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昭和11年〜

目次

昭和11年 あゝそれなのに,あゝ我が戦友,うちの女房にゃ髭がある,うれしいひなまつり,エノケンのダイナ,男の純情,東京ラプソディ,どじょっこふなっこ,博多夜船,花言葉の唄,椰子の実,忘れちゃいやョ

昭和12年 ああわが戦友,愛国行進曲,青い背広で,赤い帽子白い帽子,裏町人生,かもめの水兵さん,かわいい魚屋さん,軍国子守唄,軍国の母,人生の並木路,すみだ川,青春日記,妻恋道中,早起き時計,マロニエの木蔭,若しも月給が上がったら,山寺の和尚さん,流転,露営の歌,別れのブルース,何日君再来

昭和13年 愛国の花,雨のブルース,海ゆかば,鴛鴦道中,カチューシャ,悲しき子守唄,湖上の尺八,シナの夜,上海だより,上海の街角で,上海ブルース,人生劇場,陣中髭くらべ,旅姿三人男,旅の夜風,音信はないか,中国地方の子守唄,チンライ節,ドンナドンナ<Dana Dana>,波止場気質,バンジョーで唄えば,日の丸行進曲,満洲娘,皇国の母,麦と兵隊, Dana DanaDona Dona<Dana Dana>

 

あゝそれなのに(2012.5.11)

昭和11年,詞:星野貞志,曲:古賀政男,唄:美ち奴

 「空にゃ今日もアドバルーン」で始まり、「あゝそれなのにそれなのに ねぇ おこるのはおこるのはあたりまえでしょう」で終わる歌。

 映画「うちの女房にゃ髭がある」の主題歌。歌がヒットしたので、後から「あゝそれなのに」という映画も作られたらしい。

 中学だったか高校だったか。恐らく高校だろう。「You might think but ・・・ some fishes.1)というのなどが流行った。「Free care covers to become ・・・」2)などというのもあった。で、当時いろんなものを作ったが、一番よくできたと思われるものがこの歌だ。

 「Today the ad-balloon’s in the sky」で始まり「Oh nevertheless nevertheless, you see」というような具合だ。

1)いふまいとおもへど・・・さむさかな

2)古池や蛙跳び込む・・・

 

あゝ我が戦友(2019.9.21)

昭和11年,詞:林柳波,曲:細川潤一,唄:近衛八郎

 「満目百里 雪白く こうぼう山河風あれて」と始まる歌。

 「こうぼう」の「こう」は「広」だが,「ぼう」が漢字変換できない。私の知らない字だ。手書き入力もうまくいかない。意味も不明だが「枯木に宿る 鳥もなく」と続くので雰囲気は解る。

 戦死した戦友を歌った歌。「君が最期を 故郷へ なんと知らせて よいものぞ」とあり,ここまでは本音だがその後に続く歌詞はたてまえだろう。軍部・マスコミ,あるいは社会の目を気にしたのか本音を書くことはできなかったのだろうが,行間に本音が滲み出ているので行間こそを感じ取るべきだろう。

 曲は勇壮な曲で,『戦友』と『婦人従軍歌』が組み込まれている。近衛の唄は勇壮なメロディーの中に悲しみが湛えられている。

 

うちの女房にゃ髭がある(2013.1.6)

昭和11年,詞:星野貞志,曲:古賀政男,唄:杉狂児,美ち奴

 「何か言おうと思っても女房にゃ何だか言えません」と男性が唄い始める歌。途中で女性が「なんです あなた」というと男性が「いや別に 僕は その あの」としどろもどろになる。この箇所の女性の台詞は一応メロディーにのっているが男性の台詞はメロディーなしの本当の台詞だ。全曲を通じて女声が聞こえるのはこの「なんです あなた」だけだ。

 サトウハチローの小説を原作とした映画の主題歌らしい。星野貞志はサトウハチローの別名ということだ。

 「どこがこわいかわからない」らしいがとにかく恐いらしい。「地震雷火事親父」が恐かったのは昔のことで「今じゃ女房が苦手」とのこと。

 昔から恐妻家というのはあったようだ。徳川秀忠などは有名だ。架空の人物だが,中村主水とか磯野マスオなどもそのようだ。というか,こちらは家付き娘だったからだろうが。

 

うれしいひなまつり(2013.3.3)

昭和11年,詞:山野三郎,詞:河村直則

「あかりをつけましょぼんぼりに」とはじまる雛祭りの歌。山野三郎はサトウ・ハチローの本名,河村直則は河村光陽の本名である。

Wikipediaには201233日付朝日新聞beの「うたの旅人 捨てたいのに広まった『うれしいひなまつり』」という記事などを引用して,サトウ・ハチローはこの歌を嫌っており,嫌っていた理由を歌詞に誤りがあるからという趣旨の記述がある。誤りは「お内裏さまとおひなさま」の箇所と「あかいお顔の右大臣」という箇所らしいがそのようなことでサトウがこの歌詞を嫌うだろうか。一般的に言えば,歌詞に間違いがあることは珍しいことではないと思う。前者は全体を雛飾りととらえ,内裏雛とその他の雛人形の解釈で良いのではないか。後者は左大臣の顔色のほうが濃いのが一般的であったとしても,右大臣のほうが白い顔・・明るい顔・・あかい顔で全く問題はない。

根拠はないが,サトウがこの歌を嫌っていたのか事実なら「お嫁にいらした姉さまに」という箇所だったのではないだろうか。夭折した姉のことを思えば,私だったらこの歌詞は削除したい。もちろん,実の姉のことを考えなければ,一般的な歌詞としてはこの部分も特段に問題があるわけではなく,歌全体としては良い歌だ。

 

エノケンのダイナ(2016.5.2)

昭和11年,詞:Lewis Samuel M/Young Joseph/サトウ・ハチロー,曲:Akst Harry,唄:榎本健一

 「ダンナ のませてちょうダイナー おごってちょうダイナー」と始まる歌。

 「ダイナ」1)は戦後の懐メロ番組で流れたこともあるがこのエノケンバーションは懐メロ番組で聴いた記憶はない。もちろん「ダイナ」のパロディだが,私はサトウ・ハチローがこのような詞を書いたことにやや驚く。サトウは多くの別名を持っていたらしいので,この詞を書くような一面を持っていても不思議ではないかもしれないのだが。あるいは,誰でも多面性を持っているという普遍の真理を目にしているだけなのだろうか。

 エノケンは古川ロッパなどと同時代の日本を代表するコメディアンである。彼らの後継世代が森重久弥・伴淳三郎・トニー谷らではないだろうか。

1)「ダイナ」(昭和9年,詞:三根耕一,曲:Harry Akst,唄:ディック・ミネ)

 

男の純情(2012.11.9)

昭和11年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:藤山一郎

 「男いのちの純情は」と始まる歌。「所詮男のゆく道はなんで女がしるものか」なとセクハラにならないかと心配しなければならないような歌詞だ。「金もいらなきゃ名もいらぬ愛の古巣へ帰ろうよ」とマイホーム・パパのようなどころもある。

 映画の主題歌らしいが,映画の内容は知らない。しかし,心の中が揺れ動いている様子は伺い知れる。男性は子供の頃から「男の子でしょ・・・」と教育しないといけないのではないか。当時はそのように教育されていたであろうにもかかわらずこのように心が揺れているのだから,男女同じように育てたらひ弱い男ができるのではないか。昔から,男の子は(生命力が弱く育てるのに)手がかかるが女の子は放っておいても育つといわれているように思う。精神的成長も女子のほうが早い上,平均余命も女性のほうが長い。

 「所詮男のゆく道はなんで女がしるものか」というのは教育の成果ではないだろうか。「なすべきこと」と「したいこと」があったとき,教育により「なすべきこと」を選択させることができる。その結果『とめてくれるなおっかさん』1)や『とめてくれるなやさしい人よ』2)となるのであって,十分教育しなければ『草食男子』になったり『瞬間湯沸器』3)になるのではなかろうか。

 『男純情の』4)とか『姿やくざにやつれていても』5)などというこの歌の一部のフレーズが後の歌にも使われているほど影響力が強かった歌だ。

1)     橋本治:「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」(昭和43年,東大駒場祭ポスター)この時期東大紛争のピーク(の直前?)だった。

2)     「昭和ブルース」(昭和44年,詞:山上路夫,曲:佐藤勝,唄:ザ・ブルーベル・シンガーズ)

3)     『すぐキレる』人間と言いたかったが適切な名詞を思いつかなかったのでこんな化石となった言葉をつかってしまった。

4)     「煌く星座」(昭和15年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦)

5)     「勘太郎月夜唄」(昭和18年,詞:佐伯孝夫,曲:清水保雄,唄:小幡実/藤原亮子)

 

東京ラプソディ(2012.9.12)

昭和11年,詞:門田ゆたか,曲:古賀政男,唄:藤山一郎

 「花咲き花散る宵も銀座の柳の下で」と始まり「夢のパラダイスよ花の東京」と終わる歌。

「ティールーム」などという言葉がこの時代から使われていることはやや驚きだ。「有楽町で逢いましょう」でも「ティールーム」が出てくる。東京では「ティールーム」が一般的なのだろうか。それとも時代によって変わったのだろうか。私の時代,地元では「喫茶店」だったと思う。○○喫茶というのがいろいろあった。

歌詞には「銀座」「神田」「浅草」「新宿」などがでてくる。これらの中では「神田」がもっとも居心地が良い。歌詞に出てくる「ニコライ」堂のほうにはそう頻繁に行ったわけではないが。

明るく元気が出る歌で,昭和11年頃こんな歌を聴けば,東京にあこがれるのは当然だったろう。

 

どじょっこふなっこ(2012.7.19)

昭和11年,詞:豊口清志,曲:岡本敏明

 「はるになればしがこもとけて」と春からはじまり「ふゆになればしがこもはって」と冬で終わる四季の歌。秋田方言が随所に見られる。

 昔は泥鰌や鮒はどこにでもいたのではないかと思うのだが,私が子供の頃,鮒を沢山見た。川や池には鯰や鯉などもいたし,鰻などもいた。しかし泥鰌は見たことがない。雷魚がいるといわれていた場所もあったが,雷魚は食べてはいけないといわれていたのでそちらへ行ったことがない。場所によって居る魚は違っていた。そう,昔は食べるために釣っていた。その辺の川で釣る魚はそれほど美味くはない。海まで行けばはるかに美味い魚が釣れた。もちろん当時でも狙う魚によって仕掛けも餌も変えた。餌は薩摩芋,ご飯粒,練り餌(メリケン粉+秘伝・・カレー粉を混ぜたり・・),ミミズ(付近には数種類生息していたがシマミミズと呼んでいたものを主として使った。特定のミミズだけが集まりやすいミミズの養殖場みたいなのを作ってあった),ザリガニなどを使った。海ならまずゴカイを捕ることから始めた。遠くまで行くと釣餌を売っている店もあり,種々の餌を売ってはいたが,そのような高級な餌はほとんど使ったことがない。仕掛けと言えるのかどうか知らないが,鰻を狙うときは竿の先端に直接釣り針を付けた。鰻が巻きついても引き離せるようにだ。

 この歌からは泥鰌や鮒を食品と考える視点が全く感じられない。生態保護・自然愛護の観点からは賞賛される歌なのだろう。私はこの歌の20年も後に,食べるために殺生を繰り返していた。

 

博多夜船(2020.2.15)

昭和11年,詞:高橋掬太郎,曲;大村能章,唄:音丸

 「逢いに来たかよ 松原越しにヨー」と始まる歌。

 「浮名の 波が立つ」とか「未練の 船じゃもの」などの詞があり,文字通り「逢い」に来たのだろう。そうすると一人で来たのだろうから,手漕ぎの舟ではなかろうか。「船」と書いてあるので定期船の乗客として来るのかもしれない。

 漁師の娘お弁1)は船大工の藤吉に逢うためにタライ舟に乗って佐渡から柏崎まで通ったようだが,当時,海を渡って逢いに来るというのなら手漕ぎの舟がイメージにあう。ただし,博多までということで玄海灘の荒海を渡るとすると命懸けのこともあるだろうが,曲は時代のせいか,のんびりした曲だ。

1)佐渡民話の主人公。寿々木米若は浪曲「佐渡情話」としてヒットさせた。浪曲では主人公の名は「おみつ」と「ゴサク」。

 

花言葉の唄(2016.6.23)

昭和11年,詞:西條八十,曲:池田不二男,唄:松平晃/伏見信子

 「可愛いつぼみよ きれいな夢よ」と始まる歌。

 優しい心が感じられる詞と平易な美しいメロディーだ。三拍子の曲は少ないように思うので小学高学年あるいは中学の音楽の教科書に載せてもよいような歌だ。

 『初恋日記』という映画の主題歌らしい。

 「白い花なら別れの涙、赤い花ならうれしい心」などと現代の花言葉辞典などの記述とくらべれば簡単な分類だ。当時も細かい花言葉はあったのだろうが西條はあえてこのような詞にしたのだろう。

 この年は2・26事件が起きた年だ。このような年にもこのような映画が製作されていたのだ。

 神戸モロゾフが日本で初めてのバレンタインチョコレート広告を出したのもこの年である。但し媒体は英字雑誌だったそうだ。

 

椰子の実(2012.3.11)

昭和11年,詞:島崎藤村,曲:大中寅二,唄:東海林太郎

 「名も知らぬ遠き島より」で始まる歌。愛知県田原市伊良湖町にはこの歌の歌碑がある。

 柳田國男が21歳の頃,この地で静養中に椰子の実を発見したと藤村に話したことからこの詩ができたとのこと1)。明治時代のことだ。

 「われもまた渚を枕」「何れの日にか国に帰らん」と自身の漂泊を歌っている。

この詩は「落梅集」にある。落梅集といえば,まず冒頭の「小諸なる古城のほとり」と,「椰子の実」の少し後にある「千曲川旅情のうた」を思い出す。これらの詩は「自選藤村詩抄」では「千曲川旅情の歌一,二」とまとめられていて,中学か高校の国語の教科書に載っていた。

昭和11年は二・二六事件の年だ。当時,軍は「天皇親政」と「ソ連との早期対決」を目指す「皇道派」と「文民統制」を尊重し「高度国防国家」を目指す「統制派」が対立していた。226日から29日まで,皇道派に近い陸軍の青年将校らが「昭和維新と尊王討奸」をスローガンに兵約1500名を率いて決起,斎藤實内大臣,高橋是清大蔵大臣,渡辺錠太郎陸軍教育総監を殺害し,首都圏の中枢部を占拠した。岡田啓介内閣総理大臣,鈴木貫太郎侍従長,牧野伸顕前内大臣,西園寺公望元老も襲撃目標だった。

青年将校らは政治家と大企業の癒着を一掃し,不況を打破することを目指していた。不況打破には満州獲得が必要と考え,このためにソ連と対決する必要があると考えていたらしい。君側の奸を討てば自分たちが考える正義が実現すると考えたのだろう。正義を実現するためには手段を選ばないというのは後の全共闘などと同じ発想だ。天皇親政を目指したのだが,重臣を突然殺された昭和天皇の怒りのため,実現しなかった。このクーデター失敗の結果,東条英機らの統制派の力が強まり,対ソ戦は行われず,国を挙げて国防国家を目指すようになった。

この年に国号を「大日本帝国」に統一,翌昭和12年には盧溝橋事件が起き,支那事変へと繋がっていく。

1)  「定本柳田國男集」別巻第三に記載されているとのこと。私が見たのは,伊藤信吉:日本の詩歌1「島崎藤村」(中公文庫,昭和49年)鑑賞に引用されたもの。

 

忘れちゃいやョ(2013.7.5)

昭和11年,詞:最上洋,曲:柳田義勝,唄:渡辺はま子

 「月が鏡であったなら」と始まる歌があったはずと捜してこの歌にたどりついた。タイトルを見たところでは知らない歌だと思いつつ聴いてみると,捜していた歌らしいので調べたら,発禁曲で,その後「月が鏡であったなら」と改題されて発売されているらしい。再発売の際,歌詞が一部変えられたのかも知れないが,どこが変えられたのか知らないし,歌唱法などが変わったのかもしれない。歌詞中の呼びかけ「ねぇ」が内務省のお役人の気に入らなかったのかも知れないので「ねぇ」の言い方を変えたとか・・・。詳細はわからないが,私は「月が鏡であったなら」を聴いたのかもしれない。

 この歌は歌本に懐メロとしてよく載っていたと思う。歌詞にはなじみがあるが実際に歌われているのを聴いた記憶はあまりない。描写されている気持ちはわからなくはないが,表現が少し私の感性と違う。私が持っている渡辺はま子のイメージにも合わない。

 私にとってこの歌は唄う歌ではないし,積極的に聴く歌でもないが,歌詞は心の引き出しにしまっておき,いつか使う日があるかもしれないと思いつつ,結局は使うことなく終わるであろう詞だ。

 

ああわが戦友(2016.4.22)

昭和12年,詞:林柳波,曲:細川潤一,唄:近衛八郎

 「満目百里雪白く」と始まる歌。

 詞も曲も典型的な日本の軍歌。戦友の戦死にも心を残さず黙々と行軍する歩兵のイメージだ。

林柳波がどのような気持ちでこの詞を書いたのか判らない。検閲のなか,戦死の状況を正確に故郷に知らせることなど不可能だということは皆が承知していたことだろう。

林の兄は陸軍獣医少将だったらしいが,林自身の軍歴に特筆すべきものはなさそうだ。林は何冊かの化学関係の著書もある化学者(明治薬学校の講師をしたごともある)であり詩人で童謡運動にも貢献した人物らしい。林があの戦争をどのようにとらえていたのか私には解らない。

歌詞の意味をそのまま単純に理解すれば,このような歌を作ったこともあの戦争を支援したということで戦争責任の一端を担っていることになる。だからといって直ちに非難することはできないだろう。多くの国民は大義は我が国に在りと信じて戦ったのだ。これは敵も同じであろう。但し彼我に誤解があり,誤解は宣伝により増幅され,異なる正義を信じた人々が敵・味方に別れて戦争したのだ。

週一日は宗教的行事に参加するグループがいる。毎日働くことを美徳とするグループがいる。これらが競合すれば互いに相手を非難するかもしれない。相手の習慣が間違っていると考え始めたら,一事が万事そのように見え,嘘や間違いや宣伝も信じられるようになってしまう。その結果双方がそれぞれの正義を信じ戦い合うようになる。

あるいは相手を未開な野蛮人だと見る場合もあるかも知れない。しかし野蛮人だと見られたほうが,確かに自分たちは野蛮人だと納得するかどうかは解らない。このようなとき,正義と正義が戦い,勝ったほうが正当化されてきたのが歴史だ。

ルールを共通化しようというのがグローバルスタンダードの一つだろう。しかし,歴史・社会習慣・地理的環境等々様々の地域にひとつのスタンダードが成り立つのだろうか。習慣と異なるスタンダードを押し付けられると感じる人々がきっと現れるだろう。

正義と正義が衝突するとき,力で争ってきたのがこれまでの歴史だ。歩兵の力で正義を広めたのがローマなら騎兵の力で正義を広めたのが元だろう。海軍力で正義を広めた国もあった。軍事力が正義を体現していた時代があったのだ。他にも経済力や政治力・外交力など種々の力での争いがある。

どうすれば正義と正義の戦いで両者が満足できるあるいは妥協できる結果が得られるのだろうか。勝った方が負けたほうの言い分に耳を貸し,勝ち過ぎないようにするしかないように思うのだが。

 

愛国行進曲(2013.2.16)

昭和12年,詞:森川幸雄,曲:瀬戸口藤吉,唄:藤山一郎

 「見よ東海の空あけて旭日高く輝けば」という歌。右翼の街宣車などが大音量で流していたりもするので,好き嫌いはあるだろう。

 この歌は第1次近衛内閣の頃,内閣情報部により歌詞が公募された歌で,国民歌謡とされたものである。日中戦争が本格化していきつつある時期だった。当時の基準で,「日本の真の姿を讃え帝国永遠の生命と理想とを象徴し国民精神作興に資するに足るもの」ということで選ばれ,審査された。歌詞の審査は乗杉嘉寿,片岡直道,穂積重遠,佐々木信綱,河合酔客,北原白秋,島崎藤村,曲の審査は岡田国一,内藤清五,橋本国彦,信時潔,山田耕筰,小松耕輔,堀内敬三,近衛秀麿であった。

 この歌には当時から賛否があったらしいが,日本が進出した南方ではかなり広まったらしい。

 1番の歌詞は現代でも通用する歌詞だと思うが,2番,3番の歌詞は帝国憲法および当時の時代が書かせた詞であり,現在の日本国憲法には合わず,時代にも合わない。しかしながら,私の感想は,他国の国歌(の歌詞)と似ている・・・というか,他国の国歌にはこの愛国行進曲に似たものがあるということだ。君が代の雰囲気に似た他国の国歌は知らない1)

 メロディー自体は私は嫌いではないし,1番の歌詞も悪くないと思う。1番の歌詞が嫌われるとすれば,「旭日高く輝けば」という箇所が「旭日旗」を連想させるということだろうか。これには,旗には罪はないと言いたい。あるいは「金甌無欠ゆるぎなき」というところが嘘っぽいということだろうか。しかし,雅歌ということなら,金甌無欠でもよいのではないかと思う。

 2番以降の歌詞は現代では適切とは言えないが,当時どうだったかというのは十分に判断できない。私が,現代で,国歌を公募するなどという案に反対する理由は,公募すればこの歌の2番以降のような,時代性を強く持った歌詞になってしまうのではないかと危惧するからである。

 この歌を嫌う人がいることは解らなくはない。あえてそのような人々の前でこの歌を唄うことはない。他にも素敵な歌が沢山ある。

1)      イギリス国歌などは平和主義的であるようにも感じるが,宗教的色彩を感じる。

 

青い背広で(2012.2.19)

昭和12年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:藤山一郎

 「青い背広で心も軽く」なのだが「今夜言おうか打ち明けようかいっそこのまま諦めましょか」などとうじうじぐずぐず・・・楽しんでる感じを受ける。

 国内ではこのような歌が流れていたが,この年,支那事変1)が始まっている。南京事件もこの年である。中国の公式見解は日本軍が南京占領時に大量虐殺をしたとしているようだが,白髪三千丈の類のように思う。戦時なので死者はでたであろうが,当時の南京の人口をはるかに超える人数を虐殺したとする見解は納得できない。少なくとも信頼できる当時の記録にはこのような記録はないようだ。記録がないことはそのような事実が無かったということを証明するわけではないが,状況証拠にはなる。中国が主張する死者数が時の経過とともに増加していることも数値の信憑性を疑わせる。私は原資料を研究したわけではないので南京虐殺の有無を積極的に論じるつもりはないが,この問題について発言しようとする人はあったとする論となかったとする論の両方を一通りは勉強しておくべきだ。良くわからないからとりあえず謝っておこうという姿勢は問題を増幅する。また,当時日本軍が戦った相手は蒋介石の中華民国であり,中華人民共和国ではない。また,中華民国には米独の支援があった。

この年の初めに,近衛内閣は「蒋介石の国民政府を相手にせず」と言ってしまっているが,戦っていた相手は汪兆銘でも毛沢東でもなくやはり蒋介石だろう。蒋介石はその後毛沢東に敗れ台湾に押し込められた。中華人民共和国の建国は昭和24年だ。日本は中華民国と昭和27年に平和条約を締結,戦争状態を完全に終了している。

1)現在では日中戦争と呼ぶこともあるが当時は支那事変と呼んでいた。戦後「支那」が侮蔑語だとされたことによる。また,互いに宣戦布告した戦争状態では当事国以外は中立を守る義務があるが,単なる軍事衝突である事変に関しては,当時の国際法上,第三国が一方の国に支援をすることが可能だったらしい。

 

青い背広で(2012.5.3)

昭和12年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:藤山一郎

 「青い背広で心も軽く」で始まる軽快な歌である。「純なあの娘は仏蘭西人形」とあり,フランス人形的な顔立ち・姿が好ましいと感じられていたのだろう。「ながいまつ毛の可愛い乙女」ともあり,目元にもポイントがあったようだ。こころうきうきわくわくという感じを受けるが,実際は「今夜言おうか打ち明けようか いっそこのまま諦めましょか」とウジウジぐずぐずしている。初々しいとも言える。

 実際には,フランス人形的な顔立ちは日本人好みとは言えないのではないだろうか。タイトルの「背広」からフランスが出てきたのだろう。「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりにも遠し せめては新しき背広をきて・・・」1)

尚,「青い背広」というのはブルーではなくグリーンだという話を聞いたことがある。「目に青葉」がブルーの葉っぱでないのと同じだというのだ。

もともと日本語には,有彩色をあらわす言葉は「あか」と「あお」しかなかったらしい。他の色はどう表していたかと言うと,物の名前だ。だいだい色というのは「だいだい」の色という意味で,水色・茶色・空色などが現在も使われる。昔だと「はなだ色」とか「萌葱色」「山吹色」などが使われたのではなかろうか。〔この項,文献等では未確認。〕

虹には色の境目がない。この境目がない虹を7色に分けたのはニュートンである。

昔は異なる文化圏の交流が少なかったので色の分け方は文化によって異なる。したがって外国語で色を言ったり聞いたりするときには注意が必要だ。brownyellowでも最近は混乱があるようだ。「赤犬」とは茶色の犬であり,yellow dogであるらしい。茶色は抹茶,煎茶,番茶のどれだろうか。

1)萩原朔太郎:「旅上」(「純情小曲集」大正14年)

後付の注(2012.5.6

) 昔の色名に関して,「エメラルドの伝説」の項で似たようなことを書いていた。ちょっと前に書いたことを忘れているようになってしまったが,そのまま残すことにした。

 

赤い帽子白い帽子(2014.3.17)

昭和12年,詞:武内俊子,曲:河村光陽

 「赤い帽子白い帽子仲よしさん」と始まる歌。

 私が小学生の頃(昭和30年代前半)は体育の時間や運動会では,リバーシブルの赤白帽を着用した。紅白に分かれて戦うというのは源平の昔から続いているのだろう。玉入れの玉や大玉ころがしの大玉は赤と白だった。

 この歌では通学時に女の子が赤白帽を被っているようだが,昭和30年代の小学生は通学時に赤白帽を被ることはなかったと思う。女子は帽子を被っていなかったのではないかという気がする。男子は野球帽が定番だった。駆逐水雷(という名称だったと思う)という遊びをするのに,前つばのある帽子が不可欠だったからである。この遊びは水雷艦長という名でWikipediaに掲載されている。駆逐戦艦という名もあるようだ。帽子のつばが前・横・後にくるように被ることで戦艦・駆逐艦・水雷艇を区別するので前つばのある帽子が不可欠だったのだ。赤白帽にも小さなつば?がついていたが,小さすぎてこの遊びには適さなかった。Wikipediaによればルールは地方により種々のものがあるようだが,戦艦は駆逐艦に勝ち,駆逐艦は水雷艇に勝ち,水雷艇は戦艦に勝つという三すくみの関係は共通だ。私が遊んだのは基地があるタイプである。鬼ごっこの要領で,敵にタッチした(された)時点で勝負になるが,三すくみの関係で自分より強い相手からは逃げ,弱い相手を追いかけることになる。強い相手にタッチされたときは拿捕というのが私たちのルールだった。相手の基地に抑留されるのである。抑留されたものは相手基地で救出を待つのだが,抑留された者同士が手をつなぎ,一端が基地に触れていればよく,味方が抑留者の誰かにタッチすれば手をつないだ全員が救出されたので,味方が近くに来れば,拿捕された者も救出されようと移動した。

 歌詞には「ランドセルしょって」とあるので,当時からランドセルが一般的であるかのようである。ランドセルの原型は幕末に西洋式軍隊を導入する際オランダから輸入したものとされている。これが小学生にひろまったのは(皇太子時代の)大正天皇のご入学時に乃木希典が献上して後,東京から順次ということらしい。

私は福岡県で小学校に入学したが,ほぼ全校児童が布製の肩掛け鞄(ショルダーバッグ)を使用していたと記憶している。小学校の途中で三重県の学校に転校したが,ここではほぼ全児童がランドセルだった。布製の肩掛け鞄は中学生の定番になっており,皮製の手提げ鞄は高校生の定番だった。

 転校して驚いたのは,他に,運動会のときに足袋で走ることだった。前の学校では裸足で走るのが普通だったのだが。

 これらは学校が立地していた地域の経済状態を反映しているのかもしれない。ただ流行が伝播していくのに時間を要しただけかもしれない。当時はテレビは電車に乗って街頭テレビがある場所まで行って,他人の頭越しに観るような時代だった。

 なお,この歌では女の子が二人で通学しているようだが,私が最初に入学した小学校は家の目の前にあり,私は個別に通学していたように記憶している。転校してからは,町内会ごとに通学団というものがあり,1年生から6年生まで集合して団体で登校していた。下校は同級生(同学年)で途中まで一緒に帰り,途中から道が違うので流れ解散という形での帰宅だった。通学団対抗リレーは小学校の運動会の華だった。

 

裏町人生(2012.12.25)

昭和12年,詞:島田磬也,曲:阿部武雄,唄:上原敏/結城道子

 「暗い浮世のこの裏町を」と始まる歌。この歌を聴いたことが無いわけではないが,「演歌チャンチャカチャン」1)の印象のほうがはるかに強い。この演歌チャンチャカチャンは演歌を20曲以上集めてそれぞれのワンフレーズをつなげてメドレー風に唄ったものだが,その最初の曲がこの裏町人生だった。

 演歌チャンチャカチャンには圧倒的存在感で登場しているが,この当時,この曲は演歌ではなかっただろう。流行歌ということだ。確かに歌詞は藤圭子以降の演歌と通じるものがあるが,曲や唄い方も全く違う。と筆が滑ったが,小節の効き具合など後の演歌的な要素もある。

 またまた筆が滑っている。小節の効いた流行歌は沢山沢山あった。古くからの日本人の歌唱技法のひとつで,歌謡曲以外の曲でも音を震わす似たような技法は普通に使われていたのだった。

 最後は「泣いて泪が枯れたなら明日の光りを胸に抱く」と終わる。途中までは世をすねているようだが,最後にこのように希望を持つということはまだまだ後の怨歌にはなっていない。というより,藤圭子などとは別世界の歌だ。

 この年,国宝名古屋城の金鯱の鱗58枚が盗まれた。40万円もするらしいが,犯人は鱗を融かして2130円で売ったらしい。宝塚少女歌劇の座席券が30銭,90日間ヨーロッパ一周旅行の料金が6500円という時代の話だ。サントリーの角瓶は8円,米10 kg216銭とのことだ。ついでに言えば,教員の初任給は50円くらいだった。

金鯱の鱗は,その前には正徳2年(1712年)に大凧の金助によって3枚盗まれている。

1) 「演歌チャンチャカチャン」(昭和52年,詞:?,曲:?,唄:平野雅昭)

 

かもめの水兵さん(2013.8.18)

昭和12年,詞:武内俊子,曲:河村光陽

 「かもめの水兵さん 並んだ水兵さん」という歌。「白い帽子白いシャツ白い服」というところは少し早口に唄わなくてはいけないが,1番から4番まで毎回現れるので慣れてくるだろう。

 現在の日本では,子供が「水兵」という言葉に馴染みがあると思えないのであまり唄われないのかも知れないが,歌としては悪くない歌だ。

 カモメは日本の歌にしばしば登場する。子供の頃,海の絵を描くと,船を描き,ついでに4分休符を横にしたような形のカモメを描いたような気がする。実際にカモメを見たかどうかの記憶は定かではないが。

 子供の頃からこのような擬人化された歌を聴いたり,話を聞いたりしていることから日本人の精神の中にアニミズム的な精神が残っていくのではないだろうか。世界中にこのような擬人化がなされた話があるが,草木国土皆悉成仏の思想と人間は神に似せて造られたとする思想の分かれ道はどこにあったのだろうか。

 もっと新しい童謡でも擬人化された動物の歌がいくつもある。このような歌により自然を大切にする心が育まれていくと考えるので,ぜひこのような歌は唄い継いでいって欲しい。

 

かわいい魚屋さん(2013.4.21)

昭和12年,詞:加藤省吾,曲:山口保治

 「かわいいかわいい魚屋さん」とはじまる歌。昭和13年にレコード化されている。

 この歌は幼稚園のお遊戯会だったかなんかで演じた。

 幼稚園のころの記憶はほとんどない。写真が2枚ほど残っていて,そのうちの一枚がこの魚屋に扮した写真なので,記憶というより記録に残っているだけだ。首尾よくやったのかどうかも記憶はない。天秤棒を担いで,奴凧のようなキンキラキンの衣装を着ているようだが白黒写真なので本当にキンキラキンなのかどうかは不明だ。

 幼稚園のもう1枚の写真は集合写真である。今,手元に無いが,聖マリアだったか聖ヨゼフだったか,そのような名前が頭についていて,しょっちゅうお祈りをさせられていたような記憶がある。先生のほかにシスターが何人かいた。私の目にはシスターは先生より格上に見えた。そのシスター達もどうていさまと呼ばれていたおばさんがやってくると緊張振りが私のような子供にもひしひしと伝わってきた。それだけである。何をしてあそんだのか,どのように通園していたのかなどの記憶は一切ない。

 私の記憶力が弱いだけなのかもしれないが,小学校ころまでの記憶はほとんどない。あまり楽しくない生活だったのではないだろうか。自宅付近の記憶はあるが,これも写真が残っていたからではないかと思う。今ではこれらの写真も行方不明なので,「かわいい魚屋さん」の写真がアルバムのどの辺りに貼ってあったか不明なので,ひょっとしたらこれは小学校かも知れない。

 小学校での記憶はもっと多くなるが,それでも,毎年あったはずの学芸会の記憶は1回分しかない。笠地蔵で主役をやったときのことだ。主役と言ってもお地蔵さん役でただ立っていただけのように思う。台詞があったかどうかの記憶もない。タイトルは地蔵だが,地蔵に笠をかけるほうが主役というのが正解だろう。

 いずれにせよ,この歌を聴くと,魚屋に扮した私の写真を思い出す。

 

軍国子守唄(2019.10.17)

昭和12年,詞:山口義孝,曲:佐和輝禧,唄:塩まさる

 「坊や泣かずに ねんねしな 父さん強い 兵隊さん」と始まる歌。

 戦時歌謡というのか軍国歌謡というのか知らないが,そのような歌のひとつ。陸軍省から非常時歌謡というお墨付きを得た『軍国の母』1)などという歌もある。もともと日本の歌謡曲(当時にこの言葉はなかったかも)は浪花節調のお涙頂戴物が少なくなく,軟弱なものと思われていたので,あえて「軍国」とつけて時代に逆らわないようにしたのだろう。中には時代の波に乗ろうとしたものもあったかも知れないが,本音を「軍国」の衣で隠したものも少なくなかった。歌詞も文字通りの歌があれば行間を感じ取る歌もある。この時代はそういう時代だった。「汽車の窓から 笑って失敬 するでしょね」というのも,そうなることを恐れてはいるのだがそこまでは言えないということだ。

1)  「軍国の母」(昭和12年,詞:島田馨也,曲:古賀政男,唄:美ち奴)

 

軍国の母(2019.9.13)

昭和12年,詞:島田馨也,曲:古賀政男,唄:美ち奴

 「こころおきなく祖国(くに)のため 名誉の戦死頼むぞと」と始まる歌。

 「白木の柩が届いたら」「お前の母は褒めてやる」とは何と悲しい歌だろうか。

 この歌を聴いて,戦死を賛美するとんでもない歌だと思う人もいるだろう。そのような人と議論することを好まないので,他人の前でこのような軍国歌謡を選んで聴くことはないし,ましてや唄うことはない。

 しかし,私にはこの歌は母親の深い悲しみの歌としか聞こえない。

悲しみをこのような形でしか表現できない状況にしたのは軍部だろう。とはいえ,軍とは本質的にそのようなものだから非難しても仕方がない。当時のことはよくは知らないが,断片的な知識から,最も悪いのはマスコミだと思う。戦意を煽ったというしかない。軍部に強制されたというのは怪しい。情報を操作されていたというのも,操作していたのはマスコミ内部の人間だったのではないか。マスコミに煽られ,戦争は拡大していった。戦争の拡大が利益になると考えた勢力があったのだ。もちろんこれらの勢力に属する人々あるいはこれらに踊らされた人々はそれが正義だと信じていたのだろう。ただこれらの人は,人にはそれぞれの正義があるということを理解できなかったのだ。独善的な正義ほど恐ろしいものはない。正義をふりかざされると,日ごろからその問題をよく考えて強い信念おを持っているのでない限り,反論は難しくなってしまう。

この歌の関係者がどのような思いでこの歌を作ったのかは解らないが,解釈のしかたはいろいろあるはずだ。

 

人生の並木路(2013.6.23)

昭和12年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:ディック・ミネ

 「泣くな妹よ妹よ泣くな」と始まる歌。

 『検事とその妹』という映画の主題歌らしいが,この映画に関しては全く知らない。調べることも止めておこう。

 歌詞は兄と妹二人きりで故郷を捨てたと言っている。詞には文字通りの道路を歩む兄妹が書かれているが,これはタイトルにも明示されているように人生を歩む比喩である。苦労の質・量に関する記載は一切ないが,さぞかし厳しいものであろう。それでも「わが世の春はきっと来る」と信じて,「希望に燃えて」進んでいこうという歌だ。

 今は世の中が豊かになったが,戦後のある時期より前は世の中ほとんどが貧しかったので,他人と比較して苦労が多いということはさぞかし大変な生活だったのだろう。そのような中でも希望を捨てずに力を合わせて前を向いていこうという歌だ。「春は来る」と信じてと書いたが,メロディーから感じられるのは「春は来る」と自分自身に言い聞かせという印象だ。苦しいときに自分に言い聞かせるために唄う歌だろう。

 私がディック・ミネに抱く印象はこのような苦境には無縁なダンディボーイ・・・私が本当に知っている時代にはオジサンになっていたが。

 

すみだ川(2014.4.30)

昭和12年,詞:佐藤惣之助,曲:山田栄一,唄:東海林太郎(台詞:田中絹代)

 「銀杏返しに黒繻子かけて」と始まる歌。「あゝそうだったわねえ・・・・」と比較的長い台詞が入る。この長い台詞により,歌の背景が良く解る。

 私が実際に聴いたのは東海林の唄ではなく,後に島倉千代子が唄ったほうだ。

 この歌のような状況は江戸時代から戦前までずっと続いていた状況で,戦後になってなくなってしまった状況であろう。私にとっては芝居の中で観る状況であり,昔はこうだったのだろうと想像する世界だ。

 

青春日記(2013.10.6)

昭和12年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:藤山一郎

 「初恋の涙にしぼむ花びらを」と始まる歌。

 あまり聴いた記憶はないが,歌は楽譜で覚えた。詞は5音と7音が繰り返す。やはり定型詩は意外性は少ないかも知れないが,安心でき,心が安らぐ。メロディーも私が感じる古賀メロディーそのもので心地よい・・・というか,編曲にもよるのだろうが,ギターで弾くとき,無理をしなくてもよいのでストレスを感じないのだ。

 

妻恋道中(2014.6.11)

昭和12年,詞:藤田まさと,曲:阿部武雄,唄:上原敏

「好いた女房に三行り半を」と始まる歌。

今の人には「みくだりはん」1)と言っても通じないかもしれないが,夫から妻への離縁状のことである。重婚は禁止されていたから,相手に対しての再婚許可状のような意味もあっただろう。江戸時代には,文字を書けない者は,直線を3行半書けば良いとされた。但し,それなりの立場の者には慰謝料というような感じの種々の手続きもあったようである。

妻が離婚を望む場合にはこれほどは簡単ではなく,縁切寺に逃げ込むしかなかったようだ。縁切寺に逃げ込めば離婚調停をしてもらえる。調停が不調の場合,3年間縁切寺に篭っていれば離縁できたようだ。江戸時代からストーカーはいて,ストーカーからの保護施設もあったということだ。

この歌は「惚れていながら惚れない素振り それがやくざの恋とやら」と,渡世の仁義のため情を捨てて旅に出る股旅物なのだろう。なんとなく,アウトローの世界の一つの典型的ストーリーのような気がするが,ひょっとしたらこの辺りが元祖かもしれない。

1)      其方事不叶心候ニ付(改行)此度離縁致シ候然ル上者(改行)向後何方エ縁付候共差構(改行)無之仍如件(改行)日付,名前(爪印)(改行)宛名という形式で,離縁の理由は『一身上の都合』と同様,具体的な内容をくどくど書くようなことはしていない。江戸川柳に「去り状は口説いた文の十分の一」というのがあるそうだ。

 

早起き時計(2013.11.19)

昭和12年,詞:富原薫,曲:河村光陽

 「ちっくたっく ちっくたっく ぼーんぼん」と始まる歌。

 いまでは機械式の振り子やテンプで時を進める時計は少なくなってしまった。「ちっくたっく」というのは振り子時計の音だ。速度としてはAndanteというところだろうか。テンプ時計は16ビートを越える速度で『チチチチチチ』と聞こえる。もちろん時計のサイズにより振り子などの周期は異なるだろうが,長針は1日に24回転,短針は1日に2回転することは決まっているので適した歯車の歯数はおのずから決まってきて,振り子などの周期はそう自由に設定できるものではない1)

 ところで,時計は早起きどころか徹夜で働いているのだ。老人は朝早く目覚めるが子供にとって朝は眠い。そのような朝「おはよう おはよう 夜が明けた」と時を知らせてくる時計に,もう起きているのかと驚いている子供の歌かとも思うが,歌詞をみると早起きしろと子供を起こしている時計の歌のようだ。早起き奨励の歌のように感じ,こどもなら,もっと寝かせてといいたいんじゃないかと思う歌だ。

1)テンプは1秒間に2往復半するのが標準らしい。

 

マロニエの木蔭(2016.7.24)

昭和12年,詞:浜口淳,曲:細川潤一,唄:松島詩子

 「空はくれて丘の涯(はて)に 輝くは星の瞳よ」と始まる歌。

 「若き日の夢の面影」を「偲ぶ」歌。

 曲は私にはタンゴに聞こえるが,タンゴとは何かは知らない。これはタンゴだということで過去に聴いたいくつかの曲に印象が似ているというだけで,共通点は何かなどの理論的なことは全く解らない。

 日本へは戦前にアルゼンチン・タンゴが入ってきたらしい。この曲はその影響をうけているのだろうか。

 この年,盧溝橋事件で日中戦争が始まる。

 

若しも月給が上がったら(2013.12.25)

昭和12年,詞:山野三郎,曲:北村輝,唄:林伊佐雄/新橋みどり

 タイトルと同じく「もしも月給が上がったら」と始まる歌。

 「パラソル」「帽子と洋服」などを買いたい,故郷から両親を呼びたい,「ポータブル」を買って「タンゴ」を踊ろう,「風呂場」を建てて・・・などと夢を掛け合いで唄う。

 「ポータブル」とは持ち運び可能という修飾語だろうが,非修飾語が示されていないので何かは解らない。「タンゴ」を踊ろうということなので恐らく可搬型蓄音機だろう。

 最後は「いつ頃上がるのいつ頃よ」「そいつがわかれば苦労はない」との掛け合いで終わる。私が子供の頃,この歌がでてからかなりの年月がたっているとは思うのだが,「そいつがわかれば苦労はない」というフレーズは使っていたように思うので,これはかなりの流行語だったのではないか。

 

山寺の和尚さん(2012.8.31)

昭和12年,詞:久保田宵二,曲:服部良一,唄:コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ

「山寺の和尚さんは」と始まり,猫を鞠代わりに蹴って遊ぶ和尚さんが1番,酒代わりに渋茶を徳利に入れて飲む婿養子の旦那が2番,3番は腹を太鼓代わりに打つ色街のお酌さんの歌である。童謡では2番以降の歌詞が変えられている。

「ダガジクダガジクダガジクダガジク」というのは理解できないが意味はないのだろう。

 最初の和製ジャズらしいが,「ジャズ」とは何かが理解できないので,そういうものかと漠然と感じるほかない。アドリブでコール・アンド・レスポンスなどがあればジャズ的な演奏かと思うがブルー・ノート1)とか言われても音感が悪いので「?聞いたことがない和音だな」くらいしかわからない。まあ,この箇所は掛け合いかという箇所もあるが,とにかく,この曲は新趣向の曲だ。

1)      ジャズで使われる音階らしい。

 

流転(2014.1.31)

昭和12年,詞:藤田まさと,曲:阿部武雄,唄:上原敏

「男命をみすじの糸に」と始まる歌。

歌詞は「かけてさんしちさいのめくずれ」と続くが,歌詞の表記をみると「かけて三七二十一くずれ」とある。

この1番の歌詞はよく理解できないので,私は長い間『妻恋道中』1)と混同していた。『男命を賭けて長脇差永の旅』という風にだ。途中から『妻恋道中』になってしまうのだ。今,この歌の歌詞をじっくりと読んでみても,「みすじの糸」は三味線以外に思いつかない。三味線に命を賭けていたのに,賭博に身を持ち崩してしまったのだろうか。「三七」はブタで破滅を意味しているのだろうか。サイコロの目1から6を全て足すと21になるので「二十一」を『賽の目』のあて字とするという話を聞いたことがある。単にサイコロ・花札に溺れてしまったということであろうか。あるいは「二十一」を表すために掛け算の九九を用いて「三七」としただけかもしれない。

2番の「どうせ一度はあの世とやらへ」などからも渡世人の歌かと思える。3番では「男を捨てて」「俺も生きたや恋のため」とあるので,結局は恋のためには生きられないということだろう。後の『兵隊やくざ』2)などには兵隊が賭博をしている様子が描かれていたように思うので,この歌は三味線を極めようと努力していたのに徴兵されて今では兵隊やくざかということかとも思うが,実際の軍隊で賭博がどのていど行われていたのか,私には全く解らない。たとえしばしば軍隊内で賭博が行われていたとしても昭和12年にそのような内容を歌として発表することはできないのではなかったかと思う。

いずれにせよ,当時の人には意味が解ったのだろう。人生は思いどおりにはいかないという不条理の歌だと思うので,今となっては時代背景が異なり,歌詞が不可解なのも当然かもしれない。

いろいろ考えながら,少し調べてみたら,映画「流転」(原作:井上靖)の主題歌らしい。もっと調べれば詳細がわかるかも知れないが,歌から受ける印象ということで,ここまでで止める。

1)      「妻恋道中」(昭和12年,詞:藤田まさと,曲:阿部武雄,唄:上原敏)

2)      「兵隊やくざ」(昭和40年,大映映画。主演:勝新太郎)

 

露営の歌(2012.10.28)

昭和12年,詞:薮内喜一郎,曲:古関裕而,唄:伊藤久男,中野忠治,松平晃,霧島昇,佐々木章

 「勝ってくるぞと勇ましく誓って故郷をでたからは」と始まる歌。

 東京日日新聞と大阪毎日新聞が日中戦争の戦意高揚のために「進軍の歌」として公募した歌詞である。北原白秋や菊池寛らが「露営の歌」と題し,古関の作曲によりレコード化され,「進軍の歌」のB面に収録されたので次点だったのだろう。。

 もともと進軍の歌として考えられているので,行進にはあいそうだ。古関の曲は日本兵の腿を高く上げる行進に合いそうだ。しかし歌詞はどうだろう。

 「死んで還れと励まされ」,「笑って死んだ戦友が」,「東洋平和の為ならば何の命が惜しかろう」などという歌詞は,今の基準で言えば無責任すぎる。当時でも,徴兵された兵士やその家族にとっては気持ちよく唄える歌ではなかったであろう。とは言え,このような歌は嫌いだといえる雰囲気もなかっただろう。

 「東洋平和の為」ならば戦争以外にやることがあったと思うのだが。三国干渉のときなど,耐え難きを堪えたのに。我が国の外交は他の国に負けているように感じられる。引き下がるかと思えば突然高圧的になる。どうも知恵が足りない。多くの国民そしてマスコミも同じで,私もその知恵が足りない国民の一人だ。もっと歴史から学ばなければならないだろう。

 いずれにせよ,戦死した兵士やその家族を思うと,私はこの歌を唄う気になれない。「東洋平和」などというものではなく,祖国や家族を守るためというのなら話は違うが。

 ただ,この歌を歌う人を非難しようという気は全く無い。当時唄った人々には共感をもって唄った人も多数いるだろう。当時生まれても居ない私がこの歌を知っているほど広く唄われていたようなのだ。命の重さは時代と場所によって異なり,現代の基準で過去を批判することは間違いである。歴史は学ぶものであって非難するものではない。現代から見て非難されるべきと思われる歴史があったとしても,その歴史は教訓を得るために学ぶものであり非難すべき対象ではない。歴史を学ばないものこそ非難されるべきである。

 「東洋平和の為」と信じて出征した将兵も多かったかもしれない。「天に代わりて不義を討つ」2)という心情だったかもしれない。「天に」代わろうというのが不遜なのだが。

1) 「進軍の歌」(昭和12年,詞:本多信寿,曲:辻順治,唄:陸軍戸山学校軍楽隊)

2) 「日本陸軍」(明治37年,詞:大和田建樹,曲:深沢登代吉)

 

別れのブルース(2012.7.6)

昭和12年,詞:藤浦洸,曲:服部良一,唄:淡谷のり子

 「窓を開ければ港が見える」という歌。淡谷のり子のまねというと大抵この歌が唄われていた。

飛行機が一般的な乗り物になったのはかなり新しい。それまでは外地へ行くには船が普通だった。だから,昔の歌には港やマドロスが良く出てくる。港があれば船員相手の酒場もあり・・・。

「メリケン波止場」とあるので外国航路なのだろう。港町での「はかない恋」の結末は「二度と逢えない心と心」というわけだ。月並みな気がするが,この手の主題ではこの歌はかなり古いほうだ。この歌が大ヒットしたために,このような情景が月並みに見えるようになったのだろう。

メリケン波止場で思い出したが,昔は「メリケン粉」というのがあった。今では「強力粉」というらしい。

以前は「うどん粉」「メリケン粉」「小麦粉」と時代によって変ってきたのかと思っていたが,「うどん粉」は「中力粉」,「てんぷら粉」の主成分は「薄力粉」で,これらは全て小麦粉だが,小麦の種類が違ってグルテンの含有量が異なり・・・用途が違う。「強力粉」は主としてパン用らしいが「パン粉」とは言わない。

粉には原料を表す名がつく場合と用途を表す名がつく場合が多いようだが,産地や特性で名を付けることもあるようだ。しかし,「粉」というのはかなり細かい粒子の集合だ。この定義からすれば現在使われている「パン粉」は「粉」ではないのではないか。などと考えていたら「道明寺粉」を思い出した。これもやはり「粒」のような気がする。「きな粉」は黄ない粉だろう。「コーンスターチ」は「粉」すら使っていない。明石焼きに使われる「浮粉」のような製法?がらみの命名法もあるようだ。。

こんなことを考えていたら,子供の頃,「あられ」と「おかき」と「せんべい」は何が違うのかなどと考えていたことを思い出した。いまならインターネットで直ぐに違いを検索できるのだが,当時はこんなことで暇をつぶしていた。

 

何日君再来(2014.7.18)

昭和12年,詞:貝林,曲:案如,唄:周璇

 「好花不常開好景不常在」と始まる歌。

 後に李香蘭(山口淑子),渡辺はま子,翁倩玉(ジュディ・オング),ケ麗君(テレサ・テン)そのほか多数の歌手が唄っている。長田恒雄による日本語の詞は「忘れられない あのおもかげよ」と始まる。

 「いとし君いつまたかえる」という意味は「何日君再来」とほとんど同じだが,歌詞の中身は中国語と日本語ではすこし違うようだ。中国語の歌詞では今別れた後,今度合えるのはいつかという歌詞だが,日本語の歌詞では既に別れた後で,想い出をあれこれ挙げたあと貴方はいつ帰ってくるのという歌詞になっている。

 中国に行く度に,以前は歌謡曲?のカセットテープ,その後はCDを買ってきた。いろんなタイプの曲があるが,この「何日君再来」は私が中国的雰囲気を感じる代表的な曲のひとつだ。

 

愛国の花(2016.6.7)

昭和13年,詞:福田正夫,曲:古関裕而,唄:渡辺はま子

 「ましろき富士の気高さを」と始まる歌。

 昭和12年に国民歌謡として作られ,13年にレコード化された。

 桜,梅,椿,菊が歌われている。時代の要請だろう,銃後の守りという雰囲気の詞だが,曲は優しい曲になっている。

 

雨のブルース(2013.4.8)

昭和13年,詞:野川香文,曲:服部良一,唄:淡谷のり子

 「雨よ降れ降れ悩みを流すまで」とはじまる歌。ブルースの女王淡谷のり子である。1番にも2番にも「ああ帰り来ぬ心の青空」という詞がある。暗い歌だが,暗い気分のときに聴くと心が静まるような気がする。

 私の記憶の中には本人の歌唱より,ものまねによる淡谷の唄のほうが多い。声にも特徴があったし,唄う姿にも特徴があった。本人の姿は唄う姿よりも毒舌おばさんの印象のほうが強い。

 

海ゆかば(2012.4.2)

昭和13年,詞:大伴家持,曲:信時潔

「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍」という歌である。戦争末期にはいくら大本営発表でも負け戦をそうそう隠しおおせるものではない。この曲と共に負け戦の放送がなされた。

この詞は万葉集巻18にある(国歌大鑑4094番)歌の一部である。曲は昭和12年に作曲されたが,遺骨の送迎や儀式,玉砕の放送などで使われており,戦争末期にはよく演奏されたと思いこの記事は最初昭和19年のところに記載したので以下昭和19年の話になる。

昭和193月にはインパール作戦が始まる。日本軍にとって悲惨な戦いである。6月には米軍はサイパン島に上陸開始,マリアナ沖海戦では空母を含む多くの航空機を失って大敗した。長距離飛行が可能な日本軍機は遠方から攻撃をして成功してきていたが,米軍のレーダーの進歩によりこの長所が生かせなくなり,ベテラン搭乗員を多く失い,新米搭乗員では長距離飛行の後,レーダーで支援された米軍機には全く歯がたたなかった。米軍の新兵器近接信管1)も威力を発揮した。7月にはサイパンの守備隊は玉砕する。また,グアム島の日本軍守備隊も玉砕,10月のレイテ沖海戦でも惨敗である。

日本の新兵器は風船爆弾である。ほかに,組織的な特攻攻撃も始めた。

2月には新聞に「竹槍では間に合わぬ,飛行機だ」という記事がでて,東条首相が激怒したとのこと。竹槍訓練はいくらやっても気休めにもならないだろうことは誰もが感じていたのではないだろうか。戦時下のマスコミは戦意向上に協力していたし,報道に対する規制も今よりはるかに厳しかっただろうが,それでもこのような記事が掲載されたのだ。平成23年の大震災で,原発の冷却水が止まればメルトダウンの危険があるということは多くの人が感じていたことだろう。にもかかわらずマスコミは当初メルトダウンの可能性・危険性に関してはほとんど報道しなかった。ある部分では戦中から全く進歩していないといわれても仕方ないだろう。

昭和196月には洞爺湖付近で大噴火が生じ,昭和新山ができた。12月には東南海地震が発生した。

1) 砲弾は命中して信管に力が加わると爆発する。近接信管は砲弾に内蔵したレーダーを利用して目標から15m以内に近づくと爆発する信管。これ以前はタイマーで爆発させるものが使われていたが,爆発までの正確な時間設定は困難だった(どれだけの時間に設定すべきかを知ることが困難)。

 

鴛鴦道中(2016.8.19)

昭和13年,詞:藤田まさと,曲:阿部武雄,唄:上原敏/青葉笙子

 「堅気育ちも重なる旅に いつかはすれて無宿者」と始まる歌。

 私の世代からするとやや古すぎる感のある歌。私が子供の頃には江戸時代のやくざ者の映画がかなりの数あったので,歌詞の雰囲気には馴染があるが,曲は古く感じる。

タイトルの中国語訳は『夫唱婦随的旅途』となるらしい。中国語を知らない私でも,何となく意味は日本語タイトルと合致しているように感じる。しかし,このタイトルから受ける印象と歌詞から受ける印象とはやや合わない。

「おしどり」夫婦と言えば,相思相愛の夫婦というイメージだが,夫婦が対等というより妻が夫に従うというイメージを持つ。『夫唱婦随』は文字通り後者の意味だ。もっとも実際のオシドリのカップルはオスのほうが献身的にメスの周りに寄り添う方が多いらしいが。

歌詞から受けるこの夫婦の印象は,強い妻の印象だ。後の東映映画の極妻のような強さではない。どちらかというとダメ夫にしっかり者の妻という組み合わせの印象を受ける。「丁と張りゃんせ わしが身を」と歌詞ではまだ夫を立て,夫に勝負させようとしているが,極妻ならば自分で勝負にでるのであろう。

 

カチューシャ(2014.3.9)

昭和13年,詞:ミハイル・イサコフスキー,訳詞:関鑑子,曲: マトヴェイ・ブランテル

 「りんごの花ほころび川面に霞たち」と始まる唄。原曲を唄ったのはリディヤ・ルスラノヴァとのこと。

 この歌にはソ連軍の戦意高揚のための歌詞もあるらしいが,その歌詞は知らない。おそらくは「きみなぁ〜きさぁとぉにぃも」という詞も『花はどこへ入った』1)と同様,兵士との関連があるのだろうが,私が知らない,歌詞の最後のほうでは戦意高揚の詞になっているのだろうか。

 実際,自走式ロケット弾ランチャーの俗称がカチューシャである。

この歌は私にとっては唯一のロシア語(もどきであり,ロシア人相手には通じないだろうが)で唄える歌である。歌詞は学生歌集にあったと思うのだが,今はその歌集が見つからない。

1) 「Where have all the flowers gone」(昭和30年,詞:Pete Seeger,曲:Pete Seeger)こちらは反戦フォークとして有名。

 

悲しき子守唄(2015.2.4)

昭和13年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:ミス・コロムビア

 「かわいいお前があればこそ」と始まる歌。

 『旅の夜風』1)と共に,松竹映画『愛染かつら』の主題歌である。

『愛染かつら』は川口松太郎の小説で,何度も映画やテレビドラマになっている。最初の映画化である昭和13年版では田中絹代と上原謙が主役で,その後もこの二人のほか,水戸光子と龍崎一郎,京マチ子と鶴田浩二,岡田茉莉子と吉田輝雄などで映画化され,テレビでも長内美那子と吉田輝雄版のほか,何度もドラマ化されている。主人公の高石かつ枝と津村浩三の名は日本人なら誰でも知っていたのではないか。昭和3大メロドラマというのがあればこの『愛染かつら』と『君の名は』はそのうちの二つだろう。

この歌も何人もの歌手が唄っている。昭和37年版の映画主題歌を唄ったのは歌手「高石かず枝」の公募で選ばれた15才の少女であり,その後高石かず枝を芸名として活躍した。『愛染かつら』は医師津村浩三と子持ちの未亡人看護婦高石かつ枝の話であり,高石かつ枝は歌手・女優の高石かつ枝ではなく岡田茉莉子が演じた。

病院長を継ぐ予定の津村と子持ち未亡人で看護婦として働く高石という身分違いのハードルの高い恋,このような状況で「かわいいお前があればこそ つらい浮世も何のその」と唄われる子守唄である。

昭和37年頃はまだ,昭和13年と同じく,このようなストーリーが受け入れられる社会の状況だったのだ。

1)「旅の夜風」(昭和13年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:霧島昇/ミス・コロムビア)

 

湖上の尺八(2016.7.15)

昭和13年,詞:深草三郎,曲:明本京静,唄:伊藤久男

 「名残の月の影淡く 今日も戦さの夜は明けて」と始まる歌。戦時歌謡だ。

 「いまは形見の尺八を 吹けば血は湧き肉躍る」と勇ましくも見える歌詞になってはいるが戦死した戦友への鎮魂歌だろう。メロディーもそのようになっている。伊藤はあの声で勇ましく唄っているので,戦意高揚のための歌のようにも聞こえるが,厭戦歌ととらえられないよう意図して勇ましく唄ったのではないだろうか。

 

シナの夜(2013.9.26)

昭和13年,詞:西條八十,曲:竹岡信幸,唄:渡辺はま子

 「シナの夜シナの夜よ」と始まる歌。「シナ」は漢字表記だったのではないかと思うが,たまたま見た歌詞がカタカナ表記になっており,理由があるのかもしれないとカタカナ表記のままにした。

 私でも知っているくらいだから,渡辺はま子の代表曲の一つだろう。中国的な雰囲気はある。

 私はまだ生まれていないのでこの頃の渡辺はま子は知らない。しかし,インターネットでいくつかの唄を聴き比べると,若い声に聞こえるのがあり,後の渡辺はま子とは違って,かなり退廃的に聞こえる。長谷川一夫と李香蘭で映画も作られている。昭和15年には李香蘭のレコードも出ているよう(未確認)なので李香蘭が唄っているのかとも思うが残念ながら私は李香蘭の歌声は知らない。山口淑子として『3時のあなた』1)の司会をしていた頃や議員の頃はテレビで観たことがあるがその頃の歌声の記憶もない。

 この退廃的な歌声が人気の元だったかもしれない。

1)     「3時のあなた」:昭和43年から始まったフジテレビ系のワイドショー。初代MCは高峰三枝子(月・火)と木本教子(水・木・金),昭和44年に木本から山口に交代。昭和45年からは水曜日は久我美子に代わったが,木金について昭和49年扇千景に変わるまで担当した。

 

上海だより(2012.10.15)

昭和13年,詞:佐藤惣之助,曲:三界稔,唄:上原敏

 「拝啓誤無沙汰しましたが僕もますます元気です」という歌。戦時歌謡というところだろう。戦地から銃後の家族への手紙だ。メロディ・詞ともに明るく,検閲済の手紙のようだ。

 心から詞に書かれているように感じて従軍していたなら,あまりにも脳天気だろう。家族に心配をかけまいとあえてこのように書いたのかもしれない。兵士の心情はわからない。

同じ戦地からの手紙なら本多重次の手紙1)のほうがはるかに心情が表れている。

 唯一心が動かされるのは,「待ってて下さいお母さん」という箇所だ。妻や子ではなく母親に呼びかけているということは,未婚の若い兵士を想像させる。このような未来ある若者を動員して,無益な戦に進んでいったのだ。

 戦争へと進んでしまった理由はいくつもあるだろうが,そのひとつに職業軍人の官僚化いうようなことはなかったのだろうか。昇進するには手柄を立てる場所が必要というわけだ。戦争が激化すればポストが増えるなどとは考えなかったかどうか。

 もちろん,国内事情だけで戦争へ突入したわけではない。諸外国の戦略に乗せられたということがあるだろう。当時の米・ソ・独の戦略がどのようなものであったのか,もっと勉強しないと正確なところはわからないのだが。

 日清・日露の戦争に勝ち,第1次世界大戦でも戦勝国となったので多くの国民はこの中国との戦争が最終的に世界大戦になって負けてしまうということを全く想像していなかったのであろうから,現実に出征兵士が家族の中にいない人々はこのような歌に違和感を抱かなかったのかもしれない。

 日本国内では第2次世界大戦に関する教育が不十分であろう。最近のことは良く知らないが,私が学生時代には世界の四大文明とか,縄文・弥生の時代から始まって,江戸時代くらいまでしか行かなかったような気がする。阿片戦争などはやったので,19世紀くらいまでだろう。そろそろ20世紀の歴史も正しく教える時期ではないだろうか。嘘でも100回言い続ければ本当になるというが,これを実践して100万回も言おうという人々もいるようだ。特定の史観に囚われず,多面的な歴史を教えていくべきであろう。善悪・正邪と二分するのではその時点での考え方に影響される。事実とその当時の社会や思想の状況をまとめて正確に教育すべきである。

1)   「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」:長篠の戦いに従軍中の本多重次が陣中から妻に宛てた手紙。日本一短い手紙として知られる。お仙は重次の息子。

 

上海の街角で(2016.10.20)

昭和13年,詞:佐藤惣之助,曲:山田榮一,唄:東海林太郎,台詞:佐野周二

 「リラの花散るキャバレーで逢うて」と始まる歌。

 間奏の間に比較的長い台詞が入る。

 「君を愛していりゃこそ僕は 出世しなけりゃ恥しい」と「僕」は上海から北支へ行くから故郷で待てと別れる歌だ。当時はこのような時代だったのだろう。

 

上海ブルース(2016.11.19)

昭和13年,詞:北村雄三,曲:大久保徳二郎,唄:ディック・ミネ

 「涙ぐんでる上海の 夢の四馬路の街の灯」と始まる歌。

 私などには単なる昔の異国情緒の歌なのだが,当時は本人・家族・知人が大陸と関わり合いがあった人々が少なくなく,異国情緒というものとは異なるいろんな思いを持つ人がいたのだろう。

 『夜霧のブルース』1)と雰囲気が似ていると思ったが,作詞者の北村雄三と島田磬也は同一人物らしい。ということは作詞・作曲・歌手が同じで,『夜霧の〜』のほうも舞台は上海で,別れた女性(明確に書かれているわけではないが,「上海〜」では「君」,『夜霧の〜』では『可愛いあの子』と表現されている)を思い出している状況も同じだ。ただ,「上海〜」では「思いは乱れる」とやや軟弱な男のように感じられるのに対し,『夜霧の〜』では『これが男というものさ』とか『嵐呼ぶよな夜が更ける』と,これからギャングと決着をつけに行く男の歌になっている。これは『夜霧の〜』が松竹映画『地獄の顔』の主題歌として作られたことと関係がありそうだ。

1) 「夜霧のブルース」(昭和22年,詞:島田磬也,曲:大久保徳二郎,唄:ディック・ミネ)

 

人生劇場(2012.2.3)

昭和13年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:楠木繁夫

「やると思えばどこまでやるさ」昭和34年に村田英雄により唄われ大ヒットした。私が知っているのは村田バージョンだ。人生劇場は尾崎士郎の小説で,何度も映画化されている。

「俺も生きたや仁吉のように義理と人情のこの世界」。当時は生き方の美学を持つ人が多かったのだろうが,昨今はこの美学が失われてきているように感じられる。

この年,東京市バスに木炭バスが登場した。油不足をなんとかしたかったのだろう。この頃日本は支那事変を戦っており,日本の中国大陸進攻を快く思わない列強は日本に対する締め付けを強めていた。当時はアフリカ・インド・東南アジアと進んできたヨーロッパ諸国,太平洋側からやってきたアメリカ,北からやってきたソ連が中国大陸での利権を求めていた。各国種々の事情があり,本格的に進出したのが日本だった。昭和16年にはABCD包囲網1),特にアメリカの影響力によりどこからも石油が輸入できなくなった日本は日米開戦に踏み切ることになる。

木炭バスは普通のバスのガソリンの代わりに木炭の不完全燃焼で得られる可燃性ガス(主として一酸化炭素)を燃料として使うバスである。パワーが出ないのは化学の知識があれば直ぐに解るだろう。

当時のエンジンは気化器でガソリンを気化して空気と混合してエンジン内で燃焼させる。

このガソリンの代わりに可燃性ガスを流すのだ。ピストンで混合気を最も圧縮した時点2)で点火して爆発的に膨張させることによりピストンを動かす。このときの出力は吸気時と爆発時の温度差が大きいほうが大きいが,木炭バスでは走りながら木炭を不完全燃焼させて燃料ガスを発生させているので吸気時の燃料温度が高い。また,ガソリンはCHOの化合物なのでCOよりは燃焼時の発熱量は大きいだろう3)。更に燃焼後のガスは燃料分子1個あたりのCHの数が多いほうが燃焼後のモル数が増えるので圧力も高くなるということからもガソリンのほうが高出力になる。

1)America, Britain, China, Dutch

2)ピストンが上死点にあるとき。実際はこの時点よりも少し前に点火する。エンジンの回転速度に応じてこの点火時期は調節する必要がある。

3)温度は発熱量だけでなく,比熱にも関係する。

 

人生劇場(2013.8.7)

昭和13年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:楠木繁夫

 「やると思えばどこまでやるさ」と始まる歌。

 昭和34年に村田英雄がカバーしており,私にとってこの歌は村田英雄の歌である。

 「人生劇場」は尾崎士郎の小説である。何度も映画化されている。歌詞に「吉良の仁吉は男じゃないか」とあるが,もちろん小説やこの歌の時代は吉良の仁吉の時代ではない。吉良の仁吉は幕末に清水次郎長と兄弟分で,荒神山の血闘で義理のために斃れたことで,私が子供の頃でも浪曲などで有名だった。

 

陣中髭くらべ(2016.12.18)

昭和13年,詞:徳土良介,曲:佐藤富房,唄:東海林太郎

 「おいおい戦友 おい戦友 貴様のちょび髭ナチョランゾ」と始まる歌。

 詞には泥鰌に似た髭のほか,カイゼル髭,山羊髭,虎髭,鯰髭,馬占山が登場する。馬占山は中国(中華民国・満洲国)の軍人。

 この歌がどのような性格の歌かよく解らないが,軍が作った軍歌ではないだろう。戦意高揚のための戦時歌謡や厭戦歌でもないように感じる。コミックソングで舞台が戦場というだけのような気がするが,厭戦気分を和らげようとする歌なのかもしれない。無理に解釈しようとするといろんな解釈が可能になりそうには思うが,当時の社会の雰囲気を知らない私には全て想像になってしまう。

 曲は演歌師がバイオリンでも弾きながら唄っているような雰囲気を感じる。初めて聴いたときには高田浩吉かと思った。私の中では東海林太郎はいつも真面目くさって唄っていてこのような歌を唄っているとは思わなかった。

 一般人にとって社会情勢は与えられるものであって自分が作るものとは認識されていなかっただろう。与えられた状況・・・今の場合は戦場・・・の中で僅かでも楽しみを見出そうという歌ではないのだろうか。

 

旅姿三人男(2013.2.6)

昭和13年,詞:宮本旅人,曲:鈴木哲夫,唄:ディック・ミネ

 「清水港の名物は」と始まる歌。ミネが中国演奏旅行中に本人の了解を得ずに本名を1字変えた三根耕一名で発売されたが,三根の帰国後昭和14年にディック・ミネ名に戻された。

歌詞には,清水一家の代表的子分「小政」,「大政」,「森の石松」がそれぞれ1番,2番,3番に登場する。最近は知らないが,昔は清水一家の映画が何本も作られていたように感じる。

清水次郎長に関しては,昔の人間なら皆知っているだろうが,今の人はどうだろうか。私が知っていることを書いてもよいのだが,知っている人も多いだろうから,知らない人はネットで検索してもらえれば良いと思う。

 歌とは全く関係ないが,この年四つ珠の珠算が尋常小学校4年に導入された。それまでは算盤と言えば五つ珠が主流だったので,当初は五つ珠の一番下を糸でくくって使用された。昔は算盤を使って割り算をするときには割り算の九九に従って珠を動かすというのが一般的だった。

昭和に入った頃から掛け算の九九をつかって得られた数を引いていく割り算の計算法が広まっていって,私が珠算をならっていたころには既に掛け算の九九を使って割り算を行っていたが,私が持っていた算数の参考書には割り算の九九が掲載されていた。

割り算の九九というのは「にいちてんさくのご」「にっしんのいちじゅう」あるいは「さんいちさんじゅうのいち」などという具合だ。「にいちてんさくのご」は10/25であることを示す。「ろくさんてんさくのご」なども同様に30/65であることを示す。「さんいちさんじゅうのいち」は10/33余り1であることを示している。「しさんしちじゅうのに」は30/47余り2である。これらを九九として憶えたのだ。余りは被除数の適切な桁に加えることになる。「はちにかかし」などと言いながら20/8を計算するときに,10の桁の2を減じ,1の桁に4を足す。「かかし」は「下加4」という意味だ。(このとき商は1)。「にっしんの」「さんしんの」「ししんの」などは全て20/230/340/4などを表し,結果は全て「いちじゅう」である。

 

旅の夜風(2012.4.20)

昭和13年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:霧島昇/ミス・コロムビア

「花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道」という歌。川口松太郎作「愛染かつら」が映画化されたときの主題歌である。医学博士となった医師津村浩三と子持ち未亡人看護婦を主人公とする障害克服・すれ違い系メロドラマである。歌詞は周囲の反対を押し切って行くのが男の道だということなのだろう。最後は「待てば来る来る愛染かつら やがて芽を吹く」と期待を歌っている。

この年,エンリコ・フェルミがノーベル物理学賞を受賞している。オットー・ハーンはウランに中性子をあてると核分裂が生じることを発見した。ハーンの実験結果が核分裂だと解釈したのはリーゼ・マイトナーだといわれているがマイトナーは論文共著者から外され,後にハーンがノーベル化学賞を受賞したとき,マイトナーは受賞を逸している。なお,論文共著者としてマイトナーを入れるかどうかを判断したのはハーンだと思うが,このこととの関係の有無は不明だが,ハーンはドイツ人男性でマイトナーはユダヤ人女性だ。

昭和14年にはフランスで,ウランの核分裂の際に中性子が複数個放出されることが見出された。即ち,核分裂の連鎖反応の可能性が明らかになったのである。後にフェルミは米国に亡命し,最初の原子炉を作り,マンハッタン計画では原爆製造の重要な指導者になる。

 

音信はないか(2020.4.13)

昭和13年,詞:野村俊夫,曲:能代八郎,唄:小野巡

 「月の露営に 雁が鳴く 空を仰げば 五羽 六羽」と始まる。

 雁を見て「音信(たより)はないか 故郷から」と思うのは,蘇武の故事1が人口に膾炙していたのか。

 故郷との便りが途絶えて久しい戦地で,雁を見て故郷へ伝言を頼む。現代なら電波の入らぬ場所で何にどうやって通信を託そうとするだろうか。私などは雁の捕獲など思いもよらぬことだから,ビンに手紙を入れて海に流すことくらいだろうか。

1)匈奴に捉えられた蘇武は漢帝への手紙を雁の足に結び付けて放った。(漢書蘇武伝)

 

中国地方の子守唄(2014.1.24)

昭和13年,曲:山田耕筰

 「ねんねこしゃっしゃりませ 寝た子のかわいさ」と始まる歌。

 もともと岡山県西南部発祥らしい。メロディーは耳に馴染むが歌詞は「しゃっしゃりませ」などという言葉を使う地域に住んだことが無いせいか,馴染めない。「

「しゃっしゃりませ」の意味が不明だが,感覚的には「さっしゃりませ」と同じなのだろう。こちらは映画などで「火の用心さっしゃりませ」と聴いたことがある。うろ覚えだが大奥の夜回りだったような気がしている。だとすると江戸城中の言葉ではないのだろうか。「さっしゃる」も「ませ」も敬語だろう。ここで敬語をつかっておきながら「起きて泣く子の ねんころろ つらにくさ」などと歌っている。守子歌と解釈すれば心情は理解できるが,「宮へ詣ったとき」「一生 この子の」「まめなこと」を拝むというのだから,親・兄弟が子守をしながら唄うようにも聞こえる。

 岡山弁というのは,長門勇をテレビで観てという程度しか聴いたことがないのだが,「しゃっしゃりませ」などとはいわずに「せられー」とか「しんちゃい」とか言うのではないかと思ってしまう。

 

チンライ節(2019.9.5)

昭和13年,詞:音羽時雨,曲:田村しげる,唄:樋口静雄

 「手品やるある 皆来るよろし 上手くゆこなら 可愛がっておくれ」と始まる歌。

 「刀なんぞは ぷよぷよ(不要不要)あるよ」とか「娘きれいある 見とれるよろし」などと平和な情景である。

 繰り返される「チンライ チンライ チンライ チンライ チンライライ」が印象に残る。「珍来」の字を当てている歌詞もあったが「請来」ではなかろうか。ついでにいえば多くの歌詞が「ぷよぷよ」を「不要不要」としているが「不用不用」ではないのだろうか。

 この歌をネット検索すると少なからずヒットするが,軍部のこの歌への対応として,平和な情景が気に入り,レコードを多数買い上げ,宣撫工作に利用したという記事と,満洲軍は厭戦的だと嫌っていたが兵隊たちは好んで唄っており,最終的に軍隊内での歌唱を禁止したという記事がある。どちらが本当か解らないが,どちらも本当である可能性はある。

 尚,ここで使われている言語は協和語らしい。協和語とは興亜語,日満語,大東亜語などとも呼ばれた言葉で満洲国の建国初期に用いられた言葉で日本語を簡易化したものらしい。例としては『私日本人アルヨ』というような言葉だ。

 また,当時の軍部は,悪いのは蒋介石、中国人民が悪いわけではないので日中(当時は日支か?)友好をというような論理を持っていたらしい。似たような論理を別の時代にも聞いたことがあるような気もする。

 

波止場気質(2012.12.12)

昭和13年,詞:島田磬也,曲:飯田景応,唄:上原敏

 「別れ惜しむな銅鑼の音に」と始まる歌。なんとなく,歌詞の様子が腑に落ちないとおもっていると「船を見送るこの俺が流す涙は恋じゃない」男のほうが船を見送っている。船で出て行くのは男だとばかり思っていたのは私の偏見だろう。

歌の背景に関して全く知らないので,勝手に想像してみよう。

まず,タイトルから,男は波止場で働いているのだろう。少なくとも港の付近に住んでいる。港町の女と同じで次から次へと新しい別れがあり,別れには慣れている。ただ,新しく知り合い別れていく相手は多くは船の関係者で男である場合が多かったろう。船員や乗客にしても,女性の乗客と知り合うことは滅多にないことではなかろうか。

さて,女性だが「可愛いあの娘の楯となり護り通して来た俺だ」とあるので,知り合ってからの期間は長いだろう。「護り」かたにもいろいろあるが,金の力か物理的腕力か,あるいは精神的にということだろうが,物理的腕力ではなかろうか。根拠はないが金の力ということはなさそうだ。そのように護られてきた娘が恐らく外国だろうが,船で遠くへ行くとはどのような状況なのだろうか。遊びに行くとは思えないし,外国留学でもないだろう。玉の輿に乗ったということかもしれないが,私の印象では一家で移民するのではないだろうか。地球の裏側か,近くの大陸か知らないが,新天地に行けば何とか生活がなりたつのではないかと一家を挙げて移住するのではなかろうか。移住先での苦労は想像できるが,内地にいるよりはましだろうと「ほんにあの娘の幸福を」祈るというのであろう。

しかし,移住者の実際の苦労は想像を絶するものだったらしい。

 

バンジョーで唄えば(2016.9.19)

昭和13年,詞:藤浦洸,曲:服部良一,唄:中野忠晴,

 「雲と一緒に山を越え 心もかるく気もかるく」と始まる歌。

 「バンジョーは陽気なバカボンド」とあるが,「バカボンド」の意味を知らぬまま,漠然と聞いていた。その後も『バガボンド』1)との関係など,考えもしなかった。というより,『バガボンド』も最初は『バカボンド』と思い込んでいて,何か『馬鹿』の派生語の一つという認識だった。遅まきながら今頃になって調べてみると「vagabond: 放浪者,やくざ者,無宿人。」とある。歌詞の意味も解り,これにて一件落着ということだが,昭和14年にはまだ英語を敵国語として回避されるという事態には至っていなかったようだ。

1)「バガボンド」(井上雄彦,『モーニング』,平成10年〜)宮本武蔵を主人公とする漫画。

 

日の丸行進曲(2012.8.17)

昭和13年,詞:有本憲次,曲:細川武夫,歌:四家文子・徳山l・能勢妙子・江戸川蘭子・波岡惣一郎

 「母の背中にちさい手で振ったあの日の日の丸の」と始まる行進曲。この箇所は出征兵士を送った記憶だろうか。改めて歌詞を眺めてみると,当時「日の丸」が嫁入り道具の一つだったことがわかる。また,5番に「地球の上に朝が来る」という箇所がある。このような文はなななかおもいつかないだろうから,川田義雄のあの歌1)はこの「日の丸行進曲」の一節から着想を得たのかとわかり,ミルクブラザーズ2)が活躍した当時は「日の丸行進曲」を知っている人が大勢いたので,パロディという意義もあったのだろう。

「日の丸行進曲」は東京日日・大阪毎日新聞社懸賞募集当選歌である。歌詞をみると,「日の丸」は当時,嫁入り道具の一つだったようだ。歌詞の他の部分で戦意高揚の気分は感じられるが,この新聞社の当時の感性がこのようなものであったのだろう。 両新聞社は支那事変時,南京攻略前後に日本軍の2少尉が百人斬りの競争を行ったと報道した新聞社である。2名の少尉は両名とも終戦時には少佐であったが,戦後南京軍事法廷で裁かれ,昭和23年処刑されている。

この百人斬り記事の真偽は両論ある。中国や台湾ではこれは事実とされているようだ。本人は「百人斬り報道は真実ではない」と述べているらしいが,記事が出た直後の話ではないようだ。日本では事実だとする人々と,事実ではないとする人々に意見が分かれている。毎日新聞社が平成元年に刊行した「昭和史全記録Chronicle19261989」にはこの百人斬りは事実無根だったことが記されているとのことである。

 強く抱く違和感は,記事が出た当時,当事者も記者もデスクも軍も政府も読者も,記事の正誤を論じた様子が伺われないことである。いくら昔のこととは言え,日露戦争でも機関銃に苦しめられたのだ。当時白兵戦がそれほど頻繁に行われたとは思いにくい。両少尉はいずれも軍刀を抜いて白兵戦を行うような立場にはいなかったことは少し調べれば直ぐにわかることだっただろう。斬るとすれば,捕虜か,逃げ遅れた民間人ということになる。これは国際法違反だろう。国際法違反が疑われる記事に対して誰も何もいわない。百人斬りなどという記事を肯定的文脈で掲載する新聞社も情けないが,国民全てがこのレベルまで堕ちていたのだろう。なぜこのように堕落したのか,十分反省して堕落しないように気をつけなければいけない。現在の報道は大丈夫だろうか。

 百人斬りの証拠とされているものには捏造だとか誤りだとか証明されているものもある。双方の言い分を十分聞き,自分なりに十分調査することなしに軽々に一方の主張に組することは厳に慎むべきことである。もちろん,何も知らずにいることは社会人として常識不足であろう。

1)      「地球の上に朝が来る」(詞:川田義雄,曲:川田義雄,唄:川田義雄とミルク・ブラザーズ)

2)      川田義雄が「あきれたぼういず」の後結成したボードビリアングループ。乳兄弟を英訳するとミルク・ブラザーズだという趣旨の歌詞が注1)の歌の歌詞中にある。川田はその後改名して新しいグループ「川田晴久とダイナ・ブラザーズ」を結成している。なお,美空ひばりが「師匠と呼べるのは父と川田先生だけ」と言っているのがこの川田晴久である。

 

満洲娘(2020.3.13)

昭和13年,詞:石松秋二,曲:鈴木哲夫,唄:服部富子

 「私十六 満洲娘 春よ三月 雪解けに」と始まる歌。

 春になったら隣村に嫁に行くことになっていて,その日の夢ばかり見て待っている。最後の「王さん 待ってゝ 頂戴ネ」というのが記憶に残る

 

皇国の母(2013.6.10)

昭和13年,詞:深草三郎,曲:明本京静,唄:音丸

 「歓呼の声や旗の波」と始まる歌。リアルタイムでは知らないので正確ではないが,タイトルは「みくにのはは」だろう。

 歌詞を見ると「東洋平和のためならばなんで泣きましょう国の為」とあり,『国の為に死んで来い』といわせるための歌のように見えるかも知れないが,内容は若い戦争未亡人の歌であり,メロディーからも,『戦友』1)などと同じく,種々の制約のある中で,精一杯戦争の理不尽さを歌った戦時歌謡だと感じる。

 軍歌や戦時歌謡には左右両陣営から種々の意見があるだろうが,意見を言うなら聴いた後で言うべきだろう。

 私はこの歌は戦争の悲惨さを訴える歌だと思うが,現在では悲惨さを訴えるなら他の方法があるので,このような歌を唄う必要はないだろう。

1)      「戦友」(明治38年,詞:真下飛泉,曲:三善和気)

 

麦と兵隊(2012.6.28)

昭和13年,詞:藤田まさと,曲:大村能章,唄:東海林太郎

 「徐州徐州と人馬は進む」という歌。歌詞もメロディーも,行進に使えそうな4拍子の曲なのだが,これで歩くと,俯いて重い足を引きずりながら歩くようなイメージだ。もちろん演奏(アレンジ)により少しは元気よさを出すことは可能だ。演奏により「腿を上げろ」と叱咤されているようにも感じる。

 火野葦平の小説「麦と兵隊」は読んでいないが,過酷な戦地行軍のイメージが伝わってくる歌だ。この曲は,ほんの僅か演奏を変えることにより行軍を叱咤激励するようにも戦地の悲惨さを訴えるようにも変えることができるように計算されてつくられているのではないだろうか。

 

Dana Dana <Dona Dona> <ドンナドンナ>(2017.10.9)

昭和13年,原詞:Aaron Zeitlin,原曲:ショロム・セクンダ

 Dona DonaDonna DonnaDonay Donayなどの別タイトルでも知られている。日本ではドナドナあるいはドンナドンナとして紹介されている。

 市場で売られるために連れて行かれる仔牛の歌である。

 原曲はイディッシュ語らしい。昭和36年にジョーン・バエズが英語詞(タイトル:Dona Dona)を唄いヒットした。私が知ったのはバエズの歌からだが,この少し後だ。日本ではザ・ピーナッツが安井かずみ訳の詞を『ドンナドンナ』のタイトルで発売しているほか,何人かの歌手が唄っている。

 ジョーン・バエズはピーター・ポール&マリーと共に,日本にフォーク・ソング・ブームを起こした源であろう。ボブ・ディランなどは私にはカントリーのように聞こえていた。

 あまり関係はないが,フォーク・ソング・ブームの少し前のロックンロールはプレスリー,フォークとほぼ同時期に日本で発生したエレキバンド・ブームはベンチャーズの影響だろう。その後のグループ・サウンズがビートルズの影響をどの程度受けたのかはよく解らない。ビートルズがいなくてもグループ・サウンズは登場したような気がしてならない。