明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和29年〜
目次
昭和29年
青いカナリヤ,あなたと共に,伊豆の踊子[三宅出るとき],ウスクダラ,オウ・マイ・パパ,お富さん,岸壁の母,高原列車は行く,白鷺三味線,ジャニ―・ギター<Johnny Guitar>,そよ風のビギン,デビークロケットの唄<The Ballad of Davy Crockett>,初めて来た港,初恋ワルツ,ひばりのマドロスさん,瓢箪ブギ,吹けば飛ぶよな,ふしぎなポケット,紅孔雀,真室川ブギ,ヤン坊ニン坊トン坊,Johnny Guitar, The Ballad of Davy Crockett
昭和30年
あゝ新撰組,青い夜霧の港町,赤と黒のブルース,あの娘が泣いてる波止場,田舎のバス,おお牧場はみどり,おもいでの花,親子舟唄,おんな船頭唄,かえりの港,カスバの女,ガード下の靴磨き,高原の宿,小島通いの郵便船,この世の花,ご機嫌さんよ達者かね,しあわせの歌,島の船唄〔茜流して〕,次男坊鴉,素敵なランデブー,チャチャチャはすばらしい,月がとっても青いから,東京アンナ,花はどこへ行った〈Where have all the flowers gone?〉,ピレネエの山の男,弁天小僧,マンボ・イタリアーノ,ミッキーマウス・マーチ<Mickey Mouse Club March>,木浦の涙,りんどう峠,別れの一本杉,渡り鳥いつ帰る,Mickey Mouse Club March,Where have all the flowers gone?
青いカナリヤ(2021.4.1)
昭和29年,詞:Vincent Fiorino/井田誠一,曲:Vincent Fiorino,唄:雪村いづみ
「さみしいカナリヤ わたしのお友達」と始まる。
「かなしい言葉は 小川に捨てよう つらい想い出なら 森に捨てよう」という歌。
歌詞の多くは英語のまま歌われている。その中で「Blue, blue, blue , canary Tweet, tweet, tweet the whole day long」と何度も繰り返されるので,聞き取れなくても何となく聞き覚えてしまう。
あなたと共に(2019.9.29)
昭和29年,詞:矢野亮,曲:吉田矢健冶,唄:津村謙・吉岡妙子
「あなたと共に 行きましょう 恋の甘さと切なさを はじめて教えてくれた人」と始まる歌。
松竹映画「あなたと共に」(岸恵子・佐田啓二)の主題歌。
ビロードの歌声と言われた津村はもちろん,吉岡の声も良い声だ。精神的に疲れたとき,このような歌を聴くとよれよれになった心が洗われ,再び頑張れるような気がする。
伊豆の踊子(2023.2.24)
昭和29年,詞:木下忠司,曲:木下忠司,唄:美空ひばり
「三宅出るとき 誰が来て泣いた」と始まる。
「まめで暮せと ほろほろ泣いた」のは親だ。つまり親子の別れの歌だ。
この時代は仕事の為に生まれ故郷を離れることは,場合によっては今生の別れとなるようなものだった。この時代はと書いてしまったが,この時代には移動手段はなくはなかったが,経費がかかり誰でもが簡単に利用できるというものではなかった。
ウスクダラ〜USKUDARA〜(2013.5.22)
昭和29年,詞:S.Lee/音羽たかし,曲:S.Lee,唄:江利チエミ
「Uskudara giderken aldida bir yagmur」と始まる歌。このあたりは全く意味が理解できないが,ラジオを聴きながら「うすくだらぎーでーりけん」などと懸命に書き取った覚えがある。しかし,私がそんなことをしていた時代はこの時代よりもっと後のはずだ。途中で日本語の台詞で説明があるし,曲の後半の歌詞は日本語なので前半の意味は想像するしかない。
トルコの西にあるウスクダラという町に「町中の女を自慢の腕で恋のとりこにしてみせようと」男たちの一行が訪れるのだが「とりこになったのは男だったとさ」という歌である。
トルコ語部分の和訳はインターネットで捜すと見つかるが,この歌の日本語歌詞とはあまり一致しないようだ。
世界の歌を原語で唄えるようにと努力していた当時は唯一のトルコ語の歌として私のレパートリーに入っていたが,もともと私にとって意味不明の音の羅列であり,唄う機会もないまま,歌詞をほとんど忘れてしまった。
オウ・マイ・パパ(2024.4.16)
昭和29年,詞:Paul Butkhard,英訳:John Turner・Geoffrey Parsons,和訳:井田誠一,唄:雪村いづみ
「オウ・マイ・パパ 帽子を横ちょに かぶり おどけていた」と始まる。
「かえらぬパパ」の思い出が歌われている。
後半は英語詞が歌われている。私の英語力では聞き取れないが,歌詞を読むと私の英語力でも理解できる程度の簡単な英語のようだ。
英語版を歌ったのはEddie Fisher。原曲はスイスでミュージカル用につくられた『O Mein Papa』。
お富さん(2011.9.4)
昭和29年,詞:山崎正,曲:渡久地政信,唄:春日八郎
「死んだはずだよお富さん」のフレーズが印象的。
昭和30年,父の転勤で私は福岡県八幡市から三重県四日市市の小学校へ転校した。八幡の社宅には全国から社員が集まっており,皆,標準語を話して(話そうとして)いたので,両親が新潟県長岡市と古志郡出身の私は越後訛りの標準語を話していたのだろう。しかし,四日市の社宅は軒数も少なく,小学校も地元の生徒ばかりで所謂「四日市弁」が話されていたので,私には話がほとんど理解できなかった。
当時,ラジオ放送は大抵の家で聴いていたが,所謂標準語が一般に話されることはなかった。その後テレビの普及で誰もが標準語が話せるようになってきたが,私が大学に入学した時代でも他地域出身の学生の話はあまり理解できなかった。入学後しばらくして愛知県岡崎市出身の学生と話をしていて,最初のクラスコンパでの自己紹介が互いに半分以上理解できていなかったことを確認しあった。
さて,「お富さん」だが,レコードやラジオでは聴いたことがなかった。当時,このような歌は「流行歌」と呼ばれていたのではないかと思うが,学校では禁止されていたのではないだろうか。教育上よろしくないと言うことだったのだろう。
子供会で廃品回収をやっていた。町内の小学生がリヤカーで廃品を集めて売るのである。そのときに誰かがこの歌をうたっていた。というより「死んだはずだよお富さん生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん」を繰り返すだけなのだが。このような作業を通して私は地域に馴染んでいった。しかし,当時は歌詞の全体の意味は全く理解していなかった。
岸壁の母(2012.1.14)
昭和29年,詞:藤田まさと,曲:平川浪龍,唄:菊池章子
「母は来ました今日も来た」という曲。後に二葉百合子も唄っており1),こちらのほうを多く聴いているかもしれない。二葉百合子版は台詞入りである。
ソ連からの引揚船が着く度に息子を捜して岸壁に佇む母親の歌である。復員名簿は事前に公表されるので乗船していないことはわかってはいるのだが「もしやもしや」ということで港にやってくる母心。昭和29年にはソ連による抑留は現実問題2)であり,母心を唄うことにより抑留の不法性を訴えるメッセージを発していたと思うが,二葉百合子の時代はシベリア抑留を現実問題として捉えるのは直接の関係者だけになっていたのではないだろうか。
かなり後のこと,とはいえ今から何年も前だが,静岡県内で観光バスに乗っていたとき,ガイドが「若い人には馴染みが無いかもしれませんが」と前置きしながら「藤田まさと」の話をしていた。「藤田まことじゃありませんよ」はご愛嬌だが,「きしかべのはは」と言ったときは一瞬何を言っているのか理解できなかった。ガイドがこれまで生きた時間は私の半分以下には見えたが,あまりにもひどいではないか。バス会社はもう少し教育してほしい。
1) 昭和47年
2) 47万人以上いた抑留者全員の復員が完了したのは昭和31年。
高原列車は行く(2012.3.31)
昭和29年,詞:丘灯至夫,曲:古関裕而,唄:岡本敦郎
「汽車の窓からハンケチ振れば牧場の乙女が花束なげる」という歌。いつからか「ハンケチ」は「ハンカチ」になった。いきさつは知らないが「ケチ」より「カチ」が好まれたのだろう。当時の汽車は窓が開いた。窓から手を出して振っている感じだ。
この年,「ゴジラ」が東宝映画に初登場。このころ盛んに行われていた原水爆の実験の影響により出現したとされている。日本の怪獣映画の元祖のように言われているように思うが,児雷也などは映画になっていなかったのだろうか。あるいは蝦蟇,蛞蝓,大蛇などは大きさが大きいだけで「怪」獣ではないというのだろうか。しかし,キングコングも怪獣に分類されているように思う。八岐大蛇などは怪獣と言っていいだろう。
初代ゴジラの映画は観たはずだと思うのだが,ほとんど内容を思い出さない。なぜ日本にやってきたのかなどのストーリーもそうだが,都市破壊の場面などもその後に観たゴジラシリーズと記憶の区別がつかない。最後にはゴジラが東京湾から太平洋に向けて歩いて去ったように思う。
当時はテレビもなく,映画も白黒だった。
白鷺三味線(2020.4.29)
昭和29年,詞:西条八十,曲:上原げんと,唄:高田浩吉
「白鷺は 小首かしげて 水の中」と始まる。
論理ではなく,気分で言葉が繋がっていく詞。
俗曲については何も知らないので,この歌がどういう系統なのかもわからないが日本調であることは間違いない。ほろ酔い気分で深く意味も考えずにボーッと聞いているのも悪くない。
そよ風のビギン(2017.12.18)
昭和29年,詞:杉本襄之,曲:利根一郎,唄:小畑実
「そよ風が 甘い香りを乗せて来た」と始まる歌。
「そよ風 そよ風のビギン」と繰り返されるエンディングが耳に残る。
男歌だと思うが,当時このようなメルヘンチックな男歌があったことにやや驚きを感じている。まだ人出の多い場所には傷痍軍人などが居た時代だと思うが。
初めて来た港(2023.5.4)
昭和29年,詞:豊田一雄,曲:豊田一雄,唄:藤島桓夫
「初めて来た この港 たった短い 四,五日だけど」と始まる。
一番では「汽笛ひと声 別れる辛さ」と別れて行くのだが,二番では「今度来たときゃ 暫く暮らそう」と思い,三番では「無理に別れる つもりはないが」「また来る日まで」「元気でさようなら」と結局は別れて行く。生きて行くためには仕方なかったのだろう。
初恋ワルツ(2022.1.4)
昭和29年,詞:松村又一,曲:飯田景応,唄:野村雪子
「たった一言アイラブユー 言えぬ心のもどかしさ」と始まる。
最終的に「夢で逢いましょ二人の座敷」とこの初恋は成就しないようだが,かなり水商売の匂いがして『何回目の初恋やねん』とツッコミたくなる。まあ,営業トークなら「言えぬ心のもどかしさ」とはならず,『遊女は客に惚れたと言い 客は来もせでまた来ると言う』1)となるのだろうが。
営業トークでなければ当時の社会で女性から「アイラブユー」などということはほぼ不可能だっただろう。バレンタインデーなど一般的ではなかった時代だ。
1)「紺屋高尾」篠田實の浪曲。
ひばりのマドロスさん(2012.9.28)
昭和29年,詞:石本美由紀,曲:上原げんと,唄:美空ひばり
「船のランプを淋しくぬらし」と始まる。「縞のジャケツのマドロスさんはパイプ喫かして」など,情景が眼に浮かぶ。歌詞も「タラップのぼる」となっているが,後の石原裕次郎などの影響だろうか,片足が一段上がっているほうがイメージに合う。
作曲なのか編曲なのかわからないが,前奏部分など今聴くとかなりの時代を感じ,マドロスのイメージにも合わないようにも思うが当時はどうだったのだろうか。なんとなく後年の,ひぼりの声の中でも太いほうの声で唄い始めていたように思っていたが,今聴きなおしてみると思っていたより高い中細の声で唄い始めていたのが意外だ。
この頃だと思うが,電車に乗って街頭テレビを観にいったように記憶している。
瓢箪ブギ(2020.10.5)
昭和29年,詞:高橋掬太郎,曲:江口夜詩,唄:春日八郎
「飲めや歌えや世の中は 酒だ酒だよ瓢箪ブギ」と始まる。
「どうせ飲むなら 養老の滝を」というような歌。それでも「滝がお酒になったとさ」「そんないいこと もうないか」と一応現実も見えているようだ。
「かわい女子(おなご)のお酌でのめば 心うきうき花かざり」というのは解るが,「なすも南瓜(かぼちゃ)も恋の味」というのは文字通り以外の意味があるのかどうか不明だ。歌詞カードには「かわい女子」の隣に「なすも南瓜も」と並んでいるが。
よくは解らないが酒を飲んでいれば幸せだという雰囲気の歌。ヤットン節1)の世界だ。
1) 「ヤットン節」(昭和27年,詞:不詳/野村俊夫,曲:不詳/服部レイモンド,唄:久保幸江)『ちっとやそっとのご意見なんぞで 酒やめられましょうか』という歌。
吹けば飛ぶよな(2020.4.7)
昭和29年,詞:東条寿三郎,曲:渡久地政信,唄:若原一郎
「おおい どしたい元気かい ネオンまたたく 街角は」とはじまる。
よくは解らないが,「僕もやるから 君もやれ」「僕も飲むから 君も飲め」「僕もゆくから君もこい」と仲間意識旺盛ということだけは解る。
酒が庶民の唯一の共通娯楽だった時代だ。皆貧しかったので,経済格差はあまり感じなかった。10年後にはレジャーも増え,スキーなども盛んになり,更に10年後は自家用車、更に10年後は海外旅行にと酒以外にも金の使い途が増え,庶民階級が自家用車を所有する階層と保有できない階層に別れた。それでも酒席は共通の楽しみであったが,更に時代が進んで誰もが自家用車を持つのが普通の時代になると,金の使い途は更に多様化し,酒席は必ずしも歓迎されるとは限らなくなった。これが昭和末期ではなかろうか。平成時代は喜んでとはいえないまでも酒席に参加はしていたが,令和になると酒席を断る人まで現れるようになる。
集団主義を廃し個性を重んじる教育の結果なのか,所得格差の増大によるのか,昭和時代に存在した中流意識を持つ巨大な集団は消滅した。
ところで,この歌では「ポルカ唄って ポルカ唄って」と何度も繰り返される。この時代にポルカが流行したのだろうか。ポルカはチェコの舞曲らしいが踊るわけではないようだ。流行したポルカとしては『老人と子供のポルカ』1)くらいしか思いつかない。歌声喫茶などでポルカがよく唄われたのだろうか。うたごえ運動などで歌われたのだろうか。
1)「老人と子供のポルカ」(昭和45年,詞:早川博二,曲:早川博二,唄:左卜全とひまわりキティース)
ふしぎなポケット(2014.8.4)
昭和29年,詞:まど・みちお,曲:渡辺茂
「ポケットのなかにはビスケットがひとつ」と始まる歌。
ポケットをたたくとビスケットが増える,そんなポケットが欲しいという歌。
当時はドラえもん1)の発表開始より約20年前で,ドラえもんのポケットのような便利なものは誰も想像もしていなかった。
明治時代に空想科学小説で紹介されている技術の多くが現代では実現されている。科学技術の進歩に空想科学の果たす役割はおおきい。
1)「ドラえもん」(藤子・F・不二雄,小学館,昭和44年〜平成2年)
紅孔雀(2015.8.8)
昭和29年,詞:北村寿夫,曲:福田蘭堂,唄:井口小夜子/キング児童合唱団
「まだ見ぬ国に住むという 紅きつばさの孔雀どり」と始まる歌。
NHKラジオの『笛吹童子』の後継ドラマ「紅孔雀」の主題歌である。『笛吹童子』では尺八だったが,この歌では米川敏子の琴が入る。
昭和29年12月から30年1月にかけて五編の連続映画が公開された。週替わりということだ。子供向けの映画だが,テレビのない時代,正月映画として爆発的な大ヒットだった。主人公の那智の小四郎は中村錦之助が演じた。
昭和30年にNHKが後継として放送したドラマは『オテナの搭』である。タイトルには馴染があり,これも聴いたのだろうが主題歌の記憶が無い。YouTubeにあるので聴いてみたが思い出さない。『笛吹童子』やこの「紅孔雀」の印象が遥かに強い。
真室川ブギ(2012.6.2)
昭和29年,詞:矢野亮,曲:山形県民謡,唄:林伊佐緒
「わたしゃ真室川の梅の花コ〜ォオリャ」と真室川音頭と同じ歌詞,メロディーもほぼ同じである。音頭は話がゆっくり進むがブギはレコードに収めるためだろうか省略が多くダイジェストと言ってよいかもしれない。ブギの3番は音頭から少し外れているようだ。
アレンジは林伊左緒らしいが,私は正調音頭のほうが好きだ。歌詞も正調のほうが味がある。
ヤン坊ニン坊トン坊(2015.7.11)
昭和29年,詞:飯沢匠,曲:服部正
「ヤン坊ニン坊トン坊 ヤン坊ニン坊トン坊」と始まる歌。
NHKラジオ第一放送で放送されていた連続ラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」の主題歌だと思う。思うというのは,Wikipediaの主題歌(オープニングテーマとエンディングテーマ)記載事項と違うからだが,Wikipediaの記述は平成になってからのテレビドラマと混同しているのではないかと思うからだ。衛星放送でテレビ放映されたらしいが,衛星放送は観ていないので全く知らない。にもかかわらずこの「ヤン坊ニン坊トン坊」と始まる歌は覚えているので,ラジオ放送を聴いて覚えたのではないかと思うのだ。
当時はテレビ放送が昭和28年に始まったばかりで,個人の家庭でテレビ受像機を持っている家庭はほとんどなかった。街頭テレビというものがあったが,それを観るには家からは電車に乗って都会に出る必要があった。後には近所の電器屋に展示されるようになり,それを観に行くようになったが,それまで何年もかかったように思う。
ラジオはかなり普及していたので,ラジオドラマは同世代のほぼ全国共通の記憶になっている。娯楽の多様性がなかったのだ。
Johnny Guitar<ジャニーギター>(2018.6.6)
昭和29年,詞:Victor Young/Peggy Lee,曲:Victor Young・Peggy Lee,唄:Peggy Lee
「Play the guitar, play it
again, my Johnny」と始まる歌。
アメリカ映画「Johnny Guitar」(邦題「大砂塵」)の主題歌。
昭和30年代の洋楽タイトルに現れるJohnnyは日本語タイトルではジョニーだった。確かにPeggy Leeの唄ではジャニ―というように聞こえるが。ついでに言えば洋画のタイトルも,この時代は原題の和訳ではなく,新しい邦題を付けていたが,いつのまにか原題をカタカナ表記するようになり,英語表記そのままのものも現れるようになった。
この曲は多くのバンドやギタリストが演奏している。映画音楽のギター楽譜集には大抵掲載されていたのではないだろうか。ということで,曲自体はよく知っていたが唄を聴いたことはなかった。今回YouTubeで聴いてみたが,ややハスキーな声も含めて名曲だ。もちろん,バンドやソロのギターの曲も良い。
The Ballad of Davy Crockett<デビークロケットの唄>(2017.10.31)
昭和29年,詞:Grant Sherman Henry and Thomas W. Blackburn,曲:George Bruns
「Born on a mountain top in Tennessee」と始まる歌。
ディズニー映画『デイビー・クロケット 鹿革服の男』の主題歌。東京ディズニーランド(ウエスタンランド)で今も流されているらしい。
昭和37年,保富康午による訳詞を弘田三枝子が唄っているらしい。レイモンド服部も訳しており,これは小坂一也が唄っていたそうだ。服部訳では「テネシー生まれの快男児 その名はデイビー・クロケット」と始まるが,私が覚えている歌詞は「話はそもそもテネシー 西へ西へとアメリカが」と始まるので保富訳かあるいは更に別の訳なのだろう。私の記憶では昭和30年代の前半に男性歌手の唄で聴いたような気がするのだが。
尚,デイビー・クロケットはテキサス独立戦争中のアラモ砦の戦いにおける英雄の名である。3才で熊退治したといわれている。
あゝ新撰組(2012.3.15)
昭和30年,詞:横井弘,曲:中野忠晴,唄:三橋美智也
「加茂の河原に千鳥が騒ぐ」という歌。
私が子供の頃,新撰組は悪役だったように思う。ヒーローは鞍馬天狗だった。新撰組の有名人といえば近藤勇だった。いつごろからだろうか,映画やテレビで人気が出てきた。栗塚旭の土方歳三など見慣れたし,沖田総司もいろんな人気俳優が演じている。
京都の新撰組,会津の白虎隊,西南戦争の薩軍など,時代の流れに抗って,結局は滅びていく,滅びの美学というようなものがあるのかもしれない。判官びいきということだろう。井沢元彦なら怨霊信仰で説明するかもしれない。
この曲は4拍子なので行進曲に使えそうだ。同じ4拍子の曲でも歩きにくそうな曲もあるし,曲によって行進の雰囲気が違う。「ここはお国を何百里」1)などだと,ややうつむき加減で考え事をしながら機械的に一歩一歩進む。「人生楽ありゃ苦もあるさ」2)などでも「ハッハッハ」と笑いながら歩くというより,重い荷物を背負い一歩一歩進む感じを受ける。これに対して「見よ東海の空あけて」3)などでは胸をはって整然と行進するイメージだ。この「あゝ新撰組」だと壬生の浪士が集団となって市中を見回って歩くというイメージで唄いたくなる。歩く姿は眠狂四郎ではなく,徒党を組んでのし歩くという感じだ。しかし,三橋美智也はこのイメージを変える。彼の高音と歌唱は行進曲ではなく,哀愁を感じさせる。「菊のかおりに葵が枯れる」んじゃないかと,ふと思うときがあっても,自分の道はこれしかないと思い定めた道を行く。潔さも感じさせる。
1)真下飛泉:戦友(曲;三善和氣)
2)山上路夫:ああ人生に涙あり(曲:木下忠司,唄:里見浩太朗)
3)森川幸雄:愛国行進曲(曲:瀬戸口藤吉)
青い夜霧の港町(2019.9.25)
昭和30年,詞:大高ひさを,曲:上条たけし,唄:大木実
「青い夜霧に 泪を隠し さとす言葉の やるせなさ」と始まる歌。
別れの歌だ。「俺にはやっぱりどうしてもお前を幸せにしてやれる自身が無いんだよ」などの台詞がある。
「生きていりゃこそまた逢う夢も 花の咲く日も あぁないじゃなし」とあるが,船で遠くへ旅立とうというのだ。この夢が叶うことがないことは二人とも解っていただろう。
当時の別れとはそんなものだった。この年,私は家族と共に福岡から三重へ転居した。当時のクラスメートとはその後二度と会ったことはない。数人とは文通していたが,次第に減り,7・8年後には全ての音信が途絶えてそれっきりだ。
もっと後になるが,中学校入学前にも転居した。同一市内だったが,学区が異なるため小学生時代の遊び仲間とは遊ばなくなった。ごく親しかった友人とは,しばらく自転車で行き来したが,じきに交流は途絶えた。
空間的に離れると,よほどのことが無い限りつき合いは消滅していくということだろう。このようなことを知ってか知らずか,昭和40年以前の流行歌にはまた逢う日を誓う歌が少なくない。
赤と黒のブルース(2013.10.16)
昭和30年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:鶴田浩二
「夢をなくした奈落の底で」と始まる歌。懐メロの本でよく見るが,あまり聴いた記憶がない。この頃,鶴田浩二の映画も観た記憶がない。『ゴジラ』のような映画は観たが主演は『ゴジラ』だろう。他に観たのは時代劇だろう。ぱっちん1)の絵柄は大友柳太朗,嵐寛寿郎,東千代之介などだったと思う。川上哲治,中西太などの野球選手や鏡里,千代之山などの相撲取りもいたような気がする。街頭テレビで力道山をみたような気もする。
いずれにせよ,当時のわたしにとって鶴田浩二は無縁だった。
1) 引っ越した先では「あぶちん」と呼んでいた。関西弁では「べったん」,共通語では「めんこ」。
あの娘が泣いてる波止場(2013.8.30)
昭和30年,詞:高野公男,曲:船村徹,唄:三橋美智也
「思い出したんだとさ逢いたくなったんだとさ」と始まる歌。私は三橋美智也にはマドロスものは似合わないと思うが,『ご機嫌さんよ達者かね』と比べるとこの歌のほうがはるかに好きだ。マドロスさんの気持ちが歌詞にあからさまに書かれていないからだろう。最初から伝聞というか,恐らく直接聞いたのだろうが,歌詞に現れているのは女性の気持ちで,「あの娘が泣いてる波止場」とその女性は景色の一部になっている。マドロスさんの気持ちは歌詞の行間ににじみ出てはいるが,自由に想像できる。
三橋の歌はマドロスもの以外のほうがもっと好きだが。
田舎のバス(2014.1.5)
昭和30年,詞:三木鶏郎,曲:三木鶏郎,唄:中村メイコ
「田舎のバスはおんぼろ車」と始まる歌。
昔はバスに車掌が乗っていた。車内で切符を切り,回収する。満員時など,ドアが閉まらないので,乗客を保護するためだろう,車掌が最後にステップに足を懸け,乗車口の握り棒にしがみついて走行していた。高速でカーブを曲がったりしたら振り落とされるだろうが,運転手も解っていてゆっくり走っていた。
車掌は大きなガマグチのようなバッグを首から懸け,なかにお金と切符が入っていた。切符を切る鋏も持っていた。いつの間にか車掌はいなくなり,運転手も運転士になった。
女性の車掌をバスガールと呼んだ。男性をバスボーイと呼ぶことはなかった。女性は若い人しか車掌として働いていなかったのでガールが適切な言葉だと感じられたのだろう。オフィスに居るのはビジネスガール(BG)だったが,こちらは後に名前だけオフィスレディ(OL)になった。
さて,この歌だが,ボロ車なのに「お客さん がまんをしているよ それは私が美人だから」と唄っている。私が乗ったバスはボロ車というほどではないが,通勤・通学時の混みようは半端ではなかったが,客が文句をいうことはあまり無かったと思う。もちろんバスガールが美人かどうかは無関係だが,入社やバスガールとしての任命の際に選考があったことは十分想像できる。
長い台詞の中に,牛が道を塞いでバスが通れなくなる状況が語られているが,私の知る限り,住んでいた付近でこのようなことは起こったことはないし,起こりそうな雰囲気もなかった。但し,故障で動かなくなることがあった。
故障で動かなくなることは今でもある。しかし,今では無線を積んでいたり,携帯電話も持っているので,少し待っていると代替バスがやって来る。当時は無線も積んでいないし,携帯電話もない時代だったので,その場で下ろされるか,次のバスが来るまで待たされるかだった。もちろん,運転手は簡単なエンジントラブル等は自分で対処できた。昔はエンジンの構造も簡単だったので自分である程度の整備ができ,そのために付属工具もいろいろなものがついていた。もちろん,バッテリー上がりでも手動でエンジンを起動することができるようにクランクハンドルというものがついていた。
但し,クランクハンドルでエンジンを始動するにはそれなりの技術が必要だった。
牛に関して言えば,この歌の頃はまだ農作業に牛・馬が使われており,中小都市でもバス通りを牛馬に引かせた荷車が通っていることはあった。私がバスに頻繁に乗るようになったのはこの歌より大分後なので,道路に牛が居ることはほとんど無かった。後年インドへいったとき,幹線道路を悠然と歩く牛を多数みたのだが,その後行ったときは幹線道路から牛は消えていた。
おお牧場はみどり(2014.4.1)
昭和30年,日本語詞:中田羽後,チェコ・スロバキア民謡
「おお牧場はみどり 草の海風がふく」と始まる歌。当初は「ああ牧場はみどり」というタイトルだったが昭和36年に「ああ」を「おお」に変えられたとWikipediaにある。「良くしげったものだホイ」などと掛け声が入る。「ホイホイ」とか「ヨイヨイ」などと二声あるいは「ヨイヨイヨイ」などのように三声などの掛け声は盆踊りなどで馴染みがあるが,ただ一声「ホイ」というのは新鮮だ。
老人になってしまっては少し似合わない気もするが,若者がハイキングなどで歌うには良い歌だと思う。
おもいでの花(2019.11.25)
昭和30年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:島倉千代子
「にがく苦しい恋の実を 甘いと教えた君悲し」と始まる歌。
「ああ あのときが ないならば」「むせぶ夜風に 泣かないものを」という歌。
ありそうな話で,目新しさがない。『逢ひみての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思わざりけり』1)と同趣向だろう。ただ,にがい実を甘いと教えたというのは初めてみるので(私が知らないだけかもしれないが),これが西條の技なのだろう。しかし,感情自体が陳腐なので私には新鮮さが感じられない。
1)権中納言敦忠の歌。百人一首第43番目の歌。
親子舟唄(2016.3.22)
昭和30年,詞:藤田まさと,曲:大久保徳二郎,唄:田端義夫/白鳥みづえ
「船はろまかせ ろは親まかせ」と始まる歌。
田端の声も白鳥の声も私が思う典型的な流行歌手の声だ。
舟を漕ぐ様子が「ギッチラコ ギッチラコ」と表現されている。『船頭さん』1)では『それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ』と表現されており『潮来花嫁さん』2)でも『ギッチラ ギッチラ ギッチラコ』だ。ろの音は聞いた記憶がないのだが,このように聞こえるのだろうか。『えっちら おっちら』と似ている感じがするので,擬音語ではなく擬態語なのだろう。『どんぶらこ』や『どんぶりこ』などと同じで最後の『こ』は接尾語なのだろうがよく意味が解らない。なぜか知らないがろで進む舟は「ギッチラコ」になるようだ。これが同じ手漕ぎでもオールだと「ギッチラコ」にならないような気がする。
1)「船頭さん」(昭和16年,詞:武内俊子,曲:河村光陽)
2)「潮来花嫁さん」(昭和35年,詞:柴田よしかず,曲:水野富士夫,唄:花村菊枝)
おんな船頭唄(2013.1.10)
昭和30年,詞:藤間哲郎,曲:山口俊郎,唄:三橋美智也
「嬉しがらせて泣かせて消えた」と始まる歌。生まれた利根川で女ながらも船頭をしている孤児の,身分違いの恋を嘆く歌だろうか。
3番に「十三七つ 月よ私も同じ年」とある。この「十三七つ」はもちろん良く知られた『お月さん幾つ』の歌詞に出てくるのだが,この「十三七つ」にいろんな解釈があるらしい1)。種々の説のなかで,元は「十三一つ」で14歳という説に魅かれる。十四夜の月は小望月であり子持月であるという説明だ。しかし,「お月さん幾つ」では14歳だろうが,この「おんな船頭唄」では20歳だろう。歌詞中の「みなし子同士」というのは,月もひとり・私もひとりということだろう。自分を「みなし子」というには20歳は歳が行き過ぎているようにも思うが,船頭として働きながら恋をしているようなので13歳や14歳ではなさそうに思う。17歳ならよさそうにも思うが。
この「おんな船頭唄」だが,この後しばらくの三橋美智也の路線を代表する良い曲だ。
1) 武笠俊一:「謎の発生:『お月さん幾つ』考」,三重大学人文学部文化学科研究紀要,16, pp.25-34.(1999).
かえりの港(2019.12.27)
昭和30年,詞:豊田一雄,曲:豊田一雄,唄:藤島桓夫
「島へ寄らずに このままゆこか」と始まる歌。
生まれた島の近くを通り,幼馴染と逢ってから帰りたいのだが・・・。という歌。
職業として船に乗っているようだが,航海目的も船の大きさも不明だ。
大型船なら個人の都合で途中の島に寄ったりできないだろうから,小型の船なのだろう。漁船のようにも思えるが寄るか寄らぬか自分で決められるとしたら,個人の船かもしれない。漁の帰りだろう。水揚げする港はこの島ではないので,寄り道をするかどうか悩んでいるのだろう。当然,仕事優先で寄り道せずに帰るのだろうが,それでも心は揺れるということなのか。
昭和40年頃までは海で働く男の歌が少なからずあった。
カスバの女(2011.11.23)
昭和30年,詞:大高ひさを,曲:久我山明,唄:エト邦枝
エト邦枝については記憶がない。その後いろんな歌手が唄っているらしいのでこれらを聴いたのだろうが,誰が唄うのを聴いたのか記憶がない。
「ここは地の果てアルジェリア」ということだが,アルジェリアに行ったことはない。しかし,歌から当時の酒場の様子が眼に浮かぶようだ。というより,いつかどこかで観た映画の一場面が蘇っているのだろう。ゲイリー・クーパーのモロッコのイメージだ。カスバの女ということなので本来ならディートリッヒを想い出さないといけないのだろうが,歌手としての彼女も特に想い出すことがない。
ガード下の靴磨き(2011.9.10)
昭和30年,詞:宮川哲夫,曲:利根一郎,唄:宮城まり子
この歌が流行った頃は,私にはまだラジオで歌番組を聴く習慣はなかった。時代が混乱してしまっているが,この頃はラジオドラマを聴いていたように思う。新諸国物語ということで,笛吹童子,紅孔雀,オテナの搭などを聴いていた。赤胴鈴之助やまぼろし探偵はその後だろう。
「赤い夕日が」という歌い出しと「あーあーあ,夜になっても帰れない」という最後の部分が耳に残っている。当時,それほど人通りの多いところへ行かなかったからかもしれないが,実際に靴磨きをしている子供は見たことがなかった。傷痍軍人はまだいたが,多くはなかった。昭和20年代ほどではないが,貧富の差はかなりあったように思う。
宮城マリ子に関してはこの歌しか思い浮かばない。ネットで調べたら「毒消しゃいらんかね」という歌に記憶があるが歌手までは覚えていない。
高原の宿(2016.5.6)
昭和30年,詞:高橋掬太郎,曲:林伊佐緒,唄:林伊佐緒
「都思えば日暮の星も 胸にしみるよ眼にしみる」と始まる歌。
日本初のシンガーソングライターと言われている林だが,当時の私には歌手林としての認識しかなかった。作詞者・作曲者に多少なりとも関心を持ち始めたのは橋幸夫の登場以降だ。橋の曲が佐伯孝夫・吉田正コンビによるものだということに気づいて以降だ。
私が林を他の流行歌手とはちがって歌手と認識していたのは発声の違いだ。ラジオで聴くだけでも声量の大きさが解る。後にテレビの懐メロ番組などでみても声量がありそうに見えていた。ただ,私の中では流行歌の本流とは少し外れているような印象を持っていた。
詞に共感するような実体験はないが,当時の流行歌の雰囲気は十二分に持っている。
曲は林だが,私のイメージするど真ん中の流行歌ではない。嫌いではないが好きでもない,無関心かと言われれば曲が流れていないより流れているほうがよいという程度の好きさ加減の歌だ。私が曲を作ることができるなら「高原の宿」というタイトルなら『湖畔の宿』1)的な曲を作るだろうが林が唄うには似合わないだろう。
1)「湖畔の宿」(昭和15年,詞:佐藤惣之助,曲:服部良一,唄:高峰三枝子)
小島通いの郵便船(2013.7.9)
昭和30年,詞:上尾美代志,曲:平川英夫,唄:青木光一
「海をへだてた二つのこころ」と始まる歌。最後の「小島通いの小島通いの郵便船」という部分は覚えているが,他はあまり記憶にない。
今聴いてみると悪くない歌だと思うが,当時は私が幼く,歌詞の裏に秘められている想いは全く想像できずに,単に郵便屋の歌だと思っていたのではないか。単なる郵便の歌なら,幼い子供には『やぎさんゆうびん』1)のほうが印象が強い。
それにしても,今のように誰もが携帯電話を持つ時代では,郵便配達を待つ当時の気持ちは想像できないのではないか。
思わず,郵便屋と書いてしまったが,そういえば子供の頃,職業を表すのに大抵のものには『屋』をつけて済ましていた。配達に来るものでは郵便屋のほか,新聞屋とか牛乳屋などがあった。散髪屋とか風呂屋というのもあった。今で言う廃品回収業も○○屋と言っていた。これは徒歩でカゴを背負っている人,リヤカーを引いている人など形態により異なる言葉があったが,現在ではどれも放送禁止用語らしいので伏字にした。塾も,『ならいや』とか『そろばんや』などと呼んでいた。
念のため放送禁止用語を調べてみたら,『郵便屋』も職業に関する侮蔑語とかに入っていいてダメらしい。『郵便屋さん』はいいらしい。本当だろうか。もちろん私には侮蔑の意図など全くなかった。禁止リストを見ると『床屋』,『板前』,『芸人』なども入っている。どのように呼ぶかというと,この3つはそれぞれ『理容師』,『調理師』,『芸能人』だそうだ。
『芸』と『芸能』は意味が違うだろうなどと思ってしまう。
1) 「やぎさんゆうびん」(詞:まどみちお,曲:團伊玖磨)
この世の花(2012.7.24)
昭和30年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:島倉千代子
「あかく咲く花青い花」と始まり「つぼみのままに散るは乙女の初恋の花」という島倉千代子16歳の時のデビュー曲。当時の島倉の細い声は,相思相愛の相手と引き裂かれ政略結婚させられる少女の歌によくマッチしている。ほんの少し入る艶のある太目の声もなかなかいい。この声の比率が歌い手の少女の部分と大人の部分の比率のようだ。
この時代,政略結婚というのは上流家庭だけだろうが,全体の5割以上は見合い結婚で恋愛結婚は全体の3割強だったから初恋相手と結ばれる比率は小さかっただろう。従ってこの歌に共感する人も多かっただろうが,世の中とはそのようなものだと諦めていた人も多かっただろう。
日本の経済は朝鮮特需後の落ち込みを経てこの頃から高度経済成長が始まる。
ご機嫌さんよ達者かね(2013.5.10)
昭和30年,詞:高野公男,曲:船村徹,唄:三橋美智也
タイトルと同じく「ご機嫌さんよ達者かね」と始まる歌。
私の中では,残念ながら,三橋美智也の歌としてはあまり上位に来ない歌だ。歌詞からはマドロスらしいが,三橋の声はマドロスらしくない。
母の便りに対する思いが強いのが悪いわけではないが,母親からの手紙に「あの娘の写真も添えてある」なら,もう少し「あの娘」のことを思っても良いのではないか。それなのに「母の夢」など見ている。10代ならまだしも,この頃三橋は20代半ばだろう。船に乗るしか仕事がみつからなかったのかも知れないが,早く陸に上がって別な仕事を探したほうが良い。
少し後の歌だが,似たようなタイトルの歌なら『達者でナ』1)のほうがはるかに三橋美智也に合っている。
1) 「達者でナ」(昭和35年,詞:横井弘,曲:中野忠晴,唄:三橋美智也)
しあわせの歌(2014.10.21)
昭和30年,詞:石原健治,曲:木下航二
「しあわせはおいらの願い 仕事はとっても苦しいが」と始まる歌。
うたごえ運動の代表曲のひとつ。うたごえ運動では,労働歌やロシア民謡などがよく唄われた。うたごえ運動は,一時,ポップス系の歌に対しては米帝の歌,歌謡曲に対しては大衆迎合的,反戦フォークに対してもガス抜き弁などと言って,唯我独尊の感があり,自分たちが気に入らない歌は認めないという時期もあったように思う。私は一般的には山川草木悉有仏性という考えに共感し,歌の場合では好き嫌いはあるが,どのような歌でも存在意義を認める立場である。
この歌も,ある種の価値観を押し付けていると感じれば背後の組織の存在を感じるが,自然な感情の発露であると感じれば,明るくてよい歌だと感じられる。
ある種の戦時歌謡を軍国主義を煽るものと感じればそのような歌にも聞こえるが,自然な感情の歌であると感じとることもできる。作られた経緯や唄われてきた経緯も重要だが,歌そのものを素直に解釈することも重要だと考える。
島の船唄(2016.5.15)
昭和30年,詞:矢野亮,曲:渡久地政信,唄:三橋美智也
「茜流してもう陽が沈む 胸の思いもつい燃える」と始まる歌。
「エッサホイ」とか「エンヤコラホイ」などと掛け声のような詞も含まれている。
「海はぎらなぎ船足ァ遅い」とあるので帆船だろうか。2番では「あせりゃ櫓べそもギギッと泣いて」とあるので櫓もついているようだが,エンジンは無いようだ。掛け声は櫓を漕ぐ掛け声なのだろう。早く待ってくれている人の所へ戻ろうという歌だ。
加山雄三のオフィシャルサイトによれば,昭和30年,当時18才だった加山はモーターボートを作っている。台風の中を出港し転覆したらしい。このボートに関しては徹子の部屋で本人が話しているのを聞いたことがある。エンジンは父親が買ってくれたそうだ。当時の日本にはモーターボート用の船外機はなく,米軍関係者経由で購入したような話だった。但し,日本で競艇が始まったのは昭和27年だそうだから,日本にエンジンが無かったわけではないだろう。但し,容易に手に入らなかったことは想像できる。
次男坊鴉(2019.10.28)
昭和30年,詞:萩原四朗,曲:倉若晴生,唄:白根一男
「どこへ飛ぶのか 次男坊鴉 笠にみぞれの 散る中を」と始まる歌。
大映映画『次男坊鴉』(市川雷蔵)の主題歌。
実家は旗本だが,次男ではどうしようもない。「さむらいやくざ」になってしまう。映画の最後は兄の死により実家を継ぐようだが,唄はやくざ時代の歌である。
「恋が切ない」「なんの今更 旗本ぐらし」とあり,実家に戻って旗本になるか恋に生きるかの葛藤があるようなのだが,映画を観ていないからだろうか,この詞だけからでは詳しい内容はわからない。
素適なランデブー(2023.1.20)
昭和30年,詞:原六朗,曲:原六朗,唄:美空ひばり
「私の好きな あの人が 昼の休みに 言いました」と始まる。
「いつもの所」でという誘いだ。ひょっとしたら学校かもしれないが恐らくは職場だろう。夕方も「静かな路地の 喫茶店」で逢っているようだ。
曲も心ウキウキの様子をよく表していると感じる。
当時はこのような行動を「ランデブー」とよんだのだ。宇宙船がランデブーするようになって,このような地上のランデブーは『デイト』と名を変える。それ以前の名は『逢引き』か。『デイト』はその後『デート』になる。
チャチャチャはすばらしい(2013.11.30)
昭和30年,詞:Enrique Jorrin,訳詞:音羽たかし,曲:Enrique Jorrin,唄:江利チエミ
「ほんとに大好きチャ・チャ・チャ」と始まる歌。
「騒ぎに驚いておっとりがたなのおまわりさん」などという歌詞が印象的。「Quando sugiero que Cha Cha Cha Todo que estaba vino a bailar」などは意味も解らず,自分の知らない国の言葉だという意識もなく,「わんどせけーろけちゃっちゃっちゃ〜 とーぼけた〜ばいの〜ばいら〜」などと聞いていた。もちろん意味不明だが『かすがぼうふらどんたちゃしりひっぱってはなざかりはなざかり』1)などと同様,自分がまだ子供で意味がわからないのだと思っていた。
私がチャチャチャというものを聴いたのはこの歌が最初だと思う。
1) 「おてもやん」(熊本県民謡)
月がとっても青いから(2012.5.21)
昭和30年,詞:清水みのる,曲:陸奥明,唄:菅原都々子
「月がとっても青いから遠廻りして帰ろう」という歌。あの,声というか歌い方というかに大きな特徴がある菅原都々子である。当時はほんの子供で,歌の意味もよくわからなかったが,真似して歌って叱られたものだ。子供が流行歌などを歌うことは良いこととは思われていなかった。歌謡曲を子供がおおっぴらに歌うようになったのはピンクレディーの頃からではないだろうか。
「あか」と「あお」は数少ない色を表す大和言葉だが,色というより状態を表す言葉と解釈すべきだろう。確かに月があおく感じられることがある。「青い月夜の浜辺には」1),「青い月夜の十三夜」2),「蒼いお月様あの人に言って」3),「青い青いお月さま」4)など青い月をうたった歌が何曲もある。と言ってみたが,後の二曲は新しい歌か。
1)鹿島鳴秋:「浜千鳥」(大正8年,曲:弘田龍太郎)
2)石松秋二:「十三夜」(昭和16年,曲:長津義司,唄:小笠原美都子)
3)岩谷時子訳詞:「月影のナポリ」(昭和35年,唄:森山加代子)(原曲「Tintarella Di Luna」詞曲:F.Migliacci・B.De.Filippi,唄:Mina)
4)銀川晶子:「月のしずく」(昭和43年,曲:五代けん,唄:西郷輝彦)
東京アンナ(2013.3.8)
昭和30年,詞:藤間哲郎,曲:渡久地政信,唄:大津美子
「ライトの虹を踏みながら」と始まる歌。「その名はアンナ東京アンナ」という辺りしか記憶がない。小学生だったので歌詞の意味が理解できなかったのだろう。子供の頃何度も聴いたという記憶は全くないのだが,今メロディーを聞くと何となく懐かしい。メロディーというよりもリズムかもしれない。私はリズム音痴で聞き分けができないのだが,ラテン系の感じを強く受ける。当時と言っていいのかどうか解らないが,子供のころいろんなリズムが外国から入ってきて入れ流行していた。ラテン系ではマンボ,ルンバ,チャチャチャなどが入っていた。時代に前後があるかもしれないが,その後,タンゴ,サンバなどがあったかもしれない。マリアッチなどもあったか。カリプソ,ボサノバなどが流行ったこともある。
リズムは踊りと関係が深い。踊りの系統というか,ジルバ・ツイスト・チャールストンなどが流行った時期もあった。私が大学生だったころはダンスパーティーがかなりポピュラーだったが,きちんと練習をしているもの以外は,スローな曲ならブルース,アップテンポの曲ならジルバということで踊っているのが大半だった。ワルツのような3拍子の曲はかからなかった。万一3拍子の曲がかかったら,その時は休んでいるものが多かった。
ピレネエの山の男(2021.3.10)
昭和30年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:岡本敦郎
「ピレネエの 山の男は いつも一人 雲の中で」と始まる。
山の男が歌われてはいるのだが,「いつも一人 何を想う」とこの男の考えなど知る術もなく,この男は景色に溶け込んでしまっている。歌としてはピレネエの山の歌ということだろう。昭和の途中までは叙景歌というような歌が少なからずあった。
ところで,この歌の中に「ハイホー ハイホー」とあるが他の歌1)の中でも聞き覚えがある。アルプスとピレネエだとそれほど近くもない気がするが,これには何語でどのような意味なのだろうか。それとも『ヘイヘイホー』2)と同じくそれほど意味のない掛け声の一種なのだろうか。
1) 「アルプスの牧場」(昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦)
2) 「与作」(昭和53年,詞:七沢公典,曲:七沢公典,唄:北島三郎)
弁天小僧(2021.12.3)
昭和30年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:三浦洸一
「牡丹の様なお嬢さん シッポ出すぜと浜松屋」と始まる。
概要描写もなく突然細かい描写だが,弁天小僧は白波五人男のひとりで,女装して浜松屋をゆすりにかける話は当時の人々ほとんどが知っていたから説明の必要はなかった。
当時はラジオが主体だが,家庭に1台という時代だから家族そろって同じ番組を聴いていた。街頭でもスピーカーから流行歌が流れ,皆が同じ曲を聴くことになる。テレビ時代になっても一家に1台という時代がしばらく続いた。ヒットする映画や芝居の数もそれほど多くないから,全国民のこの分野の知識は綺麗に揃っていたと考えられる。
間もなくオーディオ分野では個の好みを優先させることができる層(個室があり,オーディオ装置を個人で購入できる経済力のある人)も現れる。しかし映像が個人のものになるにはもっと時間がかかった。
だからこそ,『お富さん』1)のような歌がつくられた。
1) 「お富さん」(昭和29年,詞:山崎正,曲:渡久地政信,唄:春日八郎)歌舞伎『与話情浮名横櫛』を題材とした歌。
マンボ・イタリア−ノ(2023.3.31)
昭和30年,曲:MERRILL BOB,唄:雪村いづみ
「故郷はナポリ 素晴らしい景色 歌と踊りがこれまで すてきによろしい」などわずかに日本語があるが,大部分は英語の歌。(一部はイタリア語かもしれないが。)
「Hey mambo mambo italiano hey mambo mambo italiano go go go」の箇所が印象的。
わずかにある日本語歌詞の中には「お転婆娘はお嫁に貰い手がない」などと両親に言われている場面などもある。
この頃,マンボズボンなどが流行った。今から見れば何でもないが,当時のPTAには不良がはくズボンに見えたのかもしれない。
木浦の涙(2024.3.12)
昭和30年,詞:山田ひろし,曲:柿沼清史,唄:菅原都々子
「逢いたくて 逢いたくて」と始まる。
「いつまでも 側にいると 言ってた あなたは嘘つきだね」と男に逃げられた女の歌かと思ったら,しばらく想い出が歌われた後,「あなたは眠る様に 空へと旅立った」と歌われる。そういうことだったのか。
「あなたは嘘つきだね わたしを 置き去りに」という歌。
タイトルの読み方は「モッポの涙」。
りんどう峠(2012.11.14)
昭和30年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:島倉千代子
「りんりんりんどうの花咲くころサ」で始まる歌。この歌を唄う島倉の声には張りがある。
濃紫の着物を着て馬で嫁に行く姉を見送る妹だ。・・・「姉サ」とあるので姉だと思ったのだが「姉サに行かれてなんとしよう一緒に柴刈るひとも無い」とあるのでひょっとしたら奉公先の先輩かもしれないと今思った。
私の家では父方の家も母方の家もそれぞれ長男が継ぎ,両親は実家の新潟県から遠く(当時は夜行列車を使っても,片道1日では行けなかったのではないか)離れて福岡県で核家族を形成していたので,・・・かどうか不明だが,私には親戚や近所の人の婚礼の記憶がない。三重県に転居後,小学生当時,同級生の家(大きな邸宅だった)で嫁入り道具を見せてもらった記憶がある。嫁に出そうとするのか嫁をとろうとするのかは記憶にない。いちばん印象に残ったのは箪笥だ。引き出しが上段から少しづつ引き出されており,中身が全て見えるようになっていて,衣装に関する眼を持たないが,こんなに沢山あったら死ぬまでに全部着ることができないという印象だった。また,こんなに嫁入り道具があったら,私の家には入りきらないというのがもうひとつの印象だった。
当時,私は小さな社宅に住んでいた。2軒長屋で,狭いが犬やニワトリを飼おうと思えば飼える広さの庭があった。トイレは汲み取り式で,桧かどうかはわからないが,木の湯船の小さな風呂がついていた。風呂には石炭を焚いていた。狭い家で,客が上がりこむと家の中全てが丸見えだったように思う。廊下というようなしゃれたものがあった記憶はなく,部屋は一応ふすまで仕切ることはできたと思うが,開けっ放しだったように思う。
近所のお姉さんがお嫁に行くのを見送った記憶もかすかにある。親しいわけではなく,顔見知りという程度だったのだろう,詳細な記憶はないが綺麗だったという印象だ。そのときの衣装を思い出そうとするのだが思い出せない。赤い着物だったような気がするのだが,角隠しがついていたような気もして,白無垢のような気もする。タクシーでお辞儀をしながら出て行ったように思うが覚えていない。頭がつかえて前かがみになっていたのかも知れないなどと思ったりもする。昭和30年代前半の話だ。
さて,この歌だが,紫の小袖で嫁入りというのにどのような意味があるのか理解できない。竜胆との関係だろうか。
全く関係はないが,大瀬康一主演のテレビドラマ「月光仮面」の後番組として昭和34年からラジオ東京テレビ(現TBS)系で放映された「豹(ジャガー)の眼」という番組があった。そこに「笹竜胆」という怪傑白頭巾のような登場人物がいた。これが大瀬康一扮する黒田杜夫であることは「誰もがみんな知っていた」1)。竜胆つながりで思い出したので書き留めておく。
馬や舟での嫁入りは昭和前期の歌にしばしば出てくるのでこれが普通だったのだろう。絵などを見ると角隠しをつけているようなので,駕籠などでは頭がつかえたのに違いない。
1) 「月光仮面」(詞:川内康範,曲:三沢郷,唄:ボニー・ジャックス&ひばり児童合唱団)「月光仮面は誰でしょう」というタイトルで呼ばれることもある。
別れの一本杉(2012.9.16)
昭和30年,詞:高野公男,曲:船村徹,唄:春日八郎
「泣けた泣けたこらえきれずに泣けたっけ」と始まる遠距離恋愛?の歌である。東京へ出てきて田舎に残してきた娘を想って唄っている。「リンゴのような赤いほっぺた」とか「そっと月夜にゃ呼んでみた」とかややありふれた表現もあるが,そこが田舎っぽくて良い。今では時代劇の中でしか見ないような景色だが,当時はまだこのような景色の場所が日本中いたるところにあったのだろう。
地方から見れは東京は遠かった。いまで言えばニューヨークくらいの感覚だろうか。個人の家で電話がある家も極めて少なく,唯一の連絡手段が手紙だった。
私が生まれた所は○○郡△△村だが,昭和30年頃住んでいたのは福岡県八幡市で,近所ではあまり鳥を区別してみるということがなかったので「山のカケスも啼いていた」の箇所は何が啼いているのかわからなかった。杉の木に馴染みはなかったが,杉板は知っていた。生えている木と言えば松だったように思う。近くに旧長崎街道の松並木があったが「石の地蔵さん」は記憶に無い。後年このあたりを訪ねてみたところ,史跡?としてきれいに整備されていた。
渡り鳥いつ帰る(2020.9.23)
昭和30年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄:コロムビア・ローズ
「別れちゃ嫌だと 泣いたとて」と始まる。
「この心 あっさり振り捨て 別れゆく」「つれない男」を歌った歌。
このような男女が昭和歌謡にはしばしば登場するが,多く実在したかどうかは知らない。
ただ,このような歌を聞いているとこれが普通なのだという教育効果があるかもしれない。
昭和の時代はこれが普通だとは言わないが,違和感を持たれることはない時代だったということはできよう。
だが,この歌では最後「いいえ私は 離さない」と終わる。このような女性は昔からいたのだろう。
Mickey Mouse Club March<ミッキーマウス・マーチ>(2017.7.2)
昭和30年,詞:Jimmie Dodd,曲:Jimmie Dodd
「All around the world M-I-C-K-E-Y M-O-U-S-E!」と始まる歌。
VacationやVictoryのスペルを覚えるのに『Vacation』1)や『サインはV』2)が有効なように,この歌では「Mickey Mouse」のスペルを覚えるのに役立つ。
米国で放映されたテレビ番組のテーマソングらしいが,もちろん私は観たことが無い。ディズニーランドなどに行ったことはあるが,そこでの思い出とこの曲との関係は思い出さない。ある日歩いていたら突然このメロディーが心の中に浮かんできた。曲名も「ミッキーマウス・マーチ」だということはすぐに解った。いつ,どこでこの曲が私の心に刷り込まれたのだろう。
1)「Vacation」(昭和37年,詞:Hank Hunter, Gary Knight, Connie Francis,曲:Hank Hunter, Gary Knight, Connie Francis,唄:Connie Francis)
2)「サインはV」(昭和44年,詞:岩谷時子,曲:三沢郷,唄:麻里圭子&横田年昭とリオ・アルマ)
Where have all the flowers gone?<花はどこへ行った>(2015.4.1)
昭和30年,詞:Pete Seeger,曲:Pete Seeger,唄:Pete Seeger
「Where have all the
flowers gone? Long time passing」と始まる歌。
昭和36年にはJoe
Hickersonにより歌詞が追加され,反戦歌のイメージが強くなる。昭和37年にはPeter, Paul and Maryによって唄われヒットした。他にも多くのシンガーが唄っているが私が主として聴いたのはPPMの唄である。
手元の歌本の一冊には園まりの唄として,「花はどこへ行った」とのタイトルで,おおたたかし作詞,安井かずみ補作の歌詞として「野に咲く花はどこへ行く」から始まる歌詞が掲載されている。この日本語歌詞もよく知っているが,この歌はフォーク・シンガーが唄うというイメージがあり,園まりとは意外だ。園まりのこの唄は聴いた記憶が無い。