明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和40年
あゝりんどうの花咲けど,愛して愛して愛しちゃったのよ,アイドルを探せ〔恋のよろこびに〕,蒼い星くず,赤いグラス,赤坂の夜は更けて,朝日のあたる家,明日は咲こう花咲こう,あの娘と僕(スイムスイムスイム),網走番外地,雨の外人墓地,アンジェリータ,イエスタディ<Yesterday>,遺憾に存じます,悦楽のブルース,男の裏町,オバQ音頭,おばけのQ太郎,想い出のグリーングラス<Green Green Grass of Home>,俺の涙は俺がふく,女の意地,女ひとり,帰ろかな,唐獅子牡丹,可愛いあの娘,貴様と俺,北国の街,君といつまでも,君に涙と微笑を,兄弟仁義,くやしいじゃないの,恋心,恋する瞳,恋に拍手を,恋のインターチェンジ,恋のクンビア,恋は紅いバラ,恋人ならば,高原のお嬢さん,ゴマスリ行進曲,ごめんね・・・ジロー,さよならはダンスの後に,下町育ち,知りたくないの,死んだ男の残したものは,新聞少年,柔道水滸伝,スエーデンの城,ステテコシャンシャン,スーパージェッタ―,青年おはら節,他人船[別れてくれと],チキン・オフ・ザ・シー,東京しぐれ,東京流れもの,ともだち,渚のお嬢さん,夏の日の想い出,ナポリは恋人,涙君さよなら,涙の連絡船,涙をありがとう,奈良の春日野,ノーチェ デ・東京,函館の女,馬鹿っちょ出船,バラバラ<My Baby Baby Balla Balla>,火消し若衆,二人の世界[君の横顔素適だぜ],フリフリ,ふり向いてもくれない,ふるさとのはなしをしよう,星娘,北海の満月,僕等はみんな恋人さ,まつのき小唄,夢みるシャンソン人形,ヨイトマケの唄,夜空の星,ろくでなし,6番のロック,私を愛して,Green Green Grass of Home,Michelle,My Baby Baby Balla Balla,Yesterday,Ticket to Ride
あゝりんどうの花咲けど(2016.1.11)
昭和40年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:舟木一夫
「さみしく花に くちづけて 君は眠りぬ 永遠に」と始まる歌。
「白き墓標は丘の上」ともあるように,死別の歌であり,相手は「初恋あわれ」とあるので文字通り初恋の相手なのだろう。「君の枕辺に 花を飾りし日はいずこ」と,看病の甲斐もなく亡くなったことがわかる。
「高原わたる雲あわく」とキーワード「高原」から,病気と聞くと結核を連想する。平手造酒1)や沖田総司2)だけでなく川島浪子3)や黒川菜穂子4)たちの時代までは結核で命を落とす若者が少なくなかった。サナトリウム5)は文学の一つの舞台だった。
ストレプトマイシン6)が初めて単離されたのが昭和18年である。ファイマン7)の最初の妻アイリーンはストマイの実用化がほんの少し間に合わず結核で他界した。しかし,この歌の当時なら結核の治癒率もかなり向上していたはずなのにと,少しだけ疑問が残る。
1)平手造酒:幕末の剣客。天保水滸伝では笹川一家の助っ人として飯岡一家と大利根河原で戦う。
2)沖田総司:新撰組一番組隊長および撃剣師範。
3)川島浪子:徳富蘆花「不如帰」の主人公。
4)黒川菜穂子:堀辰雄「菜穂子」の主人公。
5)サナトリウム:結核療養所。空気の良い高原にあった。
6)ストレプトマイシン:抗生物質。結核治療に極めて有効だった初めての薬。日本ではストマイと略称されることあり。副作用あり。
7)リチャード・ファイマン:物理学者。
愛して愛して愛しちゃったのよ(2014.2.12)
昭和40年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:田代美代子/和田弘とマヒナ・スターズ
「愛しちゃったのよ愛しちゃったのよ あなただけを死ぬ程に」と始まる歌。第7回日本レコード大賞新人賞受賞曲。
「あなただけを命をかけて」という歌詞なら,もっと深刻なメロディーにして欲しいのだが,今では古くなったが当時はなかった言葉を使って批評すれば『チャラい』。
「命をかけて」とは言いながら深刻さが感じられないのはいいと言えるのだが,言葉が軽すぎるような気もする。上手くいけばいいが,そうではない場合にはストーカーになり,更には重大事件をサラッと引き起こしてしまいそうで恐ろしい気もする。重い言葉を軽く使わないで欲しい。
アイドルを探せ(2014.9.7)
昭和40年,詞:C.Azravoiur/G.Garvareritz,訳詞:安井かずみ,曲:C.Azravoiur/G.Garvareritz,唄:中尾ミエ
「恋のよろこびにかがやいている」と始まる歌。
原曲はSylvie VartanのLa Plus Belle Pour Aller Dancer。
当時洋楽を聴いていた記憶はあまりないのだが,Sylvie Vartanの唄を聴いてみると,記憶にあるので少しは聴いていたのだろう。聴いたとしたらラジオだ。そういえば米英のポップスに混じってフレンチポップスやカンツォーネなども流れていた。米国のカントリーなども流されていたから聴いていた番組は何でもありの番組だったのかもしれない。
当時より少し前から,比較的早く購入されたテレビジョン受像機の買い替え時期になっており,古いテレビが電器屋に野ざらしで積んであった。これら,あるいは電器屋に渡る前に近所の家から直接もらって家には何台もテレビがあった。ラジオも何台も貰った。廃棄になるのはほとんどが重い電源トランスが付いたもので,新しいものはトランスレスになっていたので真空管など新しいものと古いものでは互換性がなかった。ラジオはほとんど動作したが、テレビはほとんど映らなくなって廃棄されたものだ。しかし,故障個所はほとんど決まっており,チューナー,水平出力,垂直出力,高圧整流に使われる真空管の不良がほとんどである。あとはチューナースイッチの接触不良である。まれに抵抗の焼損やコンデンサのパンクがあったが,テレビのスイッチを入れて画面を見れば不良個所はたいてい判った。キャビネット内部に回路図も貼ってあった。もらい物の一部は部品取りに使い,一部は修理して置いてあった。作業をするときはたいていラジオをかけていた。
この頃,歌謡曲はテレビで,洋楽はラジオで聴いていたのだろう。
アイドルを探せ(2015.9.26)
昭和40年,詞:安井かずみ,曲:Georges Garvrentz,唄:中尾ミエ
「恋のよろこびにかがやいている」と始まる歌。
ザ・ピーナッツも唄っていたはずだが,ここでは記憶により強く残っている中尾ミエを選んだ。原曲はフランス映画Cherchez l'idoleの主題歌1)でSylvie Vartanが唄っていた。この映画は昭和38年らしいので,昭和40年以前にSylvie Vartanの唄を聴いたかもしれないがが,意味が解らないフランス語より日本語のほうの印象が強かった。中尾ミエのレコードは昭和40年らしいので昭和38年から昭和40年にこの記事を移動させた。
当時の日本語と今の日本語では「アイドル」という言葉の意味が異なる。当時の青少年の憧れの存在は『スター』だった。主役は映画スターだろう。『巨人・大鵬・玉子焼き』と言われるほど相撲人気の高かった時代にも,野球のスター選手はいたが,相撲界にスター力士がいたようには思わない。使われる分野が限られていたように感じる。歌手にもスターはいた。『スター誕生』2)などはこの頃まで『スター』が使われていたことを示している。『スタ誕』から生まれた花の中3トリオ3)などをスターと呼ぶには抵抗があった。スターと呼べるのは石原裕次郎クラスというのが私の語感だった。それでスター未満をヤングスターと呼んだりしたが,別な呼称としてアイドルという言葉をあてはめたのだと思う。更に,従来の歌手の技量と比べて下手すぎる歌い手がでてきて,これはアイドルとしか呼びようがないということで新たにアイドルという言葉が一般化してきたのであろう。ついには,歌も唄わないでグラビアだけに顔をだすグラドルやバラエティに出るバラドルなども出現し,アイドルという言葉が定着したのだろう。
Elvis Presleyは米国ではアイドルだったらしいが,私にとってはスターだった。「アイドル」という言葉を知ったのはこの歌のタイトルからではないかと思う。
1) 「La plus Belle pour Aller Danser」(昭和38年,詞:C. Aznavour, G.Garvarentz,曲:C. Aznavour, G.Garvarentz,唄:Sylvie Vartan)
2) スター誕生:昭和46年に日本テレビ系列で始まったオーディション番組。この番組の合格者として花の中3トリオのほか,片平なぎさ,岩崎宏美,中森明菜などがいる。
3) 花の中3トリオ:森昌子,桜田淳子,山口百恵
蒼い星くず(2016.6.26)
昭和40年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「たったひとりの日昏れに 見あげる空の星くず」と始まる歌。
加山雄三は歌声と話し声が同じように感じる。多くの人は話し声でも地声と余所行きの声があるように思うが,歌手が仕事として歌を唄うときには更に別な歌声を発声しているように感じる。ところが加山の声には違いが少ない。自然体で唄っているように感じる。
加山は歌手でなくて俳優だという人もいるかもしれないが,俳優でも唄を唄う場合には声が違った気がする。そういえば,吉永小百合の歌声は話し声と似ていた気がしてきた。
この当時は公害と呼ばれた大気汚染により,星空が見えなくなっていた地域も多かったのではないだろうか。しかし,このころの人間はごく幼い子供を除き,全員が子供の頃,綺麗な星空を見たことがあった。この歌のような状況で星を見るということは珍しいことではなかった。
赤いグラス(2012.5.20)
昭和40年,詞:門井八郎,曲:牧野昭一,唄:アイ・ジョージ/志摩ちなみ
「唇寄せればなぜかしびれる赤いグラスよ」と始まる歌。
アイ・ジョージといえば「ラ・マラゲーニヤ」の高音も素敵だが,やはり低音歌手の一人だろう。この後,低音の魅力というような歌手を直ぐには思い出さない。
歌詞に「愛しながら別れて」とあっても事情がわからず,いまひとつ感情移入ができない。「赤いグラス」は二人の最後のときの思い出なのだろうが,高級なバーのイメージで違う世界の出来事と感じてしまう。
昭和40年には明治村が開村した。当時高校生だったが,遠足?というのはバスで行っていた。これで明治村に行った。当時は開村間もなかったので施設はそれほど多くなかったようだが村内は広く,十分遠足になったと思う。その後も何回か行ったので記憶が混乱しているかもしれないが,品川燈台はあった。子供の頃,燈台守の映画1)があったが,このときまで燈台の実物は見たことがなかった。初めてみた燈台の感想:「小さいなあ」。せっかく歴史的にも技術的にも貴重な資料を見ても,意識の低さにより有効な体験とはならなかった。農家があって農具などがあったように思うが,祖父の家の納屋にあるものと似たようなもので,珍しいものではなかった。
明治生まれの祖父が田舎からでてきたとき(ここも都会と言うほどではないが)あちらこちらに連れて行った。伊勢神宮などはそれなりの評価だったが,明治村は珍しいものはなにもなないと不評だった。意外だったのは,湯の山からロープウェイで御在所2)に登ったとき,眼下は雲に包まれ下界の眺めは悪かったのだが,「雲上人になった」とご機嫌だったことだ。
1)木下恵介:「喜びも悲しみも幾歳月」(昭和32年,松竹,佐田啓二・高峰秀子ほか)
2)鈴鹿山脈にある山の名。
赤坂の夜は更けて(2014.12.2)
昭和40年,詞:鈴木道明,曲:鈴木道明,唄:西田佐知子
「いまごろどうしているのかしら」と始まる歌。
詞は歌謡曲の一つのパターンである恋人に対する未練の詞だが,曲が従来の流行歌とは違っているように感じる。曲はムード歌謡風だが,ムード歌謡の詞で未練を歌っているのは珍しいのではないか。
はけだるそうに唄う西田は私の中では珍しいと少しだけ思ったが,似たような雰囲気の歌は他にも唄っている。私が先輩の家で初めて大音量のHiFi装置で音楽を聴いたのが西田の唄う『コーヒールンバ』だったので『アカシアの雨がやむとき』などの印象が吹っ飛んでしまったのだ。
1)「コーヒールンバ」(昭和36年,詞:J.M.Perroni/中沢清二,曲:J.M.Perroni,唄:西田佐知子)
2)「アカシアの雨がやむとき」(昭和35年,詞:水木かおる,曲:藤原秀行,唄:西田佐知子)
朝日のあたる家(2017.1.3)
昭和40年,日本語詞:漣健児,曲:不詳,唄:ダニー飯田とパラダイスキング
「朝日のあたる家がある」と始まる歌。この詞 では「おふくろが僕を育ててくれた家」となっている。
後に知ったのだが,この曲は古いアメリカのフォークソングで,原題はThe House of the Rising Sunでこれは娼館の名というのが通説で,別に刑務所だという説もあるらしい。また,Rising Sun Bluesのタイトルで唄われていることもあるらしい。
多くの歌手が唄っていて歌詞も何種類かあるようだ。Animalsが唄っているようにboyなら刑務所(雰囲気としては少年刑務所)との解釈が妥当だろうが,Bob DylanやJoan Baezのようにgirlの歌なら娼館が妥当だろう。自宅とする漣の詞は曲の雰囲気に合っていないと思う。
最初にパラキンの日本語の唄を聴いたせいか,この歌が私に印象を残すことはなかった。
明日は咲こう花咲こう(2018.8.7)
昭和40年,詞:西沢爽,曲:吉田正,唄:吉永小百合&三田明
「可愛い蕾が花になる 花は散っても実はのこる」と始まる歌。「明日は咲こう 花咲こう」と繰り返す典型的な青春歌謡だ。誰もが明日に希望を持つことができた時代の歌。
吉永小百合と三田明が出演した日活映画「明日は咲こう花咲こう」の主題歌。
歌詞自体は『ヨハネ伝』にあるキリストの言葉『一粒の麦もし地に落ちて死なずば,ただひとつにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし。』が下敷きになっているのだろう。
あの娘と僕(スイムスイムスイム)(2017.2.6)
昭和40年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
前奏中に「スイムスイムスイム スイムで踊ろう あの娘もこの娘もピチ娘」とあって「拗ねて渚に来たものの 炎のような波頭」と始まる歌。
「君はあんまりモテすぎる」と拗ねてみたが,「追ってきてくれ きてほしい」と虫のよいことを考えているが追っては来ないようだ。精神的子供の歌だろう。「ちょっと恥ずかしい」と少しは反省しているようだ。
人はこのようにして大人になっていくのだろう。
網走番外地(2017.4.22)
昭和40年,詞:タカオ・カンベ,伊藤一,曲:山田栄一(原曲:橋本国彦),唄:高倉健
「春に春に追われし花も散る」と始まる歌。
映画スターが唄った歌。
唄う映画スターと言えば私にとっては石原裕次郎であり小林旭である。高田浩吉や津村謙などはリアルタイムで映画を観ていないので歌手なのか俳優なのかは判らないが,私もイメージでは俳優が本業なのだろう。リアルタイムで知っていながら本職が何かまでは知らない代表が加山雄三だ。俳優が唄うのに比べれば,歌手が映画に出演することははるかに多かった。
映画スターが唄ったと言えば,鶴田浩二,渥美清,西田敏行などを思いだす。
これらのなかで,高倉健の歌に近いというと鶴田浩二の歌がそうだというのが私の印象だ。印象であって根拠は説明できない。高倉の歌と鶴田の歌を比較すれば鶴田の歌のほうが当時あるいはそれ以前の歌手の歌に近い。
高倉の歌の印象は,声も歌唱技術も映画の中の役によく合っているということだ。
この歌は『放送禁止歌』ということでラジオやテレビでは放送されることがほとんどなかったが,『放送禁止歌』というものは無く,『要注意歌謡曲指定』だったという話を聞いたことがある。番組によっては放送注意というリストに載ったので,放送局が自主規制して全ての番組で流されなくなったらしい。
ネット情報では民法漣の『要注意歌謡曲指定』リストが最後に更新されたのは昭和58年らしい。更に,この「網走番外地」はこの指定リストには載っていないらしい。これが本当だとすると,この歌が放送されなかったのは,噂を基に放送局が自主規制したからなのだろうか。あるいは放送局毎に独自基準で審査した結果なのだろうか。映画はかなりのヒットだったので,人気がなかったからという訳ではないと思うのだが。
雨の外人墓地(2019.8.23)
昭和40年,詞:木下竜太郎,曲:佐伯としを,唄:藤本三重子
「あなたに別れを告げたのは 雨の外人墓地だった」と始まる歌。
この場所にはいくつも想い出が残っているようだ。「一度別れた人だけど あきらめ切れぬ胸の内」という歌。
唄声は当時の歌手としては異質で,この方向での先駆者は菅原都々子,異質さを極めたのが日吉ミミだろう。
アンジェリータ(2014.10.20)
昭和40年,詞:ダーク・ダックス,曲:Minerbi Marcello,唄:ダーク・ダックス
「アンジェリータ 今も呼ぶよアンジェリータ アンジェリータ」と始まる歌。
元歌は知らないが,ダークダックスが昭和39年の紅白歌合戦で唄って人気が出て,翌40年に発売された。戦闘に巻き込まれたアンジェリータという女の子の歌。淡々と情景を述べるだけの詞になっている。「われらが見たのは血にまみれた子供 かたく握った小さな手には四つの貝がらが」
歌の場面がどのような歴史と関わりをもっているのかは知らないが,当時の日本人との関係でいえばベトナム戦争を念頭に聴いたのであろう。
フランスの植民地だったベトナムだが昭和16年にはホー・チ・ミンによりベトナム独立同盟会(通称ベトミン)が結成されていた。昭和19年,日本軍はこの地域のフランス軍を制圧,バオ・ダイを皇帝としてベトナム帝国が樹立される。昭和20年の日本の降伏により,ホー・チ・ミンはフランス軍が戻ってくる前に実権を掌握しようとクーデターを起こし,共産主義国家としての独立を宣言,米国に承認を求めたが受け入れられなかった。フランスのド・ゴールはベトナムをフランス連合に組み入れると声明を出し,米国もフランスの立場を支持した。昭和20年に連合国が開催したポツダム会議では北ベトナムには中華民国軍,南ベトナムにはイギリス軍が進駐して,日本軍を武装解除の後フランス軍に引き継ぐことが決められた。
このような状況下で昭和21年,ベトミンとフランス軍の間で全面交戦になり,これをインドシナ戦争と呼ぶ。フランスはバオ・ダイを担ぎ出し,ベトミンと戦うことを宣言するのである。
昭和25年,ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の国家承認を求める声明を発表すると,毛沢東は中華人民共和国もまだ国家承認を受けていない中,直ちにベトナム民主共和国を承認し,さらにソビエト連邦のスターリンも北ベトナムを承認する。その後,中華人民共和国は北ベトナムを支援していくことになる。昭和25年には朝鮮戦争も勃発しており,中華人民共和国はインドシナ方面からの西側の脅威を防ぐ狙いがあったのだろう。一方,米国は朝鮮半島やインドシナなど東アジアの共産化を恐れて朝鮮半島やインドシナへの軍事支援を進める。朝鮮戦争に関しては北朝鮮の侵略行為を非難する国連決議を安全保障理事会に提出,このときソ連は中華人民共和国を支持して中華民国が常任理事国であることに抗議して安保理を欠席した結果拒否権が使えず,この決議案は可決されたので,米国は名分を得たのである。
米国はフランスを支援はしたが,直接の軍事介入はしなかったためかフランス軍は中華人民共和国の支援を受けたベトミンにより追い落とされてしまう。
インドシナ休戦を決めた昭和29年のジュネーブ協定によりベトナムは南北に分断された。昭和30年にはバオ・ダイ皇帝が退位し,南ベトナムでベトナム共和国樹立宣言がなされゴ・ディン・ジエムが初代大統領に就任した。ジュネーブ協定では南北統一選挙を行うことになっていたがジエム政権はこれを拒否した。
武力統一を目的として昭和35年には南ベトナム解放民族戦線が結成されゲリラ活動テロ活動で南ベトナム政府を脅かすようになる。
このような経緯の中,冷戦下で,共産化の波が次々と広がるといういわゆるドミノ理論による危惧の下,米国は南ベトナム政府を支援していた。
昭和36年,米国ではジョン・F・ケネディが大統領になる。その前のアイゼンハワ―政権は航空機や重火器などを含む軍事物資の支援はしていたが,ケネディの時代になり,南ベトナム解放戦線に対抗すべく,軍事顧問団(という名の特殊部隊)の派遣や爆撃などにまで支援の範囲を広げた。
しかしジエム政権は昭和38年のクーデターにより倒れてしまう。南ベトナムは混乱し,その後も短期間の間に何度もクーデターにより政権が移動する。
昭和39年,トンキン湾で米国の駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されるという事件(トンキン湾事件)により米国は報復として正規軍による北ベトナムへの爆撃という形でベトナム戦争への軍事介入を拡大する。ケネディは昭和38年に暗殺され,この時の米国大統領はジョンソンである。このトンキン湾事件では2回の米艦船への攻撃があり,最初の攻撃は北ベトナム軍が米国艦船を南ベトナムの艦船と誤認した結果であり,2回目の攻撃は米国の捏造であったとのことだ。これ以降米国はベトナム戦争の泥濘から抜け出せなくなる。
米国のニクソン大統領がベトナム戦争の終結を国民に向けて宣言したのは昭和48年である。
北および北に加担した国と南および南に加担した国の兵士により,多くの虐殺等の行為があったと報道されている。この報道も謀略の一種かもしれないことには十分注意する必要があるだろう。しかし,虐殺でなく,やさしく殺されても何の慰めにもならない。とにかく,戦争になれば,戦争に加担したくないと思っていても巻き込まれ被害を受けるのだ。
国連憲章には『・・・基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し,正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し,一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに,このために,寛容を実行し,且つ,善良な隣人として互いに平和に生活し,国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ,共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し,・・・』とあるが,現実にはこの憲章に反すると思われる事件が次々に発生している。国際政治の舞台では,表でも裏でも,自国の利益になるように力や謀略が使われているのであろう。
この歌は戦争の非情さを淡々と唄うことにより,消極的な反戦意志を表明しているのだろうが,自分の無力さを突き付けられて諦めの気持ちを唄っているのかも知れない。
遺憾に存じます(2018.11.27)
昭和40年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:植木等
「学生時代は優等生 万能選手で人気者」と始まる歌。
青島の詞だから「今じゃしがねェサラリーマン」になるのは当然だろう。それで「世の中 間違っとるよ」と責任転嫁しているのだから,一億総懺悔の時代は終わりつつあったということだろう。
年月と共に責任転嫁の風潮は進み,ついには『悪いのは私じゃない症候群』1)などという本がでるほどよく見られるようなってしまう。
1}「悪いのは私じゃない症候群」(香山リカ,ベスト新書,平成21年)
悦楽のブルース(2019.11.24)
昭和40年,詞:吉岡治,曲:船村徹,唄:島和彦
「泣いちゃ 泣いちゃ 泣いちゃ 泣いちゃいないわ」と始まる歌。
「惚れりゃ泣くのは 女だけ」という歌だが,「青い 青い 青い 青い」とか「どうせ どうせ どうせ どうせ」とかの繰り返しが多用されていて,軽快に感じる曲になっており,泣くといっても深刻な印象はない。深い悲しみをこらえ無理矢理軽快に明るくふるまっているのか,世の中こんなもんだと思って諦めているのかは解らない。もし後者であれば,このような歌が流行ったりすることがこのような考えを形成するのに役立っているのかもしれないとも思うが,社会通念が先にあってそれに合う歌が作られたのかもしれない。
この歌自体は暗すぎず,悪くないとは感じるが。
男の裏町(2017.6.7)
昭和40年,詞:矢野亮,曲:不詳,唄:高倉健
「暗い夜更けの窓べにすがり」と始まる歌。
村をでてきたが,今では「どこではぐれた 裏町ぐらし」,「恋しい 故郷」「飛んで行きたい あのころあの日」と過去をやや悔みながら懐かしんでいる?歌。
何度も繰り返される「十七,八の まだ俺ァがきだった」が印象的だった。
オバQ音頭(2017.7.1)
昭和40年,詞:藤子不二雄,曲:広瀬健次郎,唄:曽我町子/石川進
「キュッキュキュのキュ(アソレ!)キュッキュキュのキュ(コレマタ!)オバQ音頭でキュッキュッキュッ」という(合いの手?入りの)合いの手?から始まる歌。歌本体は「空は晴れたしホイオバQ」と始まる。
『オバケのQ太郎』は藤子不二雄の漫画を原作とするTBS系テレビアニメ。
昔から妖怪・変化,怪物,お化けや幽霊はいろんな物語に登場している。一部には人間と親交があった者もいたが,多くは人間と敵対するか,敵対しないまでも人間を驚かしたり,怖がらせたりする存在だった。それが『ゲゲゲの鬼太郎』くらいから人間との共生がはじまり,『オバケのQ太郎』では完全に人間と共生するようになった。
妖怪・変化,お化けや幽霊が活躍した時代の夜は暗かった。戦後もしばらくまでは停電も時々あった。停電がほとんどなくなった後も田舎道には街灯もほとんどなく,真っ暗だったがこの頃から次第に道路が明るくなってきた。それと共にオバケは居所を失い,人間と共生せざるを得なくなったのだろう。
ところで,私の認識は妖怪と怪物はほぼ同じで倒されてもその姿は変わらない。要するに本体と見かけが同一だ。変化やお化けは人間の形で現れ,倒されたりして変化の力が失われると正体を現す。正体は蛇や猫,狐や狸などの動物が多いが,器物の場合などもある。一方,幽霊は元は人間で生霊と死霊があるがいずれも倒されると消える。しかし,物理的方法ではなかなか倒されず,主に願い(恨みを晴らすこと)を成就して消える。この認識は正しいのだろうか。
おばけのQ太郎(2015.8.28)
昭和40年,詞:東京ムービー企画部,曲:広瀬健次郎,唄:石川進
「QQQおばけのQ」と始まる歌。
昭和40年からTBS系で放映されたテレビ漫画の主題歌。原作は藤子不二雄とスタジオ・ゼロによる週刊少年サンデーの連載漫画。スタジオ・ゼロには石ノ森章太郎・赤塚不二夫・つのだじろうなどもいた。
冒頭の部分のほか,「頭のてっぺんに毛が三本」というフレーズも印象的。第8回(昭和41年)日本レコード大賞童謡賞受賞。
日本におばけがいたのはいつころくらいまでだろうか。少なくとも私が子供のころは見世物としてのお化け屋敷にしかいなかった。住宅地に住んでいたので,暗くなって人家のない森や野原を歩くことがなかったからかもしれない。
私の中では幽霊,妖怪,化け物などには明確な差異があるのだが,ここでは全てまとめておばけとしておこう。鍋島藩の化け猫や四谷怪談のお岩など,江戸時代のお化けは人間と友達になることはなかった。それがこの時代になると人間とおばけが親しく交わるようになったのだ。漫画『ゲゲゲの鬼太郎』や『怪物くん』もこの頃だし,『妖怪人間べム』は少し後だ。この時期,人間は妖怪などと上手くやっていたのだ。しかし昭和54年に復活した『口裂け女』は上手く人間界に溶け込めなかったようだ。これは『リング』の『貞子』も同様だ。もともとお化けとして生まれたか,人間として生まれ死んでお化けになったのかの違いだろう。
なお,口裂け女は江戸時代からの復活だが,貞子は平成になって初めて知られた。昔はビデオがなかったのだ。
俺の涙は俺がふく(2017.8.9)
昭和40年,詞:星野哲郎,曲:北原じゅん,唄:美樹克彦
「俺だってッ!」とひとことあり,「かわいそうにと なぐさめられて」と始まる歌。
「花がひとりで散るように」「風がひとりで唄うように」「月がひとりでひかるように」とこのようなロック調の歌にまで花鳥風月(鳥はないが)を詠み込んでいるのは星野らしい。
「もしも俺らが女の子なら おれは俺らに惚れてやる」と,『みんな私がわるいのよ』という時代に自信過剰気味な詞だが,社会風潮もこの頃から変わっていったのだろうか。まだ,『悪いのは他人だ』というようなところまでは行っていない。
曲はこのような気分によく合っていると感じる。
女の意地(2014.6.20)
昭和40年,詞:鈴木道明,曲:鈴木道明,唄:西田佐知子
「こんなに別れが苦しいものなら」と始まる歌。
心を残しながら,意地で別れるという歌。淡々と唄う西田が良い。島倉千代子ならもっと感情を込めて唄うだろうし,都はるみでも,違う意味で感情を込めて唄うだろうという気がする。というか,意地で別れるというような歌は唄いそうにない。華奢に見える西田だからこそ,意地をはりそうな印象だ。
「またたく星が にじんでこぼれた」というのも,涙という言葉は意地でも使うものかという気分が顕われている。
女ひとり(2017.7.23)
昭和40年,詞:永六輔,曲:いずみたく,唄:デューク・エイセス
「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」と始まる歌。
京都のいくつかの地名や名所が詞に詠み込まれ,登場する女性は皆和装だが,それぞれ日本各地の名産を着ているようだ。京都への傷心旅行なのだろうか。
当時,日常的に和服を着る女性はかなり減っていた。若い女性だと遠方から京都へ旅するのに和装というのはかなり珍しかっただろう。しかし,年配の女性の場合,外出着としての和服はそれほど珍しいものではなかった。
もう少し前なら,嫁入り道具のお披露目が珍しくなく,子供の私でも,近くで嫁取りなどがあると見に行ったが,中に必ず和服があった。PTAの学級参観に和服で出席する母親は珍しくなかった。
日本情緒に溢れた水彩画のような歌だ。
帰ろかな(2015.1.14)
昭和40年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:北島三郎
「帰ろかな 帰るのよそうかな」とのコーラスが前奏部分に入り,「淋しくて言うんじゃないが」と始まる歌。
「やればやれそな東京暮らし」とあるので,仕事のために東京に出てきて暮らしているのだろう。当時は田舎には本当に仕事がなかった。農業や漁業などの1次産業では求職者を受け入れきれないので,都会へ働きにでたのである。中学卒業後,集団就職などというのも珍しくなかった。戦後の工業化と言えば石油化学産業だと思うが,石油化学コンビナートはでき始めていたがまだ発展途上だった。後の電子工業では製品が小さく軽いため,製品の輸送コストがかからないので工場立地条件が緩和されるが,重工業では原料や製品の輸送コストから海岸地帯に立地条件が限られていた。それも大きな船が停泊できる港の側だ。
「帰ろかな」というのは,今度の休みに帰省しようかと考えているわけではない。東海道新幹線は開通したが,運賃は高くおいそれと乗れない。東海道本線以外には新幹線はなかった。帰省するのに片道1日では済まない地域が多かった。そもそも鉄道の駅と自宅の間までの時間もかかったのだ。郷里への電話連絡も自宅に電話が無いためと遠距離通話は高価なため,実質的には不可能だった。唯一の連絡手段が手紙で,緊急の場合は電報だった。
集団就職といっても友人同士がまとまって同じ場所で勤務するわけではない。都会につくとそれぞれの職場に分かれて行ったのだ。当時は方言がいまよりずっとはっきり残っていたし,言葉の訛も激しかった。地方から上京すると,相手の言うことはラジオなどで聞いていた言葉なので理解できるが,自分が話す言葉は理解されなかったり笑われたりして,十分な会話もできず,孤独な生活をするケースも多かった。東京の言葉には温かみがないと感じる人が多かったのではないか。この淋しさに耐えかねて郷里に帰りたいが帰っても職がなく食べていけない。この自問がこの歌の「帰ろかな」である。
高度成長の時代は仕事が都会に集中していた。店員を雇うほどの商店は田舎にはなかった。
唐獅子牡丹(2013.1.9)
昭和40年,詞:矢野亮・水城一狼,曲:水城一狼,唄:高倉健
「義理と人情を秤にかけりゃ」と始まり,1番・2番・3番と最後は「背中で吠えてる・泣いてる・呼んでる唐獅子牡丹」と終わる。
映画「昭和残侠伝」シリーズで流れた歌なのだろう。映画毎に歌詞が違うらしく,レコード版がよく聞く歌詞ということだ。このシリーズの映画は観たことがないのだが,シリーズタイトルからすれば昭和に残った侠客の映画ということだろう。侠客を建前とする渡世にはいろんな職業1)があり,この映画シリーズがどのような侠客を描いているのか知らないが,当時の映画であるから恐らく良い侠客と悪い侠客もどきが登場し,悪い侠客もどきの非道さに対して良い侠客が立ち上がり・・・という形なのであろう。
さて,この歌だが,その後の大学紛争時に全共闘学生の愛唱歌だったという話を聞いたことがある。本当にそうなら,歌詞に共感するところがあったのだろう。諸々の情を断ち切って信ずる道を進むというわけだ。メロディーはいかにも古さを感じるが,意図して作られたものだろう。『古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます』2)ということかもしれない。
1) 職業と言えるのかどうかは知らないが,時代劇で言えば十手持ち,口入屋などから個人営業?の旅人までいろいろある。旅人は職業ではないだろうから,博打打・用心棒などが職業かもしれない。明治・大正が舞台ならそれなりの職業が,昭和でもいろんな職業があるようだ。
2) 「傷だらけの人生」(昭和46年,詞:藤田まさと,曲:吉田正,唄:鶴田浩二)
可愛いあの娘(2016.1.26)
昭和40年,詞:西沢爽,編曲:遠藤実,唄:梶光夫
「可愛いあの娘は誰のもの」の繰り返して始まる歌。
元歌はインドネシア民謡。同じ意味の「ノーナマニサバ ヤンプーニャン」が繰り返されるが,この箇所の終わりにでてくる「ラササヤン」は『とっても素晴らしい』というような意味だそうで,西沢の歌詞は単純な翻訳ではない。
この歌が日本に持ち込まれたのは戦時中らしいが,時局のせいもあり,よく唄われるようになったのは戦後の歌声喫茶時代かららしい。そういえば,オリンピック以後,歌声喫茶人気は次第に下火になっていった。
東映で本間千代子主演の映画「可愛いあの娘」が作られている。
貴様と俺(2020.1.21)
昭和40年,詞:岩谷時子,曲:いずみたく,唄:布施明
「空に燃えてる でっかい太陽 腕にかかえた 貴様と俺だ」と始まる歌。
日本テレビ系ドラマ『青春とはなんだ』(夏木陽介,藤山陽子,岡田可愛ほか)の主題歌。
「バネもきいてら 血もわくさ」,「エイコラ GO! GO! やっつけろ」など,岩谷の詞としては泥臭い。作詞者として初期の頃だからだろうか,ドラマの内容に合わせようとしたのかは解らないが,もっと後の岩谷なら,もっとスマートな詞になったのではないかと思う。「勝って帰らにゃ男じゃない」というのは時代の言葉だろう。
北国の街(2018.9.30)
昭和40年,詞:丘灯至夫,曲:山路進一,唄:舟木一夫
「名残が燃える 心が残る」と始まる歌。
「肩よせあるく アカシアの道 ここでさよなら するけれど」とこれだけで幸せを感じることができる二人がいることが普通の時代の歌だ。見合いは極めて一般的だった。しかし,この時代には加山雄三の歌のような自由恋愛も認められ始めており,時代の変わり目だ。(もちろん,周囲が許さない自由恋愛は以前からあった。)舟木一夫は時代の境目の古い時代の歌を唄っていたといえるだろう。
君といつまでも(2011.9.25)
昭和40年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「二人を夕闇が」という歌いだし,「幸せだなァ・・・・いいだろ」という台詞と共に鼻の横を掻く仕草によって一世を風靡した若大将加山雄三である。年末から41年新年にかけての発表で次年度にレコード大賞特別賞受賞。一時,結婚披露宴でよく歌われていた。
加山雄三はザ・ランチャーズというバンドを組み,エレキブームの先駆けなのだろうが,エレキギターサウンドの代表と言えば何といってもThe Venturesだろう。テケテケサウンドの語源は知らないが,Pipe Lineのイントロとエンディングに出てくるあの音を表しているように聞こえる。ランチャーズはグループサウンズのようなアイドル路線には向かわなかったようだ。バンドとしての演奏テクニックは寺内タケシとブルージーンズのほうが上だったように思う。
高校生の頃は遠足といってもバス旅行だったのでギターなどを持って行っていた。
君に涙と微笑を(2017.3.3)
昭和40年,詞:M.Rapetti,訳詞:安井かずみ,曲:G. Marchetti,R.Satti,唄:布施明
「たとえ今は二人が遠くはなれていても 心には一つの愛が燃えている」と始まる歌。
布施明のデビュー曲。原曲はBobby SoloのSe Piangi, Se Rid。
原曲は聴いた記憶が無い。しかし,当時イタリアン・ポップス(広義にはカンツォーネなのだろう)が日本のラジオでもよく流されていたことは覚えている。
君に涙とほほえみを(2019.2.19)
昭和40年,詞:Mogol,訳詞:安井かずみ,曲:G.Marchetti, R.Satti,唄:布施明
「たとえ今は二人が遠くはなれていても」と始まる歌。
比較的よく聴いた日米の歌とはちょっと違う感じだ。
元歌はBobby SoloのSe Piangi, Se ridi。そういえばこの前後,チンクェッティなどイタリア歌手の曲がラジオからよく流れていた。私はボビー・ソロよりチンクェッティ派だった。
兄弟仁義(2013.8.29)
昭和40年,詞:星野哲郎,曲:北原じゅん,唄:北島三郎
「親の血をひく兄弟よりも」と始まる歌。
昭和41年には映画化されているが,映画は観ていない。
初期の北島節全開で,歌詞とのイメージマッチングが少々不足しているように感じる。内容は社会生活に不器用な男の歌であり,北島の唄は上手すぎる。声の高さも声量も技巧も歌詞に比べて過剰な気がする。
この歌は,歌詞云々より北島の歌唱を聴くための歌だろう。
長く活躍している歌手はデビュー後何年か経つと歌唱法が若干変わってくる場合が多い。この歌も変わっているように感じられ,私は古い音源のほうが好きだ。
くやしいじゃないの(2020.4.25)
昭和40年,詞:福地美穂子,曲:すぎやまこういち,唄:森山加代子
「淋しくなったのは あなたのせいよ どこかの誰かさんと 一緒にいたでしょ」と始まる歌。
「やきもち」の歌だが「アッカンベーを してやるわ」「頭にキンコンカン」など,コミカル・ソング志向だ。
JPOPなどという言葉ができるはるか前の試行的な歌なのだろう。
恋心(2024.3.11)
昭和40年,詞:P.Blanc,訳詞:永田文夫,曲:E.Macias,唄:岸洋子
「恋は不思議ね 消えたはずの 灰の中から何故に燃える」と始まる。
「別れを告げた 二人なのに」と別れた後にもなお残る恋心の歌。
「恋なんて 空しいものね」「恋なんて はかないものね」「恋をするのは つらいものね」「恋はおろかな 望みなのね」「恋なんて 悲しいものね」とあって最後は「恋なんて 何になるの 恋なんて 恋なんて」と終わる。
恋する瞳(2017.3.29)
昭和40年,詞:Vito Pallavicini, G.Kramer/あらかわひろし,曲:Vito Pallavicini, G.Kramer,唄:伊東ゆかり
「なにも言わないで そっとみつめててほしい」と始まる歌。
詞の一部はイタリア語で,伊東が出場したサンレモ音楽祭で3位入賞した曲だが,私には特徴のない詞であり,曲であると感じられる。
恋に拍手を(2019.7.5)
昭和40年,詞:関沢新一,曲:安藤実親,唄:こまどり姉妹
「恋に・・・ 恋に拍手を 恋をするのは誰でもするが」と始まる歌。
「下手な遊びは けがのもと」「うまくやったら 玉のこし」「お医者さまでも さじ投げる」などと月並みな言葉が並び,最後は「やってみて 泣いてみて 恋はそれでも アア いいものよ」と終わる。
深い内容は無いように感じるがノリの良い曲なので,中真面目な宴会で唄うには良いかもしれない。中真面目というのは硬すぎず,軟らかすぎずという意味だ。この年の紅白で唄われているのでNHKも認めた歌だ。尚,このとき対戦した白組歌手は北島三郎だ。
恋のインターチェンジ(2019.1.22)
昭和40年,詞:邱永漢,曲:藤家虹二,唄:橋幸夫
「戯れの恋が 本気になっちゃって」と始まる歌。
昭和38年に名神高速道路が開通し,昭和43年には東名高速道路が部分的に開通,日本にも高速道路の時代になり,昭和41年には日産サニー,トヨタカローラが発売され,大衆車の時代が始まった。この時代に乗ろうと高速道路の歌を作ってみたというところではないか。高速料金は安くないので「まっすぐ行こうか戻ろうか」などと思案してる場合ではないと思うが,結局この歌は頭の中の歌なのだろう。当時,恋に心がゆれるような庶民には自家用車はそれほど身近ではなかった。
恋のクンビア(2019.9.24)
昭和40年,詞:三浦康照,曲:和田香苗,唄:弘田三枝子
「クンビア 燃やせ恋の炎を クンビア 胸はおどるよ」と始まる歌。
パワフルミコちゃん健在という印象。
クンビアとは,南米コロンビアの舞曲とのこと。しかし,当時はWikipediaもなく,簡単に調べることが出来なかったので何のことか解らなかった。歌詞に「クンビア・リズム」とあるのでリズムの一種だろうと思ってはいたが。
いずれにせよ,元気印のミコちゃんが好きか,踊り狂うのが好きかでないと,この歌が好きだとは言えないのではないか。『人形の家』1)で大変身を遂げるまで,私の中でのミコちゃんの存在感は次第に薄くなっていった。
1)「人形の家」(昭和44年,詞:なかにし礼,曲:川口真,唄:弘田三枝子)
恋は紅いバラ(2018.1.26)
昭和40年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「I love you, yes I do 愛しているよと君に云いたくて そのくせ怖いのさ」と始まる歌。
「僕は君が好きなんだ だけど だけど そいつが云えないんだな・・・」という台詞が入る。加山雄三だから云える台詞かもしれない。
恋人ならば(2016.8.3)
昭和40年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:西郷輝彦
「恋人ならば恋人ならば」と始まる歌。
途中で「ブムババブムババブムバアブムバ」と意味不明の言葉が繰り返される。
「誰に遠慮がいるものか」とあるが,当時はまだ他人に遠慮して人前では控えるべき行為というのが暗黙の了解としてあったのだろう。
「スポーツカーで あいつ等 派手に 飛ばすがいい」二人でいればそれでいいと唄っているがスポーツカーが当時の若者の憧れだったことを示しているようだ。憧れのスポーツカーも羨ましくない。「君さえ居ればごきげんなのさ」という訳だ。
西郷輝彦にはこのような歌が似合ったように思う。私は好きだったわけではないが。
高原のお嬢さん(2015.9.18)
昭和40年,詞:関沢新一,曲:松尾健司,唄:舟木一夫
「あの人に逢いたい たまらなく逢いたい」と始まる歌。
避暑に来ていたのだろう。夏の間だけ高原にいたお嬢さんとの恋の歌だ。「夏がゆけば恋も終ると」解ってはいたのだが,「東京の空のどこか あの人は住んでいる」ことしか解からない。「リーフ・リーフ・・・・」というのが解らないが思いつくのはleafしかない。「リーフ」に語りかけているように聞こえるのだが,葉っぱに語りかけるというのは斬新だ。それとも「リーフ」というのは葉っぱじゃないのだろうか。
もう少し前だと「高原」に長期滞在ならサナトリウム1)かとも思われるのだが,当時は抗生物質が広く使用されるようになっていたので,サナトリウムより避暑のイメージのほうが強い。長期滞在の避暑ができるのは今も昔も「お嬢さん」あるいは『お嬢様』と呼ばれるようなごく一部の階級の人間だろう。少し生活に余裕がある程度では,冬にスキーに行くにしても,短期間しか滞在できなかった。
一般人には,東京は遠かった。時間もだが,金もかかった。長距離電話料金はかなり高かったので,手紙くらいしか連絡手段もなかった。
要するに,遠く離れてしまえばそれでおしまいだったので,葉っぱに語りかけるしかなかったのだろう。
1)サナトリウム:結核等の長期療養をするための施設。
ゴマスリ行進曲(2019.12.26)
昭和40年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:植木等
「サアー 皆んなそろって 楽しく 元気に ゴマをすりましょう!」と台詞があって,「ゴマをすりましょ 陽気にゴマをね」と始まる歌。
「口からでまかせ 出放題 手間もかからず 元手もいらず」ゴマをすっていれば「福が來る」という歌で無責任男の面目躍如という歌だ。
私が高校生のときの先生の一人が植木と親しく,昔は1本の煙草を分けて吸う仲だったとか。植木はお寺の息子で,歌とは真逆のまじめ人間だったらしい。『スーダラ節』1)を歌うことになったとき,こんな歌はとても唄えないと思ったが,父親がこの歌は親鸞の考えに似ている・・・煩悩は消せない・・・と言ったので唄うことを決めたそうだ。
1) 「スーダラ節」(昭和36年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:ハナ肇とクレージー・キャッツ)
ごめんね・・・ジロー(2014.7.24)
昭和40年,詞:多木比佐夫,曲:津野陽二,唄:奥村チヨ
「ごめんねジロー」と何度も繰り返す歌。
自分がわがままを言ったせい(と思っている)で去って行った男に,「帰ってきていますぐに」と呼びかける歌。
多分,私はこのような感情には冷淡なのだろう。わがままは言っていいときと悪いときがある。あるいは言っていい相手と悪い相手があると言い換えても良いかもしれない。よい勉強をしたと思えばよい。あるいは我儘には付き合う気のない,そんな相手とは早く別れてよかったと思うべきだろう。
また「ごめんね」と今頃言っても相手には届かない。時すでに遅しだ。
ところで,昔,『ゴメンで済むなら警察いらん』という言い回しがあった。
『みこ』が『まこ』に『わがまゝいってごめんネ』と言ったとき1)は時と相手を間違えていないからこそ『信濃路をせおって歩く』と『まこ』も言ったのだ。
1)「愛と死をみつめて」(昭和39年,詞:大矢弘子,曲:土田敬四郎,唄:青山和子)
さよならはダンスの後に(2012.11.13)
昭和40年,詞:横井弘,曲:小川寛興,唄:倍賞千恵子
「何も言わないでちょうだい黙ってただ踊りましょう」と始まる歌。どのような事情か不明だが,「クラブ」でカクテルを飲みながら恋人と最後のダンスを踊る。
「クラブ」と聞いて今の若い人が何を想像するか解らないが,ナイトクラブのことであり,踊れる高級酒場といってよいだろうか。行ったことがない10代の者が想像すると,高級な大人の世界というイメージだった。
「だってさよならはつらいダンスの後にしてね」と倍賞千恵子が唄うのを聴いて大人の世界の不可思議さを思った。今なら彼女はわたしと同世代と言えるが,当時の私にとっては世代が上のお姉さんであり,素敵な声で突然「何も言わないでちょうだい」とはっきりと言われると,何事かと思ってしまった
この年,朝永振一郎がノーベル物理学賞を受賞。湯川秀樹に継ぎ日本人で二人目である。二人とも理論物理学であり,基本的には予算が少なくても研究を進めることができる分野である。この受賞と後年のオーバードクター1)問題とは関係がありそうな気がする。
1) 戦後の大学制度では大学4年の上に大学院修士課程2年,大学院博士課程3年が設けられた。博士課程3年で所定の単位を修得し,学位論文の審査に合格すると博士の学位が授与される。その後,大学の助手(有給)になるのが多いが,助手には定員があり,空定員がなければ就職できない。幸い,団塊の世代が大学に進学する時期になると,大学の新設や学部の拡充などがあり,教員定員も増えたのでなんとか吸収できた。その後も進学率の上昇もありある時期まではポストが増えたが,物理系の博士を中心に就職できない者もいた。これがオーバードクターである。また,一時,大企業が中央研究所というようなものを作るのがブームだったことがあり,工学系には希望すればこのような研究場所もあったが理論物理は企業ではほとんど研究されていなかった。
下町育ち(2012.7.23)
昭和40年,詞:良池まもる,曲:叶弦大,唄:笹みどり
「三味と踊りは習いもするが」と始まる。下町育ちと花街育ちは違うと思うがこの歌では花街育ちに「下町育ち」とタイトルをつけているようだ。「習わなくても女は泣ける」と辛い運命を歌っている。
花街と聞くと吉行淳之介の時代などを想像するがこの時代にもまだあった。もちろん花街育ちはまだいたはずだ。もっと後にも花街の歌1)がでている。現代でも花街自体が消滅したわけではないが,「花街育ち」という言葉から受けるイメージどおりの「花街育ち」はかなり減ったのではないだろうか。(根拠なしの想像。)
昔なら「飲む・打つ・買う」というのが三大道楽?だったのだろうが,このころから楽しみ?が多様化し始めた。例えば昭和39年に日本人の海外渡航禁止が解除され,昭和40年にはJALPAKの発売が開始された。とはいえ海外旅行に行く人間はまだ少なかったが,スキーや海水浴・山登りなどのための小旅行などに行く人数は次第に増えてきていた。庶民にとって,自家用車を持つという夢の実現も可能になりつつあった。名古屋から,「湯豆腐でも食いに行こうか」と名神を車で京都までというような,映画の世界に入り込んだような学生も出てきていた。しかし,当時はまだ遊学生の代表は「立てばパチンコ座れば麻雀歩く姿は・・・」2)というのが普通だった。
その後,他のレジャーに使う金が増え,自家用車の普及と飲酒運転取締強化もあり「飲む」機会は激減したのだが,これにはまだかなりの年数がかかった。
酒席の「花」の性質も大きく変り,三味も踊りも習わぬ花が増えいつの間にか夜の蝶になっていったようだ。
1) 「花街の母」(昭和48年,詞:もず唄平,曲:三山敏,唄:金田たつえ),「丸山・花町・母の町」(昭和48年,詞:神坂薫,曲:浜圭介,唄:三善英史)
2) 当時,パチンコ台の前には椅子がなく,立ってやるのが普通だった。全ての台がそうだったと言って良いだろう。麻雀は当時から座ってやっていた。歩く姿は「千鳥足,ダンス型,馬券買い」などいろいろあるが「馬券買い」が一番新しいのではないか。私の同級生から馬券買いの話は聞いたことがない。もちろん,これは美人描写「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」のもじりである。
下町育ち
1年以上前にこの歌については書いてしまっていた。既に書いたかもしれないと思う歌はチェックしていたのだが,これはまだ書いていないだろうと思い込んでいた。1年以上経っても書き出しはほぼ同じ。この歌から受ける印象等が変化していないということか。(2013.12.9)
昭和40年,詞:良池まもる,曲:叶弦大,唄:笹みどり(2013.11.29)
「三味と踊りは習いもするが」と始まる歌。
下町と花街が同義語とは思えないのだが,『花街育ち』の歌である。花街系の歌でヒットした歌として『花街の母』や『丸山・花町・母の町』などが思い出されるが,数は少ないのではないだろうか。この歌でも「母と呼べずにわが子と抱けず」と歌われているし,『花街の母』でも『年のはなれた妹と』答えていることが歌われている。
歌により,花街の変遷を辿ることができるのかも知れないが,もっと古い時代,もっと新しい時代の歌を思い出さないので今の私には出来ない。しかし,この歌ではタイトルを「下町」としていること,少し後に『花街』の歌がヒットしたということは,この時代に花街を取り巻く状況が変化したことを表しているのだろう。
1) 「花街の母」(昭和48年,詞:もず唱平,曲:三山敏,唄:金田たつえ)
2) 「丸山・花町・母の町」(昭和48年,詞:神坂薫,曲:浜圭介,唄:三善英史)
知りたくないの(2023.1.19)
昭和40年,詞:なかにし礼,曲:ドン・ロバートソン,唄:菅原洋一
「あなたの過去など 知りたくないの」と始まる。
「早く昔の恋を 忘れてほしいの」という歌。墓場まで持って行ったほうがよい秘密もある。
原曲は昭和38年のレス・ポール&メリー・フォードの曲。菅原のこの歌は昭和40年に『恋心』のB面として発売された。昭和42年にジャケットを変えて再販されてからヒットした。
死んだ男の残したものは(2014.3.31)
昭和40年,詞:谷川俊太郎,曲:武満徹,唄:友竹正則
「死んだ男の残したものは」と始まる歌。反戦歌である。時代から言えばベトナム反戦歌である。
「死んだ」男,女,子供,兵士などが残したものを列挙しようとするのだが,悲しみ以外に挙げるものがない。結局彼らが残したものは生き残った我々だけ。論理的に戦争反対を主張するのではなく,むなしさ・悲しみを感じさせることで反戦の気持ちを聴く人に想起させる。
戦場に居る人々にとってこの歌がどれほどの意味を持つか不明だし,前線から遠く離れて戦争を指揮している人たちにもこの歌は意味を持たないかもしれない。この歌は,戦場には全く関係なく,どこか遠くで行われている戦闘などには全く無関心な人々に,戦争の悲惨さを伝える歌だ。
フォーク歌手からクラシック歌手まで,多くの歌手によってカバーされている。
新聞少年(2015.2.24)
昭和40年,詞:八反ふじを,曲:島津伸男,唄:山田太郎
「僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎と云うんだぜ」と始まる歌。
歌詞から解ることは母子家庭であること,新聞配達を始めて三月であることである。母親は病弱らしい。
新聞配達は学生アルバイトとしてポピュラーだった。地方には授業時間以外にできるアルバイトがほとんどなかったのだ。この頃は配達のアルバイトはあったが,多くは自転車,新聞配達は徒歩もあった。新聞を購読している家庭は多かったので,徒歩でもある程度は配達できたのだろう。牛乳配達はガラスビンで重いので徒歩では無理だ。
他の配達と言えば,年賀状や中元・歳暮の配達があった。飲食店の出前や、御用聞きに回る酒屋などの商店の商品配達もあったが,大抵自転車だったと思う。それでも,少し前から重量物の配達には軽三輪車などが使われるのをみるようになった時代だ。スーパー,コンビニ,ファストフード店,居酒屋チェーン店など,どれもない時代だった。(市場はあったし,デパートもあった。喫茶店のチェーンはあったように思う。)
新聞少年(2018.6.24)
昭和40年,詞:八反ふじお,曲:島津伸男,唄:山田太郎
「僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎と云うんだぜ」と始まる歌。
三月前から新聞配達を始めた母子家庭の子供との設定だ。おまけに母親は闘病中らしい。
なぜ母子家庭になったのかは不明だが,年代的に戦死ではないだろう。未婚の母や離婚は当時あまり聞かなかったが,絶対数が少なかったのか,今よりも隠す意思が強くあったのかも知れない。確かなのは,今なら治る病気でも,当時は致命的な結果になる場合が少なからずあったということだ。
新聞配達はポピュラーなアルバイトだった。この頃から自家用車が普及しはじめ,次第に配達が少なくなるが,それまではいろんな配達があった。宅配便などというものはなかったので,中元・歳暮の配達もアルバイトがしていた。電話もない家が多く,酒屋などは御用聞きに回り,商品を配達していた。さすがに本職は軽三輪や原付の利用も多くなってきてはいたが,アルバイトは自転車が主流だった。牛乳配達など,重い商品の場合は特に大変だ。朝刊の配達も朝が早いのが大変だ。終わってから学校へ行くのだから。
東京オリンピックを経て,戦後は終わったという印象はあっただろう。しかし『ヨイトマケの唄』1)のように苦しかった生活の記憶は生々しく残っていた。そのような状況がこの歌に対する共感が広まった理由のひとつだろう。
1)「ヨイトマケの唄」(昭和40年,詞:丸山明弘,曲:丸山明弘,唄:丸山明弘)
柔道水滸伝(2023.3.30)
昭和40年,詞:関沢新一,曲:安藤実親,唄:村田英雄
「言われてはげむも 修行なら 言われなくても やるのが修行」と始まる。
「雲にきけきけ 男の恋は 出方しだいで 火と燃える」などというフレーズもあるが,全体としては「鏡に自分を うつすより 人のふり見て 我が身をただす」と自制の心が強く,おまけに最後に「あぁ 花の 花の柔道水滸伝」などと詠嘆するのはいかにも昭和らしい。
フジテレビ系ドラマ「柔道水滸伝」主題歌。
スエーデンの城(2020.3.2)
昭和40年,詞:あらかはひろし,曲:Raymond Le Senecha,唄:岸洋子
お 「暗い冬の夜がくる 雪は舞う シャトー・アン・スエード」と始まる歌。
暗い曲調で「愛と憎しみの日々 血も凍る」などとあり,そのような歌かと思っていると「長い冬の夜は去り」最後には「春の陽の訪れは 緑の館に」と希望を回復している。
曲調は変わらないので,希望に燃えているとまではいかないが,「傷つき疲れ果てて」いた状態からは回復しており,心が傷ついているとき,その気分に合わせて聴き始めると,最後にはひょっとしたら自分にも希望の灯が見えてくるかもしれないと,立ち直るきっかけを与えてくれるのではないか。
ステテコシャンシャン(2015.10.9)
昭和40年,詞:永井ひろし,採譜:小川寛司,唄:二宮ゆき子
「春がきたかよ街にも山にもサ」と始まる歌。
「どんぶりばちァ浮いた浮いたステテコシャンシャン」など,意味のよく解らない歌詞があり,これがタイトルになっている。ネット検索してみると、この「どんぶりばち」とは北条早雲のことだとする説もあるようだ。北条早雲が主人公の小説を読んだ記憶があり,探してみたが見つからず,確認できない。早雲の頭の鉢が大きかった,あるいは伊勢新九郎時代にどんぶり鉢を使って何かをしていたなどの記述があるのではないかと期待したのだが。
結局,私にとってこの歌は謎の歌である。
元歌がどうなのかは判らないが二宮ゆき子の唄はお座敷ソングに聞こえる。
スーパージェッタ―(2016.2.18)
昭和40年,詞:加納一朗,曲:山下毅雄,唄:上高田少年合唱団
「ぼくはジェッタ― 一千年の未来から時の流れをこえてやってきた。」と台詞から始まる。台詞はテレビアニメでジェッタ―を担当した市川治。歌は「未来の国から やってきた 知恵と力と勇気の子」と始まる。
TBS系のテレビアニメの主題歌である。多くのテレビアニメが,原作(多くは漫画)がありそれをアニメ化しているのに対し,これはオリジナルのテレビアニメだそうだ。アニメが元で,そのプロモーションの一環として同時並行で漫画化されたらしい。当時はそのような事情は全く知らなかった。
ジェッタ―は30世紀からタイムマシン「流星号」で20世紀にやってきた。SFに登場した装置等が次々と実現されていが,タイムマシンもジェッタ―が装着している反重力ベルトも未だ実現されていない装置のひとつだ。いつかこれらが実現されるのだろうか。
青年おはら節(2016.9.3)
昭和40年,詞:星野哲郎,曲:米山正夫,唄:西郷輝彦
「あいつに出来ることならば 僕らに出来ぬわけがない」と始まる歌。
あれから50年以上経ったのだろうか。YouTubeで聴いてみた。
御三家登場の頃から頸より上で発声する歌手が増えているように感じていたが,今回西郷の唄を聴いてみてやっぱりと思った。
ところで,この曲を聴いていて前奏の一部が東京音頭の前奏の一部に似ていると感じた。元の小原節はどうなっているのだろうと思い検索して鹿児島小原節をYouTubeで聞いたところやはり似たフレーズが入っている。もっと驚いたのはこのYouTubeでは踊っているのだが,その振付が,私が子供の頃から踊っていた炭坑節とかなり似ているのだ。
歴史的には小原節が最も古くからある1)ようなので他はこれから借用したのだろう。
1)おはら節は江戸時代の初期から唄われているらしい。昭和8年頃,新橋喜代三のレコードが出ている。東京音頭の原曲である丸の内音頭が作られたのが昭和7年,炭坑節は明治時代にはあったようだ。
他人船(2021.12.2)
昭和40年,詞:遠藤実,曲:遠藤実,唄;三船和子
「別れてくれと 云う前に 死ねよと云って 欲しかった」と始まる。
「ああ この黒髪の 先までが」と印象的なメロディで「あなたを愛しているものを」へと続く。安心して聴ける定型的な演歌だ。
いろんな歌手が唄ったのを聞いたことがあるように思う。典型的な演歌と書いたが,昭和40年頃,このような歌を演歌とは言わなかったように思う。何と呼んだか定かな記憶はないが,流行歌ではなかっただろうか。歌謡曲という言葉もあった。流行歌を上品にいうと歌謡曲になるような気もする。
私が言う定型的な演歌とは七五調の歌詞ということだ。この七五で2小節となる4拍子の曲,短調でヨナ抜き音階となれば完璧だ。
チキン・オブ・ザ・シー(2020.4.2)
昭和40年,詞:Hooven Jeff,日本語詞:藤川桂介,曲:Winn Hal,唄:ジャニーズ
「海辺で遊べば みんなが言うのさ 泳げないあいつは いくじなしなんだ」と始まる歌。
「Every body calls me chicken of the sea」と続く。おそらくこれが元詞なのだろう。
「朝でも夜でも 海辺で踊ってる」僕だが,「ある日あの娘が 僕に言ったよ 泳ぎましょう 二人で」とあって,最後は英語の歌詞で「chicken of the sea」と終わる。
結末は記載されていないが想像通りなのだろう。
原曲を唄ったのはThe Go-Go’sというグループらしいが,私はそのグループを知らない。
サウンド的にはメロディラインが当時の歌謡曲とはかなり違っていて,私の好みではなかったが,洋楽にはこんな感じの曲もあってあまり違和感なく聴いていたように思うので,洋楽はこんなものという印象を持っていたのかもしれない。この曲のバック演奏はブルコメらしいが,後のブルコメしか知らない私には想像できない。また,日本語歌詞とメロディーが合わないように感じたのが曲に好印象を抱かなかった原因なのかもしれない。
東京しぐれ(2018.7.17)
昭和40年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:フランク永井
「東京しぐれか 泣かせの雨か」と始まる歌。
この歌はレコード業界の専属体制が崩れつつあった末期の時代の歌だろう。
昭和4年にビクターが西条八十・中山晋平と専属契約を結んで以来,長い間,作詞家・作曲家・歌手はレコード会社の専属として他社の仕事はしなかった。
非専属の作家により作られた歌の初期の代表作は『黒い花びら』1)だろう。非専属の作家に歌を積極的に作らせ始めたのは渡辺プロダクションだ。昭和37年に渡辺音楽出版を設立,非専属の作詞家や作曲家に歌の製作を依頼し,ナベプロ所属の歌手に唄わせ,レコード会社に持ち込むようになった。ザ・ピーナッツの唄などである。
レコード会社もフリーな作家を使ってみたいと思ったのだろうが,専属作家の問題があり,簡単ではない。そこで,レコード会社はそれぞれの洋楽レーベルからフリー作家のレコードを出した。ビクターならフィリップス,コロムビアならCBSレーベルで出すということだ。東芝の洋楽レーベルであるキャピトルから出された『恋のハレルヤ』2)などがその例だ。
このようにしてレコード会社の専属制は事実上瓦解していった。
1)「黒い花びら」(昭和34年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:水原弘)
2)「恋のハレルヤ」(昭和42年,詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦,唄:黛ジュン)
東京流れもの(2013.10.15)
昭和40年,詞:永井ひろし,曲:不詳,唄:竹腰ひろ子
「流れ流れて東京を」と始まる歌。
渡哲也(歌詞はちがうし,メロディーも微妙に違う)をはじめ,何人かが歌っている。男歌だが藤圭子の唄も悪くない,しかし,私は最初に聴いた竹越の唄が好きだ。
竹越盤の歌詞には「花の一匹人生だ」,「浪花節だよ人生は」,「いてもいいだろこんな奴」などとあり,大衆路線だろう。時代の先端を行く者たちを斜に見ながら,自分だけは古い価値感を守っていると思っている,『おれも生きたや仁吉のように』1)と,それが男の美学だと信じているのだ。実際は時代の先端を行くものは僅かで大衆は古い体質を引きずっているのでこのような歌が大衆に受けるのだろう。『古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます』2)ということだ。
1) 「人生劇場」(昭和13年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:楠木繁夫)
2) 「傷だらけの人生」(昭和45年,詞:藤田まさと,曲:吉田正,唄:鶴田浩二)
ともだち(2019.10.27)
昭和40年,詞:永六輔,曲:いずみたく,唄:坂本九
「君の目の前の 小さな草も 生きている 笑ってる」と始まる歌。
「あの雲も山も 生きている 歌っている」などと日本的アニミズムの世界で,山川草木悉皆成仏と日本仏教にも引き継がれている世界観だ。
このような歌が唄われることも文化の伝承に寄与している。
渚のお嬢さん(2018.1.4)
昭和40年,詞:関沢新一,曲:松尾健司,唄:舟木一夫
「きらめく太陽 光る海」と始まる歌。
「どこの人やら・・・渚の若いお嬢さん」と,ただ眺めているだけだ。
昔は近くの海に海水浴場があり,自転車で行けた。しかし当時はすでに臨海コンビナートができ,自転車で行ける距離には海水浴場はなかった。泳ぐと言えば学校のプールだった。コースロープで区切られ水泳部と共用だった。車がなかったので海水浴には行けなかった。
この歌のような状況のときの対応により,当時の私の仲間は2種類に分かれた。一方はこの歌のようにただ眺めているだけ,もう一方はダメ元ですぐに声を掛ける。
もっとも,当時は海よりも山で,ハイキングや登山はブームだった。山も電車やバスを使うのだが,圧倒的に山が多かった。海ではただ眺めているだけのグループも,山では『こんにちは』と挨拶する。もっとも登山中と下山中の一瞬のすれ違いだからそれ以上には発展しなかった。
夏の日の想い出(2013.5.9)
昭和40年,詞:鈴木道明,曲:鈴木道明,唄:日野てる子
「きれいな月が海をてらし」と始まる歌。
やや物憂げな妖艶な声で「ぃ夜のなぁぎさぁに〜」などと唄われると,清純そうな容姿とのギャップに驚いてしまう。テレビで観る彼女は,この歌を唄うとき,いつも髪にハイビスカスの花を飾っていた。歌詞は冬の浜辺の歌なのだが,唄っている彼女は夏の夕べという雰囲気である。歌詞の冬は北国の厳しい冬ではなく,常夏の国の冬のような衣装で唄っていて違和感がないのは,彼女がハワイアン歌手だったからだろうか。私はこの歌から秋の浜辺を連想する。
歌詞からは淋しさだけを感じるのだが,歌声からは艶かしさも感じられ,あるときは好ましく聞こえ,またあるときには好ましくは聞こえない。いずれにせよ悪い歌ではない。
ナポリは恋人(2017.5.15)
昭和40年,詞:R.ラッセル/あらかわひろし,曲:R.ラッセル,唄:弘田三枝子
「ナポリ 夢の町 しあわせにあふれて」と始まる歌。
原曲はGigliola CinquettiのNapoli fortuna mia1。
そういえばこの頃Cinquettiの日本での人気は高かったように思う。彼女のいろんな歌を聴いた記憶がある。ただ,この曲に関しては弘田の歌の方が馴染がある。
涙君さよなら(2015.3.31)
昭和40年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:坂本九
「涙くんさよなら さよなら涙くん」
涙に対し,「君は僕の友達だ」と呼びかけている。「だけど僕は恋をした」「しばらくは君と逢わずに暮らせるだろう」という歌。
歌声喫茶などで唄うには良い曲だと思うのだが,坂本九の唄い方は私の好みではない。どちらかと言うと私はリズミカルな曲でもだらだらとタイ・スラー・レガート?を駆使して唄う癖があるようだ。この歌も音符をつなげて唄いたい。そのほうが唄っていて気分がいい。但し,その録音を自分で聴くと御詠歌みたいだと言われる理由が理解できる。
涙くんさよなら(2015.10.31)
昭和40年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:坂本九
「涙くんさよなら さよなら涙くん」と始まる歌。
ジョニー・ティロットソンも唄ってヒット。英訳タイトルはGoodbye Mr. Tears。和田弘とマヒナスターズやジャニーズも唄っている。
「涙くん」に対して,「君は僕の友達だ この世は悲しいことだらけ」と話しかけているが,「だけど僕は恋をした」「しばらくは君と逢わずに暮らせるだろう」という歌。
ハマクラの歌を多くは知らないのだが,皆,雰囲気が異なる。途中で路線を変えた歌手は多数いて,2種類以上の雰囲気の歌を唄う歌手はたくさんいるが,多種類の素晴らしい歌を唄っているのは美空ひばりだろう。ハマクラは作曲もするが,歌手の美空に匹敵する歌の作り手だと思う。
作詞家では,例えば佐伯孝夫は何となく詞の展開が解ってしまう。これは私が佐伯孝夫で育ったからかもしれない。阿久悠は,最初は驚きの発想とも思えるものもあるが,何度も聴いているうちに,阿久悠なら自然な詞だと思えてくる。ところが浜口庫之助は聴くたびに,その発想に驚く詞だ。松本隆はたまに共感できる詞もあるが,多くは私の理解を超えるジェネレーションギャップを感じる詞だ。
涙の連絡線(2012.9.15)
昭和40年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:都はるみ
「いつも群れ飛ぶかもめさえ」という出だしで,「たった一夜の思い出」がある旅の人が「きっとくるよの」言葉を残したこと頼りにじて待っているが「今夜も汽笛が汽笛が汽笛が」「泣いている」だけ。「忘れられない私が馬鹿ね」と解っているのだがそれでも待っている。
演歌とは何かという問いに答えることはできないのだが,私のイメージではこの歌は典型的な演歌のひとつだ。もっとも,当時は単に歌謡曲といったと思う。戦前まではバイオリンを弾きながら社会風刺や批判を歌う演歌師という人たちがいたようだが,このような政治的?メッセージを発する歌の唄い手はギターを手にしたフォークシンガーに代わられつつあった。昭和40年当時,演歌という言葉はあったが実態は全く不明だったと思う。演歌ということばが現在の意味?で使われるようになったのはこれから数年後「藤圭子」の時代からではないかと思う。「演歌」の新しいイメージができて,過去の歌謡曲を整理してみたとき,この「涙の連絡船」も演歌の一種だろう。
「演歌」という概念が形成されると,これを嫌う勢力も出てきた。演歌に多用される「ヨナ抜き音階」1)が音楽としてレベルが低い?とか「虐げられる女を頻繁に登場させ,女は虐げられて当然という意識を広めている」とかいろんな意見が出ていた。
この頃から女子の進学率が上がってきて,社会進出も次第に増えてくる。女子大生亡国論というものまであった。いろんな観点からの意見があったと思うが,基調は高額な経費をかけ高度な専門知識を身につけさせても,それを社会に還元することなく永久就職2)してしまうというようなものであった。
女性の社会進出とスポーツに関係があるかどうかは解らないが,平成24年のロンドンオリンピックでの日本女子の活躍は目を見張るものがある。
1) 『ファ』と『シ』を使わない5音音階。
2) 結婚して専業主婦になること。
涙の連絡船(2016.3.21)
昭和40年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:都はるみ
「いつも群れ飛ぶ かもめさえ とうに忘れた 恋なのに」と始まる歌。
「汽笛が汽笛が汽笛が」の繰り返しは2度までは素直に聞くことができるが3度になると昔のレコードが同じ個所を繰り返し再生しているようだ。
私の中では昭和は5期に分かれる。戦前,戦中,戦後前期,戦後中期,戦後後期だ。この歌は典型的な戦後中期の歌謡曲だと感じるが戦後前期にあってもおかしくない歌だと思う。
涙をありがとう(2017.6.12)
昭和40年,詞:関根浩子,曲:米山正夫,唄:西郷輝彦
「兄貴ッ!」と叫ぶところから始まる。歌の始まりは「呼んでも帰らぬ兄貴だけれど」だ。
「さみしい時は 泣きにくるんだ 兄貴のそばへ」とあるが、他所では泣けないのだろう。「墓標をだけば」泣いているところを万一他人に見られても良いということだろうか。あるいは,いつも助けてくれた兄はもういないことを再確認していっそうさびしさがつのるということだろうか。
戦前あるいは終戦直後に比べれば医療技術は進歩したとはいえ,現代と比べれば安全に関する意識も低く,幼くしてあるいは若くして事故や病気で亡くなる人数は現代よりも多かった。病院ではなく自宅で老人が亡くなる例も少なくなく,現代に比べて死がはるかに身近にあった。
最後に「兄貴ッ!」と叫んで終わる。
奈良の春日野(2016.10.5)
昭和40年,詞:佐伯孝夫,曲:大野正雄,唄:吉永小百合
「奈良の春日野 青芝に 腰をおろせば鹿のフン」と始まる歌。
あの吉永小百合に「フンフンフーン 黒豆や」と唄わせたのだ。もちろん当時の吉永はまだ大女優と呼べるほどではなかったかもしれないが,昭和37年には『キューポラのある街』(日活)でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し,このときまでに浜田光夫とのコンビで日活の清純派女優として活躍していた。また歌手としても橋幸夫とのデュエット1)で第4回日本レコード大賞を受賞していた。
変な歌というような特集を組まれたとき,きっと入っているだろう歌。
1)「いつでも夢を」(昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫/吉永小百合)
ノーチェ デ・東京(2019.6.7)
昭和40年,詞:三浦康照,曲:和田香苗,唄:金井克子
「私を泣かせるの 夜のとばりが」と始まる歌。
金井の最初のヒット曲。印象に残る大きな特徴が無いように思ったのだが,今聴くと当時の曲だという感じがする。私の能力不足でその特徴を具体的に指摘することはできないが,当時の典型的な曲だったので私の印象が薄かったのだろう。
なお,『noche』はスペイン語で『夜』だが,当時は知らないまま何となく聞いていた。意味を知ったのは『夜の銀狐』1)でだ。
1)「夜の銀狐」(昭和44年,詞:水沢圭吾,曲:中川博之,唄:斉条史郎)「ソーロ・グリス・デ・ラ・ノーチェ」という意味不明な歌詞があったので調べたのだ。
函館の女(2012.9.20)
昭和40年,詞:星野哲郎,曲:島津仲男,唄:北島三郎
「はるばるきたぜ函館へ」と始まり,1番は「とてもがまんができなかったよ」,3番は「一目だけでも逢いたかったよ」と終わる歌。私にとっては,『これぞサブちゃん』という歌である。初めて函館山に行ったときには,大声で「はーぁあるばるきたぜはぁこだてえー」と唄いたかったが周囲に他人が何人もいたので自粛した。
この年,国鉄にみどりの窓口ができた。みどりの窓口では指定席券が直ぐに購入できるようになった。国鉄の座席予約にコンピュータが使用されるようになったのは昭和35年である。それまでは指定席を予約しようと窓口に行くと,窓口から予約台帳がある駅等に電話で照会した後発券していたので発券に1時間以上かかるのが普通だった。昭和35年にコンピュータが導入され下りの「こだま」2列車のみ,次いで下りの「つばめ」2列車が追加され,4列車の予約が即時可能になったのである。発券はできず,プリンタ出力を見て駅員が発券していたらしい。なお,一部の駅では予約状況をCRTに表示させることができた。昭和45年に私が本格的にコンピュータを利用し始めたときでも,CRTなどは使われておらず,入力はパンチカード,機種によってはさん孔テープ,出力はラインプリンタしかなかった。(磁気テープ出力など,眼で情報を確認できないものはあった。)従って昭和35年ということは画期的なことである。昭和40年にはコンピュータ端末が全国の主要152駅と日本交通公社の83箇所に設置されたのである。
馬鹿っちょ出船(2015.11.22)
昭和40年,詞:石本美由起,曲:市川昭介,唄:都はるみ
「赤いランプを 灯した船が」と始まる歌。
「二度と惚れまいマドロスさんに」とあるように,去っていく船員に対する未練を歌った歌だ。
昭和30年代の日活映画や流行歌ではマドロスものが少なくなかった印象だが具体例はすぐには思い出さない。というより多くを思いだすが同じような印象なので個々に分離できないのだ。この歌のシチュエーションも陳腐なものだが,この系統では最後の方に属する歌だろう。しかし,私の記憶に残っているほどだからそれなりに頻繁に放送で流されていたのだろう。
火消し若衆(2015.5.6)
昭和40年,詞:安部幸子,曲:遠藤実,唄:舟木一夫
「火事とけんかと一番まとい そいつはおいらにまかせておきな まかせておきな」と始まる歌。当時アイドル歌謡という言葉はなかったが,一種のアイドル歌謡だ。人気歌手が唄わなければ記憶に残らない歌ではないか。詞は結構江戸風情を伝えているように感じるが,昭和のこの時代には詞の内容に馴染のないひとも増えており,杉浦日向子1)のようなひとにしか受けないのではないか。
この歌でも「め組のとび衆」となっているが,町火消しというと「め組」がでてくる。講談などで有名な(だった?),江戸時代の実話『め組の喧嘩』というのがあるので,町火消しというと「め組」ということになるのだろう。この喧嘩は火消しと力士の喧嘩だ。大規模な集団喧嘩は他にもあったらしいが,この『め組の喧嘩』が有名になったのは,この喧嘩が火消し集団と力士集団の喧嘩で,火消しは江戸町奉行,相撲は寺社奉行とそれぞれの管轄奉行に訴え出,最後には農民を管轄する勘定奉行まで出てきて当時では珍しい三奉行による裁きになったことが理由らしい。
ところで,私が子供の頃は近所でも時々火事があった。最近近所での火事はない。恐らく家庭で裸火を使うことが減ったことと,自動消火設備や火災報知設備が完備してきたことが理由だろう。以前はかまどや七輪で煮炊きをし,風呂や暖房も火を焚いていた。いまでもガスや灯油を使うことも少なくないが,異常時の自動停止装置などが昔に比べてはるかに進歩している。揚げ物など,調理済みで販売されているものも昔よりはるかに多くなっている。
ごく近くで火事にあったのは,まず小学生の頃,映画館でだ。立ち見多数の満員の映画館で上映中に館内に煙が充満し,皆が出口に殺到してとても怖い思いをした。それ以来,かなりの間,映画館など人の集まる密閉空間が怖かった。
次に近所で火事があったのは米国に住んでいたときだ。たまたまドライブ旅行の帰りで,その日は約800 kmの距離を走って深夜に帰宅たのだが,未明に隣(田の字型の対角にある家)が全焼していた。全く気付かずに寝ていたので燃えている最中の恐怖はなかったが,焼け跡の臭いは強烈だった。
最後は中華料理店内だ。他に客はほとんどいなかったのではないかと思うが,よく覚えていない。食事が終わり帰ろうとしていたところ,奥の方から煙が流れてきており,従業員は何かバタバタしているようだ。まだ早いのにもう閉店だろうかと思いながら,のんびり会計を済まして外へでると,外には煙が立ち込めている。何だろうと思っているうちに消防自動車がやってきて火事かと思っていたら,今まで食事をしていた店が燃え上がっていた。
最初の映画館では,誰かが火事だと言ったのでパニックになった。中華料理店では煙を見ても火事だとは夢にも思わなかった。自分の五感だけでは正確な状況は把握しにくい。
1)杉浦日向子:江戸風俗研究家の一人として挙げた。この歌をどう感じるかは全く不明。
二人の世界(2013.3.7)
昭和40年,詞:池田充男,曲:鶴岡雅義,唄:石原裕次郎
「君の横顔素敵だぜ」と始まる歌。
当時高校生だった私には「夢の世界」だったからか,当時は特に気になる歌ではなかった。私には別世界の歌だったのだ。そもそも裕次郎はそれほど歌番組に登場しなかったので,聴く機会が少なかった。後に何かのきっかけで聴いたときに,好きな歌の一つになった。
「すねたその瞳が好きなのさ」と目で語り合うなど,分かりやすい詞もよいと思う。
フリフリ(2019.5.11)
昭和40年,詞:釜萢弘,曲:釜萢弘,唄:田邊昭知とザ・スパイダース
「ダークな背広にブーツをはいて フリフリフリフリフリフリフリフリ」と始まる歌。
「俺とエレキは恋人同士」とあるが,エレキバンド全盛時代から,ヴォーカルがはいりグループ・サウンズ化していく時代の歌。フォーク・ソングが受け入れられたことにより,歌のレッスンを正式に受けていなくても人前で唄っていいんじゃないかと思い始めた時代といえるだろう。
ふり向いてもくれない(2018.10.29)
昭和40年,詞:青島幸男,曲:小杉仁三,唄:朝丘雪路
「こんなに好きなのに ふり向いてもくれない」と始まる歌。
青島にしてはまともな詞というか,普通の詞だ。
お嬢様だった朝丘は現金をつかったことがなかったとか。自販機にむかって「朝丘です」と名乗って商品が出てくるのを待ったという伝説?は有名?だ。
この歌詞にも「どうしたらいいの どうしたらいいの」とあるが,自販機に対しても同じことを言ったのではないかと思うと微笑ましい。
ふるさとのはなしをしよう(2016.11.4)
昭和40年,詞:伊野上のぼる,曲:キダ・タロー,唄:北原謙二
「砂山にさわぐ潮風 かつお舟 はいる浜辺の」と始まる歌。
僕の故郷はこんなところだけれど,君の故郷は?
「鳴る花火 ならぶ夜店に」という「下町」なのだろうか,「畑」があって「桃の実が 赤くなるころ」なのだろうか。
「ぼくは知りたい きみのふるさと ふるさとの はなしをしよう」という歌。
『知りたいってこたぁ惚れたってことよ』1)かとも思うが,おそらく,まずは相手の氏素性を知らないとどのように付き合えばよいか解らないという当時もまだ残っていた日本人の習性によるものだろう。
1)寅さんなら言いそうにも思うが,このような言葉があるかどうかは知らない。「三四郎」(夏目漱石)には『可哀想だた惚れたってことよ』がある。
星娘(2014.1.4)
昭和40年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:西郷輝彦
「星娘イエイエイ星娘イエイエイ星娘イエイイエイイエイ ホーホーホー」と始まる。最後も同じだ。本当の一番は「星のようなあの子」と始まる。「星」は映画スターというような意味ではないのだが,輝いているが手は届かないという点では同じである。手が届かぬ娘の歌ではありながら,明るい歌で,テレビで見ていたハマクラのイメージどおりの歌だ。もっとも浜口は私が抱いているイメージを覆すような歌も作っているので人は見かけによらないということだ。私は,ハマクラの歌では意外に感じる歌のほうが好きだ。
この歌は西郷の声にとって若干キーが高すぎるような感じで唄われているような気がする。高音が出きらないくらいのぎりぎりのキーで,高い空にあり,輝いて見えるにもかかわらず手が届かない,曲自体には手が届かない無念さは感じられないのだが,西郷の高音がこの悲しみを感じさせる。曲の製作者は歌手のことまで考えて作っているのだろうと感じさせる歌だ。
北海の満月(2016.5.5)
昭和40年,詞:松井由利夫,曲:大沢浄二,唄:井沢八郎
「アーアーアー」の繰り返しを含む前奏から始まる。歌は「波がドンと来りゃ飛沫の花が」と始まる。
ニシン漁の歌だが,アイヌを思わせる単語がちりばめられている。出だしの「アーアー」もそうだが,曲自体も『イヨマンテの夜』を思い起こさせる。
わたしから見れば『これが歌手』という歌手の一人だ。歌手が全員このように唄っていれば,私もカラオケで唄おうとなどは思わないだろうが,歌手?の中には『この程度なら自分でも唄えそう』と思うような歌手?も少なくなく,このような歌手もどきがカラオケブームを支えているのだろうか。
この曲もそれなりにヒットはしたが,ヒット曲になるかどうかは唄の上手さには関係ない。私の場合は曲が詞に合っていて,かつ詞に共感できる歌,感情移入できる歌ならよいのだが,全く異質な世界の歌でも興味を持つ歌もある。私にとってこの歌は,井沢八郎は唄が上手いと感じる以外に特に魅かれるところがない歌である。
1)「イヨマンテの夜」(昭和24年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:伊藤久男)
僕等はみんな恋人さ(2019.3.19)
昭和40年,詞:岩谷時子,曲:いずみたく,唄:橋幸夫
「仰ぐ青空は ごらん ただ一つ たどるその道は たとえ 違おうと」と始まる歌。
橋がこの頃唄っていたリズム歌謡のひとつ。
とはいえ,「今日は貧しさに涙こぼそうと」と岩谷の詞に似合わず,庶民の詞のようだ。加山雄三の映画と浜田光夫の映画で主人公はどちらが金持ちそうかと比較するまでもなく・・・。岩谷は加山に詞を書きそうな印象だ。訳詞の場合も「貧しさ」などという言葉とは縁遠いと感じていたのだが。
まつのき小唄(2012.3.14)
昭和40年,詞:藤田まさと・夢虹二,曲:不詳,唄:二宮ゆき子
「松の木ばかりがまつじゃない」「あなた待つのもまつのうち」という歌。
一時,松本町というところに住んでいたことがある。山(というより,小さな丘だが)があり山上に神社があった。ここで開かれていた盆踊りでこの曲がかかっていた。
当時は家の近所にも何もない土地が広がっていた。何もないといっても,木が少々,あとは草薮という感じだ。おそらく山林と分類されていたであろう土地だ。気候の良い時分はここにギターを抱えてよく行っていた。「湯の町エレジー」などを心を込めて唄っていた。自分では気分良く唄うのだが,テープレコーダーで録音して再生してみると,自分の声とは思えず,演奏も下手糞だ。さすがにこれでは自宅で大声で唄うと近所迷惑だろうと思い,独り裏山に唄いに行ったのだ。寝転がると周囲には大自然がひろがっている(ように見える)。後に知ったのだが,あの辺りは蝮の生息地で業者がよく捕りに来るとのこと。私が蝮に会わなかったのは運がよかったらしい。このことを知ってから足が遠のいた。
この年,日韓基本条約が締結された。
夢みるシャンソン人形(2013.7.8)
昭和40年,詞:セルジュ・ゲインズブール/岩谷時子,曲:セルジュ・ゲインズブール,唄:弘田三枝子
「私は夢見るシャンソン人形」とはじまる歌。弘田の発声に少し特徴があった。「私の歌は」というところなど「ぅわったしのうたは」という風に聞こえる。「みんな私の」の「わたしの」は普通に聞こえるのだが。
元歌のタイトルは「Poupee de Cire, Poupee de Son」,歌詞は「Je suis une poupée de cire」と始まり,France Gallが唄っていた。元歌のほうが平板に歌っており,弘田のほうがリズムを強く感じる。
恋をしたことがなく,恋にあこがれる少女の歌だと思うが,私には弘田は恋に目覚める前の女の子,France Gallは少女に見えた。違いは『女の子』と『少女』だ。どう違うかは説明を控える。
私はどちらかというと元歌のほうが好きかもしれないが,当時ラジオやテレビで聴いたのは弘田三枝子の唄が多かった。
夢見るシャンソン人形(2019.4.15)
昭和40年,詞:Serge Gainsbourg,訳詞:岩谷時子,曲:Serge Gainsbourg,唄:中尾ミエ
「私は夢みるシャンソン人形 心にいつもシャンソンあふれる人形」と始まる歌。
「本当の愛なんて 歌のなかだけよ」とか「男の子一人も知りもしないのに 愛の歌うたうその淋しさ」などと唄っているが,本当の愛とは何なのだろうか。
詞のとおり,実は淋しい私生活なのか,舞台でも私生活でも充実しているとみられると一部から反感を買うかも知れないと思ってこのように唄っているだけなのか。
元歌を唄ったフランス・ギャルは当時18才,この曲で第10回ユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝している。
18才の可愛いフランス娘がフランス語で唄っているだけで可愛いが,仏語を解しない私には何を歌っているのかわからない。直訳?だと『見せかけだけのお人形(ロウ人形)』『中身が空っぽ(おがくず)な音の出るお人形』というような意味らしいが,これを「夢見るシャンソン人形」と意訳したのがこの曲がヒットした最大の理由だろう。
ヨイトマケの唄(2015.6.5)
昭和40年,詞:丸山明弘,曲:丸山明弘,唄:丸山明弘
「父ちゃんのためならエンヤコラ 母ちゃんのためならエンヤコラ もひとつおまけにエンヤコラ」とメロディーにのっているような掛け声から始まるが,「今も聞こえるヨイトマケの唄」と始まるのが本来の歌の始まりだろう。
歌詞は,土木作業員として働く母親のおかげで大学まで出してもらった。草葉の陰からエンジニアになった僕の姿を見てくれと言っている。
大学進学者数は次第に増えてきたとはいえ,昭和40年ころは20万人程度(現在は60万人程度)である。大学・短大・高専・専門学校を含めた進学率では昭和40年ころは20%にはるかに及ばない(現在は70%以上)。昭和40年頃にエンジニアになっていたのなら大学進学は昭和30年代だ。高等教育機関への進学率は10%程度だっただろう。私が子供の頃は近所で高校に進学する者がいると話題になった。高校生をみることがほとんどなかったのだ。
歌詞では母親は「貧しい土方」として「姉さんかむりで泥にまみれて日に灼けながら汗を流して」働いている。当時は皆貧しかったが,貧しい中にもか,貧しい中だからかこそなのか不明だが「小学校でヨイトマケの子供 きたない子供と いじめぬかれて はやされて」ということもあっただろう。しかし,当時の子供はいじめには負けなかった。報道されなかっただけかもしれないが,おそらくはいじめるほうも限度を知っており,また,いじめられる方も年長者や大人のなかにもいじめられる人がいるのを見ていたからではないだろうか。
「いまじゃ機械の世の中で」とある。たしかに昭和40年頃,土木作業の機械化は進んではいたが今の比ではない。昭和30年代なら人力に頼る部分が非常に多かった。石油化学コンビナートの建設,東京オリンピックへ向けての公共事業など多くの土木工事現場があった。
夜空の星(2018.9.2)
昭和40年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「僕の行く所へ ついておいでよ」と始まる歌。
流行歌で歌われていた感情は悲しみが多かったように思う。幸せ感の歌も少なからずあったが,それらの多くは小さな幸せを大きく感じているように思う。ところが加山の歌は経済的豊かさに支えられ,挫折など経験したことがない男の歌のように感じられる。
この頃,多くは物質的に豊かとは言えなかったが,向上しつつある感じはあった。友達がスキーに行くと言えば,夜行列車に乗ってかもしれないが,自分も行くことができるようになった。誰かが自家用車を買ったという話を聞くと,自分もそのうちに買えるという期待が持てた。
石原裕次郎や小林旭にはややワイルドなイメージがある。浜田光夫などは庶民的イメージのほうが強い。加山雄三は新しい時代のスターと言えるだろう。
ろくでなし(2018.12.25)
昭和40年,詞:Adamo Salvatore/岩谷時子,曲:Adamo Salvatore,唄:越路吹雪
「古いこの酒場で たくさん飲んだから」と始まる歌。
印象に残るのは「ろくでなし ろくでなし」という箇所だ。
越路吹雪の唄はあまり聴いていないが,たまに聴くと,いつも同じような印象の歌であり唄い方だと思っていた。今突然思いついたのだが,これは岩谷の訳詞がそうさせていたのではないだろうか。
6番のロック(2015.7.4)
昭和40年,詞:星野哲郎,曲:北原じゅん,唄:美樹克彦
「あまい涙やささやきは 欲しくなのさ 邪魔なのさ」と始まる歌。
「ロック ロック ロック ロックンナンバーシックス」の巻き舌?の「ロ」が印象に残る。しかし,曲は私がイメージするロックではなく,歌謡曲だ。北原じゅんと聞いて私がイメージする曲の範囲内だ。まあ,ロックの歌謡曲もあるだろうが,私のロックに対するイメージはもっとビートの効いた曲だ。詞では「俺におくれよ激しい詩を」と言っているので,もっと激しい曲にしても良いのではないだろうか。
私を愛して(2016.12.3)
昭和40年,詞:J.Kennedy・漣健児,曲:J.Kennedy,唄:奥村チヨ
「Moi(モア) 一人きり 見る夢は」と始まる歌。
原曲はSylvie Vartanの「Car tu t’en vas」。「私を愛してほしいのよ」という歌だが,当時の私の関心を引く歌詞ではなかった。奥村チヨの名は馴染がなく(この曲は奥村のデビューレコードB面曲),Sylvie Vartanのほうが遥かに親しみを感じていたが,既にポップスはあまり聴かなくなっていた。)
Green Green Grass of Home<想い出のグリーングラス>(2014.5.11)
昭和40年,詞:Curly Putman Jr., 曲:Curly Putman Jr.,唱:Johnny Darrell
「The old home town looks the same as I step down from the train」と始まる歌。
トム・ジョーンズ,ジョーン・バエズ,エルビス・プレスリーも唄っている。山上路夫の「思い出のグリーン・グラス」というタイトルの詞を森山良子も唄っており,内外の多くの歌手がこの歌をカバーしている。
故郷へ帰る歌だ。山上の詞では「笑顔でだれも迎えてくれるの」というところで終わっている。「夢が覚めたのよ」とあり,この夢は実際に眠っている夢と,都会に出て一旗挙げたいという夢の両方を表しているような詞だ。しかし英文歌詞には更に続きがあり,目覚めて見たものは「At the grey walls that surround me」「And I realize that I was only dreaming, For there's a guard and there’s a sad old padre」とあり,更にこのguardに関しては「Arm in arm we’ll walk at daybreak」とある。最後は「As they lay me 'neath the green, green grass of home」と終わる。従ってどう読んでもこれは死刑囚の夢の歌に聞こえる。山上は訳すにあたってこの箇所を省略したのだ。
山上がどのような意図でこの箇所を訳出しなかったのかは不明だが,私もこの箇所の訳出は不要だという意見には賛成だ。一般的に言えば,私は歌詞の成立した背景が明瞭に解る詞のほうが好きだ。しかし,この詞の場合,全てを訳出してしまうとあまりにも状況が限定され過ぎてしまう。
Michelle(2015.12.15)
昭和40年,詞:John Lennon & Paul McCartney,曲:John Lennon & Paul McCartney,唄:The Beatles
「Michelle ma belle. These are words that go together well. My Michell.」と始まる歌。私が聴きとれたのは「I love you I love you I love you」という箇所だけだった。
ということで,あちらこちらでよく聞いた気がするのだが,またこれかと,どちらかというとうんざりしていた。
ザ・スパイダーズが片桐和子による訳詞で唄っている。
My Baby Baby Balla Balla<バラバラ>(2018.6.4)
昭和40年,詞:Horst Lippok,曲:Horst Lippok,唄:Rainbows
「My baby baby balla balla」を繰り返しているだけではないかと感じる歌。
ドイツでの発売時のタイトルは「Balla Balla」,日本では昭和42年の発売のようで,邦題は「バラバラ」だ。歌詞が単調でその単調さが故に記憶に残る。
Yesterday<イエスタディ>(2015.8.1)
昭和40年,詞:John Lennon & Paul McCartney,曲:John Lennon & Paul McCartney,唄:The Beatles
「Yesterday, all my
troubles seemed so far away」と始まる歌。
私の英語力では歌を聴いてもよく意味はわからない。歌詞を読んで初めておぼろげに意味が想像できる。彼女に逃げられた男の歌だろう。なぜ彼女が去ったのか理解できずうろたえている。
以心伝心の日本人に比べれば,欧米人は多くを口に出すというイメージだが,やはりコミュニケーション不足というのはどこにでもあるらしい。
世界的に人気が高かったビートルズだが,私はそれほど好きというわけではなかった。でも,ビートルズの曲の中でこの曲は好きな曲だ。
Ticket to Ride(2016.5.14)
昭和40年,詞:John Lennon & Paul McCartney,曲:John Lennon & Paul McCartney,唄:The Beatles
「I think I’m gonna be sad」と始まる歌。
この曲に対する特別な思い入れはない。
この曲の思い出と言えば,英単語「ride」の使い方を一つ覚えたことくらいだ。もっとも,この頃はまだ英語を使う機会は英語の授業か試験しかなかった。授業で個々の単語の使用法を習った記憶はないが,なぜか「ride」は馬や自転車のように跨って乗る場合に使う単語だと思っていた。ところがこの曲のタイトルを見たとき,馬や自転車に乗るための切符だとは思えなかったので調べてみた。恐らく辞書だろうが,英語の参考書だったかもしれない。とにかく,列車やバスなどでも,乗客として乗る場合はrideが使えることを知った。
当時,もう少し英語の必要性を感じているか,あるいはもっと言葉に興味を持っていたなら日本語の『乗る』を英語で場合によってどのように使い分けるかなどを調べていただろう。そうすればもっと英語ができるようになっていたかもしれないが,