明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和31年〜
昭和31年 あゝ田原坂,哀愁の街に霧が降る,哀愁列車,愛ちゃんはお嫁に,浮き草の宿,沖縄を返せ,男涙の子守唄,男のブルース,お花ちゃん,おばこ船頭さん,かあさんの歌,狂った果実〔夏の陽を浴びて〕,ケ・セラ・セラ<Que Sera Sera>,ここに幸あり,御存知赤城山,さよなら港[錨をあげて],少年探偵団,十九の春[好ちゃいけない],スイスの娘<SHE TAUGHT ME HOW TO
YODEL>,好きだった,東京の人,東京の人さようなら,どうせ拾った恋だもの,納豆うりの唄,鳴門ちどり,ハウンド・ドッグ<Hound Dog>,波止場だよお父つぁん,ハートブレイク・ホテル<Heart Break Hotel>,母恋吹雪,早く帰ってコ,ビー・バップ・ア・ルーラ<Be Bop a Lula>,風雲黒潮丸,娘巡礼,やさしく愛して<Love Me Tender>,ラヴ・ミー・テンダー<Love Me Tender>,ラジオ体操の歌,リンゴ村から,若いお巡りさん,別れの波止場,Be Bop a Lula,Heart Break Hotel,Hound Dog,,Love Me Tender,Que
Sera Sera,Whatever
Will Be Will Be<Que Sera Sera>
昭和32年 逢いたいなァあの人に,赤胴鈴之助の歌,嵐を呼ぶ男,アンコなぜ泣く,あン時ゃどしゃ降り,13,800円,一丁目一番地,一本刀土俵入り[角力名のりを],俺ら炭坑夫,おさげと花と地蔵さんと,おさらば東京,お月さん今晩は,踊子〔さよならも言えず〕,俺は待ってるぜ,柿の木坂の家,監獄ロック<Jailhouse Rock>,錆びたナイフ,新四日市音頭,十九の浮草,十代の恋よさようなら,青春サイクリング,ダイアナ<Diana>,ちいさい秋みつけた,チャンチキおけさ,東京午前三時,東京だョおっかさん,東京のバスガール,トゥナイト<Tonight>,永遠に答えず,母の便り,バナナ・ボート,船方さんよ,港町十三番地,未練の波止場,メケ・メケ,有楽町で逢いましょう,雪の渡り鳥,夢見る乙女,夜霧の第二国道,喜びも悲しみも幾年月,リンゴ花咲く故郷へ,忘れ得ぬ人,Diana,Jailhouse Rock,Tonight
あゝ田原坂(2016.3.17)
昭和31年,詞:高橋掬太郎,曲:山口俊郎,唄:三橋美智也
「雨は降る降る人馬は進む」と始まる歌。
田原坂は西南戦争の激戦地である。この地で官軍が使用した小銃弾は1日平均32万発だとか。空中で銃弾同士が正面衝突して一体となった弾も発見されているらしい。それだけの高密度で弾丸が飛び交ったということだ。
「我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし桜島山」と平野国臣の歌が入るが,平野は幕末の福岡藩士で西南戦争と直接の関係はない。禁門の変の際,処分未決の状態で獄舎につながれていたが,京の火災が獄舎に迫り,囚人脱走を恐れた京都所司代配下の役人が,囚人を急遽処刑した際に斬首された。
平野は西郷が月照と入水した際,同じ舟に乗っていた。西郷が先に薩摩に入り,安政の大獄で追われていた月照をかくまうよう要請していたところに月照を連れて行ったのが平野だ。結局,薩摩を追いだされ,陸路では途中で斬られる恐れがあり,舟で薩摩を離れる途中で前途に絶望して月照と西郷は入水し,西郷だけが生き残ったのだ。島津斉彬が急死した際,殉死しようとした西郷を止めたのが月照だった。
平野のこの和歌がこの歌の一部に採用されたのは,この和歌が西郷軍の思いに合っていると作詞者が感じたのだろうし,西郷と平野の関係も頭のなかにあっただろう。
「田原坂」という熊本県民謡(日露戦争当時につくられた?)があるが,この曲はこの民謡の音階を換えた曲のように感じる。短調を長調に換えたというか日本音階を西洋音階に換えたというか,私には十分な知識がなく分析はできないが違和感がある。おそらく,作曲の際に民謡の雰囲気を一部取り入れようということでこのような曲になったのだろうと想像するが,全く新しい曲にしたほうが良かったのではないか。そういえば歌詞も民謡「田原坂」に似ているが,民謡に比べて歌詞が長い分,饒舌になりすぎている気がする。
哀愁の街に霧が降る(2013.7.3)
昭和31年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:山田真二
「日暮れが青い灯つけてゆく」とはじまる唄。はっきりと記憶に残っているのは最後の「ああ哀愁の街に霧が降る」という箇所だけだから,あまり聴かなかったのだろう。昭和41年に久保浩が唄っているので,恐らく私はこの久保浩の唄を聴いたのだろう。
山田真二の時代には私は幼すぎた。久保浩の時代にはもっと成長していたが,歌詞のような都会に居なかったからか,あまり共感も湧かず,かといって憧れるような描写もない。哀愁を感じるには良いかもしれないが,この詞からは,花売り娘がいるのだから盛り場なのだろうが,私は都会のオフィスビル街の無機質な淋しい様子を想像してしまう。
私はすこし歩けば「うさぎおひしかのやまこぶなつりしかのかわ」1)という感じのところに住んでいたし,街にでるといっても,屋台が立ち並ぶ繁華街だった。めったに都会にでない若者にとって都会は興奮の場所であり,哀愁を感じる場所は山や海だった。
1) 「故郷」(大正3年,詞:高野辰之,曲:岡野貞一,尋常小学唱歌)
哀愁列車(2013.1.5)
昭和31年,詞:横井弘,曲:鎌多俊与,唄:三橋美智也
「惚れて惚れて惚れていながら行くおれに」と始まる歌。
三橋美智也の歌は最初から高音でパワー全開で始まる歌が多いような気がするのだが,この歌もその一つである。最後の「あいしゅう〜ぅうれぇっしゃぁ〜」というところなども三橋美智也らしくて良い。
恋人との駅での別れである。当時,遠くへ行くにはほとんど汽車,海があれば船で行くしかなかった。今のように新幹線や特急列車でどこへでもいける時代ではない。運賃もかかるし時間もかかる。電話連絡もままならない。駅で別れたら二度と会えない可能性も高かった。しかし列車の窓は開いたし,デッキで別れを惜しむこともできた。別れにも風情があった。
この年のメルボルンオリンピックでハンガリー対ソ連の水球の試合は乱闘の結果流血騒ぎとなった。オリンピック開始直前にソ連軍がハンガリーに侵攻したことが原因であろう。試合開始早々から殴る蹴るの応酬で,最後には流血となったものである。ハンガリーはこのとき水球で金メダルを取った。
昭和43年のメキシコオリンピックでは陸上トラックのメダリストが表彰式で人種差別に抗議して黒手袋の拳を掲げて選手村から追放された。
オリンピックに政治の影はある。選手にもIOCにも。理想と現実は異なるが理想に向かって歩み続けることが必要だろう。
愛ちゃんはお嫁に(2011.11.18)
昭和31年,詞:原俊雄,曲:村沢良介,唄:鈴木三重子
「さようならさようなら今日限り」という歌で,歌詞に「愛ちゃんは太郎の嫁になる」というのが2回出てくる。2回目に出てきて終らなければならないところでもう一度「おいらの心をしりながら」と続き,何時までたっても終らない歌だと思っていた。その後,曲は違うが「この歌終んないね」というCMが流れるのを聴くとこの歌を思い出していた。
小学生の頃「いんしゃん」(だったと思う)というゲームをよくやった。標準語で何というのか調べようと思いネット検索したがそれらしいのはみつからなかった。ひとつだけ「いんさん」というゲームがあった。これが似ているがちょっと違う。
地面に「日」の字型または「田」の字型のコートを描き,ボール1個を手で打ち合うゲームである。「日」の字型の場合はほぼ正方形の陣に一人,計2名が互いに軟庭のボールのようなものを打ち合う。自陣でワンバウンドさせた後,相手の陣に入れる。入れられたらノーバウンドまたはワンバウンドで相手陣に打ち返す。打ち返すときもまず自陣でワンバウンドさせる。ネットはない。4人でプレイするときは「田」の字型のコートを使い,どの相手に打ち込んでも良い。コートといってもほんの数歩の大きさなのでコート内を走り回るわけではない。大抵は一歩踏み出せば打てる。
ネットで発見した「いんさん」はドッチボールなどを使うように書いてあったのでこれは我々がやっていたのとはかなり違う。また,コートには「王,大,中,小」と名前がついていて・・・との記述があったがわれわれのところでは「元,大,中,小」だったような気がする。ネットには他の地域にも同様な遊びがあるようなことが書いてあった。
浮き草の宿(2019.12.23)
昭和31年,詞:服部鋭夫,曲:江口夜詩,唄:春日八郎
「汽笛が聞こえる 港の酒場は」と始まる歌。
「ねえさんあけなよ おいらも飲むぜ」とは言っているが常連客ではなさそうだ。「一夜(ひとよ)さ明けりゃ さよならあばよ マドロス暮らしは せつないものさ」と明日は出港かもしれない。
「港」「酒場」「マドロス」などは当時の流行歌の定番単語だった。
沖縄を返せ(2013.11.27)
昭和31年,詞:全司法福岡高裁支部,曲:荒木栄
「固き土を破りて民族の怒りに燃える島沖縄よ」と始まる歌。最後は「沖縄を返せ沖縄を返せ」と終わる。
第二次世界大戦末期,米軍は激戦の末沖縄を占領した。昭和27年,サンフランシスコ講和条約により連合国の多くと日本の間の戦争状態は集結したが,アメリカは沖縄に琉球政府を創設して軍政を敷いた。昭和47年に琉球の施政権は日本に返還され,沖縄県となった。
沖縄の歴史に関して議論することは私には知識も力も不足しているし,県民がどのように考えていたかも解らない。しかし昭和44年,米国ニクソン大統領が佐藤栄作首相に沖縄返還を約束するまで,学生の集会でもこの歌はしばしば唄われた。
作詞者は考えをそのまま言葉にしたように思われる。論理的に考え,結果をはっきり言わないと相手に意図が伝わらないということなのだろう。同列にある歌として原爆反対の「原爆を許すまじ」1)がある。しかし私には原爆反対の気持ちは「長崎の鐘」2)のほうがより強く感じる。
要求と願いの違いかもしれない。考えと思いの違いだろう。
1) 「原爆を許すまじ」(昭和28年,詞:浅田石二,曲:木下航二)
2) 「長崎の鐘」(昭和24年,詞:サトウ・ハチロー,曲:古関裕而,唄:藤山一郎)
男涙の子守唄(2019.9.19)
昭和31年,詞:高橋掬太郎,曲:細川潤一,唄:三橋美智也
「木枯らし寒く 夜は更けて 月はさゆれど 身は悲し」と始まる歌。
「斯身(このみ)飢(うゅ)れば斯児(このこ)育(そだ)たず」と詩吟『棄児行』が入る。詩では「斯児」を「捨つるが是か捨ざるが非か」と迷っているかような振りをしているが,文字は捨てざるを得ないと考えていることを示している。
嬰児を残して母親に死なれた父親はなすすべもない。当時は既に粉ミルクは開発されていたが,まだまだ母乳の時代だった。砒素ミルク事件が起きたのが昭和30年だ。「貰い乳」も簡単ではない。詞や曲の様子,挿入されている詩吟などからも,子守唄など唄ったことが無い,困り果てた武骨な父親の様子が見えるようだ。
歌われている時代は当時の話なのだろうか。子連れ狼の時代ならもっと大変だったかもしれない。
男のブルース(2013.5.3)
昭和31年,詞:藤間哲郎,曲:山口俊郎,唄:三船浩
「ネオンはまちに眩しかろうと」始まる歌。「男ならばと こらえちゃみたが」とあり,「恋の痛手」を「はしご酒」で晴らそうという歌だ。このころ,好んで聴いていた記憶は全くないが聞き覚えており,ラジオなどで何度も流れていたのだろう。
三船浩はフランク永井と共に低音部に特徴がある歌手だった。歌の上手・下手に関する私の基準このころまでに完成したのだろう。昭和30年代後半からは,私の基準で上手とは言えない歌手が次々と現れた。これらの新しい歌手も,なんという歌だと思っているうちに聴きなれると下手だとは感じなくなってしまったのだが。
子供の頃,北九州に住んでおり,住んでいる付近でプロ野球というと西鉄ライオンズだった。その西鉄が初めて日本一になったのがこの年である。このとき稲尾和久は日本シリーズの全6試合に登板している。稲尾は昭和33年の日本シリーズでも3連敗後の4連勝に大きく寄与し,「神様仏様稲尾様」と言われた。なにしろ7試合中5試合に先発登板,第5戦はリリーフ登板だったが自身でサヨナラ本塁打を打っている。第6戦,第7戦とも完投勝利だ。稲尾は3年連続30勝している。
お花ちゃん(2014.5.8)
昭和31年,詞:矢野亮,曲:吉田矢健治,唄:三橋美智也/斎藤京子
「名残惜しいはお互いさ」と始まる。1番から4番まで全て「あーぁすっかだなかんべさ」と終わる。
東北の三男坊が,地元では職がないのだろう,お花ちゃんと別れて東京へ出て行く歌。歌詞からは大学生になるのかも知れないが,当時の大学進学率は極めて低かったので,何も記述がないということは就職に違いない。
「今度帰って来たときにゃ お前は俺らの花嫁御」という関係だが,お花ちゃんは,東京は「きれいな女子が多いとこ」と心配している。遠距離恋愛になるのだが,今度帰るというのはいつのことかも判らない。電話を掛けることなど思いもよらないだろうから,その間は手紙しか連絡の手段がない。お花ちゃんが心配するのは当然だろう。「涙は門出に不吉だよ」と言ってもお花ちゃんは泣いている。「泣いたって泣いたって あーぁすっかだなかんべさ」という歌だ。
鉄道の駅での見送りかと思えば,「馬車コがトテトテ急かすから」と,駅までは馬車で行くようだ。そのような時代だったのだ。
当時は中学を卒業すると都会に出て就職する人が沢山いた。中学を卒業したところだとすれば15歳,昭和16年生まれだ。お花ちゃんのような相手がいるとすれば18歳くらいかも知れない。このような人が必死に働き,高度経済成長を達成したのだ。
おばこ船頭さん(2024.2.6)
昭和31年,詞:吉川静夫,曲:吉田正,唄:野村雪子
「おばこナー おばこ船頭さんは十三 七つ」と始まる。
「あやめ咲くころ お嫁入り」なのだが「なにが哀しゅうてヨ」と続き,「月の夜船の かげで泣く」ということらしい。何となく事情は想像できるが,最後には「おばこ船頭さんは うす紅つけて 誰にしのんで 逢いに行く」とあるので,やっぱりそんな事情があったかということになる。当時は当事者たちの思いどおりにならないことが多かった。
かあさんの歌(2014.3.27)
昭和31年,詞:窪田聡,曲:窪田聡
「かあさんが夜なべをして」と始まる歌。
「夜なべ」などという言葉は死語ではないだろうか。母親は「麻糸つむぐ」,父親は「わら打ち仕事」というのだから,農家なのだろう。「せめてラジオ聞かせたい」というのは少し時代的に違う気がしないでもない,実際,本当の田舎はどうだったか知らないが,町屋ではラジオはかなり普及していた。昭和27年から放送されたラジオドラマ『君の名は』を聴くために放送時間には銭湯が空になるほどだったという話もある。
「あかぎれ」に「生みそをすりこむ」というのは本当にあったのだろうか。『ひび』,「あかぎれ」,『しもやけ』などは珍しくなかったが,手近にあればワセリンを塗っていたことはある。
いずれにせよ,洗濯機・掃除機・炊飯器などが夢の家電だった時代である。もちろん世の中に電気冷蔵庫はあったが,家庭には氷を入れて冷やす冷蔵庫があればよいほうだった。主婦の家事は大変だったが,農作業も耕運機などの利用が広がる前で,牛馬の力を利用していた次代だろう。そのような時代でも母親は時間を作って「手袋編んでくれた」のだ。
狂った果実(2018.8.29)
昭和31年,詞:石原慎太郎,曲:佐藤勝,唄:石原裕次郎
「夏の陽を浴びて 潮風に揺れる花々よ」と始まる歌。
『太陽の季節』で映画デビューした石原裕次郎の初主演映画「狂った果実」の主題歌。相手役は北原三枝。津川雅彦が裕次郎の弟役で出演している。
当時の私はこのような映画を観るにはまだ子供過ぎたが,床屋に置いてある雑誌で北原三枝の写真などは見ていた。太陽族という言葉は聞いたことがあったかも知れないが,意味は理解していなかった。
曲はハワイアン風だが,当時ハワイが憧れの的だったのだろう。
後になっての私の想像だが,太陽族という言葉にはハワイアンよりロックンロールのほうが似合いそうな気がする。しかし,太陽族という言葉は湘南海岸などと強く結びついているようなので,時代を無視すれば,同じハワイでもダイアモンドヘッド1)のほうが私のイメージに近い。
当時の私の憧れといえば鞍馬天狗2)などだった。朝潮,鏡里,千代の山3)であり,中西,稲尾4)だった。
1)「Diamond Head」(昭和39年,曲:Danny Hamilton,演奏:The Ventures)
2)チャンバラ映画の主人公のひとり。
3)3人は大相撲の横綱。
4)二人はプロ野球パリーグ西鉄ライオンズの選手。少し前に福岡から三重へ引っ越したのだが,福岡では周囲は皆西鉄ファンだったのに,三重では皆セリーグ球団のファンでパリーグの話をする相手がいなくなってしまった。
ここに幸あり(2012.11.8)
昭和31年,詞:高橋掬太郎,曲:飯田三郎,唄:大津美子
「嵐も吹けば雨も降る」と始まる歌。映画の主題歌らしい。
子供の頃,大津美子が歌うのをテレビで見て,オバサンだと思っていたが,当時18才だったらしい。ドレスで正統的な歌唱の大津美子は小学生にはかなり大人に見えていたのだろう。結婚披露宴でかなり唄われたらしいが,私が出席した披露宴で唄われた記憶がない。「君をたよりに私は生きる」などという歌詞が従属する良妻賢母を想起させ嫌われたのかもしれない。
わたし自身は何度もこの歌を聞いて知ってはいるが,歌詞に対する感想を持つには幼すぎたようだ。歌唱法もあまりにも正統的でインパクトを感じなかった。
この年,日本の国連加盟が総会で承認された。
御存知赤城山(2016.6.22)
昭和31年,詞:矢野亮,曲:中野忠晴,唄:三橋美智也
「月に泣くのは はぐれた雁か」と始まる歌。
もちろん,タイトルから判るように国定忠治の歌なのだが,聞き手が忠治の話を知っていることを前提にして詞が書かれているようだ。もちろん当時の人は皆知っていたのだろう。
新国劇1)など観たこともないのだが,島田正吾2)の声色3)(声帯模写になっていたかもしれない)など何度も聞いたことがある。宴会(当時の私は幼なかったので直接は関係なかったが)で余興を強要されることもあり,そのような場合に備えてのハウツー本が売られており,その手の本にはガマの油やバナナのたたき売りの口上4)などに混じって国定忠治の台詞は必ずといってよいほど入っていた。
もっと後だと思うが,海苔の佃煮のテレビCMにこのパロディが使われていた。三木のり平がモデルだと思われるアニメーションCFだが,多くの人が知っていたからこそ成り立ったCMだろう。
もっとも国定忠治があからさまに登場するわけではないが,この話に関しては東海林太郎の有名な歌5),6)があり,三橋美智也とはいえこれらの歌を超えることはできなかったと感じている。
国定忠治の子分の一人板割浅太郎は忠治への忠誠を示すために叔父である目明し三室の勘助を切った。子守唄の子供は勘助の息子勘太郎であることは当時誰もが知っていただろう。
1)澤田正二郎らが結成した劇団。代表的演目の一つに「国定忠治」がある。
2)辰巳柳太郎と並ぶ新国劇のスター。
3)こわいろ。ものまねの一種で,俳優の台詞の物真似。台詞に限らず,声(鳥なども含む)の真似を声帯模写,動作等の真似を形態模写と呼んだ。
4)啖呵売は寅さん(車寅次郎)が生まれるずっと前からあった。
5)「名月赤城山」(昭和14年,詞:矢島寵児,曲:菊池博,唄:東海林太郎)
6)「赤城の子守唄」(昭和9年,詞:佐藤惣之助,曲:竹岡信幸,唄:東海林太郎)
さよなら港(2020.2.14)
昭和31年,詞:豊田一雄,曲:豊田一雄,唄:藤島桓夫
「錨をあげて 船は離れて行くよ」と始まる歌。
「半年すぎてまた来る日まで」と言っているので「船は行く船は行く さよなら港」とは言っているが,しばしの別れで『行ってくるよ』あるいは『行ってきます』という感覚だ。
戻った時には現金収入でもあるのだろうと思わせるほど「さよなら」と言ってはいても歌自体が明るいし,藤島の歌声も明るい。
少年探偵団(2015.7.2)
昭和31年,詞:壇上文雄,曲:白木義信,唄:ひばり児童合唱団
「ぼ・ぼ・僕らは少年探偵団」と始まる歌。
「少年探偵団」の団長は小林少年で,名探偵明智小五郎を助け怪人二十面相と対決する江戸川乱歩の子供向けシリーズ小説。映画,ラジオドラマ,テレビドラマなどになっている。連続ラジオドラマは昭和31年からニッポン放送で放送された。
毎日聴いた記憶がない。しかし,唄はよく知っている。日々の遊びに取り入れることができる要素が少なかったからではなかろうか。
少年向け雑誌の付録に『探偵手帳』などがついていたことはある。変装のしかたや尾行での注意,木の切り株の年輪の真円からのずれから方角を知る方法,モールス信号などが書いてあったように思うが,一部『忍術の巻物』などと混同しているかもしれない。このような付録はあったがこれらは自宅で読んで『なるほど』と思うだけで,友達と探偵ごっこをして遊ぶことはなかった。
チャンバラはよくやったので,当時は時代劇の方が身近だった。鞍馬天狗や白頭巾,紫頭巾のような頭巾ものは風呂敷一枚でなりきれるので人気があった。玩具刀を持っている子供もいたが,普通は木の棒が刀だった。まれに新聞紙を棒状に丸めた刀も使ったが,当時は新聞紙は多用途な貴重な資源だったので子供の遊びに多くを消費することはできなかった。
十九の春(2025.3.14)
昭和31年,詞:吉川静夫,曲:清水保雄,唄:神楽坂浮子
「好いちゃいけない 好かれない ただあきらめる 恋もある」と始まる。
「忘れるだけが 倖せと おしえてくれた 知らされた」というのがこの時代の女性が生きた環境ということだろうか。
憲法24条1)はあったが,まだ,家同士の縁組という意識が強く,当事者二人だけの意向だけではどうにもならない場合が少なくなかった。
ところで,千姫は7歳で秀頼に嫁している。江戸時代の物語に美しい女性を登場させる場合の常套句として『としは二八か二九からず』というのがあった。16歳から18歳の女性が美しいという認識が一般的だった。20歳を過ぎると年増というわけだ。もちろん年齢は数えである。昭和でもこのころまでは19歳というのが歌にもよく出てきていた。戦後,急速に平均余命が長くなり,これとともに『25日のクリスマスケーキ』,『マル高』などという言葉が流行った後,『アラサー』などとぼかされ,最近は年齢はあまり言及されなくなった。
1) 婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,(以下略)
スイスの娘<SHE TAUGHT ME HOW TO YODEL>(2022.12.16)
昭和31年,詞:Tom Emerson/Paul Roberts,曲:Tom Emerson/Paul Roberts,唄:ウイリー沖山
「Well I went across the Switzerland where all the yodelers be」と始まる。
「あの娘はスイスの山育ち 何時も朗らかにユウレヒティ」と日本の歌詞もあるが,訳者(日本語詞作者?)が誰かは知らない。
ヨーデルでは有名な曲で,多くの歌手が唄っているが,英語のタイトルが<He taught me how to yodel>とShe のものとHeのものがあるようだ。オリジナルがどうなっているのかは調べていない。
私が積極的に歌を聴くようになる前にラジオからよく(?)流れていたように思うヨーデルも私が歌を積極的に聴くようになった頃にはあまり聞かなくなった。ヨーデルの次に聞かなくなったのがラテン音楽か。私が聴かないだけなのかもしれないが。
好きだった(2012.3.9)
昭和31年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:鶴田浩二
「好きだった好きだった」と始まる歌。「胸にすがって泣きじゃくる」くらいの間なのだから,相思相愛だったのだろうが,事情があり「好きだ」と言う代わりに「さよなら」といってしまった。「馬鹿な男」の歌だが,これが男の美学だろう。
この年,国連総会で日本の加盟が可決された。但し,日本は現在も尚,敵国条項の対象国になっている。平成9年に敵国条項の削除が国連総会で議決されたが,その後の関係国の批准が進んでいないので未だにこの条項は生きている。昔も今も,本当に日本の外交はお粗末だ。
東京の人(2013.3.1)
昭和31年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:三浦洸一
「並木の雨のトレモロをテラスの椅子でききながら」と始まる歌。1・2・3番で繰り返される「しのび泣く 恋に泣く 東京の人」というフレーズが耳に残る。銀座・日比谷・隅田の流れ・新宿・浅草・渋谷・池袋が登場する。あと,上野と有楽町が出てくれば,昭和40年頃私が知っていた都内の地名全てといっても良いのではないか。
実際にはもう少し,いくつかの大学の所在地や,時代劇に出てくる場所などの名前も知っていた。秋葉原も電子部品の店ということで知っていたのだが。
新幹線ができるまでは東京は遠く,地方から見れば憧れの地だった。昔の東京は結構歌の舞台になっていたように思う。また,一時ご当地ソングというか,地名を歌いこんだ歌が流行っていたことがある。一時と書いたが,いつでもあるかもしれない。
この歌が出た当時は私はこれらの地名も知らなかったし,「恋に身を灼く」などという感覚も知らなかったのでこの歌に魅かれることはなかった。
東京の人さようなら(2017.12.14)
昭和31年,詞:石本美由起,曲:竹岡信幸,唄:島倉千代子
「海は夕焼け 港は小焼け 涙混じりの 汽笛がひゞく」と始まる歌。
島倉の初主演映画の主題歌。大島の娘と東京の学生の悲恋物語。
繰り返される「東京の人よ さようなら」が印象に残るのでこれがタイトルかと思っていたが,正式なタイトルは「東京の人さようなら」らしい。
どうせ拾った恋だもの(2012.7.17)
昭和31年,詞:野村俊夫,曲:船村徹,唄:コロンビア・ローズ
「やっぱりあんたもおんなじ男」と似たような経験が何度もあるような歌いだしだ。これだけでこの女性の仕事が想像できそうだ。この時代,まだ人類最古の女性の職業も全面禁止にはなっていないが,この歌の主人公は「だから云ったじゃないの」1)と同じ状況だろう。「捨てちゃえ捨てちゃえどうせ拾った恋だもの」と強がりを言ってはいるが未練をにじませている歌。
1) 「だから云ったじゃないの」(昭和33年,詞:松井由利夫,曲:島田逸平,唄:松山惠子)
納豆うりの唄(2021.11.1)
昭和31年,詞:宮川哲夫,曲:宮城秀雄,唄:宮城まり子
「暁(あけ)の明星が うるんで消えりゃ 街にそろそろ 朝が来る」と始まる。
「僕は少年 納豆うり ナット― ナットナット―」という歌。
この頃,私は小学校低学年だったが,このように仕事をしないと一家の生活ができないという同級生はいなかった。これ以上貧しい場合は学校にも出て来ないだろうから同級生とは認識できていないだろう。商家や農家では家業の手伝いもあったのかも知らないが,学校を休むほどではなかったので目立たなかった。しかし,貧しい家庭は少なくなかった。ただ周囲も皆同じ程度に貧しかった。都会ではもっと貧富の差が大きかったかもしれない。
まあ,このような境遇の子供がいても不思議はないと感じる時代だった。
多くが中卒で働いていた時代だから,この少年が中学生なら目立つことはなかっただろう。
鳴門ちどり(2020.1.18)
昭和31年,詞:森達二,曲:袴田宗孝,唄:松山恵子
「千鳥ちろちろ なぜ啼くのやら」と始まる歌。
その答えは「初恋かなし」ということらしい。
「文のかずかず ちぎってなげて」というのが手紙時代だ。ここでは鳴門の渦潮に投げたようだが,よくあったのが焼却だ1)。焼却と言っても焼却炉にまとめて放り込むのではなく,たき火にひとつひとつくべて行くイメージだ。メールを消去したりするより風情があると思うのは私が古い人間だからだろうか。
私の印象では,当時は「かなし」とか「あきらめましょと」で終わっていたのが,後には「私バカよね」などと自嘲する詞が増えてきて,昭和末期になると哀願したり,脅迫したり,さばさばと次をさがしたりとバラエティ豊かになる。
以上は女性の場合だが,男性の場合も昔は諦めるのが少なくなかった。諦める理由は社会的理由が多かったように思うが,義理を重んじるというのもあった。昭和の後期には優柔不断が原因で失い後悔するというパターンも出て来て,昭和末期には何でもアリになってくる。男女の差が次第になくなってきたのだろう。
1) 「湖畔の宿」(昭和15年,詞:佐藤惣之助,曲:服部良一,唄:高峰三枝子)
波止場だよ,お父つぁん(2021.2.17)
昭和31年,詞:西沢爽,曲:船村徹,唄:美空ひばり
「古い錨が 捨てられて ホラ 雨に 泣いてる 波止場だよ」と始まる。
年老いた父親の手を引いて,今日も船を見に来た。
「せめて あたいが 男なら 親子 二代の マドロスなのに」という歌。
今でこそ海上自衛隊に女性艦長までいる1)が,この時代に女性の船乗りはいなかった。セーラー服を着ていても水兵は全て男性だった。
1) 海上自衛隊が護衛艦への女性配置制限を撤廃したのは平成20年。初の女性護衛艦長が登場したのは平成28年。
母恋吹雪(2019.11.21)
昭和31年,詞:矢野亮,曲:林伊佐緒,唄:三橋美智也
「酔ってくだまく 父(とと)さの声を 逃げて飛び出しゃ 吹雪の夜道」と始まる歌。
父子家庭である。「飛び出しゃ」と言っても家出ではない。通い徳利を持って酒を買いにやらされるのだ。「母(かか)さが恋し 何で俺らを 残して死んだ」とは思いつつ,結局は「たった二人の親子であれば 涙拭って ああ 戻る道」という日々が繰り返される。
当時,このようなお話はよく聞いたが,近所でこのような様子は見聞きしたことが無い。周囲が皆豊かだった訳ではない。但し,当時は周囲の多くが貧しかったので,貧しさを自覚することはなかった。地域差なのだろうか,私が世間知らずだったのだろうか。・・・酒癖が悪いと子供の私にまで評判が伝わる人はいたが,子供の方はこれが普通だと思っていたのかもしれない。
早く帰ってコ(2020.3.29)
昭和31年,詞:高野公男,曲:船村徹,唄:青木光一
「おふくろも親父も みんな達者だぜ」と始まる。
東京に居る弟に呼びかける歌。親父もめっきり老けたとか,妹も嫁にいくことが決まったとかの近況報告と共に,好きな娘がいるなら兄として見てみたいから連れて帰ってこいとも呼びかけている。しかし,帰るというのは一時帰省の意味だろう。おそらく地元では生活できるだけの職がないから東京へ行ったのだ。当時の汽車は遅かったし,汽車賃も高かった。都会暮らしの見栄もあり,沢山の土産も持っていかなければならず,帰省は大仕事だった。
風雲黒潮丸(2015.7.30)
昭和31年,詞:小沢不二夫,曲:平岡照章,唄:多摩幸子,松崎貞二,ビクター児童合唱団
「黒潮騒ぐ海越えて」と始まる歌。
ニッポン放送の連続ラジオドラマの主題歌。映画化もされている。主人公の南原夢若丸を演じたのは伏見扇太郎である。
話の内容は覚えていないが歌はよく覚えている。聴いていたのだろう。「ルソン安南カンボジア はるかオランダイスパニア」の国名はこの歌で覚えた。イスパニアがスペインだということは,おそらくスペインという国名を知ったときとほぼ同時期だが,フィリピンやベトナムという国名を知ったずっと後までそれぞれルソンと安南だということを理解していなかった。また,「面舵」などという用語もこの歌詞で知った。
映画は当時の娯楽の中心といっていいほどポピュラーだった。子供向け時代劇のスターと言えば,この映画の伏見扇太郎のほか,東千代之介・大川橋蔵・里見浩太郎・中村錦之助などがいたが,私に強い印象を残したのは千代之介と錦之助だ。恐らく私が観た映画が限られているのだろう。
嵐寛寿郎,市川右太衛門,片岡千恵蔵,坂東妻三郎など映画スターは他にも多数いたが,三十石船の石松1)になってはいけないので名前を挙げるのはこの程度にしておこう。しかし,こう見るとほとんどが時代劇スターだ。子供の頃の私は時代劇しか観なかったのだろうか。そういえば,当時のなぞなぞに,『手が1本,目が3つ,耳が4つに足6本,何だ?』というのがあった。この答2)も時代劇だ。
1)森の石松:広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」に登場する次郎長の子分。伏見へ向かう三十石船の上で,退屈しのぎに,相客に次郎長一家で強いのは誰だと尋ねる。ところが「大政,小政,大瀬の半五郎,・・・」と次々に名前がでるが,石松の名は忘れられていて出て来ない。私も,肝心な人を忘れるかもしれないので名前を列挙することを途中で止める。
2)馬に乗った丹下左膳。丹下左膳は時代劇の主人公の名。片目,片腕だった。
娘巡礼(2019.10.24)
昭和31年,詞:星野哲郎,曲:下川博省,唄:鈴木三重子
「沖に寄る浪とんとろり 空にゃのどかなあげ雲雀」と始まる歌。
繰り返される「シャラリコ シャラリコ シャンシャラリ」が印象に残る。
父母を捜して巡礼している娘の歌だ。説明はないが,当時の人間なら誰もが『巡礼おつる』を思ったのではないか。
阿波人形浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』は観たことがなくても,おつるの台詞『ととさんの名は十郎兵衛,かかさんはお弓と申します』は誰もが知っていたのではないか。
歌詞では「娘遍路はまだ二八(にはち)」とある。16歳ということだ。16歳なら江戸時代なら十分大人?だが,おつるはもっと幼かったような気がして少し調べてみたがよく解らなかった。
訪ねてきた巡礼の話を聞くうち,お弓は自分の娘だと確信するが名乗らず,祖母の家へ帰ることを勧める。お弓と別れて間もなくおつるは十郎兵衛と出会い,十郎兵衛はわが娘と知らぬままおつるを手にかけてしまう。
お弓とおつるの間に交わされる巡礼の苦しい旅の話を聞くだけでも涙をさそう。このような背景を説明せずとも,一般の共通認識となっていたからこのような歌が成り立つのだろう。
ラジオ体操の歌(2012.9.11)
昭和31年,詞:藤浦洸,曲:藤山一郎,歌:藤山一郎
「新しい朝が来た」と始まる健やかな歌だが,ラジオ体操をする前くらいしか唄う機会がなく,実際には体操前に唄うこともない。
小学生の頃は夏休みの朝にラジオ体操があった。放送は6時からだったと思う。時刻前に行くとカードに出席のゴム印を押してくれた。子供会の役員だったのだろうが,遅刻の場合,人によって押してくれたりくれなかったりした。皆勤だとノートかなにか賞品をくれた。皆勤でなくても出席率によって鉛筆などが貰えたとおもう。
小学生のときに転校したのだが,前の小学校ではラジオ体操というと第1しかしてなかった。それが新しい小学校ではラジオ体操といえば第2がメインだった。第1は「腕を前から挙げて背伸びの運動」などと説明が入るが,第2は音楽だけだったので最初はついていけなかった。
リンゴ村から(2012.5.9)
昭和31年,詞:矢野亮,曲:林伊佐緒,唄:三橋美智也
「おぼえているかい故郷の村を」で始まり「俺らのナ俺らの胸に」で終わる。
唄っているほうは生まれ故郷に居るのだが,都へ出荷するリンゴを見るたびに,何年も前に夜汽車に乗って都へ行った幼馴染を思い出し,戻って欲しいとかなわぬ呼びかけをする。都へ出たのは遊学などではないだろう。生きるために仕方なく,奉公にでたか,工場で働くために出たか・・・。当時は生きることに精一杯だった人々が多数いた。
どことなく民謡調の三橋美智也の高い声は哀愁を帯び,この歌によくマッチしている。
若いお巡りさん(2011.9.14)
昭和31年,詞:井田誠一,曲:利根一郎,唄:曽根史郎
「もーしもしベンチでささやくおーふたりさん」という歌。よく知ってはいるのだが,この歌に関連して思い出すことがない。テレビで唄っている姿は思い出すのだが,当時自宅にはテレビはなかったと思うし,後日テレビの懐メロ番組で観たのだろう。
昔のことは前後混乱して記憶しているかもしれないが,当時電蓄(電気蓄音機)がはやっていたようだが,うちにはなかった。蓄音機はあった。ゼンマイを巻いて針と振動板だけでレコードを再生する機械である。電蓄は電気モーターでレコード盤を回転させ,(恐らく電磁式の)ピックアップで電気信号に変えて真空管アンプで出力するものである。小型の冷蔵庫くらいの大きさがあったように思う。
当時のラジオがどんなものだったのか十分には記憶がないが,中学生のころ捨てられていたラジオを沢山拾ってきていた。高校生のころはテレビが捨てられるようになっていた。
で,中学生のころ捨てられていたラジオだが,多くは5球スーパーだったように思う。私が知っているものではST管を使った並4もあったように思う。6C6による再生検波,6ZP1による電力増幅にマグネチックスピーカー,12Fによる電源整流というのが並3の構成で,並4はこれに6D6による高周波増幅が加わる。
小学高学年の頃,家にはレコードプレーヤ付きのラジオがあった。機能としては電蓄と同じだが,廉価版である。クリスタルピックアップが使われていた。MT管を使ったトランスレスの5球スーパーだった。
テレビは,新し物好きの父がかなり早く買った。近所では最も早い時期だった。
Be Bop a Lula<ビー・バップ・ア・ルーラ>(2013.8.26)
昭和31年,詞:Gene
Vincent and Tex Davis,曲:唄:Gene Vincent and Tex Davis,唄:Gene Vincent
「Well, be-bop-a-lula, she’s my bay」と始まる歌。私がこの時代にこのような歌を聴くはずはないのだが,何度も聴いた記憶がある。おそらく何年か後に聴いたのだろうが私にはプレスリーなどよりはるかに強い印象を与えている。いまでも「ハートブレイクホテル」1)を(普段は全く唄わないが,あえて)唄おうとすると,いつの間にかビーバップアルーラになってしまうほどだ。二つの曲は何が似ているのだろうか。私がどちらの曲も良く知らないというところが似ているのだろう。
1) 「ハートブレイクホテル」(昭和31年,唄:エルビス・プレスリー)
別れの波止場(2016.4.30)
昭和31年,詞:藤間哲郎,曲:真木陽,唄:春日八郎
「そんなに泣きたきゃ泣くだけお泣き」と始まる歌。
私にはあまり聴き覚えはないが,典型的な当時の流行歌に聞こえる。
春日八郎は私にとって代表的な男性流行歌手の一人だ。他には田端義夫などだが岡晴夫や小畑実も流行歌手という感じだ。東海林太郎や藤山一郎などは私のイメージする流行歌手とは少し違う。三橋美智也の唄も耳に馴染んでいるがやはり少し違う。守屋浩あたりからは私の勝手な分類では流行歌から歌謡曲へと変っていった。
Heart Break Hotel<ハートブレイク・ホテル>(2013.10.13)
昭和31年,詞:Mae
Boren Axton/Tommy Durden/Elvis Presley,曲:Mae Boren Axton/Tommy
Durden/Elvis Presley,唄:Elvis Presley
「Well since my baby left me」と始まる唄。当時聴いた記憶はない。「恋に破れた若者達で」というのは何度か聴いた記憶があるので,小坂一也の翻訳バージョンを聴いたのだろう。プレスリーのほうは後になって歴史?として聴いた。一応,超有名なので常識として聴いておく必要があると思ったのだが,それほど感銘を受けなかった。同様にと言っていいのかどうかは不明だが,後のビートルズも人気が高く,聴いてみたことはあるが,私の好みにはあまりあわない。ビートルズのほうがベンチャーズより音楽性が高いと言われていたような気がするが,ベンチャーズのほうが好きだった。私の音楽性が低いのかも知れないが,それでいいと思っている。
Heartbreak Hotel<ハートブレーク・ホテル>(2018.7.14)
昭和31年,詞:曲:Mae Boren Axton, Tommy Durden,
Elvis Presley,唄:Elvis Presley
「Well, since my baby left
me, Well I’ve found new place to dwell」と始まる歌。
小坂一也が「恋に破れた若者たちで いつでも混んでるハートブレーク・ホテル」と唄っていたのは覚えているがプレスリーの唄を聴いたのはずっと後になってからだ。
Hound Dog<ハウンド・ドッグ>(2018.8.4)
昭和31年,詞:Jerry Leiber,曲:Mike Stoller,唄:Elvis Presley
「You ain’t nothing but a hound dog」と始まる歌。
原曲はBig Mama Thorntonが唄ったブルースだったそうだが,どのように唄われていたのか想像もつかない。それほどプレスリーの唄は衝撃的だ。
この歌と『Love Me Tender』1)はプレスリーの唄の中の双璧だろう。私が聴いたのはもっと後だが。
1){Love Me Tender}(昭和31年,詞:Vera Matson,Elvis Presley,曲:アメリカ民謡,唄:Elvis Presley)
Love Me Tender<ラヴ・ミー・テンダー><やさしく愛して>(2018.6.21)
昭和31年,詞:Vera Matson,Elvis Presley,曲:アメリカ民謡,唄:Elvis Presley
「Love me tender, Love me sweet, Never let me go」と始まる歌。
プレスリー主演の米映画「Love Me Tender(邦題:やさしく愛して)」の主題歌。
リアルタイムでは聴いていないが,『Hound Dog』1)なども聴いてみると,リアルタイムで聴いたビートルズなどより(何曲かの平均で)私の好みに合っている。
1)Hound Dog(昭和31年,詞:Jerry Leiber,曲:Mike Stoller,唄:Elvis Presley)
Que Sera,
Sera<Whatever Will Be, Will Be><ケ・セラ・セラ>(2015.3.28)
昭和31年,詞:Jay Livingston/ Ray Evans,曲:Jay Livingston/ Ray Evans,唄:Doris Day
印象的な「Que Sera, Sera, Whatever will be, will, be」をタイトルとするバージョンもある。でだしは「When I was just a little
girl」と始まる。音羽たかしの訳で「ケ・セラ・セラ」のタイトルで昭和31年にペギー葉山が唄っている。後にはコニー・フランシス(昭和37年)やメリー・ホプキン(昭和45年)なども唄っており,日本でもゴールデン・ハーフ(昭和45年)が唄っている。
詞と曲は二人の合作とする記述と,Livingstonが作詞,Evansが作曲とする記述と3種類ある。当時の歌詞カードや楽譜は作詞・作曲があいまいなものが多い。また©記述がない。
著作権を示す©の記号は昭和30年代の末期から記載のあるものが増えている。例えば手元にある雑誌『平凡』や『明星』の付録では,昭和38年にはほとんど©の記載がないが,昭和39年では海外の曲は大抵©の記載があるようだ。日本の曲に関しては©の記載がある曲もあるが,JASRAC1)マークしかない曲も多い。それ以前はJASRACロゴもない曲が多かった。昭和40年になるとほとんどの曲に©マークがついている。
日本語歌詞は「私の小さい時 ママに聞きました」と始まる。私は幼かったので覚えているのは「ケ・セラ・セラ なるようになるわ 先のことなど 判らない」という印象的なフレーズだけだ。コニー・フランシスの時代なら覚えているが,やはり覚えているのは「Que Sera, Sera, Whatever will be, will, be」の箇所だ。
1)Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers。日本音楽著作権協会
逢いたいなァあの人に(2017.12.9)
昭和32年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄:島倉千代子
「島の日暮の段々畑」と始まる歌。
「涙がホロリ ホロホロリ」という箇所等に強い印象が残っている。
当時の交通手段では一旦遠くに離れてしまうと,再び会うことは絶望的といえるほど困難だった。
赤胴鈴之助の歌(2015.3.21)
昭和32年,詞:藤島信人,曲:金子三雄,唄:河野ヨシユキ,宮下匡司,上高田少年合唱団
「エイ!」「ヤーッ!」「ターッ!」「ちょこざいな小僧め 名をなのれ」「赤胴鈴之助だ」と台詞のやり取りがあり,「剣をとっては日本一に」と始まる歌。
昭和32年から34年までラジオ東京(現TBS)系ラジオで放送された連続ドラマ「赤胴鈴之助」の主題歌。原作は昭和29年から少年画報に連載されていた武内つなよし作の漫画。
尚,タイトルを「赤胴鈴之助」とした歌本もあり,台詞部分が記載されていないものもある。どちらか後のテレビ版の主題歌かもしれない。
歌はよく知っているのでラジオは聞いていたと思う。漫画も読んだと思うが『少年画報』は家にはなかった。貸本屋で借りた記憶もない。恐らく友達の家で読んだのだろう。定期購読していたわけではないが,このような少年雑誌で自宅にあった可能性が高いのは少年だ。多分,少年の掲載漫画のほうが好きだったのだろう。しかし,私は赤胴鈴之助がプリントされた浴衣を着て祭に行った記憶があるから,赤胴鈴之助も好きだったのだろう。
当時の遊びの一つにチャンバラがあった。チャンバラごっこ用のおもちゃの刀も各種売っていたが,なければ木の棒で十分であった。新聞紙を棒状に丸めて刀としてつかうなどはもっと後の時代だ。当時は新聞紙は貴重な紙資源だった。リサイクルではなくリユースだ。
ただ,赤胴鈴之助ごっこの記憶はあまりない。主な記憶は鞍馬天狗だ。風呂敷を覆面にしてよく遊んだ。ラジオドラマなら笛吹童子の記憶が強いのだが,笛吹童子ごっこというのも記憶にない。北辰一刀流とか千葉周作の名は赤胴鈴之助で覚えたと思う。
自来也や猿飛佐助などの昔の話に出てくる主人公の得意技は超能力としか思えないものが多かったが,このころから(似非ではあるが)赤胴鈴之助の真空斬りなど,科学的説明がされるようになってきていたように感じる。よりもっともらしく技の説明がなされるようになったのは白土三平からだろう。
嵐を呼ぶ男(2011.9.20)
昭和32年,詞:井上梅次,曲:大森盛太郎,唄:石原裕次郎
「おいらはドラマー,やくざなドラマー」という歌だが,当時曲名は知らなかった。間奏中に台詞が入っているが,「フックだボディだボディだチンだ」というところなど,意味を理解できなかったからだろうか,聞き取れないほど早口に聞こえた。他にも台詞入りの歌はいろいろあったが当時こんなに早口な台詞はほかにはなかったように思う。
この歌も日活映画「嵐を呼ぶ男」の主題歌だが,裕次郎の有名な歌は映画の主題歌が多いようだ。しかし,当時は幼すぎたためか映画館で裕次郎の映画を観た記憶がない。裕次郎に熱を上げたのは私より少し上の世代だろう。
裕次郎の映画に限らず,私は当時の映画はほとんど観ていない。もっと小さいころは東千代之介や中村錦之助の映画などを観たし,「ゴジラ」なども観たのだが,あるとき満員の映画館で火事にあった。立ち観の客も含め超満員の映画館で突然白煙が上がって館内に充満し,皆が出口に殺到して押しつぶされそうになった。その後長い間映画館に行かなかった。いつのころかテレビを買ったのも映画館に行かなくなったことと関係があるかもしれない。
昭和32年には新東宝の「明治天皇と日露大戦争」が公開されていて,この映画は小学校の校庭に大きなスクリーンを張って鑑賞会が催され観た記憶がある。公開からの時間は経っていたのだろうが小学生のときだ。中学では映画の鑑賞会があったが,これには参加した。「キューポラのある街」(昭和37年,吉永小百合・浜田光夫)や「ベン・ハー」(昭和35年,チャールトン・へストン)などを観た。高校でも映画の鑑賞会があったのでひょっとしたら中学と高校を混同しているかもしれない。
アンコなぜ泣く(2018.7.31)
昭和32年,詞:松村又一,曲:遠藤実,唄:藤島桓夫
「燃える三原の御神火眺め」と始まる歌。
「エンヤラヤノ あの唄 うたっておくれ」という箇所も記憶に残るが,最も印象に残るのは最後の「アンコなぜ泣く アンコなぜ泣く 出船の夜は」だろう。
たとえ3月という短期間でも,出港してしまうと連絡もつかなくなってしまう。心配な日々が続いたのだろう。
あン時ゃどしゃ降り(2014.4.29)
昭和32年,詞:矢野亮,曲:佐伯としを,唄:春日八郎
「あん時ゃどしゃ降り雨ン中」と始まる歌。
1番,2番,3番と「初恋っていう奴ァ」,「別れるっていう奴ァ」,「思い出っていう奴ァ」と歌詞が続くので,どのような心境を歌った歌であるか解る。当時は「つらい運命」があるというのがかなり一般的だったのだろう。その後,運命は自分で切り開くという時代があり,次いで自分の現在の境遇は社会が悪いと考える人が出てくる時代になったのだろう。
当時の私は,まだ初恋に憧れる年齢にもなっていなかったのだろう。この歌の歌詞は冒頭の「あん時ゃどしゃ降り雨ン中」くらいしか覚えておらず,全体が何を歌った歌かの理解もしていなかった。春日の代表曲と考えられていたわけでもないのだろう,懐メロ番組に春日が出演しているのは何度も観たがこの歌を唄っている記憶はない。
13,800円(2014.6.9)
昭和32年,詞:井田誠一,曲:利根一郎,唄:フランク永井
「もっこかつげや つるっぱしふるえ」と始まる歌。
1番は当時「黒いダイヤ」と言われた石炭産業従事者,2番は恐らく新産業だった「トラック」運送業従事者,3番4番は家族団らんを歌っている。
この当時の大卒初任給が1万3・4千円だった。
この年,初めて5000円札が発行された。聖徳太子の肖像が描かれていた。初めて1000円札が発行されたのは昭和25年,これも聖徳太子である。500円札が初めて発行されたのは1000円札発行後であり,1000円札発行前は100円札が最高額紙幣だった。昭和28年に板垣退助に変更になる前は,100円札も聖徳太子だった。なお,昭和33年に始めて発行された10000円札も聖徳太子で,昭和59年に福澤諭吉に変更されるまでは『聖徳太子』といえば最高額紙幣の別名だった。
ムード歌謡歌手として有名なフランク永井だが,その前はジャズを唄っていたらしい。その頃のことは知らないが,この歌はムード歌謡とは言い難いので,歌謡曲路線に移る時期の歌だろう,後の唄い方ともかなり雰囲気が違う。
一丁目一番地(2015.8.21)
昭和32年,詞:高垣葵,曲:宇野誠一郎,唄:斎藤隆/黒柳徹子/武田国久/すずらんコーラス
「ちょっと失礼 おたずねしたい ここらはなん丁目なん番地」と始まる歌。
NHKラジオ第1の連続ドラマの主題歌。
現代ならば『お尋ねします』とか『おたずねしたいのですが』と言うような気がする。磯野波平1)なら「おたずねしたい」と言ってもおかしくないような気がする。テレビでのフグ田マスオ2)なら『お尋ねします』と言うだろう。サザエさん一家は何10年も齢をとっていないようだが,近所の雰囲気や言葉使いは最近のテレビアニメでは微妙に変わってきているように感じる。ということは昭和30年頃は「おたずねしたい」と言うのがかなり一般的だったが,時代と共に少しづつ言葉が変わってきたことを表しているのだろう。
ところで,何丁目何番地だが,この決め方は日米に差があるようだ。地域差もあるのだろうが,私が住んだことのある地域は,日本では面を表し,米国では線を表していたように思う。日本では細い道路には名前のついていない道路がほとんどだが,米国ではほとんどの道路に名前がついていた。米国のある地域では基本的に東西に走る道路はStreet,南北に走る道路はAvenueと名付けられていた。但し厳密ではなく,私の家は2nd Streetにあったが,この2nd StreetはBroad Avenueという通りに平行で,この通りから2本目の小さな通りだった。番地に相当するような番号は道路の片側は奇数,反対側は偶数になっており,道路に沿って番号が変化するので住所を頼りに家を捜すには便利だった。
一方,日本では面を一塊として指定しているので,住所の最後の数字が面内に一筆書きのような形で並んでおり,道路を1本渡るとこの数値が飛ぶことが多い。番号を追って行き,そろそろかと思っていたのに道路を一つ越えるととんでもない数値になってしまっているのだ。日本では何とか通り何丁目という地名でも,その通りから中に入った家もあり,その通りを通っただけでは見つけられない場合がある。
もっとも,私が知っている日米はごく一部だ。京都の住所などをみると,ひょっとしたら非常に解りやすい表記なのかも知れないと思うのだが,住所を頼りに歩いたことがないからよく解らない。札幌なども規則性がありそうな住所のように感じる。
この歌で「ここらはなん丁目なん番地」と尋ねているのは,番地の決め方の規則性が外部からの訪問者には解りにくい決め方になっている地域だからなのだろう。
1)磯野波平:長谷川町子作「サザエさん」(昭和21年〜昭和49年。夕刊フクニチ,新夕刊,朝日新聞に順次連載された4コマ漫画。)の主人公「フグ田サザエ」の父親。
2)フグ田マスオ:長谷川町子作「サザエさん」の登場人物で,フグ田サザエの夫。フグ田サザエの実家にサザエの両親の磯野波平家族と同居している。
一本刀土俵入り(2021.10.3)
昭和32年,詞:高橋掬太郎,曲:細川潤一,唄:三橋美智也
「角力(すもう)名のりを やくざに代えて」と始まる。
元は長谷川伸の同名の戯曲。歌舞伎・新派・新国劇などで何度も上演され映画にもなっている。歌も何種類もあり,三波春夫,二葉百合子,村田英雄,島津亜矢なども同テーマの異なる歌を唄っている。
駒形茂兵衛という名の角力崩れのヤクザの話。昔は話の種類が少なかったので,有名な話はほとんどの人が知っていた。この歌にも主人公の名前などは登場しないが,説明の必要がなかったのだ。
俺ら炭坑夫(2024.1.2)
昭和32年,詞:横井弘,曲:鎌田俊与,唄:三橋美智也
「俺(おい)らはナー 生まれながらの 炭坑夫」と始まる。
日本の石炭産業は日本の開国後,来航する蒸気船に石炭を供給するようになったのが始まりである。第二次世界大戦後,中東やアフリカに相次いで大きな油田が発見され,石油価格が下がってゆく。日本でエネルギーの主役が石炭から石油へと変ったのが昭和37年である。このころ海上運賃が下がってきて,大きな石炭消費産業であった鉄鋼業は使用する石炭を海外製に変更し始めたので国内石炭産業はこれ以後急速に衰退する。
昭和32年はまだ,石炭が黒いダイヤと呼ばれていた時代だ。
このころ,父の勤務先の社宅に住んでいて,ここには風呂があったが,石炭を焚いていた。この石炭をどうやって入手していたのか記憶がない。石炭を売っている店の記憶がないのだ。自宅に電話はなかったので電話で注文して配達してもらったわけではなかろう。父の勤務先が大量に購入した石炭の一部を定期的に社宅の各戸に配達していたのではないかと思うが今となっては解らない。私が住んでいた家は大通り(それほど大きい訳ではないが)に面していて車が止められたが,社宅は何軒も密集してあり,大通りに面していない家も多数あった。そこへは大八車ですら入れない(リヤカーなら通れた)小道を通らねばいけず,石炭の配達などどうしていたのかと疑問は残る。
おさげと花と地蔵さんと(2019.9.12)
昭和32年,詞:東條寿三郎,曲:細川潤一,唄:三橋美智也
「指をまるめて のぞいたら だまってみんな 泣いていた」と始まる歌。
恐らく就職の為に故郷を離れるのであろう,皆が見送りに来ている。駅だろうか。汽車は既に発車した。最後の思いで「さようなら」と「呼べば遠くで さようなら おさげと花と 地蔵さんと」というのだ。皆と一緒の見送りではなく,最後まで汽車が見えるお地蔵さんの付近でひとり見送ったのだろう。
三年前のことを思い出している歌だが,「思いはめぐる あかね空」とあり,音信はないようだ。
当時は交通手段も痛心手段も限られていた。この別れが今生の別れであることが珍しくなかった。
おさらば東京(2018.1.20)
昭和32年,詞:横井弘,曲:中野忠晴,唄:三橋美智也
「死ぬほどつらい 恋に破れたこの心」と始まる歌。「あばよ 東京 おさらばだ」と終わる。
歌詞からは東京生まれかどうかは判らないが,三橋のイメージでは地方からの上京者が東京で恋に破れ,行先も決めずに東京を離れる歌だろう。おそらく故郷へは帰ることができない事情があるのだろう。
石油コンビナートを川崎市・四日市市・岩国市・新居浜市につくることが決定されたのが昭和31年である。昭和33年には岩国(三井化学)と新居浜(住友化学)が稼働し始めている。コンビナート建設には建設労働者が必要であり,工場稼働後は工場労働者が必要である。人が増えれば飲食・娯楽関係だけでなく,種々の業種で人手が必要になる。地方でも職を見つけることができる地域ができて来たのだ。
お月さん今晩は(2013.12.24)
昭和32年,詞:松村又一,曲:遠藤実,唄:藤島桓夫
「こんな淋しい田舎の村に」と始まる歌。「可愛いあの娘は俺らを見捨てて都へいっちゃった」というのがメインテーマであろうか。
職場に電話はあっても私用で使えるわけもなく,・・・当時は一般家庭にはほとんど電話は無かったと思う。当時の公衆電話といえば赤電話である。元は設置場所のタバコ屋などにお金を払って利用していたのが,10円硬貨の投入口がついて,店員がいなくても利用できる赤電話ができたのが昭和30年である。ダイヤル市外発信可能な大型赤電話ができたのが昭和36年である。これでも10円硬貨専用で,通話料金の高い遠距離通話は困難だった。昭和47年までは,市外通話のできない公衆電話もあったのだ。都会ではダイヤル市外も普通だったのかもしれないが,田舎では,先ず交換手に相手の電話番号とこちらの電話番号を告げ接続を頼み,電話を切って待っていると電話が繋がると交換手から呼び出してくれる。市外回線が混んでいると長い時間待たされた。相手が電話先から呼び出してもらうような場合には,それから話したい相手を呼び出してもらうので,走っていってもらってもしばらく時間がかかる。通話が終わって電話を切ると交換手から電話がかかってきて,今の電話料金を教えてくれるので,電話を借りたところへその金額を支払って,お礼を言ってようやくおしまいだ。
今は国際電話でもダイヤルだけで電話できるので言葉が不自由でも問題ないが,昔は必ずオペレーターを介さなくてはいけないので,電話をかけるにもその国の言葉をある程度は知らなくてはならなかった。
遠く離れた人に連絡しようと思えば手紙が一般的だった当時,相手の住所がわからなければ手紙の送りようもない。そんなとき,月をみて,この月を相手もみていることを思い,月に想いを託すということはよく?あった。「リンゴ畑のお月さん今晩は 噂をきいたら教えておくれよなあ」と繰り返す歌である。
科学技術の発達により,世の中は飛躍的に便利になった。便利になった分,何かを失ってしまったようだ。
踊子(2013.2.14)
昭和32年,詞:喜志邦三,曲:渡久地政信,唄:三浦洸一
「さよならも言えず泣いている」と始まる歌。「天城峠で会うた日は」とあるので,川端康成の『伊豆の踊子』であろう。この『伊豆の踊子』はこれまで何度も映画化されている。昭和8年田中絹代,昭和29年美空ひばり,昭和35年吉永小百合,昭和42年内藤洋子,昭和49年山口百恵の主演である。女優の名を見るだけでも踊り子のイメージが湧いてくる。
歌詞は主人公の一高生から見た踊り子なのだろうが,私には第三者が描いたパステル画のように感じられ,一高生も画面に描かれているのが見えるようだ。心が揺さぶられるというより,美しい絵を見て心が和むという感じを受ける歌だ。
この頃,私は小学生だったが,何度もこの歌を聞いたが自分で唄おうなどとは夢にも思わぬ歌だった。当時何をしていたかを思い出そうとするのだが,いろいろ混乱してしまっている。遊びまわっていたことだけは間違いない。外で遊ぶことが多かった(家が狭いので)が,たまには屋内で遊ぶこともあった。
将棋はよくしたが,技量は全く進歩しなかった。将棋の駒をつかった遊びもいろいろやった。はさみ将棋,山積,山崩し,廻り将棋などであるが,名称が正しいのか,当時なんと呼んだかなどは不明だ。
囲碁はたまにした。将棋に比べると(小学校での)競技者人口は極めてすくなかった。当然上達しない。連珠もどきは比較的良くやった。ルールは先手・後手とも三三だけが禁じ手の五目並べだったと思う。これは外でも,運動会の練習などのときなどに,校庭の地面でよくやった。
チェスのようなハイカラなものはみたことがないし,オセロなどは世の中に存在しなかっただろう。
カード系ではトランプが多かった。ババ抜き,ジジ抜き,7ならべ,ダウト位ではなかっただろうか。ダウトとは昔は『ざぶとん』と言っていたが,だれかが何か印刷されたものにダウトと書いてあるのをみせてから,意味も解らないままカタカナでダウトというようになった。
外に持ち歩くのは不便だったのでトランプに比べると少ないが百人一首などの各種カルタもよくやったほうだ。百人一首に関しては他に書いたように思うので詳細は略すが,当時はいろんな種類のカルタがあり,昔ながらの犬棒カルタと百人一首はカルタ遊びの双璧だったと思う。
花札はあったが,小学校の頃友人とやった記憶はない。
UNOはみたことがない。
子供用の雑誌があり,正月号にはすごろくとか福笑いなどの付録がついていたように思うが,正月以外はこんな遊びはしなかった。
ゲーム機はもちろんなかったが,黒髭危機一髪というようなものもなかったと思う。ボードゲームも記憶にない。そういえば野球ゲーム盤のようなものがあったような気もするが野球は外でやるものだった。
おもちゃとして,刀とか拳銃のおもちゃはあったが家の中で遊ぶと怒られ,やはり外であそぶものだったと思う。おもちゃには乗り物などもあったが,もっと小さな子供が遊ぶものだった。電池で動くものはほとんどなく,ぜんまい,ゴム,はずみ車などが銅慮異句だった。
そういえば,高学年では模型飛行機とか船を作った。作るのは家の中だが,遊ぶのは外だった。プラモデルはまだなく,基本は木,飛行機の翼などは紙だった。船などは電池で動くものもあった。ヨットも作ったが,戦艦系が多かった。友人と池に浮かべて走らせ,2B弾を投げつける。実戦さながらに水柱を上げて爆発する・・・。
まだ,マブチモータが出る前1)の話で,マブチのモータがでたときにはそのパワフルさに驚いた。もう少し年齢が上だったら,焼玉エンジンのUコン飛行機を作っていたかもしれない。私が高校生になったときには,既にUコンの時代は終りラジコンの時代になっていた。エレクトロニクス系は真空管を使っていたが。
1) 馬渕健一がフェライト磁石とカーボンブラシを用いた小型モータを作ったのは昭和22年らしい。しかし,私がこれを実際に手にしたのはずっと後のことである。最初は別のタイプのモータを使用していた。
俺は待ってるぜ(2013.10.5)
昭和32年,詞:石崎正美,曲:上原賢六,唄:石原裕次郎
「霧が流れてむせぶよな波止場」と始まる唄。唄のヒットにより,石原慎太郎の脚本で映画にもなっている。石原裕次郎・北原三枝などと聞くとわけもわからず,ワクワクする。歌詞の「昔馴染みのこころと心」など,一瞬男女の幼馴染かと思うが石原慎太郎はこれをブラジルに渡った兄としたようだ。
この頃の日活映画は(個人的な狭い知識の範囲では)学校から映画鑑賞に行くような映画ではなかったし,個人で映画館に行くこともほとんどなかったので,私は観ていないが,床屋に置いてあった雑誌には沢山写真が出ていた。でも写真などを観ても当時はワクワクすることは全くなく,ワクワクするようになったのはもっとずっと後のことだ。
私は次の浜田光夫や吉永小百合でさえお兄さんお姉さんと感じる世代である。
初期の裕次郎がテレビやラジオの歌番組に出ていた記憶はあまりないので,どこで裕次郎の歌を聴いたのかわからないのだが,「海のかもめにたくしておくれ 俺は待ってるぜ」など印象的なフレーズが裕次郎の声と共に思い出される。
電子メールなど無い時代,電話も簡単にはかけられなかった時代。高度成長に向けて離陸しようとしていた時代,この時代には石原裕次郎がよく似合う。
柿の木坂の家(2014.8.25)
昭和32年,詞:石本美由起,歌:船村徹,唄:青木光一
「春には柿の花が咲き 秋には柿の実が熟れる」と始まる歌。「柿の木坂は駅まで三里」とあり,当時はまだ距離を里(4km)で表すのが普通だったのだろう。『くりよりうまいじゅうさんり』1)などという言葉がまだ生きていた。
駅まで見送りに行くこともかなわず「乗合バス」に乗るところで別れる。
故郷を思い出しながら、「柿の木坂のあの娘」に「逢ってみたいなァ」という歌。
地域にもよるだろうが,当時は開発のスピードもそれほど速くなく,田舎では10年以上経ってもそれほど景色が変わらない地域が多かった。当時は故郷に帰ることがああったら昔ながらの柿の木坂があっただろう。しかし,この20年後には日本列島改造論の結果かどうかは知らないが,田舎の道路も整備され便利になったが景観は大きく変わってしまった。
1)九里+四里=十三里。イモ(特に焼芋)。
錆びたナイフ(2012.12.23)
昭和32年,詞:萩原四朗,曲:上原賢六,唄:石原裕次郎
「砂山の砂を指で掘ってたら」とはじまる歌。「俺もここまで泣きに来た同じおもいの旅路の果てだ」と終わる。
この歌は啄木の歌を元に作られていると聞いたことがある。確かに,「一握の砂」の「我を愛する歌」の一連の歌とこの歌詞は関係がありそうである。「我を愛する歌」の冒頭は「東海の小島の磯の白砂にわれ泣き濡れて蟹とたはむる」であり,4首目には「いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに」とある。6首目は「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」とある。この歌詞はこれらの歌を踏まえたものであろう。
石原裕次郎と石川啄木では,私の印象は対極にある。もちろん私は二人とも個人的な付き合いがあるわけではないし,二人の映像を比較したとか文章を比較したとかいう結果の印象ではなく,裕次郎は映像,啄木は歌との接触の結果である。しかし,この詞を裕次郎が唄っているのを聴いて全く違和感を感じない。対極にあるものを結びつけるのは普遍的なものであろう。萩原のこのような普遍的なものを取り出す能力は素晴らしい。もちろん,宍戸錠ならピストルかもしれないが,裕次郎にはナイフのほうが良く似合う。
萩原は明治生まれの浪曲作家で歌謡曲の作詞はあまりやっていないようだが,「赤いハンカチ」1)などの名曲もある。
1) 「赤いハンカチ」(昭和39年,詞:萩原四朗,曲:上原賢六,唄:石原裕次郎)
新四日市音頭(2011.12.25)
昭和32年?,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:三浦洸一
「伊勢にゃ大神街道筋の四日市には大港」という歌をインターネットでたまたま見つけた。私が「四日市音頭」として覚えている曲と歌詞は酷似している。恐らくメロディーも同一だろう。しかし,ネットで見つけた歌の二番は「あれは万古のかまどの煙 こちら工都の朝けむり さあさ道なら七十メーター」となっている。私が盆踊りなどで知っている二番は「四日市なら港が命 私ゃあなたがただ命」というものだ。替え歌だろうか。
小学校2年の1学期まで八幡市に住んでいてそこの市歌も製鉄所の煙が市の発展の象徴であるような歌詞だったし,転校先の四日市の小学校の校歌も「黒煙はく筒柱」だった。当時は煙が発展のシンボルだったのだ。佐伯孝夫の詞はこの当時のものだろう。もう少し遅ければ大気汚染の問題が大きくなっていてこんな詞にはならなかっただろう。
もう一つ「さあさァ道なら七十メーター」というのが良くわからない。近鉄四日市から国鉄四日市までの道は九十メーター道路と言っていたように思うのだが。ひょっとしたら近鉄と国鉄の駅が分かれる前はあの道幅は70mだったのだろうか1)。
しかし,佐伯・吉田といえば橋幸夫や吉永小百合の曲を書いていたゴールデンコンビではないか。三浦洸一も往時の大歌手だ。
1) タウン誌「モットヨッカイチ」vol.6,(Jan. 2012)に「四日市の歴史」という記事があり,「近鉄四日市駅前七十米通り(現中央通り)昭和40年7月」と題した写真が掲載されている。やはり七十米だったのだろうか。
十九の浮草(2020.1.13)
昭和32年,詞:牧喜代司,曲;袴田宗孝,唄:松山恵子
「花の十九も 旅ゆく身では 恋も情けも しょせんは夢か」と始まる歌。
「こんどいつの日 いつの日いつの日逢える」との繰り返しが耳に残る。
「知っているのは あの月ばかり」とまだ月にロマンが残っていた時代の歌だ。
昭和44年,アポロ11号が月面に到達する頃までは,万葉集の時代から,月はロマンの源泉だった。風情を表現するための背景小道具として,願を掛ける対象として等々,いろんな歌のいろんな場面に登場してきていた。
十代の恋よさようなら(2014.11.19)
昭和32年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄:神戸一郎
「好きでならない人なれど」と始まる,神戸一郎のデビュー曲。
「ああ十代の恋よさようなら」という個所に聞き覚えがあるかないかという程度にしか記憶にない。子供だった私には何の感興も起こさせない歌だったのだろう。当時の私は音楽には興味がなかった。どのジャンルの曲も積極的に聴くことはなく,周囲で頻繁に流れている流行歌を聞き覚えるくらいだったが,ハーモニカで童謡や唱歌を吹いていたこともある。これは友人の一人がバーモニカが好きで(上手で)彼と遊ぶ時だけハーモニカを吹いていた。
彼とはその後模型製作を共通の趣味としてよく遊んだ。模型というのは木製の船などである。プラモデルはまだなかった。別な中学に通うようになり,当初はそれでもたまに遊んだのだが,その後音信が途絶えて久しい。
青春サイクリング(2013.6.21)
昭和32年,詞:田中喜久子,曲:古賀政男,唄:小坂一也
「みどりの風もさわやかに」と始まる歌。「サイクリング サイクリング ヤッホー ヤッホー」という部分が印象に残る。サイクリングの楽しみを歌った歌で,小坂一也の歌声も爽やかだ。
小坂一也は私の印象ではロカビリー歌手だ。カントリーも歌っていたようだが当時の私はほとんど聴かなかったのだろう,記憶がない。印象に残っているのは『無敵のライフルマン』くらいだ。これは『どこからやってきたのやら』と始まる歌で,昭和35年から放映されたTBS系のテレビドラマ『ライフルマン』の主題歌だ。
私の周囲には自動車は珍しかったが自転車はあった。いわゆる実用車が一般で,子供用に小さな自転車もあった。実用車にはheavy dutyのものも割りと多かった。タイヤなども若干太く,スタンドの底面は大きな四角形でスタンドを立てると荷台にビールを何ケースも乗せて安定して載せ下ろしができる。酒屋の配達,新聞配達や牛乳配達,うどん屋の出前など全て自転車だった。変速機付きの自転車は見たことがなかった。ママチャリもなかった。
自転車で遠くまで遊びに行くこともあったが,自転車に乗ることは目的ではなく手段だった。たとえば海まで行って釣りをするなどが目的だった。近所で,自転車を使った鬼ごっこなどの遊びをすることはあった。サイクリングという言葉は知っていたが,サイクリングをしようという気は起きなかった。
ちいさい秋みつけた(2014.1.30)
昭和32年,詞:サトウ・ハチロー,曲:中田喜直
「だれかさんが だれかさんが だれかさんが みつけた」と始まる歌。
「ちいさい秋」というのは初秋のことではないかと思うのだが,「はぜのは あかくて いりひいろ」と紅葉しているようだ。ほかには「もずのこえ」なども聞いているが私の感性では見つけているものは初秋ではなく,秋も深まっていることを示すものではないかと感じる。もちろんサトウと私は住んでいるところも違うし歳も違う。感性が異なっても当然かもしれない。とはいえメロディーは秋を感じさせ,好きだ。
チャンチキおけさ(2013.4.19)
昭和32年,詞:門井八郎,曲:長津義司,唄:三波春夫
「月がわびしい路地裏の」と始まる歌。故郷は佐渡か。屋台で酒をのみながら,「知らぬ同士」でおけさを歌って,くにに残して来た娘や母親がどうしているだろうと思っている歌。
昭和29年から昭和32年までは神武景気と呼ばれるほど景気の良い期間だったが,昭和32年の金融引締めのために一気に景気が悪化,昭和33年までは鍋底景気といわれるほどに経済が低迷した。季節を限定して出稼ぎに出る者や故郷では仕事が見つからないため故郷を出てしまう者も少なからずいただろう。特に,田中角栄内閣以前は日本列島太平洋側に働き口が多かった。表日本・裏日本などという言葉があった時代だ。その後,金融緩和により景気は回復し,昭和33年からは岩戸景気と呼ばれるほどの好景気になる。
このような短期間の不況はあったが,全体としては次第に豊かになりつつあった。しかし,それにはいくつかの犠牲があったのだ。例えば地域共同体からの離脱など。
働きつかれて屋台で一杯のみ,「小皿叩いてチャンチキおけさ」というのがささやかな楽しみで,明日の活力につながったのだろう。感覚的に良くわかる。失われた地域共同体をたとえ一瞬でも擬似共同体に身を置いておけさを歌う。おけさがでれば宴もおしまい,また明日は元気を出して働くだけだ。
皿を叩くなど下品だという意見があるかもしれないが,屋台でなく,座敷での宴会でも皿を叩くなど珍しくないと思う。もちろん,上品な人々が集まる高級な宴ではそのようなことは無かっただろうが,別な意味で下品なことはあったかもしれない。上品な人々は乾杯の際にもグラス同士を当てないのかもしれないが,庶民は力強くコップ同士をぶつけあうのだ。
酔っ払って歌を唄うくらい,いいではないか。特に,昔はラジオが最もポピュラーな音源だったし,ラジオ局数もすくなかったので,多くの人が同じ歌を知っていた。今のように世代間で聞いている歌が全く違うなどということはなかったのだ。酔っ払って唄うには調子も良いし,悪くない歌だと思う。
東京午前三時(2021.1.28)
昭和32年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:フランク永井
「真っ紅なドレスがよく似合う あの娘想うてむせぶのか」と始まる。むせんでいるのは「サキソホン」だ。
この時刻ころ「ナイト・クラブ」の営業が終了したのだろうか。「あの娘」が「白い夜霧に濡れながら 待っていそうな 気もするが」待っているわけもなく,気付いたら,「似た娘乗せゆく キャデラック テイル・ランプがただ赤い」という歌。
東京だョおっかさん(2013.11.18)
昭和32年,詞:野村俊夫,曲:船村徹,唄:島倉千代子
「久しぶりに手をひいて」と始まる歌。
母を連れて東京へ。1番は二重橋,2番は九段坂,3番は浅草を訪れる。東京見物に上京したようだが,もちろん一番の目的は靖国神社で兄に会うために出てきたのであろう。
終戦から10年ちょっと,まだ戦争の傷は癒えていない。終戦直後は生きるのに精一杯でとても上京する余裕はなかったのだろう。
島倉千代子の美しい細い声,悲しみが抑制された歌詞であるだけにいっそう内に秘めた悲しみが伝わってくる。
東京だョおっ母さん(2017.12.29)
昭和32年,詞:野村俊夫,曲:船村徹,唄:島倉千代子
「久しぶりに手を引いて 親子で歩ける嬉しさに」と始まる歌。
上京してきた母親に東京を案内する歌。案内するのは「二重橋」,「九段坂」,「観音様」だ。当時の人間には東京人でなくてもこれらの場所が意味するところは明白だったのだろう。雰囲気からは娘も東京在住の感じは薄く,母娘で上京したようにも感じる。当時地方から上京するのはかなりの苦労を必要とした。
「二重橋」は,私も中学校の修学旅行で行ったし,新年や天皇誕生日の皇居一般参賀時には一般人も通ることができるので,現在でもよく知られているだろう。
「九段坂」は靖国神社に近い。「兄さんが」「桜の下でさぞかし待つだろ」という詞からは靖国神社に祀られている兄に会いに行くのだ。戦後10年以上経っても,戦争の傷跡はまだあちらこちらに残っていた。
「観音様」だけでは解らないかもしれないとの配慮からか,この箇所には「こゝが こゝが 浅草よ」と説明がある。
渡り鳥や流れる雲を見て故郷を思う。交通が不便だった時代の歌だ。
東京のバスガール(2012..1.2)
昭和32年,詞:丘灯至夫,曲:上原げんと,唄:コロムビア・ローズ
「若い希望も恋もある」東京のバスガールの歌である。バスガールというのは路線バスの車掌で,観光バスはバスガイドだ。私の家の付近にもバスは走っていた。バスに定期的に乗るようになったのは高校入学以後で,昭和32年頃はどうだったか知らないのだが,昭和30年台後半の朝のラッシュ時のバスの込み具合は激しいものだった。バスのドアが閉まらないので車掌(バスガール)がドアを開けたまま客が落ちないようにステップのところに足をかけて両手でぶら下がって走ることもあった。もちろん違反だったのだろうが実際に走っていた。そのようなときは運転手もゆっくり走って,積み残しになったら次のバス停までバスを追いかけて走った。バスガールは強かった。
昭和32年には小学生だったがこのころは百人一首などで遊んでいた。主に正月にやるのだが,練習というような意味もあり,正月以外にもやっていた。「散らし」とか「源平」などである。二人では一人が読み手になると取り手は一人になるのでそんなときは「坊主めくり」ぐらいしかすることがない。歌の意味は解らなかったが大体は覚えていた。しかし,その頃には「むすめふさほせ」1)などの知識はなかった。
もっと小さいときは「犬棒かるた」や「野球カルタ」などをしていた。「犬も歩けば棒に当たる」や「ルーキー与那嶺外野を守る」などという読み札のカルタだ。
トランプもやったが,「ババ抜き」「ジジ抜き」「7並べ」・・・他にもあっただろうか。そういえば以前テレビで「ざぶとん」の話を観たが,私も「ダウト」は「ざぶとん」と言っていたと思う。
1) 1字決まりの歌。「む」で始まる歌は「村雨の・・・」1首しかないので「む」を聞いた瞬間に上手な人は札を取るのだが,われわれは「きりたちのぼる・・・」という取札を捜し始めることになる。このように最初の一文字で決まる歌が百人一首のなかにはほかに「す」ではじまる歌,「め」で始まる歌など計7首ある。2字決まりの歌は42首だったと思う。約半分が最初の二文字で特定されるのだ。「あさぼらけ」「きみがため」「わたのはら」で始まる歌はそれぞれ2首あるのでこれらは6字決まりということになる。
永遠に答えず(2020.3.21)
昭和32年,詞:西沢爽,曲:古賀政男,唄:島倉千代子
「日陰の 日陰の 母子草」と始まる歌。
「愛し我が子を この手から なぜなぜ 風はつれてゆく」。
ラジオ東京などで放送された連続放送劇。月丘夢路主演で日活映画になっている。
「悲しく呼べども 母と子の さだめは永遠に答えなく」と終わる。
連続ラジオドラマは聴いていないし,映画も観ていない。インターネットで映画のレビューを見てみたが,主人公は恋仲だった宏(葉山良二)が突然召集され未婚の母となる。宏の戦死公報を受け,子供も手放す。この辺りまではすんなり頭に入るが,その後死んだと思っていた子供が生きていることを知ったり,話が複雑になる。いろんな経緯で知り合いの知り合いの知り合いというような坂東流家元のところへ身を寄せた主人公は家元の息子に一目惚れされる。その家元の息子には許嫁がいたのだが。その許嫁を演じたのが浅丘ルリ子だ。なお,主人公は知らなかったが,その家元の息子と宏は戦友で,共に復員してきていた。宏の戦死公報は間違いだったようだ。宏は復員後主人公をさがすが見つけられす,勧められた結婚を承諾してしまう。家元の息子の新作舞踏発表会に寄せられた 祝電の中に宏の名を見つけた主人公は宏の家へ向かうが・・・。
主人公の運命を狂わせたのは召集令状だった。その後の展開も波瀾万丈だが,戦後の混乱期にはこのようなこともあったかもしれないと思われていたのだろう。
母の便り(2016.4.20)
昭和32年,詞:矢野亮,曲:真木陽,唄:春日八郎
「暗い夜業(よなべ)の灯(ひ)の陰に そなた案じて筆とり候」と始まる歌。
「一人わび住む母なれば」とあり当時既に大家族が崩壊していた様子が解る。息子は都会に出てしまったのだ。「親子二人で水いらず」「暮らすのぞみにすがり居り候」と息子も独り者のようだ。
当時の平均寿命は男が63〜64,女は67〜68だった。この当時60代だとすれば,あるいは白髪の様子から50代だとしても明治生まれだ。明治生まれの女性が独りでどのように生活していたのだろうか。「夜業」という言葉には農業を感じる。地主だったのだろうか小作だったのだろうか。地主なら息子は土地を守っているだろう。農地改革の恩恵を受けた様子もない。すらすらと手紙を書いたのだろうか。誰でもこの程度の手紙は書けたのだろうか,高等教育を受けていたのだろうか。
現在,独居老人は珍しくない。しかしこの母が若かった頃には年老いてからの独居ということは考えられなかっただろう。息子は「飾る錦」が無ければ帰ることはできないと考え,老いた母はそんなものはいらないと思っていた。
このような息子が戦後復興とその後の経済成長を支えたのだ。経済は成長し大家族は崩壊した。その後経済に陰りが見えても大家族というセイフティーネットの復活はない。
バナナ・ボート(2012.2.17)
昭和32年,詞:L.Burgess・W.Attaway・井田誠一,曲:L.Burgess・W.Attaway,唄:浜村美智子
ハリー・ベラフォンテの歌らしいが当時は全く知らなかった。でだしの「Day O, da〜y o」のインパクトが強かった。歌詞もある程度覚えているつもりなのだが,念のためインターネットで検索したところ,覚えている歌詞と全く違う。英語を習った後も,この歌詞が英語だとは思っていなかった。これに続いて・・・・・・・・・と覚えていたところは「Till I come and me wanna go home」となっている。何度も繰り返しこれを発音していると,何となく覚えている歌詞に似てくる。また「Come Mr. Tallyman tally me banana」に相当すると思われる部分なども覚えているが,どのように覚えていたかは耳の悪さを証明するようで,恥ずかしくて人には言えない。まあ,昔の人は「Hepburn」を「ヘボン」と聞いたらしいから子供だった私の聴き間違えも許してもらおう。
この頃,バナナは高級品だった。この年か,あるいはその前後か記憶にないが,バナナの叩き売りで一房1000円からスタートするような記憶がある。インターネットで調べたら1本200円という話がでていたが,これだと一房何千円もしそうだ。一本なら50〜100円くらいだったのではないだろうか。当時のサラリーマンの初任給は月1万円くらいだろう。学生の肉体労働アルバイトの日給が300円くらいだったらしい。子供の頃,駄菓子屋では50銭まで計算していた。50銭硬貨は通用していなかったので,50銭のお釣りがでるときは,50銭相当の飴をお釣り代わりにくれた。
小学校に入ったときにはお金の教材があった。この中では10円は札だった。1円は札だったか硬貨だったか記憶に無いが,本物の1円札や10円札は何度も見たことがある。しかし,実際に駄菓子屋に行っていた頃は10円は硬貨になっていたような気がする。
小さな焼き芋1本5円,カキ氷5円という時代だから,バナナなどというのは滅多に口にすることはなかった。
昭和38年にバナナの輸入が自由化され,価格が下がる。
船方さんよ(2013.8.16)
昭和32年,詞:門井八郎,曲:春川一夫,唄:三波春夫
「おーい船方さん船方さんよ」と始まる歌。
三波春夫の歌手としてのデビュー曲である。『チャンチキおけさ』と同時発売で,どちらもヒットしたので,苦節何年という演歌歌手が多い中では異例であろう。歌謡曲に転向する前の浪曲師時代はどうだったのかは知らない。有名な浪曲はいくつか知っているが,南篠文若(三波の浪曲師時代の芸名)の浪曲として知っている曲はない。
当時,この歌の歌詞の意味は理解しておらず,船に乗り遅れたオバさんが,待ってくれと叫んでいる歌かと思っていたが,何となく『チャンチキおけさ』よりは好きだった。その後,自分でこの歌を唄うことはないが,『チャンチキおけさ』は飲みながら唄ったことがある。『知らぬ同士が小皿ただいてチャンチキおけさ』ではないが,その飲み屋でいつも会うだけの常連客と一緒にである。この時代よりずっと後のことだ。
1) 「チャンチキおけさ」(昭和32年,詞:門井八郎,曲:長津義司,唄:三波春夫)
港町十三番地(2012.10.26)
昭和32年,詞:石本美由紀,曲:上原げんと,唄:美空ひばり
「長い旅路の航海終えて」と始まり「ああ港町十三番地」と終わる歌。私にとってはひばりの歌の中でかなり上位に入る歌だ。歌詞のどこが気に入ったのかと問われると特にない。ただ,なぜかは知らないが最後の箇所など歌声を聴くとぞくぞくする。
この年,ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した。日本の南極越冬隊は南極大陸に初上陸した。また,茨城県東海村で原子炉が国内で初めて臨界に達した。名古屋では名古屋駅−栄町間に名古屋市初の地下鉄が開通した。世界的に科学技術の研究が加速されはじめる。
未練の波止場(2016.6.15)
昭和32年,詞:松井由利夫,曲:水時富士夫,唄:松山恵子
「もしも私が重荷になったらいいの 捨てても恨みはしない」と始まる歌。
「お願いお願い 船に乗せてよ 連れてって」と言ってはいるが未練を残しつつ別れることになる。
今なら列車での別れでもあっという間に見えなくなる。当時は加速性能も悪かったため汽車が動き出してからでもしばらくはホームを並んで歩き,走り,夜汽車なら赤いテールランプがかなりの間見えていた。建物の密度が小さく,線路の見通しがよかったので別れに余韻があった。
陸続きでない場所へは船での別れとなる。飛行機ならば搭乗ゲートを過ぎるともうどこに居るかほとんど解らないが,船なら乗船後もデッキから岸壁までテープで繋がることもできるほどよく見える。出発しても船が見えなくなるには時間がかかるので別れがますます身に染みる。
最近「波止場」という言葉を聞いた記憶がないが,当時の歌謡曲では定番スポットのひとつだった。
未練の波止場(2018.7.8)
昭和32年,詞:松井由利夫,曲:水時富士夫,唄:松山恵子
「もしも私が重荷になったらいいの」と始まる歌。
将来は「捨てても恨みはしない」と言っているが,とりあえず今は,「お願いお願い連れていってよ」と記憶に残るフレーズが入る別れの歌だ。場所も波止場と,昭和30年代の典型的な歌だ。
歌のヒットを承け,昭和33年には日活で映画化されている。
メケ・メケ(2022.10.22)
昭和32年,詞:C.Aznavour・G.Becaud・訳:丸山明宏,曲:C.Aznavour・G.Becaud,歌:丸山明宏
「たそがれどき港町の 酒場の片隅で」と始まる。
「別れの 盃だよ」「俺は海の男だ」と情理をつくしているのに「あたし一人 おいてけぼりはやんだ」「あたしは死んじゃうヨ」と聞き分けがない。
「男は立つ女すがる 引きずられながらも 想い出の石だたみに 投げ出される女よ」
女は「情なしのケチンボ」「手切れのお金もくれない」と毒づくがやがて「あきらめて帰ろ」となっておしまい。
当時はこのようなことが日常茶飯だったから歌になったのか,極めて稀だったから歌になったのか。イメージとしては前者だ。場所はヨーロッパの植民地の港か。
有楽町で逢いましょう(2012.8.29)
昭和32年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:フランク永井
「あなたを待てば雨が降る」とはじまる歌。「小窓にけむるデパートよ」と控えめだが,有楽町駅の横にあったデパートのキャンペーンソングである。「命をかけた恋の花」などと簡単に命をかけているのはあまり気に入らないが,よい歌である。合言葉が「有楽町で逢いましょう」と言う程度だから二人のつきあいもそれほど深くはなさそうだ。「命をかけた」というのは言ってみただけだと解釈しよう。
東京へしばしば行くようになって,有楽町へもよく行って,最初はこの歌にひかれて駅周辺を歩き回ってみたが,わざわざ「有楽町で逢いましょう」という理由は私には見つけられなかった。この歌から20年ほど経っていた当時の私にとって東京で最もインパクトが強かったのは新宿だった。
雪の渡り鳥(2014.3.16)
昭和32年,詞:清水みのる,曲:陸奥明,唄:三波春夫
「合羽からげて三度笠」とはじまる歌。
「鯉名の銀平」を主人公とする股旅ものというのだろうが,舞台は故郷の伊豆(下田)のようだ。
「雪の渡り鳥」は長谷川伸作の戯曲で,昭和8年,昭和26年,昭和32年に映画化されている。三波はこの曲で昭和33年の紅白歌合戦に初出場した。
ところで,三度笠とは江戸・京都・大阪を月三度往復していた三都飛脚あるいは三度飛脚が被っていたことからこの名がつき,頂部が尖っている笠であるという趣旨の記述がいくつもインターネット検索でみつかる。そうすると『てなもんや三度笠』1)であんかけの時次郎が被っていた笠は三度笠ではないことになる。しかし,長谷川一夫演じる清水の次郎長も,中村敦夫演じる木枯し紋次郎も同じような笠を被っていた。平坦な頂部をもつ笠だ。このような笠は饅頭笠と呼ぶらしい。
もっとも,笠の画像をインターネットで検索してみると,三度笠の頂点は尖っているとは言っても陣笠のように全体が扁平円錐形というわけではないようだ。市女笠のように頂部が円柱状に高く盛り上がっているのでもない。三度笠は頂部付近だけが小さな扁平円錐形になっているように感じる。確認のために三度笠の映像がないかと探して見たが見つからない。氷川きよしの笠も頂部は平坦に見えた。これらは全て饅頭笠なのだろうか。
1) てなもんや三度笠:昭和37年から朝日放送(TBS系)で放映された藤田まこと演じるあんかけの時次郎を主役とするテレビ番組。
夢見る乙女(2025.1.29)
昭和32年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:藤本二三代
「花の街かど 有楽町で 青い月夜の心斎橋で」と始まる。
乙女の夢の歌。
この年にはソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功,宇宙時代がはじまった。日本では初の地下街『名古屋地下街サンロード』が開業した。(地下鉄は昭和2年に東洋初の路線が上野−浅草間に開通している。)また,この年はなべ底不況が始まった年である。
新東宝が嵐寛寿郎主演で『明治天皇と日露大戦争』という映画を作ったのがこの年である。日本初のシネマスコープということで制作されたが,別の東映映画に少し先を越され日本初のシネマスコープというタイトルはとれなかった。この年のことだったか,後年のことか年の記憶はないが,小学校の校庭に大きなスクリーンを設置しての映写会があり,これを観た記憶がある。
この時代の乙女の夢は「スイート・ホーム」というのが佐伯の解釈のようだ。
夜霧の第二国道(2014.10.7)
昭和32年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:フランク永井
「つらい恋ならネオンの海へ」と始まる歌。
東京ではどうか知らないが,当時うちの近くにはほとんど乗用車は走っていなかった。小学校の学区の中を国道1号線が貫通しており,同級生の家に遊びに行くにも国道1号線を横断する必要があるところがあったが,当時は信号も横断歩道もないところを,普通に渡っていた。もちろん中央分離帯などはなかった。酒屋の御用聞きなども自転車で来ていたし,ロバのパンなどは本物のロバだった。荷馬車もよく見た。工場にはトラックは多数いたが,家の近くに来る自動車と言えば,氷屋がオート三輪で来ていたていどだったように思う。国道にバスは走っていた。
恋をネオンの海へ捨てるなどということは思いもよらぬ小学生だったわたしは,この歌は最後の「ああ 第二国道」という個所しか記憶に残っていない。別世界の歌だった。
喜びも悲しみも幾年月(2012.7.4)
昭和32年,詞:木下忠司,曲:木下忠司,唄:若山彰
「俺ら岬の灯台守は」とはじまる歌で佐田啓二・高峰秀子の映画の主題歌。灯台守の生活の四季を歌っている。灯台守の歌としてはそのものずばり「灯台守」1)という歌がある。こちらの歌詞には「荒波」がでてくるのだがメロディーは優しく荒波のイメージはない。
それにくらべて若山彰の歌は歌詞にはあからさまな嵐の場面は出てこないのだが歌声が力強く,嵐と戦い船の安全を守っている男の力強さと家族の支えが伝わってくる。安全はこのような人々によって支えられてきたのだ。
1) 「灯台守」(詞:勝承夫,曲:イギリス民謡。「凍れる月影空に冴えて」と始まる。この歌を口ずさんでみると何故か主旋律以外のメロディーが出てくる。ということは学校で合唱曲として習ったようだ。
リンゴ花咲く故郷へ(2016.7.23)
昭和32年,詞:矢野亮,曲:林伊佐緒,唄:三橋美智也
「生まれ故郷を何で忘れてなるもんか」と始まる歌。
「好きよ好きだと手をとりあった」相手を故郷に残し,(恐らく)都会へ出た男が故郷を偲んでいる歌。もちろん相手のことも想い,「待ってておくれよ必ず帰る」と歌っている。
田舎には十分な仕事がなかった。私の両親の男兄弟も長男を除き全員が郷里を離れている。戦前なら満洲などの外地へ行く者もいただろうが,戦後は国内の都会へ向かうのがほとんどだった。国内ではあっても交通機関は今ほど発達していないので簡単に帰郷することもできない。市外電話料金も高かったし,そもそも電話契約している家の数自体が少なかった。
はやり三橋美智也の艶のある高音は独特の良さがある。
忘れ得ぬ人(2019.12.17)
昭和32年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄;島倉千代子
「忘れ得ぬ人 遠い人 乙女心を 捧げた人よ」と始まる歌。
「初恋の 夢は夜露に あゝ濡れて散る」ということで「この世はなぜに ままならぬ」と嘆いてはいるが,最後は「優しい君も 幸せも 待てば帰って あゝ来るかしら」とやや前向きな考えで終わっている。
とうじはまだ,「ままならぬ」ことだらけだっただろう。皆,そういうものだと思っていたのではないか。「待てば帰って来るかしら」というのもはかない願いに終わることが多かっただろう。
Diana<ダイアナ>(2012.5.1)
昭和32年,詞:Paul Anka,曲:Paul Anka,唄:Paul Anka
「I’m so young and you’re so old.」で始まり,「Oh please, stay by me, Diana.」で終わる歌。渡舟人の訳詞で山下敬二郎も唄っているし,音羽たかしの訳詞で平尾昌晃も唄っている。山下,平尾はミッキー・カーチスと合わせてロカビリー三人男と呼ばれていた。
このころから,エレキバンド・フォークソングの頃まで,翻訳によるアメリカンポップスが沢山唄われヒットした。フジテレビ系で渡辺プロダクション主導の「ザ・ヒットパレード」が放映されていた効果が大きかったのだろう。エレキギターバンドは少人数でできるため,沢山のアマチュアバンドができたし,フォークソングは自作自演が多く,一人でも全てをこなせるためポップス系の人気が分散されてきて,訳詞のアメリカンポップスの流行は下火になったが,その分,原語で聴かれるようになったのだろう。ビートルズ以降は原語のまま聴かれることが圧倒的に多くなったようだ。もっと後になると日本語の歌に英語の歌詞をいれる作詞者も出てきている。
Jailhouse Rock<監獄ロック> (2018.8.24)
昭和32年,詞:Jerry Leiber,曲:Mike Stoller,唄:Elvis Presley
「The warden threw a party in the county jail」と始まる歌。
当時は英語などまったく解らなかったので歌詞の記憶は全くない。しかしメロディーを聴く機会は度々あったのだろう。記憶に残っている。
日本語歌詞も持っているという記憶はあるが,どの本に載っているか捜しきれない。日本語の唄を聴いた記憶もほとんど無いので,この唄は私にとってはメロディーだけの曲だ。
Tonight<トゥナイト>(2018.6.18)
昭和32年,詞:Stephen Sondleim,曲:Leonard Bernstein
昭和32年初演のミュージカル「West Side Story」中の歌。昭和36年にナタリー・ウッド,リチャード・ベイマー,ジョージ・チャキリス,リタ・モレノらの出演により映画化されている。
この歌は夕刻,バルコニーで逢っている登場人物のマリアとトニーがその夜の会う約束をしながら掛け合いで唄う歌らしい。(舞台も映画も観ていないのでこの程度の概要知識しかない。)しかし,恐らく映画の日本公開以後だろうと思うが,テレビやラジオでこの曲はしばしば流されており,よく聴いた。誰が唄っていたのか記憶にない。恐らくいろんな歌手が唄っていたのではないか。元々デュエット曲のようだが私の記憶では独唱だった。歌詞も原曲の一部しかなく「Tonight, Tonight, it all
began tonight」というところから始まっていたような記憶しかない。英語の聞き取りができなかったのだ。日本語の歌詞の場合もあったように思うがこの程度の記憶しかない。