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昭和16年〜

目次

昭和16年 海〔うみはひろいな〕,オウマ,十三夜,船頭さん,そうだその意気,たきび,たなばたさま,花火,めんこい子馬,森の小人

昭和17年 明日はお立ちか,婦系図の歌<湯島の白梅>,新雪,ジャワのマンゴ売り,鈴懸の径,空の神兵,南から南から,森の水車,わか葉

昭和18年 勘太郎月夜唄,シャンラン節,スキー,同期の桜,南の花嫁さん,若鷲の歌<予科練の歌>

昭和19年 軍隊小唄,ともしび[夜霧のかなたへ],ラバウル小唄

昭和20年 お山の杉の子,海軍小唄<ズンドコ節>

 

(2013.2.23)

昭和16年,詞:林柳波,曲:井上武士

「うみはひろいなおおきいな」と始まる歌。文部省唱歌発表時のタイトルは「ウミ」その後「うみ」を経て「海」となる。

「日が沈む」と歌詞にあるが,私が住んでいるところでは山に日が沈む。小学校での夏休みの宿題に,鈴鹿山脈の絵があり,その絵に毎日日没場所を記入するというのがあった。毎日記録しなければならないので面倒だった記憶がある。

3番の歌詞にある「うみにお舟をうかばして」という言い方を私はしない。「浮かばせて」か,文字数が合わなくても良ければ「浮かべて」と言いたい。この「し」は,『漢字を書かせる』という代わりに『漢字を書かす』という言い方なのだろうか。『弁当を持たせる』『弁当を持たす』というのと同じ・・・ちょっと違うか。「浮かぶ」が自動詞であることが違和感の正体であるように思う。

歌詞中の「いったみたいなよそのくに」を帝国主義・膨張主義・覇権主義などと関連付けようとする意見があると聞いたが,そういうのを『下衆の勘繰り』という。大きな海を目の前にし,その先に外国があると聞けば行ってみたいと思うのは素朴な感情であり,小学低学年の唱歌として何の問題もない。仮に作詞者の心の中にそのような考えがあったとしても作品となった後は読者の心が反映されるものだろう。

 

オウマ(2014.5.4)

昭和16年,詞:林柳波,曲:松島つね

 「オウマノ オヤコハ ナカヨシ コヨシ」と始まる歌。

 当時は国民学校(小学校)ではカタカナから教え始めたので音楽の教科書「ウタノホン上」に書かれたタイトル・歌詞もカタカナ主体だったが,戦後はひらがなで表記されている。

 学制は昭和16年に変わっている。これまでの尋常小学校が国民学校初等科,高等小学校が国民学校高等科に変わった。尋常小学校の国語読本は(イエスシ読本)(ハタタコ読本)(ハナハト読本)(サクラ読本)と変遷しているが,国民学校初等科の国語読本は(アサヒ読本)である。国語で最初に習うのが『アカイ アカイ アサヒ』であった。

 

十三夜(2012.5.17)

昭和16年,詞:石松秋二,曲:長津義司,唄:小笠原美都子

 「河岸の柳の行きずりに」で始まる歌。榎本美佐江が唄っているのを聴いたことがある。こちらのレコードは昭和39年だ。

たまたま昔の知り合いに会った歌。単なる知り合いじゃない。何を話したらよいのか判らない。懐かしさやうれしさで泣きたい気持ちだが今更泣いてもどうにもならない。結局「さようなら」と言ってしまった。「青い月夜の十三夜」と終わる。

ありそうな状況だが,現実にはなかなかこのようなことはないだろう。生まれ育った土地に一生住むのであれば「行きずりに」であうというような状況ではなく,もっと頻繁に出会うことがあるだろう。生まれた土地を出てしまえばこのような偶然はほとんどない。

昭和161月,東條英機陸相が「戦陣訓」を全軍に示達。このなかの「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉は日本の兵士に大きな災いをもたらした。東條陸相の意図はどのようなものであれ,結果責任を負うべきであろう。10月にはルーズベルト米大統領は原爆開発を決断している。11月にはハル米国務長官より最後通牒としか理解できないハル・ノートを提示され日本は128日の真珠湾攻撃に踏み切る。12月には世界最大の戦艦「大和」が竣工した。

 

船頭さん(2012.9.5)

昭和16年,詞:武内俊子,曲:河村光陽

 「村の渡しの船頭さんは今年六十のお爺さん」という歌。当時は六十というとおじいさんだったらしい。私が20代の頃も60というとお爺さんと感じていた。しかし,自分が60を越えてみると,60はまだまだ若い。とはいえ体力は確かに衰えている。

 この船頭さんは日ごろから鍛えているからだろう,まだまだ「元気いっぱい櫓がしなる」ほどの力で船を漕いでいる。

2番と3番はお国のために働いているというイメージが強く,戦後,峰田明彦により異なる詞も作られている。お国のために働くのはもちろん良いのだが,2番で馬を乗せていて「あれは戦地へ行くお馬」という箇所がいけないということだろう。軍馬を子馬に変えたが今では馬が渡し舟で川を渡るのを見ることも無いだろう。3番は「村の御用やお国の御用」という歌詞だったので特に問題は無かったと思うのだが,「お国の御用」が軍の御用を想起させるというのだろう,全面的に書き換えらた。

元歌は作られた当時の状況を表す歌として歴史的意義があると思うが,書き換えた歌はいまでは古すぎて多くの子供には想像もできないような世界を描く歌になってしまい,史料としても質が落ちてしまったのではないか。

文学作品など,後の時代を基準にして安易な改作などしないほうがよい。

 

そうだその意気(2013.4.27)

昭和16年、詞:西條八十,曲:古賀政男

 「なんにも云えず靖国の」とはじまる歌。「国民総意の歌」とある。軍歌ではないと思うが,戦時歌謡というより,戦意高揚を目指した歌であろう。

 この年,日中戦争の最中である。1月には日本海軍航空部隊が中国の昆明を爆撃している。独ソ不可侵条約が更新されたが,ドイツはヨーロッパで武力による勢力拡大を着実に進行しつつある。4月にはロンメル将軍1)が北アフリカでイギリス軍を撃破,ドイツが更にヨーロッパで勢力を拡大するなか日ソ中立条約が成立する。5月からは日本軍は中国の重慶を爆撃,6月にはドイツがソ連に対して攻撃を開始する。大国で戦争状態にないのはアメリカだけという状況だが,アメリカも義勇空軍などの形で対中援助などを行っている。

 7月にはアメリカは在米日本資産を凍結,翌日にはイギリスも在英日本資産を凍結する。更にその翌日にはオランダ領東インドの日本資産も凍結される。11月にアメリカよりハル・ノートが示され,128日には日本軍はハワイの真珠湾を攻撃すると同時にマレー半島に上陸する。

 ここに至るまでの経緯にはいろいろ検証すべき点があり,検証の結果を教訓として学ぶべき点は多数あるのではないだろうか。

 全体を見渡して議論することは私の知識ではとてもできないが,小さな私の断片的知識だけでも,学力優秀なリーダー達の多くが,根拠のない幻想を基に下した判断と,現実の隠蔽により多くの人々を不幸に導いた歴史があるように思われ,これらを検証して将来に生かすべきであろう。科学的根拠?がある意見を無視して根拠の無い幻想を基に下す判断や事実の隠蔽は現在でもあるように感じるからこそ,歴史から学ぶことが大切だと思うのだ。

 この歌はこのような時代が作らせた歌だろうが,西條・古賀の作にしてはあまり心には響かない。詞は建前を言葉にしたようで,西條らしいとは感じられない。曲はいかにもこの時代の曲という感じを受けるが,いわゆる古賀メロディーらしさはない。

 

たきび(2012.12.31)

昭和16年,詞:巽聖歌,曲:渡辺茂

 「かきねのかきねのまがりかど」と始まる歌。

 道端で焚き火をしているのだ。開発が進みこのような光景が次々と失われていく。

 決定的だったのはダイオキシンの問題だろう。それ以前から次第に住宅が密集してきて焚き火の煙が近所の庭にまで入り込み,洗濯物をよごすなどの,トラブルが生じ始めていた。

 時代がいろいろ混乱してしまうが,例えば新聞紙は弁当箱を包む,八百屋で野菜を入れる袋に化けるなど,読む以外の用途に再利用された後,かまどや風呂の焚き付けに使われた。私が子供のころでも,習字練習用の半紙は高くてなかなか使えなかったので新聞紙で習字の練習をしたし,チャンバラ用の刀も新聞紙で作った。

 化学工業の発達と共に,塩化ビニールのようなものが大量に使用されるようになり,このようにハロゲンを含む材料の場合はいい加減な焼却は確かに問題がある。

 ダイオキシンとか環境ホルモンとかいう言葉をしばしば聞くようになってまもなく,焚き火を含め,いい加減な焼却はできなくなってしまった。私の自宅の庭にあった焼却炉も無用の長物になってしまった。これは火災防止くらいにしか役に立たない簡易焼却炉だから仕方ないかとも思うが,

 その後の技術進歩は化学製品でも燃焼時に毒性ガスを発生しないものが使われるようになったり,燃焼炉の進歩により毒性ガスが発生しても回収できたりするようになってきてはいるのだが。

 ゴミの分別回収に大きなエネルギーが投入されており,リサイクルを目指した現在の分別回収はベストではないという意見1)もあるようだ。なるべくゴミを出さず(リデュース),リサイクルよりリユースを目指すのがベストだとは思う。大量消費で経済を回していくこととの折り合いをどこでつけるのかを議論すべき時期になっているのだろう。

1)      武田邦彦:「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」(平成19年,洋泉社)

 

たなばたさま(2012.11.2)

昭和16年,詞:権藤はなよ/林柳波,曲:下総皖一

「ささのはさらさら軒端にゆれる」という歌。歌詞には今の子供には解りにくいであろう言葉がいくつかあり,現代では歌詞の意味を考えながら唄うというより,雰囲気を感じるための歌だろう。お経のようなもので,意味が解らなくても七夕にはこの歌がつきもの,それでいいのではないだろうか。大人になって関心を持ったらその時調べてみれば良い。

ただ,この歌詞から当時の七夕の風習がすこしわかる。「五色の短冊」を使い,七夕飾りは「軒端」程度の大きさだったのだろう。私が子供のころ,短冊の色がどうだったとか,願いごととして何を短冊にかいたか記憶にないが,恐らく,市販の色紙を切ったもので金・銀なども含め全てを使って五色以上あったし,願い事は何を書いても良かったと思う。七夕飾りはもう少し大きかったと思う。少なくとも,クリスマスツリーよりは大きかった。

五色は五行説により緑・紅・黄・白・黒であり,願いは「字が上手になる」などいうことはこの歌からは分からない。

 

花火(2012.7.12)

昭和16年,詞:井上赳,曲:下総皖一

 「ドンとなった花火だきれいだな」という童謡。空一杯にひろがる打ち上げ花火の歌。

 昭和16年に発表された曲をさがしていてたまたま見つけた知っている曲だが,特別な思いはない。いつ聴いたのか記憶もないが,聞いたのは一度や二度ではない。

作詞者の井上はサクラ読本1)編集の中心人物だ。ほかにも何曲かの童謡を作詞している。

1)昭和8年から使われた小学国語読本。これ以前は「ハナ ハト マメ」など単語(名詞)から始まっていたのを「サイタ サイタ サクラガサイタ ススメ ススメ ヘイタイススメ」と動詞,文から始まるように改めた。

 

めんこい子馬(2012.2.24)

昭和16年,詞:サトウ・ハチロー,曲:仁木他喜雄,唄:伊藤久男,菊池章子

 「ぬれた仔馬のたてがみを」で始まる曲。東宝映画「馬」の主題歌だそうだ。軍馬の映画で,当時の歌詞には軍事色がみられ,戦後改作されたものが私が聴いたり歌ったりした曲である。

 昭和16128日,日本軍はマレー半島に上陸,一方でハワイの真珠湾を攻撃,大東亜戦争が始まった。日本は米英に宣戦布告する。

 初期の戦闘において日本は連戦連勝,これには零戦の威力が大きく寄与した。陸上では馬や自転車が活躍したのである。

 昭和14年,ドイツがポーランドに侵攻した時点が第二次世界大戦の始まりといわれている。独ソ不可侵条約でソ連もポーランドに侵攻,二国でポーランドを分割占領した。英仏はドイツに宣戦布告,ソ連はフィンランドに侵攻,ドイツもノルウェーなどを攻略,昭和15年には日独伊三国軍事同盟が結ばれた。昭和16年にはドイツはソ連に侵攻している。この大戦で世界は枢軸国1)と連合国2)の二派に別れ,アメリカ大陸以外3)の全世界で戦闘が行われた。昭和20年に日本がポツダム宣言を受諾して大戦は終わる。

 戦争は前線兵士に多大な犠牲を強いる。非戦闘員にも多くの犠牲を強いる。諸国民は平和を愛しているだろうが,公正と信義は疑わしい。もちろん,個人対個人の付き合いでは信義はある。しかし,国民対国民になると公正と信義は疑わしいし,国と国になれば平和を愛しているということも疑わしい。「反戦」を唱えるだけで戦争は起きないのだろうか,国益は守れるのだろうか。国益の中に過去に不正な手段で獲得した権益が含まれないだろうか。現在では不正とみなされる手段でも,当時は正当な手段とみなされていたものもある。現在・将来をより良く生きるために歴史を学ばなくてはならない。

 不可侵条約や中立条約を破って侵攻する国もあり,国益のためなら何でもありというのが国際政治の実態であろう。これは戦後も何も変っていない。国際連合は第二次世界大戦時の連合国であり,未だに安全保障理事会の常任理事国米英仏ソ中が拒否権を持っていて重要な案件はなかなか決まらない。中ソは政体が変ってしまっているのだが。

 歴史から学ぶには,特定のイデオロギーを持って歴史をみてはいけない。とはいえ,書かれている歴史は全て特定の史観から書かれている。定説とされていることでも,その定説ができた当時の権力機構の手により捏造されたり抹消されたりしたことが含まれていることもある。嘘も100回言えば本当になるという話もある。焚書により抹消されてしまった資料があることにも留意しながら種々の視点から書かれた歴史を読み,自分で考える必要がある。

 戦後,東京裁判で日本の戦犯が裁かれた。いろんな見方があるがやはり勝者が敗者を裁いたものであろう。処罰されて当然の者もいただろうが,誤認や捏造によって処罰された者もいるだろう。しかし,処罰されて当然の事件にかかわっていながら処罰を免れた者は戦勝国側以外にはいないだろうというのが私の考えだ。より直接的に言えば,東京裁判の判決を受け入れ平和条約を締結することにより日本の戦争責任は償ったということだ。過去のことが何も話題になっていないときにこちらから話を出して相手を不快にさせる必要はないと考えるが,過去の出来事を種に不法な言いがかりをつけられた場合は毅然と反論すべきである。日本は国民に日本人の良き歴史を教えていく必要がある。

日本の占領は連合国軍とはいえ米軍中心で,各種占領政策は米国の国益にかなうよう行われたと考えるのが自然である。この政策により,そして米国や日本にも浸透していたコミンテルンの遠謀にもよって日本の教育は歪められ,国民の精神的弱体化につながった。もちろん戦前の教育が全て正しかったと主張するつもりはない。最も困る問題は,戦前も戦後も,現場の政策実行者の中には正しいと信じて実行した人々が多かったことだ。信じてしまうと理屈ではなくなる。信仰,特に唯一無二の存在に対する信仰は他の見解を認めないという弊害がある。

 安岡正篤は占領政策として3R5D3Sがあったといっている4)

 Revenge(復習),Reform(改組),Revive(復活)

 Disarmament(武装解除),Demilitalization(軍国主義排除),Decentralization(中心勢力排除),Democratization(軍国主義排除),Disindustrialization(工業生産力破壊)

 Screen(スクリーン),Sport(スポーツ),Sex(セックス)

である。占領政策にはなるほどこの線に沿った政策だと納得できるものがいくつもある。最後の3Sは昔から知られている愚民政策だが,戦後米国文化が大量に流入したことと関係付けられているのだろう。しかし,「日本人に性の乱れを広めて日本を弱体化しよう」というようなことが米国の政策であったかどうかなどは怪しいものだ。このように世の中には怪しい話がいろいろと流れる。

 昔,誰かの本で,資本主義も共産主義も目指すゴールは人類の幸福で,ただ過程が違うだけという意見を読んだことがある。それぞれ欠点があり,それを修正していけば最後は理想的な形態に落ち着くというものだ。現実はどうだろうか。資本主義も共産主義も一部のものが富を独占する拝金社会を目指しているのではないか。これがグローバリゼーションの結末・・・まだ進行中?・・・か。振り子は右に振れた後左に振れまた右に振れる。中央に戻そうとする重力のように,社会の行き過ぎを元に戻す力が人類にあると信じたい。単純な振り子と違い少なくとも科学技術は進歩しているので境界条件が異なり,完全に同じ歴史が繰り返されることはないが,歴史を学ぶ・・・年表暗記ではなく,なぜ歴史がこのように動いたのかを考える・・・ことによってより良い社会をつくることができるだろう。

1)ドイツ,日本,イタリア,ハンガリー,フィンランド,ルーマニア,ブルガリア,タイ,中華民国南京政府,自由インド,ビルマ

2)ソ連,イギリス,アメリカ,フランス,中華民国重慶政府,ポーランド,カナダ,オーソトラリア,ニュージーランド,南アフリカ連邦

3)ドイツはカリブ海まで北米大陸東側まで迫り,日本からも風船爆弾などの攻撃が北米大陸に試みられている。大きな気球に爆弾を載せて日本から飛ばし,偏西風に乗せてタイマーでアメリカ大陸に落とそうとする攻撃である。

4)Wikipedia: 3S政策

 

森の小人(2014.3.23)

昭和16年,詞:玉木登美夫/山川清,曲:山本雅之

 「森の木陰でどんじゃらほい」と始まる歌。

 この曲は最初「蟻の進軍」というタイトルがついた詞につけられた曲であったが,時局を考え自主規制で発表されず玉木が「土人のお祭り」とのタイトルで作詞したもの。戦後「土人」は差別語だということで山川が1番の歌詞とタイトルを現行のものに変えたものらしい。

 「森の小人」と聞くと『白雪姫』などを思い出すが,無関係のようだ。

 この曲は子供の頃聞いたことがあるが,最近は聴いたこともなく,特に印象に残った曲というわけでもない。最近は「小人」というのが差別的だと非難する人もいるらしい。この「小人」というのは『妖精』のことだと思うのだが。「どんじゃらほい」のイメージが『妖精』と一致しないということだろうか。

 

明日はお立ちか(2012.10.20)

昭和17年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:小唄勝太郎

 「明日はお立ちかお名残惜しや」という歌。出征兵士を送り出す妻の歌であろう。唄っている勝太郎はもちろん女性である。当時?の歌手,市丸,音丸,美ち奴など,皆女性である。念のため。

 出征兵士を送るといえば,町内の壮行会とか駅での壮行会などの写真などを見たことがあるが,この歌詞では馬で出征するようだ。駅まで馬で行くほどの山の中に住んでいるのだろうか。山に住んでいれば船など滅多にのらないだろうからか,「船酔いせぬか」などと心配している。本当はもっと別な心配があり,そちらのほうが大きくても口に出すことはできない。

勝太郎のレコードを聴くと,おちょぼ口で唄っている声のように聞こえる。音楽学校卒の当時の他の歌手とそりが会わなかったことは想像できる。

この歌は昭和39年には三沢あけみが唄っている。私が主に聴いたのは三沢のほうだ。

 

婦系図の歌(湯島の白梅)(2013.4.13)

昭和17年,詩:佐伯孝夫,曲:清水保雄,唄:小畑実/藤原亮子

 「湯島通れば思い出す」と始まる歌。

 「婦系図」は明治40年からやまと新聞に連載された泉鏡花の小説。明治三大メロドラマのひとつと言われている。明治41年には舞台にかけられ,その後も何度も上演されている。昭和9年には田中絹代・岡譲二の出演で映画化,昭和17年にも長谷川一夫・山田五十鈴,昭和30年には鶴田浩二・山本富士子,昭和34年には高倉みゆき・天地茂,昭和37年には市川雷蔵・万里昌代で映画化されている。この歌は昭和17年版のときに作られた主題歌である。

 「お蔦,黙って俺と別れてくれ」「別れろ切れろは芸者のときにいうことば」というようなやり取りは,昔人間ならば誰もが知っていたと思う。

 この年の前半までは日本軍の快進撃が続いていたが,6月のミッドウェー海戦での敗北以来,戦況は日本に不利になっていく。813日には米国のマンハッタン計画が開始され,12月にはウラン核分裂連鎖反応に成功している。3年足らずで原子爆弾が実戦に使用されたのだ。

 

新雪(2013.6.15)

昭和17年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦

 「紫けむる新雪の」と始まる歌。私が持っている懐メロの楽譜集には大抵載っているような印象があり,曲名は以前から知っていたが,実際に聴いた記憶はない。

 灰田勝彦といえば,最初に知ったのは『アルプスの牧場』1)だと思う。『鈴懸の径』2)や『燦めく星座』3)は歌は知っていたが灰田勝彦が歌っていたと知ったのは歌を知ったずっと後だ。今回,インターネットでさがして「新雪」を聴いてみた。確かに灰田勝彦に聞こえる。彼の歌声に特徴があるのだ。ここに掲げた4曲で私の好みを言えば,一番は『鈴懸の径』だ。

 私が持っている懐メロ集にこの歌が大抵載っているのは,懐メロ集が出版された時代に関係しているのかもしれない。昭和17年といえば戦争の真っ最中,そして,私が持っている懐メロ集の編集者には戦時歌謡に関する拒否反応があったのかもしれない。この歌からは,戦時色が全く感じられない点が編集者に気に入られた点かもしれない。もちろん,詞を平時のハイキングや登山ではなく,行軍の様子だと捉えることもできるだろう。しかし灰田の声は甘く,この歌を軍人の歌と解釈するには無理があるだろう。歌詞の表面どおり,「わかい人生に幸あれかしと」「ゆこうよ元気で若人よ」と受け取るべきだと考える。

1)      「アルプスの牧場」(昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦)

2)      「鈴懸けの径」(昭和17年,詞:佐伯孝夫,曲:灰田勝彦,唄:灰田勝彦)

3)      「燦めく星座」(昭和15年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦)

 

ジャワのマンゴ売り(2012.12.17)

昭和17年,詞:門田ゆたか,曲:佐野鋤,唄:灰田勝彦/大谷冽子

 異国情緒一杯のイントロではじまり,「ラーラーラーラー 火焔木(フレームトゥリー)の木陰に」と歌が始まる。歌詞には内地では聞いたこともないような単語がいくつも並ぶ。この歌のタイトルは何度も目にしているが,曲はほとんど聴いた記憶がない。

 日本軍はこの年の正月にマニラを占領,5月には東南アジア全域を制覇した。しかし6月のミッドウェー海戦で敗れ,以後負け続けることになる。南方へ快進撃していた当時の気分でこの歌が流行ったのだろう。

 ミッドウェー海戦は,米海軍が守るミッドウェー島を日本海軍が攻略しようとしたときに起きた。もともと連合艦隊はミッドウェー島を占領して維持しようとする意図よりも,ミッドウェー等を攻撃したときに現れるであろう米機動部隊を殲滅することをより強い目的として持っていた。ところが索敵では米機動部隊が見つからないので島を攻撃するために爆装し,出撃する直前に米機動部隊を発見,陸上攻撃用の爆装から艦船攻撃に有利な雷装に換装しようとするが,間に合わず米軍機の攻撃にあい,空母4隻を失うという大敗北になったのである。艦載機も失い,錬度の高い搭乗員も失ったのだ。失ったものを早急に補充することは結局できなかった。この海戦に関連した作戦で,敗戦責任を問われた上級者は居ないようだ。

 この海戦の敗因同様,大東亜戦争全体にわたる敗因も一つや二つではないが,最大のものは米国の挑発に乗り日米戦争を始めてしまったことにあるのだろう。米国の背後?にはコミンテルンの影もちらつく。日本人には深慮遠謀というものがなく,ただ目先の事象に対応していく能力だけが優れているという点に全ての敗因が凝縮される。ミッドウェー海戦のときの第一航空艦隊長官も,操艦技術はきわめて高かったそうだ。旗艦「赤城」の艦長に代わって操艦し,魚雷6本を回避したという。

しかし,参謀が悪いのか,航空機が発艦できぬうちに爆弾や魚雷をむき出しにしたまま攻撃を受けてしまった。大本営発表により敗戦は隠されたので誰も責任を取る必要はなかったのか,連合艦隊長官に責任が及ばないように敗戦が隠されたのかは知らない。

 暗号技術,索敵技術などに彼我の差があり,情報戦争では完全に負けていたのだろう。外交もダメだ。。戦力の分散や逐次投入などの問題もある。不都合な真実は見ないようにして想定外と言い訳するのを見ているようだ。

 いろんな思いが頭を過ぎるが,どうすればよかったのかというところまで私の知恵が回らないのが残念だ。

 

鈴懸の径(2012.4.27)

昭和17年,詞:佐伯孝夫,曲:灰田勝彦,唄:灰田勝彦

 「友と語らん 鈴懸の径」という歌。短い歌なのでもう少し歌詞を書くと全部書くことになってしまう。短いが良い歌だと思う。

 「学舎の街」とあり,特に明示はされていないが,「友」とは同性の学友だろう。不可解1)なる人生を熱く語り合う。これが青春だ。

1)藤村操:「巌頭之感」(明治36年)

 

空の神兵(2012.2.10)

昭和17年,詞:梅木三郎,曲:高木東六,

軍歌か戦時歌謡かのどちらかだ。「藍より蒼き大空に大空に」で始まり「見よ落下傘空を征く」という歌である。

日本軍はスマトラ島などに落下傘で奇襲攻撃をかけ,飛行場や油田を制圧した。また,日独伊三国軍事同盟が調印された。これらは1月のことである。

日本軍は1月にマニラを占領,2月にはシンガポールを占領,引き続き5月までは連戦連勝だったといって良いだろう。しかし6月のミッドウェイ海戦から戦況は逆転した。この海戦では索敵の失敗から航空機の爆撃・雷撃の換装に手間取り搭載航空機を有効に使用できないまま,主力空母4隻と搭載機263機を失う大敗北だったが,大本営は赫々たる戦果を発表している。

8月には戦艦「武蔵」が竣工している。戦艦「大和」と同型艦で世界最大の戦艦だが,既に航空機の時代に入っており,大艦巨砲主義は過去の遺物であり,象徴以外の何者でもなく,「大和」も「武蔵」もほとんど戦果を挙げることはできなかった。米軍はガダルカナル島に上陸,この後半年あまり戦闘が続く。付近の海戦は当初は日本軍が優勢だったと思われるが,米軍がヘルキャットを次々と投入してくることにより日本軍は補給を絶たれ,最後は「餓島」と呼ばれるほど悲惨な状況に追い込まれる。

開戦当時は無敵を誇った零戦も,米軍から七面鳥にたとえられるほどになる。七面鳥を撃つ程度の技術で打ち落とせるというわけだ。零戦のエンジンは1000馬力であったのに対し,ヘルキャットは2000馬力だ。装甲が弱くヘルキャットよりはるかに打たれ弱い零戦は命中弾を受けた場合の搭乗員の戦死率が高く,高技能を持つ搭乗員が次々と戦死して搭乗員の技量が落ちた。米軍は次々と補充機を供給するのに対し,日本軍には航空機の補充能力がなかった。

非力なエンジンで高度な運動性能をだすために機体を軽くつくる必要があったとはいえ,十分な装甲がなくても,「被弾しなければよい」というような考え方は,被弾しないという信仰に変わり搭乗員の犠牲を大きくした。このような考え方は原発で事故は発生しないという信仰へと引き継がれたのではないだろうか。

大本営発表では勝った勝ったといいながら実は大敗していた状況は,原子力保安委員会がメルトダウンはしていないといいながら実はメルトダウンしていた状況に引き継がれているのだろう。

日本は暗号も解読されていたらしい。情報管理能力の不足は現在も続いている。

新兵器を開発する技術力もなかった。見るべきものは酸素魚雷くらいだろうか。いや,八木アンテナやマグネトロンなど最先端の技術もあったのだが,これらも十分活用できなかった。技術を見る眼がなかったのだ。また,資源の問題など,工業の基礎体力がなかったのだ。今はどうなのだろうか。

 

南から南から(2012.8.24)

昭和17年,詞:藤浦洸,曲:加賀谷仲,唄:三原純子

 「南から南から飛んできたきた渡り鳥」という歌。

 曲も歌いやすく,悪くない歌だと思うが歌詞を追っていくと「なびく日の丸たのもしく」とか「強いお国日本の」というような歌詞が見られ,時代を表している。

 渡り鳥には燕のように夏に日本に来る鳥もいるが,何となくイメージは北から来る冬鳥だ。にもかかわらず南からと歌われているのは,当時,北方よりも南方のほうが将来性・発展性があるとおもわれていたのだろうか。

 

森の水車(2012.6.21)

昭和17年,詞:清水みのる,曲:米山正夫,唄:高峰秀子

 「緑の森の彼方から」とはじまり,「コトコトコットンコトコトコットンファミレドシドレミファ」などが印象的な歌。,戦時下に合わない歌とのことでレコードは回収されたとか。戦後,並木路子や荒井惠子などが歌っている。

 歌詞をみても,休みなく働きなさいという感じで戦時下でも何の問題もないような歌だと思うが明るい歌だということが嫌われたのだろうか。

 小学生の頃,通学路に水車があった。子供から見ると大きな水車だったがいつもゆっくり回っていた。用語を知らないので私の語彙を用いて説明すれば,水車車軸には垂直にピンが挿してあり,このピンが水車の回転と共に杵を持ち上げ,更に回転するとピンが外れ,杵が臼の中に落ちるという構造である。ピンが杵に当たったときコトと音がして,杵が臼に落ちたときにコットンと音がする。ピンを複数にして,水車1回転のうちに複数回杵が上下したり,複数の杵を動かしたりするようになっていた。しかし,この歌の「コトコトコットン」というようなスピード感はなかった。印象で言えばゆっくり「こっとん・・こっとん・・」という感じだった。

 

わか葉(2013.8.12)

昭和17年,詞:松永みやお,曲:平岡均之

 「あざやかなみどりよ あかるいみどりよ」と始まる,若葉が萌え出てきた様子を歌った歌で,歌詞に明示はないが,春の喜びを歌った歌である。国民学校用教科書に掲載された歌で,戦後も小学校で教えられていたようだが,私は習った記憶がない。

 昭和17年といえば日本が連戦連勝からミッドウェー海戦を経て負け戦に転じていった年だ。このようなときに戦時色を全く感じない歌が,この歌に限らず,何曲もでている。戦時であるからこそ,自然が与えてくれる力や癒しへの感受性が高まっていたのだろうか。

 

勘太郎月夜唄(2011.10.23)

昭和18年,詞:佐伯孝夫,曲:清水保雄,唄:小幡実/藤原亮子

 「影か柳か勘太郎さんか」である。

 独身時代の一時期,毎日飲みに行っていた。

 もともと酒は飲めない体質なのだが,訓練の成果で人並みに飲めるようになっていた。最初はあちらこちら飲み歩いたというか,人に連れられていろんな店に行った。しかし当時は帰りが遅かったし,一人であちこち探し回るのも面倒なのでほぼ1軒の店で済ませていた。ここはお酒を頼むとお銚子とぐい飲みが出てきたが,皿に載せたコップにあふれるまで注いで出してくれる店でもよく飲んだ。こっちは食事がメインで連れとよく行った。今で言うツンデレ系のウェイトレス?がいて数人の連れと行って,皆で異口同音に「いつもの」といって何が出てくるかなどということをやったこともある。毎日行く喫茶店もあり,ここではいつも同じものしか頼まなかったので,黙っていてもいつものが出てきた。

 さて,飲むことを目的に行っていた店だが,カウンターだけの店で常連客が多かった。一人で行くのだが,客はほとんど顔見知りという感じだ。常連客といっても気が合う客とそうでもない客とがいる。私は行くのが遅かったので看板までいることも多かった。当時カラオケなどはなかったが,歌でも唄おうということも時々あった。見知らぬ客や唄が嫌いそうな常連さんがいるときには自粛していたのだが,まあ酔っ払ってくるとどうかは良くわからない。「知らぬ同士が小皿叩いてチャンチキおけさ」ではないが,まあ,そんな雰囲気だ。このとき,一人の常連さんがよく唄っていたのがこの「勘太郎月夜唄」である。「形はやくざにやつれていても月よ見てくれ心の錦」という訳である。

 

シャンラン節(2019.11.9)

昭和18年,詞:村松秀一,曲:長津義司,唄:美ち奴

 「薫るジャスミン 誰方が呉れた」と始まる歌。

 曲は台湾民謡だそうで,作者不詳である。長津は編曲者だ。詞は「俄雨なら よそに降れれよそに降れ」というような調子で,特別な思いが込められた詞ではないようだ。

 この曲は特徴的な一部を取って「ツーツーレロレロ」とか「ツーレロ節」と呼ばれることもある。

 戦後も小林旭やドリフターズなどが一部改変したものを唄っている。

 

スキー(2014.3.3)

昭和18年,詞:時雨音羽,曲:平井康三郎

 「山は白銀 朝日を浴びて」と始まる唄。

 雪が多く降る地域ではスキーも一般的だっただろうが,雪が少ない地域ではまだスキーは一般的ではなかったと思う。

 昭和31年,コルティナダンベッツォで開催された冬季オリンピックで猪谷千春が日本人で初のメダルを獲得した。スキー男子回転での銀メダルである。このときの金メダルはオーストリアのトニー・ザイラーで回転・大回転・滑降で金と三冠を達成した。雪が少ない地域に住む人々がスキーをやってみたいと思うようになったのは恐らくこの時ではないだろうか。しかし,まだ経済的には余裕がなく,スキー旅行は少なかった。

 昭和40年代では,人々の経済状況はかなり好転し,雪の降らない地域でも汽車に乗ってスキーに行くということが可能になり,多くの人がスキーを担いで列車に乗った。

 なお,雪国ならスキーは大昔から一般的だったかというとそうでもないらしい。スキーは明治44年にオーストリア人により初めて日本に紹介されたそうだ。昭和初期には,雪国でも,スキーをしようと思えば自分で竹を切って,板から作っていたそうである。竹スキーだ。もちろん一部の金持ちは買ったのだろうが。

 

同期の桜(2012.6.14)

昭和1?年,詞:西條八十,曲:大村能章

 「貴様と俺とは同期の桜」という有名な軍歌である。この歌ができたいきさつはよく知らない。Wikipediaには昭和13年に発表された西條の「戦友の唄(二輪の桜)」という歌が原曲だとある。また,昭和20年にラジオ番組で内田栄一が唄ったともあるがこのような断片的情報しか私にはない。歌詞もいろんなバリエーションがあるようだ。

 軍歌と聞くだけで拒否反応を示す人もいる。そのような人には,自分は正しいと信じて他人の話を頭から否定するような人が多く,そのような人との議論は面倒だし,誰がそのような考えを持っているかは外見からはわからないので人前では軍歌とよばれるものを積極的に聴いたり唄ったりはしないようにしている。しかし,軍歌と呼ばれている中には軍の宣伝のため,戦意高揚のためなどの歌もあるが,そうではないものも多数ある。特に,戦後も戦友会などで唄い続けられた歌には,単に「何だ軍歌か」と切り捨てられないものがある。

 この歌は,仲間との連帯の歌であり,友情の歌である。自分ひとりではなく,仲間がいる。幼いこどもに「あんたとは一緒のお墓に入りとうないわ」と言わせるCMと,「散るのは別々でもまた一緒に咲こう」という歌なら私は後者を支持する。

 歌詞の一部に現代的視点から見て許されるべきでないと考える人がいることは想像できる。しかし,この歌がなければ当時の状況がもっと良くなったと想像できるだろうか。この歌がなければ,将兵の士気がもっと低下し,戦争が早く終わっただろうといいたいのだろうか。私は戦争の帰趨にこの歌の有無は関係せず,この歌の存在は(軍隊内で歌われていたのなら)将兵にたとえ一時でも心のやすらぎを与えたと考える。仲間であることを確認する連帯の歌であり,英霊に対する鎮魂歌だ。

 

南の花嫁さん(2018.4.23)

昭和18年,詞:藤浦洸,曲:任光,唄:高峰三枝子

 「ねむの並木を お馬のせなに ゆらゆらゆらと」と始まる歌。

 原曲のタイトルは「彩雲追月」。これを古賀政男が編曲したもの。

 藤浦の歌詞は「隣の村へお嫁入り」の状況をうたったもの。

 一番から三番まで全て「『おみやげはなあに』 『籠のオーム』 言葉もたったひとつ いついつまでも」と終わり,このフレーズが印象的。

 オウムが日本に最初に渡来したのは大化3年(647年)新羅から献上された記録があるらしいのでかなり古いことだ。見世物にもなっていたりして世間にはその存在は知られていただろうが,嫁入りの土産にとは珍しいと感じる。昭和18年にこのような嫁入りというのは,どの地方の話だろうか,庶民なのだろうか資産家なのだろうか等々いろんな点が気になる。

 

若鷲の歌(2012.1.26)

昭和18年,詞:西条八十,曲:古関裕而,唄:霧島昇

 「若い血潮の予科練の」という曲で歌詞は戦時歌謡というより軍歌であろう。「予科練の歌」として知られている。メロディーの前半は勇ましいが後半は「異国の丘」を思わせる哀愁を帯びたメロディーだ。

誤解を恐れつつ予科練を一言で言えば,海軍のパイロット促成機関と言えるだろう。志願年齢は20歳未満が条件,14歳からだからまだ子供だ。

そのとき,その場所にいたら私はどのような選択をしただろうか。状況を十分知らず軽々にコメントはできない。それほど重い決断だ。親戚の一人も予科練に行った。鼻の骨が曲がっていて身体検査不合格になったのに,手術で鼻の骨を削って行ったのだ。

志願者の祖国を守ろうという心意気は尊い。このような若年者に特攻出撃を命じた前線指揮官はどのような気持ちだったのだろうか。いつの世も,最前線と中間管理職に苦労を押し付けているのが後方司令部ではないか。国あるいは軍の指導者に真の意味で責任感が欠けていたのではないか。集団で,雰囲気に流されて種々の決定を行い,最終的な責任は誰も取らない,あるいは責任感を感じた良心的な者に責任を押し付ける。「このようなことが昔はあったが今はない」と言える社会を目指したい。

 

軍隊小唄(2015.4.8)

昭和19年?,詞:不詳,曲:倉若晴生

『ほんとにほんとにご苦労ね』1)の替え歌。

 下条ひでとがまとめた歌詞では「いやじゃありませんか軍隊は」と始まる。他に何種類かの歌詞バージョンがあるようだが,いずれも出だしはこの歌詞のようだ。私が聴いたことがあるどのバージョンでも1番は「一ぜん飯とはなさけなや」と終わり,2番は「腰の軍刀にすがりつき」と始まる。

 どのような人が,どのような状況で,どのような想いで唄ったのだろうか。

 どのようなツッコミも可能なようであり,それらに対する反論も可能なような歌詞である。例えば,1番の歌詞を文字通り軍隊が嫌だと解釈できるだろうが,その理由が一膳飯だ。当時の食糧事情はよく知らないが,昭和初期には自宅ではこの一膳飯も食べられない貧しい人がいたという話を聞いたことがある。嫌だといいつつ,軍隊にはいれば食いっぱぐれがないと歌っているようにも聞こえる。

1)「ほんとにほんとにご苦労ね」(昭和14年,詞:野村俊夫,曲:倉若晴生,唄:山中みゆき)

 

ともしび(2016.3.31)

昭和19年,詞:ミハイル・イサコフスキー,日本語詞:劇団カチューシャ,曲:マトヴェーイ・ブランテル

 「夜霧のかなたへ別れを告げ」と始まる歌。

 対独戦(第二次世界大戦)に出征する兵士を歌ったソ連の戦時歌謡。

 1番の「ともしび」は恋人の家の窓の灯,2番は祖国の灯,3番は二人の心の灯,4番の「ともしび」はこれらすべてを守るために戦おうという闘志の炎だ。

 この歌をロシア民謡としている資料もある。日本の戦時歌謡は許せないがソ連の戦時歌謡は良いと正面から宣言することを避けた人々の姑息な手段で民謡と呼ばれたのだろう。

 歌に出自は関係ない。良い歌は良いし悪い歌は悪い。私は良し悪しより好き嫌いのほうを重視している。

 

ラバウル小唄(2014.4.10)

昭和19年,詞:若杉雄三郎,曲:島口駒夫

 「さらばラバウルよ又来るまでは」と始まる歌。

 軍歌に分類されているようだが,詞を見てもどこが軍歌なのか良く解らない。「船は出てゆく港の沖へ」という歌詞からは「南洋航路」の船乗りの歌としか聞こえない。深読みすれば軍歌かもと思われるのは「声をしのんで心で泣いて 両手合わせてありがとう」という箇所が戦地に行くのかと想像できなくもないというだけだ。

 調べてみると,この歌は「ラバウル小唄」の後半にある「赤い夕日が波間に沈む」から始まる『南洋航路』(唄:新田八郎)という歌が若杉・島口が作った元歌で,「さらばラバウルよ」というのは替え歌らしい。元歌の前に替え歌をつけて唄われたものらしい。ラバウルには日本軍の航空隊基地と強固な要塞があり,ここで作られたらしい替え歌なので軍歌に分類されているのだろう。

 

お山の杉の子(2012.3.16)

昭和20年,吉田テフ子,曲:佐々木すぐる

 「昔昔その昔 椎の木林のすぐそばに」という歌。昭和19年の懸賞募集の第1位入賞歌らしい。レコードになったのが昭和20年か。禿山が立派な杉山になるストーリーだ。当時の歌詞は例えば「大きな杉は何になる 兵隊さんを運ぶ船 傷痍の勇士の寝るおうち・・・」だったのが,戦後サトウハチローにより補作(改作)されて「大きな杉は何になる お舟の帆柱梯子段 トントン大工さん建てる家・・・」などとなっている。

 杉は今では花粉症の原因とも思われ嫌われているようだが,当時は大切な資源のひとつだった。

 昭和19年末ごろから本土への爆撃が激しくなった。当初は軍需工場を目標とし,民間施設は爆撃目標とされていなかったが,効果が少ないと,指揮官のハンセル准将が更迭され後任に代わってから無差別爆撃になった。無差別と言うより,まず周囲を爆撃して囲いを作って逃げられないようにしておいてその中を焼夷弾で絨毯爆撃したような印象を受け,意図的に非戦闘員を狙ったのではないか。広島・京都・小倉・新潟は原爆投下目標とされていたので,原爆の威力を調べるため,旧兵器での大規模な爆撃は行われなかったとのことである。沖縄での悲惨な戦いも一方的に負けた。米軍は予定通り広島に原爆を投下,小倉にも投下しようとしたが失敗して代わりに長崎に投下した。こうして日本は「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」ポツダム宣言を受諾したのである。

 日本を占領した米軍は二度と日本が米国に敵対しないようにするにはどうすればよいか,あの手この手を考え,実行したのは当然であろう。

 

海軍小唄<ズンドコ節>(2015.8.2)

昭和20年,詞:不詳,曲:不詳

 「汽車の窓から手を握り」と始まる歌。戦時歌謡であろう。

 作詞者等不明で,作成時のタイトルも不明だが,「海軍小唄」と呼ばれていたらしい。戦後,田端義夫が『街の伊達男』の歌にして唄ったときに「ズンドコ節」と名付けられた。小林旭1),ザ・ドリフターズ2),氷川きよし3)ほか多数がそれぞれの歌詞で歌っている。もちろん曲のアレンジもそれぞれ異なる。たとえば小林旭は『ズン ズン ズンドコ』と唄うのに8拍使っているがドリフは『ズンズンズンズンズンズンドコ』を4拍で唄っている。

1)「ズンドコ節」(昭和35年,詞:西沢爽,曲:不詳,補作曲:遠藤実,唄:小林旭。尚,この歌のタイトルは後に「アキラのズンドコ節」と表記されるようになる。)

2)「ドリフのズンドコ節」(昭和39年,詞:不詳,補作詞:なかにし礼,曲:不詳,唄:ザ・ドリフターズ)

3)「きよしのズンドコ節」(平成14年,詞:松井由利夫,曲:水森英夫,曲:氷川きよし)