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昭和の歌曲名索引

平成の歌

 

昭和53

青葉城恋唄,ANAK(息子),雨に泣いてる,いい日旅立ち,いとしのロビン・フッドさま,江古田スケッチ,追いかけてヨコハマ,乙女座宮,おもいで河,思い出は美しすぎて,思えば遠くへ来たもんだ,オリビアを聴きながら,女はそれを我慢できない,勝手にシンドバッド,カナダからの手紙,カメレオン・アーミー,かもめが翔んだ日,かもめはかもめ,ガンダーラ,季節の中で,気分しだいで責めないで,君のひとみは10000ボルト,化粧,恋のナイト・フィーヴァー<NIGHT FEVER>,この空を飛べたら,サウスポー,性(サガ),サムライ,さよならだけは言わないで,サラダの国から来た娘,シンデレラ・ハネムーン,時間よ止まれ,ジョイ,ジョニーの子守唄,青春,絶体絶命,外は白い雪の夜,タイム・トラベル,たそがれマイ・ラブ,抱きしめたい<LOVE>,ダーリング,ダンスに夢中<I Was Made For Dancin’>,チャンピオン,東京ららばい,闘牛士,透明人間,時には娼婦のように,飛んでイスタンブール,ドール,夏のお嬢さん,涙の誓い,八十八夜,春の予感〜I’ve been mellow,バイブレーション(胸から胸へ),銃爪(ひきがね),人妻,火の国へ,ブーツをぬいで朝食を,ブルースカイブルー,プレイバックPart2,炎,微笑がえし,Mr.サマータイム,みずいろの雨,みちづれ,夢想花,モンスター,モンテカルロで乾杯,宿無し,ヤマトより愛をこめて,夢追い酒,夢一夜,横浜いれぶん,与作, LOVE(抱きしめたい),ラブ・ステップ,リップスティック,林檎殺人事件,檸檬,Hello Mr. MonkeyI Was Made For DancinMonkey MagicNIGHT FEVERY.M.C.A.

 

青葉城恋唄(2012.8.13)

昭和53年,詞:星間船一,曲:さとう宗幸,唄:さとう宗幸

「広瀬川流れる岸辺」と始まる歌。さとうは第20回レコード大賞新人賞を受賞している。歌唱法はフォーク系だが,それなりにきれいな声で,丁寧に唄っている印象がある。

 恋唄となっているが,面影を思い出し,「あの人はもういない」というだけで恋する情念は感じられない。淡い想い出・・・それでも忘れられないようだが・・・次の恋が始まれば思い出すこともなくなりそうな気がする。

 仙台の様子が,くどくない程度に描写され,ご当地イメージソングとしてはとても良い歌ではないだろうか。詞,曲とも奇をてらったものではなく,さとうの唄も爽やかだ。

 

ANAK(息子) (2013.2.2)

昭和53年,詞:Freddie Aguilar(訳:なかにし礼),曲:Freddie Aguilar,唄:杉田二郎

 「お前が生まれた時父さん母さんたちはどんなによろこんだ事だろう」と始まる。「息子よお前は今悪の道へ走り」「母さんはただ泣いている」という歌だ。

 元歌はフィリピンの歌である。どこの世界でも子供が生まれたときの両親の喜びは大きなものだろう。この元詞は20言語に翻訳されているらしい。

親の保育が必要な時期の子供は可愛い。

 昔,日本三大ブス地帯という言葉があった。○○○,△△,□□(それぞれ地名)である。昔からみてその昔,見目悪しき娘を都から舟で流して追放したところ,最初に流れ着いたのが○○○,次いで△△,最後まで漂流して流れ着いた場所が□□だという話だった。その末裔ということだ。地名の順序は見目の順位ではなく,都からの距離が近い順である。美の基準は時代と共に変わるので,現代には通用しない話だろうが。しかし,これらの地域でも小さな子供は可愛いと言われていた。大人に嫌われると生きてはいけないということを本能的に知っている子供は,可愛く見える振る舞いをする本能を持っており,大人はこのような子供を可愛いと思う本能を持っているのだろう。

 歌詞では,父親も,日本では当時珍しかったイクメン振りを見せている。しかし思春期になり次第に親に反抗するようになり,最後は家を飛び出してしまう。風の便りに息子(タガログ語のANAKは息子・娘である。)は今「荒んだ暮らしをしていると聞いた」。杉田二郎の歌声には親の哀しみが滲み出ている。

 大きくなっても,親にとっては子供はいつまでも子供なのだ。

 詞には過去と現在だけが記載されている。結末は不明だがハッピーエンドになっていることを祈る。

 

雨に泣いてる(2017.1.24)

昭和53年,詞:柳ジョージ,曲:柳ジョージ,唄:柳ジョージ&レイ二―ウッド

 「Weeping in the rain」の繰り返しのコーラスで始まる歌。このフレーズは途中や最後でも繰り返される。

 歌詞は「頬濡らすそぼ降る雨の優しさに」と始まる。

 「雨の中一人佇むこの俺さ」とあるが,私がこのような情況にあるときにこのような曲が流れたら私の神経を逆撫でされたと感じるだろう。私には合わない曲だ。

 

いい日旅立ち(2013.11.7)

昭和53年,詞:谷村新司,曲:谷村新司:唄:山口百恵

 「雪解け真近の北の空に向い」と始まる歌。国鉄のキャンペーンソングとしても使われた。

 「せめて今日から一人きり旅に出る」と孤独な旅の歌だが「ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」という歌詞が,まだ夢を失っておらず,積極的に「幸せをさがしに」行こうとする姿勢が人々の共感を得たのだろう。水前寺清子の応援歌で頑張れるほど心が強くないとき,山口百恵のこの歌なら,こころを奮い立たせて一歩を踏み出そうというとき,背中をそっと押してくれる気がする。

 谷村新司の唄も悪くないが,山口百恵の唄のほうが好きだ。

 

いとしのロビン・フッドさま(2017.4.7)

昭和53年,詞:藤公之介,曲:馬飼野康二,唄:榊原郁恵

 「あなたに夢中なの 気づいてくれたのね」と始まる歌。

 歌のつくりからしてアイドルソングだと思う。

 「あなたの矢が ささったせいよ」というのだから全くの夢ではなさそうだが,雰囲気は白馬の王子様を待つ少女の歌。

 

江古田スケッチ(2019.7.15)

昭和53年,詞:竹内緑郎,曲:岡野光夫,唄:竹内緑郎と旅行かばん

 「忘れられないことの中に 何でもないようなことがある」と始まる歌。

 「江古田に住んでいた 四年の月日のその中で」起きた様々なこと,多くは取るに足らない些細なことだが,を思い出して並べている歌。「日芸 武蔵 武蔵野音大」というのだから学生時代の思い出ということだ。

 冒頭は論理学の包含関係からは「何でもないようなことの中に 忘れられないことがある」でも同じようにそれぞれの集合の共通部分のようにも思えるが,このように書けば忘れられないということは特別なことだいうことでそれらは「何でもないようなこと」ではなくなってしまう。歌詞の順序でないといけないだろう。

 語られている思い出は本当に些細なものだが,このような些細な思い出が郷愁をそそる。

 曲は単調だ。しかし,思い出に浸るためにはこの単調さが良い。

 語られている思い出は個人的なものだが,誰にも同じような思い出があるだろう。

 

追いかけてヨコハマ(2015.10.18)

昭和53年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:桜田淳子

 「追いかけてヨコハマあのひとが逃げる」と始まる歌。

 「すてゼリフ」を残して去った男?を捜して「ヨコハマ」までやってきた。ここで見つけられなければもう手がかりはない。それとも「ヨコハマ」に似た街が他にあるのだろうか,という歌。

 桜田淳子より中島みゆきのほうが似合っていると私には思われる歌だが,実際の中島みゆきはこうではないだろう。

 

乙女座宮(2014.11.9)

昭和53年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵

 「私ついてゆくわ」と始まる歌。

 私が持っている阿木の詞のイメージに合わない乙女チックな詞である。「ペガサス経由で牡牛座廻り 蟹座と戯れ今は獅子座のあなたと一緒に」というところは阿木の歌詞のイメージに近い。宇崎の曲もメルヘンチックな詞に引きずられたのだろうか,阿木・宇崎コンビの歌とは思えない出来上がりだ。

 「山羊座に恋してさそり座ふってうお座に初恋」などとあるが水瓶座,牡未座,双子座,天秤座,射手座は現れない。代わりにペガサスが現れているが意味があるのか無いのか私には解らない。

 『夢先案内人』1)はオリコン1位をとったが『イミテイション・ゴールド』2)は最高が2位だったので『夢先案内人』路線でもう一曲と考えたのだろうか。私は次の『イミテイション・ゴールド』路線の『プレイバックPart23)のほうが山口百恵に合っていると思う。

1)「夢先案内人」(昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)

2)「イミテイション・ゴールド」(昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)

3)「プレイバックPart2」(昭和53年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)

 

おもいで河(2015.5.20)

昭和53年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき

 「涙の国から吹く風は ひとつ覚えのサヨナラを繰り返す」と始まる歌。

 「飲んですべてを忘れらるものならば」と独りで飲んでみるが「飲めば飲むほどに想い出は深くなる」と救われない。このような飲み方はアル中の元だと解っていても飲まずにいられない。

 「河」をこのように使うことは,何か馴染のある使い方のような気がする。最も深層にあるのは『三途の川』か。『三途の川』や『ルビコン川』は渡るものだが,流れに沿って流される例のほうが多い気もする。ところが中島は「おもいで河へと身を投げて もう私はどこへも流れない」と斬新だ。理解できる言葉で新しい表現をする。これが中島の良いところだろう。平成のヒットメーカーの中には意味不明の新しい表現をする人々がいる。もちろん私は中島に軍配をあげるのだが,後に文豪と呼ばれた人の表現も明治時代には白い眼で見る人がいたのではないかと思ったりして,自分が時代に置き去りにされているようにも思う。

 もちろん,中島みゆきが遅れているという意味ではない。

 

思い出は美しすぎて(2017.6.19)

昭和53年,詞:八神純子,曲:八神純子,唄:八神純子

 「やさしく時は流れすぎて ひとりふりかえる」と始まる歌。

 「もう今は別々の夢 二人追いかける」で全てを言い尽くしている。

 ニュー・ミュージックなのだろう。メロディーには若干,リズムにはかなりの違和感を持つが,詞・歌唱共に従来の歌謡曲ファンの私にも十分聴かせる歌である。

 このような曲を継続的に聴いて行けば現代のJ-POPにもついて行けるようになったのだろうが,忙しさにまぎれて次第に歌を聴かなくなっていくうちに,歌の世界は様変わりしてしまった。

 

思えば遠くへ来たもんだ(2016.4.11)

昭和53年,詞:武田鉄矢,曲:山本康世,唄:武田鉄矢(海援隊)

 「踏切の側に咲く コスモスの花ゆらして」と始まる歌。

 タイトルの「思えば遠くへ来たもんだ」が何度も繰り返され印象に残る。

 詞での「遠く」は地理上の距離もだが,時間的距離も含まれている。私にはこの詞は人生も終盤にさしかかっての詠嘆のように聞こえるが,武田鉄也は当時まだ30前だ。今の私から見れば『若造が何を解ったようなことを言っている』といいたくもなるが,当時30才はいろんな意味で年齢の分岐点だった。三十路に突入ということは歳をとったと感じることだった。

 昭和53年の日本人の平均寿命は男73才弱,女78才強だった。明治・大正時代の40才台という平均寿命に比べれば長くなってきたとはいえ,昭和22年までは戦争の影響で平均寿命は短かったが昭和22年に初めて男の平均寿命が50才になり,昭和23年には男55才強,女59才強でそれから毎年少しずつ伸びてここまできたのだ。子供の頃から多くの人が60才前後で亡くなるのを見て,30才というのは人生の折り返し点と考えていたのかも知れない。

 いつの間にか,『最近の若い者は』という言葉を発する人間の年齢が低年齢化してきている。年寄りから見ればまだまだ若い者が『もう若くない』と言い,どう見ても年寄りなのに『まだまだ若い』と言う人もいる。

 まあ,いつになっても前向きに生きているときには過去を振り返ることはあまりないのだろう。なにかのきっかけで過去を振り返るといろんなことが思い出され,「思えば遠くへ来たもんだ」となるのかも知れない。

 

オリビアを聴きながら(2017.8.29)

昭和53年,詞:尾崎亜美,曲:尾崎亜美,唄:杏里

 「お気に入りの唄一人聴いてみるの」と始まる歌。

 夜更けに電話がかかってくる。当時の電話は番号通知機能などないので誰からの電話か解らないが,彼に違いないと思う。「愛は消えたのよ 二度とかけてこないで」という心境での歌だ。「私の幻を愛したの」と何度も繰り返されるが,彼が愛した幻を演じ続けるのに疲れたということなのだろうか。

 当時,オリビアと言えばオリビア・ニュートン=ジョンしか思い浮かばないのだが,彼女のどんな歌がなぐさめてくれたのだろうか。

 この曲は杏里のデビューシングルである。

 

女はそれを我慢できない(2022.9.15)

昭和53年,詞;加瀬邦彦,曲:加瀬邦彦,唄:アン・ルイス

 「春には春の恋がある そろそろ お前とお別れだ」と始まる。

 「ヤボだね おまえはいつまでも 私を追いかけついてくる」,「ぐずぐず言うなよ 男だろ」,「ベタベタするなよ」,「モタモタするなよ」,「このままいるとヤケドするよ」と,新しい男を見つけて恋をするから,おまえは早くどっか行ってしまえという歌。

 

勝手にシンドバッド(2015.11.10)

昭和53年,詞:桑田佳祐,曲:桑田佳祐,唄:サザンオールスターズ

 「ラララ・・・」と始まり,具体的な詞は「砂まじりの茅ヶ崎 人も波も消えて」と始まる。

 最も私の記憶に残っている箇所は「今何時 そうねだいたいね」のあたりだろうか。

 この頃までは,ヒット曲は最初違和感を覚えても,次第に馴染んでいった。いつまでたっても馴染まない曲はサザンの曲ぐらいからかもしれない。時代についていけないことを感じ始めた曲のひとつだ。

 

カナダからの手紙(2015.6.19)

昭和53年,詞:橋本淳,曲:平尾昌晃,唄:平尾昌晃&畑中葉子

 「ラブ・レター・フロム・カナダ」と始まる歌。

 「もしもあなたが 一緒に居たら どんなに楽しい 旅でしょう」とカナダを独りで旅していて,恋人のことを想っている歌だろう。「二人の恋が 真実ならば 離れていても 淋しくないと」言ってはいるが「涙がほほに こぼれてきます」ということらしい。そもそもこの独り旅は「あなたの愛を たしかめたくて わがままばかり」の結果なのではないかと感じるのだが,別れた後で初めて知る深い恋心という歌謡曲の定番だ。橋本はこの定番の状況に新しいテイストを付加している。

 平尾昌晃の唄は以前よく聴いたが,当時は作曲家に転身してしまったのかと思っていた。久しぶりに平尾の唄を聴いた。

 

カメレオン・アーミー(2015.12.29)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンクレディー

 「この私 射とめるのなら 油断は駄目よ」と始まる歌。

 ピンクレディーの歌はファンタジーであるところが特長のように思うのだが,この歌は少しリアリティがあってピンクレディーには合わないような気がする。

 アップテンポなこの曲とアーミーとは相性がいいとは思えない。ピンクレディーなら親衛隊は不自然ではないが,この曲でのアーミーは軍団としての統率もできておらず弱そうに感じ,アーミーと呼ぶと名が体を表していないように感じる。

 「ミルクでも飲んだらすぐにお帰りよ」という歌詞もピンクレディーには合わない気がする。

 一応,オリコン1位を獲得しているが,この後次第にピンクレディー人気は下を向く。この後,人気が下がったから米国へ行ったのか,米国へ行ったから人気が下がったのか解らないが,結局昭和56年にピンク・レディーは解散した。

 

かもめが翔んだ日(2014.12.21)

昭和53年,詞:伊藤アキラ,曲:渡辺真知子,唄:渡辺真知子

 「ハーバーライトが朝日にかわる」と始まる歌。第20回レコード大賞最優秀新人賞受賞曲。

 歌詞を批判的に読む私だが,疑問の詞は「季節はずれの港町」だけだ。季節がある港町とは漁港だろうか。もちろん歌詞の他の部分もいろいろ解釈できるがそれなりに主たる意味が明確だ。例えば「かもめ」と言えば主たる意味は港に飛んでいる鳥の種類を指しているのだろう。同時に『かもめの水兵さん』1)やソ連の女性宇宙飛行士2)なども連想するが,この歌には無関係だろう。『かもめのジョナサン』3)なども思いだすがここでのかもめはジョナサンではなさそうだ。『かもめはかもめ』4)では『あなたの望む素直な女になれない私』がカモメだが,この歌では私を残してひとりで飛び去るあなたがカモメだ。「あなたを今でも好きですなんて」こころが揺れながら「あなたはひとりで生きられるのね」と諦めの心境が歌われている。。

1)「カモメの水兵さん」(昭和12年,詞:武内俊子,曲:川村光陽)

2)ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ。昭和38年,世界初の女性宇宙飛行士。このときのコールサインがロシア語で「かもめ」という意味だったので,宇宙船ボストーク6号からの通信が訳されとき「私はカモメ」と訳された。

3)「かもめのジョナサン」(Jonathan Livingston Seagull: Richard Back,昭和45年)

4)「かもめはかもめ」(昭和53年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:研ナオコ)

 

かもめはかもめ(2016.6.3)

昭和53年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:研ナオコ

 「あきらめました あなたのことは」と始まる歌。

 「かもめは」「孔雀や鳩やまして女にはなれない」,「ひとりで空をゆくのがお似合い」と中島ワールドの歌だ。

 ところで,カモメだが,私のイメージは『いつも群れ飛ぶカモメさえ』1)と群舞だ。『カモメの水兵さん』2)でももちろん『並んだ水兵さん』と集団だ。『とんびがくるりと輪を描いた』3)なら一羽だけ飛んでいるイメージだが。

 『はぐれカモメ』という言葉はあったが,自分の意志で単独行動するカモメは『カモメのジョナサン』4)からだろう。少なくともテレシコワ5)のときには私は違和感を持った。

 研ナオコの唄だが,弱い女というか,マイナス思考の女の歌に聞こえる。中島は他人に提供した歌を自分でも唄っているが,この歌を中島が唄っているのを聞くと強い女というか,開き直った女の歌に聞こえる。藤圭子や北原ミレイには諦念を感じるが,中島みゆきからは内に秘めた不屈の闘志のようなものを感じる。

1)「涙の連絡船」(昭和40年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:都はるみ)

2)「かもめの水兵さん」(昭和12年,詞:武内俊子,曲:河村光陽)

3)「夕焼けとんび」(昭和33年,詞:矢野亮,曲:吉田矢健治,唄:三橋美智也)

4)「カモメのジョナサン」:リチャード・バック(昭和45)。日本では昭和49年の五木寛之訳がベストセラーになる。

5)ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ:世界初の女性宇宙飛行士(ソ連)。昭和38年,ボストーク6号で地球を48周した。そのときのコールサインが「チャイカ」(かもめ)で,宇宙からの第一声が「ヤ−・チャイカ」(こちらカモメ)だった。これが「私はカモメ」と訳され流行語になった。

 

ガンダーラ(2012.12.8)

昭和53年,詞:山上路夫/奈良橋陽子,曲:タケカワユキヒデ,唄:ゴダイゴ

 「そこに行けばどんな夢もかなうというよ」と始まる歌。「その国の名はガンダーラ」というらしい。「They say it was in India」と英語の歌詞も入る。日本テレビ系で放映された『西遊記』のエンディング・テーマである。この西遊記では三蔵法師を夏目雅子が演じている。三蔵法師を女性が演じるのは夏目が最初ではないようだが,この後の西遊記では宮沢りえ(日本テレビ)や深津絵里(フジテレビ)などのように女性が演じることが多くなっている。

 この歌には夢と希望があり,このドラマで流される音楽として良い歌である。私は孫悟空が卵から生まれるMonkey Magic1)より好きだ。

 西遊記は天竺に向かう物語である。天竺は一応インドということになっているが,唐土以外の大国は天竺しか知られていなかった時代の話であるから古代のガンダーラ王国が現在のアフガニスタンからパキスタンにかけての地域にあって,現代のインドに無いということは全く問題にはならない。

 なお,玄奘三蔵が到達し,学んだナーランダ大学は現在のインドにある。

1)   Monkey Magic」(昭和53年,詞:奈良橋陽子,曲:タケカワユキヒデ,唄:ゴダイゴ) ドラマのオープニングで使われた。歌詞は英語である。

 

季節の中で(2013.12.16)

昭和53年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春

「うつむきかけた あなたの前を」と始まる歌。

「めぐるめぐる季節の中であなたは何をみつけるだろう」が繰り返されるが,カラオケで他人が唄っているのをみていると,いかにも気持ちよさそうに唄っている。残念ながら私には,一番気持ちよさそうに見える「めぐる」などのところは声がでなくて苦しいので自分で唄うことはない。

私は特に松山千春が好きなわけではないが,気持ちよくカラオケで唄う人々を幸せにするという意味では,優れたミュージシャンなのだろう。この判定基準を使えば,オタ芸に陶酔するファンにそのような機会を提供するアイドルも優れたエンタテイナーと言えるかもしれない。

しかし,松山千春の曲には長いものもあり,カラオケで下手な歌唱を聞かされるのはつらい時もある。もちろん,私は,上手下手に関係なく,カラオケでは唄う人のほうが好きだ。特にノリのよい曲は,上手下手に関係なく,好きだ。カラオケで上手すぎるのを聴くと唄おうという意欲が一瞬萎えそうになるが,予約済みの曲の前奏が流れてきて唄いだすと前のことは忘れて自己満足の世界だ。なかなか聴いている?人のことを考えて選曲はできない。

 

気分しだいで責めないで(2019.9.2)

昭和53年,詞:桑田佳祐,曲:桑田佳祐,唄:サザンオールスターズ

 「気分しだいで責めないで 涙が出ちゃう」と始まる歌。

 Kuwata サウンドといってよいだろう。一度聴いただけでは何を言っているのか聞き取れないが,何度も聴きたいとも思わない。

 私が中学生の頃,桑田は小学校入学の頃だろう。子供の頃のこの年の差は大きいが,この歌の頃は二人ともそれなりに成長しているのでそれほど大きな年齢の差はないともいえるが,世代がちがうともいえるほどの差はある。昔は一世代25年ほどだっただろうが,戦後は社会の変革が激しくなったので,10年の差があると明確な世代の差を感じるだろう。

 桑田と私は感性が異なるのかもしれない。

 

君のひとみは10000ボルト(2012.4.16)

昭和53年,詞:谷村新司,曲:堀内孝雄,唄:堀内孝雄

「鳶色のひとみに誘惑のかげり」で始まる化粧品メーカーのキャンペーンソング。

このCMのルーシー島田を観ていると,眼に特徴があり,君の瞳は10000Vといわれると,そんな風に感じるのかと感心する。私の10000Vのイメージは大分違うのだが,これは10000Vという電圧に対し,私とこのコピーを作ったコピーライターとが異なる感性をもっているからだろう。何かで「君の瞳にシビれる」という意味だというような解説を読んだような気がするが,実際の10000Vはしびれるというようなものではない(と思う)。

100V程度ではしびれるという感覚だったが,誤って400V位の線に指先が接触した時には,肩をバットで殴られたような衝撃だった。100V未満でも死亡する場合もあるので,試しに触ってみようなどという気を起こしてはならない。感電に関しては,電源の電圧だけで危険性が決まるわけではないので,注意が必要である。50V未満であれば大抵の場合は大事には至らない。

「君のひとみは10000ボルト地上に降りた最後の天使」という歌詞が繰り返される。

 

化粧(2011.11.27)

昭和53年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき

 「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど,せめて今夜だけでもきれいになりたい」。

 桜田淳子も唄っていたが桜田淳子には他の唄のほうが似合う。

 しかし,中島みゆきはどうしてこんなに暗いのだろう。デビュー曲の「アザミ嬢のララバイ」ではそれほどでもない。ラジオでの会話を聴いても無理して明るく振舞っている風でもなかった。そういえば藤圭子も最初の何曲かは暗かったが次第に暗さが消えてきた。暗さは売るための戦略だったのだろうか。

 考えてみれば,暗い一方あるいは明るい一方の人間はいないだろう。人はだれも両面を持っているのだろう。状況によりどちらかが前面にでてくるのだろう。

 しかし,化粧でいくらきれいになっても「こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと」彼は思ってくれないだろう。見てくれは関係ない。「先輩,ショートヘア好きだったんだ」なんて思って努力してショートにしても振り向いてもらえるとは限らない。たぶん,皆,そんなことは薄々感づいている。でもやってみずに居られない。人はそうして成長するのだろう。

 好きになったら心のファイルに保存する。そんなとき,女は「上書き保存」し,男は「名前をつけて保存」するということを誰かが言っていた。ファイル内容をチラ見して,「色が白くて小さくて前髪たらした・・・」1)とか書かれていても次のファイルに何が書かれるのかは判らない。

1)平尾昌晃:みよちゃん

 

この空を飛べたら(2011.11.19)

昭和53年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき

 「空を飛ぼうなんて悲しい話を」という歌。加藤登紀子より中島みゆきの唄のほうが印象深い。他の時期は良く知らないがこの時期の中島みゆきは暗い。藤圭子の暗さの中には諦めと開き直りがあるように感じるが中島みゆきはどこまでも深く奈落の底に落ち込んでいく感じだ。

 私は子供の頃,空を飛ぶ夢をよく見た。飛ぶと言っても鳥のように飛ぶわけではないし,スーパーマンのようにも飛べない。単に空中に浮遊するのだ。息を一杯に吸い込むと,プールで体が浮くように空気中に浮かび上がる夢だ。空中でバタ足などをやってもその程度では全く進まない。唯一できるのはある程度上昇した後息を吐いて落下することだ。ある程度スピードがでると掌の角度などで舵が取れるようになる。何度も似た夢を見たが,ほとんどいつもただ空を見ながら浮かんでいるだけだった。夢の中でも気を抜くとどんどん高度が下がってくる夢だった。

 

サウスポー(2011.12.28)

昭和53年,作詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンク・レディー

 「背番号1のすごい奴が相手」と,王貞治をイメージした曲。王・長島はアンチ巨人も含めて野球ファンにとっては大スターだった。「王,金田,広岡」とか,阪神の投手が巨人と対戦するときに飲む薬は?「王退散」などと王の名はいろんなところに登場する。

 歌謡曲デュエットはザ・ピーナッツに始まりピンク・レディーに終わると言っても良いだろう。踊る歌手はピンク・レディーに始まるといっても良いかもしれない。山本リンダなんかのほうが激しい動きだったのかもしれないが,振り付けを真似ようというのはやはりピンク・レディーだろう。その後はSPEEDなど次第に人数を増やし,モーニング娘とかAKB48などにつながっているように思う。

 

性(サガ)(2019.10.9)

昭和53年,詞:世良公則,曲:世良公則,唄:世良公則&ツイスト

 「Wow oh Wow oh Wow oh  耐え切れず落とした涙」と始まる歌。

 この声でよく音程が外れないなと驚くが,ノイズの多い声だから外

れていても解らないのかもしれない。印象としてはフラストレーションの塊の若者の歌だ。詞も繰り返しが多く,内在するストレスをうまく言葉にできていないように感じる。ストレスの多い老人も少なくないが,老人にはこのパワーは出せないだろう。

 若い頃は訳もなく(あるはずだが,明確に自覚できず)このような歌を唄いたくなることもあったが,技術を伴わない私などが唄うと本当に雑音の塊になってしまうだろう。私が若い頃はカラオケなどなかったので良かった。それでもアカペラで唄って周囲に迷惑をかけていたが。

 

サムライ(2019.4.26)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:大野克夫、唄:沢田研二

 「片手にピストル 心に花束 唇に火の酒 背中に人生を」と始まる歌。

 「お前とくらすのが しあわせだろうな だけどジェニー」「それが男には 出来ないのだよ」と別れて行く歌だが,どのような状況での歌か不明だ。ピストルというのは文字道理の短銃のことなのかそれとも何かの象徴なのだろうか。

 阿久も,私が理解できない詞を書くことがあるようだ。

 大野の曲は沢田用と書かれた抽斗のなかから出してきたような曲に感じる。

 

さよならだけは言わないで(2016.2.6)

昭和53年,詞:五輪真弓,曲:五輪真弓,唄:五輪真弓

 「別れ雨がわたしの心を濡らす」と始まる歌。

 「明日からはひとり歩く私の前に うしろすがたのあなたがみえるだけ」と別れの歌だ。

 五輪真弓は歌が上手いのに,私の印象では上手さに見合う人気を得ていないように感じる。荒井由実のように,いかにもニューミュージックという歌唱でなく,私の古い歌謡曲的センスで歌が上手いと感じるような歌唱だからだろうか。その後の人気アイドルなどをみながら,五輪と荒井を比較してみると,大きな違いは華やかさかもしれない。中島みゆきの歌にはユーミンのような派手さはないが,一種の諦めと開き直りのような特有の強さがある。五輪は優しすぎるのだろう。

 

サラダの国から来た娘(2016.7.12)

昭和53年,詞:イルカ,曲:イルカ,唄:イルカ

 「季節の変わり目さえ気づかない程 ぼんやりしているあなた」と始まる歌。

 「私 あなたの所へお嫁に来ました」とあるのだが「私 こわくない ここで待ってる あなたが心を開けてくれるまで」と聞くとどういうことかと疑問が湧く。花嫁募集に応じて,相手のことをよく知らぬまま,外国からやってきた娘の歌なのだろうか。

 曲もいまひとつ盛り上がりに欠ける。詞と曲から受ける感じはかすかな戸惑いと誠実さだ。

 新婚の専業主婦の歌かもしれない。あれこれと夢を描いて嫁いできたが,現実とのギャップに外国に来たようだと感じているのかもしれない。女心の歌らしいので私にはよく解らない。

 

シンデレラ・ハネムーン(2018.7.2)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:筒美京平,唄:岩崎宏美

 「いつでも二人は シンデレラ・ハネムーン」と始まる歌。

 シンデレラの魔法は真夜中に解けるということなのだろうが,よくは理解できない

「私はひとり爪など切りながら」と魔法が解ける前に自宅に戻っているようなのだが,どうも夜中に爪を切っているようだ。郷ひろみでさえ知っている1)のに阿久悠が夜爪に関する俗信を知らないはずがないので,意図的に夜爪を切らせているようだが,その意図が理解できない。曲も岩崎の歌唱力を生かし切れていないように感じてしまう。

1)「帰郷」(昭和52年,詞:阿木耀子,曲:宇崎竜童,唄:郷ひろみ)

 

時間よ止まれ(2015.7.18)

昭和53年,詞:山川啓介,曲:矢沢永吉,唄:矢沢永吉

 「罪なやつさ Ah Pacific 碧く燃える海」と始まる歌。

 「冷えたジンより」という歌詞があるが,そういえば一時ジンライムをよく飲んだ。ストレートやロックでは飲んだことがない。この歌の当時は主に熱燗の清酒を飲んでいた。また,焼酎も飲み始めていた。

 今は知らないが,当時,焼酎には甲類と乙類があった。甲類はアルコールを水で薄めたもので,乙類は蒸留酒である。原料はどちらも芋などを発酵させたものらしいので,違いは製造工程の違いということになる。甲類に関しては,終戦直後,工業用アルコールを水で薄めたものが闇市で流通し,これにはメチルアルコールが含まれていたので中毒患者が続出し,『バクダン』と呼ばれていた。その後,甲類焼酎の製造元はバクダンのイメージを払拭するため,ホワイトリカーと呼ぶようになった。もちろん,現在のホワイトリカーにはメチルは入っていない。税法上乙類に分類された焼酎は甲乙では乙のほうが劣っているイメージがあるのを嫌って,本格焼酎と自称するようになる。

 乙類焼酎は地元では飲まれていたが,全国に流通する量は少なかった。甲類焼酎は全国に流通していたので,一般には焼酎と言えば甲類だった。しかしこのころ(実際にはもう少し前)から乙類焼酎の全国に流通する量が増えてきて,清酒に比べて悪酔いしないと人気がでてきていた。

 「幻でかまわない 時間よ止まれ」と感じた記憶はない。どんなときにそう思うのだろう。「生命の めまいの中で」とはどういう状況なのだろう。

 

ジョイ(2021.1.7)

昭和53年,詞:松本隆,曲:原田真二,唄:原田真二

 「ねっスカートが ねっ短かすぎるよ」と始まる。

 「朝まではしゃぎあきたら SlowDance踊ろう」とお気楽だが,当時の私は超多忙でとてもこのような気分ではなかった。従ってこのような歌を聴くことはなかった。

 

ジョニーの子守唄(2014.1.21)

昭和53年,詞:谷村新司,曲:堀内孝雄,唄:アリス

 「束の間の淋しさ うずめるために」と始まる歌。

 「飛び散る汗と煙の中にあの頃の俺がいた」と印象的なメロディーに乗せ,過去を懐かしんでいるが,当時のアリスはまだ過去を振り返るような年齢ではないはずだが,『もう若くないさと君に言い訳したね』1)と同じ感覚だろうか。理想に燃えた学生時代を卒業して社会人になってしまい,堕落してしまったと感じる思い,あるいは夢に向かって我武者羅に突き進んでいたが,ついに夢破れて平凡な人生を選択してしまったという自嘲気味な僅かな後悔。昔聞いたジョニーの歌を,今では聴かなくなっていたのに,たまたま入った喫茶店で偶然聞いた。自分は日和ってしまったのに,ジョニーはまだ頑張ってるのか。

 そういえばこの次の『チャンピオン』2)も挫折者の歌と解釈することも出来そうだ。どちらも敗者に優しい歌と言えよう。荒井由実には開き直りも少し感じられるが谷村新司は自分のことではなく,敗者に寄り添う立場の詞になっている。そういえば中島みゆきの『おまえの家』3)では完全な第三者の立場のようだ。というよりかける言葉も見つからないということのようだ。

 このような感情は昔からあっただろうと思うが,歌になるのはニューミュージックの誕生以降のようだ。

1)      「『いちご白書』をもう一度」(昭和50年,詞:荒井由実,曲:荒井由実,唄:バンバン)

2)      「チャンピオン」(昭和53年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:アリス)

3)      「おまえの家」(昭和53年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき,アルバム「愛していると云ってくれ」収)

 

青春(2017.2.16)

昭和53年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春

 「人は皆 だれでも 愛を信じて ささやかな人生を あるきつづける」と始まる歌。

 曲は好みだし,歌声も好みだし,詞も部分的には好みなのだが,詞には決定的に受け入れられない箇所がある。それは「人は皆」と根拠も示さずに上から目線で始めるところだ。詞が,『自分は 愛を信じて ささやかな人生を あるきつづける』なら完全に共感できただろうに。

 「君とともに生きる」のはいい。しかし,それは個人的な想いだろうと言いたい。個人的なことをもとに,「人は皆 だれも」と自分が人類の代表であるかのように思い上がっている感じを受け,ここで拒否反応がでてしまう。

 天才と○○は紙一重だとか。好き嫌いも紙一重なのだろう。関心があるからこそ好き嫌いが生まれ,関心のないものは好きも嫌いいもない。

 『人は誰もただひとり 旅に出て』1)とか『人は皆一人では生きていけないものだから』2)などというのにはそれほどまでの拒否反応は起きないのだが,何が違うのか自分にもよく解らない。無意識のうちに私自身の思いが反映されているかもしれない。

1)「風」(昭和44年,詞:北山修,曲:端田宣彦,唄:はしだのりひことシューベルツ)

2)「ふれあい」(昭和49年,詞:山川啓介,曲:いずみたく,唄:中村雅俊)

 

絶体絶命(2015.2.2)

昭和53年,詞:阿木耀子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵

 「別れて欲しいの彼と そんな事は出来ないわ」と始まる歌。

 三人で話し合い。「さあ さあ さあ さあ はっきりカタをつけてよ はっきりカタをつけてよ はっきりカタをつけてよ」と凄むが,最後は「やってられないわ その人の涙の深さに負けたの」と身を引く。

 このような詞を山口に唄わせるのかと,私と阿木の感性の違いに驚く。山口はこの阿木の詞をそれらしく唄ってはいるのだが。

 

外は白い雪の夜(2017.5.1)

昭和53年,詞:松本隆,曲:吉田拓郎,唄:吉田拓郎

 「大事な話が君にあるんだ 本など読まずに今聞いてくれ」と始まる歌。

 「傷つけあって生きるより なぐさめあって別れよう」という歌だ。

 詞も曲も,私がイメージする歌と思うものとは違う。ニューミュージックというのだろうか。

 

タイム・トラベル(2016.8.16)

昭和53年,詞:松本隆,曲:原田真二,唄:原田真二

 「街の外れの古い館が君の家」と始まる歌。

 詞はファンタジーで,松本の詞の中では嫌いじゃないタイプの詞だが曲は私の好みではない。もっとファンタジックな曲にすればいいのにと思うが,天才と呼ばれるような原田の感覚は凡人の私には理解できない。原田は当時の日本のロック御三家1)の一人だそうだが,この曲もロックなのだろうか。この曲がロックだとすると,私にはロックとは何かが解らなくなる。元々私には解っていないのだろう。

1)Char,世良公則&ツイスト,原田真二

 

タイム・トラベル(2019.3.30)

昭和53年,詞:松本隆,曲:原田真二,唄:原田真二

 「街の外れの古い館が君の家」と始まる歌。

 大人のファンタジーか。

 タイム・トラベルといいながら,空間も旅行しているようだが,その程度のことはまあいい。

 「いーかが いかがなもの?」の「いかがなもの」意味が解らないが,夢の中なら言葉もおかしくなるのだろう。しかし,最初からファンタジーだと思って聴いているので意味不明の言葉などがあっても気にならない。

 曲は単調に聞こえる。盆踊りの曲など,単調な曲も嫌いではないのだが,それは一心不乱に踊っているときの話だ。

 

たそがれマイ・ラブ(2016.3.2)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:筒美京平,唄:大橋純子

 「今は夏 そばにあなたの匂い」と始まる歌。

 大橋純子は歌唱力ありと感じる唄い方だが,詞・曲共に私の馴染んだ昭和の歌謡曲とはかなり違う。ジャズの一種のように聞こえるのだが,私はジャズを全く知らないので分類のしようもない。ユーミンのようなニューミュージックとも異なり,私が全く知らないJ-POPの先駆けなのだろうか。阿久悠と筒美京平ならもっと分かっても良いと思うのだが,全くわからない。それでも第20回日本レコード大賞金賞を受賞しているのだ。

後に坂本冬実もカバーしているようなので,彼女も高評価しているのだろう。ついて行けないのは私だけのようだ。

 

ダーリング(2015.8.14)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二

 「ここへすわってくれ 足を組んでくれ」と始まる歌。

 「ダーリング ダーリング ダーリング」と何度も繰り返される。「ぼくにはもうあなたしかない」という言葉も何度も繰り返される。繰り返しの多い歌詞だ。その分,耳に残る。

 まあ,沢田研二らしい歌だと言えるだろう。私にとってタイガースより後の沢田研二はこの曲や『勝手にしやがれ』1)などのイメージだ。

1)「勝手にしやがれ」(昭和52年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二)

 

チャンピオン(2011.10.8)

昭和53年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:アリス

 どこかを切り取ってみたいと思うが,一部だけでは「チャンピオン」を想起させることは困難だ。しいてあげれば「You’re king of kings」という台詞?の部分か。昔の歌番組では1番と3番だけを唄って,2番を飛ばすことが多かった。しかし,この歌はストーリーが連続していて一部だけ切り出せない。「おお神よ,彼を救いたまえ」と切り出しても何のことかわからない。「帰れるんだ,これでただの男に」というのもここだけ切り離すと意味がない。8ビート(私のリズム感が悪いのと,音楽用語を知らないので間違っているかもしれないが)の強烈なリズムに乗った緊迫した歌声。こういう曲も血が騒ぐ。

 少し後だが,ある場所で飲んでいたときのことである。当時カラオケがどの程度ポピュラーだったよく覚えていないが,そこはフルバンドの生演奏をバックに歌える店だった。そこでこの「チャンピオン」を歌った客がいたのだが,とても上手くて,少し高いがあそこは歌えるとわざわざその店に行ったのに,その客があまりにも上手いので歌う意欲を失ってしまった。他の客の話では,大須演芸場にでている吉本の若手だという話だった。私は全く知らない顔だったが,「あんなに歌が上手いのに全く売れていない」どの世界も厳しいものだと思った。

 

東京ららばい(2017.3.14)

昭和53年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:中原理恵

 「午前三時の東京湾(ベイ)は 港の店のライトで揺れる」と始まる歌。

 中原理恵のデビューシングル。

孤独を感じさせる詞だが,共感しないし同情もしない。私とは住む世界が違うと感じる歌。松本の詞には理解できるものと理解できないものがある。これは私には理解できない方の詞だ。

 

闘牛士(2017.7.13)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:Char,唄:Char

 「薔薇を投げるなら 明日にしてくれ」と始まる歌。

 「老いた闘牛士」とか「負けたみじめさに」などという言葉は老いて去りゆく闘士を思わせるが,それだと『チャンピオン』1)のシチュエーションと似ている。同じ状況だとすれば,私なら緊迫感のあるリズムと重いメロディーを理由に『チャンピオン』に軍配を上げるが,どうも「闘牛士」の主人公は自分を闘牛士になぞらえているだけで実際には闘牛士ではないようだ。それに年齢も若いように感じられる。なによりも曲に闘いを重ねてきた重厚さがない。若者の曲だ。共感したり同情したりするのではなく,しっかりしろと叱咤したくなる。『チャンピオン』とは状況が異なるのだ。

1)「チャンピオン」(昭和53年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:アリス)

 

透明人間(2014.3.6)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンクレディー

 「まさかと思っているのでしょうが」と始まるカミングアウトの歌。

 世の中の多くの超常現象が透明人間の仕業という。阿久が透明人間の存在を信じていたかどうかは不明だが,私は信じていない。透明マント1)のようなものは技術的に可能だろう。この歌はエンターテイメントの歌である。「透明人間あらわるあらわる」とか「あらわれないのが透明人間です」というのはこの歌詞がお遊びだということを表している。ピンクレディーが唄っているのも歌手を適正に選んでおり,良い。この歌を唄わせるのに不適切な歌手はかなり多いように思う。

 この歌は聴くときの気分により,その評価も大きく変わるだろう。時を選べば,面白い歌だと感じることができる。

1) 被ると他からは見えなくなるマント。ハリーボッターが父からダンブルドアを介して受け継いだマントなど。ドラえもんも同様なマントを持っている。

 

時には娼婦のように(2015.3.11)

昭和53年,詞:なかにし礼,曲:なかにし礼,唄:黒沢年男

 「時には娼婦のように 淫らな女になりな」と始まる歌。

 歌詞のせいで民放連盟では『時間帯・視聴対象により要配慮』となったそうだがテレビで何度も観たような気がする。

 なかにし礼の詞で私が知っているもの1)とこの歌はかなり印象が異なり意外な詞だ。彼でも「バカバカしい人生よりバカバカしいひとときがうれしい」などと考えることがあるのだろうか。

1)      「エメラルドの伝説」(昭和42年,詞:なかにし礼,曲:村井邦彦,唄:ザ・テンプターズ),「天使の誘惑」(昭和43年,詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦,唄:黛ジュン),「夕月(昭和43年,詞:なかにし礼,曲:三木たかし,唄:黛ジュン),「人形の家」(昭和44年,詞:なかにし礼,曲:川口真,唄:弘田三枝子),「あなたならどうする」(昭和45年,詞:なかにし礼,曲:筒美京平,唄:いしだあゆみ),「石狩挽歌」(昭和50年,詞:なかにし礼,曲:浜圭介,唄:北原ミレイ)など。

 

飛んでイスタンブール(2013.4.4)

昭和53年,詞:ちあき哲也,曲:筒美京平,唄:庄野真代

 「いつか忘れていった こんなジタンの空箱」と始まる歌。

 「ジタン」はフランスを代表する?煙草。ルパン三世1)はこれを吸っていた。

 さて,この歌だが,失恋傷心旅行なのだろうか,あるいはイスタンブールでの失恋だろうか。外国だからポップスなのか,ポップスなので外国なのかは不明だが,演歌にはなっていない。庄野真代だからだろうか。

いつまでもウジウジせずに「すぐに痛みもぼやけて」いくようだが,一応は詞ができるほどの痛みはあったということであろう。中島みゆきなどとは対極にある。この頃,海外旅行は新婚旅行などでポピュラーになりつつあったが,場所はハワイやグアムなどが多かったように思う。トルコなどは珍しかっただろう。

詞で特徴的なのは,「おいでイスタンブール」「うらまないのがルール」「飛んでイスタンブール」「光る砂漠でロール」「ひとの気持ちはシュール」「好きよイスタンブール」「どうせフェアリー・テール」と脚韻を踏んでいることだ。私はもともと自由詩より定型詩のほうが好きで,だからだと思うが小節を無視した歌詞で好きなものは少ない。韻を踏むというのは制約が更に増えることであり,私の耳には心地よい。私の頭が単純だからだろうか,単純なもの,同じものの繰返しなどを好むようだ。和太鼓の演奏などを聴くと魂が揺さぶられるようだ。

庄野真代の唄い方は歌詞がはっきりと聞き取れ,嫌いではない。

 

ドール(2017.5.24)

昭和53年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:太田裕美

 「プイと横向いて出て行ったきり あなたは夜明けまで帰らなかった」と始まる歌。

 筒美にしてはハイカラな曲にしたなと驚く曲。

 詞は「横浜生まれのセルロイド」とあるから『アメリカ生まれのセルロイド』1)の影響を受けているのだろう。しかし,大正時代ならセルロイドの人形だったかもしれないが,この年にセルロイドの人形があったとは思えない。昭和30年,米国でセルロイド玩具が禁止されてから国内でもセルロイド人形は急速に姿を消した。「横浜生まれのセルロイド」ということは昭和30年代前半生まれということだろうか。「葉っぱのお皿 木の実のお椀 ままごと遊び」からすると主人公はもっと年齢を重ねているのかもしれない。

詞の雰囲気も曲も太田に合った若い女性のイメージなのに,その素性がかなり年配の女性に感じられて違和感満載だ。「銀のハモニカ」というのも『銀色の』という意味だろうとは思いつつ違和感を持つ。確かに私が子供の頃はほぼ無色の光沢がある金属を『銀』と呼んでいた。『銀紙に包まれたチョコレート』という感じだ。『銀のスプーン』なら素材が銀である場合も多い。もちろん合金やメッキであっても『銀』と呼ぶ。しかし「銀のハモニカ」は聞いたことがない。ほとんどのハモニカは大部分が銀色であり,「銀の」などという形容詞をつけると本当に『銀』なのかと思い違和感を持つのだ

ということで,違和感のある歌。

1)「青い眼の人形」(大正10年,詞:野口雨情,曲:本居長世)

 

夏のお嬢さん(2014.4.21)

昭和53年,詞:笠間ジュン,曲:佐々木勉,唄:榊原郁恵

 「チュウチュウチュチュ 夏のお嬢さん ビキニがとっても似合うよ」と始まる唄。

 「アイスクリーム ユースクリーム」などと英語?が入っているのは好みではないが,単なる駄洒落だと思えば微笑ましい。オヤジの駄洒落よりはスマートだ。往年の弘田三枝子を思い出させるような榊原の元気のよさに,この歌は合っていると感じる。

 当時の私は今の私より若かったが,それでも,もうこの歌を歌えるほど若くないと思うようになっていた。当時のカラオケは8トラックカセットだったように思う。映像はなかった。唄うことが目的ではなく,酒席の余興という扱いだったように思う。

 

涙の誓い(2015.4.18)

昭和53年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:アリス

 「Oh I love you forever, Oh I love you forever 汽笛がむなしく響く」と始まる歌。

 「もう二度と消えない手首の傷あと」,「すべては すべては終わる」などとハッピーな状況じゃあないことは明らかだが,4ビートの軽快な曲に載せて唄われている。軽快ではあるが音程が抑え気味で,興奮はしているのだが,自分の心臓の拍動を感じるほど冷静でいるようだ。

 詞にはあまり共感できないが,曲は私の血が騒ぐ種類の一つだ。

 

八十八夜(2016.9.16)

昭和53年,詞:天野滋,曲:天野滋,唄:N.S.P

 「ひきだしの中からあの人の写真 みんな棄ててしまったはずなのに」と始まる歌。

 明日嫁ぐというのに「あの人を忘れられない」女性の歌。多くの女性が嫁ぐ前にこのような感慨を抱くのかどうか,私には女心は解らない。男の方から別れたなら,別れた女に電話することはないのではないかと思うのだが。

 もっと昔なら,親の意向で止むを得ず・・・ということでメロドラマの主題になったかも知れないが,この時代ならそのようなことはないだろう。

それにしても,元カノの婚礼の前の晩に電話を掛ける男というのはどういう気持ちなのだろうか。祝福の電話なのだろうか,あるいは偶然なのだろうか。彼女にはこうあって欲しいという振られ男の願望の歌だと考えるのは邪推が過ぎるだろうか。

 

春の予感〜I’ve been mellow(2017.7.29)

昭和53年,詞:尾崎亜美,曲:尾崎亜美,唄:尾崎亜美

「ひにくなジョーク追いかけるのは もうおしまいにしましょう」と始まる歌。「春に誘われたわけじゃない」が記憶に残る。

南沙織がほんの少し前にこの歌を出しているので南に提供するために書いた曲だろうか。歌謡曲っぽい仕上がりになっている。

 

バイブレーション(胸から胸へ)(2017.9.13)

昭和53年,詞:島武実,曲:都倉俊一,唄:郷ひろみ

 「ピリピリして昼下がりは素肌に痛い」と始まる歌。

 都倉の曲とはいえ,私にはついて行けない曲だ。詞も理解できないので記憶に残らない。

 要するに私とは意思疎通が困難な世代の唄だ。

 

銃爪(ひきがね)(2019.5.22)

昭和53年,詞:世良公則,曲:世良公則,唄:世良公則&ツイスト

 「あいそづかしの言葉が ダメなあんたに似合いサと いつも オマエは笑うのさ」と始まる歌。

 「Tonight Tonight Tonight Tonight 今夜こそ オマエを おとしてみせる」と終わるのでそういう歌なのだろう。ただ,聴いているだけでは全体の状況はよく解らない。頑張って唄っているのは解るが,他人に聴かせるためというより,自己満足で唄っているように私には聞こえる。

 ストレスが溜まっているとき,カラオケで自己満足の為に唄うにはいいかもしれないなどと思ってしまう。但し,自己満足とは言っても聴衆がいないと淋しいし,世良より上手く唄えるとも思えないので,傍迷惑な曲とも言えるだろう。

 

人妻(2019.6.18)

昭和53年,詞:一ツ橋雪,曲:保田幸司郎,唄:金田たつえ

 「しあわせあげると言われた人に すがれぬ運命の それは人妻」と始まる歌。

 「あゝ私は悪い女です すべてをすてて行けない女です」というのは家庭を壊さないという意味なのだろうか。「あゝ私は罪な女です あなたのために死ねない女です」に関しては罪の意識はそっちかいとツッ込みたくなる。「あゝ私はずるいおんなです おぼれても泣いても所詮は人の妻」と「ずるい」ことを自覚していること評価すべきかどうかは解らない。もちろん「ずるい」ことをしてはいけないというのは日本人の社会通念だ。しかし,いけないと解っていても止められないのが人間かもしれない。

 そんな甘いことを言ってはいけない。してはいけないことはしない。それが人の道だ。

 凡人は煩悩に悩まされる。

 

火の国へ(2015.9.6)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:石川さゆり

 「あなたなしでも生きられる そんな女になりたいと」と始まる歌。

 「雨の降る日はしのび逢い」「三年三月は重すぎて」「とても背負って行けません」ということで「肥後の火の山阿蘇の山」「すべて燃やしてしまいます」と「東京駅から」未練を断ち切る旅にでる女の歌。「そして夜汽車はそして夜汽車は火の国へ」を繰り返して終わる。

 高音が美しい女性歌手は多数いるが,それぞれ美しさが異なる。澄んだ声で天井知らずに突き抜ける高音も素適だが,石川の高音はこれとは違う。天井についているように聞こえる。やっと天井についたという感じではなく,余裕をもって天井について,天井を遊び回っている感じだ。

 阿久と三木のコンビによる歌は『津軽海峡・冬景色』1)の大ヒットに続いて『能登半島』2),『暖流』3)へと南へ向かい,ついに九州に来たということだろう。

1)「津軽海峡・冬景色」(昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:石川さゆり)

2)「能登半島」(昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:石川さゆり)

3)「暖流」(昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:石川さゆり)。「南国土佐の昼下がり」の歌。

 

ブーツをぬいで朝食を(2023.11.26)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:西城秀樹

 「帰らなきゃいけないと それがあなたの口ぐせ」と始まる。

 「髪をなぜて」「ルージュなおす」など帰り支度をして「今度こそさよならと 握手求めてる」。要するに帰らなくちゃと言いながらなかなか帰らない状況だ。今度こそさよならというのも勿論今日の所はこれでという意味だ。

 それに対して「愛するためにだまし合うなどよそう」と言っているのは駆け引きはやめようということだ。

 「夜明けまで踊るのも 悪い事ではないけれど」「ブーツをぬいで二人だけの朝食」という歌だが,このような駆け引きとは無縁の生活をしていた私としては勝手にしろといいたくなる歌。

 

ブルースカイブルー(2019.3.2)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:馬飼野康二,唄:西城秀樹

 「あのひとの指にからんでいた ゴールドの指輪をひきぬき」と始まる歌。

 私の印象では曲の失敗。悪くない曲だと思うが今の場合には合わないと感じる。「あのひとも遠く連れ去られ 愛が消えたあの日」と「悲しみの旅立ち」ということでこのような淋しい曲にしたのかも知れないが,ヒデキにこの詞を歌わせるなら,もっと若く荒々しい曲のほうがよいのではないか。

 

プレイバックPart2 (2012.1.28)

昭和53年,詞:阿木耀子,曲:宇崎竜堂,唄:山口百恵

 「緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ」という詞なのだがNHKでは「真っ赤な車」と唄っていたとか。芸能関係者は個人的には全く知らないのでそれぞれの人がどのような人か知る由もないが,イメージとしてはこの曲は未成年の山口百恵より阿木耀子のイメージに合う。阿木耀子なら宇崎竜堂に「坊や」と呼びかけてもおかしくないような。ポルシェで「力一杯アクセル踏む」なんてことは想像できない。が,山口百恵はそこを力一杯背伸びしてやや太目の声で見事に唄っている。そこが良いのかもしれない。

 

(2021.9.2)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:馬飼野康二,唄:西城秀樹

 「あなたのからだはあまりにつめたい」と始まる。

 「あなたに出会った 不幸を思えば この先 悲しむことなどないさ」と自分が置かれている状況は理解しているようだが「あなたをいつか この手で抱きしめ この日を待ったといわせてみせる」と叶わぬ夢を描いているようだ。「一生一度なら ピエロも主役さ」と言ってはいるが,一生一度も短期なればこそ,この一度が一生続いたら一生ピエロで終わることになることに気づいているのだろうか。

 「恋とは戦いとしらされたからは 炎で氷を溶かしてみせる」を意気だけは上がっている。などと悲観的に書いてしまった。阿久の詞からの印象だが,ヒデキの熱量ならこの戦いに勝つかもしれない。

 

微笑がえし(2014.5.31)

昭和53年,詞:阿木燿子,曲:穂口雄右,唄:キャンディーズ

 「春一番が掃除したてのサッシの窓に」と始まる歌。

 キャンディーズの最後の曲といって良いだろう。阿木もそのことを意識して詞の中にこれまでのキャンディーズのヒット曲タイトル1)をちりばめている。「私達 お別れなんですね」の箇所のメロディーも印象にのこるのは直接にキャンディーズ解散を表しているからだろう。スー・ラン・ミキの三人にとっても,キャンディーズとしての活動は「まるで青春の想い出そのもの」だっただろう。

1)      「年下のひと」(年下の男の子),「ハートのエースがでてきましたよ」(ハートのエースがでてこない),「春一番」,「やさしい悪魔」,「アン・ドゥ・トロワ」,「わな」など。

 

Mr.サマータイム(2015.9.27)

昭和53年,詞:Delanoe Pierre,訳詞:竜真知子,曲:Fugain Michel Paul,唄:サーカス

 「ミスター・サマータイム さがさないで あの頃の私を」と始まる歌。

カネボウ’78夏キャンペーンソングで©1972とあるので元歌は昭和47年なのだろう。

 「愛に 包まれていながら気づかずにいた」と失ってから愛に気づく。よくあるテーマだが失った原因が「あの日の ひと時のあやまち」なのだから自業自得だと言ってしまうと可愛そうかもしれない。しかし,失った愛は戻らないに違いない。

 過去の記憶は良い想い出だけが強く残るのかもしれない。未来に向かって進むしかない。

 

みずいろの雨(2013.8.3)

昭和53年,詞:三浦徳子,曲:八神純子,唄:八神純子

 「ああ みずいろの雨」と始まる唄。この部分,かなりの高音だが,八神純子のこの高音の伸びがとても素敵だ。

 ところで,この「ああ」で始まるフレーズだが,これは三浦徳子の好みなのだろうか,この歌の中に何度も出てくるだけでなく,私が知っている数少ない三浦の他の歌)にもこの「ああ」が出てくる。悪いというわけではない。強く印象に残ることは残るのだが。

 愛が壊れていく詞なので,もっと悲しい曲にしてもいいかとも思うのだが,八神の曲も良い。「降り続くのぉお〜お〜ぉお」と言うところなど,この感情の昂ぶりはどこからこのような発想が湧くのかと思ってしまう。演歌の世界とは全く別な世界だ。

1) 「青い珊瑚礁」(昭和55年,詞:三浦徳子,曲:小田裕一郎,唄:松田聖子)

 

みちづれ(2016.10.18)

昭和53年,詞:水木かおる,曲:遠藤実,唄:牧村三枝子

 「水にただよう浮草に おなじさだめと指をさす」と始まる歌。

 「きめた きめた おまえとみちづれに」と詞もそうだが,曲も典型的な演歌だ。

 ただ,牧村の歌声は典型的な演歌とは感じられない。大きな声での発声はいかにも演歌なのだが,弱い声のときの発声が典型的な演歌とは少し違う気がする。しかし分類するとすれば演歌以外の何物でもない。新演歌とでも呼べばよいのではないかもしれない。

 何はともあれ若い演歌歌手が登場するのは喜ばしい。

 

夢想花(2012.6.24)

昭和53年,詞:円広志,曲:円広志,唄:円広志

 「忘れてしまいたいことが今の私には多すぎる」と始まる歌。「とんでとんでとんで・・・まわってまわる」というフレーズには極めて強いインパクトがある。このインパクトのために他の歌詞の意味が飛んでしまうほどだ。悲しい思い出なのかもしれないが,全てを忘れて夢の中へとんでいける。このように過去と決別して,未来に向かって飛び立ちたいものだ。

 

モンスター(2013.9.22)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンクレディ−

 最初は恐らくモンスターなのだろう,得体の知れない笑い声1)があって二人の悲鳴があり,「モンスターこの私の可愛いひと」と始まる。「喉が渇いて困るならトマトジュース買ってやる」というところが1番の始まりなのではないかと思うが1番2番などという概念はないのかもしれない。3番らしいところではまたメロディーが変わり,「そこどこそこどけほうら」などと印象的なフレーズが終るとまた最初のメロディーに戻り,最後は「モンスターが来たぞ・・・」と終わる。

 たいした歌だとは思わないのだが,脱帽せざるを得ない歌だ。この歌がどのようにしてできたのかは知らない。タイトル(後に修正があったかも知れないが,少なくともコンセプト)ができ,詞ができ,曲が出来たとしか考えられないのだが,このような内容の歌を作ろうという発想が驚きだ。コンセプトができれば阿久悠にとって詞を作るのはなんでもないのだろうが,この詞の自由さがまたまた驚きだ。字あまりなんてものではなく,音節数の違うフレーズが次から次へと現れる。こんな自由な詞に都倉がまた軽快な曲を付けている。繰り返すが,たいした歌ではないと思うのだが,やっぱりたいした歌だ。

1) 笑い声の主は都倉俊一らしい。

 

モンテカルロで乾杯(2018.11.10)

昭和53年,詞:ちあき哲也,曲:筒美京平,唄:庄野真代

 「そして24時間あの都会(まち)あとに 霧にしめった列車 ひとり降りた時」と始まる歌。

 何を歌っているかはよく解るが、似た体験は小説を読むなどの疑似体験を含めて記憶になく,共感したり感情移入したりすることができない。モンテカルロまで来てみたら「まさか待ってるなんて」というのは昭和の歌ではないだろう。昭和の歌なら『あなたがさがしてくれるの待つわ』1)とか『おまえをさがしていたんだと 口説いてもらえたら』2)と叶わぬことを願うのが昭和の歌だ。

1)「昔の名前で出ています」(昭和50年,詞:星野哲郎,曲:叶弦大,唄:小林旭)

2)「もう一度一から出直します」(昭和52年,詞:星野哲郎,曲:叶弦大,唄:小林旭)

 

宿無し(2016.11.17)

昭和53年,詞:世良公則,」曲:世良公則,唄:世良公則&ツイスト

 「おまえの乾いた口唇(くちびる)が 流行(はやり)の口紅で 又 飾られた」と始まる歌。

「オイラは宿無し オマエには あたたかなぬくもりも やれやしない」とあるが,これは客観的な分析なのだろうか,自虐・自己否定なのだろうか。「オマエ」に心は残ってはいるが,離れて見ているしかないということなら状況は演歌の世界ではないか。演歌ならば運命を怨み、あるいは諦め,場合によっては運命に立ち向かうと,どうするかという所まであって完結する詞が多いように思うが,この歌は現状説明で終わっいる。「今度は幸せにくらしなよ」と自分の想いを諦めたのかもしれないが,だからどうするのかが明らかではないように感じる。

詞に使われている言葉は現代的で,曲も洋楽っぽいが,演歌テイストの残る歌のように感じる。

 

ヤマトより愛をこめて(2018.9.14)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二

 「そのひとのやさしさが 花にまさるなら そのひとの美しさが 星にまさるなら」と始まる歌。

 東映配給のアニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のエンディングテーマ。

 沢田研二と宇宙戦艦ヤマトは合わないんじゃないかと思ったが,予想外によく合っている。

 「愛するひとのためだけでいい」と時代を反映している言葉がある。昔ならば『御国のため』になっていただろう。

 

夢追い酒(2013.6.6)

昭和53年,詞:星野榮一,曲:遠藤実,唄:渥美二郎

 「悲しさまぎらすこの酒を」と始まる歌。

 「あーぁなーたぁなぁぜなぁぜぇわぁたしぃをすぅてぇたぁ〜」と1番から3番まで同じフレーズが繰り返され印象に残る。私の区分では典型的な演歌である。

渥美二郎は発声がやや私の好みから外れているとはいえ,ちゃんとした歌手だと感じるのだが,彼の歌はあまり知らない。結局,私は歌手としてはもう一つと感じるような歌い手の歌のほうを沢山知っているということだ。ヒット曲をつくるということは難しいことだ。

 

夢一夜(2014.8.15)

昭和53年,詞:阿木燿子,曲:南こうせつ,唄:南こうせつ

 「素肌に片袖通しただけで」と始まる歌。

 阿木はこのような詞も書くのかとやや意外だ。曲はこうせつらしさがでている。こうせつは上手く唄っているとは思うがこの詞はこうせつには合わないというのが私の感想だ。私ならキーを変えて梅沢富美男あたりに唄わせてみたい。

 

横浜いれぶん(2019.1.6)

昭和53年,詞:東海林良,曲:大野克夫,唄:木之内みどり

 「横浜いれぶん 横浜いれぶん あなたの傷をいやすのは」と始まる歌。

 理解できない歌。場面が目に浮かばないからか,歌詞もよく聞き取れない。動作の主体が誰かが明瞭に解るような詞になっていないからではないか。車に乗っているようだがテキーラを飲んだり,ライトを消したり,どうなっているのかよく解らない。私にとって最大の謎は「横浜いれぶん」だ。これが道路か何かの固有名詞なのか,時刻等をあらわして

いるのか解らないのでイメージができないのだ。

 

与作(2012.10.11)

昭和53年,詞:七沢公典,曲:七沢公典,唄:北島三郎

 「与作は木をきるヘイヘイホーヘイヘイホー」という民謡風の歌。奥さんは機織や藁打ちなど働き者で,昔ながらの男女分業だ。

 この歌は激しく胸を打つというタイプではなく,何となくホンワカと耳に残る歌で,特にオノマトペが(掛け声なのかも知れないが)心地よい。外国人に対するウケはわからないが,古い日本人に対しては悪くないだろう。

 

LOVE(抱きしめたい)(2018.12.9)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二

 「抱きしめたい 抱きしめたい 抱きしめたい 抱きしめたい」と始まる歌。

 このような想いはあるが「あなたは帰る家がある」。「顔をかくして生きてゆく 不幸な女と呼ばせたくない」からだろう,「さよなら さよなら さよなら さよなら」と別れを告げる歌。

 淡谷のり子がどう評価するかは知らないが,沢田研二も歌は上手いと思う。昔のレコードはサウンドが薄いというような話もいつか聞いたことがある。たしかに昔のレコードを聴くとサウンドが薄いという評価が納得できる場合が多いが,だからこそ歌手の力量が直接リスナーに届いたのだろう。アイドルが歌を唄うようになり,唄だけでは聴衆を魅了できないので身体を使ったパフォーマンスを併用し,身体を激しく動かすため益々歌が唄えなくなり,唄の貧弱さを隠すために唄っている最中もどんどんいろんな楽器の音を被せてきたのが昭和末期以降の歌ではなかろうか。

 

ラブ・ステップ(2016.12.15)

昭和53年,詞:越美晴,曲:越美晴,唄:越美晴

 「彼があの娘捨てたこと 街では噂の種」と始まる歌。

 「恋なんて」「ひとときだけ楽しければそれでいい」と私が子供の頃とは価値観が変わっている。このような考えは弱肉強食,強い者が総取りの考えだと思うのだが,それでよいのだろうか。

 あるいはチョイ悪に魅かれているだけなのだろうか。

「だまされた馬鹿な奴だと みんなは白い目で私をみるけど」と第三者は客観的な判断ができているが「私には天使のように優しい人だった」と『Love is Blind』が永遠のテーマであることを示している。本人が騙されたことに気づかなければ,騙され続ければそれで幸せなのだろうが,他人から「馬鹿な奴」と思われているようでは,いつかは騙されていたことに気づくのであろう,というのは年寄りの感想で,「ひとときだけ」を求める人にとってはまた次の「ひととき」を捕まえればよいのだろう。

次を捕まえられない人のことは眼中にないのだ。

 

リップスティック(2024.12.1)

昭和53年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:桜田淳子

 「ルル….. 白い雨に口紅だけ紅(あか)く」と始まる。

 松本も当時はこのように解り易い詞を書いていた。時代が難解な詞を求めたのか,人気作詞者の松本が難解路線に舵を切ったからか,平成の歌には解り難い歌詞の歌が増えた。

この歌には聞いたことがある状況等が多数登場する。荒井由実や中島みゆきあるいは外国映画の1シーンでおなじみというべきか。どれがオリジナルかは知らないが,私が初めてこのような状況描写に接したとき,斬新さに驚くというよりよくあるパターンと感じたが,私にとってはそれが心地よい。予定調和は疲れない。もっとも世の中ではいつからか『予定調和』はあまり良いとは感じられていないようだ。

 どのような箇所でそう感じたかというと,「遠いマンションの灯(ひ)があなたの部屋」「最後に見せる私だから 綺麗になります」「電話した時さえぎる声 あなたはいないと 冷たい返事」「横文字のグッドバイ リップスティック ドアに描(か)き」などだ。

 

林檎殺人事件(2014.9.27)

昭和53年,詞:阿久悠,曲:穂口雄右,唄:郷ひろみ&樹木希林

 「アア哀しいね哀しいね」と二人で唄い始め,郷ひとりになり「殺人現場に林檎が落ちていた」と続ける。樹木希林のソロパートはない。「アダムとイブが林檎を食べてから フニフニフニフニ跡をたたない」というところで「林檎」が現れる必然であるということがわかる。

 まあ,こういう歌ということだ。都倉俊一の曲にして,ピンクレディーに唄わせたらいいのにと思う。

 

檸檬(2017.8.15)

昭和53年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:さだまさし

 「或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰掛けて」と始まる歌。

 全体として悪くは無いのだが,なぜ「盗んだ檸檬」なのだろう。梶井基次郎はちゃんと檸檬を買っている。檸檬を盗んだことに対する罪悪感が見えないのが問題だ。盗んだ方は大した利益ではないかもしれないが,そのような盗人が増えれば盗まれる方の損害は莫大だ。更に,「喰べかけの檸檬聖橋から放る」と生ごみの不法投棄もしている。この歌で訴えたいことは窃盗や不法投棄ではなく別にあることは全体から判る筈だと言われるかもしれないが,この歌がヒットして万引きなどは大してわるいことではないという風潮が広間あることを私は望んでいない。

 梶井も最後は檸檬を丸善に置いて来るのではあるが。

1)「檸檬」(梶井基次郎,大正13年)

 

Hello Mr. Monkey(2019.8.8)

昭和53年,詞:Lux Benny,曲:Juris Ben,唄:Arabesque

 「Hello, hello, Mr. Monkey」と始まる歌。

 ディスコ・ミュージックの雰囲気だが,竹の子族に支持されたという話を聞けば納得できる。

 曲は軽快なユーロ・ビートのディスコ・サウンズでノリもよく歌声も爽やかだ。しかし,当時はユーロ・ビートという言葉は使われてなかったかもしれない。

 ところで,歌詞がよく理解できない。「Mr. Monkey」という呼びかけにはどのようなニュアンスが込められているのだろうか。「You should have been a clown」とは何が言いたいのだろう。「Once he was so famous」で「Now he’s nameless」だという。しかし「You’re still so fast and funky」というのは褒めているのだろうか。恐らくhe youは同一人物なのだろが代名詞の使い分けはどのような意味があるのだろう。

 「Mr. Monkey」は面白いオジサンに親愛の情をこめて「アンタまだまだイケてるよ」と呼びかけているように感じるのだが,私の解釈は間違っているかもしれない。そのようなニュアンスで「monkey」を使うのだろうかというのが疑問なのだ。

 

I Was Made For Dancin’<ダンスに夢中>(2018.10.13)

昭和53年,詞:Michael Lloyd,曲:Michael Lloyd,唄:Leif Garrett

 「You got me rollin’ like a wheel on the road」と始まる歌。

 こうは書いたが,私の英語力では全く聞き取れない。ダンス曲でもあるのでこの曲は私にとって身体で感じる曲だ。

 bエンドルフィンが脳を満たすまで踊り続ける。昔の盆踊りは長時間踊ったが,いつの頃からからか踊りは子供達と婦人会?が主体になり,青年の参加は少なくなり,騒音問題などで時間も短縮され,徹夜踊りなどは一部しか行われなくなってしまった。ゴーゴー喫茶のように,いつでも踊れる場所ができたからかもしれない。ディスコというのはいつでも行ける盆踊り会場の進化形だろう。

 それにしても4ビートの曲を聴くと自然に身体が動くのは本能なのか学習の成果なのだろうか。

 

Monkey Magic(2014.7.8)

昭和53年,詞:奈良橋陽子,曲:タケカワユキヒデ,唄:ゴダイゴ

 「Born from an agg on a mountain top」と始まる歌。日本テレビ系連続ドラマ『西遊記』のオープニングテーマソングである。

 孫悟空が卵から生まれたというのは不思議だが,そういうお話だから仕方がない。この卵自体,石から生まれたのだ。ドラゴンボールの悟空も卵型の宇宙船で地球にやってきたようだ。

 

NIGHT FEVER<恋のナイト・フィーヴァー>(2019.2.3)

昭和53年,詞:Barry Gibb, Robin Gibb, Maurice Gibb,曲:Barry Gibb, Robin Gibb, Maurice Gibb,唄:The Bee Gees

 「Listen to the ground  There is movement all around」と始まる歌。

 当時の私にはFeverして踊りまくるなんていう状況とは程遠い状況だった。いうかこれまでの人生でそんな状況になったことは一度もない。まあ,盆踊りなら一晩中踊れたかもしれないが。

 脳天気によくやるわと思うが,逆に私がどう思われるかと考えると,世代間のギャップは確かにあるのだろう。

 

Y.M.C.A(2018.8.18)

昭和53年,詞:Henri Belolo,曲:Jacques Morali,唄:Village People

 「Young man  There’s no need to feel down  I said, young man」と始まる歌。

 西城秀樹の『Young Man1)の元歌と言えば十分だろう。この歌自体が世界的ヒットで,日本でも売れた。もちろん秀樹盤も。

1)Young Man」(昭和54年,詞:Willis V.Belolo H./あまかいりゅうじ,曲;Morali J.,  唄:西城秀樹)