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昭和35

哀愁波止場,あいつ〔ゆうべあいつに〕,アカシアの雨がやむとき,アキラの会津磐梯山,アキラのツーレロ節,雨に咲く花,有難や節,あれが岬の灯だ,アンコ悲しや,石狩の町よさようなら,潮来笠,潮来花嫁さん,一本刀土俵入り[千両万両積んだとて],犬のおまわりさん,お吉物語,おけさ唄えば,お百度こいさん,快傑ハリマオの歌,悲しきインディアン,悲しき16才,悲しき60才〜ムスターファ,カレンダーガール<Calendar Girl>,がんばろう,木曾ぶし三度笠,喫茶店の片隅で,喧嘩富士,恋の片道切符<One Way Ticket>,心の窓にともしびを,再会,さすらい〔夜がまた来る〕,幸福を売る男,ステキなタイミング,ズンドコ節,他国の雨,達者でナ,ダンチョネ節,忠治流転笠,月影のキューバ,月影のナポリ,月の法善寺横町,東京カチート,東京へ戻っておいでよ,花散る下田,ビキニスタイルのお嬢さん,僕は泣いちっち,蜜の味<A Taste of Honey>,ミヨちゃん,無情の夢,霧笛が俺を呼んでいる,無敵のライフルマン,メロンの気持ち,ラ・マラゲーニア,A Taste of HoneyCalendar GirlOne Way Ticket

 

哀愁波止場(2015.8.5)

昭和35年,詞:石本美由起,曲:船村徹,唄:美空ひばり

 「夜の波止場にゃ 誰あれもいない」と始まる歌。「おどま盆ぎり盆ぎり」と五木の子守唄が「あの人の好きな歌」ということで途中に入る。

 レコード大賞歌唱賞受賞。

「三月待っても逢うのは一夜」とあるが,ひばりの歌声はもう二度と逢えないような哀愁を帯びている。仕事で三月は海にいる。この期間逢えないということは仕事の種類によっては今でも同じかも知れないが,当時は今よりもっとよくある状態だっただろう。このことを考えると,ひばりは一時の別れではなく,生き別れでもなく,死別の情感で唄っているようだ。一番と二番の間に入る台詞や,『五木の子守唄』のこの歌には使われていない箇所の詞も死別を思わせる。

それにしてもひばりは上手い。いろんな歌を上手に唄い分ける。当時の歌手は皆上手く,それぞれ似合う歌があったが,ひばりはどんな感情を歌っても上手かった。

もっとも,好き嫌いは上手下手とは一致しない。

 

あいつ(2016.3.25)

昭和35年,詞:平岡精二,曲:平岡精二,唄:旗照夫

「ゆうべあいつに聞いたけど」と始まる歌。

 平岡精二も旗照夫もWikipediaにはジャンルはジャズとなっている。ジャズはあまり聴いたことがないのだが,これがジャズなのだろうか。確かに,典型的な日本の流行歌や歌謡曲とは異なるが私にとってのジャズは渡辺貞夫のイメージだ。私にはこの曲はシャンソン風に聞こえるが。

 シャンソンを調べると,フランスの歌は皆シャンソンだそうだ。特定の音楽を指す言葉ではないらしい。とすると,これは日本語の日本の歌なのでシャンソンではない。

 好んで聴く歌ではなかった。

 

アカシアの雨がやむとき(2013.1.15)

昭和35年,詞:水木かおる,曲:藤原秀行,唄:西田佐知子

 「アカシアの雨にうたれて」と始まる歌。冷たくなった彼に絶望して公園か道路端のベンチで「このまま死んでしまいたい」という歌だろう。散文的に解釈しようとすると,最初の「アカシアの雨」というのから解らない。当時,街路樹として「ニセアカシア」が使われているところが多数あったように思う。ニセアカシアが多く咲いているところに強い風が吹いたりすると花が散る様子が雨のように見えるらしい。しかし,この季節は初夏らしい。初夏ならば死ぬ気は無くてもベンチで寝てもよさそうだ。しかし,の繰り返しで申し訳ないが,「冷たくなったわたしを見つけて」などという箇所は晩秋の寒くなり始めた頃の雨に濡れて倒れているというイメージのほうが強い。

 全体的に暗い歌で,これを西田は淡々と唄っている。この歌は60年安保闘争と関連付けて論じられることもしばしばある。私は大器ではないが晩成(まだ成っていない?)なのだろう,当時はデモの様子をテレビで観る程度の関心しかなく,日米安保の意味も理解していなかったし,この歌の意味も良く解ってはいなかったが,大切なものを失って呆然自失しているような西田のなげやりとも感じられる歌唱法は強く印象に残った。

 

アキラの会津磐梯山(2020.1.22)

昭和35年,詞:西沢爽,曲:浜口庫之助,唄:小林旭

「チョチョチョチョチョチョ」というイントロから始まって,歌としては「イヤー 小原庄助さんは でかいことが好きで」と始まる歌。

私が知っている三橋美智也の『会津磐梯山』などとは節回しは違うが,一応『会津磐梯山』には聞こえなくもない。私の母親が聴いていた大塚文雄の唄などともまた少し違うが。

日活映画「赤い夕陽の渡り鳥」(小林旭,浅丘ルリ子)の主題歌。

 

アキラのツーレロ節(2019.10.29)

昭和35年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:小林旭

 「話しようか キスしよか あの娘の写真を抱きしめて」と始まる歌。

 「恋のカクテル シェーカーに入れりゃ ふられふられて 泣き別れ」などとの歌詞からも解るように,コミックソングの一種だろう。

 『ツーレロ節』自体は美ち奴の『シャンラン節』1)の中で繰り返される『ツーツーレロレロ ツーレロ』のフレーズからついたこの歌の別名。元歌は台湾民謡らしいが,戦後,小林のこの歌が台湾に伝えられ,日本の歌謡曲として知られているとか。後にドリフ2)も唄っている。

1)     「シャンラン節」(昭和18年,詞:村松秀一,曲:長津義司,唄:美ち奴)

2)     「ドリフのツーレロ節」(昭和46年,詞:なかにし礼,曲:不詳,唄:ザ・ドリフターズ)

 

雨に咲く花(2024.9.11)

昭和35年,詞:高橋掬太郎,曲:池田不二男,唄:井上ひろし

 「およばぬことと あきらめました だけど恋しい あの人よ」と始まる。

 昭和10年に関種子が唄った歌のリバイバル。このころ多くの曲が歌手を変えてリバイバル発売されている。

同タイトルの日活映画(川地民夫,中原早苗,井上ひろしほか)の主開歌。

 

有難や節(2014.10.25)

昭和35年,詞:浜口庫之助,曲:森一也,唄:守屋浩

 「有難や有難や 有難や有難や」と始まる歌。

 ハマクラの歌は他にも何曲か知っていて,嫌いじゃない詞も多いのだが,この歌は少し雰囲気が違ってコメントしにくい。斬新な歌詞だと思う。守屋浩の歌としては『大学かぞえうた』1)に近い雰囲気の歌だ。私は『月のエレジー』2)などのほうが好きだったが。とはいえ私も「おやじゃええとこで酒呑んでござる 勉強ばかりじゃ親不孝」などと口ずさんでいた。

1)「大学かぞえうた」(昭和37年,詞:仲田三孝,浜口庫之助,曲:仲田三孝,水原皓一,唄:守屋浩)

2)「月のエレジー」(昭和36年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:守屋浩)

 

あれが岬の灯だ(2015.2.27)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「あれが岬の灯(ひ)だ 赤いじゃないか」と始まる歌。

 橋幸夫の二枚目のシングルだ。デビュー曲の『潮来笠』より三曲目の『おけさ唄えば』に近い詞の雰囲気だが,曲はもっと後の曲の雰囲気だ。佐伯・吉田コンビも橋にどのような歌を唄わせようかと試行錯誤していたのかも知れない。

 『潮来笠』は大ヒットだったが,ここに挙げた3曲ではこの曲が一番売れなかったのではないかと思う。私はこの歌の哀愁がかなり好きだったのだが。

 当時は子供が流行歌を聴いていたりすると白い目で見られる雰囲気があり,ラジオで聞いてはいたが友人と流行歌手などについて話をすることはなかった。

 

アンコ悲しや(2019.11.27)

昭和35年,詞:藤間哲郎,曲:増田幸造,唄:松山恵子

 「赤い椿の花びら噛めば じんと眼に泌むちぎれ雲」と始まる歌。

 最初から最後まで個性が強いというか,特徴がある歌。都はるみは歌手になる前にこの歌を何度も唄ったのではないかと思うほどで,初期の都はるみに影響を与えていると思う。なかでも特徴的なのは,最初の「赤い椿の花びら噛めば」と途中にでてくる「アアア・・・」の箇所だ。

 「島の娘は他国のひとに 惚れちゃならぬとみな言うた」が「あなたひとりを信じます きっと迎えに」という歌で,『アンコ椿は恋の花』1)はこの歌を下敷きにしたものだろう。

1)「アンコ椿は恋の花」(昭和39年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:都はるみ)

 

石狩の町よさようなら(2020.3.3)

昭和35年,詞:袴田宗孝,曲:袴田宗孝,唄;松山恵子

 「青い高原 あの街の灯も 今夜かぎりで お別れね」と始まる歌。

 「きっと忘れず 便りをおくれ」と固く約束しても,いつの間にか便りが途絶えるほうが多かったのではないか。

 「さようなら さようなら 石狩の町よ さようなら」

 これが今生の別れとなるのか・・・。

 

潮来笠(2011.9.21)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 橋幸夫のデビュー曲で,レコード大賞新人賞受賞曲である。

 「潮来の伊太郎ちょっと見なれば」とか「あの娘川下潮来笠」など,歌詞の意味が良く理解できないところがあり,雰囲気で聴く歌なのだろう。作詞作曲のコンビの歌はこのあともいろいろ聴いた。

 やや鼻にかかったような声がそれまでの歌手とは一味違い,印象的だった。

 橋幸夫の歌だと思うのだが,天草四郎を題材にした「南海の美少年」や詩吟入りの「花の白虎隊」など,最近カラオケで探してみても見つかったことがない。

 この頃には「流行歌」という言葉が「歌謡曲」に変わっていたように思う。

 

潮来花嫁さん(2015.10.12)

昭和35年,詞:柴田よしかず,曲:水時富士夫,唄:花村菊江

 「潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは 舟でゆく」と始まる歌。

 昔の花嫁は馬や舟などで行ったのだろう。しかし映画などでは見たことがあるが実際には見たことが無い。それでも,私が子供の頃は自宅で花嫁衣裳を着て,タクシーで行ったような記憶がある。花嫁の頭は大きいので,特別に背の高いタクシーがあったように思う。洋装の花嫁は見たことがなかった。

 この歌では「花も十八 嫁御寮」とあるので18才なのだろう。当時18歳が適齢期だったのだろうか。江戸時代には『としは二八が二九からず』という言葉があり,1618才が娘盛りだったようだ。江戸時代は数えなので,満で言えば1517才ということだろうか。

 昭和40年代は2425才を過ぎないことが目指された。25日のクリスマスケーキという訳だ。そのうちに三十路という言葉ができ,アラサー・アラフォーとなる。昭和40年代には女性の進学率が向上した。女子大生亡国論が出たのは昭和36年らしいが,40年代にもあった。女性の平均余命も延び,晩婚化が進む。

 以前は高齢初産は危険だということで母子手帳に○で囲んだ高の印が押され,マル高と呼ばれていた。この制度は差別的だということで今では廃止されている。以前は何歳からこのマル高印が押されていたかを知ると現在の人は驚くかもしれない。

 

一本刀土俵入り(2016.1.29)

昭和35年,詞:藤田まさと,曲:春川一夫,唄:三波春夫

 「千両万両積んだとて 銭じゃ買えない人ごころ」と始まる歌。

 長谷川伸の「一本刀土俵入」を歌にしたもの。元浪曲師の三波に唄わせるためだろう,比較的長い台詞が入る。もう少し長くなると歌謡浪曲といっていいだろうが,この長さだとやはり歌謡曲の一種だ。

 三波春夫といえば『お客様は神様です』の言葉が有名だが,この言葉が客の立場から無理難題を吹っ掛ける際の理由?として使われる場合もあるそうだ。日本には八百万の神様がおられるので中には災いの元となる神様もいるだろう。八百万の中に入っているのかどうかは知らないが,貧乏神・疫病神・死神なども神の内だ。

 この言葉を英訳すると『The customer is always right, the customer is king.』というらしい。一神教が多い英語圏ではgodは特別な存在なのでkingが使われている。日本では神は特別な存在ではなく,人が死んだ後に神社等に神としてまつられることは珍しいことではない。

 日本では『さわらぬ神に祟りなし』といわれており,貧乏神なども応対により福の神と代わってもらえたりするようだ。日本の神には荒魂と和魂があり,全面的に神に従うというより,和魂に感謝を捧げる気持ちが大切なのだ。客の無理難題に対しては,心の中でこれは疫病神だと思いながら,丁寧にお引き取りを願うというのが日本の心だろう。

英語でkingという言葉を使っていることは,場合によっては革命なども起こしうるということかもしれず,そうだとすれば日本より過激な考えといえるだろう。

 

犬のおまわりさん(2015.11.25)

昭和35年,詞:さとうよしみ,曲:大中恩

 「まいごのまいごの こねこちゃん あなたのおうちは どこですか」と始まる歌。

 平成18年に文化庁と日本PTA全国協議会が日本の歌百選を選定し,その中に入っているらしいが,私にとってこの歌は日本の歌の上位100位には入らない。選考方法に問題があったのではないだろうか。というより,文化庁やPTAなどがこのようなものを選定することに反対だ。文化庁などは,良し悪しを選別するべきではなく,良いものも悪いものも,後日発掘可能なように,保存することが最重要な仕事だと考える。

 あるいは,毎年選定するというならば,時代を映す鏡として,それはそれで意味があることになるだろう。しかし,選定方法には疑問が残る。

 

お吉物語(2021.7.10)

昭和35年,詞:藤田まさと,曲:陸奥明,唄:天津羽衣

 「泣いて昔が返るなら なんで愚痴など言うものか」と始まる。

 歌謡浪曲のひとつ。

 浪曲は三味線で語るが,オーケストラで唄うのが歌謡浪曲だ。

 このころ,浪曲師の活躍の場が減り,残った数少ない場所は有名な大家に独占され,若手の出演機会が減り,一部の若手は洋楽器伴奏の場で唄うようになった。唄以外に台詞が入る。台詞は浪曲では『タンカ』,歌謡曲では『アンコ』と呼ばれる。

 マイクロフォンが登場して,戦時中に歌謡浪曲というジャンルが登場したのだが,録音技術(テープレコーダー)が気楽に使えるようになって,駆け出し演者の伴奏はテープでという時代になったこの頃になって,歌謡浪曲界が賑やかになった。三波春夫,村田英雄,二葉百合子,天津羽衣などがその代表ではなかろうか。中村美律子,島津亜矢などはこの系統を継ぎ,氷川きよしはどう考えても歌謡曲ではあるが歌謡浪曲にかなり近い。

 なお,お吉については昭和3年に十一谷義三郎が『唐人お吉』という小説を出して以来同様な小説や映画が多数作られているので,世間にはよく知られていた。何作かの主演女優を挙げると琴糸路,梅村蓉子,飯塚敏子,水谷八重子(初代),花井蘭子,田中絹代,山田五十鈴などである。山田五十鈴などと聞いても若い人はテレビの必殺シリーズくらいしか思い出さないかもしれない。若い人というのは私より若い人という意味で,現在本当に若い人は必殺シリーズも観たことがないだろうが。このような,名前も知らないような女優が主演したということはかなり昔ということだが,要するに何度も映画化されて有名な話だったということだ。

 

おけさ唄えば(2013.9.4)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「こいつを歌うと泣けるのさ」と始まる歌。『佐渡おけさ』が入る歌である。

 故郷を出て働いているのであろう。歌詞から判断すると働いているのは新潟かも知れないが,新潟ならそれほど遠いわけではない。「おふくろやあの娘の笑顔が早よ見たい早よ見たい」と唄っているのは,帰省途中で新潟まで着いたところかもしれないなどとも思うが,やはり,新潟まで来ているのは心だけだろう。

 当時の歌は,逢いたいが簡単に逢えないという歌が多い。

 この歌は橋幸夫の歌では好きなほうから3本の指に入る。

 

お百度こいさん(2016.1.16)

昭和35年,詞:喜志邦三,曲:渡久地政信,唄:和田弘とマヒナスターズ

 「あきらめられない この願い」と始まる歌。

 「お百度まいりの法善寺」,願いは「幼馴染のあの人に」「どうぞ添わせておくれやす」という歌だ。

 この年には『月の法善寺横丁』1)という歌もあり,『法善寺』という名前だけはこの頃知った。後に実際に行ってみたときの感想は初めて『数寄屋橋』2)に行ったときと同じだった。『な〜んだ,こんな所か。』

 たまたまこれらの場所へ行ったとき,私の想像力が疲労のピークにあったのかもしれない。あるいは仁和寺の法師3)のように事情をよく知る誰かに案内してもらうべきだったのだろうか。

1)「月の法善寺横丁」(昭和35年,詞:十二村哲,曲:飯田景応,唱:藤島桓夫)

2)数寄屋橋:菊田一夫「君の名は」の主人公氏家真知子が後宮春樹と初めて出会った場所。

3)「仁和寺にある法師」:吉田兼好「徒然草」中の一話。

 

快傑ハリマオの歌(2013.5.16)

昭和35年,詞:加藤省吾,曲:小川寛興,唄:三橋美智也

 「まっかな太陽燃えている」と始まる「快傑ハリマオ」の主題歌である。「快傑ハリマオ」は昭和35年から36年にかけて日本テレビ系で放映されたテレビ映画で,「ハリマオ」とはマレー語で「虎」という意味だということをこの番組で知った。この番組は,名古屋圏ではなぜかフジテレビ系の東海テレビで放映されていた。

 ハリマオは初期のヒーローものの一つと言ってよいかもしれないが,大きな変身はしない。頭にターバンを巻き,サングラスをかけるくらいだろうか。

 この歌は酔っ払って歌っても調子よく唄える歌だ。1・2・3番とも最後は「ハリマオハリマオぼくらのハリマオ」と終わるので知らなくてもついていける。

 

悲しきインディアン(2015.12.18)

昭和35年,詞:P.Richardson,曲:P.Richardson,唄:平尾昌晃

 「月夜の岸辺にたたずむRunning Bear」と始まる歌。

原曲はJohnny PrestonRunning Bear

Running Bear」は対岸の「White Dove」という名の「優しい乙女」に恋をするが「仲間の争いに仲を裂かれ」る悲恋の歌である。「流れの川幅広く 渡る舟もなく」ということで「もろとも飛び込み力の限り ようやく抱きあう そのとき哀れ 渦巻く流れは 二人を飲み込む」という歌である。

インディアンというのはNative Americanの当時の呼称だ。西部劇ではインディアンはほとんど悪役で登場していた。南北アメリカ大陸はずっと昔からあったはずだが,ヨーロッパ人の目には無人の新大陸と見えたのだろう。インディアンとかインディオと呼ぶのだから,人であると認識していたはずだが,都合に応じて異教徒は人ではないと見做したのかもしれない。

西部劇のほとんどはアメリカが西へ西へと開拓が進んでいるころの話だった。先住民であるインディアンが,開拓者に抵抗すれば全て悪で殲滅すべき対象であることに何の疑いも持たれることがなかった。ベトナム戦争まではインディアン迫害という観点からの深い反省もなかったように思われる。深い反省はなかったとはいえ,各種人種差別問題との関係もあり,開拓時代のインディアンへの対応に対する反省も現れては来ていた。すくなくとも,この歌ではインディアンの純愛を歌っているように思う。

ベトナム戦争での反省すべき点から,開拓時代のインディアンへの対応を深く反省する人も多くなったのだろう。昭和45年,「Soldier Blue」という映画が公開され,同年に公開された映画「Little Big Man」と共にハリウッド映画の歴史を変えた。これ以後,インディアンが悪役に決まっているということはなくなった。

 

悲しき16(2014.5.15)

昭和35年,詞:Ira Kosloff/Irving Reid/Tony Springer/音羽たかし,曲:Ira Kosloff/Irving Reid/Tony Springer,唄:ザ・ピーナッツ

YaYaYa Ya YaYaYaYa・・・」とはじまり,「ひとりぼっちお部屋で夢見るはあの人」と続く歌。原曲は昭和34年に発売されたKathy LindenHeartaches At Sweet Sixteen

 そういえばこの頃だろうか,外国語の歌を日本語に訳した曲がよく唄われていたが,その中に「悲しき」と始まるタイトルの曲1)が何曲もあったように思う。日本の歌でも「悲しき竹笛」,「悲しき口笛」など2)があったが後には「悲しい酒」3)と「悲しき」から「悲しい」と変化した。

16才というのも,この頃Neil SedakaHappy Birthday Sweet Sixteenなど他の歌にも歌われている。昔から東西を問わず16才の女性というのは特別な意味をもっていたのかもしれない。破瓜という言葉は瓜の字を縦に二分すると八がふたつになるので,これを足して女性16才を破瓜と呼び,一方男性は二つの八を掛けて同じ破瓜という言葉で64才を指すそうだ。

女性の美しい年頃を表すのに,年は二八がにくからずといい,16才から18才くらいが一番美しいとされていた。今では美魔女などというのも現れ,花の命4)は長く楽しいことが多くなり,16才というのが特別な年ではなくなったようだ。

この歌では「やややーや やややや」と始まっているが,別の歌で「やーやーややーやや」と始まる歌5)もあった。「うぉぅうぉぅうぉぅうぉ いぇーいぇー」6)と始まる歌や「うぉーぅうぉぅうぉー いぇーぃいぇぃえー」7)などと文字で書くと区別がつかないような詞?で始まる歌もあった。そういえば後者の邦題も『悲しき片想い』だった。

1)      「悲しきインディアン」(昭和35年,唄:平尾昌晃),「悲しき60才〜ムスターファ」(昭和35年,唄:坂本九とパラダイスキング),「悲しき街角」(昭和36年,唄:飯田久彦)原曲はDel Shannonの「Runaway」,「悲しき雨音」(昭和37年,唄:ザ・ピーナッツ)原曲はThe Cascadesの「Rhythm of the Rain」,「悲しきクラウン」(昭和37年,唄:伊東ゆかり)原曲はNeil Sedakaの「King of Clrowns」,「悲しきカンガルー」(昭和38年,唄:ダニー飯田とパラダイスキング)原曲はRolf Harrisの「Tie Me Kangaroo Down Sport」,「悲しき願い」(昭和40年,唄:尾藤イサオ)原曲は昭和39年のNina Simoneの「Don't Let Me Be Misunderstood」だが,昭和40年にAnimalsが唄ってヒットした。「悲しき天使」(昭和44年,唄:森山良子ほか)ロシア語の原曲から英語版を経ての長い歴史がある,など。もっと古いところではElvis Presleyの「悲しき悪魔」(Devil in Disguise)などもある。

2)      「悲しき竹笛」(昭和21年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:近江俊郎/奈良光枝),「悲しき口笛」(昭和24年,詞:藤浦洸,曲:万城目正,唄:美空ひばり)

3)      「悲しい酒」(昭和41年,詞:石本美由起,曲:古賀政男,唄:美空ひばり)

4)      林芙美子:「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

5)      「しぇいなしぇいなゆあそないす」と続くと思うのだが,タイトルを思い出さない。

6)      Little Devil」(昭和36年,唄:Neil Sedaka

7)      You Don't Know」(昭和36年,唄:Helen Shapiro)邦題「悲しき片想い」(唄:弘田三枝子)

 

悲しき60才〜ムスターファ(2015.4.4)

昭和35年,詞:青島幸男,曲:アザム・バークレイ,唄:ダニー飯田とパラダイスキング

 「遠い昔のトルコの国の 悲しい恋の物語」と始まる歌。その前に「ヤ ムスターファ ヤー ムスターファ」とコーラスが入る。坂本九のソロパートは「見染めた彼女は奴隷の身 ところが僕にゃ金がない」と始まる。ムスターファは「一念発起でマネービル」と「金の亡者」になり「トルコで一の金持ちに」なったのだが,その時は「悲しき六十才」という一途な恋・悲恋の歌だ。ただ,詞はムスターファには寄り添っていないよう感じる。コミックソングなのだろうか。他人の不幸は蜜の味とか。バカな男を見下して笑う歌なのだろうか。青島幸男はどのような意図でこの歌詞を書いたのだろう。本来の目的を見失って金が全てだと考えてはいけないとの警鐘だろうか。

 当時の私には60才と聞くとかなりの年寄りに感じていたが,今では60才などまだまだ若いと感じる。

 

がんばろう(2013.1.24)

昭和35年,詞:森田ヤエ子,曲:荒木栄

「がんばろうつきあげる空に」と始まる歌。三池炭鉱合理化反対闘争の際唄われた労働歌。安保闘争へも歌い継がれている。「闘いはここから闘いは今から」という歌だ。70年安保の際にも,一部の学生集会では歌われていた。

 「国のうちそとのこぶしがある」と歌詞にあるが,意味が若干不明である。国の外にも振り上げた拳があるということを言っているのだろうか。それはその国の民衆の拳なのだろうか,その国の独裁的支配者の拳なのだろうか。

 昔は歌詞の細かい点など気にも留めなかったのだが。「むかしはものをおもわざりけり」1)ということで,私が幼稚だったということだろう。これでこの文にも「けり」がついた。

1)      「逢ひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」権中納言敦忠(「拾遺集」恋二)

 

木曾ぶし三度笠(2014.12.6)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「やくざ渡世の白無垢鉄火」と始まる歌。

 橋幸夫は当初股旅物を何曲か唄っている。この歌はやくざ者になる前からなりたてのころを歌っている。

前職は木曽の中乗さんだ。「いつか水棹を長脇差に」とあるので,材木運びの筏乗りだろう。筏の先頭に乗るのを舳(へ)乗り,後尾に乗るのを艫(とも)乗り,中央に乗るのが中乗りだそうだ。筏乗りは地味で,やくざ渡世が輝いて見えていたのかもしれない。

「手前えも惚れたくせ」などとまだまだ義理と人情では人情のほうに秤が傾くようだ。

 曲の中には「木曽節」が入っているが,いわゆる正調ではなく,歌謡曲風木曽節である。

 そういえば橋は他にも民謡入り1),詩吟入り2),台詞入り3)などの歌を唄っていた。

1)「おけさ唄えば」(昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

2)「花の白虎隊」(昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

3)「白い制服」(昭和38年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

 

喫茶店の片隅で(2020.4.3)

昭和35年,詞:矢野亮,曲:中野忠晴,唄:松島詩子

 「アカシア並木の 黄昏は 淡い灯(ひ)がつく 喫茶店」と始まる。

 「ふたりだまって 向き合って 聞いたショパンの ノクターン」とあり,名曲喫茶だろうか。

 これから10年程経つと名曲喫茶の数は激減する。恐らくは,高級なオーディオ機器を私有できるほど経済的に豊かになって来たからだろう。昭和30年代はまだ貧しかった。昭和35年頃,先輩の家で初めてHiFiステレオアンプの音を聴いた。レコードプレイヤー付のラジオやもう少し高級な電蓄(電気蓄音機)などの音しか聴いたことが無かった私には衝撃だった。良い音で聴きたい人たちはそれなりの設備を持った喫茶店にあつまったのだ。

 独りでその喫茶店にやって来て,想い出に浸っている様子を歌った歌。

昭和30年の歌のリメイク。

 

喧嘩富士(2015.11.3)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「富士は白雪この雪化粧」と始まる歌。

 橋幸夫のデビューは『潮来笠』1)で股旅物で大ヒットだっだが,現代物,歴史物などいろいろトライしていた。そのうちに股旅物は卒業したようだが,最初のヒット曲の路線に固執しなかったところが御三家と呼ばれるほどの歌手になった理由だろう。

 ただ,この歌は橋の歌で私の中ではベスト10には入らない。

 

心の窓にともしびを(2015.8.31)

昭和35年,詞:横井弘,曲:中田喜直,唄:ザ・ピーナッツ

「いじわる木枯し吹きつける 古いセーターぼろシューズ」と始まる歌。

ザ・ピーナッツはキャシー・リンデンの『悲しき16才』をカバーしていて,そのB面曲。

 貧しいけれど「心の窓に灯を」ともせば「希望がほのぼの わくでしょう」という歌で皆が貧しかった時代の歌だ。とはいえ本当に皆が貧しかったのはもっと前だ。本当に苦しい時にはこのような歌は流行らないだろう。真の貧しさから脱却した人々が増えたが,貧しさの記憶が残っている人々が多かったからこのような歌ができたのだろう。

 

再会(2012.11.18)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:松尾和子

 「逢えなくなって初めて知った海より深い恋ごころ」とよくある状況だが,逢えなくなった事情はそう頻繁にある状況ではない。男は何らかの罪を得て収監されているようだ。刑期を終えて出所してくる日を「指折り数える」のだが,このような歌詞の歌が大ヒットした理由は良く解らない。

 「監獄」という単語が入った歌としてはプレスリーの監獄ロックだろうがこれは囚人バンドの歌だ。他に囚人を歌った歌では戦犯を歌ったものが何曲かあるが,「みんなが悪いひとだというが」とあるので,戦犯ではないだろう。60年安保闘争に関係した囚人かもしれない。昭和34年には日米安保に反対する全学連のデモ隊が国会構内に入り込む事件が発生,昭和356月には国会周辺のデモ隊と警官隊の衝突で東大自治会副委員長の樺美智子が死亡し,同じ35年には日本社会党委員長浅沼稲次郎が右翼の少年に刺殺された。ただ,このような事件で収監されたものは若者が大部分という印象だ。松尾和子はこの60年安保世代かもしれないが,私から見るともう少し年齢が上のように感じる。

 別のタイプの囚人としては「網走番外地」1)が思い浮かぶ。この歌の囚人と同様なケースではなかろうか。「網走番外地」は高倉健の人気でヒットしたのだろうが,「再会」はヒットの理由が違うのだろう。ムード歌謡の松尾和子が情感たっぷりと,誰にも経験がありそうな「逢えなくなって初めて知った」と突然唄い出す。この出だしだけ聞いて心を奪われ,2番の歌詞などどうでもよくなってしまいヒットしたのではなかろうか。

1)      「網走番外地」(昭和40年,詞:タカオ・カンベ,伊藤一,曲:山田栄一(原曲:橋本国彦),唄:高倉健

 

さすらい(2013.12.5)

昭和35年,詞:西沢爽,曲:狛林正一.,唄:小林旭

 「夜がまた来る思い出つれて」と始まる歌。

 この頃の小林旭は細身だった。いつごろからだろうか,気がついたら太くなっていた。細い頃の歌は細い頃の歌唱のほうが好きだが,この歌は太ってからの歌唱も好きだ。

 この歌には『ギハロの浜辺』という元歌があり,復員兵が持ち帰った歌で作曲者不詳らしい。私は元歌と言われる歌は知らないが,哀愁を帯びたメロディーとややハスキーな小林旭の声はよくマッチしている。「なにをいまさら つらくはないが」などと強がりを言っているのか,あるいは自分自身の気持ちに気付いていないのか判らないが,気付いていようといまいと「旅の灯りが 遠く遠くうるむよ」と心の中から自然に涙が滲む。

 この「さすらい」は小林旭や浅丘ルリ子出演の日活映画『南海の狼火』の主題歌らしい。宍戸錠などの名前を聞くと懐かしいが,当時リアルタイムでは映画を観ていない。しかし,舞台設定さえわかれば,内容は何となく想像がつきそうだ。(映画の中での)浅丘との関係は「恋に生きたら 楽しかろうが」という関係なのだろう。

 元歌が復員兵によってもたらされたものならば,曲調からいって軍隊で唄われたというより,戦後の収容所で唄われたのではないだろうか。復員兵が唄う気持ちは,共に帰ることが叶わなかった戦友に対する思いと,復員後の思いを歌に託したのだろう。

 朝鮮戦争があり,終戦直後と内地の様子は様変わりしてきたが,将兵の復員はその後もあった。石油コンビナートが建設されるようになり,経済成長に踏み出そうとしていたが,まだ,先の大戦の記憶は強く残っており,このような曲を聴けば思い出されただろう。

 

幸福を売る男(2020.12.4)

昭和35年,詞:Jean Broussolle/岩谷時子,曲:Jean-Piere Calvet,唄:越路吹雪

 「おいらヴァガボンド 幸福(しあわせ)と 楽しいシャンソン 売って歩く」と始まる。

 日本語には自分を表す人称代名詞はいくつもある。その中で「おいら」を選んだのはどうしてだろうか。また,ところどころ助詞が省略されている。

 この歌を翻訳するにあたって原詞の雰囲気を忠実に訳そうと試みたのだろう。しかし,裕次郎が『おいらはドラマー』1)と唄うのには違和感がないが,越路吹雪が「おいら」と唄い出すのには強い違和感を持つ。越路に唄わせるなら『わたし』でよかったのではないか。越路が宝塚で男役だったから『わたし』を避けたのだろうか。

 「おいら」自体が変なわけではない。少し前には宮城まり子2),三橋美智也,若山彰など,少し後には北島三郎も「おいら」を使った歌を唄っているが違和感は無い。「ヴァガボンド」などと言われるとハイカラに聞え,私が持つ「おいら」の語感と合わないのかもしれない。

1)「嵐を呼ぶ男」(昭和32年,詞:井上梅次,曲:大森盛太郎,唄:石原裕次郎)

2)「ガード下の靴磨き」(昭和30年,詞:宮川哲夫,曲:利根一郎,唄:宮城まり子)

3)「俺ら炭坑夫」(昭和32年,詞:横井弘,曲:鎌多俊与,唄;三橋美智也)

4)「喜びも悲しみも幾年月」(昭和32年,詞:木下忠司,曲:木下忠司,唄:若山彰)

5)「なみだ船」(昭和37年,詞:星野哲郎,曲:船村徹,唄;北島三郎)

 

ステキなタイミング(2014.6.23)

昭和35年,詞:Ballard Clint,訳詞:漣健児,曲:Ballard Clint,唄:ダニー飯田とパラダイス・キング

「オー ユー・ニード・タイミン  アー ティカ ティカ ティカ グッドタイミング」と始まる歌。メインボーカルとして唄ったのは坂本九である。この曲は『ビキニスタイルのお嬢さん』のB面曲で,原曲はジミー・ジョーンズが唄った「A Good Timin’」らしいがこの原曲は聴いた記憶がない。作詞・作曲も,トビアス・バラードとしている資料もあり,実際にはどうだったのか私にはよく解らない。

詞は「カンニング」「浮気」など例を挙げて「かんじんなのは ステキなタイミング」と歌っている。なかには「火の玉投手のドロップに」などという歌詞もある。

 ところで,「カンニング」というのは昔から日本にあったのだろうか。実態があればその名称があったと思うのだが,これに対応する日本語を思いつかないので,これは戦後の占領期に入ってきたのではなかろうかと思い,Wikipediaを見たら明治35年出版の内田魯庵の著書や明治38年の読売新聞の記事などにあるそうだ。『盗み見』などという言葉なら,『盗み』は悪いことという社会通念が成り立っていたと思うので,昔は『盗み』と同程度に悪いことだと皆が認識していたのだろう。Wikipediaには「カンニング」は和製英語であると書かれている。元のcunningは『ずる賢い』という意味とされているので,ずるい程度ならゆるされるかと,罪の意識を軽くするために明治以降,徐々に「カンニング」がつかわれるようになったのだろう。社会の劣化が表れている。

 ところで,『ドロップ』などという単語がでている。最近,野球放送はほとんど観ないが,たまに観ても『ドロップ』という球種はあまり聞かない。私が子供のころは,直球,カーブ,シュート,ドロップというのが代表的な球種だった。杉下茂が投げるフォークボールというのもあったが,極めて特殊な球種だった。少年雑誌などにはナックルボールというのも米国にはあるようなことが書いてあったが,当時の日本野球でナックルを投げた投手の記憶がない。

 小学校の講堂に卓球台が数多く置いてあり,昼休みや放課後などよく卓球をした。ラバーというようなしゃれたものは貼ってなかったがラケットも置いてあり,玉だけは潰れるので個人持ちだった。ネットもなかった。耐久性のある台とラケットだけがあったのだ。従って,多くの児童がピン球(ピンポン玉)を持っていた。それで教室内や廊下でキャッチボールをやる。軽いので変化球は非常に大きく曲がる。ホップする球も投げることができた。このような時代,ドロップは標準的球種のひとつだった。

 最近の野球放送をたまに観ると,どうもドロップは縦のカーブと呼ばれているようだ。スライダーとかシンカーとか,昔に比べて球種が増えているようだ。ストレートというのは直球のことだろう。フォーシームで投げたりツーシームで投げたりしていた投手は昔もいたに違いないが,こんな言葉は聞いたことがなかった。もちろんチェンジアップなどの言葉も聴いたことがなかったが金田正一の山なりスローボールはチェンジアップの一種なのだろう。

 

ズンドコ節(2015.9.21)

昭和35年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:小林旭

「街のみんなが振り返る」と始まる歌。「ズン ズン ズンドコ」というのも歌の一部と考えればこれが始まりとも言える。私には「一年前には知らなんだ 半年前にも知らなんだ」という箇所が印象に残っている。

一番の歌詞は「グッド・ナイトと二人に ウインクしている街あかり」と終わる。「ウインク」という言葉は昔から使われていた言葉だったのか新しい言葉だったのか記憶がないが,関連で思い出すのは車の方向指示器だ。

昔の車の方向指示器は兎の耳のようなものが普段は下向きに垂れており,右に曲がる時には右の耳が右側に水平に突き出る,左に曲がる時には左の耳がでるものだった。そのうちに今のように点滅するライトになったが,これをフラッシャーと呼んでいたと思う。この方向指示ライトはフラッシャー・リレーと呼ばれる電磁リレーで点滅させていた。同じ形の方向指示器がいまはウインカーと呼ばれている。ウインクという言葉が広く使われるようになってからウインカーになったのだろうか。

フラッシャー・リレーは電磁石で機械式スイッチを駆動するものなので動作時に音がして,方向指示器が動作していることが音で確認できた。現在は電子リレーで駆動して音はしないと思うのだが,動作確認を容易にするためにわざわざ音を作って出しているのだろう。

後に私が米国で車の運転免許をとったとき,筆記試験のために勉強したDriver ManualにはTurn Signal(s)と書かれている。米国ではフラッシャーやウインカーとは言わないようだが,日本の運転教則本も方向指示器と書かれているようなので,米国で俗に何といっているかは調べないと解らない。

 なお,この歌の元歌は『海軍小唄』。田端義夫が替え歌を唄ったときに「ズンドコ節」と名付けられた。

 また,後にも多くの「ズンドコ節」がでて,この歌は後には「アキラのズンドコ節」と呼ばれるようになる。

 

他国の雨(2019.12.28)

昭和35年,詞:野村俊夫,曲:石毛長二郎,唄:島倉千代子

 「他国の町に 降る雨悲し」と始まる歌。

 「想い出ゆえに 心が痛む」状態で「夜汽車の笛を 聴けば故郷 懐かしや」だ。

 当然ながら,若い頃の島倉の特徴ある声だ。高音部は細いがよく通る声,中音部は艶のあるこえ高音部より太さが増した声,唄にも合っている。後年,テレビで本人がこの歌を唄ったのも聴いたことがあるが,若い頃の声とは違っていた。

 

達者でナ(2013.3.13)

昭和35年,詞:横井弘,曲:中野忠晴,唄:三橋美智也

 「わらにまみれてヨー育てた栗毛」と三橋美智也の歌に多い高音から始まる曲で,育てた馬との別れを歌った民謡調の歌である。「今日は買われてヨー町へゆく」というので,農耕馬ではないだろう。競走馬の可能性もあるが,何となく飼い主は何頭もの馬を買っている牧場主ではなく農家のように感じる。当時は馬車がなくなる直前ではないだろうか。私が中学生の頃までは馬車をよく見た。高校には馬で通勤している先生がいて,体育館の横に繫いであった。運転免許試験でも馬車は軽車両というような問題がでていたように思う。

 馬車を見なくなってからもしばらくはロバを見た。ロバに曳かせたパン屋だ。このロバのパンもそのうちに自動車になった。

 

ダンチョネ節(2015.6.8)

昭和35年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:小林旭

「逢いはせなんだか小島のかもめ」と始まる歌。

元歌は種々の記事に神奈川県民謡とあるが,私は知らない。元歌には多くの替え歌があるようだ。たとえば『沖の鴎と飛行機乗りは』と始まる特攻隊節と呼ばれている歌がある。(特攻隊節と呼ばれる歌には別の歌もあるのでややこしい。)

元歌は知らないが,この小林旭の歌は完全な歌謡曲だ。昔の歌謡曲は今の歌に比べてスローテンポなものが多いが,この歌はアップテンポで,小林の高音がすばらしい。八代亜紀の歌1)などから想像すると,小林の歌の「いやだ やだやだ 別れちゃや〜だと」以降が民謡ダンチョネ節から採ったものと思われるが,民謡の雰囲気は残っていない。

唄う映画スターは何人もいたが,双璧はこの小林旭と石原裕次郎だろう。もちろん吉永小百合や加山雄三などを忘れているわけではないが,石原と小林は別格だ。美空ひばりなどは歌手が映画に出ていたのだ。

八代亜紀が「ダンチョネ」との歌詞を入れて唄ったもの1)とはかなり異なる歌だ。

1)「舟唄」(昭和54年,詞:阿久悠,曲:浜圭介,唄:八代亜紀)

 

忠治流転笠(2022.7.9)

昭和35年,詞:猪又良作,曲:長津義司,唄:三波春夫

 「抜いた白刃は 小松五郎に さむざむと うつる残月 赤城山」と始まる。

 ご存じ国定忠治の物語だ。「赤城の山も今宵限り」という有名な台詞もちゃんと入っている。「こびりついてる 野暮な渡世の 身の錆びを 洗い流すにゃ もう遅い」と唄っているが,これだけではどのような状況なのか全くわからない。SPレコード1)の時代なので4分弱しかないので過去や現状を説明している余裕はないのだ。しかし,当時の人々はみな話を知っているのでこれだけで十分状況を理解しているのだ。

 小畑実に同タイトルの歌2があるが,三波春夫のこの歌とは違う歌で,三波のこの歌は浪曲調,小畑の歌は純然たる歌謡曲と言えよう。

1)     SPレコードの録音時間は12インチで片面5分,LPレコードは12インチで片面25分程度だ。戦後LPレコードが開発されると徐々にSPレコードは作られなくなった,日本で最後にSPレコードが製造されたのは昭和38年である。

2)     「忠治流転笠」(昭和30年,詞:荒川静夫,曲:大村能章,唄:小畑実)

 

月影のキューバ(2014.1.9)

昭和35年,詞:Michael Merio,訳詞:ホセ・しばさき,曲:Patrick Welch,唄:森山加代子

「月のキューバの夜のことよ」と始まる歌。原曲はCelia CruzMagical Luna。森山はこの曲で紅白に初出場している。

 歌詞に「ねプロントプロント」と何度も出てくるのだが,これが何かは知らない。3番に「恋しいプロントプロント」とあるので,どこかに行ってしまった元彼の名前だろうか。

 元彼という言葉は当時はなかった。元彼がいるなどということは秘することであり,話題にしないので対応する言葉も無かったのだろう。

当時は外国の曲の日本語版が多数発売されており,競作になるものも多かった。この歌も,ザ・ピーナッツが唄っていたと思うが,私には森山加代子の唄が印象的だった。

 ところで,この前後の数年,月に語りかける詞の歌が多いような気がする。日本の歌だけではなく,外国の歌でもだ。この後,アポロ11号(の月着陸船)が月面に着陸し,ニールアームストロング船長とエドウィン・オルドリン操縦士が月面に降り立った昭和44年を境に,昔は月に語りかける詞が多かったが,これ以降月に語りかける詞は激減してしまったような気がする。宇宙に対する夢が膨らむと同時に天体に対する畏敬の念が薄れたのではないだろうか。

 

月影のナポリ(2014.4.5)

昭和35年,訳詞:岩谷時子,曲:F. MigliacciB.De Filippi,唄:森山加代子

「ティンタレラ ディ ルナ」と始まる歌。「蒼いお月様 あの人に云って」と続く。原曲はMinaTintarella di lunaである。Minaの唄も聴いたことがあるのだろうが,印象に残っているのは森山の唄だ。「ティンティンティンと胸の鳴る」という箇所は原詞の「Tin Tin Tin」をそのまま使ったのだろうが,日本語による胸の鳴る音としては斬新だ。

 この曲は森山のレコードデビュー曲である。

 

月の法善寺横町(2012.7.28)

昭和35年,詞:十二村哲,曲:飯田景応,唄:藤島桓夫

 「包丁一本さらしに巻いて」と,独特な声で藤島桓夫が唄う歌である。台詞入りである。包丁修行中の料理人が,こいさんと恋仲になる。親方は二人の仲を許してはくれたが条件として他所での修行を命じられ修行に出るというわけだ。この包丁人は永久就職内定と言うわけだ,ハッピーな経過だろう。

 この年,池田勇人内閣は「国民所得倍増計画」を閣議決定した。黒いダイヤと呼ばれていた石炭産業が斜陽化していく一方,石油化学産業は発展していく。日本のテレビ生産は世界第2位となり,ソニーは世界最初のトランジスタテレビを発売する。一部の産業は衰退したが,国民の大部分の個人所得は急速に増えつつあった時代である。

 

東京カチート(2015.1.21)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:フランク永井

 「東京 カチート カチート カチーイート」と始まって「東京 カチート カチート カチーイート」と終わる歌。

 歌詞は「赤い灯がつく赤坂タウン」と始まる。歌詞では,どうも東京カチートに対して「俺の可愛い相棒よ」と呼びかけて,自分の恋について相談している印象を受ける。この東京カチートが何を表すのか理解できない。スペイン語のCachitoなら(私には解らないのでインターネットの西英辞書で調べてみると)「bit, piece, fragment」などの意味らしい。「こども」の意味で使われた「Cachito」という歌もあるらしい。佐伯孝夫でなければ下ネタ系との疑いも生じるが,私が想像する佐伯には似合わない。それに「東京」とついているのだ。

 勝手な想像だが,単身赴任か何かで東京に来ていて,都会の雰囲気に良い,田舎での自分とは違う自分を発見し,その自分に向かって「東京カチート」と呼びかけているのではないだろうか。

 

東京へ戻っておいでよ(2015.5.9)

昭和35年,詞:星野哲郎,曲:遠藤実,唄:守屋浩

 「惚れたと言ったらあの娘は泣いていた」と佐渡へ帰ってしまった娘を想う歌。

「嫌かと訊いたらあの娘はうつむいた」と言葉に出さず,態度で示す。揺れ動く女心。「待つぜと言ったらコックリうなずいた」が本当に戻ってくるのだろうか。泣いて別れて郷里に帰れば,二度と戻って来ないと考えるのが普通だ。戻って来られないと考えるからこそ泣くのだろう。当時,越後から東京は遠かった。

それでも「東京へ戻っておいでよ早く早く早く」と終わる。

『別れ』の歌でも昭和20年代,40年代とは様子が違う。社会が変わったからだろう。20年代は外部の力による理不尽な別れ,30年代は相手の気持ちも確認できないうちの別れ,40年代は同棲期間を経て一方が出ていく別れの歌が多いように感じる。

 この頃,私はまだ東京へ行ったことはなかった。東京とは私にとって歌にでてくる地名だったのだ。

 この少し前,私は病気でしばらく学校を休んで自宅療養していた。と言っても寝たきりではなく,休んでいた期間にラジオを作った。その前にもイヤホンのラジオは作ったことがあったが,スピーカを鳴らすラジオはこのときが初めてだった。昔でいう並3ラジオだ。

真空管,それもST管と呼ばれる大きな真空管を使ったものだった。当時,ST管は学校の放送室にあるアンプに入っているくらいしか見なかった。市販されているラジオやテレビはMT管と呼ばれる小さな真空管を使ったものが主流だったので,ST管は安くなっていたのだろう。ラジコンなどもあったが,サブミニチュア管と呼ばれるMT管より更に小さな真空管を使用していた。

 トランジスタはあったが高価だった。そのため高周波増幅と低周波増幅を一つのトランジスタで兼用するレフレックス回路などというものも使われていた。

 この歌は近所の家から捨てられる寸前のラジオをもらってきて,修理して聴いた。私が作ったラジオよりはかなり高級でマジックアイ1)などもついていた。後にこのラジオはギターアンプに改造して一時使った。

1)頭部に蛍光塗料を塗った特殊な真空管。信号強度に応じて発光部の形状(面積)を変えることができることを利用して信号強度を表示するのに使われた。VUメータなど見たこともなかった。Sメータがついている無線機はあったが普通のラジオでは見たことがない。

 

花散る下田(2018.1.6)

昭和35年,詞:青山圭男,曲:古賀政男,唄:島倉千代子

 「二すじに 道もわかれて 去りゆく人の」と始まる歌。

 歌舞伎座で演じられた「花散る下田」の主題歌。これが歌舞伎座初の歌手による1ヶ月公演だそうだ。

 1番と2番の間に,「鶴さん! 下田の浜で・・(中略)・・夢の中でも手を取り合って,生きて行こうね・・・さようなら・・・」と台詞が入る。

 当時,愛別離苦は身近にあった。

 

ビキニスタイルのお嬢さん(2013.10.22)

昭和35年,詞:Lee Pockriss,日本語詞:岩谷時子,曲:ポール・バンス,唄:ダニー飯田とパラダイスキング

 「海辺の狭い小屋からあの娘は出られない」と始まる歌。元歌はBrian Hylandの,ちょっと長いタイトルだが,「Itsy Bitsy, Teenie Weenie, Yellow Polka-Det Bikini」という歌である。メインボーカルの石川進の顔も思い出し,メロディーもわかるが日本語の歌詞にあまり聴き覚えがなく,口をついて出てくるのは英語もどきの歌詞なので,聴いていたのは原曲のほうが多かったのかも知れない。原曲は「She was afraid to come out of the locker」と始まる。

 ビキニ環礁はマーシャル諸島共和国にある。戦前は日本の委任統治領であり『赤道直下マーシャル群島』1)と歌にも出てくる。戦後はアメリカが核実験場として使用した。

 水着としてのビキニは(一般的ではなかったらしいが)昔からあったようだが,ビキニと命名されたのは昭和21年のことで,この年に初めて行われたビキニ環礁での原爆実験の衝撃に匹敵するものとして命名されたらしい。しかし,昭和35年には私はビキニはもちろん,セパレーツの水着も見たことがなかった。もっとも,当時,私は泳ぎに行くことがなかった。

 子供の頃は,川は直ぐ近くにあったが,泳いではいけないと言われていた。一時豚コレラが流行り,病死した豚が不法投棄されているので危険だということであった。本当のところは判らない。雨に濡れると放射能で毛が抜けるとか,運動会の日の朝,馬糞(当時は道に良く落ちていた)を踏むと速く走れる,それも裸足で直に踏まないと効果がないとか,いろんな話があったうちのひとつだ。プールなどという洒落たものはなかったので河口まで行った。自転車で行ける距離だった。河口自体は遊泳禁止だった(流れで危険なため)が直ぐ隣が海水浴場だった。小さな海水浴場だが,その付近は遠浅で,子供には十分だった。ところがこの海水浴場が第2コンビナート建設のために埋め立てられることになった。

 海水浴は,最低でも隣の浜に行かねばならず,ここも海水浴場だったが,こちらの海水浴場は少し海底の勾配がきつく,少し沖に向かうだけで,子供は背が立たなくなった。一番の難点は子供が自転車で行くには自宅から遠かったことだ。

1)      「酋長の娘」(昭和5年,詞:石田一松,曲:石田一松)

 

僕は泣いちっち(2012.3.20)

昭和35年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:守屋浩

 「僕の恋人東京へ行っちっち」という歌。イントロの最後の部分が「チッチッチッチッチッチッチッチッ チッチッチッチッ ちっち」と言っているように聞こえていた。

 昔は東京遊学などというと,それなりの経済的余裕がある家庭の子弟ということだったが,当時は既に労働力の移動も激しくなっており,職がありそうな都会へと流れる人口も増えていた。芸術・娯楽なども,東京には何でもあり,自分が住む田舎には楽しいことは何もないという感じがしていた。大都会のことはよくわからなかったのだ。

 交通の便もよくないので日帰りではとても行けない。集団就職というような形だと,経費の点からも盆と正月に帰省することすら大変だった。電話も普及していないので,遠く離れてしまうと手紙のやりとりしかない。

 歌詞から恋人が東京へ行ってしまった理由は不明だが「どうして東京がそんなにいいんだろう」とあるので本人が望んで行ったのだろう。「僕も行こうあの娘の住んでる東京へ」と思っているようだが,新幹線も高速道路もない時代だ。きっと思っているだけで行けなかったに違いない。

 ちなみに,私の祖父は新潟県長岡市から東京へ徒歩で出たそうだ。もちろん汽車は走っている時代だが汽車賃がなかった。語り継がれるほどだから,当時でも普通のことではなかったのだ。それほど東京には人を引きつける物があったのだろう。祖父は東京から模型の蒸気機関車を買って帰ったらしいが私は見たことがない。ボイラーが付いており,実際に火を焚いて走る汽車だったそうだ。

 中学の修学旅行は,箱根・鎌倉・横浜・東京だった。

 

ミヨちゃん(2012.9.22)

昭和35年,詞:平尾昌晃,曲:平尾昌晃,唄:平尾昌晃

 最初に「皆さん まぁ 僕の話を聞いて下さい。・・・」と続く台詞の後,「僕のかわいいミヨちゃんは」と始まる歌。当時の高校二年生はこんな感じだったかもしれない。

 「ちっとも美人じゃないけれどなぜか僕をひきつける」と言いながら,「父さん母さん怨むじゃないが・・・も少し器量良く生まれたらこんなことにはなるまいに」とも言っている。世の中には面食い系の人間もいるがそうでない人間もいる。このケースでは,自分は面食いではないが相手は面食いでそのためにうまくいかないと親に責任転嫁しようとしている。本人も気づいているようだが「も少し勇気があったなら」展開は変わったかもしれないのだ。

 駅など,人通りの多いところに出かけると多くのカップルを見かける。その経験から言えば,面食いでない人間は沢山いる。

 

無情の夢(2023.9.19)

昭和35年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:佐川ミツオ 

 「あきらめましょと 別れてみたが 何で忘りゃう忘らりょか」と始まる。

 佐川以前の歌手の声とはかなり違う雰囲気の甘ったるい声で,以後,いろんな声質の歌手が現れて来る。

 昭和11年に児玉好雄が唄った曲のカバー。この歌がヒットしたため,昭和36年には日活で同名の映画がつくられている。映画の内容を知らないので誰が主役か知らないがキャスト一覧は小高雄二から始まっている。出演者の中で私が知っている名は佐川ミツオと松原智恵子だけだ。

 

霧笛が俺を呼んでいる(2013.7.15)

昭和35年,詞:水木かおる,曲:藤原秀行,唄:赤木圭一郎

 「霧の波止場に帰って来たが」と始まる歌。「霧笛が俺を呼んでいる」と終わる。

 当時,私は映画を滅多に観なかったし,赤木圭一郎がテレビで歌うこともなかった(と思う)ので,リアルタイムではこの歌を知らなかった。

 唄う映画スターといえば石原裕次郎,小林旭,加山雄三くらいまでだろうか。元祖は高田浩吉らしいが私は彼の現役時代の歌はほとんど知らない。鶴田浩二なら何曲かは判る。渡哲也や舘ひろし,寺尾聡などの歌も知ってはいるが,歌う映画スターという印象は薄い。もちろん,映画出演の多い歌手はいくらでもいるが,私にとっては皆歌手だ。

 この頃,私は体調を壊して数週間連続して学校を休んだ。入院していたわけではなく,苦い漢方薬を飲んで家に閉じこもっていた。当時は主としてラジオを聴いていたが,アメリカンポップスを聴いていることが多かったように思う。ラジオを聴きながらラジオを作った。最初に作ったのは6C6, 6ZP112Fの並3だ。当時販売されていた主流のラジオは12BE612BD612AV635C535W4の5球スーパーではなかっただろうか。そういえば中学の技術の時間には,6WC56D66ZDH3A, 6ZP112F5球スーパーを作ったような気がする。

 以下,注をつけても解る人にしか解らないだろうから,注なしにする。

 当時テレビはあるところにはあった。初期のテレビがそろそろ故障し始める。大抵の故障は真空管の劣化である。最初は電源トランスを使うタイプだったが,その後トランスレスに変わる。いずれにせよ,劣化する真空管はほとんど決まっており,素人でも画面を見れば不良真空管が判り,大抵修理できた。修理といっても真空管を交換するだけである。チューナー用,水平・垂直の発振・出力用の真空管不良が多かったが,その次は高圧整流管だった。整流管以外は,完全に壊れるというのは少なく,ほとんどがエミ減による利得減少である。

 真空管は陰極のヒーターに電流を流して加熱し,陰極表面から放出される電子を利用して増幅する。この電子放出(エミッション)が減少すると利得が低下するのだ。このような真空管でも目的によっては支障なく動作するので,多数集めて持っていた。並3ラジオを作ったときより後の話だ。カソードエミッションを増やしたければヒーター電圧を少し定格より上げてやればよい。上げ過ぎると断線するので要注意だが,ヒーター断線にはパルス電流をヒーターに流して溶接するという修復テクニックもあった。コンデンサに充電した電荷を断線したヒーターに無理やり流すのだが,失敗すると完全に壊れる。・・・既に壊れているので惜しくはない。

 当時トランジスタもあったが高価だった。特に高周波用は高価でちょっとやそっとでは使えなかった。NECST300などというのが最も安価なトランジスタで,pnpの低周波増幅用である。まだ名称は統一されておらず,メーカーごとに違う型名が使われていた。その後,トランジスタは2Sで始まる型名に統一された。トランジスタのリード線が根元で折れたら,錫メッキ線を近くに差し込んで,セメダインで止めるなどという修復法もあった。

 抵抗器はL型炭素皮膜抵抗で,必要があれば表面のエナメルをはがし,テスターで測りながら鉛筆で黒鉛を塗って必要な抵抗値を得るというようなこともやった。

 これから数年後,ラジコン飛行機を作るのを見ていたことがあるが,サブミニチュア管という小さな真空管を使っていた。制御はスロットルOFF,ラダー,エレベータだけだったと思う。アナログ制御はできなかったのではないだろうか。トリオから9R59という高1中21)の短波受信機が発売されたのはこの頃ではなかっただろうか。

1)      高周波増幅1段,中間周波増幅2段のスーパーヘテロダイン受信機。

 

無敵のライフルマン(2014.2.16)

昭和35年,詞:服部レイモンド,曲:服部レイモンド,唄:小坂一也

「どこからやって来たのやら いかつい顔に優しい眼」と始まる歌。

 TBS系で昭和35年から放映された西部劇「ライフルマン」の主題歌。ウインチェスターM1892の連射が印象的でオープニングにも使われていた。この当時は自分でチャンバラなどをして遊ぶ年齢を過ぎていて西部劇ごっこなどもしなくなっていたが,もっと幼い頃にはガンマン気取りの遊びも少なからずやった。今でもアニメやゲームで皆に記憶されているのだろうが,昔も業の名前,武器の名前など自然に覚えていた。

『諸刃流正眼崩し』といえば旗本退屈男,『真空斬り』といえば赤胴鈴之助という具合だ。『燕返し』の佐々木小次郎などというのもいた。後になっても『変移抜刀霞斬り』のカムイや『水鴎流波切りの太刀』の拝一刀,『鬼斬り』のロロアノ・ゾロなど多彩である。刀でも近藤勇の『虎徹』ほか多く挙げられる。

これに対して,ガンマンに関しては名前のついている技を直ぐには思い出さない。早撃ちは多くいたが,その技術に名前がついていたのを直ぐには思い出さない。しかし銃にはこだわりがあったようだ。たとえば,ワイアット・アープはバントライン・スペシャルと呼ばれるコルト・シングル・アクション・アーミーがベースの特注拳銃を使用していたらしいし,ジョッシュ・ランダルはランダルカスタムと呼ばれる改造銃を使っていた。これはレバーアクションライフルの銃身と銃床を切り詰めループレバーを取り付けた銃である。特注の銃を使うのはゴルゴ13も同じである。基本はアサルトライフルM16だが,目的に応じて種々改良を依頼している。カスタムではないようだが,ハリー・キャラハンはS&W M2944マグナム弾を使用している。

 なんとなく,日本では技で相手を倒す,米国では武器の性能で相手を倒すという雰囲気が感じられる。精神力と物量の戦いのような気もする。

 そういえば,ワイアット・アープが手が触れるほどの距離で相手と撃ち合ったとき,相手は6発全弾を外し,アープも外したのだが,2丁拳銃だったため,最後の12発目が相手に当たってかろうじて勝ったという話を,昔,何かで読んだことがある。拳銃とは当たらないものだと思ったが,慣れてなければそんなものかも知れない。荒木又右衛門の36人斬りで知られる『鍵屋の辻の決闘』でも5時間の斬り合いで実際に斬ったのは二人だとか。

 斬り合いは野蛮かもしれないが,遠く離れたところからの狙撃は卑怯だろう。自分は安全?な場所にいてボタンを押すことにより,同様なボタンを押すかもしれない相手だけでなく,無関係な人々をも巻き込んで大量殺傷することははるかに非人道的で野蛮なことだ。

 

メロンの気持ち(2014.7.29)

昭和35年,詞:Carlos Rigual,訳詞:ホセ・しばさき,曲:Carlos Rigual,唄:森山加代子

Corazon de melon , de melon, melon, melon, melon, melon」と始まる歌。原曲はGloria LassoCorazon de melonである。

 外はあおくて固いけど,中身は甘いメロンだから,誰か私を採りに来てという歌。

 この頃は『ザ・ヒットパレード』1)などを観ていたような記憶がある。やはり印象に残るのはザ・ピーナッツだが,スマイリー小原とスカイライナーズも印象的だった。渡辺プロダクション主体の番組であり,当時のわたしのこの方面の知識はナベプロに偏っていた。

 と思ったが,そういえば玉置宏司会の歌番組2)も観ていた。こちらのほうは古いタイプの流行歌中心だったように思う。

1)「ザ・ヒットパレード」:フジテレビ系列の音楽番組。昭和34年―昭和45年放映。

2)「ロッテ歌のアルバム」:TBS系歌謡番組。昭和3554年。玉置は昭和52年まで司会を続けている。

 

ラ・マラゲーニア(2014.9.11)

昭和35年,詞:B.E.Ramirez/G.P.Galindo,曲:B.E.Ramirez/G.P.Galindo,唄:アイ・ジョージ

 「Que bonitos ojos tienes debajo de esas dos cejas」と始まる歌。

 昭和35年の紅白で唄っているので,それなりに流行したのだろうが,私が聴いていたラジオ番組ではそれほどかかっていなかったのではなかろうか。あるいは歌詞が全く聞き取とれないために私が関心を持たなかっただけなのだろうか。「Malague--------」と延ばすところだけが印象に残っている。当時はラテン音楽はほとんど聴かなかったのだ。

 昭和34年にTrio los Panchosが来日するなど,聴くチャンスはあったのだろうと思うが関心はなかった。ラテン音楽に少しだけ関心を持つようになったのは自己流でギターを始めた後だ。フラメンコに魅せられた時期も短時間だがあった。

 

A Taste of Honey<蜜の味>(2015.7.7)

昭和35年,詞:Ric Marlow,曲:Bobby Scot

ミュージカル「A Taste of Honey」のために作られた曲。ビートルズなど多くの歌手がカバーしている。私がよく聴いたのは唄のないThe Ventures盤だ。雑誌『明星』の昭和417月号付録の歌本にBrenda Leeの歌として「Winds may blow over the icy seas」と始まる歌詞が載っていたので思い出した。

 細かく言えば,この曲は私にとっては歌ではなく,曲だ。意味が聞き取れない外国語の歌なら,唄があってもなくても同じかというと,そうではない。楽器の音の表情と歌手の歌声の表情では私に対して訴えかける強さが違う。

 

Calendar Girl<カレンダー・ガール>(2012.5.25)

昭和35年,詞:H.Greenfield,曲:N.Sedaka,唄:Neil Sedaka

 「I love, I love, I love my Calendar girl」から始まるというべきか「(January You start the year off fine」から始まるというべきか。昭和36年には坂本九/ダニー飯田とパラダイス・キングで発売されている。日本語歌詞は星加ルミ子である。

 坂本九にも良い曲があるが,この曲はニール・セダカのほうが良い。曲自体とりたてて述べることはないが,当時は英語の歌を聴くということに意義を見出していた。何となく高尚なことをやっているという自己満足だった。ニール・セダカの曲を沢山知っているわけではないが,この歌よりもKing of Clowns,更にOne Way Ticketのほうが好きだ。

 今,この曲を聴いてみると何となくジューク・ボックスを思い出す。昭和40年代の後半だと思うが,たまに飲みに行く店にジューク・ボックスがあった。この店で主に飲んでいたのはジンライムとかギムレットだ。

 

One Way Ticket<恋の片道切符>(2011.10.19)

昭和35年,詞:Hunter Hank and Keller Jack,曲:Hunter Hank and Keller Jack,唄:Neil Sedaka

Choo choo train a chuggin down the track」ではじまる。チュウチュウトレインというのは何かずっと知らなかった。今回辞書を調べたら,こんな単語も載っていて,汽車の音らしい。アメリカの汽車はチュウチュウ言いながら走っているのだろうか。

音羽たかしの詞で平尾昌晃も「汽車は今傷ついた僕を乗せ」と唄っていたし,邦題は「恋の片道切符」だったので何となく片想いの歌かと思っていたのだが,歌詞をじっくり見てみると,別れの傷心は確かだが別れの原因は良くわからない。傷心を癒す旅の歌だったのかと今知ったところだ。短調の曲だが,メロディー自体には傷心を感じない。アメリカ人がそうなのか,時代がそうだったのか。カントリーにはもっと哀調のある曲もあったが。