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大正

目次

大正元年 ダニー・ボーイ<Danny Boy>,春の小川,広瀬中佐,村の鍛冶屋,Danny Boy

大正2年 朝日は昇りぬ,海〔松原遠く〕,鯉のぼり〔甍の波と〕,早春賦,冬景色,故郷を離るる歌

大正3年 朧月夜,カチューシャの唄,児島高徳,故郷〔兎追いし〕

大正4年 恋はやさし野辺の花よ

大正5年 ゴンドラの唄

大正6年 コロッケの唄〔ワイフ貰ってうれしかったが〕,さすらいの唄,琵琶湖周航の歌

大正7年 雨〔雨が降ります〕,かなりや,金色夜叉,城ヶ島の雨,浜辺の歌,宵待草

大正8年 あわて床屋,金魚の昼寝,靴が鳴る,背くらべ,浜千鳥

大正9年 聞け万国の労働者,叱られて,しゃぼん玉,明治大学校歌

大正10年 青い眼の人形,枯れ芒<船頭小唄>,雀の学校,てるてる坊主,どんぐりころころ,七つの子,めえめえ児山羊,夕日,揺籃のうた

大正11年 赤い靴,籠の鳥,砂山

大正12年 肩たたき,黄金虫,月の沙漠,どこかで春が,春よ来い,ゆうやけこやけ

大正13年 あの町この町,兔のダンス,証城寺の狸囃子,花嫁人形

大正14年 あめふり,思い出した,からたちの花,ペチカ,待ちぼうけ

大正15 この道

 

春の小川(2012.7.7)

大正元年,文部省唱歌(詞:高野辰之?,曲:岡野貞一?)

「春の小川はさらさら流る」という唄である。

文部省は,歌詞を何度か変えているので,世代によって習った歌詞が違う。職務としての作詞による曲なので「著作権は省にある」ということなのだろう。あるいは著作権など無関係に,仮名遣いを改めたりすることは省の任務だと考えているのかもしれない。日本の教科書は国定ではないので,同世代でも,習った教科書によって歌詞が違うこともあるらしい。

私が習った歌詞は「さらさら流る」→「さささら行くよ」,「にほひめでたく」→「すがたやさしく」,「咲けよ咲けよとささやく如く」→「咲けよ咲けよとささやきながら」などと換えられていた。

小学生のころは遊べる川がたくさんあった。一口に川と言っても大きな川から小さな川までいろいろあるが,この歌のイメージどおりの川はなかった。まず,さらさら流れると聞くと水深20cm以下と感じる。このような流れは農業用水から分水してそれぞれの田畑に水を引いている潅漑水路と道路の側溝くらいだ。笹舟を流したり,メダカを主とする小さな魚やカニなどをとったりして遊んだ。海老に似た生物は,川エビ・エビガ二1)・ザリガニの3種類を区別していたように思う。

もう少し大きな川もあった。これは走り幅跳びの選手なら飛び越えられそうな川幅だったが私には到底飛び越えられない幅だった。農業用水で水門があり,水門が閉まっているときはかなりの深さになり,さらさらとは流れていない。この川では鮒などがよく釣れた。

筏に乗って遊べるような大きな川もあった。川幅は広いが,台風でも来ない限り川幅一杯に水が流れることはなく,普通は河川敷の一部にだけ流れがあった。この川は時々遊泳禁止のお触れがでていた。流れは狭いとは言え釣竿の長さよりははるかに広いので任意のスポットに釣り糸を垂らすということはできなかったが,それなりに大物はいた。私の最大釣果は40cmクラスの鯰である。はや・もろこ・むつ(正確な名前は当時も今も知らない)のようなのはよく釣れていた。河口近くまで行くと季節によってははぜが沢山釣れた。

川遊びは時代と共にどんどん規制が強くなってきた。鷺(だと思うが間違っているかもしれない)のような水鳥は見かけるので魚が居ないわけではないとおもうのだが,昔私が魚釣りをしていたような場所で魚釣りをしている子供を現在では全く見ない。

1)ザリガニのこと。当時はアメリカザリガニだけをザリガニと言っていたように思う。別名もあったが忘れた。

 

広瀬中佐(2013.5.13)

大正元年,文部省唱歌

 「轟く砲音(つつおと)とび来る弾丸」と始まる歌。「杉野は何処杉野は居ずや」が印象に残る。

 日露戦争時,旅順港の港口に船を沈めて港を封鎖する作戦で,魚雷を受けた船を爆破してボートで脱出しようとしたときに杉野孫七上等兵曹の姿が見えぬのを気にして捜しに戻る現場指揮官広瀬武夫少佐の歌である。このときの作戦で戻らなかったのはこの二人だけらしい。二人はそれぞれ兵曹長,中佐へと昇進した。

 杉野兵曹長は現在の私の住居からそう遠くないところの出身である。

 このような歌が文部省唱歌として教えられることに対しては,現代から見れば,いろんな見方ができるだろうが,私はこれを,指揮官は部下を大切にすべきというメッセージと受け取りたい。唱歌として教えるということは,このような人材を育てたいと考えていたのであろう。

 歴史は学校で習った程度で,表面的にしか知らないが,第2次世界大戦までは力が正義だった時代だろう。その中で日本の指導者は幕末の開港以来日露戦争までは日本が置かれている立場をよく認識していたと感じる。西洋諸国から後ろ指を指されないよう,十分注意を払ってきているようだ。しかし,日露戦争を実際に戦った人々が退役した後,次第におかしくなっていったのではないだろうか。

 いつの世にも優秀な指導者・凡庸な指導者・最悪の指導者はいた。これらは社会の縮図なのだ。民衆のレベルを大きく超える指導者は極稀にしか現れないだろう。凡庸以下を批判するのは容易だが,自分自身がその立場だったらどうしただろうかということを考えてみることは有益だろう。少なくとも,政権をとったらこうしようという明確なビジョンを持つこともなく政権をとっても混乱を起こすだけだ。理想や希望を述べるだではだめで,どう実現するかが重要だ。政権をとったとたん大地震が発生したら,自分だったらどうするかなども考える必要がある。状況が歴史に記されているように推移した理由が想像できるかもしれない。歴史にifはないのかも知れないが,このようなシミュレーションを繰り返しておくことにより,あらたな状況に適切に対応できるようになる。これが歴史を学ぶことの意義であろう。

 氏も育ちも及びもよらないなどと考えずに,もし,ある朝目覚めたとき自分が織田信長であることを発見したら自分はどうするだろう,などと考えるのだ。目覚めたときに本能寺にいたらもうどうしようもないかもしれない。では明智光秀だったら?明智光秀配下の雑兵だったら?

 ロールプレイングゲームの存在意義はこのようなところにあるのかも知れない。

 ある朝目覚めたとき,自分が変な虫に変身しているのを発見することを想像するより,ずっと建設的ではないかと思うのだが。

 

村の鍛冶屋(2013.12.2)

大正元年,文部省唱歌

 「暫時(しばし)も止まずに槌打つ響き」と始まる歌。何回か歌詞が変えられているようで,私が知っているのは昭和22年に改定された歌詞だろう。「しばしも休まず槌うつ響き」と始まる歌だ。

 昭和17年の改定で「稼ぐにおひつく貧乏なくて」などの歌詞が削除されたらしいが,戦時下では,金を稼ぐことより国に尽くすことを第1とせよという趣旨だったのだろうか。

 今では鍛冶屋など見たこともない。鋳掛屋なども昭和の中ごろまでは廻ってきていたがいつの間にか見なくなった。砥ぎ屋はもう少し遅くまで廻っていたように思う。

 私が子供の頃の巡回販売は他にロバのパン,焼き芋,ラーメン,豆腐,野菜,魚などの食料品のほか,物干し竿,金魚,風鈴などがあったように思う。ポン菓子屋も廻っていた。あとは紙芝居か。そういえば氷屋も来ていた。電気冷蔵庫の無い時代の話しだ。その後スーパーマーケットができ,激減し,コンビニができて絶滅したようだ。ロバのパンは自動車に変わってその後もしばらく巡回していた。物干し棹もトラックで巡回していた。現在住んでいる付近では豆腐屋が巡回しているほか,冬には灯油の巡回販売が廻っている。

 何屋なのかは良く解らないが,化粧品などを持って巡回している店もあった。これは大声で呼びかけながら道路を歩くのではなく,顧客リストに従って個別訪問販売という形態だった。置き薬と似たようなものだ。酒屋は御用聞きにきていたし,これはサザエさんの世界と同じだ。

 急病のときなど,電話もないので家族が医院まで(自転車はあった)走っていくと,医者が往診してくれた。

 今では村の鍛冶屋のような工場兼店舗はほとんど無く,道を歩きながら作業が見える店は手打ち蕎麦の店などの食品関係がほとんどだ。観光地の民芸品製造など限られた場所では見せることを主目的?として作業している場合もあるが。

 この歌も時代に合わなくなってしまったということだろうか,最近聴いたことはない。

 

Danny Boy(2015.3.6)

大正元年,詞:F.D.Weathely,曲:アイルランド民謡

Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling」と始まる歌。

The summer’s gone ・・・・・・・’tis you must go」とあり,どうにもならない理由により別れなければならない。「You’ll come and find the place where I am lying」「I will sleep in peace until you come to me.」と死んだ後もDannyを待つと歌っている。年上の肉親,恐らく父親か母親の気持ちを歌った歌だろう。民謡だというが,日本の民謡でこのような状況を歌ったものは思いつかない。

「ダニー・ボーイ」とのタイトルで昭和37年になかにし礼の詞を高橋元太郎が唄っている。なかにしの詞では歌詞中に「老いたるこの母の胸に」とあり,母親の詞になっている。また「祖国に命をあずけた お前の無事を祈る」とあり,出征による別れだとしている。

サラエボ事件1)は大正3年だ。この数年前なので若者が軍隊に入ることは不思議ではない。その際の親の心配も。

ところで,高橋元太郎だが昭和37年にソロになる前はスリー・ファンキーズのメンバーとして,元祖?アイドル歌手トリオとして活躍していた。その後アイドル路線は放棄したのだろうか,昭和45年からはテレビドラマ『水戸黄門』で『うっかり八兵衛』を演じるようになった。

1)サラエボ視察中のオーストリア・ハンガリー帝国皇帝の世継ぎフランツ・フェルナンド大公がボスニア系セルビア人によって暗殺された事件。この事件がきっかけとなり第1次世界大戦がはじまったとされる。もちろんその前から国際関係は一触即発の状況だった。

 

朝日は昇りぬ(2014.6.28)

大正2年,文部省唱歌

 「朝日は昇りぬ 日は出でぬ」と始まる歌。1番は海,2番は山,3番は工場で働く人々の様子を歌っているが,1番など「帆綱をたぐりあげ 追手に帆あげて 船出する」と帆船だ「海士人(あまびと)」とあるので漁師だろうが今の漁業とは雰囲気がかなり異なる。3番では「工場(こうば)の笛なりて」とあり,作業の合図が笛でされていたようだ。

 曲としては同じメロディーが何度も繰り返される印象で,覚えやすいと言えば覚えやすい曲と言えるだろう。

 

(2012.6.16)

大正2年,文部省唱歌

「松原遠く消ゆるところ」と始まり,1番は「見よ昼の海」2番は「見よ夜の海」を繰り返して終わる。

島国に住む日本人にとって海は身近なものであり,海に関する歌もたくさんある。今では帆船はヨット以外にはほとんど見ることもないし,沿海で漁をする漁港もかなり減った。歌詞も現代の子供には難解かもしれないのでこの歌の人気は落ちているかもしれないが,年寄りには良い歌だ。

昔は交通が不便だったから,生涯海を見ない人も多数居ただろうが,現代では修学旅行などもあり,一度も海をみたことがない人は少ないだろう。しかし,外国ではそうでもないようだ。エジプトからの留学生は初めて雪が降るのを見て感激していた。ドイツからの留学生は活火山を見たいと言った。インドからの短期留学生に,名古屋城,徳川美術館ほかを示してどこか行ってみたいところがあるかと尋ねたところ,リストには示さなかったのだが,「海を見たことがないので海を見てみたい」と答えた。中部国際空港経由で來名したので海を経由しているはずなのだが,海を見た実感はなかったようだ。言われてみて初めて気がついたが,海らしい海を見ようとするとある程度は車で走る必要がある。比較的近くにあった漁港も,潮干狩りや海水浴をした浜も,何十年も前にコンビナートになってしまった。

そういえば,私が住んでいる四日市の市歌1)にも「小舟の白帆画の如し」とあった。なお,この歌の2番は「工場のけむり絶え間なき産業都市の栄をみよや」という歌詞である。四日市喘息などという悪名が立った後あまり唄われなくなったのだろうか。今では煙突は多数あるが煙はほとんど見えず綺麗な空である。コンビナートの夜景が綺麗だとわざわざ見に来る人もいる。

1)「四日市市歌」(昭和32年,詞:佐々木信綱,曲:伊藤亘行)

 

鯉のぼり(2013.11.24)

大正2年,詞:不詳,曲:弘田龍太郎,文部省唱歌

 「甍の波と雲の波」と始まる歌。

 「百瀬の滝を登りなば忽ち竜になりぬべき」ともあり,鯉の滝登りと幟を賭けているのだろう。男の子が龍のように大きく育つようにと願う歌で良い歌だが,歌詞が文語調なので,近藤宮子の『こいのぼり』1)に端午の節句の主要な歌の座を明け渡したかのように感じられる。近藤版は立身出世主義というより家族主義の印象を受けるが,今思うと歌詞の中で祖父母などは無視されているようだ。違う曲について書くのは不本意だが,昭和初期から核家族化は始まっていたのだろうか。

 やはり,子供の頃は,将来に対する大きな望み・目標をもってほしい。文語調の歌詞は身が引き締まり,精神も引き締まるような気がする。

1)      「こいのぼり」(昭和6年,詞:近藤宮子,曲:不詳)

 

早春賦(2014.4.11)

大正2年,詞:吉丸一昌,曲:中田章

「春は名のみの風の寒さや」と始まる歌。

春というのは立春の頃を指しているのだろう。名前だけは春になったとはいえまだまだ寒い。

世界の中で,日本は四季がはっきりとしている代表だろう。国によっては常夏だったり,春・秋が極端に短かったりして,1年を4等分して春夏秋冬と呼ぶことができるのは日本くらいではなかろうか。太陽暦で4等分すれば,冬は12,1,2月だろう。しかし,太陽暦の2月に立春が来る。最近,立秋が過ぎても暑いことが多いが,それでも立秋を過ぎると秋を感じるようになる。体感の四季よりほんの僅か暦の四季が進んでいるのだ。

この歌は,早春に体感でも春になることを待つ気分を歌っており,かつ文語定型詩であることにより,なにやら格調高く感じる歌だ。

3番の歌詞は『むかしはものをおもはさりけり』と似た心境かとも感じるが,やはり冬から春への移り変わりを待つ心の動きなのだろう。

 

冬景色(2011.11.1)

大正2年,文部省唱歌

 「さ霧消ゆる湊江の 舟に白し朝の霜 ただ水鳥の声はして いまだ覚めず岸の家」

 名曲である。駅から勤務先の間に公園がある。普段は近道である公園の横の道を通るのだが,時々公園の中を通る。公園内に池があり,鳥も飛んで来ている。冬の朝この池のほとりに行くとこの1番の歌詞そっくりだ。舟はいないので「舟に白し」というところを「岸に白し」と換えれば完璧だ。池が凍って,岸に霜が下りているときなど,ついこの歌を思い出してしまう。

 公園に烏はたくさんいるが,この曲の2番以降とはやや風情が異なる。

 

故郷を離るる歌(2014.12.3)

大正2年,日本語詞:吉丸一晶,ドイツ民謡

 「園の小百合 撫子 垣根の千草」と始まる歌。最後の「さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば」のほうが有名かもしれない。

 タイトルは「こきょうを」と読むとしているサイトもあるようだ「ふるさとを」と読むとしているサイトもあるようだ。歌詞は「さらばふるさと」だからタイトルも「ふるさとを」ではないだろうか。

原曲は「Der letzte Abend」で,好きな女性と別れる歌だが,日本語の詞は故郷と別れる詞になっている。ドイツ語は聞いても理解できないので大した感慨は湧かないが,日本語の詞を男声合唱で聴いたりすると『男子志を立て郷関を出づれば』1)などという詩を思い出し,身が引き締まる気がする。

1)釈月性「将東遊題壁」:男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈惟墳墓地 人間到処有青山

 

朧月夜(2013.5.6)

大正3年,詞:高野辰之,曲:岡野貞一

 「菜の花畠に入日薄れ」と始まる歌。文部省唱歌(尋常6年)である。

 私が子供の頃には周囲に菜の花畑や蓮華畑がいくらでもあった。「蛙(かはづ)のなくねも」あったが,「かねの音」はなかった。近くのお寺には鐘楼はあったがそこに鐘はなかった。おそらく戦時中供出してそれっきりになっていたのだろう。

 記憶にはないが,小学校で習ったのだろう。子供の頃から知っているが,こどもの頃は当たり前すぎる情景描写で,ほとんど何も感じることがなかった。それよりも,意味もよく解らずに『愛ちゃんは太郎の嫁になるおいらの心を知りながら』1)とか『もう恋なんかしたくないのさ』2)などという歌を聴いていた。

 最近は近くでこのような菜の花畑や蓮華畑を見ることがない。私が住んでいる付近には現在でも農地は沢山あるのだが。

 私が歳をとったせいだろうか,今ではこの歌は名曲だと感じるようになった。しかし,このような風景を見慣れていない人々はどうなのだろうか。

1)      「愛ちゃんはお嫁に」(昭和31年,詞:原俊雄,曲:村沢良介,唄:鈴木三重子)

2)      「黒い花びら」(昭和34年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:水原弘)

 

カチューシャの唄(2013.11.15)

大正3年,詞:島村抱月/相馬御風,曲:中山晋平,唄:松井須磨子

 「カチューシャかわいや別れの辛さ」と始まる歌。芸術座の舞台『復活』(原作:トルストイ)で主演の松井が唄い,大正4年に松井の録音でレコードが発売された。

 さすがに松井須磨子となると私の両親が生まれる前に亡くなっており,私にとっては歴史上の人物だ。この歌も誰かが唄っているのを何度か聴いたことはあるが,『ゴンドラの唄』1)ほどには歌詞にインパクトを感じない。しかし,中山晋平が世に出るきっかけになった曲だと聞けば『そうなのか』と思う。そういえば前半の雰囲気は『ゴンドラの唄』と似ている気がするが後半は『ゴンドラの唄』のほうが好きだ。

1) 「ゴンドラの唄」(大正5年,詞:吉井勇,曲:中山晋平,唄:松井須磨子)

 

児島高徳(2014.11.24)

大正3年,詞:不詳,曲:岡野貞一,文部省唱歌

 「船坂山や杉坂と 御(み)あと慕いて院の庄」と始まる歌。

 『太平記』中の児島高徳のエピソードを歌った歌。「天莫空勾践時非無范蠡」と児島高徳が残した十字の詩がそのまま歌詞に使われている。蛇足かもしれないが,「てんこうせんをむなしゅうするなかれ ときはんれいなきにしもあらず」と唄う。

 子供の頃読んだ太平記は子供用に書き直されたものだったが,この詞は書き下し文で書かれていた。なんとなく覚えているのは「てんこうせんをむなしゅうすることなかれ ときにはんれいなきにしもあらず」で微妙に歌詞と違っている。

 囚われの身となった後醍醐天皇を奪還しようと船坂山や杉坂へと追いかけるのだが警備が厳しくかなわず,桜の木に十字の詩を残して去る。護送の兵士は誰もその意味を理解できないが後醍醐天皇だけが意味を理解する場面である。もちろん,勾践は後醍醐天皇を意味し,范蠡は忠臣を意味している。児島に范蠡ほどの実力があったかどうかは知らないが,児島は自分がついているという意味で勾践のよき部下であった范蠡の名を書いたのであろう。

 越王・勾践に関しては高校の漢文の時間に,『臥薪嘗胆』の故事を習ったときに改めて知った。その出典は恐らく十八史略だったのだろうが,手元に高校の教科書が無いので詳細は不明だ。

 いずれにせよ大正や昭和の初期には文部省唱歌で教えたのだから多くの人が知っていた。

 さすがに私の年齢ではもう学校ではこの歌を習わなかった。

 

故郷(2012.6.9)

大正3年,文部省唱歌(詞:高野辰之,曲:岡野貞一)

 「兎追いし彼の山小鮒釣りし彼の川」という歌。6年生用の唱歌らしいので,児童には習っているときには実感が湧かないかもしれない。しかし,青雲の志を立て国を出たが未だ志を得ない。そのようなとき,人前ならば悲憤慷慨の歌を唄うが,独りになれば尋常小学校で習ったこの歌が思わずでてしまう。そのような歌。

 今では生まれ故郷にこのような山河がある人も少なくなってしまったが,大正初期なら多くの人々の住まい近くにこのような里山があったのだろう。

 

恋はやさし野辺の花よ(2014.8.31)

大正4年,詞:小林愛雄,曲:Franz von Suppe

 「恋はやさし野辺の花よ」と始まる歌。

 棲む世界が違う音楽だ。味噌汁の香もお汁粉の味も全く感じられないバター臭い歌だ。日常空間で流れ,あるいは唄う歌ではなく,劇場など非日常の異空間で聴く歌だろう。バターの味・オリーブオイルの味ももちろん悪くないが,46時中この味だけというのは御免蒙りたい。・・・ピザは好きかも。

 

ゴンドラの唄(2012.6.30)

大正5年,詞:吉井勇,曲:中山晋平,唄:松井須磨子

 「命短し恋せよ乙女」と大胆に始まる。「熱き血潮」というのは与謝野晶子の「やは肌の」1)という歌を受けての言葉であろう。

私など,こんな言葉は気恥ずかしくて使えず,つい「花の命は短くて」2)などと書いてしまいそうになる。

この歌を唄った松井須磨子も大したものだが,舞台女優であり,伝え聞く須磨子の人となりからもこのような歌をうたっても不思議はないように思う。

不思議なのは中山晋平だ。島村抱月の書生をしていたらしいのでその関係で作曲したのだろうが,後の作品からみるとかなり傾向が違うように感じる。中山晋平はいろんな種類の曲を作っており晋平節とかいってもどの曲が中山晋平の代表曲かわからないほどだ。どんな詞にも対応できたということだ。

人前で口に出すのは気恥ずかしいこのような詞でも,歌になっていれば平気で唄える。これがこの歌ヒットの秘密ではなかろうか。もちろん,メロディーも悪くない。

1)      「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」(与謝野晶子:「みだれ髪」明治34年)

2)      「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」林冨美子が色紙にしばしば書いていたらしい。

 

コロッケの唄(2014.4.2)

大正6年,詞:益田太郎冠者,曲:益田太郎冠者

「ランラララララララ ランラン」と始まる。これは歌詞ではないかも知れないが,続いて「ワイフ貰ってうれしかったが」と始まる歌。作曲者不詳と書いてあるものもある。「今日もコロッケ明日もコロッケ」という歌である。

コロッケについてWikipediaを調べてみると,明治後期には全国に広がっていたらしい。豚カツ,カレーライスをあわせて大正の三大洋食のひとつとのこと。ここには大正6年の物価として,豚カツ13銭,ビーフステーキ15銭に対し,コロッケは25銭とあり,高級洋食だったようだ。

嫁さんもらったら,一つ覚えで毎日毎日コロッケというコミカルソングではあるが,当時のコロッケのステイタスを考えると,嫁入前にたったひとつ覚えた高級料理を一生懸命やっている気分が伝わってくる。微笑ましい歌だ。

 

さすらいの唄(2013.4.29)

大正6年,詞:北原白秋,曲:中山晋平,唄:松井須磨子

「行こか戻ろかオーロラの下を」と始まる歌。

松井須磨子の唄は聴いたことがなかったが,インターネットで見つけたので聴いてみた。私が昔聴いた歌と同じ歌だということはわかるが,どうもテンポが違う。更に検索してみて見つけたのを聴いてみたが,大川栄策の唄が私が知っている歌に近いようだ。しかし,私がこの歌を聴いたのは大川栄策が出てくるより遥か以前だ。感じとしては小林旭くらいが唄っていると合うんじゃないか思う歌だった。ただ,小林旭には別に「さすらい」1)という歌がある。

社会全体がテンポアップしている。大正時代は曲もゆっくり演奏されていたのだろう。アナウンサーや漫才師まで早口になっている。クラシック音楽でも演奏時間が短くなっているだけでなくピッチまで上がっていると聞いたことがあるように思う。この歌も,千鳥足で歩いているんじゃないんだから,森繁久弥のようにスローで唄うのではなく,一応幌馬車で進んでいる程度の速さでうたうのが,私には心地よい。但し,「クシコス・ポスト」2)のように疾走するというより,昔の西部劇で幌馬車隊が移動するようにゆったりと歩むという程度の速さがいい。「急げ幌馬車」3)という歌があるが,急がない幌馬車という早さがいい。

「トロイカ」4)も演奏テンポが違うのをいくつか聴いたことがあるが,演奏速度により曲から受ける印象は大きく変る。

1)      「さすらい」(昭和35年,詞:西沢爽,曲,P.D.,唄:小林旭)

2)      Csikos Post」(曲:Hermann Necke

3)      「急げ幌馬車」(昭和9年,詞:島田芳文,曲:江口夜詩,唄:松平晃

4)      「トロイカ」ロシア民謡。日本で良く知られている歌詞(「雪の白樺並木・・・」は原詞(金持ちに恋人を奪われる御者の歌らしい)とかなり違うらしいので,これが演奏の違いに影響しているのだろう。

 

琵琶湖周航の歌(2013.11.6)

大正6年,詞:小口太郎,曲:吉田千秋

「われは湖(うみ)の子 さすらいの」と始まる歌。

小口は三高に入学して琵琶湖一周の漕艇中にこの歌詞を思いついたということで,三高の寮歌として広まったとか,京大ボート部で歌い継がれているとか聞くが実情は知らない。

ボートといえば,大学にはいったばかりの頃,ボート部主催のボートレースに出たことがある。素人が集まった舵付きフォア1)だったが,大変だった。なにしろ休めない。シートは前後にスライドするが,皆とあわせて動いていないと前に出るタイミングで後(船首方向)のオールが前に出てくるのでこれで背中に痛打を食らう。オールを引く力を緩めると舟速に負け,水にオールを持っていかれて自分のオールで胸を強打される。公園の池でボートに乗るのとは訳が違う。もし,三高漕艇部の部活で琵琶湖一周したのなら,こんな歌を思いつくことはとてもできそうにない。公園の遊覧ボートのようにのんびり乗れるボートなら詩想も湧くかもしれないが,琵琶湖一周などとてもできそうにない。

どのように作られたかは別にして,穏やかな気持ちにさせる良い歌だ。昭和46年,加藤登紀子が唄ってヒットした。加藤登紀子が唄った歌で私が一番好きな歌はこの歌かもしれない。

1)      舵なしフォアというのもあるが,これにも舵はついている。正確には舵手付き,舵手なしというらしいが,報道では「手なし」という言葉を嫌って「手」を表示しないとか。このような変な(私にはそう思える)配慮により言葉と実体が乖離していくのではなかろうか。

 

(2013.11.1)

大正7年,詞:北原白秋,曲:弘田龍太郎

 「雨が降ります雨が降る」と始まる歌。「遊びに行きたし傘はなし」と続く。傘がない1)といっても井上陽水とはかなり状況が違うだろう。切れた鼻緒をすげ直してくれる人もいないのか。「千代紙折りましょう」,「お人形寝かせど」,「お線香花火」などとあるので,それほど貧しい生活ではなさそうだ。普通以上の生活レベルであろう。

 テレビはおろかラジオ2)もなかったこの頃,雨が降ったら遊びたくても遊ぶことも満足にできなかったのだ。と書いてしまったが,お手玉や綾取りなど,することはあっただろうし,子供はもっと逞しく遊びを見つけただろう。詞はすこし大人の視線で見すぎているような気もする。

 とは言え,雨で友達と遊べない淋しさが曲調にも感じられ,名曲の一つだと思う。

1)      「傘がない」(昭和47年,詞:井上陽水,曲:井上陽水,唄:井上陽水)。この歌では「傘」は何かの比喩か?もちろんこの歌でも雨は降っているのだが。

2)      最初のラジオ放送は大正9年の米国,次いで大正11年の英国である。日本のラジオ放送は大正14年開始である。

 

かなりや(2013.4.15)

大正7年,詞:西條八十,曲:成田為三

「唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は後の山に棄てましょか」とはじまる歌。

子供の頃,聴くととても悲しくなる歌がいくつかあったが,そのうちの一つがこの歌だ。「背戸の小藪に埋けましょか」,「柳の鞭でぶちましょか」などと聴くととても悲しかったのだ。

子供のころ家には動物がいた。父親の趣味だったかもしれない。私には記憶がないし,写真も残っていないのだが,私はヤギの乳で育ったという話を聞いたことがある。ヤギを飼っていたのかと思う。農家出の母親の実家には牛がいた記憶があるし,祖父や曽祖父の話がでると馬の話題がでるので昔は馬も飼っていたのだろう。自宅に居た記憶があるのは兔,にわとり,犬,種々の小鳥,魚などだ。

兔は世話をした記憶がほとんどないので後に話を聞いて昔は兔が居たんだと思ったのかもしれない。にわとりは餌をやり,卵を採った記憶があるし,最後は私の胃袋に納まったり,物々交換で他の物にかわったり,時には現金に変わったりもしたようだ。犬は私より大きい大型犬で,背中に馬のように乗ったりして遊んだ。小鳥はいろいろと世話をした記憶があり,中には繁殖して増えたのや飼っている途中で死んだのもあった。魚は主として鮒と鯉である。父は食料不足を補うため,よく釣りに行った。海の魚は基本的には直ぐに食べていたが,近くの池で釣ってくる魚は時には活かしておいた。庭に小さな池を掘り,そこに放していたのだ。この魚はペットとして可愛がるというのではなく,私はときどきこの池で釣りをしていたので,釣堀のようになっていたということだ。子供が落ちたら危ないと思うが,当時どうなっていたのか記憶がない。ずっと後には金魚を庭の池で飼っていたが,そこには猫よけの金網が張ってあったので,何らかの転落防止策がなされていたのかもしれない。

父の転勤で転居するとき,犬は連れて行けないということで貰ってくれる人を探して託した。檻に入れて,鰹節を1本檻にいれてやって別れたことを憶えている。

にわとりや魚は食べることに何も疑問を感じなかったが,小鳥は死んだら庭に埋めてやっていた。カナリヤも飼っていたが,家のカナリヤはあまり上手く鳴かなかった。このようなこともあり,この歌を聴くと悲しくなったのだろう。

 

金色夜叉(2014.11.15)

大正7年,詞:宮島郁芳,曲:後藤紫雲

 「熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ」と始まる歌。詞曲ともに宮島と後藤の合作だとする資料もあった。

 尾崎紅葉の新聞小説「金色夜叉」の粗筋を歌ったものだろう。「金色夜叉」は明治三大メロドラマ1)の一つだが,読んだことがない。しかしどのような理由がは覚えがないのでこの歌はよく知っており,この歌の内容が粗筋なのだろうと思っているだけだ。

 さらに「ダイヤモンドに目がくらみ・・・」とか「空は晴れても心は闇だ」「来年の今月今夜 再来年の今月今夜・・・」というような台詞も覚えている。何度も映画化されており,テレビドラマも放映されているようだが見た記憶はない。にもかかわらす覚えているということは声帯模写などの芸をラジオやテレビで観て覚えたに違いない。念のために説明すれば,声帯模写とは人の声のものまねの芸で,以前には声色と呼ばれていたものだ。恐らく有名俳優を真似た芸として,ラジオやテレビで放送されていたのだろう。

 この話から,明治時代にダイヤモンドが富の象徴としてあったことが解る。

1)尾崎紅葉「金色夜叉」・徳富蘆花「不如帰」・泉鏡花「婦系図」。そういえば「不如帰」の歌を思い出さない。武男と浪子が登場する歌のようなものは断片的に思い出すのだが,歌というよりのぞきからくりの口上のようにも思う。のぞきからくりなど観たことはないのだが。「ああ人間はなぜ死ぬのでしょう,生きたいわ,千年も万年も生きたいわ」などという台詞は思い出す。「婦系図」では「ゆ〜ぅしぃまとおれぇばぁ おもぉ〜ぉいだすぅ」などという歌も思い出すし,「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉」などという台詞も思い出す。

 

城ヶ島の雨(2014.3.29)

大正7年,詞:北原白秋,曲:梁田貞

 「雨はふるふる 城ヶ島の磯に」と始まる歌。

 難しい曲だ。特に転調してからは三連符も多用され,それが更に不規則に分割されているなど,私にはとても唄えない。

 詞は絵を観ているようだ。一部「舟は櫓でやる 櫓は歌でやる」などと絵画的要素が薄くなる箇所もあるが,全体的には雨の降る磯付近を舟が進む様子を描いた絵のようだ。

 

浜辺の歌(2012.5.29)

大正7年,詞:林古渓,曲:成田為三

「あした浜辺をさまよえば昔のことぞしのばるる」という歌。

高校だったと思うが,音楽の教科書に載っていた。昔のひとや昔のことを思い出すようだが,この昔がどのくらい昔かがわからない。浜辺もどこかわからないので歴史的な何かを思っているのか,個人的な何かを思っているのかも不明だ。しかし判らないから勝手に解釈できてよいという面もある。寄せては返す静かな波。これをじっと見つめているとその時の気分によっていろんなことが思い出せる。

メロディーも良い。外国でもSong of the Seashoreとして知られているらしい。古い?日本を感じさせるメロディーなのかもしれない。しかし6拍子というのは日本的なのだろうか。あるいは,この頃日本では6拍子が流行ったのだろうか。そういえば「宵待草」1)6拍子だ。

この歌は2番までしか知らなかった。インターネット検索により4番まであるらしいこと,この詞や曲の成立はもう少し古いこと,詞が作られた事情などを知ったがこれらを知った後この歌の評価が変ることはなかった。背景を知ることにより,より感動が大きくなる歌もあるがこの歌はあるがままでよい歌だ。

1)「宵待草」(大正7年,詞:竹久夢二,曲:多忠亮)「待てどくらせどこぬひとを・・・」

 

宵待草(2014.6.24)

大正7年,詞:竹久夢二,曲:多忠亮

 「待てど暮らせどこぬひとを」と始まる歌。詞はいろは歌でなじみの七五調定型詩で言葉が抵抗なく耳に入る。夢二の絵を思い出すような名曲。今夜は月まででないのかとやるせない気持ちを歌っている。

 ところで,手元の楽譜をたまたま見たらAllegrettoになっている。この曲をプロが唄うのを聞いたことがあったかどうか記憶にないが,私のイメージではもっとスローテンポで歌う曲だと思っていた。あるいは大正時代の音楽演奏は全体にテンポが遅く,私のこの曲のイメージがAllegrettoの速さだったのだろうか。

 

あわて床屋(2013.3.22)

大正8年,詞:北原白秋,曲:山田耕筰

 「朝は早うから川邉の葦に」とはじまる歌。蟹が床屋を開くのだが,そこに兔が客として来店,蟹は兔の耳を切ってしまうという歌だ。1番から6番まで「チョッキンチョッキンチョッキンナ」で終り,最後はまた2フレーズ繰り返されるので計7回この掛け声が繰り返されることになる。

 耳を切ってしまうというのは穏やかではないが,それでも,当時は蟹も兔も子供は知っており,子供たちが見知っていた蟹はタラバガニみたいな大きなものではなかっただろうから,本当に蟹がはさみで兔の耳を切るとは思わなかっただろう。ただ,面白いイメージだけを感じとったのではないだろうか。歌詞でも蟹は恥をかいて穴に逃げ込むようだ。

 蟹の泡を石鹸の泡にみたてるなど,なかなか面白いと思う。思いを込めて自分で唄う歌ではないが,私は良い歌だと思う。

 

金魚の昼寝(2014.3.24)

大正8年,詞:鹿島鳴秋,曲:弘田龍太郎

 「赤いべべ着た可愛い金魚」と始まる歌。

 小学校に上がる前か,1年生のときかだが,『ちぎり貼り』のコンテストというのだろうか,そういうのに出場したことがある。何かの代表だったのか,単に親が出場を申し込んだのか,全く記憶にない。ただ,コンテストの参加者は数10人だったような記憶がある。出場者は一部屋に集められ,そこで題が発表され,その場で制限時間内に完成させるのだ。ひょっとしたら,このような部屋がいくつもあり,参加者は数100人だったかもしれないが。

 『ちぎり貼り』というのは(鉛筆などで下書きをしても良いが)色を塗ったりする代わりに,色紙を手で細かく千切って糊で貼っていって絵を完成させるものだ。そのときの課題が『金魚』だった。そのときの私の作品は金魚鉢の中の1匹の金魚だった。今思うと,金魚は運動できないほど鉢一杯の大きさだった。もちろん,この歌のイメージから,真赤な金魚にした。このコンテストでは,私は参加賞を貰った。

 そのときの特選作品は,私がタイトルをつけるとすれば『金魚鉢の金魚を狙う猫』あるいは『猫』でもよいというような作品だった。『金魚』という課題で,画面いっぱいにちかい,大きな赤い鮒か髭のない緋鯉のような魚を一匹描くようではダメなことが子供心にも解った。

 この歌を知らなければ,出目金など,もう少し工夫のある絵になったかも知れないと思う。

 

靴が鳴る(2014.6.5)

大正8年,詞:清水かつら,曲:弘田龍太郎,文部省唱歌

 「おてて つないで のみちを ゆけば」と始まる歌。

 野道を行くことは少なくなったかもしれないが,幼稚園児以下の幼児と散歩するときには良い歌だと思う。

 それにしても野道で「靴が鳴る」というのは舗装道路でもないだろうし,革靴だろうかそれとも鈴かなにかが付いた靴だろうか。まさか最近はあまり見ないが一時流行った笛付サンダルのようなものではないだろう。

 この時代の幼児は『赤い鼻緒のじょじょ履いて』1)いるものかと思っていたが都会では靴を履いていたのかと驚く。田舎では下駄や草履をはいていたのではなかろうか。もちろん田舎にも雪のときなどに履く藁沓はあった。私の祖父はゴム製の長靴を初めて見たときには・・・そしてついに手に入れた時には大感激したそうだ。しかしゴム長では靴は鳴らないだろう。

1)「春よ来い」(大正12年,詞:相馬御風,曲:弘田竜太郎)

 

背くらべ(2012.5.12)

大正8年,詞:海野厚,曲:中山晋平

「柱の傷はおととしの」という歌。

「ちまき食べ食べ」とでてくるがどんな「ちまき」だろう。小さな子供のころ食べた「ちまき」は現在近所で売っている「ちまき」とは違っていた。もちろん中華料理店ででてくる粽とも違う。どちらかというと「笹団子」に近いもので,「柏餅」も「ちまき」も味は似たようなものだった。

おととしの身長が現在の羽織の紐の丈ということは,2年で身長が約1.5倍に伸びたということだろうか。もし、大きな羽織を着ていて紐が臍のあたりにあるとすると2年で2倍ということだ。これは伸びすぎだが,身長が伸び,羽織も小さくなって紐が胸の辺りにあるのかもしれない。このように身長が伸びるのは10代前半ではないだろうか。

確かに柱に傷をつければメモリアルにはなる。しかし,借家住まいだったこの年頃の私には,柱に傷をつけることは許されなかった。

 

浜千鳥(2013.10.28)

大正8年,詞:鹿島鳴秋,曲:弘田龍太郎

 「青い月夜の浜辺には」と始まる歌。

 無粋な私は「千鳥」と聞いても,現実に千鳥を見たこともなく,千鳥の鳴き声を聴いたことはないのだが,昔の歌1,2)に現れる千鳥から想像するに,騒々しい訳ではなく,楽しそうなわけでもなく,どちらかといえば淋しそうに鳴くのだろう。大人なら,思わず過去のことを思い出すような。思い出笑いをするような思いではなく,過去と現在を比較して淋しさを感じるような思い出し方だろうか。

 いずれにせよ,科学?的立場から,千鳥は生活上の必要から鳴いているのであって,これがテリトリーの主張なのか,求愛なのか,あるいは天敵に対する警戒警報なのか,などと論じるのは西洋風の考え方だろう。そのような千鳥の鳴き声を「親をさがして鳴く鳥が」と聴く能力が日本の詩人の能力であり,そのような言葉を聞いて『なるほど』とそのように聴くことが出来るのが日本語によって育まれる能力なのであろう。

 このような感性を引き継げるよう,後世に残したい歌の一つである。

1)      柿本人麻呂:「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ」(万葉集266

2)      石川啄木:「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」(一握の砂:忘れがたき人人一)

 

聞け万国の労働者(2013.10.19)

大正9年,詞:大場勇,曲:?

 「聞け万国の労働者」と始まる唄。メーデーのために作られた歌で「メーデー歌」とも呼ばれているようだ。「ながき搾取に悩みたる無産の民よ厥起せよ」などという歌詞を見ると,この歌ができた時代背景がわかるような気がする。

 この歌は,メロディーは「アムール川の流血や」のメロディーを借りたものとされているようだが「歩兵の本領」1)も同じメロディーである。作曲者は栗林宇一とされているようだが,これらの元歌は「小楠公」2)という歌だそうで,この作曲者は永井建子で明治32年の作と言われている。同じメロディーは私が卒業した高校でも応援歌のひとつに使われていた。

 永井は「七五調の詞で曲のないものはこのメロディーで唄うように」という趣旨で作ったという話もあるので,いろんな歌にこのメロディーが使われているのも作曲者の意に沿ったものかと思うが,永井は陸軍軍楽隊の学長だったらしく,趣旨も「七五調の長編の軍歌で曲のないものは」ということだったらしい。

 七五調の詞という話で思い出すのは「どんぐりころころどんぶりこ」少し新しいところでは「ちっちゃな頃から悪ガキで」などという詞が,全てテレビドラマ「水戸黄門」の主題歌3)のメロディーに載せられるという話だ。

1)      「歩兵の本領」(明治44年,詞:加藤明勝,曲:栗林宇一:永井建子との説あり。)

2)      「小楠公」(昭和18年,国民学校初頭科音楽三では作詞作曲不詳となっている)。菅原都々子が唄った同名の歌(詞:島田磐也,曲:古賀政男)とは違う。

3)      「ああ人生に涙あり」(昭和44年,詞:山上路夫,曲:木下忠司,唄:杉良太郎)他の助さん格さん役の俳優も唄っている。

 

叱られて(2012.5.5)

大正9年,詞:清水かつら,曲:弘田龍太郎

「叱られて叱られてあの子は町までお使いに」という歌。

「ふたりのお里はあの山を越えてあなたの花の村」とあるので登場する二人の子供は何らかの事情で里を離れているのだろう。育ての親か奉公先の主人かはわからないが,とにかく,ことあるごとに叱られている印象だ。今日もまた,暗くなろうという時間になってお使いに出される。

悲しいメロディーで,子供の頃,この歌を聴くととっても悲しくなったことを思い出す。誰が唄っていたのか覚えていないが,川田孝子ではないかと思う。聞いていたのは手回し(ぜんまい式)蓄音機である。

 

しゃぼん玉(2013.3.10)

大正9年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「しゃぼん玉とんだ やねまでとんだ」という歌。即物的で風情もないが,しゃぼん玉で遊びながら小さな子供と唄う歌としては解りやすくて悪くはないとは思うが。

 野口雨情が作詞した歌は多数あり,その中には多くの童謡がある。西條八十や北原白秋も多くの童謡を作詞しているが,私は野口の詞が,他の二人の詞に比べて子供を馬鹿にしているというと語弊があるかもしれないが,子供の感受性というか理解力というかを低く見ているように感じる。子供には難しいことは解らないと決め付け,平明な言葉で単純な歌詞を作っているように感じる。難しい言葉や複雑な感情の表現を避けようとしているのかもしれないが,歌に心が感じられない。

 

明治大学校歌(2014.3.13)

大正9年,詞:児玉花外,曲:山田耕筰

 「白雲たなびく駿河台」と始まる歌。

 野球の応援などで唄われるのではないかと思うのだが,大学野球を観にいったことがなく,実際に唄われるのを聴いたことはない。

 大学受験雑誌の付録にソノシートがついていて,その中の一曲がこれだった。「お--明治その名ぞ・・・」という箇所が印象的である。校歌や応援歌など,校名が入っているものと入っていないものがあるが,この歌のように校名が入っているものが私の好みだ。

 

青い眼の人形(2013.2.25)

大正10年,詞:野口雨情,曲:本居長世

 「青い眼をしたお人形は」とはじまる歌。アメリカから日本にやってきて,言葉がわからないので不安になっている様子が歌われており,同じ作者の『赤い靴』などよりはるかに好きな歌だ。もっとも,自分で歌って感激する歌ではなく,小さな子供に歌ってやるのに良い歌だと思うのだが。

 この人形は「アメリカ生まれのセルロイド」とある。セルロイドと聞くとキューピー人形を思い出す。日本では大正2年からキューピー人形が製造され始めたが多くはアメリカへの輸出用だった。ひょっとしたらこの人形も日本生まれでアメリカから逆輸入されてきたキューピーではなかったのかなどと思ってしまう。

 セルロイドが初めて作られたのは江戸時代末期のイギリスである。最初に成功した応用はビリヤードの玉で,明治初期である。大正時代には写真フィルムに利用されるようになる。セルロイドは加工性・着色製などがよく,昭和初期以降,眼鏡・万年筆・玩具等に広く利用されたが,発火しやすいことと耐久性が悪いことから次第に使われなくなった。

 この歌が発表された少し後,昭和2年のことだが,実際にアメリカから1万体以上の人形が送られて来た。これはセルロイドではなかったようだ。当時激しくなりつつあった日米間の対立を和らげようと,贈られたものであり,日本の全国の小学校に配られた。このとき,この歌が知られていたせいだろう,これらの人形を「青い眼の人形」と呼ぶようになった。日本からも返礼の人形が贈られている。このような努力があったのだが,その後日米は戦争に突入してしまった。

 

枯れ芒(2013.10.10)

大正10年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「己は河原の枯れ芒」と始まる歌。大正11年に「船頭小唄」と改題され,唄:中山歌子でレコード化された。

 戦後,知り合いが,公職追放になり,やることがないので詩吟などを教えていたが,それでも暇をもてあまし,この歌をバイオリンで弾きながら流していたと聞いたことがある。

 後に『昭和枯れすゝき』1)という歌ができた。この昭和の歌では『いっそきれいに死のうか』と気弱になっているが,元祖「枯れ芒」では「己もお前も利根川の船の船頭で暮らそうよ」と貧しくも生きていこうという姿勢が見える。

 恐らく,生活レベルで言えば大正のカップルのほうが遥かに困窮度が高いのだろう。死は身近にあった。死にたくなくても死んでいく人を多く見ていただろう。昭和の後期には,核家族化が進み,死が遠い存在になってしまったのだろう。死は身近なものから観念的なものになってしまったのではないか。

 昭和のカップルが『死のうか』と考えるようになったのは,この50年ほどの間に何かが変わったからだろう。社会構造が変わって底辺の人が生きにくくなったとすればこれは政治の責任ではないか。個人の生きる力が弱くなったとすれば,これは教育の責任ではないか。死に繋がる『いじめ』が発生しているということは,教育が適切に行われていないということではないのか。平均的な教育機関で言えば大正から昭和初期よりも昭和後期のほうが長いだろう。貧困者の困窮度の度合いは昔のほうが高かっただろう。それなのに,昔の人のほうが生きる力が強いように感じられる。

1)      「昭和枯れすゝき」(昭和49年,詞:山田孝雄,曲:むつ・ひろし,唄:さくらと一郎)

 

雀の学校(2015.1.11)

大正10年,詞:清水かつら,曲:弘田龍太郎

 「チイチイパッパ チイパッパ」と始まる歌。

 「先生はむちを振り振り」とあり,昔の先生はこうだったのだろう。この雰囲気を残していた先生は私の通った中学では二人,高校では一人だった。学校で体罰担当教諭というのがあればそのような先生だった。口頭で厳しい先生はもっといた。優しい口調ですぐに廊下に立たせる先生もいたが,今ならこれも体罰の内だろう。

 昭和も中期になると「だれが生徒か先生か」1)と歌われるようになるが,私が通った小学校から高校まででこのような先生の記憶はない。どの先生も先生らしい先生だった。体罰も少なくなかったが,体罰を課したことで非難されたという話を聞いたことが無い。

 高校では,厳しい?体育の授業があった。授業の翌日は筋肉痛で駅の階段などが苦痛だった。この先生が,授業のせいで息子が肢が痛くてトイレにしゃがめない(当時は和式トイレがほとんどだった)と後輩生徒の親からクレームを受けたという噂を聞いた。結末はどうなったのか知らないが,当時,親がこのようなことでクレームをつけるということは思いもよらぬことだったので噂になったのだろう。

 学校が大きく変わったのは私が卒業してしまった後だ。

1)「めだかの学校」(昭和26年,詞:茶木滋,曲:中田喜直)

 

てるてる坊主(2014.3.4)

大正10年,詞:浅原鏡村,曲:中山晋平

 「てるてる坊主てる坊主 あした天気にしておくれ」と始まる歌。

 てるてる坊主というのは何だろうか。明日の天気を司ることができるほどの能力を持っているかのようではある。「晴れたら金の鈴あげよ」というのだから,金で釣れると考えられているようだ。あるいは鈴のほうに重点があるとすれば,神社の鈴などとの関連もあるのかもしれない。「あまいお酒をたんと飲ましょ」とあるので酒も好んでいるようだが,お神酒は珍しくなく,誰もが酒を好むようで,酒からは特別なことが想像できない。

 明日の天気が悪ければ「首をチョンと切るぞ」と物騒なことを言っても罰があたらないとすると本当に天気を左右する力があるのかと思ってしまう。

 てるてる坊主は自分で作ることができ,「首をチョンと切る」こともできると考えているようだ。自分で作ったものだから,能力が足りないものができる可能性もあり,役に立たなければ廃棄するということだ。結局,明日天気になれという願いを込めて作るが,それが有効だという確証は全く無いのだろう。明日の天気を左右することは自分には何も出来ないが,せめて「てるてる坊主」を作って,自分も努力したのだという自己満足を得るためのものか,雨が降ったときに八つ当たりの対象とするために作っておくのかのどちらかであろう。もっと力のありそうな既存の神仏には明日の天気のような願いをするものではないということを,皆が知っていたということであろうか。

 なお,下駄飛ばし(靴飛ばし?)による天気占いというのがあった。正常の向きに落下すれば晴れ,裏向きに落下すれば雨だが,掛け声は『あぁしたてんきになぁぁぁれ』だった。この場合の『てんき』は『晴れ』の意味だ。これも元々明日の晴れを願う儀式だったのだろう。

 

どんぐりころころ(2014.12.19)

大正10年,詞:青木存議,曲:梁田貞

 「どんぐりころころどんぶりこ」と始まる歌。

 もちろん知っている曲だが,どのようなときに唄ったのか記憶がない。子供の頃,ドングリは周囲にいくらでもあり,コマを作ったりして遊んだことはあるがドングリで遊ぶときにこの歌を唄った記憶は全くない。ドジョウに馴染がなかったからかもしれない。小さな用水路からやや大きな川まで,水辺で遊ぶことは少なくなかったが地域のせいなのか,ドジョウは見なかった。他の水生生物はたくさんいたのだが。

 ところで,この歌は典型的な七五調の詞である。昔の歌には七五調の歌が多くあり,これらは互いに歌詞を入れ替えて異なるメロディーで唄うことができる。あまりにも当然のことではあるが,初めてこのことを聞いたときには新鮮な驚きだった。

 

七つの子(2014.11.7)

大正10年,詞:野口雨情,曲:本居長世

 「烏 なぜ啼くの 烏は山に」と始まる歌。

 Wikipediaによればこの歌詞の「七つの子」が謎なのだそうだ。7羽か7歳かということらしい。カラスは一度に7個も抱卵しないとか7年もたてば雛とは言えないとの論議らしい。

 野口は『波浮の港』1)でも現地を見ずに作詞しているようだ。この詞が実際のカラスを観察して書かれたものでないことは明らかだろう。彼は鳥類学者として観察記録をつけたのではなく,詩人の感性に従って文字を並べたのだ。7羽ではなく,七つとなっていることから子供の年齢を表すことは明らかだ。カラスは『かあかあ』と啼くイメージがあり,詩人には『かあ,かゎぁ,かゎぁぃ,かわいい』と聞こえたのではなかろうか。実際にカラスの声を聞きながら書いたかどうかも疑わしい。

 いまでこそカラスはゴミをあさったりして嫌われ者だが,昔は『鳩に三枝の礼あり烏に反哺の孝あり』と親孝行の象徴とされていた。日本神話では神武東征の際,熊野から大和への道案内をしたのが八咫烏だとされている。

 『旅烏』のイメージがあれば,家には久しく帰っていないが子供は7歳になったはず,というイメージであり,『旅烏』は無関係で日暮れには家に帰る場合でも,可愛い7歳の子がいることには違いない。子への愛情の歌だろう。

1)「波浮の港」(昭和3年,詞:野口雨情,曲:中山晋平,唄:佐藤千夜子)。別に藤原義江もレコードを出している。

 

めえめえ児山羊(2014.8.21)

大正10年,詞:藤森英夫,曲:本居長世

 「めえめえ 森のこやぎ 森のこやぎ」と始まる歌。

 こやぎが走り回っていろんな物に当たり,「そこでこやぎは めえと鳴く」という歌だが最後は頸が折れてめえと鳴くのだが,これはいき過ぎではなかろうか。・・・と思うのは私も最近の風潮に染まってきているのかもしれない。

 多くの童話はもともと残酷な結末が多い。最近では結末だけでなく,現代的視点で残酷・残虐と一部の人たちが考える箇所が全体的に書き換えられている場合も多い。

 この歌も,思慮分別なく走り回っていると痛い目を見るという教訓の歌かもしれない。痛いだけでは済まなくなることもあるということだ。

 

夕日(2012.4.22)

大正10年,詞:葛原しげる,曲:室崎琴月

 「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」という唄。幼稚園のお遊戯の時間?にやったような記憶がある。それにしても「ぎんぎんぎらぎら」は激しい。小さな子供のための歌ならもっと優しく書けなかったのだろうか。「真っ赤に燃える太陽」などの形容に比べてはるかにインパクトが強い。濁音を重ねているからだろう。この太陽の沈み方は海だ1)。太陽が山に沈む地域,海に沈む地域の両方に住んだことがあるが,山に沈む場合は「ぎんぎんぎらぎら」と感じたことがない。大気が汚れているのだろうか。

 インパクトの強さは曲にもあるのかもしれない。「ぎらぎら」の部分は8分音符が4つ割り当てられているが,「ぎんぎん」の部分は4分音符が2つである。だから最初の「ぎんぎん」の部分のインパクトが強いのだろう。

 真夏の昼間の太陽は「ぎらぎら」と感じることがあるが,夕日でも「ぎらぎら」というのは南国なのかもしれない。でも,考えてみると幼児にこのようなインパクトの強い歌も良いように思えてきた。

 この年,中国共産党が創立され,ドイツではヒットラーがナチス党首になる。

1)ウィキベディアによれば,作曲者は福山市の名誉市民だとか。広島県だとすると夕日は山に沈むことになる。まだ,日が高いうちに山の陰に入るのだろうか。だとすると「まっかっかっか」はならないと思うのだが。

 

揺籃のうた(2014.5.29)

大正10年,詞:北原白秋,曲:草川信

 「ゆりかごのうたをカナリヤが歌うよ」と始まる歌。

 乳幼児を寝かせつけるには良い歌だとは思うが,私にはハイカラすぎる。「カナリヤ」を買っていたこともあるし,「琵琶」の木がある家に住んだこともあるし,米国に住んでいた時には庭や道路でリスをよく見かけた。「木ネズミ」はリスのことだろう。もちろん「月」はいつも見えていた。詞にでてくる単語は身近な単語ばかりなのだが,どこか私の過去の生活とは異なるのだ。違和感は「ゆりかご」から生じているのかもしれない。「ゆりかご」がこれまでの私の生活の中では唯一非日常的なものではないだろうか。「ゆりかご」自体は家にあったかなかったかは思い出せない。無かったと言い切れるほど珍しいものではない・。しかし「ゆりかご」を使用したことがあっても,この詞のような状況であったことは想像できない。

 寝かせ歌としては「江戸子守唄」が一番気分的に落ち着く。

 

赤い靴(2013.2.18)

大正11年,詞:野口雨情,曲:本居長世

 「赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった」という歌。

 この歌のモデルというか,この歌が作られた動機に関してはいろいろ議論があるようで,関心がある人はWikipediaなどで概要を見た後,更に調べてみればよいだろう。

 歌詞を見ると,子供の視点から,他の女の子が外国人につれられて行ってしまったことを歌った歌である。悲しいメロディーなので悲しい別れなのだろうが,「女の子」と記されており,知り合いではないように感じる。親しい相手なら,もっと別な表現のほうが自然な気がする。「今では青い目になっちゃって」などと,いくら子供でも思うだろうか。

 連れられていった女の子は何を考えていたのだろう。津田梅子は明治4年に米国留学に出発している。このとき梅子は満6歳だ。このときの梅子の気持ちは知らないが,積極的に行って見たいという気持ちもあったのではないだろうかと思う。この歌に歌われている子は養子かもしれず,二度と日本に戻ることもないのかもしれないないが,「赤い靴」を履かせてもらっており,当時珍しかった洋服を着せてもらっているのではないだろうか。行った先でもそれなりの生活が予定されているのだろう。

 この女の子が幸せだと感じるか不幸せだと考えるかはわからない。歌い手の気持ちもわからない。連れて行かれた女の子が可愛そうだと思っているのだろうか,あるいはうらやましいと思っているのだろうか。

 率直に私の感想を述べれば,出来の良くない詞である。私のセンスが悪いのかもしれないが,私の好みに合わないということだ。

 

籠の鳥(2014.10.30)

大正11年,詞:千野かおる,曲:鳥取春陽,唄:歌川八重子

 「逢いたさ見たさにこわさを忘れ」と始まる歌。

 懐メロ番組でも聴いたことがないように思うのだが,よく知っている。レコードやテープあるいはCDを持っているわけでもない。家で誰かがよく唄っていたこともない。もちろん,授業で習うような歌ではない。それでも知っているのはメロディーが簡単で覚えやすいからだろう。

 

砂山(2012.4.10)

大正11年,詞:北原白秋,曲:山田耕筰

 「海は荒海向こうは佐渡よ」という歌だが,手元にある楽譜は私が知っている曲とは違う曲だ。他に,中山晋平が作曲した曲もあるらしいので,私が知っている曲は中山晋平の曲かもしれない。耳に馴染んでいるせいかもしれないが,私は私が知っている曲のほうが好きだ。

 佐渡という地名がでているので,日本海の海だろう。荒波というと冬の海のイメージだ。晩秋の夕暮れ,強い風が吹いている海岸の砂山のイメージを感じる詩だ。子供たちが自宅に帰っていく様子が目に浮かぶ。

 それにしても北原白秋というのはどういう人だったのだろう。中学生のころから白秋などというジジくさい号を使っていたようだ。どんな作品があるのだろうと思って短歌を少し眺めて見た。もとより私には鑑賞眼がないのだが,「ふーん」で終わってしまった。昔の教科書にでていた詩には僅かな記憶がある。しかし藤村の詩は暗誦しようという気になったが,白秋の詩は暗誦しようという気にならなかった。もちろん,感動の余り何度も読み返し,自然に覚えてしまうということもなかった。

 北原白秋の童謡はいろんな題材が取り上げられていて面白い。

 

肩たたき(2014.2.22)

大正12年,詞:西條八十,曲:中山晋平

 「かあさんお肩をたたきましょ」と始まる歌。

 「お縁側には日がいっぱい」の歌詞も,最近では縁側のある家が少なくなって縁側自体を知らない子供が増えているだろう。

 詞から受ける印象は小さな子供だ。縁側で日向ぼっこをしながら肩をたたいてもらっている母親はせいぜい40歳のイメージだ。実際にはこのような時間を持つことができないほど多忙な主婦生活であっただろう。ついこの間まで『人生わずか50年』だったのだ。40歳くらいで白髪が見つかっても不思議ではなかっただろう。

 昔は炊事・洗濯・掃除の家事だけで日々暮れていった。多くの主婦にとってはまず洗濯の苦労軽減が最初に実現されたのだろう。洗濯機の普及だ。次いで炊事に関係する電気冷蔵庫の普及である。これらの家電品は社会を変えたといえるだろう。後の自家用車の普及も社会を変えた。老人から見れば家電品は確かに老後生活を楽なものにしたが自家用車の効果はもう少し先にならないとはっきりとは解らない。自分で車を運転して好きな所にいける世代にとっては確かに便利だが,近所の小売店がなくなり,大きな駐車場を備えたショッピング・モールなどに行かなければならないということが,老人にとってどのような影響があるのか,まだ実感としてはわからない。歩けなくなっても,ネットで注文すれば配達してくれるスーパーもあるし,寿司でもピザでも宅配してくれるの。通販で何でも買える時代なのだが,買い物にも出ず,配達される食料品を待つ生活が幸せな生活なのかは疑問に感じる。。

この歌を聴くと何か時間がゆっくりとながれている感じを受ける。昔はこの歌を聴いてもこんな気持ちになったことはなかったが。

 

黄金虫(2013.10.2)

大正12年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「こがねむしは金持ちだ」と始まる歌。大正11年の成立という記事も見たことがあるが,細かい詮索はしない。

黄金虫は金持ちなのだから金蔵を建てるのはいいのだが,飴を買ってこどもになめさせるというのはどういうことなのだろう。

 インターネットで検索すると,こがねむし自体の解釈にも,ゴキブリ・タマムシ・カナブン等諸説あるようだ。定説らしきものがあるのかどうかも良く解らない。今のところ決定するような資料はないということなのだろう。

 「子供に水飴なめさせた」というのも,「黄金虫は金持ちだ」とどう繋がるのかよくわからない。野口雨情が「水飴」に対してどのような思いを持っていたのかがわからない。水飴は贅沢なものと考えていたのだろうか,あるいは廉価なものだと考えていたのだろうか。

意味が不明だからだろうか,『こがねむしは虫だ〜,あぶらむしも虫だ〜』などという替え歌?(メロディーも違う)があった。

 

月の沙漠(2014.8.13)

大正12年,詞:加藤まさを,曲:佐々木すぐる

「月の砂漠をはるばると 旅のらくだが行きました」と始まる歌。

レコードは昭和17年で唄は柳井はるみとのことである。柳井はるみは後の松島詩子だ。

想像の世界の王子様とお姫様が月下の砂漠を駱駝で旅をしているロマンティックファンタジーである。「二つ並んで」と言ったなすぐ後で「先の鞍には王子様」と男性が前を行くなどいかにも日本的でメロディーも日本的な名曲だ。

思わず『砂漠』と書いてしまった(自動漢字変換の第1候補結果をそのまま使用した)が「沙漠」との意味上の違いはあるのだろうか。戦後,当用漢字が決められた際に『沙』の字が除外されたのでその後は『砂漠』との表記が一般的になり,私などは『砂漠』世代だ。昔は「沙漠」と書いたのだろう。文字が水の少ない不毛の地という意味を表している。『砂漠』ならば砂地だが,マカロニ・ウェスタン1)の舞台の一つだったサボテンだけが生えている沙漠は砂地ではないように見えたので「沙漠」のほうが指し示す範囲が広いのだろう。

しかし,この詞をじっと眺めていると歌を聴いたときとは違う感想が浮かんでくる。二人が兄妹ならば革命が起きて,供も連れずに金銀の鞍や瓶を持っての逃避行ではないかとの印象が「対の駱駝はとぼとぼと」という駱駝の様子にも現れているようだ.

1)昭和30 年代末期から数年間ヨーロッパ(主としてイタリア)の監督によって作られた西部劇映画。最初のヒットはセルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」(昭和39)か。尚,本家米国の西部劇に出てくるカウボーイは,牛を飼えるほどの牧草がある土地で働いているはずだが,闘いの場は点在する町の中,あるいはこれらの間を移動中というケースが多いようだ。もちろん保安官や騎兵隊が主役の西部劇にも有名なものがある。どのケースでも敵を追跡中などの場面では不毛の地を馬で行くイメージが強い。

 

どこかで春が(2014.5.20)

大正12年,詞:百田宗治,曲:草川信

 「どこかで春がうまれてる」と始まる歌。

 早春の喜びの歌。冬の寒さが厳しい地域ほどこの気持ちは強いだろう。昔は暖房も十分ではなく,冬の間は家の中での作業をするか,屋根の雪下ろしをするのが精一杯,どうしても活動が鈍くなる。ようやく雪解け水が流れ出し,風向きが変わり,ひばりの鳴く声がして,芽が出る音が聞こえるようだ。

 ひばりは子供の頃には近くで見たこともあるが,最近は見ない。この歌のように早春に声を聞いたというより,私には『うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しも独りし思へば(大伴家持)』のように春盛りの頃に見たイメージが強い。

 

春よ来い(2013.2.10)

大正12年,詞:相馬御風,曲:弘田龍太郎

 「春よ来い早く来い」と始まる歌。春を待つ歌だ。春を待つ幼児の歌だ。「つぼみもみんなふくらんで」いるようなので,春も間近なのだろう。やはり季節は春から始まると感じるのが自然な感覚だ。これにあわせて幼児を登場させている。老人も春を待つが,やはり幼児のほうが良く似合う。

「じょじょ」という言葉は知らないが,鼻緒がついた履物らしいので草履のようなものだろう。「ぞうり」→「じょうり」→「じょじょ」ではないだろうか。根拠は全くない思いつきだが。「赤い鼻緒のじょじょはいて」とあることにより,子供が和服を着ていることが強くイメージされ,時代や場所のイメージまで湧いてくる。目に見えるような歌だ。良い歌だと思う。

この歌は春を待っているという歌詞の額面どおりの歌だろう。政治的なメッセージが込められているとするのは牽強付会だ。

 

ゆうやけこやけ(2012.3.27)

大正12年,詞:中村雨紅,曲:草川信

「ゆうやけこやけで日が暮れて」という曲。今でもお寺の鐘で子供が帰る地域はあるのだろうか。私が住んでいた地方では子供の頃でもお寺の鐘は除夜の鐘くらいしか聴いた記憶がない。小学校だったか中学校だったかでは,夕方,校庭で遊んでいる人ももう帰りなさいという意味で,校内放送で「新世界」が流された。

大正12年9月1日,大きな地震があった。関東大震災である。地震発生が昼食直前の時間帯だったためか,大火事になり,多数の死者が出た。

当時,ラジオ放送は始まっておらず,マスコミとしては新聞しかなかった。電話も普及しておらず,連絡手段として電報はあったが,被災地との連絡は困難を極め,正確な報道はなされなかった。

朝鮮人が暴徒化したとか,井戸に毒を入れたとか,火をつけて回っているなどという噂が流れ,自警団がつくられ,朝鮮人とみなされた人が殺害されたりした。単なる口コミではなく,9月3日の新聞記事で「朝鮮人の暴徒が・・・火を放ちつつあるのを見た」などという記者目撃情報が掲載されていたりする。一方,官憲・軍はこの噂に疑念を持ち,2日の一報は虚報であることを確認し,3日には「流言である」とのビラを市内に貼っている。

火事場泥棒のような犯罪はあったらしい。朝鮮人による犯罪もあったらしい。火の気のないところからの出火もあったらしい。しかし朝鮮人の暴徒化というようなことがあったというのは噂や新聞記事だけである。犯罪者が全て朝鮮人だったわけでもない。ましてや,朝鮮人全てが犯罪者だったわけでは決してない。身を挺して朝鮮人を守った人も居るが,デマを信じてパニックに陥り集団で朝鮮人や朝鮮人と見なした日本人を殺害した人も少なからずいたようだ。

混乱時に限るわけではないが,特に混乱時には正確な情報が最も大切である。マスコミは嘘を報道してはいけない。ずっと正しくても,たった一度でも誤報があれば影響は極めて大きい。ところが歴史的に見ると誤報を何度も繰り返している。猛省を促したい。虚報の大本営発表を垂れ流すのも,もちろん誤報の一つだ。戦前の話に限らない。原発事故でもマスコミは適切な初期対応ができなかった。電力会社,監督官庁,政府,マスコミ,これらの半分でもまともであればもっと適切な処置ができだだろうに期待される役割を十分に果たしたところは一つもなかった。もちろん,これらに属する個人としては適切に対処しようと努力をした人は多数いると思うのだが,組織として適切できたとは言えない。

時に正義面して悪と見なした者を糾弾することもあるマスコミだが,自分自身にも厳しくあってほしい。

 

あの町この町(2014.2.13)

大正13年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「あの町この町 日が暮れる日が暮れる」と始まる歌。

 2番の「お家がだんだん遠くなる」というのは,次第に暗くなってきて,確かに家に向かっている筈なのに,家までの距離が延びていると感じているのだろう。大人が一緒にいれば,そのような心理状態になりそうには思えないので,子供だけ,恐らくは一人で自宅を目指しており,思ったよりも早く暗くなってくることにあせっているのであろう。

 このような感覚は人通りのすくない田舎道なら一層強いだろうが,「あの町この町」と街中のような歌詞もある。街中でも見知らぬ人ばかりならば,子供にとっては不安は大きいだろうが,やはり群集の中の孤独をうたった歌ではないだろう。

 この歌で歌われている感覚は,今の子供よりも昔の子供のほうがはるかに強かっただろう。

 ところで「歸りゃんせ」とはどこの言葉だろう。私が住んだことのある地域でこのような言葉を使うのは「通りゃんせ」を唄うときだけだった。

 

兔のダンス(2013.1.31)

大正13年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「ソソラソラソラ兔のダンス」と始まる歌。

 兔は神話では『因幡の白兎』のような形で登場し,中国故事でも『守株待兔』のような形で現れる。日本では月の模様を兔が餅を搗いているとしていた。『兔と亀』などの話もある。もちろん十二支にも登場し,『うさぎうさぎ何見てはねる』とか『うさぎ追いしかの山』などと歌にも歌われる身近な動物だった。

 日清・日露の戦争後,国は軍用として兔を飼うことを奨励した。これが軍用兔である。毛皮用と食肉用の二種類があった。兔は大人しい動物なので一般家庭でも容易に飼育することができた。戦時中は軍服や手袋に使用される軍需品だったが,戦後もアンゴラ兔の毛皮は高値で取引され,日本での毛皮の本格的生産が終了したのは昭和44年である。

 この歌は「タラッタラッタラッタラッタラッタラッタラ」などと軽快なリズムだが,実際の兔を目前にした歌というより,鳥獣戯画に描かれているような兔を想像して作られた歌のような気がする。

 

証城寺の狸囃子(2012.3.4)

大正13年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「証 証 証城寺 証城寺の庭は」で始まり,「ぽんぽこぽんのぽん」で終わるのか「皆でて来い来い来い」で終わるのかよくわからないが「ぽんぽこぽんのぽん」で終わるらしい。

 狐狸というが,狐は昔話・童話に登場する回数は狐のほうが圧倒的に多いような気がする。狸が登場する昔話として思いつくのは「かちかち山」と「ぶんぶく茶釜」くらいだ。昔の絵本になっているような話には「浦島太郎」や「猿蟹合戦」のように大抵歌があると思っていたが,「かちかち山」や「ぶんぶく茶釜」の歌は思い出せない。

 狸が出てくる歌も,私が知らないだけかもしれないが,少ないようだ。「げんこつ山のたぬきさん」くらいしか思い出さない。この曲は私が子供の頃には聴いた記憶が無いので比較的新しい曲なのだろうが,作詞・作曲は誰か知らない。詞は独創的だと思う。つまり私には思いつかないだろうということだ。しかし曲・・・といってよいのかどうか判らないが・・・は私でも思いつきそうな気がする。このメロディーは所謂標準語の発声に忠実なメロディーになっているようだ。

 狸というと信楽焼の置物を思い出す。現実の狸はスリムな体型が多いように思うのだが,なぜ信楽の狸はあのようにメタボ体型なのだろう。そういえば「証城寺の狸囃子」で「ぽんぽこぽんのぽん」では歌詞に明示されているわけではないのに太鼓腹の狸の腹鼓を想像していた。

 狸の置物から思い出したというわけではないが,そういえば「たんたんたぬきの・・・」という歌もあった。

 

花嫁人形(2016.2.27)

大正13年,詞:蕗谷虹児,曲:村山長谷夫

 「きんらんどんすの帯しめながら」と始まる歌。

 前半は「花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」と実際の花嫁を見ているような描写だ。

 この時代の花嫁は,二度と実家に戻ることはないと,家族との別れの悲しみと,よく知らない他家へ嫁いでゆく不安のために泣いたのだろうか。花嫁の家族の思いもどのようなものであっただろうか。

 後半は「花嫁人形」であることを明示して,振袖が「赤い鹿の子の千代紙衣装」と唄っている。人形のほうは濡れると「たもとがきれる」とか「鹿の子の赤い紅にじむ」などの問題があり「泣くに泣かれぬ」と歌っている。

 この歌は花嫁の幼い妹の思いだろうか。人形で遊びながら,お嫁さんになったら綺麗な着物を着ることができる,お嫁さんはいいな,早くお嫁さんになりたいなどと思っていたのに,実際のお嫁さんを見たら泣いているので不思議に思ったのだろうか。

 タイトルに花嫁と入っているのに,目出度い歌・楽しい歌というより悲しい歌だ。

 

あめふり(2012.2.5)

大正14年,詞:北原白秋,曲:中山晋平

「雨雨降れ降れ母さんが」という童謡である。「蛇の目でお迎え」というのは最近ないだろう。蛇の目傘は日本舞踊くらいでしか見ないような気がする。「あらあらあのこはずぶ濡れだ」「君君この傘さしたまえ」と母親が迎えにいけない家庭の子もいたようだが,傘を貸してやる優しさがある。学校で修身を学習するほか,このような童謡を通じても人と人の交わり方を学んでいた。今のように多様な曲が各種メディアで次々と入手できるわけではないので,曲名を知らなくても多くの子供が共通の歌を唄っただろう。

最近聞かないのは「きみきみ,この傘,さしたまえ」という言い方が嫌われたのかも知れない。「君」も「賜え」も元は尊敬語だったのだろうが使われるうちに尊敬を表す度合いが下がってしまった。

しかし,さすがオノマトペの国,「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷランランラン」で情景が眼に浮かぶ。同じ雨でも「雨がしとしと降っていた」1)とか「しとしとピッチャンしとピッチャン」)だと母さんが迎えに来てくれ「ランランラン」という嬉しさが表されない。

1)阿久悠:せんせい(唄:森昌子)

2)吉田正:子連れ狼(唄:橋幸夫)

 

思い出した(2019.3.16)

大正14年,詞:添田知道,曲:鳥取春陽

 「思い出した思い出した思い出した 去年の三月花の頃」と始まる歌。

 昭和36年頃,小林旭が唄っていたのではないかと思い,資料を捜してみたが見つからない。たしか小林盤はタイトルが「思い出した思い出した」だったような気がするし,2番以降の歌詞も違っていたように思う。

 昭和40年ころまでは昔の歌をリバイバル・ソングとして別の歌手で再発売することが少なくなかったように思う。このとき,戦後思想から見て不適切と判断されると,歌詞が変えられることも少なくなかった。

 

からたちの花(2016.3.10)

大正14年,詞:北原白秋,曲:山田耕筰

 「からたちの花が咲いたよ」と始まる歌。

 文学に関する才能のない私など,詞の最初のほうだけ読むと,小学生の作文かと思ってしまう。私が心を動かされるのは「からたちのそばで泣いたよ」からだ。これ以降になってから,詞が最初からフラッシュ・バックし,じわじわと静かな感情が湧いてくる。しかし私の感情と曲調は合致しているとは言い難い。従ってなにかの折に私が思わず口ずさむなどということはないだろう。

 

ペチカ(2013.9.20)

大正14年,詞:北原白秋,曲:山田耕筰

 5番まである歌詞の全てが「雪のふる夜はたのしいペチカ」と始まる歌。5番まで全てが「ペチカ燃えろよ」と続き,最後は「ペチカ」と終わる。結局「ペチカ」という単語が15回現れる歌である。

 ペチカとはロシア風の暖炉である。オーブンとしても使うのが一般的だし,給湯設備にもなる。このようなことを知らなくても,歌詞から暖炉かストーブのようなものだと想像できる。

 テレビもラジオもない。もちろん電話もゲーム機もない時代の歌だ。雪に閉じ込められてはいるが,冬はこのようなものだと思っているのだろう,何もない中,暖かさに満足しつつ春を待つ様子が感じ取れる。訪れる人があり,新たな話し相手ができることの喜びも伝わってくる。

 このようなときがほんの数10年前までは珍しくなかったのだが,今からこのような生活に戻ることは非常に困難だろう。

 

待ちぼうけ(2013.1.22)

大正14年,詞:北原白秋,曲:山田耕筰

 「待ちぼうけ待ちぼうけある日せっせと野良かせぎ」と始まる歌。

 『韓非子』にある『守株待兔』に題材を取ったものである。「兔ぶつかれ木のねっこ」と待っていても,柳の下に2匹目の泥鰌を見つけるよりはるかに難しいだろう。実際,この黍畑は荒野になってしまって5番が終わる。

 この年,東京放送局(後の日本放送協会)からラジオ放送がはじまった。3月の仮放送は田町駅付近からの放送で,逓信省電気試験所跡の高さ40mの木製空中線柱を利用して送信された。コールサインはJOAKである。7月からは愛宕山から本放送となった。当時,鉱石ラジオ10円,真空管式ラジオ120円だったらしい。白米10kg320銭,公務員の初任給が75円くらいの時代である。

 

この道(2013.1.12)

大正15年,詞:北原白秋,曲:山田耕筰

 「この道はいつか来た道」という歌。メロディーの優しさも合わせて,名曲と言ってよいだろう。「お母さまと馬車で行ったよ」という箇所は少し時代を感じさせるが,全体として懐かしさを思い起こさせる歌で,登場する花や時計台などを適当に選べば,世界中どこでも通じそうな既視感のする歌である。

 残念ながら,私自身にはこのように感じられる道がない。こどもの頃通った道は全て拡幅され,周囲の田畑・建物は全く変わってしまった。町名までも変わってしまっている。全てと言ってしまったが,例外がないわけではない。昔とほとんど変わらない道がないわけではない。少なくとも数10年前には,道は変わっていなかった。しかし,数10年の間隔を経て訪れたときには私自身が変わってしまっていた。広い道だと思っていた道は自動車では入り込めないような細い道だった。この歌の景色は歌の中か夢の中にしか存在しなくなってしまった。だからこそ,この歌を大切にしたい。