせる歌として唄うことも可能かもしれないが,唄うなら戦死した水兵の鎮魂歌として唄うべきだと思う。詞と曲のマッチングがあまり良くないというのが私の感想だ。

 この歌は,聞き覚えたのではなく,楽譜を探して覚えた。というのも,子供の頃,テレビで『しりとり歌合戦』1)というテレビ番組があり,これに出たいと思っていた。もともと,歌手になりたいと,漠然と憧れていたのだが,おもちゃのようなテープレコーダで自分の歌声を聴いて,批評家としての才能は少しはあったのだろう,自分の歌が下手であることを発見した。もっと巧く唄っているはずなのにこのマイクはおかしいなどと最初は思ったが,何回もの試行の結果,自分には歌手としての才能はないということを確認したのだ。それで,歌に関する知識で勝負できそうな『しりとり歌合戦』に目をつけたのだ。それで,うたいだしの50音別の一覧表を作って,知っている歌を順に書き込んでいったのだが。「け」で始まる歌がなかなか思い出せなかった。それで,歌本をあさってこの歌をみつけたのだ。(下手でもよいから)歌えないといけないので楽譜も探したのだ。

 むかし見た歌本の歌詞は「戦いがたくなしはてき」と書いてあり,実は当時は意味が理解できなかった。「なしはてき」が「成し果てき」だというのはついさっき知ったばかりだ。

学生時代,古文は得意ではなかったが,それでも助動詞の活用など,無理やり覚えさせられたことが今頃歌詞の理解に役立っている。

 この歌には替え歌がいろいろあるらしい。白木みのるが歌ったCMソングで「動脈硬化も血圧もコレステロールのせいなるぞ」というのがあったと思うのだが,今確認できる資料が見つからない。

 「け」から始まる歌は,その後『けんかでデイト』2)が出て,私のレパートリーは2曲になった。

1)      「勝ち抜きしりとり歌合戦」:昭和39年から日本テレビ系で放送された番組。

2)      「けんかでデイト」(昭和39年,詞:O.Couch/D.McEddie/B.Smith,訳詞:みなみカズみ,唄:田辺靖男/梓みちよ)

 

Aloha Oe<アロハ・オエ>(2015.4.21)

 明治28年,詞:Lili’uokalani

 「Haaheo e kaua i na pali」と始まる歌。瀬沼喜久雄の訳詞では「雨雲低くたれて 木々はうれいに満ちぬ」と始まる。徳山lの詞では「やさしく かなずるは ゆかしウクレレよ」と始まる。大橋節夫の詞では「涙にむせぶよに椰子の葉がゆれて」と始まる。ハワイ語の歌詞自体は,いとしい彼との別れの歌らしい。

 昭和12年,作詞佐伯孝夫,作曲佐々木俊一,唄灰田勝彦で出された「アロハ・オエ」もこの曲が原曲らしいが,歌詞を知らない。

ハワイ王国の王女リリウオカラニの作詞とされている。(作詞・作曲とする記述をみたこともあるが,曲は以前からあったもので作曲者不詳とする記述も見たことがあり,詳細不明である。)リリウオカラニは第8代のハワイ女王になったが,革命により最後のハワイ王となる。

リリウオカラニの兄である先王カラカウアの時代には浸透してくるアメリカ勢力に対抗するため,日本に対し,皇室との姻戚関係を結ぶことと日本人の移民を送ることを要請したが,移民のみが実現したとのことである。その後はアメリカとの関係が深くなる。

明治11年あるいは明治16年に作られたとの説があるようだが,作曲者は不明。明治26年には革命によりハワイ王国はハワイ共和国となる。譜面が発売されたのがその後の明治28年らしい。明治31年にハワイはアメリカ合衆国ハワイ準州となる。ハワイがアメリカ合衆国の50番目の州になったのは昭和34年である。

 大航海時代から第二次世界大戦まで,大国は領土拡大を目指し,それが正義だと思われていたのだ。正義の根拠には宗教的価値観に基づく文化の優劣判断があったのだろう。この正義感が産業革命による大量生産・大量消費の経済的要求と欲望に後押しされ,未開と判断した相手を啓蒙し,閉ざされた国を開かせることが正義と信じられていたのだろう。

 いずれにせよ,この間100年以上に亘り,東アジアにおいてイギリス,スペイン,オランダ,アメリカ,ドイツ、ロシアなどが勢力の拡張競争をしていたのだ。

 

夏は来ぬ(2013.7.26)

明治29年,詞:佐佐木信綱,曲:小山作之助

 「卯の花の匂う垣根に時鳥(ホトトギス)」と始まる歌。ここまで575でこの後775と続く。

現在の私の生活ではこの詞のような情景は期待できないが,昔のそれなりの家ならこのような情景を目にすることが出来ただろうと思わせ,古きよき時代を思い起こさせる名曲だと思う。どこが良いのかわからないありふれた詞のようにも思えるが,素晴らしい夏が目の前に見えるようだ。『なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる(西行)』。

全て「夏は来ぬ」と終わるところは『根岸の里の侘び住まい』1)のようだが,一つの季語を選べばよいというわけではない。風景をこのように切り取って言葉で定着することが出来るひとがいるのに,自分が切り取るとなぜつまらない文字の羅列になるのか不思議だ。

当然かもしれない。これを書くために歌詞確認のために調べていて初めて「卯の花の匂う」が『朝日に匂う山桜花(本居宣長)』の「匂う」と同じだということを知ったレベルなのだから。これまで何10年も香というか臭気というか,そういう類のものだと誤解していた。

1)      季語を持ってくるだけで俳句ができる魔法の言葉。例:「初雪や根岸の里の侘び住まい」

 

みなと(2014.1.27)

明治29年,詞:籏野十一郎,曲:吉田信太,文部省唱歌

 「空も港も夜ははれて」と始まる歌。

 私がハーモニカで始めてまとも?に演奏できるようになった曲である。まとも?というのは単音で,ほぼ(自分なりに)楽譜どおりにという意味だ。結局演奏技法は小学生の頃から全く上達しなかったが。唄ったことは少ないので歌詞よりもメロディーのほうが染み付いている。

 私が学校でならった学期はカスタネット(所謂教育用カスタネット),ハーモニカ,縦笛の三種だ。小学校の音楽室には足踏み式のオルガンがあった。中学ではどうだったか記憶がないが,高校では音楽教室にピアノがあった。鍵盤楽器の授業もあったが,紙鍵盤を使用した。紙に鍵盤が印刷されただけのものだ。試験がどのように実施されたのか記憶はない。ある時期は楽譜に書かれている種々の記号に関する筆記試験,別なときにはクラシック系の音楽史に関する筆記試験などがあったが,多くは歌唱や演奏の実技試験だった。紙鍵盤の授業でどのように試験をしたのか謎だ。

 

O sole mio<オー・ソレ・ミオ><私の太陽>(2014.10.22)

明治31年?,詞:?,曲:エドゥアルド・ディ・カプア

Che bella cosa e’ na jurnata ‘e sole」と始まる歌。ナポリ語である。ジョヴァンニ・カプッロによるイタリア語の歌詞もあるらしい。

高校の音楽の歌唱試験の課題曲だった。先生のピアノ伴奏があったと思うが,独唱で採点された。高校生当時はイタリア語だと思っていたのだが。イタリア語にはチンクエッティの歌などで馴染があった。

数ある歌の中には大声で唄いやすい歌と歌いにくい歌がある。これはメロディーにもよるが歌詞にもよる。歌詞が子音で切れる歌は大声で伸ばせない。その前の母音で伸ばすことになるが,どうしても最後の子音を大きく発声することができない。この歌は大声で唄い通せる代表曲だろう。

 

大楠公(2013.7.22)

明治32年,詞:落合直文,曲:奥山朝恭

 「青葉茂れる櫻井の」と始まる歌。

この歌は,絶望的な状況の下,湊川の戦いに向かう正成の息子正行との桜井の別れを歌った歌で『桜井決別』というのが学校生徒行軍歌として発表された時のタイトルらしい。

 楠正成は太平記の主人公の一人である。昔はこのような歌で歴史というか伝承というか,物語りのさわりだけでも覚えることができた。

 楠正成はあまりにも有名すぎて,私が変なことは語れないので行軍歌として発表されたという点について感想を述べよう。

 確かに,2拍子の曲で,行軍というか,行進曲に使うことができると思う。しかし,歌詞と同様,曲調も元気良く歩くにはどうかと思ってしまう。『戦友』1)などと同様,歩けるけれども行進に元気が出そうにない。重い荷物を背負い,疲労困憊してやっと歩いている感じを受ける。疲れてきたらこのような歌のほうが力を振り絞ることができるのだろうか。

1)      「戦友」(明治38年,詞:真下飛泉,曲:三善和気)

 

美しき天然(2014.8.5)

明治33年,詞:武島羽衣,曲:田中穂積

「空にさへづる鳥の声 峯より落つる滝の音」と始まる歌。タイトルは「うるわしきてんねん」である。

曲は明治の歌にはめずらしく3拍子で,日本で最初のワルツではないかという話をきいたことがあるが,6拍子をも含めた3拍子系の歌は昔からあり1),3拍子が珍しいという意味では,現代でも2拍子を含めた4拍子系の歌が多いのではないだろうか。ただ,ジンタ2)の響きに最も似合うのがこの「美しき天然」だろう。私が子供の頃はサーカスやチンドン屋の定番曲だった。歌詞があるのを知ったのはかなり後だ。

1)たとえば「五木の子守唄」(熊本古謡),「仰げば尊し」(明治17年),「みなと」(明治29年),「青葉の笛」(明治39年),「七里が浜の哀歌」(明治43年),「琵琶湖周航の歌」(大正8)など。

2)民間小規模(吹奏)楽団またはその楽団が(好んで)演奏する曲。後に映画やサーカスの伴奏,宣伝などが主となり,さらにはチンドン屋になる。私のイメージではクラリネットと鉦・太鼓が最少編成だろう。トロンボーンなどの管楽器がもう少しありそうだ。また,アコーディオンやバイオリンがあってもよさそうだ。鉦と太鼓だけなら時代劇の飴の行商のようだし,バイオリンだけなら演歌師,アコーディオンだけなら傷痍軍人だ。(何の根拠もない個人的印象。)

 

きんたろう(2014.10.13)

明治33年,詞:石原和三郎,曲:田村虎蔵

 「まさかりかついできんたろう」と始まる歌。

 伝説によれば,大江山の酒呑童子を退治した源頼光の家来に頼光四天王1)とよばれた勇者たちがいた。その一人である坂田金時の幼名が金太郎で,怪力の持ち主だったという。この金太郎の故郷足柄山での生活が歌われている。動物と遊んでいたらしい。

 5月人形の金太郎は幼児が多く,特徴ある腹掛けをしているような気がする。最近というか,私が子供のときでもすでにこの金太郎腹掛けはあまり見た記憶がないが,『子連れ狼』2)では大五郎がこの金太郎腹掛けをしていたように記憶している。

1)頼光四天王:渡辺綱,坂田金時(公時とも書かれる),碓井貞光,卜部季武。

2)小池一夫原作・小島剛夕画『子連れ狼』(漫画アクション,昭和4551年,双葉社)

 

鉄道唱歌(2014.5.16)

明治33年,補作詞:大和田建樹,曲:多梅稚

 「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」と始まる歌。

 東京から神戸まで各地の名所を紹介しながら65番まで,最後に山陽道へと続く66番が加わった長い歌である。その後山陽道へ入った第2集が出て,最後には第6集北海道唱歌までの374番となった。あるいは『伊予鉄道唱歌』までを含めて全7399番までとする説もあるようだ。地理歴史教育のために作られた曲らしい。今では歌の数が増えすぎ,学習用に新たな歌を作っても効果は少ないだろうが,当時は歌の数も少なく,効果があっただろう。私自身も歌で覚えた歴史や地理がある。

 愛知県に関する歌詞を見てみると,30番は豊橋,豊川稲荷と蒲郡,31番は徳川家康,岡崎,矢作橋に藤吉郎,32番は鳴海しぼり,大高,桶狭間,33番には熱田神宮と草薙の剣が歌われており34番は「名高き金の鯱は 名古屋の城の光なり 地震の話まだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん」となっている。これらが当時の愛知県で見るべきものだったのだろう。「地震の話」というのは明治24年の濃尾地震のことに違いない。

 他の箇所もほとんどが歴史的な名所・旧跡の紹介で,(当時の)現代的な風物の紹介としては,横浜と京都の七条の二つのステーション,トンネル・鉄橋と大礒の海水浴くらいだろうか。横須賀の軍艦と大阪城の師団の紹介もある。4番にある「急げや電気の道すぐに」とあるのが具体的に何を指すのか今の私には判らない。 

 

箱根八里(2013.7.12)

明治33年,詞:鳥居忱,曲;滝廉太郎

 「箱根の山は天下の険」と始まる歌。

 歌詞は私が子供の頃でも,既に難解だった。使われている単語が馴染みのない言葉だった。1番は昔の箱根,2番は今の箱根ということになっているが,今というのが明治のことだから,平成の今とは大きく違う。

 漢詩は学校で習っただけ,それも成績は良くなかったが,この歌の詞からは漢詩のイメージを強く受ける。昔習った漢詩の修辞法そのままに用いられている気がする。それにしても昔と今の違いは「大刀腰に足駄がけ」と「猟銃肩に草鞋がけ」だけだとは,昔からほとんど変わっていないということだ。

 漢文調の硬い歌詞と勇壮なメロディーが学生の心を捉えたことは容易に理解できる。

 

(2014.1.19)

明治33年,詞:武島羽衣,曲:滝廉太郎

 「春のうららの隅田川」と始まる歌。

 学校で習ったし,クラス対抗の合唱コンクールで唄った記憶もある。歌詞は古臭い感じがするところが良いのではないだろうか。手元の歌詞は新仮名で書いてあり,若干の違和感を覚える。この歌は正確な意味を理解するより,雰囲気を感じるほうが良いと思うので,今の子供には少し解り難いかもしれないが旧仮名で書くべきではないだろうか。最近のは知らないが,私が子供の頃は百人一首などは旧仮名遣いだったし,中には変体仮名を使ったものもあったように思う。このような遊びを通じて昔のことを学ぶのも有意義ではなかろうか。

 この「花」も,学校で学ばなければ,普通の環境では耳にすることが少ないかもしれない。だからこそ,学校で学ぶ時には旧仮名遣いを学ぶチャンスではなかろうか。

 「にしきおりなすちょうていに」などと聴いていも「長堤」が眼に浮かぶかどうかは判らない。「げに一刻も千金の」の「げに」など,普段は使わない言葉で,本当の意味は良く判らないが雰囲気は感じ取ることができる。

 歌い継ぎたい名曲のひとつだと思う。

 

モモタロウ(2014.12.12)

明治33年,詞:田辺友三郎,曲:納所弁次郎

 「桃から生まれた桃太郎 氣はやさしくて力持ち」と始まる歌。

 「鬼ケ島をば攻め伏せて」「金銀珊瑚綾錦」を略奪してくる歌詞になっている。

 桃太郎の話の成立はかなり古いのだろう。私が知っている昔話の多くは原因結果が明確に記載されている。『猿蟹合戦』,『かちかち山』,『舌きり雀』などでは作者の因果に関する考え方が良く解る。因果応報というわけだ。しかし『桃太郎』の鬼は鬼ケ島に住んでいるということ以外に成敗される原因が明確に描かれていないように思う。

 ヨーロッパ人が海外進出したときには異教徒であることがその行為の大義名分となったのだろう。桃太郎はそのような名分も必要としない,力が正義である時代に成立した話ではないだろうか。

 

うさぎとかめ(2014.7.31)

明治34年,詞:石原和三郎,曲:納所弁次郎

 「もしもし かめよ かめさんよ」と始まる歌。

「むこうの小山のふもとまで」うさぎと競争するお話の歌。元の話はイソップか。伊曽保物語などに見られるそうだ。

ゼノンのパラドックスではアキレスは亀に追いつけない1)のだが,うさぎとかめではうさぎが途中で寝ているのでうさぎは亀に負けてしまう。明治時代の国語(初等科)の教科書には「油断大敵」というタイトルでこの話が紹介されていたそうだ。

1)アキレスと亀。足の速いアキレスが亀を追いかけても,追い越すことはできない。なぜなら,追い越すためにはまず亀が今いるところまで行かなければならない。そこにアキレスが到達するまでには亀は先に進んでいる。亀は前にいるのでアキレスは亀を追い越すにはまず亀が今いるところまで行かなければならない。・・・結局アキレスは亀を追い越せない。

 

お正月(2012.12.26)

明治34年,詞:東くめ,曲:滝廉太郎

 「もういくつねるとお正月」と始まる歌。文語による歌が多い中,幼稚園児用につくられた言文一致唱歌である。正月の遊びをならべて「はやく来い来いお正月」と終わる。

 この歌には,正月の遊びとして「たこあげ」「こままわし」「まりつき」「はねつき」が挙げられている。これらは私がこどものころにもまだあった。なぜか知らないが,夏に凧揚げをしたことがないし,正月には凧揚げをした記憶がある。

北九州八幡から四日市に引っ越してきて,凧の形が違うのに驚いた記憶があるのは確かなのだが,形がどうだったかははっきりしない。北九州では四角い凧を揚げていたと思うのだが,また,やっこ凧については知ってはいたのだが,四日市ではどちらでもない凧だった。蝉の形をしていたか,扇の形をしていたかなんかで驚いたのだ。

 独楽も八幡と四日市では全く異なっていた。形も紐の巻き方も違う。巻き方が違うので廻し方も違う。形が違うのは見ればわかるので確かだ。八幡では全体が木製の背の低い円錐形の独楽で,円錐の頂点あたりに短い金属製の芯を打ち込んで使う。廻すときは投げつけるように廻す。四日市て使った独楽は厚い円板といっていいような独楽で中心には長い軸が最初からついている。円盤の周囲には金属板が捲いてある場合もあったように思う。廻すときは引いて廻す。八幡では力一杯投げつけるという感じなのだが,四日市ではそっと空中に放り出し,空中にある間に引いて廻すのだ。まあ,本当に投げつけるとどこかへ飛んでいってしまうので,そこにテクニックがある。

 ベーゴマというのは,見たことも聞いたこともなかった。

 ゴムまりを使ったまりつきはポピュラーだったように思うが,イメージ的には小さな女の子がやるものだった。小学生くらいだと,ドッジボール用のボールを使うことが多かったように思う。正し,正規のドッジボールのルールは知らないので,我々がドッジボールと呼んだボールだ。サイズもいろいろあったので,本式のドッジボールの公式ボールではないのだろう。いわゆる鞠を使って遊んでいるのはみたことがない。鞠はあっても飾っておくものだったようにおもう。このドッジボールをつかったまりつきはどちらかというとバスケットボールのドリブルのような形であり,バレーボールのような形の遊びはなかったと思う。遊び方はバスケットボールとはもちろん違うのだが。

 いずれにせよこれは正月に限らず年中遊ばれており,ボールを使う正月特有の遊びはなかったと思う。

 羽根つきはあった。羽子板をつかう遊びは正月しかしなかった。しかし,羽子板をつかった羽根つきも多いというほどではなく,バドミントンがこれに代わって年中遊ばれていたように思う。このバドミントンもバドミントンもどきというべきであろう。はねつきとの大きな差は風の影響を受けやすい点にある。

 

荒城の月(2012.10.9)

明治34年,詞:土井晩翠,曲:滝廉太郎

 「春高楼の花の宴」と始まる名曲。

 「国破山河在・・・(杜甫)」や「夏草や・・・(芭蕉)」を思い起こさせ,「古城」1)へと続く。2番は「霜満軍営秋気清・・・(上杉謙信)」そのものだ。

 Wikipediaによれば,「花の宴」の「え」の音を,山田耕筰が原曲から半音下げたとのことである。三浦環に編曲を頼まれた際,原曲の音階がジプシー音階の特徴を有するため,西洋で歌う機会が多い三浦には,ハンガリー民謡と間違われないよう,この音を半音下げたとのことである。他にも,短三度上に移調し,8小節の構成を16小節でゆっくりうたうように変えたらしい。「花の宴」の箇所は「ファファミレミ」でレに#がついていたのが原曲で,私が覚えているのは#がないので,山田耕筰が手を加えたものということになる。

 また,2番の「植うるつるぎ」もいろんな解釈2)があるようだ。これだけを論じた本まであるらしい。高島は諸説のあまりの多さに,最後は日本では城攻めに際しては「植うるつるぎ」というような習俗・情景はなかったから諸説でるのだと言っている。だとすれば,比喩であることになるので,直感的に想像する『剣の山』をイメージさせる,抜刀した兵士たちがいっせいに抜き身を突き上げている様子の形容であろう。

1)      「古城」(昭和34年,詞:高橋掬太郎,曲:細川潤一,唄:三橋美智也)

2) 高島俊男:「お言葉ですが6 イチレツランパン破裂して」(平成17年,文春文庫)

 

はなさかじじい(2014.10.3)

明治34年,詞:石原和三郎,曲:田村虎蔵

 「うらのはたけで ぽちがなく」と始まる歌。

 民話「花咲か爺」の粗筋をそのまま歌詞にした歌。元の話には犬の名は出て来ないらしいが,この歌詞で「ポチ」と名付けられたらしい。「ポチ」の語源はWikipediaに諸説紹介されているが,私には外国語由来のように聞こえる。やはり「小さい」感じの「プチ」系統の語感だ。ひょっとすると『ぽち袋』の『ぽち』かもしれない。ちいさい点を『ポツ』などという人もいるがこれと同じ語源かもしれない。

小型の日本犬に付けられそうな名の気がする。洋犬にはつけそうな気がしないのが日本語由来かもしれないと考える理由だ。日本犬でも大型犬にはつけないと思うので『小さい』ことを表しているのではないかと思うのだ。

もっとも,人はそれぞれで,昔,近所に「ねこ」と名付けた犬を飼っている人がいた。『ねこー,ねこー』と呼ぶとその犬がやってくる。

また,学生時代,大学のキャンパス内を徘徊していた野良(?)犬を一部の学生は某教官の名前で呼んでいた。フルネームではないので,某教官と同姓同名かどうかは不明だが,かなり珍しい名前なので私はあの教官と同じ名だと思って聞いていた。この犬はあるときの市長選で,某候補者の名を書いた服を着せられていて,その頃はその候補者の名前で呼ばれていた。なぜか教官名で呼ぶときは呼び捨て,候補者名で呼ぶときは「さん」づけで呼ばれていた。

 

嗚呼玉杯に花うけて(2012.10.22)

明治35年,詞:矢野勘治,曲:楠正一

 「嗚呼玉杯に花うけて緑酒に月の影やどし」という第一高等学校の寮歌。

 天下治平を論じる明治の学生の意気が感じられる。進学率が今とは比べ物にならない時代である。まあ,学生にはいろんな学生がいることは今も昔も同じだろうが。

 「理想の自治に進む」のは良いが「破邪の剣を抜き持ちて」「行途を拒むものあらば斬りて捨つる」というのはやや危ういかもと思ってしまう。日清戦争と日露戦争の間であり,時代がこのような歌を作ったのだろう。

 正邪あるいは善悪の二元論はどこにでもある。特に一神教の世界ではこの考えが強いのだろう。多神教では,神々は善もなすが悪もなす。力の大きな神は大きな災悪をもたらすが大きな恵みも与える。盗人にも三分の理があることを忘れ,惻隠の情を失ったようなこの歌は西洋からもたらされた新思想にかぶれて,高揚した気分でつくられたのではないか。

 現代でも,自国が正義だと信じている国があるようだ。正義はひとつと信じている国同士が争えば敵対する国は悪であり,悪は滅ぼすべしとなる。複数の異なる正義があることを認識し,共生を目指すべきだと思うが,相手が複数の正義を認めない場合,どのように対処すべきなのだろうか。

 破邪の剣で斬って捨てるというのは問題だが,少なくとも守り刀は必要であろう。

 

紅萌ゆる岡の花(2012.9.29)

明治37年,詞:沢村胡夷,曲:K.Y.

「紅萌ゆる岡の花早緑匂う岸の色」と始まる歌。第三高等学校逍遥歌。

 私が受験生だったころ,受験雑誌の付録に歌集がついていたことがある。各大学の学生歌や応援歌,旧制高校の寮歌等が集められていた。楽譜がついていたのでいろんな大学に関係する歌を覚えた。

 レコードが一般的になってからは歌の長さはレコードにちょうど良く収まる長さということなのだろう,次第に長さが一定になってきたようだ。しかし,明治時代の歌は長さがまちまちだ。この歌は長いほうだろう。まず,春夏秋冬が歌われ,春は吉田山だが,秋は中国大陸,冬はヨーロッパにまで思いを馳せている。京都関連の歴史・名所が多いが富士山まで登場し,気宇壮大な歌だ。どのような状況で唄われたのかは知らないが,旧制高校の寮歌は多くが同じ印象のメロディーで特徴は酔っ払って唄うのに適したメロディーということだ。

 

一寸法師(2013.6.29)

明治38年,詞:巌谷小波,曲:田村虎蔵

 「ゆびにたりない いっすんぼうし」と始まる歌。

 絵本の展開どおり進行する歌。

 尺貫法に馴染みのない人が増え,「法師」などという言葉もほとんど聞くことがない。いまの子供は「一寸法師」などの話をどれくらい知っているのかと疑問に思うが,昔は御伽草子などに出てくる話を子供向けにアレンジしたおとぎ話は絵本や子供向けの歌の中心であり,誰もが知っていたと思う。

 「おわんのふねに はしのかい」で京へ向かうのはさぞかし大変だっただろう。佐渡情話のお光はたらい舟で佐渡から柏崎まで通ったらしいので,お椀やタライのようなまん丸の舟でも技術があればそれなりに目指す方向へ進めるのだろうが,私の記憶では,私が持っていた絵本には箸を1本だけ持って立った一寸法師が描かれていた。櫂として使っているより,棹か艪のように使っているように見えた。一寸法師の故郷は難波らしいので,難波から京へというと川を遡ることになる。櫂でも艪でも棹でも,丸い舟で流れを遡ることは大変だっただろう。

 大正時代に童謡運動が起きるまで,子供の歌といえば唱歌だった。あるいは自宅で遊ぶときにはわらべ歌など唄ったのだろうか。

 石原和三郎という人が昔話を主題にいくつかの作詞をしているが,文語調であり,巌谷が言文一致運動の一環として作詞したのがこの歌だそうだ。

 

戦友(2012.11.4)

明治38年,詞:真下飛泉,曲:三善和気

 「此處は御國を何百里」という日露戦争の歌。戦友の戦死を歌ったもので14番まである。戦争を歌っているが軍歌とは言えないだろう。なにしろ「軍律嚴しき中なれど」と軍規を破って戦闘中に倒れた戦友を助け起こしている。応急手当をして自分は戦闘に復帰したが,戦闘が終了した日没後,「探しに戻る心ではどうか生きていて呉れよ」と願っていたが,見つけた身体は既に冷たく,魂は故郷に帰ってしまっており,ポケットの時計だけが動いていた。

 ここからは輸送船上で初めて会ったときからの回想になる。そして友を埋葬し,友の親に手紙を書くのである。

 見方によっては反戦歌とも言えるかもしれないが,やはり鎮魂歌であろう。

 戦争の歌でも明治の歌と昭和の歌は違う。昭和の歌でも大戦時とベトナム戦争などのときとはまた違う。

 

だいこくさま(2012.9.18)

明治38年,詞:石原和三郎,曲:田村虎蔵

 「おおきなふくろをかたにかけ」という歌。大黒様が因幡の白兎を助けた話を歌にしたものである。神話教育用の歌と言えるだろう。

ヒンドゥー教の神にシヴァがいる。3最高神の一柱であり,破壊を司る。世界を破壊するときには黒い姿で現れると言われ,漢訳の際に大黒天と訳された。日本に伝わった後,大国主命と習合される。破壊の後には実りをもたらすこともする。後に実りをもたらす点のみが注目され,豊穣の神となり七福神の一柱となる。

この歌で大国主命が袋を担いでいるのは豊穣の神になる前の話で,八十神1)に荷物を持たされて後をついて行っているのである。途中で,傷ついた兔が,先に行った八十神にだまされ更にひどい状態になっているのを見つけ,これに正しい手当ての方法を教えてやる。この兔が因幡の白兎である。傷が癒え兔神となり,大国主命が八上比売(やがみひめ)を娶ることになるだろうと予言する。大国主命には多くの妻がいるが八上比売は最初の妻である。

その後,大国主は出雲の国を作り,最後にはこの国を天照大神が派遣した建御雷神に譲るのである。

出雲は後の大和朝廷とは競合関係にあった勢力であろう。これが武力による全面戦争ではなく国譲りをしたという神話だ。日本史上大きな政変は何度かあったが,明治維新の再も大政奉還や江戸城の無血開城など,多少の小競り合い(以上のものではあるが)はあったが全面戦争(少なくとも大虐殺)は回避された。現実はどうであれ,少なくとも敗者に対する惻隠の情を重んじてきた文化と,敵を殲滅してもなお満足しない文化があるとすれば,簡単には歴史に関する共通認識は得られないだろう。

1)      大国主命の兄弟に当たる多くの神々

 

大こくさま(2014.9.25)

明治38年,詞:石原和三郎,曲:田村虎蔵

 「大きな袋を肩にかけ」と始まる歌。

 この歌を知ったのが早いのか「因幡の白兎」の話を知ったのが早いのか記憶にないが,ひょっとしたら同時かもしれない。絵本を見ながら歌って聞かせられたということもありうるだろう。4番には「だいこくさまは だれだろう おおくにぬしのみこととて」とまで説明があるが,昔は4番の歌詞までは知らなかった。しかし,「因幡の白兎」は「大国主命」の話として知っており,この歌も知っていたので「大黒天」が「大国主命」の別名であることはなんとなく理解していた。

 大黒天とはヒンドゥー教のシヴァ神の別名マハーカーラ(マハーは偉大な,カーラは黒の意)の漢訳であり,大国と大黒の音が通じることから日本では大国主命になったらしい。そうすると本地垂迹かなにかで神仏習合したようである。

 ところで,明治新政府は慶応4年(1864年)に廃仏毀釈令を出している。以後神道と仏教の分離が進められるが,その度合いは国学の普及に依存して地域により差があったようだ。激しい運動は明治4年ごろに終息したらしい。

 この歌で「大黒様」が使われているのは,大黒天がインドの神だということが忘れ去られるようになってしまっていたのだろうか。

そういえば七福神の中で神道の神と言えそうなのは恵比寿だけではないか。大黒天,毘沙門天,弁財天はヒンドゥー教の神だし,福禄寿と寿老人は道教,布袋は仏教だ。明治時代に七福神がどのように扱われていたのか知りたいと思ったが,今のところ簡単に調べる方法を思いつかない。

 私にとってのこの歌の効用のひとつは,七福神の中から大黒天を区別する時の目印である,大きな袋を思い出させてくれることだ。歌での袋は八十神の荷物を大きな袋に入れてかつぎ,八十神について八神上売を訪ねる大国主命を描写している(この旅の途中で因幡の白兎に出会う)のだが,七福神をみたとき(恐らくこのときの袋とは無関係だが,大黒天は袋と打ち出の小槌を持っている絵柄が多い),話の詳細を思い出すよりなにより,まず、この歌を思い出す。

 

青葉の笛(2012.9.7)

明治39年,詞:大和田建樹,曲:田村虎蔵

 「一の谷の軍破れ討たれし平家の公達あわれ」という歌。

一番は敦盛と熊谷直実の話である。敗走する平敦盛を呼び止めた熊谷次郎直実は,相手の息子のような若さに躊躇するが結局討ち果たす。敦盛は逃げ続ければ逃げ切れたかもしれないが,敵に後ろを見せることを潔しとしなかったのだろう。このとき敦盛は弱冠17歳であった。直実はその後出家して法然の弟子になる。

実際の場面はどうだったかわからないが,少なくとも平安末期から明治の時代まではこの二人のような覚悟・態度が望ましいと考えられていたことがわかる。

二番は忠度と俊成の話である。薩摩守平忠度は平家一門と都落ちしたが,その後密かに京に戻り,藤原俊成に自分の歌を託す。俊成はその中から一種を選び,「千載和歌集に」詠み人知らずとして入れた。朝敵となった忠度の名を記すことを憚ったのである。忠度は一の谷の戦いで討死した。41歳だった。文武に秀でた老兵・・・将だろうが・・・は源氏の岡部忠澄に討たれており,忠澄はその後深谷市の精心寺に忠度の菩提を弔うために供養等を建てた。

明治時代でもこのような歌が作られ・唄われる風土が日本にはあった。敵ながら天晴れとか,死後はノーサイドの考え方である。敵の死後は敬ったのではなく怨霊を恐れたのだという解釈も成り立つかもしれない。しかし,少なくとも,死んだ後に墓をあばいてでも恨みをはらすとかいうような考え方はなかった。

いろんな背景のもとに歴史認識はつくられる。国により歴史認識が異なるのは当然であろう。異なる認識を持つ相手には迎合するのではなく,自らの認識を粘り強く説明していくべきであろう。相互に何故相手がそのような歴史認識を持つかを理解できれば将来に向けて協調していく助けになるのではないか。

この歌のメロディーは現代的とは言えないが,哀愁に満ちた,名曲である。

 

故郷の廃家(2014.1.14)

明治40年,詞:William Shakespeare Hays,日本語詞:犬童球渓,曲:William Shakespeare Hays

 「幾年ふるさと来てみれば」と始まる歌。

 原題は「My Dear Old Sunny Home」で歌詞は「Where the mocking bird sang sweetly Many years ago,」と始まる。

 この詞のような状況を感じる人は今ではほとんど居ないのではないか。子供の頃都市に住んでいた人はもちろん,田舎に住んでいた人もこのような思いをすることは極めて稀だろう。私の現在の住まいがある辺りは私が子供の頃は山だった。

 私は父の勤務先の社宅を転々として,親元を離れてからも加えると計10回転居している(と思う)が,過去の家が残っている場所はほとんどない。最初に住んだ家の辺りには約50年後に行って見たが,当時の面影は全く無かった。小学校は鉄筋コンクリートになっており,自宅のあった辺りには大きな道が通り,ホテルが建っていた。山は恐らく昔のままあったのだろうが,小さな丘のように見えた。

 転校後の小学校のクラス会に40年振りに出席したとき,話がほとんど通じなかった。「○○公園で遊んだやんか」と言われてもその○○公園をどうしても思い出さない。帰ってから地図を見たら,区画整理で町名が変わっており,昔と同じ場所に公園はあったが,その公園は新しい名前の○○になっていた。通学路も拡幅され,よく遊びに行った同級生が住んでいたお寺も移転していた。家の傍には神社があったが,その神社は移転していないようで,神社の位置から昔の家の位置を想像するだけだ。

 その後住んだ家は道路拡張のために取り壊されることになって転居したので,その時点で道路になってしまった。

 同級生の家があった商店街は寂れてしまい,ここには「咲く花鳴く鳥そよぐ風」など昔どおりのものは残っていない。

 学生時代の下宿は変わっていないが,付近の道路は拡幅され,昔の商店はほとんど残っていない。米国滞在中に住んだ家の前をGoogleStreet Viewで見たが,近所の建物は皆変わっており,かろうじてStreetの角の家と小学校だけが私が住んでいた頃と同じだった。

「なれにし昔に変わらねど」というのは一つも無い。歌詞のような状況は過疎の限界集落のものであろう。しかし「遊びし友人いまいずこ」感はある。

歌詞の現実感は薄いが,『國破山河在 城春草木深』1)という懐旧の情は共感できるものがあり,残って欲しい歌のひとつである。

1) 杜甫:春望

 

故郷の廃家(2018.5.10)

明治40年,詞:犬童球渓,曲:William Shakespeare Hays

 「幾年ふるさと来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風」と始まる歌。

 原曲は「My Deaar Old Sunny Home」で,「Where the mocking bird and sweetly Many years ago」と始まる歌詞もHaysにより明治4年に作られた。犬童の詞は直訳ではないが原詩の状況とほぼ同じ状況である。

 ずっと以前から知っている歌だが,特に魅かれる歌ではなかった。久しぶりに思い出してみると心に浸み入ってくる。歳のせいだろうか。ぶn

 『國破山河在』1),『兵どもが夢の跡』2),『松風さわぐ丘の上』3)など,時の流れと不変なものを同時に感じさせてくれるものに魅せられる。

 子供の頃,父が転勤族だったのであちらこちらに住んだ。半世紀ほど前に住んだ地域に出張の機会があったとき,昔住んでいた家のあたりに行ってみたことがあるが,大きなホテルが建っていて,大きな道路が通っていた。昔と変わらないだろうと思えるのはそこから見える山(丘よりやや高いという程度の山)だけだった。その後一時期住んだ場所は今では交通量の激しい道路(この道路計画のために立ち退きになった)だ。今住んでいるところは『兎追いしかの山』4)と誰かが思っているだろう山を切り開き,宅地として造成されたところだ。私と同世代なら,故郷に帰って廃屋をみることも少ないかもしれない。人口増加が激しかった時代だから,すでに再開発されてしまっただろう。

 ところが,最近全国的に空き家が目立つようになってきているらしい。人口が減少に転じれば,廃屋も珍しくなくなるかもしれない。その時代に,変わらぬものは何か残っているのだろうか。

1)「春望」(杜甫)。「城春草木深」と続く。

2)「おくのほそ道」(松尾芭蕉)。上五は「夏草や」。

3)「古城」(昭和34年,詞:高橋掬太郎,曲:細川潤一,唄:三橋美智也)

4)「故郷」(詞:(大正3年,高野辰之,曲:岡野貞一)

 

旅愁(2012.8.25)

明治40年,詞:犬童球渓,曲:オードウェイ

「更け行く秋の夜旅の空の」という歌。「窓うつ嵐に夢もやぶれ」と失意の歌である。「恋しやふるさとなつかし父母」と軟弱さを感じさせると言えなくもないが,苦しいときの最も自然な感情であろう。

この時代はもちろん生で知っているわけではないが,イメージとしては家長である厳しい父親に従い従順に家事を取り仕切る母だ。それでも父母を懐かしむ。世間は昔も今もそれほど甘くはなかったのだが,親による子供の虐待とか過干渉は今ほどではなく,辛い時には(心の中だけでも)帰るだけで癒しになる家庭があったようだ。

良い歌だと思う。

 

早稲田大学校歌(2014.5.12)

明治41年,詞:相馬御風,曲:東儀鉄笛

 「都の西北早稲田の杜に 聳ゆる甍はわれらが母校」と始まる歌。最後は「早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 早稲田」と終わる。

 『これぞ校歌』といえる校歌の代表であろう。早稲田とは特別な関係のない私でもよく知っている歌だ。一高の『嗚呼玉杯に花うけて』,北大の『都ぞ弥生』と並んで三大校歌と称されているそうだが,その中でもベストだろう。『玉杯』も悪くはないが,曲調が暗い。酔っぱらって唄うには良いが酔って気炎を上げているだけのようにも聞こえる。『弥生』はバタ臭すぎる。大自然を感じられるのはよいのだが,遠足や行軍ではなくハイキングで唄えそうな曲だ。これらに比べてこの「都の西北」は素面で真面目に唄うも良し,酔って蛮声を張り上げるも良し,儀式に良し,対抗戦の応援に良し。どのような場面にも対応できる名校歌だ。

 

ローレライ(2012.8.19)

明治42年,詞:Heinrich Heine,訳詞:近藤朔風,曲:Friedrich Silcher

 明治42年は近藤による訳詞が発表された年である。原詩は1822年,原曲は1837年らしい。江戸時代の曲ということだ。

 「Ich weiss nicht, was soll es bedeuten」が「なじかは知らねど」と訳された。私がこの歌を知ったのは高校生のときだった。歌詞に「魔歌」などとあるのだが,当時は優しげな人魚姫とか乙姫様のような印象を持っていた。メロディーが優しいからだろう。

 Loreleyはライン川流域に突き出た岩山の名であり,そこに棲む妖精の名でもある。恋に破れてここで身を投げた少女の名だとも言われる。このあたりは流れが速い難所でり,ローレライが美声で通りかかる漁師を誘惑して水底に引き込むとの伝説である。

 「あゝわれコレッヂの奇才なくバイロンハイネの熱もなきも」1)と歌われているくらいだから,ハイネの詩は明治の書生にも有名だったのだろう。

 私は一時期,文学は原語で読まねば真の理解はできないと考えていた。まあ,これを理由に日本文学しか読まなかったのだが。他の時期にはいろんな国の言葉で歌が唄いたいと思っていた。その当時,この歌のドイツ語の歌詞も持っていたのだが今さがしてみてもどこに行ったのか行方不明である。覚えているのは出だしの部分だけだ。

1)      与謝野鉄幹:「人を恋ふる歌」(鉄幹子,明治34年)

 

鎌倉(2012.8.8)

明治43年,文部省唱歌(詞:芳賀矢一?)

 「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の」と新田義貞の故事から始まる鎌倉案内の歌である。長谷観音,八幡宮と続き源実朝が暗殺された大銀杏へ至る。更に,「しずのおだまきくりかえし」と静御前が登場,大塔宮護良親王まで歌われて,建長寺・円覚寺で終わる。

 登場人物は悲運の生涯を終えた人たちだ。メロディーもこれらの人々を偲ぶように哀愁を帯びた良い曲だ。

 歴史的には源平時代から南北朝,太平記の世界までが歌われており,これだけ覚えればこの時代の勉強は完璧・・・いや,「青葉の笛」1)・「大楠公」2)等々の歌を覚えればあとは少し年号を覚えるだけ・・・とはいかないだろうが,これらから関心を持って「平家物語」や「太平記」などを読み,登場人物に関心を持って歴史を学べば,歴史の勉強も面白い。

 もちろん,書籍や歌はそれが成立した時代や作者の考えが投影されているし,新事実の発見もある。歴史を総合的に見ることによりこの歌ができた明治時代がどういう時代だったかを見てとることもできる。

 中学校の修学旅行では鎌倉にも行ったのだが,私の当時のレパートリーにはこの歌は入っておらず,歴史の知識もなかった。当時この歌を知っていれば,鎌倉旅行ももっと楽しめただろう。

1)      「青葉の笛」(明治39年,詞:大和田建機,曲:田村虎三

2)      「大楠公」(明治32年,詞:落合直文,曲:奥山朝恭)

 

七里が浜の哀歌(2014.7.26)

明治43年,詞:三角錫子,曲:ガーデン

 「真白き富士の嶺 緑の江の島」

 明治43年,神奈川県の七里が浜沖合でボートが転覆して遭難した12名の中学生を悼む歌。哀しい歌である。作られたときは長調の曲だったらしいが,大正時代の演歌師が唄っているうちに短調に転調してしまったとのことである1)

 昭和30年代後半にフランク永井が「真白き富士の嶺」というタイトルで唄っている。

1)「日本歌唱集」(日本の詩歌 別巻,中公文庫,昭和49年)

 

水師営の会見(2012.12.19)

明治43年,詞:佐々木信綱,曲:岡野貞一,(文部省唱歌)

 「旅順開城約成て」と始まる歌。明治38年,日露戦争中,二〇三高地のロシア軍要塞をようやく攻略した後,乃木大将とステッセル将軍が,旅順郊外の水師営で会見した様子を描いた歌。日本が勝ったときの歌だから,もっと威勢がよくてもよいのであるが,この曲は極めてもの哀しいメロディーである。

 二〇三高地は塹壕に籠り鉄条網と機関銃で守られている要塞である。戦車などない時代なので人間が斜面を登りつつこれを攻撃するのは大変なことで,非常に多くの戦死者が出た。

 乃木は明治27年の日清戦争では歩兵第一旅団長として戦い,旅順要塞を1日で陥落させている。しかし,日露戦争では要塞の堅固さは比較にならず,攻略に半年を要している(開戦前,ロシアは旅順要塞はいかなる大敵が来ても3年は持ちこたえるとしていた)。この間に乃木の二人の息子は戦死した。

 会見場では,敗者であるステッセル将軍にも帯剣を許し,互いに酒を酌み交わした。互いにその武勇を称えあい,ステッセルは乃木の子息の戦死に対し悔やみを述べたという。これに対して,この歌の歌詞では「二人の我が子それぞれに死所を得たるを喜べりこれぞ部門の面目と大将答力あり」となっている。このような歌詞だから哀しいメロディーになっているのであろう。

 乃木は明治10年の西南戦争では約200名の兵と共に居た際,約400名の西郷軍と遭遇し,3時間ほどの戦闘後退却するが,そのとき連隊旗を西郷軍に奪われた。このことを生涯気にして死に場所を捜していたようである。乃木は夫妻で明治天皇大葬の際に自刃している。軍旗事件,日露戦争など種々の思いを胸にした殉死であろう。

 当時の戦争には観戦武官というものが居た。第3国の武官が戦闘の様子を観戦するのである。また各国の記者も見ているので,あとから美化してウソをでっちあげることはできない。仮に,話の一部に虚構があったとしても,このような歌を作り,文部省唱歌として学童に歌わせていたということは,このような態度が望ましいと指導者は考えており,そのように教育していたということだ。

 

(2015.3.13)

明治43年,文部省唱歌

 「出た出た月が」と始まる歌。

 タイトルを『お月さま』とした歌集もみたことがあるが,「月」が正しいらしい。

 『月が出た出た』の炭坑節なら酔って唄うことがあるかも知れないが,この歌は唄うことがないだろうと思ったが,幼児と一緒に満月を見る機会があったら,唄うかも知れないと思い直した。

 ところで,歌詞には「まんまるい 盆のような月が」とあり,昔は何の違和感ももっていなかったが,ふと,お盆は丸いものかと思い始めた。私の実家には確かにまんまるのお盆があった。しかし,楕円形や四角形のお盆もあるではないか。四角形のものはトレイと呼ぶのかとも思ったが,賞状盆など,どう考えても四角だがトレイではないだろう。

 明治時代には丸いお盆が一般的だったのかもしれないとも思ったが,たばこ盆などは明治より昔から四角いものも多かったのではないか。

 盆地の形状からも解るように,盆には高くなっている縁がある。この形状を削り出すとすれば,円形が作りやすかったのかも知れない。ロクロなどは古くからあっただろうから,こけし人形の製造用などに木工旋盤のようなものが昔からあったかもしれない。だとすれば円形のお盆が低コストで製造されていたのだろう。フライス盤のようなものはなく,円形以外の形状のお盆は高価だったのかも知れない。全体を削り出すのではなく,板に縁をつける方法なら四角のほうが作りやすいだろうが。

 

春がきた(2014.9.17)

明治43年,詞:高野辰之,曲:岡野貞一

 「春が來た春が來た どこに来た」と始まる歌。

 韻を踏むというより,同じ言葉を何度も繰り返す単純な歌詞と簡単なメロディーで春が来て花が咲く喜びを歌っている。解りやすいというだけでも名曲だ。

 

ふじの山(2014.5.5)

明治43年、文部省唱歌

 「あたまを雲の上に出し」と始まる歌。

 この歌を聴くと当然のことながら富士山を思い出す。

 小さな子供のころ,山の絵をかくと必ず富士山形の山をかいていた。他の山も知っていたはずなのだが,記憶の中の私は山というと富士山を思い浮かべていたようだ。おそらく絵本などで山の絵を見る機会は何度もあっただろう。たとえば『うさぎと亀』など遠景の山の絵がきっとあったに違いない。にもかかわらず,富士山の印象が強いのはこの歌のせいかもしれない。「ふじは日本一の山」という歌詞の強烈な印象から,現物を見たこともないのに,頂上付近に雪を頂いた富士山をいつも描いていた。

 

虫のこえ(2013.6.17)

明治43年,文部省唱歌

 「あれ松虫が鳴いている」と始まる歌。「チンチロチンチロチンチロリン」と続く。

 虫の声を言語脳で聞いている日本人らしい歌だ。西洋人は虫の音などを音楽脳で聴いているらしい1)

 みのむしというのは,子供の頃良く見たが,鳴くのは聴いたことがないが聞いた人によると『ちちよちちよ』とはかなげに鳴くらしい2)

 現代でも,バウリンガル3)などの発想は日本人ならではのものではないだろうか。

 定年になって暇になったら詳しく調べてみたいと思っていたことがたくさんある。虫の声などもその一つだが,加齢と共に眼もよく見えなくなり,調査は全く進んでいない。

 まず,動植物が発する音を各言語でどのように表現するのかということを調べてみたいと思っていた。また,古いお話・・・神話など・・・で人間が動植物,更には山や川などの自然とどのように交流していたのか,新しい時代ではどうなのかということにも興味がある。動物でも,哺乳類が話すというのは良くあるが,爬虫類,魚類など,どのあたりまでが言葉を話すのかということだ。ミスター・エドという馬が喋るテレビドラマもあった。ハリー・ポッターは蛇と会話ができるようだ。しかし,みなしごハッチのように昆虫までが話すのだろうか,あるいは『風のささやき』のような表現がどの程度実感を持って受け止められるのか,単に擬人法だとされてしまうのかなどである。これらは(意識していないかもしれないが)信仰あるいは文化と不可分の関係にあると考えているが,これが言語の母音・子音の組み合わせと関係があるのか,右脳と左脳の働きの関係とか,何が原因で何が結果なのかなど興味は尽きない。

1)      角田忠信:「右脳と左脳〜脳センサーでさぐる意識下の世界〜」(小学館ライブラリー17,小学館,1992)。

2)      清少納言:「枕草子」

3)      「バウリンガル」:犬の声を日本語に翻訳する(株)タカラから発売された玩具?。

 

われは海の子(2014.1.6)

明治43年,詞:宮原晃一郎,文部省唱歌

 「我は海の子白浪の」と始まる歌。

 7番の歌詞に「いで軍艦に乗組みて我は護らん海の國」とあるのがGHQの眼に留まり,戦後の教科書から削除された。4番以降も歌詞が難しすぎるということだろうか,昭和22年以降は3番までが小学校で教えられた。3番までの歌詞でも今の小学生には難しいだろう。昭和55年には教科書から消えたらしい。今の中学生にも難しいだろうが6番までは中学くらいで教えてもよいのではないか。

 音楽の授業はもちろん音楽を教えるのだが,発声や鼻濁音の使い方など国語の領域の教育も重要な領域の一つだろう。文語の歌詞を教えるのも良いと思う。少し話は違うが,音楽室にはクラシックの作曲家の肖像画が何枚も掛けてあった。バッハとかベートーベンとかだ。歴史も学んだ記憶がある。それに対して理科室にはアルキメデスやニュートンはもちろんのこと誰の肖像画もなかった。私の立場から言えば,音楽史よりも物理学史や化学史も教えるべきだとおもうのだが。そういえば校長室には歴代校長の写真が掲げてあった。

 今ではこの歌詞のような経験・体感を持つ子供は極めて少ないだろうが,50年前までは実際にこのような生活をしていなくても十分想像できた。今の子供は教えても理解できないのだろうか。・・・そうかもしれない。

 

池の鯉(2014.4.26)

明治44年,文部省唱歌

 「出て来い出て来い池の鯉」と始まる歌。

 この時代には珍しく口語の歌である。言文一致の運動も唱歌にまで広まってきたことが伺われる。

 小さい子供の頃は鯉が何を食べているのか知らなかった。歌詞に「投げた焼麩が見えたらこい」とあるので,鯉は「麩」を食べるものだと思っていた。もちろん「麩」も食べるだろうが,野生の鯉が常食しているわけではないだろう。

 小さいころ,池で釣りをしていた。餌はまずミミズを採ってこれを使うが,鮒などは練り餌のほうがよく釣れた。これはメリケン粉を水で練ったものである。耳たぶか,それより少し硬めに練ったものだ。流れのある川での釣りでは,すぐに溶けて流れてしまうので使えない。投げるときも,勢いが良すぎると水中に沈む前に溶けたりして落ちてしまう。単なるメリケン粉ではなく,これにカレー粉(カレールーの元ではない)を入れるといいとか,いろんなノウハウがあった。しばらくすると溶けてなくなるので,すこし高等な技術を要する釣りだが,よく釣れた。

 この池には大きな鯉もいた。大物を釣るためには少し大きな仕掛け(釣り針など)が必要である。このときの餌は薩摩芋がよいとされていた。人間が食べられるように蒸かした芋を1cm角くらいに切って餌にする。これは練り餌よりもずっと長持ちするが,私は大物を釣り上げたことはない。近所のおじさんが,1m近い鯉を釣り上げたときは隣近所の人が集まって,皆でそれを食べた。

 この池の近くから転居した後は,近くに魚釣りをするような池がなく,川または農業用水(新川と名前がついていた)だった。このときはもう小学生で,友達と釣りに行ったりして,郷に入っては郷に従えと,皆と同じような釣りをした。餌は主として動物性のものだった。ミミズかザリガニの肉である。ザリガニは現地調達だ。流れがあるので練り餌はつかったことがなく,似たようなものにうどんの切れっ端があった。成分はうどん粉だから昔使った練り餌と似たようなものだが,溶け出さず,長持ちするがその分魚を引き寄せる力が弱いのかあまり釣果はよくなかった。

 

牛若丸(2014.7.13)

明治44年,文部省唱歌

 「京の五条の橋の上」と始まる歌。牛若丸と弁慶の出会いを描いた歌である。

 この歌がよく知られていたからこそ『ぎなた読み』1)などという言葉ができたのであろう。

 『ぎなた読み』という語がいつできたのか知らないが,句読点のおきかたで意味がことなる文に関しては『ここではきものをぬげ』などかなり昔からあるのではなかろうか。

 ところで「京の五条の橋の上」というのは『東海の小島の磯の白砂』2)や「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」3)などと同じく「の」を使って広範囲の提示から順次限定を強めていく方法で,日本語の住所表記と同じである。日本語の特徴が出ているというべきだろう。

 そういえば,名詞を次々と「の」で繋いでいき,スタートの単語と全く関係ない単語へと導く子供の遊びがあった。

1) 「べんけいがなぎなたを・・・」:「が」の後ろで切るか「な」の後ろで切るかによって意味が変わる(解らなくなる)。このときの正しくない読み方。

2) 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」(明治43年,石川啄木:『一握の砂』)

3) 「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麿,『拾遺集』巻十三,恋三、題しらず)

 

浦島太郎(2013.6.4)

明治44年,文部省唱歌

 「昔々浦島は助けた亀につれられて」と始まる歌。お話を順を追って歌っていった歌で,絵本でも見ながら歌えば良く解るだろう。「帰ってみれば」のところで,海岸に蟹でも描かれていると「恐い蟹」1)のイメージが定着してしまうかもしれない。

 浦島太郎の物語はSF的に考えれば,亀というのはいわゆるUFOだろう。ガメラのような生物だとは思えない。高速移動に伴う相対論的効果で住んでいた村の時間経過と太郎の主感時間に差が生じたのだろう。

 乙姫様のご馳走とはどのようなものだったのだろうか。まさかタイやヒラメの刺身などはでていなかっただろうが,エビなどはでていたかもしれない。しかし,エビなら当然見たことはあるだろうが,太郎は絵にもかけないと感じているので,山の幸だったのだろうか。技術力から想像すれば,合成された食品である可能性も高い。

謎は乙姫様がくれた玉手箱だ。『Men in Black2)のピカッと光るアレのように,秘密を守るための手段だったのだろうか。問答無用で無理やり忘れさせるのではなく,約束が守れるかどうかを試したのかもしれない。玉手箱を開けなければ,新たな生活を築いていけるように。しかし,約束を守れないなら仕方がないということだろう。煙の正体は何か解らないが,この煙により一気に700年の時が経過してしまう。このような技術はあったが,乙姫様の技術力をもってしても,過去の記憶を消し,新生活に適応できるような新しい記憶を植えつけるということはできなかったので,急速に老いさせるということが,せめてもの情けだったのだろう。

1)      「此は如何に」

2)      Men in Black」(1997年の米国映画。Will Smithが出演し,主題歌も歌っている。)都合の悪いことを見られた場合,自分はサングラスをかけてこの装置をピカッと光らせると,自分以外は皆何があったのかを忘れてしまう。

 

案山子(2014.12.28)

明治44年,文部省唱歌

 「山田の中の一本足の案山子」と始まる歌。

 子供の頃はこの歌に出てくるようなそれこそ絵に描いたような案山子を見た。但し、さすがに蓑はつけていなかった。蓑笠が雨具として使われていたのはもっと昔のことだ。

 最近,このような案山子を見ることがない。住んでいるところも違うし,通勤通学で使う経路も全く異なるので地域差があるかもしれないが,やはり時代の差だろう。

 もともと案山子は何のために立てられていたのだろうか。田圃の被害を避けようというのはもちろん解るが,虫・鳥・獣・人のどれがターゲットだったのだろう。イナゴなどの虫に対して効果がありそうには思えない。また盗人も案山子は恐れないだろうから鳥・獣に対してのものだろう。子供の頃住んでいた地域には雀が多くいた。雀対策だったのだろうか。

 そういえば最近雀をみることが減っている。雀が少なくなったことが人型の案山子が減ったことと関係しているのだろうか。鳥の中で,最近見ることが多いのはカラスだ。カラスは人形には騙されないということなのだろうか。風で動くように紐でつるした大きな目玉のようなものやカラスの死骸も模したと思われる黒ビニールの束のようなものを見たこともある。畑に扇風機のようなものが設置されているのを見たこともあるが,あれは何なんだろう。

 人形と言えば,道路に警察官の制服を着た(ようなボディペインティングを施した)マネキンが立っていたこともある。廃車のようなパトカーが道路わきの空き地に放置?されていたこともある。三頭身の子供が道路に飛び出そうとしている看板を見ることもある。中には蛍光テープでベルトと・・・(名前がでない。タスキのようなもの。)だけを形どったものもある。これらは交通安全を目的として設置されているのだろうが,正式名称は何と言うのだろう。発見してドキッとするたびに心の中で『何だ,案山子か。』と思っているのだがあれを『案山子』と呼ぶのは差別語ではないかと後ろめたい気分になるので正式名称を知りたいのだ。・・・あちらこちら調べようという気になるほど知りたいわけではない。

 

かたつむり(2014.9.8)

明治44年,文部省唱歌

 「でんでんむしむしかたつむり」と始まる歌。

 でんでんむし,かたつむり,まいまいなど皆同じ動物らしい。エスカルゴも同類なのだろう。細かい分類は知らないが,なめくじや巻貝なども似て見える。

 子供の頃,カタツムリの実物を知ったのが早いのか,この歌を知ったのが早いのか記憶にないが,現在の私の中ではこの歌とカタツムリの実物は不可分の関係にある。実物を見ると,この歌を思い出すだけで,怖いと思うこともないし,気持ち悪いとも可愛いと思うこともない。もちろんおいしそうとも思わない。

もし,この歌を知らなければカタツムリを見ても何も感じないのではないか。

『始めに言葉ありき』1)とは,ある概念を認識するにはその概念を表す言葉が必要であるという意味だろう。カタツムリを見て,何かあることを認識し,それが動くのを発見して動物であることを認識する。言葉を知らなければ『見れども見えず』2)ということになるのだろう。単なる単語だけでなく,このような歌により対象の認識がよりはっきりできるようになる。

1)     『始めに言葉ありき』:新約聖書,ヨハネによる福音書,第1章。

2)     『見れども見えず』:大学。「心ここに在らざれば見れども見えず,聴けども聞けず,食らえどもその味を知らず」であり,本来は精神集中が重要であるとの教えである。

 

二宮金次郎(2015.1.15)

明治44年,文部省唱歌

 「柴刈り縄なひ草鞋をつくり」と始まる歌。

 二宮尊徳の幼少時代を唄った歌。二宮尊徳は江戸後期の農政家・思想家。

 子供の頃,貧しく,本を読む暇もなく,刈った柴を背負って歩くとき,歩きながら本を読むという姿が銅像や石像になり,大正末期から各小学校に次々と建てられたことから,誰もが知っていた。戦後は徐々に金次郎像がない小学校が増え,知名度が下がってきたのではないだろうか。

 二宮尊徳の思想としては『経済なき道徳は虚言であり,道徳なき経済は犯罪である』とか『働くとは傍(はた)を楽にすること』などを目にしたことがある。

 

人形(2015.2.5)

明治44年,文部省唱歌

 「わたしの人形はよい人形」と始まる歌。

 1番は容姿の特徴,2番は性格・態度の特徴を歌っているが,当時このような特徴が好ましいと思われていたのであろう。

 「目はぱっちり」が最初に出てくる。『目は口ほどにものを言う』とか『目は心の窓』などという言葉もあり,目は人の印象に強い影響を与える。少女マンガの主人公は大きな目をしていることが多いように思う。中には星(十字)が光っている場合もあるが,これは石森章太郎が発明したと聞いたことがある。本当か嘘かはしらないが,いずれにせよ昭和の時代のことであろう。

 そもそも平安・鎌倉の頃は引目鉤鼻で,目は一本の線で描かれていたので眼がぱっちりということはあまり重要視されていなかったのであろう。喜多川歌麿だと私の印象では切れ長の目が多いように思う。東洲斎写楽だともう少し目が大きい印象があるが,それでもドングリ眼ではない。

 大きな目の印象が良くなったのは文明開化以降だろう。褒め言葉であろうと思われるアーモンドの瞳(実は瞳ではなく目の形を形容していると思う)に入っているアーモンドがカタカナで書かれていることからも鎖国時代の言葉ではないだろう。現代では大きな目が好まれる傾向にあるようで,目を大きく見せる系の化粧が多いように感じる。

この歌の人形は舶来の目にガラス玉を入れたような人形ではなかろうか。ドングリ眼である。日本人形の目は細いのが多いように思う。

次は「いろじろ」だ。『色の白いは七難隠す』と言うが,昔からおしろいなどというものがあり,白い肌が好まれていたのだろう。一つには戸外で労働する女性はどうしても日焼けする。これに対して『深窓の令嬢』というか,いわゆる『箱入り娘』は日焼けする機会が少なかったのであろう。昔は階級社会でもあり,『いろじろ』は上位の階級のメンバーであることを示していたのではないだろうか。しかし,病気(主に結核)のせいで色白という場合もあった。この方面から『美人薄命』といわれるようになったにちがいない。現代では肌が白ければそれだけでよいという認識は薄れてきた。わざわざ濃い色のメイクをする場合もある。

三番目の特徴は「ちいさい口もとあいらしい」だ。確かに昔の人形の口は小さかった。しかし、現代は必ずしも口元を小さく見せようとするばかりではない。好みが多様化してきているのだろう。

2番の歌詞の性格は「歌をうたえばねんねして ひとりでおいても泣きません」だ。これは人形だから当然だが,当時も今も育児に手がかかることは同じということだろう。

最近の人形は精巧なフィギュアからユルキャラの人形のように好みが多様化している。

 

(2015.2.14)

明治44年,文部省唱歌

 「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ」と始まる歌。「豆がほしいか そらやるぞ」と続くので鳩が豆をたべるということをこの歌で知ったのだろう。

 子供の頃,近所には野生の鳩はいなかった。伝書鳩を飼っていた家が少し離れたところにあったが,知らない人の家だし,どんな餌をやっているのか知らなかった。

 子供の頃,家にはカナリアがいたが,何を食べているのか知らなかった。単にカナリアの餌と言っていた。穀物は稲は解ったが,麦になると何麦か区別がつかず,粟や稗など全く区別がつかなかった(今でも)。小さな実だったが,インターネットで調べるとカナリアは粟をほとんど食べないとのことなので,稗だったのかも知れない。インターネットには菜種を必ずやるように書いてあり,菜種をやらないと栄養失調になるとある。しかしやっていた餌の中に菜種があった記憶がない。雛が孵るほどの期間は生きていたが,間もなく死んでしまった。栄養失調だったのかも知れないと今思うと,無知ゆえにかわいそうなことをしたと思う。現在はインターネットでこの程度の情報なら簡単に入手できるのだが。

 鳩と言えば鎌倉の『鳩サブレ―』を思い出す。鳥の形のお菓子は珍しいと思ったが,各種の『ひよこ』も鳥の形をしている。もっと幼くても良ければ『鶴乃子』や『かもめの玉子』などもある。調理したままの形状あるいは幾何学的形状でないお菓子は日本文化のひとつではないかと思う。

 ところで,私は知らないが,『鳩ぽっぽ』(明治33年,詞:東くめ,曲:滝廉太郎)という全く別の歌があるらしい。

 

日の丸の旗(2015.2.28)

明治44年,詞:高野辰之,曲:岡野貞一

 「白地に赤く 日の丸染めて」と始まる歌。

 子供の頃は祭日には各家で国旗を玄関先に出していた。いつごろからか国旗は軽んじられるようになり,旗日というのも死語になった。

 旭日旗に似た旗を社旗としている新聞社などが,公的会合等で日章旗をもっと積極的に使うように啓蒙活動をしたらいいのではないだろうか。

 この歌から,日章旗を思い浮かべるのはもちろんだが,もうひとつ思い浮かぶのが日の丸弁当だ。白米だけの弁当箱の中央に梅干しだけがある。

 私が子供の頃は,米は配給制だったので米作農家のことは知らないが,白米のご飯というのは贅沢品だった。芋ごはん,豆ごはん,栗ごはんなど,米以外のものを炊き込んだご飯は白米が足りないので量増やしで混ぜ物をしているという感覚だった。麦を混ぜて炊くのも今のように健康志向ではなく,やむを得ずだった。粉ものも『すいとん』をはじめとして代用食の印象だった。銀シャリは高級品だったのだ。

 今でも梅干しのおにぎりは一般的だから,その弁当版である日の丸弁当はそれなりの品質と考えられていたと思う。

 

歩兵の本領(2015.2.21)

明治44年,詞:加藤明勝,曲:永井建子

 「万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は隅田に嵐吹く」と始まる歌。歌詞は後に「花は吉野に嵐吹く」と変えられた。他の部分も少しづつ変えられた箇所があるようだ。私が知っているのは新しいほうの歌詞だ。

 「襟の色」というのは兵科を表す襟章の色(歩兵は緋色)を指すのだろう。桜にしてはやや色が濃い。歌詞は小説や映画での日清・日露戦争と重ねて聞くとイメージが湧くが,時代を共に生きていないので強い感慨はない。日清・日露の時代はこの歌はまだなかったので,これらの映画にも出て来ない。

 曲は陸軍軍楽隊長の永井建子が明治32年に作曲した『小楠公』が原曲だそうである。七五調の詞に合うので,同じメロディーでいくつかの詞が唄われている。特に有名なのはメーデー歌として知られている『聞け万国の労働者』1)だろう。私が通った高校の応援歌にもこのメロディーを借りたものがあったので曲には馴染がある。

1)「聞け万国の労働者」(大正9年,詞:大場勇,曲:永井建子)

 

紅葉(2012.7.31)

明治44年,文部省唱歌

 「秋の夕日に照る山紅葉」。美しい日本の秋を歌った名曲だと思う。

 美しいものは誰が見ても美しいかというとそうではない。美を発見する人がいてそれに賛同する人がいる。多くの人が美しいと感じるようになり社会の美が規定される。

 痩せた女性と太った女性,どちらを美しいと感じるかは文化によるのだ。

 日本の秋の紅葉は美しい。子孫にもこの美しい紅葉を美しいと感じる心が引き継がれて欲しいし,それに値する自然と共にこの歌も引き継ぎたい。

 

桃太郎(2014.12.8)

明治44年,詞:不明,曲:岡野貞一,文部省唱歌

 「桃太郎さん桃太郎さん お腰につけた黍団子」と始まる歌。

 おとぎ話の桃太郎を歌にしたもの。勧善懲悪の話のようであるが,鬼の悪事が具体的に示されておらず,単に力は正義であるという話なのかも知れない。

 昔から知られたおとぎ話で数多くのバージョンがあるらしい。中には鬼の視点から記述した物語もあるのかも知れないが,この歌は桃太郎が宝を持ち帰り万々歳と終わっている。

 

(2013.12.21)

明治44年,文部省唱歌

 「雪やこんこ霰やこんこ」と始まる歌。

 「こんこ」というのは今は使わないだろう。昔も使ったのだろうか。似たようなことを考える人はいるようで,インターネットで検索してみると「来此」が語源だとの説を発見した。雪よこちらへ来いという意味だとの説だ。しかし,現に「降っても降っても」降り続いているようだから,わざわざ呼ぶことも無いだろう。しかし,擬声語・擬態語の類ならこんこんと重ねるのではないか。そもそも,霰ならば降り始めに,当たり所によってはこんこんと音がするかも知れないが,積もっているのだから音はしないだろう。それにこんこんには狐の鳴き声という用法が確立しており雪が降る様子を表すには不適切だ。

 Wikipediaを見たら「来む来む」から「こんこん」になったという説も載っていた。

「山も野原も綿帽子かぶり」とあるが綿帽子というのは和装の花嫁が文金高島田を結った頭に被る帽子である。角隠しと同様な使い方らしいが,綿帽子は白無垢のときに使い,披露宴では外すらしい。角隠しは色打掛のときに使われ,帽子ではなく髪飾りの一種のようだ。つまり,被るのではなく,髪に止めるらしい。

犬も喜ぶほどだから,この詞は雪国の詞ではないだろう。珍しく雪が降って積もってきたことを喜ぶ歌なのであろう。

 

汽車(2013.12.10)

明治45年,曲:大和田愛羅,文部省唱歌

 「今は山中 今は浜」と始まる歌。

 汽車の歌は何曲か知っているが,汽車のスピードに対する驚きと興奮が最も伝わってくる歌がこの歌だ。汽車の登場以前は,最も早い移動手段は馬を疾駆することだっただろう。しかしそのような経験を持つ人間は少数に違いない。そのような経験が無い者が汽車に乗ったときの興奮だ。恐らく,私が初めて新幹線に乗ったときよりもずっと興奮しただろう。

 この時代の人は汽車を見たり,乗ったりして興奮し,感激した。ある意味では幸せな時代を生きたのだろう。私も子供の頃,初めてテレビを観て興奮した。初めてパソコンを買ったときにも興奮した。今の若い人々は何を見ると驚くのだろうか。その驚きは昔の人が始めて汽車を見たときの驚きと同じだろうか。

 

茶摘(2014.4.19)

明治45年,文部省唱歌

 「夏も近づく八十八夜」と始まる歌。

 八十八夜のころの茶畑の景色を歌った歌。二人で向かい合って,この歌を歌いながら互いに掌を打ち合う遊びがあった。詳細は忘れたが,リズムに合わせて左右の掌を交互に打ち合うだけの単純な動作(2フレーズ毎に別な動作が入る)だと思い,やってみたら思い出すかと思ってやってみようと思ったら,左右を交互に出すだけの単純な動作が上手くできない。このような動作もボケ防止に有効かもしれない。

 自宅から少し行くと一面の茶畑がある。最近の農作業の様子ではさすがに「あかねだすきに菅の笠」ではないようだ。

 

冬の夜(2012.7.20)

明治45年,文部省唱歌

 「燈火ちかく衣縫ふ母は」「ともしびちかくきぬぬうははは」と読む。(蛇足か。)

 2番の歌詞「過ぎし戦の手柄を語る」は先の大戦後「過ぎし昔の思い出語る」と変えられた。子供が「眠さを忘れ」「拳を握る」ほど興奮する思い出ということだ。

 両親は夜なべ仕事に精を出す。厳しい寒さを避けるため,火の気のある囲炉裏の周りに皆が集まってくる。親は手を動かしながら子供にいろんな話をする。これが本当の一家団欒だろう。

 物質文明の進歩によってこのような精神生活が失われてしまった。肉体的には楽になり,容易に他の楽しみが享受できるようになったが,より幸せになったと言えるのだろうか。ほんの100年くらい前のことだが今からこのような生活に戻ることはできないだろう。せめて学校でこのような歌を教えて昔の事情を知るのが良いのではないか。

 

都ぞ弥生(2014.7.6)

明治45年,詞:横山芳介,曲:赤木顕次

 「都ぞ弥生の雲紫に」と始まる歌。北海道帝国大学予科の寮歌である。

 若いころよく飲みに行った店に,おば(ぁ)さんの常連客がいた。皆は先生と呼びかけていた。その先生が酔っぱらうとこの歌をよく唄っていた。カラオケは8トラックテープもない時代だったと思う。EP盤レコードを詰めたジュークボックスが置いてあるスタンドバーなどがあった時代である。

この先生の話が聞こえていて,一度戦争の話題になったとき,それが日露戦争の話だったので驚いたことがある。

この歌は行進や硬派青年のハイキングのときに唄えそうだが,もっとゆっくり抒情的に唄われることもあるようだ。風雪を耐えてきただけのことはある歌である。

 

村祭(2013.5.24)

明治45年,文部省唱歌

 「村の鎮守の神様の」と始まる歌。「どんどんひゃららどんひゃらら」という歌だ。

 転勤族の子供だったので,鎮守の神様の氏子だったわけではないから神事や祭に直接関係したことはないが,単なる見物人としては祭にはよく行った。

神社に一番近く住んでいたときは,1軒おいて隣が神社だった。家の前に道があり,道路を挟んで地元商工会の会館があり,その隣が神社だった。この神社はちいさな神社だったが,祭はかなり大きな祭りだ。他府県からもかなりの客が来る。露天が沢山でて,もちろん必ず行った。「どんどんひゃらら」というような記憶は全くない。今から思えば,なけなしの小使いを無駄に費やしたとも思えるが,当時はそれが楽しかったのだ。

小学校の学区内にはいくつか神社があり,小学校の近くにも神社があったが,そこの祭はあまり記憶がない。一時珠算をならっており,その珠算教室(当時はそろばん屋と呼んでいた)へ行くにはその神社の前を通って行ったのだから,その付近は馴染みがあったのだが,なぜか祭の記憶がない。その神社では遊んだ記憶もない。

学区内にはもう一つ,祭には大抵行っていた神社がある。これは自宅から学校へ行く方向とは90度ほど異なる方向に行って,学区の外れ近くにあった。この神社の祭は何回も行ったはずなのだが,どんな祭だったのか記憶がない。でも,自宅の前の祭はいつもの服で行っていたが,この神社には浴衣で行ったような記憶がある。

あとは市内の神社だが,市内には大きな神社が3社あった。基本的にはこのうちの1社の祭礼と市の祭りが同日に開催されているのだろう。大入道,鯨舟などの山車がでて,その他(その他でくくるのは申し訳ないが)いくつかのこの祭定番の名物?がある。この祭に行くには普通ならバスか電車で行くことになるのだが,歩いていくこともできる距離だった。ただ,中学の学区も異なる地域で,子供の頃一人で学区外にでることはなく,ましてやより広い中学の学区で異なる学区といえば別世界だった。

初詣はこの市内のおおきな三社に行った。小学生のころ,近くのお寺の境内では良く遊んだが,このお寺では大勢の人が集まる特別な祭はなかったと思う。

後に自家用車に乗るようになると,初詣などは更に遠くの神社に行くようになった。

「鎮守の神様」と聞くと,家の近くの神社を思い,そこの祭では「どんどんひゃらら」は聞こえない。「ドンドドン ドンドドン ドンドドンドン」と聞こえてくるのは市の祭だった。私が原始的なのかもしれないが,和太鼓の音を聞くと血が騒ぐ。