明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和39年
ああ上野駅,あゝ青春の胸の血は,哀愁の駅,愛と死のテーマ,愛と死をみつめて,赤い花・白い花,赤い夕陽,アンコ椿は恋の花,潮来舟,ウナ・セラ・ディ東京,右衛門七討ち入り,大阪ぐらし,お吉物語,お座敷小唄,男傘,温泉芸者,女心の唄,おんなの宿,悲しき願い<Don’t
Let Me Be Misunderstood>,学生時代,君たちがいて僕がいた,君だけを,霧の中の少女,恋と涙の17才,恋の山手線,恋をするなら,困るのことよ,ごめんねチコちゃん,ゴールドフィンガー<Gold
Finger>,サウンド・オブ・サイレンス<The Sound of Silence>,さすらい〔泣いてくれるな〕,サヨナラ東京,サン・トワ・マミー,幸せなら手をたたこう,潮風を待つ少女,自動車ショー歌,十七才のこの胸に,十七才は一度だけ,ジューン・ブライド,女学生,人生賛歌,素適な新学期,砂に消えた涙,青春の城下町,ゼッケンNo.1スタートだ,そこは青い空だった,俵星玄蕃,だまって俺について来い,ダンケ・シェーン,智恵子抄,CheCheChe(涙にさよならを),チャペルに続く白い道,東京の灯よいつまでも,七つの水仙<Seven Daffodils>,何も云わないで,涙の酒,涙を抱いた渡り鳥,新妻に捧げる歌,ネイビー・ブルー,花咲く乙女たち,花と竜,馬鹿は死んでも直らない,ひょっこりひょうたん島,悲恋のワルツ,二人の星をさがそうよ,星空のあいつ,ほほにかかる涙,ホラ吹き節,マイ・ボーイ・ラリポップ,まだみぬ君を恋うる歌,皆の衆,明治大恋歌,約束[その日ぼくが],柔,夢みる想い<Non
ho l’eta>,夜明けのうた,夜は恋人,リンデンバウムの歌,若い港,ワシントン広場の夜は更けて,Don’t Let Me Be Misunderstood,Gold Finger,Non ho l’eta,Seven
Daffodils,The Sound of Silence
ああ上野駅(2012.11.23)
昭和39年,詞:関口義明,曲:荒井英一,唄:井沢八郎
「どこかに故郷の香をのせて」と始まる歌。『ふるさとの訛りなつかし停車場の・・・(啄木)』というところだろう。上野駅と聞くと東北本線とか上越線が思い浮かぶ。常磐線や高崎線に思いを馳せる人は少ないだろう。
京浜・中京・阪神・北九州など早くから工業が発展した地域は日本列島の南東岸に集中していた。農家の二男・三男などは就職のために都会にでることが多かった。地元では十分な職がなく,中卒生を大量に列車で送る集団就職というのがあった。出るときは集団だが,就職先はバラバラである。東北などから東京へやってくると,上野駅で実際の行き先に応じて電車に乗り換えることになる。電車の中はもう映画などで聞く東京弁の世界だ。当時の方言・訛りは今よりはるかに標準語との違いが大きく,普段のように話せば誰も理解してくれない。
「配達帰りの自転車を」とあるので,個人商店のようなところに勤めているのだろう。この当時は,新聞・郵便・牛乳などの配達や出前持ちのほか,酒屋だとかが御用聞きに来て配達してくれたが,ほとんどが自転車での配達だった。昭和32年にダイハツからミゼットが,昭和33年に本田からスーパーカブが発売されていたので,店長夫婦と店員一人というような店では店長くらいは仕入れのためもあり,オート三輪くらいは使っていただろう。というのがこの数年前の状況であり,商売に自動車が欠かせなくなったのがこの数年後だ。この前後,急激にモータリゼーションが進む。
昭和40年ごろ,学生アルバイトとして年賀状,中元,歳暮の配達があったが,ほとんど自転車利用だった。
話が跳ぶが,私は昭和60年頃,バスでニューヨークのマンハッタン42nd Street(大きなバスターミナルがある)まで行き,ここで地下鉄に乗り換えて通勤していた。42nd St.には多くの地下鉄路線が交差しており乗り換え用に長い地下道がある。昔,星新一が「マンハッタンには乞食が多いと聞いて見に行ったが全く見かけなかった」と書いているのを読んだことがあるが,どこを歩いたのかと不思議だった。
星新一の「乞食」の定義はなんだったのだろうか。ホームレスはマンハッタンのいたるところに居るのでホームレスと区別していたことは間違いないだろう。ホームレスは文字通り家がないというだけで仕事を持っている者もいる。私の世代で乞食というと,筵の上に座って,前に空き缶などを置き,「右や左の旦那様・・・」というか,あるいは黙ったまま,通行人が小銭を恵んでくれるのを待つというイメージだった。昔はこのような仕事で財を成した人もいるというような話をきいたこともあるが,それは本当の話とは思えない。いずれにせよ,このような人が私のマンハッタンでの通勤経路に二人いた。いつも地下鉄通路内の同じ場所に居た。首から鉛筆を沢山つけたボードを提げて立っている人もいた。鉛筆を売っているようだが,見ているとお金を渡す人はいるが鉛筆を受け取っている人はいない。恐らく駅の地下道での物乞いが禁止されていて,物売りを模していたのではないか。しかし,駅の地下道にはインパクトのある女性がいた。この太ったオバちゃんは,いつも立って少しづつ移動しながら「Give me a quarter!」と大声で叫んでいるのだ。「Give me some changes!」と呼びかけている男性も何人か見たが,changesなら1セントからOKだがquarterなら25セント硬貨だから,単価が大分異なる。男性の声は普通の声なのでその周囲にしか聞こえないが,前述の女性は地下道中に響きわたるのではないか(実際の路線乗り換えの地下道は非常に長いので全体までは届かない)と思うほどだった。一番多いのはターゲットを定めて個人的に話しかけてくるタイプだ。大抵小銭をいくらか掌に載せて,地下鉄に乗りたいのだが少し足りないので恵んでくれないかと言ってきた。地下鉄代がたまったら,一部をポケットにしまい同じことを繰り返すのだ。地下鉄の中でも類似パターンに会ったことがある。地下鉄に乗車中のことで,立ち去ることもできないので降りるまで付き合ったが,彼の英語は綺麗な英語だった。私が英語が解らない振り(実際,ヒアリングはできないのだが)をしていると,ゆっくり私にも解るように話すのだ。マクドナルドなんかだと,聞き取れなくても店のマニュアルからすると今のは「ポテトはいかがですか?」ではなかろうか(French friesなのでポテトはでてこないが)などと勝手に判断して生活していた。彼はサンフランシスコから仕事を求めてニューヨークにやってきたのだが,その仕事がだめになり,サンフランシスコに帰りたいのだが旅費が足りないというようなことを切々と私に訴えていた。
ストリートミュージシャンは沢山いた。下手な歌手,上手な歌手,楽器演奏も種々の楽器があった,デュオ,トリオ,カルテットなどもあった。場所は通勤経路だから地下鉄の乗り換え地下道,それに地下鉄車内にやってくる者もいた。通勤は地下鉄だったが,自動車を運転してマンハッタンに入ると,赤信号で止まるや否や人が飛び出してきて,フロントガラスに洗剤をスプレー,あっという間に拭いて1ドル請求してくる。近所の日本人に尋ねたところ,出てきたところで断れば大人しく引き下がるということだったが,その人は便利なのでそのままやってもらってると言っていた。大学で同僚だった中国人は初めてマンハッタンに来て道を尋ねたら,「ここでは情報はタダじゃない」と言われて1ドル取られたそうだ。1ドルで済んだことは喜ぶべきことなのだろう。
当時,地下鉄駅のトイレはほとんど木が打ちつけられ使用禁止になっていた。犯罪防止のためとのことだった。駅には監視カメラがあり,列車には警官が乗車している。私が見た警官の胸には「pistol sharp shooter」と書いたバッジが光っていた。
マンハッタンの警官はすぐに拳銃を抜く。赤信号を無視した乗用車が止められたのを見たが,そのときも警官は拳銃を抜いて運転席に向けていた。地下道で突然大声がしたのでなにかと振り向くと,Gパン皮ジャンのおニイさんが左手に名刺入れのようなもの(警察手帳?)をもって右手の拳銃をオジさんに突きつけていた。ちらちらっとみているとすぐに両手を壁につかせ,身体検査をしていた。その後は見ていない。
マンハッタンのガソリンスタンドでガソリンをセルフサービスでいれたとき,料金は恐らく防弾ガラスだろう,厚いガラス窓の下にある引き出しに入れると中から取り出し,つり銭を引き出しに入れて返してくるシステムだった。店員の椅子の後ろにはショットガンが立てかけてあった。
マンハッタンの酒屋で酒を買ったときは2重のガラスで客と店員が仕切られていた。ガラスの一部には商品を受け渡すためのスリットが切られているが2枚のガラスのスリットの位置がずれているので直接お金や商品を受け渡すことができない。スリットから手を入れて90度曲がった方向に,ガラスと平行に商品等を移動して置き,受け取るほうも手を突っ込んで90度まわしてガラスと平行に引いて自分の前にあるスリットまで移動させてから取り出すというシステムだった。これはマンハッタンのアップタウンの話であり,ミッドタウンやダウンタウンではこのような店に入ったことはない。
アップタウンといえば,地下鉄内で大男が放尿するのに出会ったことがある。セントラルパークのあたりまではコロンビア大学の学生もいて地下鉄の乗客も多く,何の問題もないのだが,@の路線1)で125th St.というとバーレムのまん中でこの辺りより北では乗客もめっきり減る。先に書いたように駅のトイレが使えないという理由もあったのだろう。地下鉄に乗っていたら,車内に液体が流れてくる。誰かがビールでもこぼしたのかと先をみると,現在進行形で・・・。逃げるべきかどうするべきか,とりあえずそちらを見ないようにして固まっていた。幸い私には特別なことは何も起こらなかった。
後に何度かインドに行ったが,行くたびに車が増えていた。初めて行ったときは,よくこれで走っているというような古い車から最新の車まで走っていて,スピードも車ごとに全く違い,道路には牛なども居て大混乱だったのだが,その後幹線道路で牛は見なくなり,古い車もほとんど見なくなった。そのような時期,信号で止まるとインドでは新聞を売りに来たほか,窓ガラス拭きが登場していた。マンハッタンではほんの短時間の間に申し訳程度にサッサと拭いて金を請求するのだが,インドでは,まだ慣れていないのか国民性なのか動作がゆっくりで赤信号の間に窓を拭ききれず,そのまま車に走り去られてしまうのを何回か見て,何だか可愛そうになってしまった。
インドでは短期滞在で外を歩き回るときは大抵案内人付だったからだろうとは思うが,物を乞うというタイプの人々は小さい子供をつれた弱弱しい女性などが多く,ゴツイ体格のおニイさんがやってくることはなかった。おニイさんは絵葉書などを売りに寄って来た。案内者は高いから止めておけと言っていたが,私の感覚では特別に高いという感じは受けなかった。高級?ホテル内の店でも結構高い。まあ,街で食べたサンドイッチの値段から考えると高いように感じるが,同じ(ではないが)サンドイッチをホテルで食べるとはるかに高い。
マンハッタンで100kgくらいありそうな大男に「give me some changes!」と寄ってこられるとそれだけで威圧感を感じる。
米国から帰国して,ああここは日本だと思ったのは,空港でタクシーのドアを開けようと車に近づこうとしたとき,突然ドアが開いたときだ。
米国から帰国後,上野駅の地下道?で感じた雰囲気が42nd St.の雰囲気と非常に良く似ていた。人通りが多いときは良いのだろうが,たまたま人通りの少ない時間帯だったのか,薄暗く,ところどころに座り込んだり寝たりしている人々を横目で見つつ,緊張しながら歩いた。その後,何度か上野駅に行ったが,このような雰囲気の通路は見当らなかった。
1) 42nd St.からアップタウンに向かう路線としてNo.1 trainと呼ばれるハドソン川に近い路線と,もう少しはなれたA trainと呼ばれる路線があった。私の通勤はどちらでも可能だったが,No. 1 trainのほうが歩く距離は少なかった。こちらの駅周辺のほうが治安が悪かったのだが,治安が特に悪いということで重点警備地区になっていて,ほぼ常時警官が巡回していたのでNo. 1 trainを良く使っていた。この列車内での話。
あゝ青春の胸の血は(2013.9.8)
昭和39年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:舟木一夫
「あふれる若さあればこそ」と始まる歌。
「親しき友の悲しみを」と始まる2番だが,インターネット歌詞検索で見つかるいくつかのサイトの歌詞では載っていないものが多いようだ。消さなければならない理由はわからないが,ひょっとしたらどこか一つのサイトが何らかの理由で載せなかったのを,他のサイトはそのまま引用したのではないかと疑いを抱かせる。
2番の歌詞の詮索はさておき,「青春の胸の血は夢一筋に燃えるもの」と繰り返されているところなど,私にはちょっとキーが高いが,舟木の歌では『高校三年生』1)に並ぶ青春歌謡の最高峰の歌であろう。
1) 「高校三年生」(昭和38年,詞:丘灯至夫,曲:遠藤実,唄:舟木一夫)
哀愁の駅(2020.1.28)
昭和39年,詞:辻本茂,曲:袴田宗孝,唄:松山恵子
「涙あふれる夜汽車の窓に これを最後と別れのベルが」と始まる歌。
「大阪始発上りの列車 10時45分」と声を張り上げる箇所が印象に残り,「あゝ哀愁の駅 11番ホーム」と終わる。「恋に破れて旅ゆく影に」とあるので,汽車に乗っているのは自分のようだが,全体として夜の11番ホームの印象が強く,なぜ夜汽車に乗っているのかは,詞に書いてはあるのだが印象に残らない。
昭和50年頃だっただろうか。ある作詞者が書いた作詞心得みたいなのを読んでいたら,場所など特定せずに書くほうが良いというようなことが書いてあった。私などは,場所が特定されているほうが好きだ。知っている場所なら思い入れができるし,知らない場所なら想像をめぐらすこともでき,機会があれば歌枕を訪ねるというのか聖地巡礼というのかは知らないがその場所を訪れて見たくもなる。
場所を特定しないというのは,外国語に翻訳されても違和感を持たれない,普遍的な感情を表現したいということなのかもしれない。確かに,小説でも場所が特定されないように書かれたものがある。固有名詞を登場させると,知っている人には説明せずに一定のイメージを与えることができるが,知らない人にはそのイメージを与えることができないということか。単に『山』と言えば人によっていろんな山を思い浮かべるだろう。しかし『富士山』と言えばイメージは決まってしまう。前記の作詞家は,『駅』とか『橋』とか言えばそれそれがそれぞれの駅や橋を思い浮かべ,そちらのほうが普遍性があるというような話だったように思う。
私としては場所が特定され,場面が限定されるほうが好きだ。ご当地ソングを歓迎する。
愛と死のテーマ(2019.4.19)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:吉永小百合
「あなたのことマコって呼んでいい?」から始まる台詞が冒頭にあり,歌は「強いマコ ミコのマコ マコの愛する故郷の」と始まる。
日活映画『愛と死をみつめて』(浜田光夫・吉永小百合)の主題歌。
原作の『愛と死をみつめて』は河野實と大島みち子の往復書簡集で,160万部売れた。これを基にラジオドラマ・テレビドラマ・映画・歌謡曲などが作られたが,一番有名なのが青山和子が唄った『愛と死をみつめて』だろう。青山の歌は第6回レコード大賞を受賞している。
青山の歌と吉永の歌はどちらも良く雰囲気が出ているとは思うが,作り方としては青山の歌は聴き手の涙を誘うつくりになっており,吉永の歌はミコの感謝を伝えるつくりになっているように感じる。当時の青山は神戸一郎とデュエットしたりして少しは知られていたが,吉永の知名度には及ばなかっただろう。吉永はこれ以前に演じていた役からは健康美しか感じられず,青山の歌唱のお涙頂戴路線が多くの人に支持されたのではないか。
愛と死をみつめて(2012.9.27)
昭和39年,詞:大矢弘子,曲:土田啓四郎,唄:青山和子
「まこ 甘えてばかりでごめんね」と始まる。第6回日本レコード大賞受賞曲。
不治の病に冒された少女「みこ」と彼女を支えた「まこ」の往復書簡がベストセラー1)になったのを受けて作られた歌。みこの日記も出版2)されており,日記のほうがより強く死をみつめている。健康な日が三日欲しい。1日目は家族と,2日目は貴方と,そして3日目は想い出と共に過ごし4日目に安らかに眠りたいという趣旨の記述(原文はもっと長い)は彼女の死後有名になった。
歌詞も十分涙を誘うものだが,背景を知って抑制された歌詞を読めばなおいっそう涙をさそう。このような歌を聴いた後で,大した事情もなさそうなのに「命をかけた恋」などと軽々と使っている歌詞を聞くとそんな言葉に騙されるなと思ってしまう。
1) 大島みち子・河野実:「愛と死を見つめて」(昭和38年,大和書房)
2) 大島みち子:「若きいのちの日記」(昭和39年,大和書房)
赤い花・白い花(2014.5.19)
昭和39年,詞:中林三恵,曲:中林三恵
「赤い花摘んであの人にあげよ」と始まる歌。
中林が学生時代の昭和39年,大学のコーラス大会に,子供の頃作ったオリジナル曲で参加した曲とのこと。その後口コミで徐々に広まっていき,本格的に世に出たのは昭和45年の『赤い鳥』のレコードによってだろう。他にも多くの歌手が唄っている。
赤い花や白い花を見て感じた気持ちを素直に言葉にしているところがよい。メロディーも解りやすくていい。このような歌は清純な美しい声の歌手が似合う。見た目が純情そうに見えるということが重要だと思うので,この歌は若い人の歌ということだ。
赤い夕陽(2018.8.11)
昭和39年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:三田明
「白樺の 白樺の 影を写して 湖は 湖は 淋しく暮れる」と始まる歌。
湖に悲しみを捨てに来るというのは『湖畔の宿』1)のようによくある話だし,このような場合,大抵は夕刻である。
「初恋は 初恋は 人に知られず 咲いて散る 咲いて散る ひめゆりの花」と青春の永遠のテーマである実らぬ初恋ということで,どこをとっても青春歌謡だ。
定番の言葉を並べた詞は新鮮味は少ないが安定感があり,安心して聴くことができる。
1)「湖畔の宿」(昭和15年,詞:佐藤惣之助,曲;服部良一,唄:高峰三枝子)
潮来舟(2019.8.1)
昭和39年,詞:たなかゆきを,曲:川上英一,唄:大月みやこ
「こんな悲しい涙の恋を 知っているやら利根の月」と始まる歌。
『船頭小唄』の新版というのが最初の印象だ。
大月は藤本三重子・二宮ゆき子と共にキング三人娘として売り出されたそうだが当時は知らなかった。三人娘はいろいろあるが,キング三人娘というのは有名ではない。
私のような素人は,大月の歌はかなり上手いほうだと思うのだが,もっと下手?な歌手もどきが大ヒットした持歌があるのに,大月の大ヒット曲はすぐには思い出さない。
曲に恵まれないということなのだろうか。大ヒットには何かが足りないのだろう。運だろうか。しかし,キング三人娘の中では大月が一番長く活躍しているのは実力の現れだろう。
この曲にしても悪くないとは思うが,過去に何度も聴いたという感じも受ける。インパクトが小さいと言うことだろう。
アンコ椿は恋の花(2011.9.24)
昭和39年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:都はるみ
レコード大賞新人賞受賞。「三日遅れの便りを乗せて」で始まる曲。「アンコ」の「ン」など所々キバって歌うところ,畠山みどりの力の入れ方とはまた違ってこれまでにない唄い方だった。テレビで歌っていると私の祖父が「キバリ過ぎ」と言いながら観ていた。
「高校三年生」で紅白美空事件に触れてしまい,ついつい都はるみに行ってしまった。
ウナ・セラ・ディ東京(2013.1.20)
昭和39年,詞:岩谷時子,曲:宮川泰,唄:ザ・ピーナッツ
「哀しいこともないのになぜか」と始まる歌。「あの人はもう私のことを忘れたかしら」と来て「とても淋しい」という箇所など,ピーナッツの声がとても素晴らしい。
昭和38年,ザ・ピーナッツは「東京たそがれ」というタイトルでこの曲を出したが,それほど売れなかった。昭和39年,当時カンツォーネの女王と呼ばれていたミルバが来日してこれを歌ったところ大評判となった。そこでタイトルを変更して売り出したところ大ヒットした。このときメロディーも若干変わっているらしい。この曲は,和田弘とマヒナスターズ,坂本スミ子,西田佐知子なども出している。マヒナスターズのレコードが最も売れたらしいが,私はザ・ピーナッツの歌が好きだ。
この年,早川電気(その後シャープと改名)が日本初の電子式卓上計算機を発売開始した。これは全トランジスタ・ダイオードの電卓としては世界初である。重量は25kg,価格は53万5000円だった。当時の大卒初任給は約2万円である。他の物価で言えば,はがきが5円,国鉄の初乗運賃が10円だった。
右衛門七討入り(2015.3.3)
昭和39年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:舟木一夫
「ふりつむ雪を血に染めて 四十七士の鬨の声」と始まる歌。
赤穂四十七士の中で2番目に若い矢頭右衛門七の歌である。浅野が吉良への刃傷に及んだときはまだ15歳だった。病死した父親の代わりに討ち入りに参加した。四十七士中最も若かったのは大石内蔵助の息子主税で2歳下である。
一ノ谷の合戦で平敦盛が熊谷直実に討たれたのは数え年で16歳というから右衛門七と同年配だ。会津戦争における白虎隊は16・7歳だったそうだが,幼少組として13歳の少年も加わっていたという。昭和の予科練の応募資格は14歳から20歳までだった。予科練出身者の戦死率は極めて高かった。
いずれも当時は大人として扱われていたのだろうが現在では未成年とされている年代だ。最近,未成年の異常な犯罪を耳にすることが多いような気がする。成人としての権利と義務,青少年の保護の観点から線を引く年齢を何歳にするか,なかなか難しい問題だ。若年者にも個人差があるだろう。個人差と言えば高齢者はもっと個人差が大きいかもしれない。
右衛門七討入り(2016.7.2)
昭和39年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:舟木一夫
「ふりつむ雪を血に染めて」と始まる歌。
昭和39年のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』で舟木一夫は矢頭右衛門七を演じた。大石内蔵助を演じたのは長谷川一夫だ。
「矢頭右衛門七 散りゆく花か」という箇所など記憶に残っているが,今思うと何故このような箇所が記憶に残ったのか解らない。橋幸夫が『美少年忠臣蔵』1)で大石主税と矢頭右衛門七を唄ったことが記憶にあったからかもしれない。橋は『ちからとえもしちは』と唄っており,大石主税は以前から知っていたから『美少年』とのタイトルから『ちから』は大石主税のことだろうと判ったが,『とえもしちは』は『と えもしち は』だろうとは思ったが『えもしち』については何も知らなかった。それが舟木のこの歌で「や〜ぁとおぉえもしぃちー」と唄い,やはり「えもしち」は名前だと確信したからかも知れない。但し,当時,私には大河ドラマを観る習慣はなく,「や〜ぁとおぉ」の意味はよく解らなかった。
「討たれるものも討つものも ともにこの世は夢の夢」とあるが,これは誰の気持ちなのだろう。私には矢頭右衛門七の気持ちとはとても思えない。四十七士の一人,木村岡右衛門の辞世は『思いきや われ武士の 道ならで かかる御法の 縁にあうとは』らしいので赤穂浪士全員の気持ちでないことも確かだと思う。大石内蔵助の辞世は『あら楽し 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし』で,私には意地を通した満足だけが感じられる。では大河ドラマの原作者大仏次郎の感慨なのだろうか。残念ながら原作を読んでいないので大仏がどのような考えでいたのか解らない。単純な私の想像では「この世は夢の夢」というのは作詞者の感慨だったのだろう。
1)「美少年忠臣蔵」(昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)
大阪ぐらし(2016.10.10)
昭和39年,詞:石浜恒夫,曲:大野正夫,唄:フランク永井
「赤い夕映え通天閣も 染めて燃えてる夕陽ケ丘よ」と始まる歌。
大阪のご当地ソングだろう。当時『大阪』から連想されたであろう場所や人が詞にちりばめてある。というか具体的に言えば『月の法善寺横丁』1)と『王将』2)だが。
当時はまだ大阪探検をしたことが無く,大阪の名所というのはこのようなところだと思っていた。東京タワーのほうが先に見たのだが,後に通天閣を初めて見たときには期待外れだった。もっとも初めて数寄屋橋を見た時も期待外れだったが。
1)「月の法善寺横丁」(昭和35年,詞:十二村哲,曲:飯田景応,唄:藤島桓夫)
2)「王将」(昭和36年,詞:西條八十,曲:船村徹,唄:村田英雄)
お吉物語(2019.11.1)
昭和39年,詞:藤田まさと,曲:陸奥明,唄:白鳥みずえ
「泣いて昔が返るなら なんで愚痴などいうものか」と始まる歌。
唐人お吉の話はいろんな人が小説に書いているし,映画化もされている。ただ,お吉をメインタイトルにした最後?の映画は昭和29年の山田五十鈴版だろうから大分古い話だ。その前だと昭和13年の田中絹代版らしい。初代の水谷八重子も演じているようだが,これらは私の中では完全に歴史上の人物だ。私の記憶に残っているのは天津羽衣の浪曲くらいだろうか。当時既にお吉を主人公にした映画などは少なくなってはいたが,多くの人はお吉のことを知っていたし,ドラマや舞台に(主役ではないにしても)お吉が登場することも珍しくはなかった。
ということで,多くの人が背景を知っている話を歌にしたものだ。
唄は上手いと思うのだが,当時話題になったという記憶が無い。時勢に合わなかったのかもしれない。私の関心がこちらに向いていなかっただけなのかもしれないが。
お座敷小唄(2014.2.20)
昭和39年,詞:小俣八郎,曲:陸奥明,唄:松尾和子/和田弘とマヒナ・スターズ
「富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も」と始まる歌。巷で唄われていたものを和田が採譜したものだとのことなので作詞・作曲は不詳だったと思うがとりあえずネットでこのように書いてある記事を見つけたので記載した。
これは典型的なドドンパだろう。この歌が流行した当時,私はいろんな楽器に興味を持っていた。その中でドラムの練習でドドンパの曲として使ったのがこの曲だ。ドドンパは都々逸とルンバを組み合わせて日本で創作された新リズムらしいが,マンボが起源との説もあるらしい。『若いふたり』1)なども典型的なドドンパだ。『東京ドドンパ娘』2)という曲もあったが,マヒナや北原のこれらの曲のほうがドドンパのリズムが印象的だった。
この歌はお座敷ソングの代表でもあり,この後お座敷ソングとしては『まつのき小唄』などがヒットする。
1) 「若いふたり」(昭和37年,詞:杉本夜詩美,曲:遠藤実,唄:北原謙二)
2) 「東京ドドンパ娘」(昭和36年,詞:宮川哲夫,曲:鈴木庸一,唄:渡辺マリ)
3) 「まつのき小唄」(昭和40年,詩:藤田まさと/夢虹二,曲:不詳,唄:二宮ゆき子)
男傘(2018.11.3)
昭和39年,詞:松井由利夫,曲:大沢浄二,唄;井沢八郎
「俺の 俺のこぶしで貴様の胸を どんと一発 どやしてやろか」と始まる歌。
これから喧嘩が始まるかと思うかもしれないがそうではない。
「なんだ何時までくよくよするな」と励ます「固く結んだ絆じゃないか」と「故郷を出て来た 貴様と俺だ」という関係だ。
当時はまだ教師等による体罰が残っていた時代だ。しかし,グランド10周とか言われ,それがペナルティであることは感じても体罰を受けているという感覚はなかった。廊下に立たされたりしてもそれが体罰だという認識はなかった。暴力は許されないが愛の鞭なら大目に見られるという雰囲気だった。
愛の鞭?を振るわなければならないかもしれない立場になったとき,先輩から言われたのは,罰を与える時はまず,通常練習をいつもより長くさせることを考えるようにということだった。怒りにまかせて殴ってはいけない。痛めつけることを目的としてはいけない。見せしめとしては平手で頬を叩くことが効果的だ。なるべく大きな音がでるようにし,手の跡が頬に赤く残るように。このとき,耳に手がかかると鼓膜が破れる恐れがあるから耳にはかからないようにする。跡が残らないように痛めつけるのは単なる暴力だ等々を指導された。しかし,いくら愛の鞭でも,教師に知られた場合などは生活指導に呼ばれ,指導を受ける羽目になる。体罰を与えるほうにも覚悟が必要,そのような時代だった。
それが,体育の授業でスクワットをさせられ,筋肉痛でトイレにしゃがめない(当時はまだ和式がほとんどだった)というようなクレームが父兄から学校に入るようになった。また,大学の体育会系クラブでのしごきもあちらこちらでニュースになる。
『東洋の魔女』1)という見本?があり,『巨人の星』2)に代表されるスポ根漫画も人気があった。世間の風向きが大きく変わったのは昭和40年の『ワンゲル部死のしごき事件』からかもしれない。
当時から50年経った平成末でもまだ暴力的指導が話題になっている。社会の認識が変わるにはそれほどの年月がかかるということだ。
要するに,この歌の「どやしてやろか」は,それほど親しい仲だということだ。
1)「東洋の魔女」日紡貝塚女子バレーボールチーム。昭和36年の欧州遠征から22連勝,昭和39年の東京オリンピックでもこのチームのメンバーを主体とした日本代表が金メダル。
2)「巨人の星」(昭和33年~昭和53年,後半の「新巨人の星」も含む,原作:梶原一騎,画:川崎のぼる,週刊少年マガジン)(昭和43年~昭和46年,よみうりテレビアニメ。後に新・巨人の星,新・巨人の星Uも放映されている。)
温泉芸者(2015.9.23)
昭和39年,詞:越純平,曲:越純平,唄:五月みどり
「あまりあんたがいい人だから 酔ったふりして甘えたの」と始まる歌。
最後の「ハ ジャブジャブ ジャーブジャブ」というフレーズが記憶に残る。
小松みどりは五月みどりの妹だが,姉妹で姓が異なり名が同じとはどういうことかと不思議に思う。どちらも芸名ということだが,小松みどりの本名は緑で,五月みどりの本名はフサ子だそうだ。
女心の唄(2012.8.3)
昭和39年,詞:山北由希夫,曲:吉田矢健治,唄:バーブ佐竹
「あなただけはと信じつつ」と始まる歌。第7回日本レコード大賞新人賞受賞曲。
「酒が言わせた言葉だと何で今更逃げるのよ」と学習していくのだろう。「選挙が言わせた言葉」とひょっとしたら似ているかもしれない。どちらに対しても「だまし続けて欲しかった」・「夢を見たのがなぜ悪い」と言いたくなる。「今夜しみじみ知らされた」が「いつか来る春幸福を望み捨てずに独り待つ」ということになる。この女はひょっとしたら学んだ結果を生かせずに再び騙されるかもしれないが,有権者は騙されないだろう。
バーブ佐竹のキャッチフレーズは「顔じゃないよ,心だよ」だった。
おんなの宿(2020.4.28)
昭和39年,詞:星野哲郎,曲:船村徹,唄:大下八郎
「想い出に降る 雨もある 恋にぬれゆく 傘もあろ」と始まる歌。
舞台は伊豆。わざと時計を遅らせて,せめてひと汽車でも別れを遅くと願う。「添えぬ恋なら さだめなら」というひとことで事情が納得できるだろう。
伊豆は古くから有名な観光地だったが,昭和36年に東急伊豆急行線が下田まで開通したことにより観光地化・別荘地化が急速に進んだ。東京からいろんな意味で程よい距離にあり,金持ちならば長期滞在も可だし週末旅行も可,庶民ならば新婚旅行先として人気があった。
学生時代(2015.4.7)
昭和39年,詞:平岡精二,曲:平岡精二,唄:ペギー葉山
「つたの絡まるチャペルで祈りを捧げた日」と始まる歌。
モデルは青山学院と聞いている。
「重いカバンを抱えて」通うのは当時は高校までだった。ペッタンコのカバンが流行ったのはもう少し後ではなかっただろうか。ところが大学生になると1日の授業数が少ないので持ち歩く教科書数がグッと減った。ブックバンドで止めただけで持ちあるくことも多かったように思う。
それにしても「テニスコート」などと出てくるとさすが青学と思ってしまう。もちろん,当時でもテニスコートはどこの高校にも大学にもあった。あったがテニス部がインターハイを目指して血こそ流さないが汗を流す場所だった。一部にはテニスサークルもあったが,テニスはハイカラなスポーツだった。我々が主として遊びでやるスポーツは野球・ソフトボールの系統だった。
「チャペル」とか「テニスコート」には関係がない私の学生時代だったが,それでも「素晴らしいあの頃 学生時代」と唄うことはできる。学生時代にはレポートに追われていたのだが。
君たちがいて僕がいた(2014.6.27)
昭和39年,詞:丘灯至夫,曲:遠藤実,唄:舟木一夫
「清らかな青春 爽やかな青春」と始まるかなり長い台詞で始まる。歌は「心の悩みをうちあけ合って」と始まり「君たちがいて僕がいた」と終わる。
舟木一夫の学園ソングのひとつである。丘灯至夫の詞はこの歌に限らずわかり易い。私はわかり易い歌が好きだが,この詞は少し説明が過剰に感じる。字あまりで散文のようで,すこし緊張感が薄れてしまう。まあ,コテコテの青春ソングだが,嫌いではない。
君だけを(2014.4.9)
昭和39年,詞:水島哲,曲:北原じゅん,唄:西郷輝彦
「いつでもいつでも君だけを」と始まる歌。
西郷輝彦のデビュー曲である。大いにヒットしたので橋・舟木と共に御三家と呼ばれたわけだが,当初は出す曲出す曲ヒットしていたような印象だ。第6回レコード大賞新人賞を受賞している。
当時の私は御三家の中では西郷の評価が最も低かったのだが,現在テレビ露出が最も多いのが西郷だろう。テレビ出演と本人の能力は関係ないとは思うが,人気が続いていることの証拠の一つだろう。そういえば当時の私が高く評価しなかったビートルズも今だに人気があるようだ。
霧の中の少女(2015.10.14)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:久保浩
「涙はてなし雪より白い」と始まる歌。
当時はいろんな楽器にハマっていた。安い楽器は何種類も買った。ドラムセットなどは高かったので買えず,スティックだけを持っていた。全て教則本などでの独習だ。
一番長く続いたのがギターだ。最初は当時の定番『禁じられた遊び』が弾きたくて,クラシック系から入ったのだが,次に流しを目指して歌謡曲に興味が移った。歌謡曲では古賀政男から入り,最初は楽譜が読めないので暗譜で弾いた。この「霧の中の少女」は古賀メロディーを中退してから最初に練習した曲だ。最初は「いまもぼくのこころーーの」のところにある3連符が時間内に収まらず苦労したことを思い出す。
そのうちに楽譜がある程度よめるようになると,暗譜できなくなった。目と手は同期できるのだが,耳と手は同期できない。要するに音感が悪いのだ。暗譜したと思っていた曲も,恐らく楽譜を覚えたのではなく,指が動きを覚えたのだろう。
その後,ギターを弾かなくなって久しい。いまでは目と手の同期も完全に失われてしまった。
恋と涙の17才(2020.5.27)
昭和39年,詞:漣健児,唄:弘田三枝子
「あなたに 泣かされたけれど」と始まり。「あなたなしで やって行ける」と終わる。
原曲はLesley GoreのYou Don’t Own Me。原曲では「I’m not just one of your many toys」と言っているので,原タイトルとおり,何となく当時の女性解放運動の匂いがするが,弘田の歌はタイトルどおり「恋と涙の」という雰囲気で,当時はまだウーマンリブ運動が盛んではなかった日本の現実に合わせて漣がこのような詞にしたのだろう。漣がと書いたが作詞者を漣と書いたのは私の推測である。根拠は漣健児の作品一覧の中に弘田の「恋と涙の17才」があったので,かなりの確信をもって推測したものだ。歌詞はYoutubeで弘田の唄を聴いて,聞こえたように書いたもので,活字になった歌詞は見つけることが出来ず,作詞・作曲も確認できなかった。原曲をもう少ししらべれば原曲の作詞・作曲は調べられそうだが,この歌に対してそれほどの熱意を私が持っているわけではない。
まあ,もっとパワフルな歌唱が合う歌のほうがミコちゃんに似合っているとは思うのだが。
恋の山手線(2020.6.7)
昭和39年,詞:小島貞二,曲:浜口庫之助,唄:小林旭
「上野オフィスの 可愛い娘(こ) 声は鶯 谷わたり」と始まる。
もちろん,山手線には何度も乗車したことがあるが,詳しいことは何も知らないのでWikipediaを見てみて,その記述の長さに驚いた。とりあえず,路線としての山手線は品川から渋谷・新宿・池袋を経由して田端までらしい。このほかにも運転系統としての山手線(路線としては東海道本線や東北本線も含む)とか運賃計算上の山手線とかいろいろあるらしい。
ところで,山手線だが,これは「したまち」との対応で「やまのて」がもともとの呼び名だったが,終戦後,進駐軍が来てローマ字表記をすることになった際,どういうわけか「YAMATE」と書かれて「やまて」が一般的になった。昭和46年,国鉄は全駅名等に振り仮名をつけることにし,このとき「やまのてせん」として「やまのて」が復活した。
ということで,この歌は「やまてせん」と呼ばれていた時代の歌だ。
歌での起点は上野だから,国鉄での路線名というより,山手線と聞いたときの列車運行イメージだ。内回りで全駅名を歌い込んで御徒町で終わっている。駅名を歌い込むことが目的の歌。
鉄道唱歌のような路線の紹介というわけではない。地名を歌い込んだご当地ソングというより,名詞を歌い込んだ駄洒落ソングで,『自動車ショー歌』1)の系統の歌だ。
1) 「自動車ショー歌」(昭和39年,詞:星野哲郎、曲:叶弦大,唄:小林旭)
恋をするなら(2016.1.12)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「焔のように燃えようよ」と始まる歌。
「AAAAAA IIIIII EEOOOO AIO」と意味不明の歌詞もあるが,恋をすれば「夜はバラ色 夜明けもバラ色 今日も明日も明後日も」という,ある意味お気楽な歌だ。植木等の歌などもあるにはあったが,当時の歌としては珍しいように思う。東京オリンピックが開かれ,高度成長社会を実感できる層が出てきていたのだろう。多くの人々は高度成長を支えるため,懸命に働いていた。
困るのことよ(2017.12.17)
昭和39年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:都はるみ
「甘い言葉と知りながら うれし涙がポーロポロ」と始まる都はるみのデビュー曲。
最後のフレーズ「アラ 私だって だって 困るのことヨ」が耳に残る。
登場時には,変な歌手がでてきたと思ったが,そのうちに唄が上手いだけで個性がない歌手は売れなくなっていく。そのような時代になっても都はるみの個性は十分通用した。
ごめんねチコちゃん(2016.8.8)
昭和39年,詞:安部幸子,補作詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:三田明
「待ちくたびれて日暮れ路 知らんふりしていたっけね」と始まる歌。
雑誌『平凡』の歌詞募集でできた歌。
この歌でも「お下げ」が登場する。手入れが面倒だからだろうか,実生活でのお下げ髪は1割弱しかいなかったのではなかろうかと思うが,当時の歌詞にはしばしば登場している。
「お嫁にいくのとうつむいた」という状況で更に何かつぶやいたのに「聞こえぬふりして別れたが ごめんねごめんねチコちゃん チコちゃん」という歌だ。このつぶやきに男として何か答えるべきとは思いつつ答えきれなかった自分の不甲斐なさに「ごめんねごめんね」としか言えないのだろう。
当時は見合い結婚が一般的だった。実際には恋愛結婚も少なくなかったのだろうが建前としては見合い結婚が主だった。人は所帯を持って一人前という時代であり,適齢期になれば第三者(少なくとも本人以外で親や親戚も多い)が客観的(諸事のつり合い等)な評価を基に見合いを設定して適当?にくっつけたので,適齢期を過ぎる前にはほとんどが所帯を持ったのだ。当時,大家族制は既に崩れていたが親世代は大家族制で育ってきており,親の意識としては子供の結婚に責任を持つという意識と,本人が決めることが当世風という意識が共にあったのだろう。
その後,親子と言えども別人格という考えが浸透し,親が子供に干渉する度合いが激減した。自由競争の時代に入ったのだが狭い範囲での自由競争ならば勝ち組と負け組に別れるのは必然だ。自由競争では伴侶が得られない人のためのセーフティネットが消滅したのだ。
更に後には,経済発展により一人で暮らすことができるようになり,消極的に面倒な競争を避けたり,独り暮らし(昔は経済的理由で困難だった)しつつ積極的に仕事など別な生きがいを見出したり,逆に昔の仲人の評価に比べればはるかに低いハードルで相手を探す者などが増えて来たのが現代だろう。昔と今ではどちらがよいのだろうか。
さすらい(2015.5.12)
昭和39年,詞:十二村哲,曲:北原じゅん,唄:克美しげる
「泣いてくれるな流れの星よ 可愛い瞳によく似てる」と始まる歌。克美は後に刑事事件で話題になるが,当時は人気歌手の一人だった。
「独りになって 死ぬほど好きだと知ったのさ」とあるが,『逢えなくなって初めて知った 海より深い恋ごころ』と同じで当時の歌謡曲によくあったパターンの一つだ。ただ別れた理由が違うだけだ。新鮮な驚きはないが,聞きなれた状況なので安心して聴いて居られる。歌としては悪くないと思う。
1)「再会」(昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:松尾和子)
サヨナラ東京(2020.3.6)
昭和39年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:坂本九
「サヨナラ東京 サヨナラ恋の夜」と始まる歌。
東京で恋をしたが「今一人 この街を去る」という状況だ。
当時も今も生活のために転居を余儀なくされることがある。しかし当時と今の決定的な違いは交通と通信だ。当時,東海道新幹線が開通したとはいえ交通費は収入に比して高く,東海道以外の新幹線はまだ無かったので,遠くに住むということは直接会うことがほぼ不可能だった。携帯電話もなく,固定電話も未契約の世帯が多く,更に遠距離通話の料金は極めて高価だったので,ほぼ唯一の通信手段は手紙だった。このような状況の中で遠距離恋愛に挑戦した者もいたが,多くは途中で関係が消滅してしまった。空間的に離れるということは関係が途切れるということだった。
結局二人の意志とは無関係に,別れることを意味しているので,「涙で唄う サヨナラ東京」というわけだ。
サン・トワ・マミー(2014.8.3)
昭和39年,詞:S. Adamo/岩谷時子,曲:S.Adamo,唄:越路吹雪
「ふたりの恋は終わったのね」と始まる歌。去って行った男を想う歌。
原曲は昭和37年,Salvatore AdamoのSans Toi Mamie。
越路吹雪はシャンソン歌手として有名だ。私は一時外国の歌を聴いたこともあるが,シャンソンはほとんど聴いたことがなく,越路吹雪については歌謡曲とみなすこともできるこのような歌しか知らない。
歌声は力強く,「淋しくて眼の前が暗くなる」というような歌詞には合わないようにも思うが,声からは強そうな女の声に聞こえるが,心の内にこのような想いを秘めているということだろうか。
幸せなら手をたたこう(2015.11.6)
昭和39年,詞:木村利人,曲:不詳,採譜:いずみたく,唄:坂本九
「幸せなら手をたたこう」と始まる歌。元はスペイン民謡らしい。
大勢でその場に集えていることの幸せを感じるのに最適だ。スポーツ大会で応援しているチームが優勝してよろこびが爆発しているという感じではない。喜びを一人でかみしめて様子でもない。多人数が集まっていても抗議集会ではないし,災害非難でもない。
いろんなことはあるけれど,これだけ集まってまあまあ幸せじゃないか。この歌を皆で唄うともっと幸せになるよという歌。
潮風を待つ少女(2018.10.5)
昭和39年,詞:松田ルミ,曲:遠藤実,唄:安達明
「海のむこうから 潮風にのって きっとしあわせ くるという」と始まる歌。
安達のデビュー曲。
雑誌「女学生の友」(小学館)に連載されていた小説が「潮風を待つ少女」(著:佐伯千秋)だった。その主人公の名が安達明である。詞は雑誌「女学生の友」の歌詞募集への応募作(もちろん当選)だった。安達は主人公の名を芸名にしてでビューしたのだ。
「あすものぼるよ太陽が だからくじけちゃいけないと」というような歌詞もそうだが,曲全体がいかにも昭和30年代末期の歌という感じだ。
自動車ショー歌(2012.3.29)
昭和39年,詞:星野哲郎,曲:叶弦大,唄:小林旭
「あの娘をペットにしたくってニッサンするのはパッカード」という車をならべた歌詞の歌。外車も結構入っている。軽自動車はキャロルだけか。メーカー名もいくつか入っているが有名メーカーでも入っていないものもある。どのような基準で選んだのだろうか。恐らく,単純に,歌詞に入りやすいものを選んだということなのだろう。
メーカーや車種を網羅しているわけではないが,何となく当時の車事情を思い出す。まだ一般家庭の自家用乗用車は少なかった。しかし,この年ホンダがF1レースに参戦し,昭和40年にはメキシコGPで初優勝する。昭和37年には鈴鹿サーキット,昭和41年には富士スピードウェイがオープンし,自動車熱が高まってきていた。
この年東海道新幹線が開通した。これで東京−大阪が日帰り出張可能になった。世の中がスピードアップしつつあった。
十七才のこの胸に(2016.1.31)
昭和39年,詞:水島哲,曲:北原じゅん,唄:西郷輝彦
「風に吹かれた花びらを」と始まる歌。
西郷輝彦・本間千代子の同タイトル東映映画がある。
西郷輝彦のファンが映画を思い出しながら聞く歌だろう。歌詞も陳腐な言葉を並べただけだし曲もサビの部分しか印象に残らず,なにより西郷の発声が素人っぽい。と,当時の私は聴かない歌だった。当時の御三家,橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の中で西郷が一番きらいだったからだ。
しかし,この三人のうちの誰か一人になれるものなら,私は西郷輝彦になりたいと心ひそかに思っていた。当時はっきりと認識していたわけではないが,おそらく西郷の容姿にあこがれていたのだろう。西郷が嫌いだったのは,屈折した憧れだったのかもしれない。そのせいでこの歌に対する私の評価に影響がでているかもしれない。
十七才は一度だけ(2019.3.23)
昭和39年,詞:川井ちどり,曲:遠藤実,唄:高田美和
「谷のりんどう 山の百合 枝にないてる 鳥の声」と始まる歌。
典型的な青春歌謡。
歌詞からよほどの田舎の歌と感じるかもしれないが,当時は田舎と言うほどの地域でなくてもこのような景色は普通だった。地方都市ならほんの少し歩くだけでこのような景色に出合えたのだ。
何はともあれ,当時の(今も?)16〜18才は特別な年齢でいろんな歌でこの年齢が歌われている。
ジューン・ブライド(2018.2.14)
昭和39年,詞:岩谷時子,曲:宮川泰,唄:ザ・ピーナッツ
「ジューン・ブライド お母さま お願い」と始まる歌。
ウェディング・ドレスを着たいという歌。
近所に花嫁がいなかっただけかも知れないが,このころ花嫁が自宅からでるのを見ることは少なくなっていた。以前は自宅からでる花嫁をよく見たものだが,ほとんどが文金高島田だった。流石にタクシーだったが,花嫁の頭がぶつからないように特別に車高の高い車だった。嫁入り荷物は紅白の幕で包んでトラックで運んでいた。お嫁さんや嫁入り荷物の車と対向してすれ違えない場合には,対向車が道を譲った。お嫁さんの車がバックするのは縁起が悪いという訳だ。近所で嫁取りがある場合には嫁入り荷物を見に行った。箪笥なども全て開けて中のものをご近所に披露していた。その後,嫁入り道具の運搬には,雨や直射日光に耐えられるよう,天井付きで側面がガラス張りの専用トラックができたが,このトラックも最近はほとんど見たことが無い。
なにはともあれ,この歌の当時は教会でならば洋装,教会以外なら和装の式で,教会での式は少なかったように思う。つまり,多くの人が和装で式を挙げる時代にこの歌の主人公は洋装を望んだようだ。
しかし,ウェディングドレスに対する憧れは小さくなく,その後しばらくすると和装で神前結婚しても,披露宴でお色直しの際にウェディングドレスを着たりするようになる。さらに時代が下ると教会での式が珍しくなくなり,現在ではどうなっているのやら。
尚,日本のホテル業界などがジューン・ブライドを宣伝し始めたのが昭和42・3年だそうだから,この歌の主人公はそれより前にウェディングドレスを着てジューン・ブライドになることを願っていたことになる。岩谷がシャンソンを始めとする欧米文化に親しんでいたからこのような詞ができたのではないか。
女学生(2016.3.30)
昭和39年,詞:北村公一,曲:越部信義,唄:安達明
「うすむらさきの藤棚の 下で歌ったアベ・マリア」と始まる歌。
安達明は男性アイドルの先駆けではないだろうか。しかし活動期間が短く,彼の曲としてはこれしか知らない。
この歌は清純派である。三田明や舟木一夫の歌も清純派の部類だろうが少しこの歌とは違う。舟木一夫は健やかな青少年の歌だが安達の歌は絵に描いたような無菌の少年の歌のようだ。舟木の歌のほうがリアリティをより強く感じる。
人生賛歌(2019.11.30)
昭和39年,詞:森重久彌,曲:山本直純,唄:森重久彌
「どこかでほほえむ 人もありゃ どこかで泣いてる 人もある」と始まる歌。
いろんな人生がある。「今日も誰かが 涙する」「だけどだけど これだけはいえる 人生はいいものだ いいものだ」というのが結論だろう。
『花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき』というのなら「人生はいいものだ」という結論に至るかどうかは疑問だが,『花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり』が林芙美子の原文らしい(未確認)。こちらの方だと「人生はいいものだ」と言えるだろう。同じように不遇であっても,それでも「人生はいいものだ」と感じられる性格が幸せを招くことができるのだろう。不平たらたらの人生では幸せは逃げてしまう。
歌われている内容には全く同感だが,唄を聴くと何となく説教臭く聞こえる。「人生はいいもんだ」と言葉に出さずに感じさせることができれば最高だと思うのだが。
素適な新学期(2020.5.12)
昭和39年,詞:Jill Jakson/Ray Hildebrandt/漣健児,曲:Jill Jakson/Ray Hildebrandt,唄:田辺靖雄と梓みちよ
「校舎のかげで 大きなひとみの 君を見かけて 胸がドキドキ」と始まる歌。これには「あたしもそうなのよ」と答える。
青春ソング。爽やかデュエットとでも呼ぶべきか。
原曲はPaul &Paulaの「First Day Back at School」。
砂に消えた涙(2016.5.21)
昭和39年,訳詞:漣健児,曲:P.ソフィッチ,唄:弘田三枝子
「青い月の光を浴びながら 私は砂の中に」と始まる歌。
原曲はMinaのUn Buco Nella Sabbiaとのことだが原曲を聞いた記憶がない。
ザ・ピーナッツ,黛ジュン,伊東ゆかりらも唄っているらしいが私は弘田三枝子の印象が強い。
失恋の歌と言うべきだろう。いろんな思い出が嘘で固められたものだったということに気づき,涙と共に思い出を処分する歌である。
当時,イタリアン・ポップスもかなり流行していた。
青春の城下町(2019.7.8)
昭和39年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:梶光夫
「流れる雲よ 城山に のぼれば見える 君の家」と始まる歌。
青春の思い出の歌。思い出といっても当時の青春,「はじめてふれた ほそい指」程度のささやかなものだが,当時は意識し始めた相手と指が触れ合うというのは大変な出来事だった。だからこそ『フォークダンスの手をとれば』1)というのが強く心に残ったのだ。
この歌は,歌唱も含め,とても爽やかな歌だ。
「故郷に 僕が 帰る日を 待っておくれよ 天守閣」とここで天守閣が出てくるのは,直接相手に待てとは頼めなかったのか,いつまでも立ち続けるだろう天守閣のように待ち続けて欲しいと願ったのかは解らない。
このような思い出の歌では鎮守の森がしばしば登場するように思う。私の子供の頃の活動領域内にも3社の神社があった。どこでも遊んだことはあるが子供の頃の思い出として最初に思い出す場所ではない。これは住宅街にあり,すぐ近くまで行かないと神社の木立は見えなかったからだろう。田圃の中の鎮守様ならどこからでも見えたので子供の頃の原風景として焼き付けられていても不思議ではない。天守閣が残っている城下町なら,町のどこからでも見えるから原風景になるのだろう。
私にとっての思い出の風景は鈴鹿の山だ。学区内のどこからでも鈴鹿山脈が見えたので,夏休みには鈴鹿山脈に沈む夕日の位置を山脈の図に毎日記録するという宿題がでた。町内子供会の遠足?などで鈴鹿の山にはよく行った。鈴鹿の山と言ったが,交通費の関係で鈴鹿市ではなく菰野町にある御在所や鎌ヶ岳がほとんどだが,中学校の学校行事ではバスがチャーターされたので少し離れたキャンプ場がある場所から登ったりした。一緒に山に行っていた友人とは大学生になって離れ離れになり,以後あまり山には行かなくなったが,世の中ではまだ登山やワンダーフォーゲルの人気は落ちてはいなかった。大学の同級生でも山好きは何人もいたが,対象が日本アルプスなどなので私が同行することはなかった。
年老いて,思い出す故郷の山河があることは幸せなことかもしれない。普通の建物ばかりの中で子供時代を過ごせば,何10年か後にその場所に戻っても記憶にある物は残っていないかもしれない。小学校に上がる前に住んでいた社宅があった場所を数10年後訪れてみたら,大きな道路が通っており,たくさん並んでいた小さな社宅は跡形もなく,私が住んでいた辺りには大きなホテルが建っていた。
1)「高校三年生」(昭和38年,詞:丘灯至夫,曲:遠藤実,唄:舟木一夫)
ゼッケンNo.1スタートだ(2019.8.26)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「ああ むき出しで 取組むだけさ 輝け輝け 白いヘルメット」と始まる歌。
レコードの冒頭にはエンジン音が入っており,カーレースの雰囲気をだしてはいるが,曲にも詞にも緊迫感が無い。リズムは一応ロックだが,この緊張感のなさは橋の唄にも原因があるだろう。
アドレナリンが出っ放しになるのは素人で,プロは冷静にレースに参加するのかもしれないが,素人としてはやはりもっと緊迫感が欲しい。
詳細は覚えていないが,ラジオドラマ『少年No,1』や,やや緊迫感が薄れるがテレビアニメ『マッハGoGoGo』の主題歌の方がハラハラ・ドキドキ感があったような気がする。
そこは青い空だった(2018.1.9)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫&吉永小百合
「北の端から 南の端から 夢のジェット機727」と始まる歌。
国内線のジェット化にボーイング727を導入することを運輸省が決定し,全日空が羽田―札幌間に採用した。
戦後の歌に登場する乗り物は列車か船が圧倒的に多かった。例外的にバスが登場する歌1)もある。飛行機らしきものが登場するのは『羽田発7時50分』2)しかすぐには思いつかない。
戦後はGHQ3)により民間航空の活動が禁止されていたが,これが解除されたのが昭和26年である。このときは日本航空が最初の運行を行ったが,機体もパイロットもノースウエスト航空に委託しての運行だった。しかし昭和39年の東京オリンピックに向け,名神高速道路,東海道新幹線などとならんで空の交通も近代化していった。
1)「田舎のバス」(昭和30年,詞:三木鶏郎,曲:三木鶏郎,唄:中村メイコ),「東京のバスガール」(昭和32年,詞:丘灯至夫,曲:上原げんと,唄:コロムビア・ローズ)
2)「羽田発7時50分」(昭和33年,詞:宮川哲夫,曲:豊田一雄,唄:フランク永井)
3)Gencerall Head Quarter: 連合国最高司令部
俵星玄蕃(2020.7.15)
昭和39年,詞:北村桃児,曲:長津義司,唄:三波春夫
「槍は錆びても 此の名は錆びぬ 男玄蕃の 心意気」と始まる。
赤穂浪士の討ち入りを題材にとった長い歌。
このような歌を歌謡浪曲というのだろうと何となく思っていたのだが,念のためにWikipediaを調べてみた。解ったことはこの曲の正式名称が「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」ということだ。確かに普通の歌謡浪曲が歌謡曲1曲分の長さなのにこの歌は長い。挿入されている節や台詞が長いので「長編」となっているのだろう。
SP盤の時代は収録長さが決まっているので1曲の長さは決まっていた、EPやLPが出てから1曲の長さの物理的制限はなくなったように思うが,習慣としてこの頃はまだ1曲の長さというのはほとんど同じだったように思う。長い歌が登場するのはもっと後だ。
ところで,作詞の北村桃児というのは三波のペンネームだ。
だまって俺について来い(2014.9.16)
昭和39年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:ハナ肇とクレイジー・キャッツ
「ぜにのないやつぁ俺んとこへこい」と始まる歌。メインボーカルは植木等である。
2番は「彼女のないやつぁ」,3番は「仕事のないやつぁ」と始まる。当時はこれらが欲しいと思っている人間が多数いたのだろう。当時に限らずいつもかも知れない。「俺んとこへこい」と言っていながら自分も何もなく,単に「そのうちなんとかなるだろう」というだけだ。
植木は無責任男のシリーズで有名だが,これは青島により作られた虚像だろう。私の高校時代の先生が植木と(1本の煙草を分けて吸う程度の)友達だとのことで,何度か植木の話を聞いた。この先生には,当時(の若い人)としては珍しい褌を着用しているという噂があった。銭湯などでそれとなく観察すると,年配の人の褌は珍しくはなかったので,当然ありうるとは思っていた。
ダンケ・シェーン(2020.6.15)
昭和39年,詞:Bert Kaempfert・加茂亮二,曲:Bert Kaempfert,唄:弘田三枝子
「ダンケシェーン ダーリン ダンケシェーン」と始まる。
「愛の喜びも 恋の苦しさも」と続く。
その後も,何度も最初のフレーズが繰り返されることくらいしか記憶にない。たまたまYou tubeで見つけ,そういえばこんな歌もあったなあとかすかに思い出したので,忘れないためのメモとして記載した。
この歌の作詞・作曲情報は不明だったのだが,追加情報を検索していたところ,ザ・ピーナッツも同じ曲を唄っていた。こちらは作詞・作曲情報も完備していたのでこれを書き写しておいた。
智恵子抄(2015.6.11)
昭和39年,詞:丘灯至夫,曲:戸塚三博,唄:コロムビア・ローズ(二代目)
「東京の空 灰色の空 ほんとの空が見たいという」と始まる歌。
「智恵子抄」は高村光太郎の詩集である。初版後にも作品を追加した同タイトルの詩集が出版されているほか,佐藤春夫の小説や原節子主演の映画などになっており,多くの人々が内容を知っている話の歌バージョンである。智恵子はこの原節子の他,新瑞三千代・岩下志麻・佐藤オリエらによって演じられ,やや新しくは南果歩によっても演じられているらしい。
若い人は,あるいは昭和40年頃の人々は冒頭の「灰色の空 本当の空が 見たいという」でスモッグに覆われた東京の空を想像するかもしれないがそうではない。高村の詩集には『むかしなじみのきれいな空だ』1)とある。そもそも元の詩が作られたのは昭和3年で,当時は今のように自動車も走っていなかった。芸術家としての智恵子には東京の空は空でないと見えたのであろう。智恵子は昭和6年に精神に変調をきたす。病状は好転せず,昭和13年にはレモンをかじり,一瞬正気を取り戻すが帰らぬ人となる2)。しかし高村は昭和24年になってもなお『智恵子はしかも実在する』3)と書いている。
彫刻家としての高村光太郎の最後の作品は十和田湖国立公園の「おとめ像」(昭和28年)である。草野心平はその顔が智恵子そっくりだと書いている4)。光太郎は昭和31年に他界しているが,智恵子亡きあとも死ぬまで智恵子のことを想っていたのである。
次第に歌手もどきが増えつつあるこの頃でも,二代目コロムビア・ローズは正統派の流行歌手である。皆が話を知っているからこそ,細かい説明が無くても彼女の美しい歌声に光太郎の愛を思い涙できるのだ。
1)高村光太郎:「あどけない話」昭和3年,『智恵子抄』収,原文は『智恵子は東京に空が無いといふ,ほんとの空が見たいといふ。私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは 切っても切れない むかしなじみのきれいな空だ。・・・』
2)高村光太郎:「レモン哀歌」昭和14年,原文は「・・・わたしの手からとつたひとつのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ・・・その数滴の天のものなるレモンの汁は ぱつとあなたの意識を正常にした・・・かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた それからひと時 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた・・・」
3)高村光太郎:「元素智恵子」昭和24年,「智恵子抄」収。原文は「智恵子はすでに元素にかへつた。わたくしは心霊独存の理を信じない。智恵子はしかも実存する。智恵子は私の肉に居る。・・・」
4)草野心平:「悲しみは光と化す」昭和31年,「智恵子抄」(新潮文庫)収。原文は「・・・十和田湖畔に甦ったモニュマンの顔は智恵子さんそっくりといっていい。智恵子さんとはまるっきり別なモデルを使って出来上がったものだが,顔は智恵子さんである。・・・」
CheCheChe〜涙にサヨナラを〜(2015.12.20)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「忘れちゃいなと風が吹く」とはじまる歌。佐伯・吉田・橋トリオの曲としては意外なロック系リズムの曲である。
この前にも『恋をするなら』1),この後には『あの娘と僕~スイム・スイム・スイム』2)などを出し,橋幸夫もついに路線転換したかと思った。曲として,似た感じを受ける橋の歌では『恋をするなら』のほうが好きだ。
詞としては,「あの娘」が「外車に乗っていた」のを「チラッと見かけた」が「そっぽむいてた」「チェッチェッチェッ」という歌だ。
当時はまだ自家用車の乗用車は少なかった。しかし自動車熱は高まっていた。
昭和39年の第2回日本グランプリにスカイラインGTで参戦し,ポルシェ904に破れたプリンス自工は昭和40年にR380を開発,昭和41年には第3回日本グランプリでR380A-Iが優勝した。プリンス自工はこの年日産自動車と合併し,以後はニッサンR380となる。
当時も欧州車は輸入されていたが,私の中では外車といえばアメ車をイメージしていた。BMWなどはHarleyのような2輪車メーカーだと思っていた。呼称もビー・エム・ダブリューではなく,ベー・エム・ヴェーだった。
1)「恋をするなら」(昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)
2)「あの娘と僕~スイム・スイム・スイム」(昭和40年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)
チェッチェッチェッ(涙にさよならを)(2019.1.27)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「忘れちゃいなと 風が吹く あきらめちゃいなと 雪が降る」と始まる歌。
「あの娘」が「夜更けの外車に乗っていた」のを見てしまったのだ。当時国産車もあったが,高級乗用車は外車だった。そして国産車でさえも持っている人は極めて限られていた。
この時代はよく知らないが,恐らく身近でない異性と知り合うきっかけは,見合いの他には合ハイというのがあった。大抵は知り合い同士の男女がそれぞれの友人達に声をかけ,合同でハイキングに行くのだ。登山というほどではなく,バレーボールやバドミントンができるようなハイキングだ。後には合ハイはすたれ,合コンが盛んになる。合同コンパだ。
合コン時代には私はもう学生を卒業していたが,当時の学生の話では,合コンのコネがないばあい,直接アタックという方法もあったそうだ。女子大の校門付近で学生に順次声をかけるものだ。この際,国立工学部の学生は地下鉄や自転車で行くのだが私立歯学部の学生などは自家用車で行く。勝負がついて負けた方は「ソッポ向いてた チェッ チェッ チェッ」となるわけだ。
これがおよそ10年後の様子だ。しかし次の10年を待たず国立大もキャンパス内は車で溢れるようになった。
チャペルに続く白い道(2013.7.20)
昭和39年,詞:水島哲,曲:北原じゅん,唄:西郷輝彦
「ネムの並木のこの道は」と始まる歌。
西郷輝彦の歌の中では好きなほうだ。「チャペル」という言葉はこの歌で初めて知ったのではなかっただろうか。
「あしたも二人であるこうね」と幸せの中にあるが,「明日の幸せ夢みてた」とその幸せに気づいてはいないようだが,「雨や嵐に負けないで」と自覚してはいない幸せを糧にして種々の障害に立ち向かっていこうという応援歌で清清しい。このような幸せは失ってからでないと気づかないものだ。
もっとも,「明日の幸せ」というのは「チャペルに続く」道の先にあるゴールの意味かもしれない。これならば「明日の幸せ」を夢見ていること自体に十分幸せを感じているだろう。
チャペルに続く白い道(2016.2.24)
昭和39年,詞:水島哲,曲:北原じゅん,唄:西郷輝彦
「ネムの並木のこの道は チャペルに続く白い道」と始まる歌。
「雨に嵐に負けないで」とか「暗く貧しいすぎた日も」などとあり,青春応援歌のひとつだ。貧困から脱出しつつあった時代の歌のように思う。しかしこの当時でもなお南米に移民する人々がいたし,マスコミの「北朝鮮は地上の楽園」との報道を信じ,新生活を夢見て北朝鮮に帰国した在日朝鮮人やその日本人妻などが多数いた。昭和46年に南米への移民船が廃止された。北朝鮮への帰還事業が終了したのは昭和59年である。戦前も,ハワイやアメリカあるいは満州などに移住すれば,日本にいるよりましな生活ができるかと移住したのだ。
なお,チャペルなどというハイカラな言葉はこの歌で覚えたと思う。ひょっとしたら『学生時代』1)で覚えたのかもしれないが,印象としては西郷輝彦のほうが強い。
1)「学生時代」(昭和39年,詞:平岡精二,曲:平岡精二,唄:ペギー葉山)
東京の灯よいつまでも(2013.10.26)
昭和39年,詞:藤間哲郎,曲:佐伯としを,唄:新川二朗
「雨の外苑夜霧の日比谷」と始まる歌。
江戸っ子の歌には聞こえないが,東京に親しみを感じている者の歌だ。親しみを感じる理由として,思い出があるのだろう。「君はどうしているだろうか」。『あの人どうしているかしら』1)と,同じ心境を歌った女歌もあるが,このような感傷は男のものだと思う。想い出の内容が具体的に示されておらず,いろんな状況に当てはめることができ,メロディーと新川二朗の声のマッチングもよい。
1) 「おもいで酒」(昭和54年,詞:高田直和,曲:梅谷忠洋,唄:小林幸子)
何も云わないで(2014.10.29)
昭和39年,詞:安井かずみ,曲:宮川泰,唄:園まり
「今は何も云わないで だまってそばにいて」と始まる歌。
三人娘の中では園まりが一番優しそうに唄う。伊東ゆかりも優しく唄うのだが,声が強い意志を内に秘めているように聞こえる。中尾ミエは一番フランクに聞こえる。その園まりが「それだけでとてもうれしい」と唄うのだからハッピーな歌だ。当時の私にはそのようなバピネスとは無縁だったが,いつかその日が来ると夢見て聴いていた
涙の酒(2016.9.8)
昭和39年,詞:伊吹とおる,曲:小池青磁,唄:大木伸夫
「男一途の火の恋を 何で涙でけされよう」と始まる歌。
経緯は不明だが,元恋人に未練を抱きつつはしご酒をしている男の歌。
私の歌謡史の認識では流行歌が歌謡曲とポップスに分化していき,更にフォーク系が登場する。フォークは更に細分化され,途中で咲いた花がグループサウンズだ。歌謡曲の先には演歌が生まれる。歌謡曲からポップス寄りに進化したのがアイドル・ソングだ。フォーク系からはニュー・ミュージックが生まれ平成になるとJ-POPが誕生する。
この歌は歌謡曲界では青春歌謡の印象が強く残っていた時期だったので,私の印象には残らなかったが,昭和40年代後半からの演歌を先取りしたかのような歌である。発売時期が早すぎたというのが私の感想だ。
涙を抱いた渡り鳥(2013.12.8)
昭和39年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:水前寺清子
「ひと声ないては旅から旅へ」と始まる歌。水前寺清子のデビュー曲である。デビューからしばらくはボーイッシュなスタイルを続けていた。声にも特徴があり,首から上だけで発声しているように聞こえながら,力強い美声だった。内に力を込めて唄っているのが都はるみなら外に力を放出しながら唄っているのがチータだ。チータとは小さい民子(水前寺の本名)の意味らしい。
その後,藤圭子がでて,藤の歌が演歌・怨歌と呼ばれるようになると水前寺の歌は援歌と呼ばれたりするようになる。人生の応援歌を歌うことが多かったということであろう。この歌は援歌と言えなるほどではないが,「心の傷を隠す笑顔に月も輝る」と涙を内に抱いて隠しながら,渡り鳥のように旅を繰り返す自分自身への応援歌といっても良いかもしれない。
新妻に捧げる歌(2013.3.19)
昭和39年,詞:中村メイコ,曲:神津善行,唄:江利チエミ
「幸せをもとめて二人の心は」と始まる歌。
歌詞は,教会での結婚式で「Yes, I do.」と答える前に告げられている言葉のようで,新鮮味がないとはいえ,結婚式にはふさわしいのだろう。披露宴でこの歌が唄われることもあった。
当時はクリスチャン以外が教会で式を挙げることはなく,神道の信者でなくても,初詣に神社に行く程度に神前結婚が多かったと思う。初詣にお寺に行く人も多いが,お寺で結婚式をしたのは1カップルしかしらない(出席はしていない)。その後キリスト教式の式には何度か出席したことがある。
一時,友人の結婚式(披露宴)の司会がよく廻ってきた。同級生の就職先は似たような業界が多いが,同業他社の友人に司会を頼むより,大学に残った私のような者のほうが安全だと考えられたのだろうか。これらはほとんど神前結婚だった。良くは知らないが,神前だと角隠しをしたいわゆる花嫁さんとして挙式が可能で,なおかつ,披露宴のお色直しでウェディングドレス(もどき)を着ることができるからではないかとも感じていた。ウェディングドレスで挙式した後,和服に着替えるのは大変そうだが,和装で挙式した場合はほとんど確実にお色直しでの洋装があった。
新妻に捧げる歌(2015.7.10)
昭和39年,詞:中村メイコ,曲:神津善行,唄:江利チエミ
「しあわせを もとめて ふたりのこころは」と始まる歌。
「悲しみをなぐさめ よろこびをわかちあい」とキリスト教系の結婚式での誓いの言葉1)に似た内容の歌詞で,結婚式(の披露宴)でよく聴いたことがある。
最後は「ララララ・・・」と繰り返すだけだが,余計な言葉は不要だということだろう。曲も厳粛さと華やかさを兼ね備えており唄いやすい良い曲だ。
1)「健やかなる時も,病めるときも,喜びのときも,悲しみのときも,富めるときも,貧しいときも,・・・中略・・・誓いますか?」と聖職者に尋ねられたら「Yes, I do.」と答えて誓が成立するのだと聞いたことがある。後に,「Yes, you can.」という言葉が流行ったが,この類似表現と関係があるのではないかと考えるのは考え過ぎだろうか。
ネイビー・ブルー(2020.4.6)
昭和39年,詞:漣健児,曲:B.クリィー/E.ランボウ/B.リハーク,唄:九重佑三子/ダニー飯田とパラダイスキング
「シャラララ シャラララ・・・ ブルー ネイビー・ブルー あたしの彼は 青いおめめをした水兵さん」と始まる歌。
「大きなお船で彼は海の上」「わたしのハートの柄も ブルーなのよ」という歌だが,歌詞が心に浸み入るとは言い難い。元詞を知らないが,元詞を生かそうと無理に翻訳したのではないだろうか。
日本のポップスと言えば外国曲に日本語歌詞をつけてカバーしたものという時代の末期の歌だろう。昭和40年代になるとポップスでも純和製が主流になった印象だ。
花咲く乙女たち(2014.1.13)
昭和39年,詞:西條八十,曲:遠藤実,唄:舟木一夫
「カトレアのように派手なひと」と始まる歌。
「ひと」というのは女性だろう。「鈴蘭」「忘れな草」と一番は花尽くしだ。二番・三番では花ではないが,いろんな「ひと」が歌われている。この「ひと」は一人の「ひと」ではなく,皆違う「ひと」のようだ。「ああだれもがいつか恋をして はなれて嫁いでゆくひとか」と歌われており,思い出のように歌われている「ひと」も遠い過去の思い出ではなく,これらの「ひと」はまだ幼いといってよいほど若い「ひと」だ。
あう「ひと」みなそれぞれの魅力を感じるが,まだ特定の花を選びきれてはいない,「恋」に恋している少年の歌だ。『不純異性交遊』などという言葉が力を持っていた時代の,『純粋・純情』な少年の歌である。とするとイメージ的には舟木一夫も悪くはないが,三田明や安達明のほうが合いそうかもしれない。
『清水へ祇園をよぎる櫻月夜 今宵会う人みな美しき』(与謝野晶子)
花と竜(2020.5.15)
昭和39年,詞:二階堂伸,曲:北くすお,唄:村田英雄
「波も荒けりゃ 心も荒い 度胸ひとつの 玄海男」と始まる。
二階堂伸と北くすおは共に村田のペンネームだから作詞・作曲も村田英雄である。
「花と竜」は昭和27年から読売新聞に連載された火野葦平の小説。主人公の玉井金五郎は著者の父親で,実名小説である。昭和29年から何度か映画化されていて,藤田進,石原裕次郎,中村錦之助,高倉健,渡哲也などが玉井金五郎を演じている。テレビドラマでは鶴田浩二,辰巳柳太郎,村田英雄,渡哲也,高嶋政宏などが演じている。『男は度胸 女は愛嬌』の時代の話であり,歌である。
この歌は村田版のテレビドラマの主題歌。
馬鹿は死んでも直らない(2019.12.31)
昭和39年,詞:塚田茂,曲:萩原哲晶,唄:植木等
「バカにバカたしゃ バカばかり バカからバカ引きゃ うすらバカ」と始まる歌。
とにかく「バカ」という単語が何度も登場する歌。この歌からは軽薄な印象しか受けない。
このフレーズの元は広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝』(昭和12年)だろう。森の石松を評して『バカは死ななきゃ治らない』という一節がある。このフレーズは当時有名で,『恋は死ななきゃ治らない』1)などというパスティーシュ(パロディ?)もあった。
ただ,石松のバカさは軽薄さというよりは,馬鹿正直で悪知恵を働かせないというキャラクター設定になっているように思う。実際?石松は旅の途中で預かっている高額の香典のことを馬鹿正直に話してしまい,殺されて金を奪われてしまう。
1) 「恋は神代の昔から」(昭和37年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:畠山みどり)
ひょっこりひょうたん島(2015.8.7)
昭和39年,詞:井上ひさし・山元護久,曲:宇野誠一郎,唄:前川陽子とひばり児童合唱団
「なみをチャプチャプチャプチャプかきわけて」と始まる歌。
昭和39年から昭和44年までNHKで放映された人形劇の主題歌。番組を観ていた記憶はあまりないが,歌を知っているということはテレビは点いていたのだろう。
主人公が活躍する場所があちらこちらに在るドラマでは,少数の主人公だけが移動するものが多いが,これは漂流する島という設定なので島全体でいろんな所へ行けるため,レキュラーメンバーが一緒に移動できる。スタートレック1)のように大型の宇宙船なら乗組員全員が移動するが,島の住人全員が移動するというのは卓越したアイディアだ。いろんな話が書けそうだ。
1)「Star Trek」:昭和41年に放映開始された米国のSFテレビドラマ。当然のことだが,艦隊クルーはまとまって移動する。
悲恋のワルツ(2019.9.28)
昭和39年,詞:C.N.McCaarthy/漣健児,曲:C.N.McCarthy,唄:フランク永井
「悲しい恋のワルツ 去りにし愛の その想い出だけが」と始まる歌。
原曲のタイトルは I Don’t Want To Be Hurt Anymoreだ。
私には3拍子の歌はどうも馴染めない。3拍子の曲でも名曲は少なからずある。ただ,私には6拍子のほうがまだ身体のリズムを合わせることができる。ワルツなどと聞くとヨーロッパ宮廷の舞踏会のようで異世界の音楽と感じてしまう。『ゲイシャワルツ』1)や『美しき天然』2)ならまだついて行けるが。
1)「ゲイシャワルツ」(昭和27年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:神楽坂はん子)
2)「美しき天然」(明治33年,詞:武島羽衣,曲:田中穂積)
二人の星をさがそうよ(2015.11.27)
昭和39年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:田辺靖雄
「淋しやこの街 たそがれかなし」と始まる歌。
今だと,都会の空には多くの星は見えないのではなかろうか。しかし,当時は「ビルの谷間の小さな空にも 星は生まれる愛の星」と思えるほど,星が見えたのだ。数えきれない星が見えるからこそ,二人の星が,愛の星が生まれるなどという発想が湧くのだろう。
はっきりとは覚えていないが,この頃,私が住んでいた地域は大気汚染が激しく,あまり星は見えなかったのではなかろうか。公害と呼ばれたものは水質汚染が多かったがこの地域は大気汚染が激しかった。海水の汚染もあったが海上保安庁の職員が排水問題を摘発した。大気汚染の問題は,このころから煙突を高くして排ガスを拡散させようとしたが,当初は汚染地域が拡散しただけだった。その後,硫黄分の少ない石油の使用や脱硫装置その他の技術的進歩を取り入れた環境対策により,昭和62年には環境庁から『星空の街』に選定されるまでに回復した。
ところで,駅周辺の繁華街が当時に比べて活気が少ないように感じる。自家用車が普及し,駐車場完備の大型店が郊外に移転したことが原因だろう。景気が悪くコンビナートの稼働率が減って大気が綺麗になったのでなければよいが。
星空のあいつ(2014.12.11)
昭和39年,詞:水島哲,曲:北原じゅん,唄:西郷輝彦
「星空のあいつは気のいいあいつ」と始まる歌。
後に御三家の一人となる西郷も当時の声は初々しい少年の声だ。男同士の青春ソングだ。
「あいつ」が今どうしているのかが歌詞からは解らない。今のように電話やメールで簡単に連絡が取れる時代ではなかったので,連絡が途絶えてしばらくすると,当時は簡単に音信不通になった。「あいつ」は今ごろどこでどうしているのだろうという歌だと私は解釈している。「あいつ」が星になってしまっていると解釈できないこともないが,それではあまりに悲しすぎる。
御三家の中で橋幸夫は少し昔の青年・・・昔は成人になるのが早かったから今でいえば少年だろうか・・・の歌を中心に唄っていたが舟木一夫と西郷輝彦は現代(すなわち当時)の青少年の歌を唄うことが多かった。初期の舟木は学園ソングに特徴があった。歌われているのが集団だったといってもよいだろう。これに対して西郷の歌はもっと個人的だ。この歌では相手は男のようだが,相手が男であれ女であれ,関係が個人的なのだ。橋の歌は設定されている時代も少し古いだけでなく,孤独を感じさせる歌だ。他の人物が登場していても,その他者との関係が孤独を感じさせるのだ。
ほほにかかる涙(2018.2.26)
昭和39年,詞:Lunero/安井かずみ,曲:Lunero,唄:ザ・ピーナッツ
「あなたは知ってる このほほの涙」と始まる歌。
既存の曲を唄ったのだろうから仕方がないが,「あなたを思って このほほの涙」などの詞と曲の組み合わせが,私がよく聴いたピーナッツとはやや趣が異なる。ピーナッツには涙はあまり似合わない。たとえ涙を流すことがあっても,もっと明るく唄うのが似合う。
ホラ吹き節(2019.6.11)
昭和39年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:植木等
「さあー イッチョウ ブァーッといくか!」という台詞から始まる。
歌は「ホラも吹かなきゃ ホコリも立てず」と始まる。「酒も呑まなきゃくどきもしない イビイビ暮らしても世の中ァ同じ」と青島節だ。但し,「イビイビ暮らす」とはどういうことなのかは雰囲気しか解らない。どういう意味かよくは解らないが「ブァーッといこう」という歌。
マイ・ボーイ・ラリポップ(2018.12.2)
昭和39年,詞:R.Spencer/J.Roberts,訳詞:安井かずみ,曲:R.Spencer/J.Roberts,唄:伊東ゆかり
「マイ・ボーイ・ロリポップ いつもそばにいて」と始まる歌。
詞も曲も,いかにも『ザ・ヒットパレード』1)で唄われそうな歌。
『ザ・ヒットパレード』と言えば,ナベプロのタレントを思い出すが,最も印象に残っているのはスマイリー小原とスカイライナーズだ。
当時のもう一つの代表的歌謡番組は『ロッテ歌のアルバム』2)だろう。こちらは歌謡曲中心だった。司会の玉置宏が印象に残っている。
ラジオなら『不二家歌謡ベストテン』3)だ。こちらの司会はロイ・ジェームスだった。
ラジオでは外国ポップスもよく聴いたが番組名には記憶がない。
話がそれたが,この歌は典型的な和訳ポップスということだ。
1)「ザ・ヒットパレード」(昭和34年~昭和45年,フジテレビ系で放送されていた音楽番組。特に初期は外国のポピュラーソングの和訳歌詞をナベプロのタレントが唄っていた。)
2)「ロッテ歌のアルバム」(昭和33年~昭和54年,東京放送(現TBS)系。)
3)「不二家歌謡ベストテン」(昭和41年~昭和57年,ニッポン放送系,その後も司会者を変え昭和62年まで続く。)
まだみぬ君を恋うる歌(2015.9.2)
昭和39年,詞:丘灯至夫,曲:山路進一,唄:舟木一夫
「夕陽の空に希望(のぞみ)をかけて」と始まる歌。
「この世にひとりいる筈の まだ見ぬ君を恋うるかな」と恋に恋する歌だ。
ところで「この世にひとりいる筈」などというアリストパネス1)のような考えはいつごろから日本にあるのだろうか。月下老人2)が操る赤い糸というのもあるようだ。
しかし,昔の物語などでまだ見ぬ運命の人が出てくる話を思い出さない。赤い糸は個人と個人の間に結ばれているようだが,家族制度が変わる戦後までは家と家との結びつきというのが一般的な考えだったのではないだろうか。もちろん,出会った後,運命的な出会いだと感じたという話はあった。定めの人と聞くと,私には親が決めた許嫁のイメージだ。
白馬に乗った王子様は数が少ない。やってくるのを待っても自分のところには来ないかもしれない。それに気づけばすべての人に相方がいるというアリストパネスの説のほうが誰にも希望を与える。但しその相方は王子様やお姫様ではない可能性が高い。
話が脱線したが,「まだみぬ君」を捜すというのは,個人主義が浸透してきてからの現象であろう。「数ある乙女そのなかの まだ見ぬ君」とあるので男歌であることは間違いない。男歌であってこのようなメルヘンチックな夢の歌というのは珍しいと思う。男は女よりロマンチストだから,このような夢を見ることもあるだろうが,口には出さないのが普通だ。
1)アリストパネス:プラトンの「饗宴」に登場する人物。『完全体だった人間はゼウスの怒りを買い男女に分けられた。だから完全体になろうと失われた片割れを捜す。』という説を述べる。
2)月下老人:中国の縁結びの神。
まだみぬ君を恋うる歌(2018.1.31)
昭和39年,詞:丘灯至夫,曲:山路進一,唄:舟木一夫
「夕陽の空に 希望(のぞみ)をかけて」と始まる歌。
恋に恋する歌。少女が『白馬に乗った王子様』の登場を待つという。その少年版だ。ただ,少年の場合は玉の輿を待つことは少なかったのではないか。
いずれにせよ,アリストパネス1)の時代からこの世のどこかにベターハーフがいるという考えは続いているのだろう。
1)アリストパネス:「饗宴」(プラトン)の登場人物の一人。参加した饗宴で順にエロース賛美の演説をすることになったとき,「アンドロギュノスと呼ばれていた存在が,神により2体に切り離されて人間になった。従って人間は互に失われた半身を求め続ける」という説を述べた。
皆の衆(2013.5.21)
昭和39年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:村田英雄
「皆の衆 皆の衆 嬉しかったら腹から笑え」と始まる歌。
1番は喜びや悲しみの感情を抑えずにもっとあらわすようにというメッセージだ。2番は怒りについてである。「腹が立ったら空気をなぐれ」と言われても,空気では手ごたえがないが,相手に直接怒りを向けるなということだろう。「癪にさわれば水を飲め」というのは「杓」にかけた駄洒落で気分を変えて笑い飛ばせということだろうか。3番は恋の話のようだがよく解らない。「しんから惚れたあの娘と別れた奴もいる」と言われても,それはそうかもしれないが,それが何の関係があるのだ。よくある話だから諦めろというのか。
まあ,詞として悪いことを言っているのではないのだが,村田の歌い方なのか,あるいは顔の問題もあるかもしれないが,何となく説教染みて聞こえるのだ。当時『上から目線』という言葉は無かったと思うが,この言葉があればこれにあてはまりそうだ。「空気をなぐろう」や「水を飲もう」なら雰囲気は違うだろう。ただ,「飲め」と命令するのがよいのか「飲もう」と誘うのがよいのかは私には判らない。好き嫌いなら「幸せなら手を叩こう」1)のほうが好きだ。
昭和人間にはもっと喜怒哀楽を面に出せと言ってもよいかもしれないが,現代ではどう見ても見当違いの方向に「怒」を表す人間が出てきているようで,「怒」の感情はもっと抑えるよう訓練すべきだろう。
1) 「幸せなら手をたたこう」(昭和39年,詞:木村利人,曲:不詳,採譜:いずみたく,唄:坂本九)
明治大恋歌(2023.2.23)
昭和39年,詞:星野哲郎,曲:小杉仁三,唄:守屋浩
「日露の戦争大勝利 まだうら若き父と母 チンチン電車のランデブー 空は青空日曜日」と始まる。
唄っている守屋は私より10歳ほど年上,とはいえその両親が日露戦争の頃にランデブーをするようなことはなかっただろう。星野はその守屋よりさらに10歳以上年上の大正末期の生まれだ。星野なら両親が日露戦争の頃ランデブーをしてもおかしくない年齢だ。思わず自分の両親のことを思って詞を書いたのだろう。あるいは,両親が明治人というのが普通の時代だったのだろう。
「そもそもその日の父さんは マンテルズボンに山高帽 自慢の懐中銀時計 ふかすたばこは天狗党」「左に宮城おがみつつ 東京府庁を右にみて 馬場先門や和田倉門 大手町には内務省」などと明治の錦絵を見るような歌詞で,簡単ながら明治の東京紹介の歌だ。
約束(2019.5.15)
昭和39年,詞:藤田敏雄,曲:前田憲雄,唄:雪村いづみ
「その日 ぼくが石けりしていると」と始まる歌。
「坊や いそいで帰ってくるんだ ママがお前に会いたいそうだよ」と呼ばれて急いで帰る。「ママはその夜おそく そっと淋しくこの世を去った。」泣かないと約束したのに「ぼくは泣いた」。
このようなことが散文でもっと詳しく書いてある。「石けり」をして遊ぶような年齢の子供としては言葉が大人びているのはまあいいとしよう。ところがこれで終わりではない。
「だけどぼくは ぼくは男さ そのあくる年 あの戦争で パパが死んだと聞いたときは ぼくはそのとき涙をこらえた」と続き,「ぼくはそのとき 約束まもった」と終わる。
これは父親の戦死にも涙を見せないという戦意高揚のための歌なのだろうか。戦争の悲惨さ・理不尽さから厭戦気分を高めようとする歌なのだろうか。大阪労音リサイタルで発表された歌らしいので反戦歌なのだろう。
雪村の歌は唄というよりドラマだ。
私はこのような歌は好みではない。作詞者が,絶対正義だと信じていることを上から目線で押し付けてくる臭いを感じるからだ。
柔(2012.1.12)
昭和39年,詞:関沢新一,曲:古賀政男,唄:美空ひばり
歌いだしは「勝つと思うな思えば負けよ」。昭和40年レコード大賞。
この年,東京オリンピックが開催された。この東京大会から柔道が加わった。東京で開催されたからであろう。男子のみである。4年後のメキシコでは柔道は実施されず,次のミュンヘンから再開されている。東京では体重別の3階級は金メダルだったが無差別級は残念ながら銀メダルだった。何でもありの真剣勝負であれば体重などは関係なく,必殺技が決まることもあるだろうが,ルールに従う試合では体重差の影響がでるのでその後階級数が増えている。
ロンドンでは良い試合を期待している。勝つに越したことはないが,勝敗よりも自分自身に恥じない試合をして欲しい。
夜明けのうた(2012.6.1)
昭和39年,詞:岩谷時子,曲:いずみたく,唄:岸洋子
「夜明けのうたよあたしの心の・・・」という歌で坂本九,ダーク・ダックスと競作だが岸洋子が第6回レコード大賞歌唱賞を受賞,作詞賞も受賞した。
朝の喜びを控えめに歌った歌で,詞も曲も歌謡曲とは少し違うジャンルだ。岸洋子はオペラ歌手を目指していてシャンソン歌手になったらしいが,その気分がまだ完全には抜けていないようだ。「希望」1)では歌い方がより歌謡曲的になっている感じがする。歌い方が変ったのは病気のせいかもしれない。
1) 藤田敏雄:「希望」(昭和44年,曲:いずみたく,唄:フォー・セインツ)元は倍賞千恵子のために作られた曲らしいが,昭和45年に岸洋子はこの歌で再びレコード大賞歌唱賞を受賞した。
夜は恋人(2019.2.23)
昭和39年,詞:Michel Rivgauche/梶鶴雄,曲:Hubert Giraud,唄:中原美沙緒
「夜よ 夜よ 夜は素敵」と始まる歌。
原曲は昭和29年のMea Cuplaという曲。
「ひとりぼっちのときでさえも あたしは淋しくない」「疲れ果てて広い胸に眠ると 苦しいことはみんな夢になるの」「泣いて泣いて 涙枯れて 心は晴れてゆくの」ということだが,作詞者と私の夜に対する感覚が異なるので共感できるとは言えない歌だ。私にとって,夜は悲しみや淋しさを増幅させる時間だ。この悲しみがもっと激しくなり涙が涸れるまで泣けば心は晴れるということなのだろうが,そんなことがあるだろうか。
シャンソンはほとんど聴かないので元歌もしらないが,聴くところによると犯した七つの罪を懺悔しながら,恋人に対してあなたが望むならその罪を再び繰り返そうという内容だそうだ。これが本当だとすると心情を理解はできるが,やはり共感はできない。
リンデンバウムの歌(2024.4.15)
昭和39年,詞:岩谷時子,曲:山本直純,唄:梓みちよ
「リンデンバウムの大きな幹に 愛の言葉を彫ってきた リンデンバウムのみどりの木陰 勿忘草(わすれなぐさ)が咲いていた」と始まる。
「私の好きな 好きなひと 私のあまいくちづけ あなただけに」と終わるのでハッピーソングのように思うのだが,途中に「いつもあなたを待っていた リンデンバウムは 私のほほに つたう涙を知っていた」というフレーズがあるのがどういう意味か気にかかる。
『Der Lindenbaum(菩提樹)』というSchubertの有名な曲(歌曲集「冬の旅」の第5曲)があるが,こちらの曲でも何か菩提樹の幹に彫り込む詞があり,全体の詞の雰囲気も似た感じを受けるので影響を受けていることは確かだが,Schubertの歌の訳ではなさそうだ。曲はSchubertの曲とは全く違って聞こえる。この曲は音楽劇『若きハイデルベルヒ』の主題歌だそうだ。
若い港(2018.7.20)
昭和39年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:三田明
「呼んでるぜ呼んでるぜ 七つの海が」と始まる歌。
山内賢・和泉雅子が出演した日活映画「若い港」の主題歌。映画には三田明,平尾昌晃,伊藤アイコ,トリオ・こいさんずなどのビクター歌手が出演している。
ところで,「明日の潮路は ラッパルまかせ」の「ラッパル」の意味を知らないまま何となく聴いていたが,今回ネット検索してみた。疑問に 思う人は他にもいるようで,いくつかの記事を見つけたが,疑問解消には至らなかった。rudderの訛ではないかとの説に賛同する人もいるようだが,私は直ちに賛同はできない。他の説明も思いつかないが。
ワシントン広場の夜は更けて(2018.12.30)
昭和39年,詞:Bob Goldstein/漣健児,曲:Bob Goldstein,唄:ダーク・ダックス
「静かな街の片すみに 冷たい風が吹きぬける」と始まる歌。
「黒い落葉がただひとつ 風の向くまま舞っている」とあり「男心をだれが知る 冷たい夜風が知っている」ともあることから,男が誰か(恐らく女性)を待って,独り佇んでいるかのようだ。日本語しからはこのような印象を受けるが,英詩の内容は大分異なるらしい。蓮の訳詞というより作詞と言った方が良いのかもしれない。
ダニー飯田とパラダイス・キングも同じ歌を唄っている。
原曲はThe Village StompersのWashington Square。原曲が最初発売されたときはインストルメンタル曲で歌詞はなかったが,ヒットしたので?歌詞が付けられた。
Don’t Let Me Be Misunderstood<悲しき願い>(2011.10.25)
昭和39年,詞・曲:Bennie Benjamin, Gloria Caldwell and Sol Marcus,唄:Nina Simone
最初はNina Simoneが唄ったらしいが私は知らない。私が知っているのは昭和40年にThe Animalsが唄ったものだ。「悲しき願い」とのタイトルで尾藤イサオが唄っていた。Animalsも尾藤もどちらも聴いたが尾藤イサオの「誰のせいでもありゃしない,みんなおいらが悪いのさ」という部分が強く印象に残っている。その後もいろんなアーティストによってカバーされているようだ。
英文歌詞に関しては良くわからないが,タカオカンベの訳(?)詞では最後には「みんなおいらが悪いのか,そんな話があるものか」と嘆いている。嘆いて終わっているからこそ「悲しき願い」なのだ。「悪いのは他人」と切れてしまう若者が増えている作今では悲しい結末ではなく恐ろしい結末が待っていそうで怖い。
Gold Finger<ゴールドフィンガー>(2018.6.28)
昭和39年,詞:Bricusse/Newley/Barry,曲:Bricusse/Newley/Barry,唄:Shirley Bassey
「Goldfinger He’s the man, the man with the
Midas touch」と始まる歌。
007シリーズの映画第3作「007ゴールドフィンガー」の主題歌。
007シリーズの主題歌ベストはこの歌だという話を聞いたことがある。確かに曲からはハラハラ・ドキドキ感が伝わってきて映画の主題歌としてはベストのようにも思うが,単純に歌として聴くなら,私は「From Russia with Love」1)のほうが好きだ。
1)「From Russia with Love」(昭和38年,詞:Lionel Bart,曲:John Barry,唄:Matt Munro)
Non ho l’eta<夢みる想い>(2015.1.25)
昭和39年,詞:M.Panzeri & Nisa,曲:M.Panzeri & Nisa,唄:Gigliola Cinquetti
「Non ho l’eta Non ho l’eta per amarti Non ho l’eta per uscire sola conte」と始まる歌。
伊東ゆかりが歌ったあらかわひろし訳の歌詞は「あなたに愛され 愛するその日を」と始まる。
Cinquettiは当時16才,この曲でサンレモ音楽祭優勝,ユーロビジョン・ソングコンテストでもイタリア人として初めて優勝した。
イタリア語の発音は母音で終わる場合が多いので安らかに聴いていられる。昔,フランス語は恋人と話す言葉,ドイツ語は馬と話す言葉と聞いたことがあるが,実際に聞いてみると必ずしもそうではない。何か国語かの歌のテープなどを持っているが,それぞれの国の言葉と歌のメロディーには特徴があるように思う。イタリア語が一番広範囲の歌にあう気がする。
Seven Daffodils<七つの水仙>(2018.6.5)
昭和39年,詞:F.Moseley,曲:L.Hays,唄:Brothers Four
「I may not have mansion, I haven’t any land」と始まる歌。
お金はないけれど,あの丘に咲く水仙があるという歌と言えば乱暴だが,深く想う心があるということだろう。
当時の日本も,東京オリンピックのために経済活動は向上していたが,人々はまだ貧しかった。戦後末期と言えるかもしれない。この後日本は急速に経済成長して豊かになり,バブル期へ突入する。
金が無いのが青春かもしれない。いつの時代も若者には時間と健康はあるが金はなく,小金が溜まった頃には時間がなく,最後には時間も金も健康もなくなってしまう。もちろんいつの世にも例外はある。
The Sound of Silence<サウンド・オブ・サイレンス>(2011.11.25)
昭和39年?,詞:P. Simon,曲:P. Simon,唄:Simon & Garfunkel
「Hello darkness, my old friend.」で始まる。「Still remains within the sound of silence.」というフレーズが印象的。私が知ったのは昭和42年(日本では43年)公開の映画「卒業」以降であろう。
「Sound of Silence」という語には「隻手音声」のような禅的な響きを感じる。ヒッピー文化の影響だろうか。しかし「The words of the prophets are written on the subway walls」などは禅というよりカルトの臭いがする。もちろんこの曲を聴いていた当時は歌詞の意味を知らずに聴いていたので,メロディー主体で聴いていたのだろう。