明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和6年〜
目次
昭和6年 丘を越えて,こいのぼり〔やねよりたかい〕,酒は涙か溜息か,侍ニッポン,女給の唄,花かげ
昭和7年 一番星見つけた,遠足,影を慕いて,銀座の柳,島の娘,チューリップ,天国に結ぶ恋,電車ごっこ,討匪行〔どこまで続く泥濘ぞ〕,涙の渡り鳥,爆弾三勇士の歌,蛍,牧場の朝,満洲行進曲
昭和8年 サーカスの唄,昭和の子供,十九の春,天龍下れば,東京音頭,山の人気者
昭和9年 赤城の子守唄,急げ幌馬車,愛しき草原<ポーリュシカ・ポーレ>,グッド・バイ,国境の町,谷間の灯,ダイナ,並木の雨,ポーリュシカ・ポーレ,山は夕焼け
昭和10年 雨に咲く花,大江戸出世小唄,船頭可愛や,旅笠道中,平城山,野崎小唄,二人は若い,緑の地平線,無情の夢,明治一代女,もずが枯木で,夕陽は落ちて
丘を越えて(2012.9.6)
昭和6年,詞:島田芳文,曲:古賀政男,唄:藤山一郎
「丘を越えて行こうよ真澄の空は朗らかに晴れて」という歌。青春をたたえる歌。高校生レベルの応援歌としても使えそうな歌で嫌いではない。
この年,初の国産飛行機が完成している。また,オート三輪も作られた。満州事変により景気が悪く更に大凶作で多くの国民は極めて苦しい生活だった。
こいのぼり(2012.11.3)
昭和6年,詞:近藤宮子,曲:不詳
「やねよりたかいこいのぼり」という歌。5月の歌としてはまあ良い歌ではないか。
この歌詞からわかることは、当時は平屋の家が多かっただろうということである。2階屋の屋根より高くこいのぼりを上げるのは大変だ。
私が子供のときのこいのぼりは紙製だった。丈夫そうな和紙でできていたが雨が降りだすと急いでしまわなくてはならなかった。木の柱をたてていたように思う。布のほうが作りやすいように思うが,よそのこいのぼりが布製だったかどうかは知らない。いつからだろうか、こいのぼりは化学繊維製のものが多くなり、柱はアルミ合金のつなぎで、使わないときには縮めておけるようになった。こうなると、立てる前に柱を寝かせる場所が不要になるので少し狭い庭でも立てられる。しかし、柱が倒れないよう支線も必要だし、何よりも猫の額のような庭ではこいのぼり自体が隣家に迷い込んでしまうため、町の中では大きなこいのぼりをあげることが次第にできなくなってきた。ベランダや軒下に飾ることができるような,幟とはいえないような小さなこいのぼりも頻繁にみるようになった。
最近ではこいのぼり自体を見ることがかなり減った。一軒で何台も自家用車を保有し、少しばかりの庭は駐車スペースに使われてしまったのだろう。あるいは少子化の影響だろうか。
端午の節句に関連するものでよく見るものは柏餅と粽だけになってしまった。
酒は涙か溜息か(2012.5.18)
昭和6年,詞:高橋掬太郎,曲:古賀政男,唄:藤山一郎
題名どおり「酒は涙か溜息か」で始まる。次の一連で一番が終わる。昔恋した人を思いながら酒を飲む短い曲である。
「古賀ギター歌謡独習」1)という本を見ると4ページ5ページは調弦について書かれていて6ページは音階説明であり,7ページのタイトルが「酒は涙か溜息か」となっている。この7ページにはDm(Dマイナー)のコードという説明があり,Dm,A7,Gmの説明があり・・・ということでこの本の最初の曲がこの曲である。私はこの本で練習したわけではないが,似たような本で独習したので,やはりDmを多用するものだった。
私が小学生の頃,ピアノの類を習っている児童は数えるほどだった。バイオリンなどはもっと少なかったように思う。授業ではハーモニカだったか縦笛だったかである。リコーダなどというものは見たこともなかった。でもギターは映画にも出てきて,(少なくとも私は)弾いてみたいという気があった。中学生のころ安いギターを買ったのだが,「1週間ギター独習」などという本が何種類か売られていて,これを見て練習した。今は手元にないので詳細は不明だが,音階練習からスタートだったと思うので,カルカッシ2)をぎゅっと詰めたようなものだったのだろう。まあ,1週間で,当時人気が高かった映画「禁じられた遊び」のテーマが弾けるようになる3)ことを目指すという感じのテキストだった。
古賀政男系の教則本の場合,「酒は涙か溜息か」に始まり,「影を慕いて」に進み,「湯の町エレジー」を目標にするという具合だった。
1)古賀政男:「すぐ弾ける古賀ギター歌謡独習」(全音楽譜出版社,昭和34年)。
2)私が知っているクラシックギターの教則本。
3)スペイン民謡「Romance de Amor」。種々の編曲の楽譜が発売されており難易度も様々だが,普通の初心者が1週間で弾けるようになるのは最初のメロディー部分だけではないだろうか。
侍ニッポン(2012.7.13)
昭和6年,詞:西條八十,曲:松平信博,唄:徳山l
「人を斬るのが侍ならば恋の未練がなぜ切れぬ」という歌で,郡司次郎正の小説を映画化した際の主題歌ということらしい。主演は大河内伝次郎だとか。大河内伝次郎の映画はリアルタイムでは観ていないと思うが,私が子供の頃,声帯模写の桜井長一郎などによる大河内伝次郎のものまねは何度も聞いた。その後も何度も映画化されており,主人公の新納鶴千代を演じた俳優は何人もいる。徳山lは知らないが,この歌はよく知っているので誰かが歌ったのを聴いたのだろうが,誰が唄ったのを聴いたのか記憶にない。
「新納鶴千代」を「にいろ」と読むか「しんのう」とよむかはどうでもよい。もちろん,作者の意図ははっきりしていたのだろうが,「しんのう」と発表されてしまって直ぐに訂正されなかったことから原作者も容認したのだろうから外野からとやかく言うことはない。
メロディーはなかなか良い。途中の転調は1番の歌詞の「苦笑い」をうまく表していると感じる。
ある程度の時代劇の知識があればこの歌詞は十分いろんな想像ができる歌詞でなかなかよい歌詞だ。映画のストーリー1)を知れば歌詞の意味はほぼ確定されるがそれでも良くできた歌詞だ。郡司の執筆意図2)などを聞くとまた違った意味がにじみ出てきてなかなか味わいがある。要するに,背景を知っても知らなくても,歌詞とメロディーをあわせた歌として良い歌だ。少し古い印象を受けるかもしれないが舞台が幕末に設定されているのだからこれでよいと思う。当時としてはハイカラな歌なのだろう。
1)井伊直弼の落胤と知らずに成長した新納鶴千代の桜田門外の変に関する物語である。
2)(心情?)左翼インテリゲンチャの話を時代を変えて書いた?
女給の唄(2020.4.20)
昭和6年,詞:西条八十,曲:塩尻精八,唄:羽衣歌子
「わたしゃ夜さく酒場の花よ」と始まる。
「弱い女をだまして棄てて それがはかない男の手柄」という時代の歌。「はかない」というのは,当時でも立派な手柄とは思われていなかったのか作詞者の価値判断が入っているのだろうか。いずれにせよ『耐える女』が一般的だった時代の歌だ。
花かげ(2012.3.3)
昭和6年,詞:大村主計,曲:豊田義一
「十五夜お月様一人ぼち」という童謡。「花嫁姿のお姉さま」と嫁いでいく姉を見送り,私もお月様のようにひとりぼっちになってしまったさびしさをうたった歌。嫁に行くというのは結婚するというのとは違い,(違いはしないのだが)よその家の人になってしまうということで,今に比べるとはるかに遠い人になってしまうということだった。こんなことは子供にも解っていたのだ。
この年,柳条湖事件1)を発端に満州事変が始まる。関東軍は5ヶ月で満州全土を占領した。詳しく勉強したわけではないが,柳条湖事件に関して言えば,現在の視点から見れば日本軍の責任を問う声に理があるようにも思える。しかし,これは柳条湖事件だけを見ればの話であって,これにいたる経緯や当時の状況を知れば日本には日本の理があったように思われる。
当時,このあたりは中華民国,日本,ソ連などが利権を巡って争っていた。直接的には争いに参加してはいないが,米独なども狙っていた。中華民国は完全には中国全土を掌握はしておらず,中国内も複数の勢力があった。民族的には,満州族,漢族,朝鮮族,ロシア族,大和族などが入り乱れていたようだが複雑すぎて私はまだ十分理解はしていない。どこが正当な権利を有していたかが微妙な点であろう。私の理解では,もともと満州族の土地なので,清が諸権益を持っていたのである。これが巡り巡って日本の権益になっていた。
阿片戦争以降列強は中国大陸での権益を狙っていた。朝鮮半島の問題で清と大きな戦争をしたのは日本であり,明治27−28年の日清戦争の結果,日本が大きな利権を中国大陸に得ようとしたとき,列強は快く思わず,特に露独仏の所謂三国干渉により,日本は要求を縮小せざるをえなかった。ようやく明治37−38年の日露戦争により,南満州鉄道などの権益を得たのである。第1次世界大戦では山東省のドイツ租借地で日独が戦っている。この頃,大隈重信内閣は袁世凱の中華民国に対華21カ条の要求を突きつけている。要求自体は中国からみれば受け入れがたいものであろうが,英仏露は容認,米独は利権が日本と衝突するため日本の要求を認めず,その後背面から中華民国を支援する。大正10年,ワシントン会議により列強が中国にこれ以上権益を拡大しないような体制がとられ,日本政府はこの体制を守ったといえるだろう。ワシントン体制で,日本はこの地に一定の権益を(当時の国際法上)正当に保有していたが中国はしばしばこれを侵害する。中国にしてみれば不当な日本の権益だというのだろうが,日本からすれば,幕末に締結した諸外国との不平等条約を一歩一歩不平等を解消してきて,この時点で保有している権益は諸大国も認めており正当なものであるとの認識があったであろう。
中国では辛亥革命後,以下必ずしも同時代というわけではないが,孫文,袁世凱,張作霖,蒋介石,汪兆銘,毛沢東などが離合を繰り返しており,米独やソ連も権益拡大を視野に入れこれらの勢力を支援していた。半ば混乱の時代である。
満州事変に次ぐ泥沼の支那事変,大東亜戦争には蒋介石とルーズベルトの謀略と挑発に日本がのせられ突入してしまったという印象を受ける。いくら挑発されても先に手を出すのはよくないという意見もあろうが,これまでの世界史を見てみれば,どちらが正義かは力で決めるというのが当時の認識であったように思われる。兵器の性能向上等により大量破壊が可能な現代では大国同士の全面戦争に対する抑止力が働いているようだが,小国の場合には力が正義というのが未だ現実だ。
当時の中国情勢・・・現在の世界情勢もだが・・・は複雑怪奇で正確な理解はかなり難しい。上記記述には私の浅学のため誤認があるかもしれない。読者は各自学んで・・・特に異なる立場からの意見を・・・自分なりに判断して欲しい。このとき,心に留めておいてほしいことは「歴史は勝者によって書かれる」ということだ。これには敗者による勝者に迎合した歴史記述も含まれる。日本は,昭和20年,敗者となった。この戦争を振り返るとき,父や祖父,人によっては曽祖父がどのような気持・態度でこの戦争を戦ったのかを想像すべきだろう。父祖は極悪非道の人間だったのだろうか。
勝者と敗者あるいは第三者は努力により種々のデータの整合をとることはできるだろうが,経験・習慣が異なるので歴史認識を共有することはできないだろう。第三者も利害が絡む。何度も繰り返すようだが,過去に学ぶことが大切で,学ぶということは他者の歴史認識を鵜呑みにするのではなく,自分自身で考えることだ。
正義の文化もあれば恥の文化もある。欲の文化もありそうだ。その上正義といっても人によって異なる。これらの人々が同じ事象を見て同じ歴史認識になるはずがない。
1) 柳条湖付近で南満州鉄道線路が爆破された事件。この爆破を関東軍は張学良ら東北軍の仕業と断定,その後,関東軍が満州を占領する。実際は鉄道爆破は関東軍の謀略だったということで異論はないようだ。
一番星見つけた(2013.6.16)
昭和7年詞:生沼勝,曲:信時潔
「一番星みつけた」と始まる歌。文部省唱歌(一年)。
一番星といえば宵の明星と呼ばれる金星だろう。いまでも注意していると金星は見えるが二番星,三番星になるとどうだろうか。都会では高層ビルに阻まれ見ることができない上に,明るい照明でとても見ることは出来ないだろう。田舎でも,あちらこちらに街頭がつき,自動車が全く走らないような道ででもなければ,なかなか多くの星を見つけることは困難だろう。私の自宅の付近でも,北極星ですら見つけ出すのは困難だ。冬のオリオン座など天頂に近い星は見えるので,老いたりとはいえ眼のせいだけではなかろう。
小学生の頃は星の観察の宿題がでていた。今の私には,星座を知っていても何の役にも立ってはいないが,役に立たないことを知っていてこそ人生の楽しみがあるのではなかろうか。
この歌だが,聞き覚えはあるが小学校で習ったのかどうかは記憶にない。昭和7年のことは知らないが,小学生は本当にこのような歌を(授業中でない自由な時間に)唄っていたのだろうか。私が小学校に入学したころは田端義夫などを聴いていたのではないかと思う。親は小鳩くるみや川田孝子などを聞かせようとしていたのかもしれないが。
このような歌は,子守を必要とするような乳幼児に唄ってやるような唄のような気がする。
遠足(2016.8.23)
昭和7年,詞:林柳波,曲:弘田龍太郎
「空は青空良い天気 みんな元気に歩きませう」と始まる歌。
私が小学生の頃,遠足と言えば当然歩いていた。小学校を出発するときからずっと徒歩だった。ところが中学では遠足の記憶が無い。1学年で500人くらいだったと思うので,引率が大変だったからかも知れない。田圃道を歩いた記憶もあるのだが,小学校のときのように思う。当時,写真は高価だったのだろう,何かの式典くらいしか撮らなかった。
中学生のときには夏キャンプに行った。キャンプ場まではバスだったが,キャンプ場では付近の山に登った。ハイキング程度の山だ。これが遠足の代わりだったのかもしれない。
そういえば小学校のときから,運動会(中学では体育大会だったかも)の練習では行進の練習ばかりだったような気がするほど行進の練習をした記憶がある。
高校生のときはもっと人数が増えたので,集団ハイキングのような遠足は無理だったのか,バスを使った日帰り修学旅行のようなものだった。それでもまだ,学校周囲を走るマラソン大会はあった。最近は交通が激しく,大人数が徒歩で移動するのは危険なのだろう。
昔に比べれば小学校の児童数は減っているのだろうが,遠足風に団体で歩いているのを見たことがない。貸し切りバスが何台か小学校の横に止まっているのは見たことがあるので恐らく歩かずにバスを利用しているようだ。道路の交通量が飛躍的に増加しているので仕方がないのだろう。
影を慕いて(2011.10.27)
昭和7年,詞:古賀政男,曲:古賀政男,唄:藤山一郎
古賀メロディーの代表作。
ギターを始めた最初の頃は「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「湯の町エレジー」の三曲しか弾けなかったので,生涯で最も多く弾いた曲かもしれない。
「わびしさよ せめて痛みの慰めに ギターをとりて爪弾けば」という感じだった。
森進一がこの歌を唄っているのを聞いたことがあるが,気持ち?が入りすぎの気がする。藤山一郎はやや軽い感じを受けるが,中間で藤山一郎にちかいくらいが良いのではないだあろうか。藤山一郎は,紅白の最後で「蛍の光」を唄っていたころなら現役で知っている。
銀座の柳(2012.12.18)
昭和7年,詞:西條八十,曲:中山晋平,唄:四家文子
「植えてうれしい銀座の柳」と始まる。四家文子は明治39年生まれだからかなりの年配だが,東京音楽学校を主席で卒業した声楽家である。戦後は流行歌を唄うことが少なかったようで,私は古いレコード等でしか聴いたことがないが,ステージでは懐メロも唄っていたらしい。この歌も,最近のタレント歌手では聴いたことがないようなソプラノで,当時の音楽学校卒業生の歌手の多くが唄い出しから十分な声量があるのと同様,堂々たる声量で唄っている。芸者系の歌手とは大きく異なる。
なお,この歌は関東大震災で焼失した銀座の柳1)が,『東京行進曲』2)で『昔恋しい銀座の柳』と歌われたことがきっかけで復活したのを記念する歌だった。復活したこの柳も東京大空襲でほとんどが焼失してしまう。
1) 関東大震災は大正12年だが,銀座の柳は大正10年の道路拡幅で撤去されたらしい。震災では銀座そのものが焼失した。
2) 「東京行進曲」(昭和4年,詞:西條八十,曲:中山晋平,唄:佐藤千夜子)
島の娘(2016.6.11)
昭和7年,詞:長田幹彦,曲:佐々木俊一,唄:小唄勝太郎
「ハァー 島で育てば 娘十六 恋心」と始まる歌。
「主は船乗り 今じゃ帰らぬ波の底」と死別の歌だ。
当時の平均寿命は男47歳弱,女50歳弱だった。織田信長が好んだと伝えられる幸若舞の演目である『敦盛』には『人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり』との一節がある。この一節は天界の時の流れに比べれば人生は短いということを述べており,人生50年ということを言っているのではないらしいのだが,昭和のこの時期の人の寿命と偶然かどうか不明だが,一致している。人の死が今よりはるかに身近だった時代の歌だ。
江戸時代,物語に美しい娘を登場させるときの常套句として使われた『年は二八か二九からず』という言葉がまだ生きていたのだろうか。もちろん二八とは16歳,二九は18歳なので17歳が最も美しいという共通認識だったようだ。昭和のこの頃も16才は適齢期の始めと認識されていたのだろう。
この頃から戦後しばらくまで鶯芸者歌手と呼ばれた歌手が何人かいて,勝太郎はその人気に先鞭をつけた歌手である。勝太郎に次いで市丸,赤坂小梅,豆千代,新橋喜代三,浅草〆香,美ち奴,日本橋きみ栄など多くの芸者出身の歌手が出ている。
なお,この「島の娘」は戦時中は歌詞好ましからずで発禁になっていたらしい。
チューリップ(2012.2.12)
昭和7年,詞・曲:近藤宮子/井上武士
「さいたさいたチューリップのはなが」という童謡である。チューリップは特徴があり描きやすい。幼児に花を描かせるとチューリップが多いような気がするのは私だけだろうか。
このような歌ができた年だが,この年「満洲国」1)が建国された。
「清」は17世紀に女真族のヌルハチが中国東北地方の満洲に「明」から独立して「後金」を建国したことに始まる。「李自成の乱」によって「明」が滅んだとき,ヌルハチは李自成を討伐して国号を「清」とし,女真族の名も満洲族と改名した。その後明を継承して中国を支配・拡張したが,辛亥革命で明治45年(=大正元年=1912年)皇帝愛新覚羅溥儀が退位して中華民国となった。
満州は日露戦争で日露が戦った地である。阿片戦争の例を出すまでもなく,各国が中国における特殊権益獲得を狙っていたことは確かだろう。遅れてきた米国はなかなか足がかりを築くことができずにいた。もちろん中国にも蒋介石のほか袁世凱や張作霖などがいた。毛沢東の力はまだ十分ではなかった。
このような状況の中で日本の関東軍は昭和6年の満州事変で満州全土を制圧した。満洲事変の発端は柳条湖事件(南満州鉄道線路の爆破)で,これは関東軍の謀略によるものだという説が支配的である。当時の若槻禮次郎内閣は満州事変を拡大しない方針であったが,関東軍は従わず,新聞をはじめとして国民の多くも対外強行路線を強く支持した。
満州の地には愛新覚羅溥儀を元首(後に皇帝)として,五族協和2)を掲げた満洲国が建国された。父祖の地に帰って中華民国からの分離独立を宣言したのである。
なお,満州国の防衛には関東軍が当たることになっていたのでこれを日本の傀儡政権とみなすこともできかもしれない。しかし国の防衛を他国にゆだねることだけで傀儡政権とみなすことが妥当かどうかは疑問である。似たような国は現在もある。
満州国は第二次世界大戦では中立を守り,満州国軍はどこへも派兵していないが,満州はB29による爆撃を受け,ソ連軍の侵攻を受け大きな戦渦を受けた。関東軍は高級将校が先頭になって逃げたという話まである。
歴史は勝者によって書かれるのが常である。勝者にとって都合の悪い歴史は消されやすい。消すだけでなく捏造することもある。歴史から学ぶことは重要だが,その歴史が書かれた背景を考えることはもっと重要である。当然のことながら歴史は暗記科目でなく,考えることが役立つのだ。
1)「洲」が当用漢字に無いため現在は「州」と表記される。
2)日本人,漢人,朝鮮人,満州人,蒙古人の協和。
天国に結ぶ恋(2016.9.24)
昭和7年,詞:柳水巴,曲:林純平,唄:徳山l・四家文子
「今宵名残の三日月も 消えて淋しき相模灘」と始まる歌。
『坂田山心中』1)を題材にした歌。作詞の柳水巴は題材からキワモノ狙いと思われることを懸念した?西條八十の変名だそうだが,美しい詞になっている。曲も詞にふさわしい心に残る曲だ。
親の意向で添い遂げられず心中する。文字通り命を懸けた恋だ。強い想いを感じると共に,命の重さはどうなのだろうかなど,他に手段がなかったのかとも思うが,当時としては,また本人たちにとってはこれが最良・最後の手段だったのだろう。
男の家はクリスチャンで,心中の当事者では家の墓にも入れず,別に比翼塚2)が作られたそうだ。
1)坂田山心中: 昭和7年に起きた心中事件。後に女性の遺体盗難事件などもあり,話題になった。
2)長恨歌(白楽天)は玄宗と楊貴妃の物語を歌った七言古詩。この中に「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」の一節がある。比翼鳥・連理枝は一心同体・永遠の愛を表す。
電車ごっこ(2013.4.14)
昭和7年,詞:井上赳,曲:信時潔
「運転手は君だ車掌は僕だ」という歌。新訂尋常小学唱歌(一年)のひとつ。小学校で習ったかどうか記憶はないが,歌は知っている。遊び方も知っているので「電車ごっこ」をしたことがあるかもしれないのだが,頻繁にこの遊びをした記憶はない。
遊び方としては,ロープで人が数人入ることができるほどの輪を作り,輪の中に一列に並ぶ。先頭が運転手で最後尾が車掌,後は乗客ということだ。これに使うようなおもちゃの切符とか切符切用の鋏などがあり,これを入れる首から掛ける鞄もあった。私も持っていたような気がするが,遊んだ記憶がない。そもそも,自宅近くを走っている電車は,駅の改札で切符が切られ,車内で切符を切るのはバスだった。もちろんバスごっこなどの記憶は全くない。
昭和7年には5・15事件で犬養毅首相が殺された。満洲国の建国などもあった。
ロサンゼルスオリンピックでは南部忠平が三段跳び,宮崎康二・遊佐正憲・横山隆志・豊田久吉は男子競泳800mリレーで,陸軍中尉男爵西竹一が馬術大障害でなど多くの金メダルを取った。競泳だけでも日本は金5,銀5,銅2の成績で,2位の米国の金5,銀2,銅3に勝る第1位の成績である。但し,この年のオリンピックは昭和4年に始まった世界恐慌の影響で参加国は前回の約半分で,ホッケーなど日・米・印の3カ国しか出場していない。ホッケーの日本の成績は銀メダルである。
恐慌の影響は日本にも及んでおり,欠食児童は20万人を突破,自殺や一家心中が増えている。
討匪行(2013.10.1)
昭和7年,詞:八木沼丈夫,曲:藤原義江,唄:藤原義江
「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」と始まる歌。手元の歌本には歌詞が15番まである。前半は飲まず食わずの雨中行軍での歌である。馬も斃れ,煙草もない。友軍の飛行機から乾パンを投下してもらってようやく命をつなぐ。
これは戦意高揚のための歌なのだろうか。「日の本の我はつわものかねてより草生す屍悔ゆるなし」とあるから,そうなのかもしれない。しかし,このような行軍の悲惨さを聞かせて戦意高揚が図れるものだろうか。行軍と聞いただけで戦意が失せてしまいそうだ。
他の部隊は大変な苦労をしているのだ。自分たちの部隊はまだましな状態だと思わせる歌だろうか。
このような苦難を経て,歌の後半では敵を倒す。「敵にはあれど遺骸(なきがら)に花を手向けて懇ろに」とある。最後は「満蒙の闇晴れ渡る」と正義の戦を強調して終わる。敵の遺骸に対する対応は実際どうだったのか判らないが,この歌詞のようであるべきだという考えは支持されていたことは判る。
戦いの正義は我にあるというのは,当然のことだろう。正義が敵にあると認識したなら,戦えないだろう。現代の目で見れば意見が分かれるかも知れないが,それは立場が違うからであり,実際のところは当時の目で見ても双方が共にそれぞれ正義の戦いと信じて戦ったのであろう。もちろん,戦いの指導者の中には利害に重点をおいていた者も居ただろう。
この歌は戦争の悲惨さを銃後に伝えるための歌であろう。あからさまに戦争は嫌だとは言えるわけもないが,せめてその悲惨さを伝えることによって銃後で赫々たる戦果を聞いて自分も早く参加したいと考えている幼少年に,更にはその周囲の人々に考えを変えさせようと意図した歌ではなかろうか。発表できなくなることを懸念してところどころ配慮は見られるが。
しかし,この歌は関東軍参謀部が選定した,軍制定の正式な軍歌らしい。詞だけを見ると反戦歌のように見えても,メロディーとさらに歌唱法により勇壮な軍歌に聞こえる。いくつか聴いてみたが,特に戦時中の歌唱と思われるものは勇壮な軍歌である。しかし,渥美清が唄った「泥濘−雪の夜(討匪行)」などは鎮魂歌である。今となっては,歌の成立過程を詮索するよりも,聞いてどう感じるかのほうが重要であろう。
なお,インターネットではこれを昭和17年の曲とするのもあるようだが,私は7年説をとった。8年という本もあった。
涙の渡り鳥(2012.4.28)
昭和7年,詞:西條八十,曲:佐々木俊一,唄:小林千代子
「雨の日も風の日も泣いて暮らす」といいながら,「泣くのじゃないよ泣くじゃないよ」と自身を励ます歌。最初に聴いたのは中学生か高校生の頃ではないかと思うので小林千代子ではないと思うのだが,誰が唄っていたのか思い出せない。最初は子守唄の一種かと思っていた。歌詞をあまりよく聞いていなかったのだろう。三沢あけみも唄っているようだが,彼女でもないように思う。多岐川舞子は全く時代が合わない。
昭和7年には海軍将校により犬飼毅首相が暗殺された。5・15事件である。2・26事件は将校が兵を率いてのクーデターだが,5・15事件は将校を含むグループによる暗殺事件と言って良いだろう。
爆弾三勇士の歌(2016.10.24)
昭和7年,詞:与謝野寛,曲:陸軍戸山学校軍楽隊
「廟行鎮の敵の陣 我の友隊すでに攻む」と始まる歌。
第1次上海事変で敵陣を突破して自爆した3名の兵士が軍神と称賛された。
先頭にたって称賛していたのが新聞各社である。毎日新聞系で公募して一席になったのがこの歌である。朝日新聞系も公募しておりこちらは『肉弾三勇士の歌』である。
この攻撃はもともと自爆による敵陣破壊を目的とした攻撃ではなく,極めて危険ではあるが敵陣破壊後には帰隊する戦術だったと聞いている。三名の兵士は1等兵だった。後の特攻は自爆することにより敵を撃破する目的であるから,この攻撃は特攻とは異なるものだったはずである。
この肉弾攻撃を新聞社は激賞し,そのせいかどうかは不明だが,このような戦術は中止されることなく,この後にも同様な戦死者が何人も出ている。
航空機による特攻は士官もしくは下士官が行った。飛行機操縦には訓練が必要だから,兵隊で飛行機操縦ができるものはいなかっただろう。戦争末期は無理やり?志願させられた者もいただろうが,少なくとも物理的力で特攻機に押し込まれたものはいないだろう。将校は基本的には職業軍人であり,下士官も兵からのたたき上げだとしても一般的な兵隊より長く軍隊の飯を食っている。学徒動員の士官であっても形の上では職業軍人だ。無言の強制により特攻に出撃せざるを得なかった者もいるだろうが,他に有効な手段はないと考え,自発的に志願して特攻に出撃した者もいた。同じような情況が無差別自爆テロの実行者の背後にはあるのかも知れないが,特攻にせよ爆弾三勇士にせよ,標的は軍事目的であり,無差別自爆テロとは明らかに異なるものだ。
いずれにせよ,このような情況に陥らないような社会をつくるためには人文・社会系の科学がもっと発達すべきであろう。自然科学は人類のために大きなパイをつくることにかなり成功していると思う。しかし,パイが大きくなってもより大きなピースをとる者が増えればいつまでたってもパイは全員にいきわたらない。自然科学はパイを大きくしただけではなく,パイの取り合いに使う道具も進化させ,強力なものを作り出した。人文・社会系の科学は(私が知らないだけかも知れないが)これまで大きな成果を出していない。それどころか,成果主義のようなものまで生み出して,その成果主義により,自分自身が切り捨てられようとしている。自業自得だと笑って見ているわけにはいかない。人文・社会科学が進歩を止めれば,何が人類の行動を律するのか。人類の未来のために人文・社会科学は頑張って欲しい。
蛍(2012.10.21)
昭和7年,詞:井上赳,曲:下総皖,
蛍というタイトルの曲が幾つもあるようだが,これは「蛍の宿は川端柳」とはじまる歌。
子供の頃は蛍をよく見た。川端ではあったが柳はなかったように思う。しかし記憶は曖昧でどこで見たのか良く解らない。遠くまで蛍を見に行くという記憶はないので,近くの川付近にいくらでもいたのだろう。捕まえて虫かごにいれていた記憶もあるのだが,餌として何をやったのかなどの記憶もない。最近では蛍を見たこともない。川端にも行かないが。
蛍の光は化学的な発光らしい。蛍光灯は蛍光という物理現象を利用している。
物質に光を照射すると物質内の電子が光を吸収して高エネルギー状態になる。高エネルギー状態の電子はエネルギーを放出して安定な低エネルギー状態に戻るが,このときのエネルギー放出の形が発光のとき,これを蛍光あるいは燐光という。電子の高エネルギー状態が発光しやすい状態のときは,直ぐに発光して安定な低エネルギー状態に戻るので外部から光を照射しているときだけしか発光しない。これが蛍光である。電子の高エネルギー状態が発光しにくい状態のときは電子が長い間工エネルギー状態にとどまるので外部からの光照射をやめても電子は高エネルギー状態になっていてすこしづつ発光する。この発光は弱いが長時間続く。これが燐光である。
蛍光灯は水銀蒸気を詰めた放電管で,水銀ランプの一種と言っても良いかもしれない。水銀蒸気の放電は強い紫外線を出すが,ガラスは紫外線を吸収するのでガラス管でつくると紫外線はあまりランプ外に出てこない。石英ガラスは紫外線の吸収がすくないので,石英ガラスで水銀蒸気の放電管をつくると外部に強い紫外線がでてきて殺菌効果などがある。これが水銀ランプである。ガラズで放電管をつくり,内部に蛍光塗料を塗っておけば,放電で得られた紫外線が塗料に吸収されて蛍光を放つ。これが蛍光灯である。
蛍光はブラウン管にも使われていた。ブラウン管では発光させるための光の代わりに電子ビームが使われる。蛍光材料を選べば赤・青・緑など自由に発光する色を選ぶことができる。
牧場の朝(2012.6.22)
昭和7年,文部省唱歌,(詞:杉村楚人冠?,曲:船橋栄吉?)
「ただ一面に立ちこめた」とはじまる牧場の朝の情景を歌った歌。Wikipediaによればモデルは福島県の牧場とのこと。しかし,歌詞から受ける印象は北海道だ。「ポプラ並木」で思い出すのは北海道大学だ。牧場で飼っているのも羊のようで,羊といえばジンギスカン,ジンギスカンなら北海道だ。最後の「鐘がなるなるカンカンと」という印象的なフレーズも,本州ならば鐘の音は「ゴーン」だろう。
この連想ゲームのような話で思い出したが,子供の頃,遊びの名前は忘れたが,一種の言葉遊びがあった。一角二角,三角四角,四角は豆腐,豆腐は白い,白いは兎,兎は跳ねる,・・・。リズムに乗って順に言っていき,詰まったら負けだ。
満洲行進曲(2016.7.19)
昭和7年,詞:大江素天,曲:堀内敬三
「過ぎし日露の戦ひに 勇士の骨をうづめたる」と始まる歌。
大江は当時,大阪朝日新聞社の部長として奉天に駐在していた。「日本の生命線はここにあり」という歌詞からも満洲が日本の生命線だと認識していたことが判る。
このような認識はマスコミ全体の認識だったのだろうか。国民の認識だったのだろうか。あるいは軍または政府の意向だったのだろうか。
この年の3月1日,満洲国の建国が宣言されている。
「日本の生命線」という認識は連合国の利益とは一致しなかったようだ。
サーカスの唄(2012.1.27)
昭和8年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:松平晃
「旅のつばくろ淋しかないか」という曲。この年,「萬国婦人子供博覧会」というのが開催され,これに合わせてドイツから大サーカス団が来日した。これが日本で本格的なサーカスが演じられた最初らしい。歌詞に「鞭の振りよで獅子さえなびく」とあるので動物大サーカスなのだろう。歌詞もメロディーももの悲しい曲だ。サーカスの楽しさや興奮を表す歌ではなく,団員の辛さ・悲しさの歌だ。望んで団員になったのか止むを得ずあるいは強制的に団員になったのか全く解らないが,もっと後の私が子供の頃には,サーカス団員の悲しい過去の話1)が囁かれていた。
サーカスと聞くと私には「美しき天然」2)が浮かんでくるが,これはサーカスで使われたがサーカスを歌った曲ではない。
昭和8年,ドイツではヒットラーが首相になった。満州国が承認されなかったため,日本は国際連盟を脱退する。現時点で考えれば,国連を脱退せず,我慢すべきだったという意見も多く出るであろう。あるいは満州国の建国そのものが間違いだったという意見もあるだろう。しかし,当時はマスコミも多くの国民も松岡主席全権を支持したのだ。
1)サーカスでは身体を柔らかくするために子供に酢を飲ませるとか・・・。真偽は知らない。恐らく単なる噂だろう。
2)「美しき天然」(明治35年,詞:田中穂積,曲:武島羽衣)。読みは(うるわしきてんねん)らしい。「天然の美」と呼ばれることもある。
昭和の子供(2016.7.10)
昭和8年,詞:久保田宵二,曲:佐々木すぐる
「昭和 昭和 昭和の子供よ 僕たちは」と始まる歌。
子供用の歌としてつくられたのだろう。単純な歌詞なのだが,曲は唄いにくそうだ。今の私が子供だったらと想像してみても特に唄いたい歌だとは思えない。当時の子供はどうだったのだろうか。子供の親が好みそうにも思えない。ひょっとしたら一部の教師が好むかも知れないが。もちろん,これは個人的感想であり,当時この歌が世間にどの程度受け入れられていたのか知らない。
十九の春(2016.6.1)
昭和8年,詞:西條八十,曲:江口夜詩,唄:ミス・コロムビア
「流す涙も輝き満ちし あわれ十九の春よ春」と始まる歌。
私には難解な詞で,意味不明である。何種類かの意味が想像はできるがどれが正しいのか解らない。複数の意味を持たせたのか,何らかの理由でわざとぼかして表現したのか,当時の人ならこれで十分意味が通じたのかのどれかだろう。
ということで少し調べたら松竹映画「十九の春」の主題歌らしい。人気スター伏見信子と高峰秀子の共演だそうだから映画も良く知られていたのだろう。それならば詞の解釈も容易だったのだろう。私にはよく解らないので歌に対する関心も小さくなってしまう。
天龍下れば(2012.12.5)
昭和8年,詞:長田幹彦,曲:中山晋平,唄:市丸
「ハア天竜下ればヨ ホホイノサッサ」という新民謡である。
当時,芸者出身の歌手が多く,その中でも勝太郎と市丸は代表格といって良いだろう。市丸の歌謡曲デビューは昭和6年で,昭和55年には第22回日本レコード大賞特別賞を受賞している。66年の歌手生活でレコーディングした曲はのべ1700曲にのぼるとか。小唄,長唄,端唄,清元,民謡などにも通じていて,江戸小唄中村派17世家元である。
この年,ヒトラーが独首相に就任した。ヒトラーは悪の独裁者のように言われているが,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首として選挙で選ばれているのである。昭和7年の大統領選挙ではヒンデンブルクに破れたが,3人の候補者で行われた決戦投票では36.7%の得票率を得て第2位になっている。同年に行われた国会議員選挙ではナチスが第1党になった。昭和8年1月30日に首相になったヒトラーは2日後の2月1日に議会を解散し,その後急速に種々の権限を自身に集中させていく。
この事実から得られる教訓は,選挙で選ばれたということが正義の証明にはならないということだ。
この年,国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右は日本国民から大歓迎されている。私は松岡の最大の失敗は日独伊三国軍事同盟だと思っているが,彼の人となりなどを漏れ聞いても,当時私に選挙権があれば彼の話に乗せられて彼に投票したかもしれないとも思い,後からいろいろ言うことはたやすいが,各瞬間に最善の判断をするのは非常に困難であることを自覚して選挙権を行使しなくてはならないと自戒している。政治家は国民に対する責任をどれだけ真摯に考えているかが重要であろう。国民に夢を持たせるのは良い。しかし,その夢が実現しなかったとき,どのように責任をとるのだろうか。
総選挙に関して,マスコミは種々の争点をとり上げているが,個別に扱っているのには不満が多い。原発問題にしても,それだけで完結する問題ではないのは明らかなはずだ。貿易収支等の経済問題とも直結し,国家安全保障の問題とも関係するだろう。国内では人口減少するかもしれないが,世界的には人口爆発の可能性もある。現代の食料生産には大量のエネルギーが消費されているが,最後はエネルギーの取り合いになる可能性はないのだろうか。全ての問題が相互に関係しているにもかかわらず,個別に議論していて良いわけがない。
東京音頭(2012.4.15)
昭和8年,詞:西條八十,曲:中山晋平,唄:小唄勝太郎/三島一声
「ハァ〜ァ踊りお〜どるなぁ〜ぁらチョイト東京お〜んどヨイヨイ」という唄。元唄は「丸の内音頭」1)だとか。丸の内音頭では歌詞のなかに「ほんにお前は数寄屋橋」などと地名を入れた駄洒落なども入っているが,東京音頭では真面目?に各地を紹介している。
昭和7年に東京市は周辺の5郡82町を合併して35区の大きな市になった。それまでは明治11年以来,麹町,神田,日本橋,京橋,芝,麻布,赤坂,四谷,牛込,小石川,本郷,下谷,浅草,本所,深川の15区が東京市で,関東大震災の影響もあり,大阪よりも人口の少ない市だった。このとき新たに区になったのは,淀橋,向島,城東,品川,荏原,目黒,大森,蒲田,世田谷,渋谷,中野,杉並,豊島,滝野川,王子,荒川,板橋,足立,葛飾,江戸川である。その後,昭和11年に世田谷区がやや広がり,地域としては現在の東京23区になった。区の数に関してはその後昭和22年に,大森と蒲田を併せて大田としたり,滝野川と王子を併せて北とするなどの統合や板橋を板橋と練馬に分けるなどの変遷があり,現在の区になっている。千代田,中央,港,新宿,文京,台東,墨田,江東などはこのときの合併でできた区である。なお東京市は昭和18年に都になっている。
東京音頭は大ヒットしたらしい。盆踊りの群集で市電が止められてしまうような状態だったとか。映画にもなっている。現代でもヤクルトやFC東京の応援に使われている。
東京音頭の歌詞には4番の丸の内の項に「雁と燕の雁と燕の上り下り」と言う一節がある。ヤクルトスワローズファンが気に入ったのはこの一節だろうか。雁とは「はつかり」燕は「つばめ」と国鉄の特急列車かと思ったのだが。確かに特急「燕」は昭和5年から東京―神戸間を走っていた。しかし「はつかり」は上野―青森間であり,丸の内とはやや関係が薄いようだ。なによりも特急「はつかり」の登場は昭和33年らしい。森鴎外に「雁」という短編があり,昔は石を投げると雁に当たるほど東京にも雁が飛来していたらしい。東京音頭の歌詞の「雁」は本物の「雁」だろう。
1)西條八十:「丸の内音頭」(昭和7年,曲:中山晋平,唄:藤本二三吉)
山の人気者(2012.6.15)
昭和8年,詞:Leslie Sarony,訳詞:本牧二郎,曲:Leslie Sarony,唄:中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ
「山の人気者それはミルク屋」と始まる歌。「娘という娘はユーレイティ」というフレーズなどが印象的だ。ヨーデルはこの歌で日本に始めて紹介された。
このミルク屋は喉自慢で娘たちを惑わせるらしいが,ウィリー沖山のヨーデルなどが聞こえてくると,男でも,また,何をしているときでもつい聞き惚れてしまうだろう。
赤城の子守唄(2012.1.9)
昭和9年,詞:佐藤惣之助,曲:竹岡信幸,唄:東海林太郎
以前は三木のり平の似顔絵をつかった海苔の佃煮の宣伝で「赤城の山も今宵限り,生まれ故郷の国定村や,縄張りを捨て国を捨て,可愛い子分のてめーたちとも別れ別れとなる門出だ」という台詞のパロディーが使われていたので,長く生きている人は誰でも知っている国定忠治の物語だ。新国劇,浪曲,講談,映画で内容が違うようだが,裏切りを疑われた板割浅太郎が忠治の命により叔父の御室の勘助を殺害すると同時に勘助の息子勘太郎も殺害する。しかし映画では「泣くーなあ〜ぁよしーよ-し-ねん-ね〜し〜なー」と浅太郎が勘太郎にこの唄を聞かせているので甥の勘太郎は助けたらしい。
国定忠治は賭場の収入を村に寄付していたらしいので特別な産業のない地方自治体で村おこし産業としてカジノを運営していたと解釈できるかもしれないが,賭博は当時も違法であり,かつ忠治はアウトロー集団の頭であり寄付というより賄賂だったのだろう。
しかし,この曲ではなかなか眠れそうにない。
急げ幌馬車(2013.3.21)
昭和9年,詞:島田芳文,曲:江口夜詩,唄:松平晃
「日暮れ悲しや荒れ野は遥か」と始まる歌。
曲は極めて現代的だと感じる。現代と言っても平成ではなく昭和中後期だが。8ビートと言って良いのかどうか知らないが,鈴のリズムが印象的だ。
詞から受ける印象は満州だ。現代の日本では,北海道なら可能性が無いとは言い切れないが,「野越え山越え何処までつづく」という感覚は大陸のものだろう。
「さすらいの唄」1)を知っていれば,この歌との(歌詞の)類似に気づくだろう。だとすると場所はソ連かもしれない。
松平晃の歌声は昭和初期のものだ。結局,全体から受ける感じは昭和初期になるのだが,繰り返すが曲は昭和30年代の曲と言われてもおかしくない曲だと思う。
1) 「さすらいの唄」(大正6年,詞:北原白秋,曲:中山晋平,唄:松井須磨子)
グッド・バイ(2014.2.21)
昭和9年,詞:佐藤義美,曲:河村光陽
「グッドバイ グッドバイ グッド バイバイ」と始まり,何度も何度も「グッド・バイ」が繰り返される歌。
昭和15年頃からは英語は敵性語として排斥されたようだ。詳しくは調べたことはないが軍が英語を排斥した様子は少ない。軍事技術は英国から伝わったものも多く,英語を排斥することによる混乱を避け,従来の呼称を使うことにより意思伝達の効率を落とさぬことを優先したのであろう。
一部の官僚,マスコミ,国民が英語を嫌った印象がつよい。英語教育を止めるべきだとの要求がでたときも東条英機首相は国会でこれを拒否したそうだ。
この歌は軍内部の歌ではなく,街中の子供の歌であり,このような歌は敵性語の歌として排斥されたのであろう。
国境の町(2012.4.3)
昭和9年,詞:大木惇夫,曲:阿部武雄,唄:東海林太郎
「橇の鈴さえ淋しく響く」という唄である。「国境」は川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると・・・」という「くにざかい」ではなく,この歌の舞台はソ連との国境らしい。「コッキョウ」である。「凍りつくよな」寒さや淋しさがひしひしと感じられる歌だ。
ソ連との国境ということでロシア民謡「トロイカ」を思い出し,そういえば,「トロイカ」は前奏の最後に「シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャン」と鈴の音のようなのが入っていて軽快な曲だったなぁと思って,ユーチューブで見つけたのを一つ聴いてみたら,鈴の音は入っていないし,荘重な歌い方で,荒野の中を淋しく一歩一歩進む雰囲気だった。この「トロイカ」に比べたら「国境の町」ははるかに軽快で,淋しさに立ち向かって行こうという意思が感じられる。「トロイカ」を聴いて編曲の威力を改めて知った。
東海林太郎は昭和47年に亡くなるまで懐メロ番組などでよく観た。直立不動で唄う姿が戦前・戦中を髣髴とさせる。
谷間の灯(2016.5.22)
昭和9年,日本語詞:西原武三,アメリカ民謡,唄:東海林太郎
「黄昏に我家の灯 窓にうつりしとき わが子帰る日祈る 老いし母の姿」と始まる歌。
単純に歌詞を見ると『山小屋の灯』1)と似た雰囲気に感じる。『山小屋の灯』では『若き日の』『君を偲べば』とあり,この『君』は母親ではないだろう。
この歌の日本語の歌詞からは息子の帰りを待つ老いた母というだけしか解らないが,英語の歌詞を読むと収監されている息子の立場の詞だ。母と会えるのは天国でだと考えているようで,『想い出のグリーングラス』などと同じ立場の囚人の歌のようだ。
日本の歌謡曲にも『再会』などのように囚人が登場する歌が無くはないが,戦犯として収容されていた人々の心情の歌はあっても,戦犯以外の囚人自身の心情の歌というのは思い出さない。
彼我に何らかの社会的・文化的差異があるからなのだろうか。
と思ったが,『網走番外地』などの歌を思い出してしまった。単に私が忘れているだけのようだ。
1)「山小屋の灯」(昭和22年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:近江俊郎)
ダイナ(2012.11.24)
昭和9年,訳詞:三根耕一,曲:Harry Akst,唄:ディック・ミネ
「ダイナ私の戀人」と始まる歌。日本の歌謡曲とはとても思えない曲。もともと日本の歌謡曲ではないので当然かもしれない。好き嫌いはあるだろうが,私にとっては流れていても全く気にならないが,選んで聴く歌ではない。
ディック・ミネは日本のジャズ・ブルースの黎明期のミュージシャンで演奏もできる。訳詞者の三根徳一はディック・ミネの本名で,訳詞や編曲の場合には本名を使っていた。三根耕一は古賀政男がつけた芸名で,戦時中カタカナの芸名が禁止されていた時期にはこれを使っていた。
この年,渋谷駅に秋田犬「ハチ」の銅像ができる。「ハチ」は東京農業大学の上野博士を待っていたのか,駅前の焼き鳥が目当てだったのかは判らないが,上野博士の逝去後10年も渋谷駅に通ったのである。最初から皆に可愛いがられていたわけではないが,忠犬という扱いの新聞記事が出た後人気が高まり,「ハチ公」と呼ばれて多くの人に可愛いがられた。「ハチ」の死亡は昭和10年である。銅像はその後「金属回収令」1)で回収された。現在の銅像は2代目である。
1) 昭和13年,鉄鋼配給規則が制定され,金属類の回収(任意供出)が進められていたが,昭和16年には国家総動員法に基づく金属類回収令で強制回収されるようになった。昭和17年には全国的に積極的な金属回収が始まり,家庭で使用されている(余っているものではない)鍋釜なども回収対象となった。
並木の雨(2012.1.15)
昭和9年,詞:高橋鞠太郎,曲:池田不二男,唄:ミス・コロムビア
「並木の路に雨が降る」という歌である。「いつかわかれた」とか「どこか似ている」などとの詞があるのでそのような歌だということがわかるが,感情は極めて抑制的でちょっと聴いただけでは「雨の道路を知らない人が歩いている」というだけの歌のように聞こえる。B面曲だったらしいが, B面曲になった理由が納得できる。しかし,大ヒット曲だった。ということは私にヒット曲を見極める能力がないということだ。
時代があからさまな感情表現をさせなかったと思う人がいるかもしれないが,同時代の他の歌ではもっとあからさまに感情が表現されている。
上に「そのような歌」と書いたが,「街で貴方に似た人を見かけるとふりむいてしまう」1)という歌を思い出してしまっていた。そのような意味ではなく,単純に「どこかで見たことがあるような気がする」という感情を歌ったものかもしれない。
ミス・コロムビアは覆面歌手だったそうだ。後に本名の松原操でもいろんな歌を唄っている。
1)因幡晃:「わかって下さい」
ポーリュシカ・ポーレ<草原の騎兵の歌><愛しき草原>(2018.9.7)
昭和9年,詞:ヴィクトル・グーセフ,曲:レフ・クニッペル
ソ連で作られた交響曲の一部が後に独立して軍歌として唄われたらしい。内容はロシア内戦での赤軍の活躍を歌ったものらしいが,ロシア語は理解できない。
日本では昭和46年に橋本淳の詞を仲雅美が唄ってヒットした。橋本の詞は「緑もえる草原をこえて ぼくは行きたい あなたの花咲く窓辺へと」と始まる恋の歌になっている。タイトルは<草原の騎兵の歌>,<愛しき草原>,<わが草原>,<小さな草原>,<草原よ>などとも訳されている。
山は夕焼け(2019.9.30)
昭和9年,詞:岡田千秋,曲:田村しげる,唄:東海林太郎
「山は夕焼け 麓は小焼け ひとりとぼとぼ 裾野に暮れりゃ」と始まる歌。
旅をしている歌だが,旅の目的は明示されていない。ただ,物見遊山の旅ではないし,目的地に着けばそれで終わりという訳でもないようだ。行商のように本拠地がある雰囲気もない。旅芸人のようでもあるが団体ではないようだ。江戸時代の渡世人のように旅をしているのかとも思うが,渡世人の旅を「とぼとぼ」というのも合わない気がする。
私の祖父は(私は会った記憶がないのだが)若い頃,新潟から東京へ歩いて行ったそうだ。子供の頃新潟の親戚の家に行く度に本家に挨拶に行っていたので分家であることは間違いない。田畑はなかったので仕事を探さなくてはいけないが,近くにはなかったのだろう。東京に仕事に行ったのだ。事前に就職約束等があったのかなかったのか知らないが,汽車賃もないので歩いて行ったのだ。このときの歩き方が「とぼとぼ」だっただろうか。私はもっと希望を持って颯爽と歩いていたのではないかと思う。・・・祖父はその後苦労の末,小金(言葉通りの小金だ)を溜めて新潟に帰郷した。・・・らしい。
この歌の場合,何らかの理由で故郷に居られなくなったに違いない。何はともあれ,昭和中期までは当てのない徒歩旅は珍しいことではなかったのだろう。
雨に咲く花(2012.9.17)
昭和10年,詞:高橋掬太郎,曲:池田不二男,唄:関種子
「およばぬことと諦めました」「ひと目だけでも逢いたいの」という歌。私は知らないが「突破無電」という映画の主題歌らしい。昭和35年に井上ひろしが唄っており,私はこの井上の唄を聴いた。
背景を全く知らないので,歌詞からだけの推測だが,100%片想い状態であろう。ただ一方的に想っているだけで想いは相手に伝わっていない状態で会える環境から会えない環境へと変わってしまったのであろう。仕方のないことだ。
いまならストーカーになってしまうかもしれないが,私が若い頃はストーカーというような言葉は聞いたことが無かったし,この時代に関する記述でこれに類することを読んだ記憶もない。現代は通信・交通の発達によりストーカーに都合が良い社会になったのだろう。近所の目というのも変わったかもしれない。また,心の問題もあるだろう。昔なら,みんな私が悪いのよとか運命だから仕方ないと「ひとり泣くのよむせぶのよ」となったのだろうが,いまでは悪いのは自分じゃないということで,相手に危害を加えたり,あるいは見境なく誰でもいいというような形で気を晴らそうとするのではないか。
このころが日本の自動車産業の始まりだろう。例えば流れ日産自動車により作業による最初の国産乗用車ダットサンを製造・販売し始め,豊田自動織機はA1型乗用車を試作すると共にG1型トラックの販売を始めたのが昭和10年である。G1型トラックは初の国産トラックである。なお,日産自動車の乗用車試作は昭和5年のダット号である。
雨に咲く花(2013.12.9)
昭和10年,詞:高橋掬太郎,曲:池田不二男,唄:関種子
「およばぬことと あきらめました」と始まる歌。
昭和35年に井上ひろしがカバーしており,私が主として聴いたのは井上盤だ。
要するに高嶺(高値?)の花に対する想いの歌だろう。昔の男女関係は当人同士の関係だけではどうにもならない,家と家との関係が強く影響していた。もちろん個人対個人の理由から別れることになった可能性もあるが,これでは要するに振られたということだから違う感じの歌になるだろう。別な可能性として,人倫上許されないという可能性もあるが井上の唄からはそのようにも感じられない。関がどのように唄ったか知らないが。
井上ひろしは三人ひろし1)の中で,最も甘い声をしていた。このような歌を唄が似合う歌手だった。この歌は昭和35年からのリバイバル歌謡ブームに火を点けた。
1) 井上ひろし,水原弘,守屋浩。水原の代わりにかまやつひろしが入る場合もある。4人で四人ひろしと呼ばれることもある。
大江戸出世小唄(2013.7.11)
昭和10年,詞:藤田まさと,曲:杵屋正一郎,唄:高田浩吉
「土手の柳は風まかせ」と始まる歌。
このような歌があったのだということを懐メロ番組で本人の(生)歌唱で聴いて知った歌の一つだ。この歌を語るのに,歌詞カードを参照しながらでないとほとんど語ることができない歌である。
この歌詞は藤田まさとにしては軽薄な詞のように感じる。私が抱く藤田まさとのイメージは『岸壁の母』1)である。高田浩吉のイメージは『伊豆の佐太郎』2)だ。私が知っている高田浩吉は既に中年男性だったので,この「大江戸〜」の歌詞は合わないと感じた。中年男性がこのような詞を口にすると,悪代官が『よいではないか・・・』と言っているような感じを受ける。当時は若かったのだろうから,そんな雰囲気はなかったのだろし,最後には「雨が降ったらその時は俺の涙と思やんせ」と悪代官とは思えない詞になっている。メロディーも若々しい。
高田浩吉は歌う映画スター第1号だとか。世界的には明治末期(パリ,1900年)に発声映画が初上映されたらしいが,音声は別のレコードに録音されており,映像ど音声を同期させるのは人間の手によっていた。電気信号を増幅する3極真空管が発明されたのは大正の初めであり,当然アンプなどはないので音量も小さく,興行的にはまだまだ実用にはならなかった。米国では大正末期には映像フィルムの脇にサウンド・トラック(音を記録するための路)を設けて映像と音の同期が機械的にできるようになり,昭和2年には最初のトーキー映画(但し,音源はレコード盤)が公開された。サウンド・トラック方式は昭和3年ということになる。日本のトーキー映画は昭和6年が最初だが,当時は活動弁士が活躍する映画が多く,活動写真がトーキー映画に変わっていくには時間がかかったらしい。この時代のことは,私の実体験ではなく,全て後に歴史として学んだことである。
いずれにせよ,この頃に映画俳優をしていたので高田浩吉が歌う映画スター第1号と呼ばれるのだろう。唄う俳優というと,川上音二郎とか松井須磨子などを思い出すので,ちょっと調べてみたら,川上は役者,松井は女優となっていた。松井須磨子は日本初の歌う女優だそうだ。元祖と本家のようなものか。
1) 「岸壁の母」(昭和29年,詞:藤田まさと,曲:平川浪龍,唄:菊池章子)
2) 「伊豆の佐太郎」(昭和27年,詞:西條八十,曲:上原げんと,唄:高田浩吉)
船頭可愛や(2013.12.1)
昭和10年,詞:高橋掬太郎,曲:古関裕二,唄:音丸
「夢もぬれましょ潮風夜風」と始まる歌。もう少し書くと全文を書いてしまいそうな短い歌である。基本的には7・7・7.5で都々逸ということか。実際の音律数は一部を繰り返しており,(3・4)・(4・3)・(3・4)・(4・3・4)・5となっている。(4・3・4)の箇所は「えぇぇぇ船頭可愛や」である。
このような音律数は民謡でも良くでてくるので,耳に馴染んでいて聴きやすい。
しかし,なぜこのような古い歌に聴き馴染みがあるのか良く解らない。懐メロ番組で聴いたのか,あるいは花村菊枝も唄っているようなので,こちらを聴いたのかもしれない。もちろん,子供の頃は歌詞の意味など全く理解していなかった。
船頭可愛や(2018.1.27)
昭和10年,詞:高橋掬太郎,曲:古関裕而,唄:音丸
「夢もぬれましょ 潮風夜風」と始まる歌。
「千里はなりょうと」「同じ夜空の 月を見る」というのは昔も今も同じか。恐らく昔のほうが交通や通信の手段が限られていた分この思いは強かったのだろう。
「せめて見せたやわが夢を」というのは『うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき』(小野小町:古今和歌集)という考えがまだ残っていたのだろう。相手の思念が自分の夢に現れると考えられていたのだ。
旅笠道中(2013.10.18)
昭和10年,詞:藤田まさと,曲:大村能章,唄:東海林太郎
「夜が冷たい心が寒い」と始まる歌。「亭主もつなら堅気をおもち とかくやくざは苦労の種よ」と歌詞にあるので渡世人の旅ということだ。
いつの頃までだろうか,股旅物というジャンルがあった。今もあるのかも知らないが。劇,映画,歌,浪曲,講談・・・江戸時代の侠客物だ。清水の次郎長,国定忠治などが有名だった。後の座頭市とか木枯し紋次郎のような一匹狼が居たかどうかは記憶がない。番場の忠太郎とか駒形茂兵衛などは少し違う気がする。
股旅物の記憶はあるが,この歌の発表年を考えると私が知っている可能性は低いと思うのに,なぜだか良く知っている。なんとなく,『大利根月夜』1)などと一緒に覚えている気がする上に踊りのイメージもある。町内演芸会で婦人会のおばちゃんが踊っていたようなイメージだ。こういう場面で何度も聞いた歌ではないだろうか。
『大利根月夜』でまたまた平手造酒などを思い出してしまったが,これはやくざの用心棒だから,また少し違う。
1) 「大利根月夜」(昭和14年,詞:藤田まさと,曲:長津義司,唄:田端義夫)
平城山(2012.11.15)
昭和10年,詞:北見志保子,曲:平井康三郎
「人恋ふは悲しきものと」という歌。
雅楽を思わせる曲である。1番・2番を構成する2首の短歌は大正9年に詠まれたらしい。高校だったと思うが,音楽の時間にこの歌を習ったが,音楽の先生は詞の意味に関しては何も教えてくれなかったのではないだろうか。教えてくれたのかも知れないが,全く覚えていない。
この歌は人妻である北見志保子がひとまわりも年下の男性と道ならぬ恋に落ち,男の親族により仲を裂かれたときの歌だそうだ。このような歌なので音楽教師は歌詞の詳細説明をぼかしたのかも知れない。この短歌自体が磐之媛と仁徳天皇の故事に仮託されたものであるらしい。
インターネットで検索すると,この歌に関する記事を多数見つけることができる。背景等の議論はこれらの記事にまかせることにしよう。
この歌は,背景に関する知識の有無が評価に大きく関係するだろう。現代の眼で見れば古臭い歌ではあるが,日本の名曲のひとつといってよいだろう。
野崎小唄(2013.5.12)
昭和10年,詞:今中楓渓,曲:大村能章,唄:東海林太郎
「野崎参りは屋形船でまいろ」と始まる歌。大阪府大東市に野崎まいり公園というのがある。野崎参りは『お染久松』の話で有名だ。2番の歌詞「お染久松切ない恋に 残る紅梅久作屋敷」とあるのはこの話を受けてのものだ。油問屋の丁稚久松は店の娘お染と恋仲になり,暇を出されて養父久作の家に戻り,久作の娘お光と祝言をあげることになる。お染は野崎参を口実に久松に逢いに来るのだ。さて,お染・久松・お光の三角関係は・・・,というのが近松半二による話1)の内容だ。
3番の歌詞の「音に聞こえた観音ござる」というのは福聚山慈眼寺の観音様で,河内国野崎村(現大東市)にある。舟で参詣するには,大坂天満橋の八軒家船着場から舟にのるのが一般的だったらしい。『八軒家から舟に乗り』と聞くと,森の石松が金比羅山への代参からの帰途を思い出す2)。この舟中で見受山鎌太郎の評判を聞いて帰途で立ち寄り,・・・。
森の石松は置いておいて,この歌に戻る。私にはこの歌は絵のような歌だ。屋形船から岸を眺めているような感じを受ける。もちろん,お染のように恋人に逢いにいくのではない。ただぼんやりと春の土手をみながら舟に揺られている感じだ。何の心配もない春に聴くには良い歌だ。
1) 近松半二 「新版歌祭文」〜野崎村の段〜:(大東市ウェブサイト|お染久松物語)による。鶴屋南北の「於染久松松色読販」(おそめひさまつうきなのよみうり)では舞台は江戸である。こちらはお染の七役が有名で,筋も違う。
2) 広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」による。この舟旅は「森の石松三十石船」で語られる。一番は大政,2番は小政,と名を挙げさせる場面がある。
二人は若い(2012.3.17)
昭和10年,詞:サトウハチロー,曲:古賀政男,唄:ディック・ミネ/星玲子
「あなたと呼べばあなたと答える」という唄。ハッピーで結構ですねぇというのが感想。「あとは言えない二人は若い」と含みを残して終わる。
二人で居るということだけで幸せだと感じられる。災害などでこの幸せが失われたとき,初めて失ったものの大きさに気づくのだろう。
若い頃は誰にもあるが,その時代をどう過ごすかは社会の状況や個人的状況・意識によって大きく異なる。精神的には若返ることも可能だが,肉体的な老化はどうしようもない。若い人は,後から振り返って,後悔することがないよう精一杯生きて欲しい。あとから振り返って,あの頃何をしていたのだろうと思い出すことが一つもない時代は淋しい時代だ。苦しかったがあんなこともしたこんなこともしようとしたという記憶を残そう,ボケた後でも思い出すことができるように。
緑の地平線(2013.1.11)
昭和10年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:楠木繁夫
「なぜか忘れぬ人ゆえに」と始まる歌。この歌の楽譜はずっと以前から持ってはいたが,聴いたことはなかった。初めてこのフレーズを聴いたのが「演歌チャンチャカチャン」1)のなかだった。「裏町人生」2)は知らなかったが「緑の地平線」は知っていたので,「演歌チャンチャカチャン」を聴いてすぐに認知はした。私が持っていた楽譜はギター用に編曲したもので,弾きやすい曲だったのでかなり初期から,聴いたことは無いながら,ギターで弾いてはいたのだ。
歌の背景などは知らないが「リラの花」などと聞くと現物を知らないので「上海ブルース」3)などを連想してしまう。そういえば,「緑の地平線」というのも広大な緑地というイメージで,満州などのイメージだ。北海道ならどこかで見えるのかも知れないが,国内では地平線を見ることができる場所は少ないのではないか。
楠木繁夫が唄ったのを聴いたのはかなり後なのだが,声や歌唱法が予想外で,これこそ日本の歌謡曲というのがその時の印象だった。日本の歌謡曲を代表する曲だろう。
1) 「演歌チャンチャカチャン」(昭和52年,詞:?,曲:?,唄:平野雅昭)歌謡曲を1フレーズずつならべた歌?。最初が「裏町人生」2曲目が「緑の地平線」だった。
2) {裏町人生}(昭和12年,詞:島田磬也,曲:阿部武雄,唄:上原敏/結城道子)
3) {上海ブルース}(昭和14年,詞:北村雄三,曲:大久保徳二郎,唄:ディック・ミネ)歌詞中に「リラの花散る今宵は」という一節がある。
無情の夢(2012.7.25)
昭和10年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:児玉好雄
「あきらめましょうと別れてみたが」と始まる良く解らない歌だ。児玉好雄の唄を聴いたというより後に佐川ミツオが唄ったのを聴いたのだ。
「命をかけた恋じゃもの」と歌詞にあるが,このような文句の入った歌で共感できるものと全く共感できないものとがある。この歌は共感できない。「命をかけた」というのは口先だけという気がして仕方がない。命をかけたのなら,どうして諦めましょうと別れたのか。別れておいて諦められないと男泣きなど,口だけ男の涙など全く同情できない。
ひょっとしたら当時は命の価値はかなり低かったのかも知れない。1銭五厘1)だったのかも。戦後は「人の命は地球より重い」2)などといわれたりもしていて,1銭五厘よりははるかに良い言葉だが,本来比較できないものを比較している点でこの言葉も実体がない言葉だ。軽々しく「命をかける」などと言う人間は信用できない。
最近「政治生命を懸ける」と言っている政治家もいるようだが「政治生命を賭ける」と言っているように聞こえる。
英国のエドワード8世3)ほどの犠牲を払っての恋ならば,命そのものを懸けてはいなくても,比喩として「命を懸けた」と言っても良いだろう。
1) 召集令状の送付経費が1銭五厘だったことから,経費が変った後も召集令状の代名詞として使われた。
2) 昭和23年,死刑の違憲性を判断した裁判で使われた。その後,昭和52年の日航機ハイジャック事件の際福田赳夫首相が使って有名になる。
3) 昭和11年,英国王エドワード8世は人妻であったアメリカ人ウォリス・シンプソンとの恋を実らせるため退位,亡命。翌年ウィンザー公の称号を贈られウォリスと正式に結婚する。しかしその後英国に帰ることはかなわなかった。
無情の夢(2013.5.5)
昭和11年?,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:児玉好雄
「あきらめましょうと別れてみたが」と始まる歌。私は児玉の唄は聴いた記憶がないが,昭和35年に佐川ミツオが唄ったこの歌は何度も聴いた。嫌いな歌ではなかったのだ。
当時,佐川の唄い方を真似したこともあったことを思い出し,赤面の至りである。現時点では当時の佐川の唄い方は軟弱すぎるように感じる。「命をかけた恋じゃもの」などという詞も含め,何を甘っちょろいことを言っているのかと感じてしまう。
今では「喜び去りて残るは涙」という歌詞まで気に入らなくなっている。「喜び」があったのなら,それを想い出に生きていけばいいではないか。「別れてみたが」というので別れないという選択肢があったのだろう。それなのに「生きらりょか」などと別れた後で言っている「命をかけた」というのはやはり言葉だけなのだろう。もちろん死んでしまえといいたいわけではない。「喜び」があったのなら,それを想い出に生きていけば,また新しい「喜び」に出会うこともあるだろう。世の中にはこのような「喜び」もないまま生きている人も沢山いるのだ。「男泣き」でもなんでもいいから,とりあえず気分を晴らし,元気を取り戻して生きていって欲しい。簡単に「命をかける」などと言わないで欲しい。
無情の夢(2014.7.25)
昭和10年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:児玉好雄
「あきらめましょうと別れてみたが」と始まる歌。
深い恋心を歌っているとも言えるが,単に未練たらたらの男の歌とも言える。
昭和36年頃佐川ミツオが唄っていた。当時は昔の歌がよく唄われており,今だとカバー曲というのだろうが当時はリバイバル曲と呼んでいたと思う。私が聞いたのは佐川バージョンだ。
当時嫌いな曲ではなく,佐川の高音部など真似して唄ってみたりしていたが,今聴くと,時代劇に出てくる大店の息子それも出来損ないの優男というイメージを感じ,当時なぜ真似などしてみようと思ったのか今では解らない。
「無情の夢」について何度も書いているようだ。この歌はぜひ書いておこうということで何度も書いているわけではない。基本的に一回書いたらそれで終わりにしている。ある歌について書こうと思った時に,ひょっとしたらこの歌については以前書いたかもしれないと思うときは過去に書いたことがあるかどうか確認している。この歌を思い出したとき,過去に書いたことを完全に忘れていたので過去記事を調べもせずに書いてしまったということだ。
同じ歌でも,書いた時の心境等により内容が少し異なることが解る。
明治一代女(2012.5.22)
昭和10年,詞:藤田まさと,曲:大村能章,唄:新橋喜代三
「浮いた浮いたと浜町河岸に」で始まる歌。
明治20年の殺人事件をテーマに,川口松太郎が「明治一代女」という小説を書き,これが映画化されたときの主題歌。
新橋喜代三をリアルタイムでは知らないが,この歌は何度も聴いたことがあり,インターネットで検索してみると多数の歌手がこの歌を唄っていることがわかる。このことからこの歌が名曲なのだろうと思うのだが,私にはその良さがよく解らない。確かにメロディーは欧米の曲とは違う雰囲気があり,昭和の名曲として残すことに異議はない。しかし,歌詞はよく理解できない。
この話は映画以外に舞台でも演じられているようなので,当時絶大な人気だったらしい。当時は誰もがこの歌の背景を知っていたので,余分な説明を一切削っても皆十分に理解できたのだろう。日本の伝統に忠実ということだ。
もずが枯木で(2016.5.7)
昭和10年,詞:サトウ・ハチロー,曲:徳富繁
「もずが枯木で鳴いている おいらは藁をたたいてる」と始まる歌。
「兄さは満洲へ行っただよ 鉄砲が涙で光っただ」とあり,反戦・・・少なくとも厭戦の歌だと認識され戦後の『うたごえ運動』などで採用されたようだ。
サトウは厭戦歌としてこの詞を書いたのだろうか。わたしにはそのようには思えない。純粋に兄弟に対する想いを書いた詩だろう。
昭和6年には満州事変が起きている。昭和12年には日中戦争が始まっている。日米戦争は昭和16年開戦だ。この時期,戦況が良かったかどうかは知らないが,国民の間に厭戦気分が濃かったとは思えない。勿論,徴兵された息子を持つ親は大きな声で話すことが憚れる思いを持っただろう。しかしサトウは戦況が厳しくなり国民のなかに厭戦気分が蔓延してきた後にも軍歌を書いているようだ。
歌にレッテルを貼るのは私の好みではない。主義主張を広めるために作った歌もあるだろうが,作者の意図とは関係なく,作品である歌自体に共感できる点があれば共感し,好き・嫌いに忠実であればよく,他人に自分の解釈を押し付けるべきではないと考える。
夕陽は落ちて(2016.5.16)
昭和10年,詞:久保田宵二,曲:江口夜詩,唄:松平晃/豆千代
「荒野の涯に日は落ちて 遥かまたゝく一つ星」と始まる歌。
旅をしている歌だが,「名もなき花も青春を知り 山の小鳥も歌を知る」のに「何ゆえ悲し人の子は」と悲しみの旅のようだ。「恋しき君よ想い出よ」とあり,これが原因なのか旅に出た結果として「恋しき」なのかは不明だ。この時代に傷心旅行が一般的だったのかどうかは不明だが,もし私がこの時代に青年だったとしても傷心旅行に出るような経済的余裕はなかったと想像できる。私の父の父は青年期に仕事を求めて徒歩で新潟から上京している。汽車は走っていたはずだが汽車賃がなかったのだろう。私の青年期は汽車から電車へ変っていたが電車賃を出したら残りは厳しかった。
歌詞では「休めよ黒馬よ」とあり,馬で旅をしているようだ。
私が子供の頃,乗馬の旅人は見たことがなかったが,荷馬車は結構走っていた(歩いていたというべきかもしれない)。高校のとき,先生の一人は乗馬で通勤していた。体育館横の木に馬が時々繋がれていたが当時でも極めて珍しかった。
時代が異なると社会状況が解らなくなり,感情移入しにくくなるが,心情だけは時代が変わってもあまり大きな変化がないように感じる。
昭和10年と言えば日本最初のノーベル賞受賞者湯川秀樹が受賞理由となった中間子論を発表した年だ。