明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和54年
目次
愛染橋,愛の嵐,愛の水中花,愛を止めないで,あきらめワルツ,あの頃のまま,アメリカン・フィーリング,安奈,いとしのエリー,異邦人,Wake Up,OH!ギャル,贈る言葉,おまえとふたり,おもいで酒,想い出のスクリーン,親父の一番長い日,織江の唄,おんなの出船,海岸通,カサブランカ・ダンディ,カリフォルニア・コネクション,関白宣言,きみの朝,君は薔薇より美しい,銀河鉄道999,SACHIKO,さよなら,しなやかに歌って,秋止符,道標ない旅,ジパング,セクシャルバイオレットNo.1,SEPTEMBER,感触〔夜にまぎれて〕,大都会,千登勢橋,天までとどけ,TOKIO,波乗りパイレーツ,虹とスニーカーの頃,日本全国酒飲み音頭,薔薇は美しく散る,陽はまた昇る,HERO,美・サイレント,ビューティフル・ネーム,ピンク・タイフーン(In The Navy),舟唄,ホップ・ステップ・ジャンプ,微笑の法則,ほほにキスして,ボサノバ,窓,万華鏡,曼珠沙華,魅せられて,夫婦川,夫婦舟,燃えろいい女,モンロー・ウォーク,Young Man,勇気があれば,ユー・メイ・ドリーム,夢去りし街角,夜明け,よせばいいのに,ラヴ・イズ・オーヴァー,りばいばる,流星,わかれ酒,別れても好きな人,忘れてほしい,私に人生といえるものがあるなら,I’m in the Mood for
Dancing
愛染橋(2015.6.12)
昭和54年,詞:松本隆,曲:堀内孝雄,唄:山口百恵
「春一番が吹き荒れた後」と始まる歌。
松本はこのような解りやすい詞も書けるのに,なぜ訳の解らない詞が多いのかと思ったが,やはり歌手により書き分けているのだろう。但し,「うちは淋しい女やからね 愛なんてよう知らん」と関西風と感じられる詞が入っているのは好みではない。山口百恵なら阿木耀子が書いたように横須賀だろう。大阪にあった「愛染橋」の歌を唄わせるにしてもハマっ子が大阪にいてもいいではないか。
「結婚なんて旧(ふる)い言葉に縛られたくなくて」愛染橋を「渡りたい渡れない」という歌だ。新しい価値観の女性のようであり,イメージ的には関東圏の女性だ。
私は山口の中低音の太い声が好きなのだが,この唄の高音部も素適だ。
それにしても堀内は難しい曲を作ったものだ。私にはとても唄えない。
愛の嵐(2015.8.9)
昭和54年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「その人は幻うす紅のドレス着て」と始まる歌。
歌詞に英語を交えるのは嫌いなのだが,この歌の「Jealousy storm, Jealousy storm, storm storm storm」という箇所はこの歌で最も印象に残る箇所だ。
「心の貧しい女だわ 私」と自責感で終わっているところは昭和の歌だが,私には山口に似合う歌だとは思えない。
愛の水中花(2014.2.23)
昭和54年,詞:五木寛之,曲:小松原まさし,唄:松坂慶子
「これも愛あれも愛たぶん愛きっと愛」という歌。
TBS系で放映された五木寛之原作のテレビドラマ『水中花』の主題歌。五木寛之なら演歌かと思うとそうではない。「乾いたこの花に水をあたえてください」なども阿久悠1)などが書きそうな詞だ。私が五木寛之に対して間違ったイメージを持っているのかも知れないが,教えてもらわなければ五木の詞だとは想像できない。意外性があるのが偉大な小説家の証かも知れないが。もちろん曲も演歌ではない。
松坂は美しい地声で唄っているように聞こえる。唄うために特別な発声をしているようには聞こえないという意味だ。もちろん松坂が唄うように話すというわけではない。自然体で唄っているように聞こえるということだ。
衝撃は唄うときの松坂の衣装だろう。バニーガールもしくはこれを想像させる衣装で唄っていた。
1) 「花物語」(昭和48年,詞:阿久悠,曲:中村泰士,唄:桜田淳子)
愛を止めないで(2017.2.10)
昭和54年,詞:小田和正,曲:小田和正,唄:オフコース
「『やさしくしないで』君はあれから 新しい別れを恐れている」と始まる歌。
ハッピーソングのようだが,何となく別れの予感をさせる歌に聞こえる。オフコースに対する私の偏見かもしれないが,オフコースには別れの歌が良く似合う。
あきらめワルツ(2020.3.7)
昭和54年,詞:ゆいまさお/千家和也,曲:内山田洋、唄:内山田洋とクール・ファイブ
「今夜はどこで 何してますか お酒の飲みすぎ 気がかりなのよ」と始まる歌。
「逢わずにおこうと 決めながら」「未練せつない あきらめワルツ」というわけだ。
「あきらめワルツ」は「あきらめ悪」の駄洒落かなどと思い始めると,想いの深刻さが激減してしまう。
あの頃のまま(2016.10.11)
昭和54年,詞:呉田軽穂,曲:呉田軽穂,唄:ブレッド&バター
「6時のターミナルでふりむいたきみは 板に付いた紺色のスーツ」と始まる歌。
「卒業したくないぼくと たあいない夢なんかとっくに切り捨てたきみ」。
卒業が近くなり,夢を捨てて,以前は軽蔑していた大人へと変身していく。普通はそんなもんだと割り切って変身するのだが,中にはそんな自分を自嘲的に見て歌にしたのがいくつかあった1)。
しかし,この歌は友がそのように変わったのを見ている歌だ。友の変身といっても『ギターはやめたんだ 食っていけないもんな』2)というのとは違う。颯爽と変身した友と未だ夢を実現しきれない自分。変身した友と大人になりきれない自分,「幸せの形にこだわらずに 人は自分をいきてゆくのだから」とどちらをも肯定した歌で珍しい歌だと思う。
1)例えば「『いちご白書』をもう一度」(昭和50年,詞:荒井由実,曲:荒井由実,唄:バンバン)
2)「おまえの家」(詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき)
アメリカン・フィーリング(2019.4.20)
昭和54年,詞:竜真知子,曲:小田裕一郎,唄:サーカス
「あなたからの エアメール 空の上で 読みかえすの」と始まる歌。
「愛するひとは あなただけ 今日から もう何も迷わない」と爽やかに歌い上げる。「いつもあなたを 想っていた そうよ 初めて気づいたの」というのは,『もっと早く気付けよ』と思うが,後から気付くというのが人生の面白さだろう。歌になるのは,気付いたときには遅かったというパターンが多い中で,この歌では気付くのが間に合ったようだ。
「America」が何度も歌詞に現れる理由が不明だが,アメリカからのエアメールを受け取ってアメリカに向かっている途中なのだろうか。
たまにはこのようなハッピーソングも心がホンワカとなる。
安奈(2014.6.29)
昭和54年,詞:甲斐よしひろ,曲:甲斐よしひろ,唄:甲斐バンド
「安奈 クリスマス・キャンドルの灯はゆれているかい 安奈 おまえの愛の灯は まだ燃えているかい」の繰り返しが印象に残る歌。
何となく,覚悟を持たない男の歌に聞こえる。「おまえのことを忘れはしなかった それでも一人で生きていゆこうと」と決断したように言ってはいるが,結局は「おまえのもとに今 帰ろうとして 今夜俺は旅を始める」
ある選択をした後で,その選択が希望した結果に導かなかったとき,元に戻ってやり直せばよいというのが最近の風潮ではなかろうか。再チャレンジを可能とするセイフティネットの仕組みは必要だが,やり直せないものもあるということを教育することも重要であろう。
この「安奈」は本当に「淋しい」と便りを寄こしたのだろうか。淋しがっていると独りよがりに思い込んでいるだけではないのか。「安奈」は便りの送り先をどうやって知ったのだろうか。「安奈」からの便りは空想の産物ではないのか。このような便りを貰いたいという望みは解る。
いとしのエリー(2016.4.1)
昭和54年,詞:桑田佳祐,曲:桑田佳祐,唄:サザンオールスターズ
「泣かした事もある冷たくしてもなお よりそう気持ちがあればいいのさ」と始まる歌。
桑田の曲も初期?の曲は聴きやすい。何よりも歌詞が聞き取りやすい。英語が入っているのは好みではないが,耳障りというほどでもない。曲に関しては大絶賛するほどではないとは思うが,有識者?(一部のプロ)は絶賛し,オリコン1位は獲得してはいないが,『コーセー歌謡ベストテン』では年間チャートの一位になっているので爆発的ではないが根強く支持されたのだ。
サザンの歌では珍しく私の好みに逆らっていない歌だ。
異邦人(2014.10.31)
昭和54年,詞:久保田早紀,曲:久保田早紀,唄:久保田早紀
「子供たちが空に向かい 両手をひろげ」と始まる歌。
「あなたにとって私」は「ちょっと振り向いてみただけの異邦人」というのがメインテーマだろうが,全体的に不思議な雰囲気を醸し出していて私は面白い歌だと思う。
あなたがエトランジェのようでもあり,私が異邦人のようでもある。場所は地中海沿岸のヨーロッパか北部アフリカ,あるいは西アジアかもしれない。時も数100年は過去の町にタイムスリップしたような印象だ。タイトルに漢字を使って「異邦人」としたところも私の好みに合う。
Wake Up(2017.4.28)
昭和54年,詞:財津和夫,曲:財津和夫,詞:財津和夫
「Wake Up Wake Up Wake Up」と始まる歌。
詞も悪くないし,曲も悪くないと思うのだが,詞と曲のマッチングが私の感性とは異なる。
詞は汽車で嫁ぐ娘と駅のホームで見送る家族の歌のように理解したのだが,実は「じっと見送る年老いた人」というのがよく解らない。私には,遠くで挙式のため式に出席できない祖父母か曽祖父母しか考えられない。あるいは式は挙げないのだろうか。
私ならもっと感傷的な曲にしたいと思うのだが,財津の曲はこれから始まる新生活だけを見ているようだ。
ただ,何度も繰り返される「Wake Up」はどのような意図を持つ言葉なのかはよく理解できない。
OH!ギャル(2019.7.9)
昭和54年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二
「OH ギャル ギャル ギャル…OH ギャル ギャル ギャル…女は誰でもスーパースター」と始まる歌。
「MONDAY よろいで固めた聖女で過ごせたよ」から各曜日どうだったかが綴られ,「SATURDAY 蝶々を迷わす妖しい花になる」まで変化し,最後はタイトルのように「女は誰でもスーパースター」とまでなる。
強い?女と認知される女性の数が増加してきていることの皮肉とは感じられず,そのような女性に迎合しているような感じがして私の好みではない。
贈る言葉(2012.8.4)
昭和54年,詞:武田鉄矢,曲:千葉和臣,唄:海援隊
「暮れなずむ町の光と影の中」と始まる歌。「人は悲しみが多いほど人には優しくできるのだから」とか,「人を信じて傷つくほうがいい」などと人生訓を垂れながら,「だけど私ほどあなたのことを深く愛したヤツはいない」と自分の気持ちを押し付けている。
「臆病者の言いわけ」はしたくないとは思っても,ついついしてしまうのが臆病者だ。臆病とは卑怯という意味であり,卑怯者にならないためには幼少からの教育しかないのではないだろうか。
良い歌だとは思うが,卒業式に唄うのは,儀式なので建前全開の「仰げば尊し」1)のほうが良いのではないか。卒業式後の謝恩会に名を借りた卒業祝賀パーティならこの歌もよく似合う。
名古屋ローカルの話だが,この年名鉄豊田線(豊田市―赤池)が開業,名古屋市営地下鉄の鶴舞線との直通運転が始まった。
1) 「仰げば尊し」(明治17年,小学唱歌)歌詞は大槻文彦らの合作,元曲と思われる曲の作曲者はH.N.D.と記されているらしい。(Wikipediaによる)
おまえとふたり(2015.11.28)
昭和54年,詞:たかたかし,曲:木村好夫,唄:五木ひろし
「わたしは不幸ぐせ とれない女と」始まる歌。
繰り返される「しあわせを しあわせを 今日からふたりで」という箇所がわずかに印象に残る程度で,全体としての記憶が薄い。
小さな幸せの歌だが,その幸せが内向きな印象をうけるので共感しなかったのかもしれない。小さな幸せが外に滲み出ていれば心がほんわかするのだが。
おもいで酒(2015.3.4)
昭和54年,詞:高田直和,曲:梅谷忠洋,唄:小林幸子
「無理して飲んじゃいけないと」と始まる歌。第21回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞曲。
小林幸子は昭和39年にデビューし,デビュー曲はそれなりにヒットしたとのことだが私は知らない。その後15年ヒット曲に恵まれず,この曲が2番目のヒット曲だそうだ。私が初めて小林幸子を知ったのはこの曲によってだ。
「ボトルに別れた日を書いて」とあり,このボトルはキープボトルだろう。自宅にも酒瓶はあるだろうから自宅のビンに「別れた日を書」くことがないとは言えないが。「出船の汽笛ききながら」とくれば昔からお馴染みの港町の酒場の女の歌かとも思うが,別れた男性との想い出の店に来ている女性客の歌なのだろう。
別れた女性が「あの人どうしているかしら」と思っていて欲しいという男性の願望を歌った歌なのかもしれない。何かで読んだのだが,男性はいつまでも過去を振り返るが女性は曲がり角を曲がってしまうとか,男性は別名ファイルで保存するが女性は上書き保存するとか。別れた日に新しいボトルをキープして、そのボトルがまだ残っている短い過去の話かもしれないが「くらしも荒れたこのごろは」と日数の経過もあるようであり,やはり,別れた女がこのようであってほしいという男の願望の歌であろう。
想い出のスクリーン(2021.8.5)
昭和54年,詞:三浦徳子,曲:八神純子,唄:八神純子
「赤く赤く ああ 燃える炎に」と始まる。
「愛しているのなら 愛していると 言葉にすればよかった」と何度も繰り返される。曲としてもサビの部分ということになり,印象に残る。
たった一言が言えなかったというのが昭和の歌には山ほどある1)。よく有る話なのだろう。
1) 例えば「好きだった」(昭和31年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:鶴田浩二)
親父の一番長い日(2019.1.28)
昭和54年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:さだまさし
「おばあちゃんは夕餉の片付けを終えた時 弟は2階のゆりかごの中で」と始まる歌。
妹の誕生から結婚までの父親の様子を歌った長い歌。
さだらしくあちらこちらに笑いを狙ったフレーズをちりばめながらも,典型的と思われる父親の娘に対する想いが綴られている。
織江の唄(2011.10.9)
昭和54年,詞:五木寛之,曲:山崎ハコ,唄:山崎ハコ
これはもう100%演歌の世界だろうが,曲は全く演歌ではない。もともとB面曲らしいので,私は発表からかなり遅れて聴いたのだが,衝撃だった。五木寛之の「青春の門」のテーマソングらしいので歌われている時代は少し昔の話になる。
「うちはあんたが好きやった,ばってんお金にゃかてんもん」と涙声で唄う山崎ハコは藤圭子,中島みゆきと並んで暗い唄ベスト10で上位を確実に取れる三大歌手であろう。
藤圭子は一人で深夜に聴いても良し,皆と飲みながらでも聞ける。しかし,中島みゆきの朗読?「元気ですか」やこの「織江の唄」は深夜に一人で聞くものだろう。
暗い話になってしまうので,あえて口調を変えれば,
「演歌のようで演歌でない」「フォークのようでフォークでない」それは何かと尋ねたら,ベンベン。この唄はそのような唄である。
おんなの出船(2017.7.10)
昭和54年,詞:山田孝雄,曲:船村徹,唄:松原のぶえ
「涙 涙 涙 涙 涙枯れても 枯れるな恋よ」と始まる歌。
前の「枯れても」は「涸れても」ではないかとも思うが,表記は大して問題にしないのが日本語の伝統だろう。夏目漱石などの用字も意外な用法がある。
港で出船を見送る女の歌は多い(多かった)が,「あなた」を「桟橋」に残して「一人の旅路」を行く女性の歌は珍しい。と思ったが,『横浜の波止場から』『異人さんに連れられて』行ってしまう『女の子』の歌もあった。この歌が新しいのは女性が船で出ているのが自分の意志によるもののようだ。そういう時代になったということだろう。
唄い出しで同じ単語が繰り返されるのもインパクトがあり,この女性の決意が伝わって来る。
海岸通(2015.7.12)
昭和54年,詞:伊勢正三,曲:伊勢正三,唄:イルカ
「あなたが船を選んだのは 私への思いやりだったのでしょうか」と始まる歌。
「別れのテープは切れるものだと なぜ 気づかなかったのでしょうか」という歌だ。
四苦八苦とは生・老・病・死と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の総称だ。その中で愛別離苦は歌謡曲の一大テーマである。そしてこの歌のテーマも愛別離苦だ。普遍的なテーマだから詞の理解も容易だ。しかし内容を説明することは私には容易でない。一言では表せないいろんな思いが湧いてくる詞だ。
カサブランカ・ダンディ(2019.3.24)
昭和54年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二
「ききわけのない女の頬を ひとつふたつ はりたおして」と始まる歌。
各種暴力が非難されている現在から見ればとんでもない時代の歌と思われるかもしれないが,この歌でも「ボギー ボギー あんたの時代はよかった」と過去を懐かしんでいる。体罰・いじめ・しごき・校内暴力などこの時代以前にも話題になっており,既にこんなことをすると非難されるという時代になっていたのだ。しかし,非難されることを知ってか知らずか,暴力はなくなることが無い。「あんたの時代はよかった」昔ならこんなことは問題にならなかったという思いだろう。必要悪・愛の鞭の考えが払拭できていない時代だ。
とは言え,沢田研二の代表曲の一つだと言えるだろう。
カリフォルニア・コネクション(2019.10.1)
昭和54年,詞:阿木耀子,曲:平尾昌晃,唄:水谷豊
」 「ジグザグ気取った都会の街並 振り向いた君の笑顔が揺れるよ」と始まる歌。
日本テレビ系ドラマ『熱中時代・刑事編』の主題歌。
私の印象だが,詞も曲も唄もインパクトが無い。
まず詞だが,私の心に突き刺さる言葉が一つもない。「激しく燃える季節が」とあるが,どこにその描写があるのか。単に言ってみただけという感じだ。「ぼくらの憧憧(あこがれ)」と書いてある「あこがれと」とは何かも全く分からない。「いつかは二人で住みたいのさ」ということなのか。私にはこんなのは『目標』の対象とはなっても「憧憬」の対象になるとは思えない。全体的に中身が無いとしか言いようがない。
曲は盛り上がりに欠ける。この平板な曲を,水谷が優しく優しく唄おうをうたっているようで,益々盛り上がりのない唄になっている。
ドラマ人気・水谷人気がなければ,この歌だけでは成り立たないのではないか。
しかし,ザ・ベストテンでは4週連続1位獲得だそうだから,世間の評価と私の評価はずれているということだろう。
関白宣言(2012.9.30)
昭和54年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:さだまさし
第21回日本レコード大賞金賞受賞曲。「お前を嫁にもらう前に言っておきたいことがある」と始まる。さだまさしが歌詞どおりのことを思っているかどうかは解らないが,何となく「ウケ狙い」の詞のように感じてしまう。関白宣言とは言いながら,宣言をする度胸もなく,心の中の希望を茶化しながら示している。「俺より先に死んではいけない」というメッセージがあるなら,もっとまじめにこのメッセージを発すればより心を打つものになると思うのだが,真面目はかっこ悪いとでも思っているかのようである。
この歌詞では死はずっと先のことであると考えているように聞こえる。「精霊流し」1)に出てくる小さな弟のようではないか。まあ,これから嫁をもらおうというところだから当然だともいえる。
20世紀後半にはエレクトロニクス技術が急速に進歩したが,この年NECのPC-8001やソニーのウォークマンが発売され,電電公社は自動車電話のサービスを開始し,インベーダーゲームなどが流行した。
1) 「精霊流し」(昭和49年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:グレープ)
きみの朝(2014.4.12)
昭和54年,詞:岡本おさみ,曲:岸田智史,唄:岸田智史
「横たわるきみの顔に」と始まる歌。私にとっては難解な歌詞で,「モーニングモーニング」という箇所しか印象に残っていない。
「別れようとする魂と出会おうとする魂と」,「生まれようとする魂と老いぼれてゆく魂と」,「かわろうとする魂とよどんでしまう魂と」と沢山の魂が出てくるが結局自分の魂がどこにあるのか解っていないということだろうか。自己のアイデンティティを見失っているようだ。
歌詞には無いが,自分探しをしていますという雰囲気を感じる。昔は自分探しなどが出来るのはごく一部の高等遊民だけで,普通の人間は生きていくのに精一杯で,できることをして生きていくしかなかった。もちろん,昔も若者の悩みはあった。しかし,悩んでいる暇はなかったのだ。選択枝の選択権は環境にあり,自分で選択することはできなかった。
岡本は私より少し年上だが,吉田拓郎の歌の詞などを沢山書いており,時代の先取りなのか私より後の世代の感性をもっているようだ。
君は薔薇より美しい(2019.8.2)
昭和54年,詞:門谷憲二,曲:ミッキー吉野,唄:布施明
「息をきらし胸をおさえて ひさしぶりねと君が笑う」と始まる歌。
軽快な曲だ。発音も明瞭だし歌詞はよく聞き取れるのだが頭に入らない。印象に残るのは最後の「君は変わった」という箇所だけだ。この最後の箇所はかなりインパクトが強い。
なぜ詞が頭に入らないかと考えてみると,どうも私はこのような青春を過ごさなかったからではないか。開放的で明るいこの詞に演歌で曲をつけてみようとしても曲になりそうにない。実際の生活がどうだったかは別にして,精神的にはもっと湿っぽい演歌の世界を私は生きてきたのだろう。
銀河鉄道999(2019.12.1)
昭和54年,詞:奈良橋陽子,山川啓介,曲:タケカワユキヒデ,唄:ゴダイゴ
「さあ行くんだ その顔を上げて 新しい風に 心を洗おう」と始まる歌。
私のイメージでは鉄道はゴットンゴットンとゆっくり走り出すイメージで,蒸気機関車に引かれる列車の通常運行速度はレールの継ぎ目がゴトンゴトンとなるような速度だ。しかし,この曲の印象は,始まったと思ったらもう終っているという印象だ。宇宙旅行にはこのようなスピードが必要なのだろう。英語の箇所は繰り返しが多く,全体としての内容が少ないことももう終わるのかという印象に寄与しているのだろう。
「あの人の目が うなずいていたよ 別れも愛の ひとつだと」と深い意味のありそうな詞があるが,話の全体をよく知らない私には深い意味までは解らない。「あの人の目」と聞くだけでメーテルの目だろうとは思う。それほどメーテルの目は印象的だ。
SACHIKO(2014.8.6)
昭和54年,詞:小泉長一郎,曲:馬場章幸,唄:ばんばひろふみ
「幸せを数えたら片手にさえ余る」と始まる歌。「不幸せ数えたら両手でも足りない」と続くが。
「いくら心が綺麗でも醜いアヒルの子では嫌だと」サチコ本人は思っているようだ。そのままでいい,「僕はおまえのそばにいるよ」という歌。醜いアヒルの子が白鳥になるという話ではない。アヒルはアヒルのままで幸せになれるというメッセージだ。
具体的な不幸せがリストアップされているわけではないので客観的に同情すべき状況なのかどうかは不明だが,サチコにとっては主観的には不幸せで,それが自分の容姿のせいだと思っているようだ。
男女の組み合わせに限って言えば,昔から美男・美女,おかめ・ひょっとこの組み合わせもあるが,美女と野獣の組み合わせもあるし逆もある。見た目ではないということだ。とはいえ,この歌は容姿を気にするなという歌ではない。
サチコが何を求めているかは不明だが僕を求めているのではないようだ。でも「僕はお前のそばにいるよ」と,僕の存在に気付いてほしいというメッセージだ。
さよなら(2014.12.13)
昭和54年,詞:小田和正,曲:小田和正,唄:オフコース
「もう終わりだね 君が小さく見える」と始まる歌。
最初から衝撃的だ。リスナーには何の前触れもなく突然の別れの言葉だ。その後も別れの理由の説明はない。「さよなら さよなら さよなら もうすぐ外は白い冬」との印象的なフレーズが何度も繰り返される。
詞には「愛したのは たしかに君だけ」とあり未練が感じられるがストーカーになりそうには感じない。諦めるのが昔流ということだろう。
全体に高い音で,及びサビの部分がより一層の高音になることにより純粋な少年を表しているように感じる。
しなやかに歌って(2014.5.21)
昭和54年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「しなやかに歌って淋しい時は」とコーラスが始まり,「坂の上から見た街は陽炎」からが山口の唄だ。
阿木・宇崎コンビは『横須賀ストーリー』では,『青い果実』『禁じられた遊び』『ひと夏の経験』など初期の千家・都倉コンビが狙っていたであろう背伸びをした女の子路線での山口を更に成長させることを試み,更に『プレイバックPart2』へと進んでいる。一方,千家・都倉が『冬の色』や『湖の決心』などを試したように,阿木・宇崎は『夢先案内人』や『乙女座宮』を経てこの「しなやかに歌って」を試したのだろう。
山口はそれぞれテイストの異なる歌を良く雰囲気を出しながら唄っている。伝説となってしまった山口だが,オリコン1位になったのは『冬の色』『横須賀ストーリー』『パールカラーにゆれて』『夢先案内人』の4曲しかない。この『しなやかに歌って』は阿木・宇崎コンビの山口の曲としては最もレコードが売れなかった曲かもしれない。
この歌詞の中に「33」という数字が2回出てきて,この意味が不可解である。当初はレコードの回転数かと漠然と考えていたが,今思えば,当時の阿木の年齢はこのくらいだ。当時はまだ『25日のクリスマスケーキ』という言葉が生きていた時代であり,『三十路』という言葉も重みを持っていた。私が持つ阿木のイメージはこの歌詞と重ならないが,この「33」の意味を考えながら詞を読むと興味深い。ただ,私の感想を言えば当時の山口に合いそうな気はしない。
秋止符(2013.12.11)
昭和54年,詞:谷村新司,曲:堀内孝雄,唄:アリス
「左ききのあなたの手紙」と始まる歌。
「あの夏の日がなかったら楽しい日々が続いたのに」の箇所など,詳細説明が無いので何があったか解らないのだが,楽しい日々が終わってしまったことは解り,切ない気持ちは伝わってくる。
「今年の秋はいつもの秋より長くなりそうな そんな気がして」
付け加えることはない。名曲だ。
道標ない旅(2020.1.1)
昭和54年,詞:永井龍雲,曲:永井龍雲,唄:永井龍雲
「閉ざされた 部屋の窓を 開けてごらんよ」と始まる歌。
文句のつけようのない歌で,文部省推薦になりそうと思うほどだが,その分インパクトには欠ける。
「大空に群れなす鳥たちよ」と,集団主義を肯定しており。猛禽が孤独に飛んでいるイメージは無い。
「君が歩けば そこに必ず 道はできる」と家に閉じこもっている者に,「見果てぬ夢を 探し求めて」外に出るように,そこで「出会う仲間は それだけに 素晴らしいのさ」などと歌っている。人生の応援ソング出はあるが、独りででも頑張れとはならずに仲間がきっとできるという方向に進むのが文部省推薦的だという理由だ。
ジパング(2019.8.27)
昭和54年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンク・レディー
「この世の この世の楽園」と始まる歌。
「愛の光に満ちた楽園」だそうだ。
新人用のアイドルソングならこんなものかもしれないが,経験豊富なピンク・レディーに唄わせるには詞の内容が薄いのではないだろうか。曲はピンク・レディー風ではあり,これまでの路線を踏襲したのかもしれないが,この路線は限界を超えているのではないか。経験豊かな二人がこの歌を踊りながら唄うのを見ると痛々しい。
デビュー以来10曲続いたオリコン1位の記録も,この曲でついに途切れた。
セクシャルバイオレットNo.1(2019.6.12)
昭和54年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:桑名正博
「うすい生麻(きあさ)に着換えた女は」と始まる歌。
歌詞が全く頭に入って来ない。歌詞は英語交じりの日本語のようだが,私が使っている日本語とは違うようだ。
筒美の曲は私の好みにあう曲が少なくなかったのだが,この曲は何度も聴こうとは思わない。
私が時代についていけなくなってしまったということだろう。
SEPTEMBER(2017.3.8)
昭和54年,詞:松本隆,曲:林哲司,唄:竹内まりや
「辛子色のシャツ追いながら 飛び乗った電車のドア」と始まる歌。
松本の理解しがたい詞の一つ。一応意味は通じるように思うのだがら,共感できないというべきだろうか。私の詞の理解によれば曲とマッチしていない。軽快な曲で,曲自体は嫌いなタイプではない。私の詞の解釈だと,コーラスがうるさい。
この曲を聴くならなるべく歌詞を聞き取らないようにする。意味不明な曲として聴けば心地よい。
感触(2016.11.9)
昭和54年,詞:甲斐よしひろ,曲:甲斐よしひろ,唄:甲斐バンド
(Touch)と一声あり,「夜にまぎれて 太陽のある場所へ 走り続けよう」と始まる歌。
タイトルはこの文字を「タッチ」と読ませている。
詞はよく解らない。詞でメッセージを伝えようとしているなら,低い(弱い)声でももっと発声をきちんとすべきだろう。曲は単調なリズムで,メロディーも比較的平板だが,高校生くらいの頃にきいたらハマったかもしれない。この曲では歌は中身ではなく雰囲気で,ただリズムに乗って陶酔していればよいのだろう。しかし,当時でも私の高校時代は既にずっと前に終わっていた。当時の私にはこの曲に陶酔しているような時間的・心理的余裕がなかった。
大都会(2012.6.3)
昭和54年,詞:田中昌之・山下三智夫・友永ゆかり,曲:山下三智夫,唄:クリスタルキング
第10回世界歌謡祭グランプリ受賞曲。「ああ果てしない夢を追い続け」というフレーズが最初と最後にあり,1番2番はそれぞれ「裏切りの言葉に」「裏切りの街でも」と始まり「Run away, run away いまかけゆく」と終わる。2番の後に,2番の後半を繰り返すという構成で,このような構成を何と表現するのか(恐らく専門用語があるのだろうが)知らない。
夢を追い続ける歌である。現在は大都会で期待と不安を抱きながら淋しい日々をおくっているが,きっといつかは大空を駆け巡ることができるとの思いを歌っている。最初と最後のフレーズを「サビ」といってよいのかどうか知らないが,この部分は高音で夢に向かって頑張っている雰囲気が出ている。詞でよく理解できないのは「Run away」だ。この部分のメロディーも好きだが,「Run away」と聞くと田舎から逃げてきたのかとも思うが,現在形だし,「今駆け行く」のだろう。シャネルズの「ランナウェイ」1)は駆け落ちだ。古いところならDel Shannonの「Run away」2)を思い出すが,こちらのrunは過去分詞だろう。恋人(と思っていた娘)に逃げられた悲しい街角の話だ。
歌詞だけを見ると,田舎から逃げ出して来て都会で夢を追っても「ろくなことはないよ」と忠告したくなるが,このメロディーに載せて歌われると「頑張れ」と応援したくなるような名曲。
1) 「ランナウェイ」(昭和55年,詞:湯川れい子,曲:井上忠夫,唄:シャネルズ)
2) 「Run away」(昭和36年,詞:Max Crook,曲:Del Shannon,唄:Del Shannon),日本語版「悲しき街角」(訳詞:漣健治,唄:飯田久彦)
千登勢橋(2015.12.21)
昭和54年,詞:門谷憲二,曲:西島三重子,唄:西島三重子
「駅に向かう学生達と 何度もすれ違いながら あなたと歩いた目白の街は」と始まる歌。
別れの思い出の歌である。何故別れたのかの理由は語られていないが,「あなたのくれた青春を抱きしめ目を閉じます」と,今も記憶が深く刻まれていることが解る。しかし,曲調は割と明るく,想い出を胸に強く生きていきそうな感じを受けて,次の恋は頑張れと応援したくなる歌である。
天までとどけ(2019.5.16)
昭和54年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:さだまさし
「出逢いはいつでも偶然の風の中」と始まる歌。
フジテレビのドラマ『時よ燃えて』(加山雄三,芦田伸介,野際陽子ほか)の主題歌。
「二人の明日 天までとどけ」と前向きの歌。詞は,心に浮かぶ言葉をそのまま並べたと言うよりは,読者(リスナー)の反応をいろいろ計算しながら書いているような印象を受け,ひねくれ根性の私には素直には受け入れられないが,書かれている内容自体は文句のつけようがない。
曲はさだにしか唄えないような高音を使い,カラオケで多くの人が唄ってくれるようなことは期待していないようだ。メロディーにも違和感を持つ。日本語のアクセントは強弱アクセントではなく高低アクセントだが,関東(東京地区)と関西ではアクセントの高低が逆になる単語が少なくない。この歌のメロディーも当然音の高低があるのだが,歌詞との対応がある箇所では関東風,他の箇所では関西風のアクセントに対応する高低になっており,東京人の変な関西弁を聞いているような気がする。
この歌の私の評価は詞の方が高い。
TOKIO(2015.4.9)
昭和54年,詞:糸井重里,曲:加瀬邦彦,唄:沢田研二
「空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突きぬけ 星になる」と始まる歌。
「TOKIO TOKIOが空を飛ぶ」という個所などが印象に残る。
初めて聴いた時には驚いた。「スーパー・シティ TOKIO 哀しい男が吠える街」と言えば『東京』を連想するのは自然だろう。その東京が空を飛ぶなんて。しかし,何度か聴いているうちに街が空を飛んでいるイメージが湧いて来た。さすがは糸井だ。たしかに,大型宇宙船の内部が都市機能を持つというSFはあったと思う。海に浮かんでいた街1)もある。空中都市のイメージも昔からあると思うが「火を吹いて」というのが斬新だ。
ところで,私が見た歌詞はすべて「火を吹いて」となっている。この表現は『火吹き竹』のように火を吹いているのだろうか。火山のように火を噴いているのではないだろうか。
杉下右京2)には及びもつかないが,細かいことに気が付いて他人に嫌われている。
1)ひょっこりひょうたん島(NHK総合テレビ,昭和39−44年)
2)杉下右京:「相棒」(テレビ朝日系ドラマ)の主人公。
波乗りパイレーツ(2022.8.11)
昭和54年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンク・レディー
「悪魔のような波を 手綱も持たずにこなす」と始まる。
わたしなんぞが心配しても仕方ないのだが,阿久も疲れているのではないか。
「わたし サーファーガール 胸ゆれゆれサーファーガール」なんて言うのは阿久に似合わないように思う。
「あいつ パイレーツ 波乗り乗りパイレーツ」って何が「乗り乗り」だ。阿久はどうかしちゃったのか。
「二人 アベック サーフィンで」の「アベック」も古色蒼然といった言葉ではないだろうか。もちろんアベックは戦後も現役だった1)から阿久の頭には染み込んだ言葉だろうが。
1) 例えば「おさななじみ」(昭和38年,詞:永六輔,曲;中村八大,唄:デューク・エイセス)
虹とスニーカーの頃(2015.5.13)
昭和54年,詞:財津和夫,曲:財津和夫,唄:チューリップ
「わがままは男の罪 それを許さないのは女の罪」と始まり,このフレーズが何度も繰り返される。
「若かった何もかもが」と言っているので,幼すぎたことを今では理解はしているのだろう。当時は遅まきながら幼稚さに気づいたということだろうが,昨今はそれにも気づかない精神的に幼稚な大人?が増えているような気がしてならない。これは,いつの世にも共通した老人の嘆きだろうか。
他人との生身の接触が減少し,書物を通しての心の触れ合いも減り,タッチパネルの指先だけの接触と生身の接触の区別がつかないまま身体だけ大人になってしまったのだろうか。
虹とスニーカーの頃(2018.12.31)
昭和54年,詞:財津和夫,曲:財津和夫,唄:チューリップ
「わがままは男の罪 それを許さないのは女の罪」と始まる歌。
「突然ふたりは 他人になった ぼくらには できなかった 大人の恋は どうしても」と今では別れてしまって,以前のことを思い出している歌のようだ。
想い出はスニーカーと共にあるようだ。それにしても「大人の恋」とはどういう意味だろう。チューリップってもう大人じゃないのか。少年・少女時代の想い出の歌だというなら,今なら大人の恋ができるのか?おそらくできないだろう。これは大人・子供の問題ではなく,他人に対する思いやりという,知識ではなく性格の問題だからだ。
少年・少女が「大人は」というとき,青少年の純粋さが失われた者というニュアンスがあるようにおもう。しかし純粋な大人は少なくないし,不純な若者も多くいる。大人と子供の大きな差は知識と経験の量にある。知識と経験は年齢と共に増えるだろうが,性格は変わるとは限らない。
この歌のケースでは「わがままは男の罪」と男の罪を認めているかのようだが,つづいて「それを許さないのは女の罪」と女は男のいうなりになるべきという思想なので,この男女不平等の考えは年齢を経ても簡単には変わらないだろう。
日本全国酒飲み音頭(2013.9.11)
昭和54年,詞:岡本圭司,曲:ベートーベン鈴木,唄:バラクーダ
歌の前後に台詞が入るが,歌自体は「酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞ」の繰り返しから始まると言ってよいだろう。まとも?な歌詞は「1月は正月で酒が飲めるぞ」と始まる。これが豆まき・ひな祭り・花見・・・と毎月続き「12月はドサクサで酒が飲めるぞ」と唄って最後に「酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞ」と繰り返す。一月あたり「飲める」が4回出てくるので12ヶ月で48回「飲める」が出てくる。
2番ということになるのだろうが,これは「北海道は毛ガニ出で酒が飲めんでないかい」と始まり,秋田・山形・茨城・・・12番目の沖縄で終わるかと思いきや,「日本全国どこへ行っても酒が飲めるぞ」と続く。「酒が飲めるズラ」などと語尾が地方によって異なっているが,私の知識では正しくその地方と対応がとれているのかどうか不明だ。酔っ払っているのか,毛ガニのような名物とかも「鹿児島は西郷隆盛と酒が飲めるトヨ」などと手当たり次第の思いつきになっているが理由は何であれ酒が飲めるという歌だ。
数えるのも面倒だが,「酒が飲める」という詞が100回以上現れていて,これは申請すればギネスに記録として認定されるのではないだろうか1)。
1) 同一歌詞の繰り返しという意味では,由紀さおりの「夜明けのスキャット」で繰り返される「ル」,ロス・ポップ・トップスだっただろうか「マミーブルー」で繰り返される「Oh Mamy, oh mamy mamy, blue, oh mamy blue」などを思い出す。そういえばRainbowsの「Balla Balla」も「Balla Balla」を繰り返していた。数えてはいないがどうも「Balla Balla」には負けそうだ。
薔薇は美しく散る(2020.1.29)
昭和54年,詞:山上路夫,曲:馬飼野康二,唄:鈴木宏子
「草むらに 名も知れず 咲いている 花ならば」と始まる歌。
日本テレビ系テレビアニメ『ベルサイユのバラ』の主題歌。アニメの原作は『マーガレット』に昭和47年から連載された池田理代子の漫画『ベルサイユのバラ』。
「バラはバラは 気高く咲いて バラはバラは 美しく散る」と繰り返される。
「私はバラの 命をさずかり」というのは主人公オスカルのことだ。
7月14日はバスティーユ牢獄襲撃の日だが,オスカルはこの襲撃で戦死する。ある国ではこの日はバスティーユ襲撃の日としてよりオスカルの命日としてのほうが有名だとか。それほどこのアニメは国外でも人気があったということだ。
陽はまた昇る(2016.5.23)
昭和54年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:谷村新司
「夢を削りながら年老いてゆくことに」と始まる歌。
「年老いてゆくことに 気が付いた時」というのだから普段はこのことに気づかないということだ。これは若者の特権だ。もちろん幼少期にはこのようなことはない。
青少年には将来の夢がある。現実の厳しさに夢をひとつひとつ諦めて年をとっていくことに気づくのだ。それでも若いうちは「陽はまた昇る」「生きてるとは燃えながら暮らすこと」と思える元気があるのだ。
この歌詞の「年老いてゆく」とは「大人になってゆく」という意味だろう。最近のニュースを見ると大人になりきれないまま年齢を重ねている者が増えているようだが。
この頃谷村は30才くらい。十分大人だとも言えるが精神的には若者だったのだろう。確かに自分が10代の頃を考えると30才は十分以上にオジサン・オバサンに見えた。しかし,他人からは老人と見えるようになった今,過去を振り返ると30才ではまだ青年の悩みを残していた。論語にも『四十而不惑』とあるように40才くらいまでは色々と夢を追うことが昔からあったのだろう。『三十而立』というのは孔子の場合はどういう意味かは知らないが,普通の人間の場合には30才くらいになれば十分一人前の大人と見えるということではないだろうか。
この歌詞の「燃えながら」は太陽のようにということだろう。いかにも青年のエネルギーを感じる。これが老人になると「燃えながら」と聞くと蝋燭が燃えているようなイメージだ。燃え尽きる前に最後に一花咲かせたいと願うのは年寄りの中にも青年の夢が残っているからだろうか。
HERO(ヒーローになる時,それは今)(2013.7.23)
昭和54年,詞:甲斐よしひろ,曲:甲斐よしひろ,唄:甲斐バンド
タイトルどおり「HERO ヒーローになる時 AhHa それは今」と始まる唄で腕時計のCMとタイアップした曲。最初のこのフレーズは何回も繰り返されるので印象に残る。
ロック系の歌はあまり好みではないのだが,この曲を聴くと身体が自然に反応する。やはり私の体の一部にロックのリズムが浸み込んでいる部分があるのだろう。昭和のこの種の曲は,自分では歌わないが,聴いていて・・・その時の精神状態によるが・・・心が騒ぐ。もちろん胸騒ぎではなく,血が沸き肉が踊るのだ。
毎日聴きたいと思うわけではないが,時にはわざわざ聴いてみようかと思う曲だ。
美・サイレント(2013.10.29)
昭和54年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「季節が変わるたびごとに」と始まる歌。
歌詞の意味というか「Be silent」の意味が理解できない。「私に言うだけ言わせて」とあるので,男が黙っていることに不満な様子が感じられるのだが,そこで「Be silent」というのはどういう意味なのだろう。歌詞に伏字があるのも解せない。阿木と山口ではこの伏字の箇所の内容が違うように思えて仕方がない。
阿木の意図は私に伝わらないし,宇崎の曲も私に訴えかける力が感じられない。山口の歌唱だけが,良く解らない何かを私に投げかけてくる。『曼珠沙華』1)と併せて聴くと山口百恵が魔性の女に見えてくる。これが歌手を意識した作詞・作曲者の意図なのであろうか。
1) 「曼珠沙華」(昭和54年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)
ビューティフル・ネーム(2018.12.3)
昭和54年,詞:奈良橋陽子/伊藤アキラ,曲:タケカワユキヒデ,唄:ゴダイゴ
「今日もこどもたちは 小さな手をひろげて」と始まる歌。
「Every child has a beautiful name」だから「呼びかけよう名前を」という歌。
『国際児童年』の協賛歌。
一杯飲みながらカラオケで私がこの歌をうたったら,同席者に違和感を与えるだろうが,真面目に児童問題を考える集会などで,最後に参加者全員で唱和しても違和感を持たない。児童問題を取り扱ったドキュメンタリー番組で挿入されていてもおかしくはない。児童に対しても独立した個人として対応しようということだろう。環境としての社会を改善することも必要だし,その中で個人の尊厳を認めて行くということだろう。
この歌は多くの歌手によってカバーされている。
ピンク・タイフーン(In The Navy)(2018.8.12)
昭和54年,詞:BELOLO HENRI/岡田冨美子,曲:MORALI JAQUES,唄:ピンク・レディー
「まだ間に合う あわてないで 落ち着いて行け」と始まる歌。
昭和53年の紅白出場を辞退したことが原因か,絶大な人気を得ていたピンク・レディーの人気も下がり始める。彼女たちはその後活動中心を米国に移し,昭和55年には解散を発表,昭和56年3月31日に解散コンサートを行った。この間,国内での人気は回復することがなかった。
それにしても「やっちゃいな やっちゃいな やりたくなったら やっちゃいな」「I want you, You want MIE. I want you, You want KEI」などとあるこのような歌を唄わされて,私ならもう止めたいと思う。「PINK LADYもっと元気よくPINK LADYもっとメチャクチャに」などと自分たちの名を連呼する箇所など,本人たちはどう思っていたのだろう。
舟唄(2013.1.23)
昭和54年,詞:阿久悠,曲:浜圭介,唄:八代亜紀
「お酒はぬるめの燗がいい」と始まる歌。枕草子のように良いものを集めている。『春は曙』などの代わりに「女は無口」などと並べ立てているのだ。枕草子では暑くもなく寒くも無い良い気候の時分に端座して筆を執っている清少納言が眼に浮かぶが,この舟唄ではカウンターでやや姿勢も崩れ気味で飲んでいる八代亜紀が眼に浮かぶ。
「ぬるめの燗」がいいか熱燗がいいか,「あぶったイカでいいか」あぶったイカ「が」いいか微妙なところだが,このあたりが歌詞に書き込まれているので,八代亜紀は今この店に来たところではなく,大分前からここで飲んでいることが判る。もちろん,うれしいことがあって祝杯を上げているのではない。かといって,突然の不運・不幸に自暴自棄になって飲んでいるわけでもない。「しみじみと想い出だけが行き過ぎる」この想い出も「涙がポロリと」こぼれるような想い出だ。
私がこのような状態にあったとき,歌いだしていたのは「舟歌」ではなく,「ふれあい」1)だった。
1) 「ふれあい」(昭和49年,詞:山川啓介,曲:いずみたく,唄:中村雅俊)
ホップ・ステップ・ジャンプ(2019.2.24)
昭和54年,詞:山崎光,曲:水谷公生,唄:西城秀樹
「青空に胸をはって 翔びだそう 世界へ」と始まる歌。
雰囲気的には『Young Man』1)と同じで,いかにも秀樹という曲になっている。
1)「Young Man」(昭和54年,詞:Willis V.・Belolo H./あまかいりゅうじ,曲:Morali J,西城秀樹)
微笑の法則(2018.11.4)
昭和54年,詞:柳ジョージ,曲:柳ジョージ,唄:柳ジョージ&レイニーウッド
「Smile on me Smile on me」と始まる。このフレーズは曲中で何度も繰り返される。
「微笑(ほほえみ)は目もとをはしる」などというフレーズは新鮮味を感じる。口もとに微笑を浮かべても目が笑っていないと微笑の意味を考えてしまう。『目は口ほどにものを言い』というが,言外の意味は目のほうがものを言う。
「俺の手で見つけた ダイヤモンド その微笑が消えてゆく 影の中に 今はもう」とどうもハッピーエンドではなさそうだ。化粧品のCMに使われたらしいが,このような結末で良いのだろうか。この商品を使うと男を自由に操れるということなのだろうか。
ほほにキスして(2016.12.8)
昭和54年,詞:伊藤薫,曲:伊藤薫,唄:水越けいこ
「頬にキスして そしてサヨナラ」と始まる歌。
どういう事情かは不明だが,別れの歌であることは確かだ。「風船の様に軽く 飛び込んでいた私」や「涙なんておかしいわ」から一応は解釈できるのだが,どうも私にはしっくりこない。私の解釈が正しければあまりにも軽い。あるいはドライな関係と言い換えるべきか。もっとウェットな関係ならば演歌になるだろうに。
曲も軽い。
ボサノバ(2017.5.21)
昭和54年,詞:福島邦子,曲:福島邦子,唄:福島邦子
「男の心Bossa Nova 女はいつでもSwinging Jazz」と始まる歌。
「いつかはこんな別れがくるとしってたわ」とか「全てわすれるわ 貴方のことなど」とあるのでどういう歌かは一応解るのだが,それ以外はよく解らない。
そもそも私はボサノバとスウィングジャズの違いが判らないんだから,最初の比喩からして理解できるはずもない。もちろんボサノバと呼ばれる曲は他にも聴いたことがある。この歌は女性の歌にしか聞こえないのだが,曲のリズムは私の頭に在るボサノバだ。区別は曲演奏のバンド?編成にあるのだろうか。
結局,最初の比喩が理解できないので最後まで詞が心に染み入らない。
曲は軽快で歌詞を無視すれば聴いていて心地よい。ただ,詞と比べると軽すぎるのではないだろうか。但し,歌声で心情は十分表されているとは思う。
窓(2020.12.20)
昭和54年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春
「小さな窓から見える この世界が僕の全て」と始まる。
「この窓をひらいて 自由になりたい」とあるので,何かに閉じもめられているのかと思うと「小さな窓をたたく 風に心ふるわせてる 気付いた時には これほど弱い男になっていた」とあり,どうも自分自身で閉じこもっている印象を受ける。
「君だけは 誰にも わたしたくない 誰にも負けはしない この愛だけは」と繰り返して終わるのだが,君の存在がこの窓を開く勇気をあたえてくれたのだろうか。
どうも願望だけで窓を開ける勇気までは出なかったように感じられ,ハッピーエンド感がない。
万華鏡(2018.7.21)
昭和54年,詞:三浦徳子,曲:馬飼野康二,唄:岩崎宏美
「夢だと言って 嘘だと言って」と始まるのがイントロだが,「灼けつく こんな想い」ではじまるのが1番の歌詞だろう。印象に残るフレーズは繰り返される「ショーウィンドゥ 万華鏡のよう」から始まる部分だ。
歌詞全体の意味は想像できるが私の想像が正しいのかどうかわからない。もし,想像どおりなら,私なら岩崎宏美には唄わせないだろう。岩崎のイメージは既に確立しており,そのイメージと合わない。もっとも,このイメージギャップを狙ったかもしれないのだが。あるいは私の邪推とは異なる真の意味があるのかもしれない。
曼珠沙華(2014.1.15)
昭和54年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「涙にならない悲しみのある事を知ったのはついこの頃」と始まる歌。
イントロはフォークっぽく始まり,「最後の一行思いつかない」の「つかない」の箇所など,『石狩挽歌』1)を思い出させるような演歌っぽい歌い方のところがあるかと思えば「マンジューシャカ」前後から以降は成長したあとの山口の世界だ。
『赤い花ならまんじゅしゃげ』2)と歌われた彼岸花だが,ここで歌われているマンジューシャカは白い花らしい。仏典では『天上の花』とされているとか。「白い夢さえ真紅に染める」というのはマンジューシャカをまんじゅしゃげに変えるようにも感じられるが,何らかの故事に基づくものではなく,阿木の感性による創作ではなかろうか。
「あなたの前で女でありたい。私はもうはたち・・・」というのは山口の言葉かもしれないが,歌詞は阿木自身の思い,それも情念ではなく観念かもしれない。二十歳の娘がこのようなことを考えるのだろうか。阿木は私にとってはお姉さま,山口は私にとっては娘とは言わないまでも,歳の離れた妹という年齢だ。
1) 「石狩挽歌」(昭和50年,詞:なかにし礼,曲:浜圭介,唄:北原ミレイ)
2) 「長崎物語」(昭和14年,詞:梅木三郎,曲:佐々木俊一,唄:由里あけみ)
魅せられて(2012.1.17)
昭和54年,詞:阿木燿子,曲:筒美京平,唄:ジュディ・オング
「南に向いてる窓を開け」という歌で第21回レコード大賞受賞曲。「Wind is blowing from the Aegean」というところを,最初のころは「アジアからの風」と聞いていた。ヒアリング能力不足を実感した。
この曲を唄うときのジュディ・オングの衣装が印象的である。
「好きな男の腕のなかでも違う男の夢を見る」という歌がヒットしたのは女性の本性を歌ったからなのだろうか教育の効果によるものだろうか。以前は教育により本性が抑圧されていたのか,最近の教育(学校教育には限らない)により本性にないものが観念主導で出てきたものなのかわからないが教育の効果であろう。
この年から共通一次試験が始まった。受験生と大学の入試に対する負担を軽減しようという目的だったのだろうと思うのだが,目的は達成されたのだろうか。弊害は発生しなかったのだろうか。共通一次試験はセンター試験に変わった。教育制度は入試だけでなく,土曜日の休日化,大学での教養課程の改革,大学卒業要件の変更,大学院重点化,初等中等教育におけるゆとり重視等々多くの改革がなされた。これらにより教育は改善されたのであろうか。
このころ大学に入学した学生は今では卒業後30年ほど経つことになり,程なく社会を動かすのはこの世代の人たちだけになる。社会の変化から教育の影響だけを取り出すのは至難の業かも知れないが,教育の評価に関する信頼できる研究が行われ教育制度等に反映されることを期待する。
私自身の考えを述べれば,「入試科目を増やすべき」である。少なくとも大学入試段階では文系理系の区別をすべきではない。
夫婦川(2017.4.3)
昭和54年,詞:荒川利夫,曲:聖川湧,唄:三笠優子
「波の数ほど ア・・・ 苦労の数が」と始まる歌。
「いつか男に ア・・・ なる人なのよ 私の支えが いる人よ」とかなり古いタイプの演歌の詞だ。唄もこまどり姉妹か畠山みどりかという時代性を感じる。
夫婦舟(2017.6.16)
昭和54年,詞:荒川利夫,曲:聖川湧,唄:三笠優子
「この川がどこへ流れてゆこうとも 岸を離れた夫婦舟」と始まる歌。
この歌のように,中流以下?と思われるカップルが互いに寄り添い支え合う歌が何年かに一度はある程度のヒット曲になるようだ。これより20年前あるいはもっと前ならなおさらだが,生活が苦しいと言えば本当に餓死寸前の暮らしだった。今から思えば皆貧しかったが,周囲を見て,他人並みだと思っていたので貧しいという意識はあまりなかった。電化製品が街にあふれるようになった昭和30年代,電化製品の購入時期の違いで経済的差を感じることはあったが,高度成長下,今は買えないが来年には買えそうだなど,多くの人が希望を持つことができた時代だった。
昭和54年ならよほどのことが無い限り餓死を心配するほどの貧困はなくなったように思うが,社会が安定した分,底辺から這い上がるのがなかなか困難になった時代ではないか。「この川がどこへ流れてゆこうとも」と先は見えないが「この人の・・・明日に私の明日がある」という歌だ。
昭和57年の第24回レコード大賞ロング・セラー賞を受賞している。
燃えろいい女(2013.3.23)
昭和54年,詞:世良公則,曲:世良公則,唄:ツイスト
「又ひとつキラメク風が」と始まる歌。某化粧品会社の夏キャンペーンイメージソング。CFには小野みゆきが起用されている。目元というかアイメイクが印象的だった。私の脳内回路がどうなっているのか解らないが,この小野みゆきを見るたびにSophia Lorenを思い出していた。
この歌を世良が唄っているのを聞いたことがあるが,ロックっぽく唄っていて,それはそれで悪くはないが,私にとっては人の歌声には聞こえず,生きた楽器の音のように聞こえる。歌謡曲として聞く私にとってはCM内の歌のほうが好みに会う。
「燃えろナツコ」という箇所が最も印象的であり,CMソングとしては良くできている。「おびえた男心をさらって振り向きもしない女」とは「笑顔の似合う娘」ではなく「ちょっと気取ったまなざし」の女なのだろう。時代はこのような女性を作り出そうとしていたのだろうか。それともこの化粧品会社の意向なのだろうか。
モンロー・ウォーク(2016.7.3)
昭和54年,詞:来生えつこ,曲:南佳孝,唄:南佳孝
「つま先立てて海へ モンロー・ウォークして行く」と始まる歌。
絵のような歌だ。一か所,「ブロンズ色の肌」というのがよく解らないが,その他は情景がありありと目に浮かぶ。
念のため,ブロンズを調べてみた。
ブロンズは銅と錫の合金で,普通は青銅と訳されており,錫が10%程度のものは砲金と訳されることもある。似た合金では銅と亜鉛の合金はブラスと呼ばれ黄銅あるいは亜鉛が20%以上のものは真鍮と訳される。また,銅とニッケルの合金は白銅と訳される。
もちろん,銅に錫と亜鉛を加えた合金も当然あり,これも(成分比率にもよるが)ブロンズと呼ばれる。
例を挙げれば,10円硬貨の材質はブロンズだそうだ。オリンピックの銅メダルもブロンズ・メダルという。5円硬貨は黄銅だし,ブラスといえばブラスバンドの楽器の多くがブラスだ。100円硬貨は白銅だし,フルートの材質は白銅が多いとのこと。
ところで,私がよく歩いた場所に雨ざらしのブロンズ像があった。最初,ブロンズ色と聞いた時に,最初に浮かんだ色があの像の色だった。この歌では人肌の色なのだ。あの像の色の人なら,ゾンビに違いないと感じたのだ。色あいは上手く説明できないが,青銅と言われると青銅とはこのような色かと納得する色だ。もちろんblueではない。
一般に,金属などは表面酸化物等により見た目の色が変わる。表面物質の固有の色が見える場合もあり,均一膜ができれば干渉色が見える場合もあり,微粒子の集積などの場合には黒く見える場合もある。
ブロンズ色とはブロンズ表面がどのような状態のときの色なのだろうと思いつつ,念のためインターネットを検索したら,色見本にブロンズというのがあった。私のディスプレイがどれほど元の色を再現しているかは判らないが,おおよその色は解った。
ようやくこの歌詞が全て解った。これで歌われている状況がはっきりと目に浮かぶ。
日に焼けた中南米系の女性のようだ。「ジャマイカあたりのステップで」という歌詞にも合致する。
曲は好みとは言えないが,若い頃なら夏の海辺で聞き流すには悪くなさそうだ。後に郷ひろみが唄っている1)が、郷には似合う歌だと感じる。
1)「セクシー・ユー(モンロー・ウォーク)」(昭和55年,詞:来生えつこ,曲:南佳孝,唄:郷ひろみ)後半の歌詞は原曲と変っている。
YOUNG MAN(2013.5.25)
昭和54年,詞:V.Willis・H.Belolo,訳詞:あまがいりゅうじ,曲:J.Morali,唄:西城秀樹
「ヤングマンさあ立ち上がれよ」と始まる歌。「Y M C A」と何度も繰り返され,その時の振り付けも人文字風で直ぐ覚えられる。もちろん人文字といっても多人数が文字の形に並ぶのではなく,TIMの『命』1)のように一人で人文字を演じるのである。
唐突にYMCAが出てくるが,恐らく原詞をそのまま採用したもので,訳詞の内容とは直接の関係はないと解釈すべきなのだろう。原曲は聴いたことがないが,ゲイの歌であるとの話である。訳者はこの詞を青春賛歌として書いた。YMCAはYoung Man Can do Anythingの意だとWikipediaにある。
今では私も歳をとり,西條秀樹のノリにはついていけないが,「ゆううつなど吹き飛ばして君も元気だせよ」という詞など,元気づけられる。悪い歌じゃないと思う。
1) TIMはお笑いコンビ名。メンバーはゴルゴ松本とレッド吉田。人文字ギャグで有名。一人で出来るもののほか,二人が必要な『炎』などがある。
勇気があれば(2018.10.6)
昭和54年,詞:山川啓介,曲:筒美京平,唄:西城秀樹
「幸せに輝く あの人だって 若い日の弱さを 悔やんでいるはず」と始まる歌。
「勇気をお持ち」とあるが,もちろん勇気を持てという意味で,応援歌だ。応援歌ならもっと威勢がよくてもよさそうだが,励ます相手はこれからスポーツの試合に向かう訳ではない。「幸せにはぐれて うつむく」状況なので威勢のよい応援歌は受け付けない可能性が高い。静かに話しかけはじめ,そして励ます歌だ。
ユー・メイ・ドリーム(2016.8.9)
昭和54年,詞:柴山俊之,補詞:Chris Mosdell,曲:鮎川誠・細野晴臣,唄:シーナ&ロケッツ
「あなたの事思うと すごく胸があつくなるの」と始まる歌。
シーナ&ロケッツはロックバンドだ。日本の最高パンクバンドの中の一つとも呼ばれているらしい。
ロックという言葉に対して漠然としたイメージを持ってはいるのだが,ロックと呼ばれる曲を聴いてロックだと思うこともあるしこれがロック?と思うこともある。要するに私にはロックとは何かが解っていないのだ。もちろんパンク・ロックという言葉は知っているのだが,その言葉が意味する内容が解らない。この曲を聴いても,これがパンク・ロック?という印象だ。
ロックという言葉でくくられる音楽の種類はかなり多いのだろう。嫌いじゃないロックも少なくないのだが,この歌はリズムやギターの音の一部に私のイメージするロックっぽい箇所もあるのだが,全体としては『特に好き』という分類には入らない。
夢去りし街角(2017.1.8)
昭和54年,詞:谷村新司,曲:堀内孝雄,唄:アリス
「もう泣かないで 悲しまないで」と始まる歌。
アリスらしいと言えば言えるのだが,歌声が暗い。別れの歌だから暗くてもよいのかもしれないが,「かけがえのない季節だった」「最後の言葉だ ありがとう」というのだから,良い想い出もあるのだろう。別れの原因が不明なので共感のしようがない。
夜明け(2018.9.8)
昭和54年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春
「どれ程目をこらしたなら 明日がみえるのだろう」と始まる歌。
歌というのは,伝えたい思いを言葉にし,これに抑揚をつけて伝えるものだと思っている。伝える相手は自分自身のこともあり,特定の一人の場合もあり,特定あるいは不特定の多数の場合もある。伝えたい内容が解らないようなのは曲ではあっても歌ではないと思っている。その意味ではこの歌は歌らしい歌だ。
私は時代に取り残されたのか,この歌の意味は十分には理解できないので自分で唄おうとは思わないが,聴くと何か解らないものが伝わって来る。
歌詞中に「僕にもわからないけど」という言葉があるので,本人にもよく判らないことがあるのかも知れない。(言葉上では「どれほど目をこらしたらな」とか「どれほど耳をすませば」とかいう問の答えが解らないという形式になってはいる。)
時の経過と共に新しい表現形式が現れる。私のような凡人は,精神に大きな影響を受けた時代の表現形式が身体に染みついており,それ以外の表現形式にはなかなか馴染めないということだろう。
よせばいいのに(2012.11.26)
昭和54年,詞:三浦弘,曲:三浦弘,唄:敏いとうとハッピー&ブルー
「いつまでたってもダメなわたしネ」とはいり,「女に生まれてきたけれど女の幸福まだ遠い」と始まる歌。「馬鹿ネ馬鹿ネよせばいいのに・・・」と繰り返す。
「女に生まれてきた」のかどうかは知らないが,ジェンダー問題に入ると私には確信がなく意見が揺らぐのでとりあえずこの箇所を論じるのは避けておこう。
「私の外にいい愛人(ひと)いたなんて」気づいたときどうするかだ。「メソメソ泣いている」くらいは仕方ないかもしれないが「このまま死にたい」というのは穏やかではない。寅さんなら『それを言っちゃァおしまいよ。死んで花実が咲くものか』というだろう。昔は『死ぬ・死ぬ』と言っている者は死なないなどと言っていたが,最近では本当に死んでしまう者がいるから油断できない。
昭和の時代は「私バカよねおバカさんよね」1)などと言っていたのに,もっと後になると「誰かに盗られるくらいならあなたを殺していいですか」2)などとなってくる。核家族化の上に年寄りが病院で最期を迎えることが多くなり,死というものを身近に感じる機会が減ったせいではないだろうか。
1) 「心のこり」(昭和50年,詞:なかにし礼,曲:中村泰士,唄:細川たかし)
2) 「天城越え」(昭和61年,詞:吉岡治,曲:弦哲也,唄:石川さゆり)
よせばいいのに(2015.1.26)
昭和54年,詞:三浦弘,曲:三浦弘,唄:敏いとうとハッピー&ブルー
「いつまでたってもダメなわたしネ」と一コーラスあって,「女に生まれてきたけれど」と始まる歌。
昭和の自責というか自虐というか,『みんな私がわるいのよ』系の歌である。明治から戦争直後までの歌ではこの系統の歌は思いつかない。戦後すぐは『こんな女に誰がした』1)と自責の念は薄い。その後『泣いた女が馬鹿なのか騙した男が悪いのか』2)と騙される私が悪いではないかとの意識が生じ,時が経つと『忘れられない私がばかね』3)と自虐性が強まっている。それが『バカだなバカだなだまされちゃって』4)とか『私バカよね おバカさんよね』5)のように騙されるほうがバカだということになっていく。
もっと以前に元祖と思える『みんな私が悪いのよ』6)という歌があるらしいが,私は知らない。私が知っているのは柳亭痴楽の痴楽綴方狂室中の『郵便ポストが赤いのも,電信柱が高いのも・・・みんな私がわるいのよ』だ。
これらは終戦直後の東久邇宮首相の『全国民総懺悔』発言が意識されているのかもしれない。日本人はすぐに謝罪をする国民性だという意見もあるようだが,歌謡曲の世界では明治大正昭和初期には自嘲・諦観の歌はあっても自責の歌はすぐには思いつかない。それどころか後には『悪いのは私じゃない』7)と変わってくる。このように変わるのは教育の結果だと思うのだが,学校教育・家庭教育・社会教育,いずれの影響が大きいのか,また,影響が出るにはどれほどの時間がかかるのかなど解らない点が多いが,どちらにしても極端は良くなく,中庸を目指して教育すべきだろう。
1)「星の流れに」(昭和22年,詞:清水みのる,曲:利根一郎,唄:菊池章子)
2)「東京ブルース」(昭和38年,詞:水木かおる,曲:藤原秀行,唄:西田佐知子)
3)「涙の連絡船」(昭和40年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:都はるみ)
4)「新宿の女」(昭和44年,詞:石坂まさを,曲:石坂まさを,唄:藤圭子)
5)「心のこり」(昭和50年,詞:なかにし礼,曲:中村泰士,唄:細川たかし)
6)「みんな私がわるいのよ」(昭和29年,詞:野村俊夫,曲:古賀政男,唄:神楽坂はん子)
7)香山リカ:「悪いのは私じゃない症候群」(ベスト新書239,KKベストセラーズ,平成21年)
ラヴ・イズ・オーヴァー(2012.4.4)
昭和54年,詞:伊藤薫,曲:伊藤薫,唄:欧陽菲菲
「Love is over悲しいけれど」と始まり「元気でいてねLove is over・・・」と終わる。ヒットしたのは昭和58〜59年とやや時間が経ってからである。
お姉さまと坊やがずるずるとつきあって来たが,お姉さまが坊やに良かれと別れ話。今なら年の差婚・逆年の差婚は珍しくないが当時は世間が許さなかったのだろう。「わたしはあんたを忘れはしない」と叫びながら,お姉さまは坊やのためを思い身を引く決心をしたようだ。欧陽菲菲にはこのような姉御の雰囲気がある。
このような男女関係も昔からあったのだろうが,歌になっているのはあまり思いつかない。「わたし祈ってます」1)は似た状況のようにも感じるがそれ以前の歌では思いつかない。二つの歌の共通点は男のほうが泣いているあるいは泣きそうだということだ。少し前まで「泣いてすがった」のは「年上の女」2)だったと思うのだが。もちろん,昔の男も泣くことはあったが,泣いているのを知られないようにしていた。泣きたいときにも顔で笑って心で泣いてを心がけていたと思う。「泣くな男だろう」というのは言葉としても男言葉だし,「泣かないの,男の子でしょう」と言い換えれば母子の関係だ。
とは言え,私自身,歳のせいか,涙腺のコントロールが効き難くなっている。
1) 五十嵐悟:「わたし祈ってます」(昭和49年,曲:五十嵐悟,唄:敏いとうとハッピー&ブルー)
2) 中山貴美:「年上の女」(昭和43年,曲:彩木雅夫,唄:森進一)
りばいばる(2016.2.25)
昭和54年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき
「忘れられない歌を突然聞く」と始まる歌。
少し前まで心の傷から血を滴らせながら唄うような歌を唄っていたが,この歌では傷は瘡蓋になっているようだ。リバイバル曲がこの瘡蓋を剥すのだろうか。瘡蓋を無理に剥すとまた血が滲む。しかし,本人が多くのヒット曲を出した余裕からか,この傷口から再び血が滲むことはないようだ。その分、中島みゆきの凄みが失われたような気がする。
流星(2016.2.1)
昭和54年,詞:吉田拓郎,曲:吉田拓郎,唄:吉田拓郎
「たとえば僕がまちがっていても」と始まる歌。
TBS系テレビドラマ『男なら』の主題歌。オリコンでは最高位が週間54位だそうだから,あまりヒットした歌とは言えない。確かに曲は「流星」というタイトルに比して地味で重い。
詞には「流れていく」が何度も登場するが,流れるのは川ではないかと思うほどだ。最後の「流れる星は今がきれいで」とあるので「流星」なのだろうが,「今がきれいで」などと言っている暇はないだろう。最後の最後に「流れる星はかすかに消える 思い出なんか残さないで」だけが流星らしい。
それにしても「流星」1)とのタイトルをつけた歌は多い。
1)「R.Y.U.S.E.I」(平成26年,詞:STY,曲:STY/Maozon,唄:三代目J Soul Brothers from EXILE TRIBE)など。私にはよく理解できない歌だがヒットしていたことは覚えている。他にも中島みゆきやコブクロなどにも「流星」というタイトルの歌があるようだ。中島の歌は知らないが,歌詞を見ると「りゅうせい」ではなく「ながれぼし」ではないかと思う。本当の所は知らない。
わかれ酒(2018.4.26)
昭和54年,詞:吉川静夫,曲:渡久地政信,唄:三沢あけみ
「女の歓喜(よろこび)おしえた貴方(ひと)が」と始まる歌。
タイトルは「わかれ酒」だが,「生きてる限りは 忘れはしない」「酔うほど心に 浮かびます」と,別れた後に想い出と共に飲んでいる酒の歌だ。
タイトルからは別れた直後の話のように感じられるが,直後ならもっと感情が高ぶっているのではないだろうか。雰囲気からは別れてから時間が経っているように感じる。いろんな思い出のなかで良い思い出と別れたという結末だけが思い出されているように感じる。
別れても好きな人(2014.9.18)
昭和54年,詞:佐々木勉,曲:佐々木勉,唄:ロス・インディオス&シルヴィア
「別れた人に会った わかれた渋谷で会った」と始まる歌。第22回レコード大賞ロングセラー賞を受賞した。
時代的には『銀恋』1)に次ぐデュエットの定番曲だろう。時代のせいだろうが,『銀恋』に比べて少し軽いアバンチュールのようにも感じられる。この印象はメロディーから来るものだ。
1)「銀座の恋の物語」(昭和37年,詞:大高ひさを,鏑木創,唄:石原裕次郎/牧村洵子)
忘れてほしい(2023.10.22)
昭和54年,詞:遠藤実,曲:遠藤実,唄:渥美二郎
「ごめんなさいあなた 昔に戻る」と始まる。
「わたしにあなたは きれい過ぎます」と別れて行く歌。
「もう一度女に 生まれるならば きれいなままで あなたにあげる」と終わるのだが,「きれいなままで」が昭和らしい。平成ではこのような感情は薄れて来たのではないか。大正時代は知らないが、明治の元勲などでもそんなことは大して気にしてなかったように思う。
とはいえ,「あなたは きれい過ぎます」などというのは本心ではないのではないか。愛想を尽かしたのだが,それをオブラートに包んで言葉にしたというのが本当ではなかろうかという気がする。この女性にはその程度のしたたかさはありそうだ。
私に人生といえるものがあるなら(2016.9.9)
昭和54年,訳詞:笠木透,曲:アメリカ民謡,唄:高石ともや&ザ・ナターシャ・セブン
「私に人生といえるものがあるなら あなたと過ごしたあの夏の日々」と始まる歌。原曲のタイトルは「Faded Roses」。
「あなたは消えた」「なぜかわからない」。「あの日に帰りたい」という歌だ。
当時は忙しくしていて,このような感傷的な歌を聞いている暇がなかった。歌を聴くのは車で移動中くらいだった。本当に忙しい,・・・生きるのに精一杯のときは感傷的になっている暇がない。
『小人閑居して不善をなす』という言葉があるが,暇があると感傷的になることもある。学生時代の試験期間中などのように忙しいはずの時期でもしばしば感傷的になったり,小説を読みたくなったりしたことがある。これらは不善とまではいかないと自分では思っているのだが,結局,忙しいというのは建前で,もちろん余裕があるわけではないのだが,本当の忙しさではなかったのだ。社会人には本当に忙しい時期があることを知ったのがこの頃だ。
I’m in the Mood for Dancing(2019.11.2)
昭和54年,詞:Findon-Myers-Puzey,曲:Findon-Myers-Puzey,唄:The Nolans
「I’m in the mood for dancing, romancin’」と始まる歌。
踊り明かしたいという雰囲気が溢れている。曲調は異なるが盆踊りの雰囲気があり,日本人に合うのではないか。
子供の私に染み込んだのは『炭坑節』だ。小学校の運動会では毎年『新四日市音頭』を練習した。いつの間にか『大四日市祭音頭』に変ったようだが,最近はこれもあまり聞かない。そういえば,これは歌だが,八幡市に住んでいた時には学校で『八幡市歌』というのを練習したし,四日市市の学校では『四日市市歌』というのを練習したが,最近は聞いたことが無い。若い頃(自分で旅行できるようになってから)あちらこちらの盆踊りに行っていた時期があった。盆踊りの歌は地域によって曲調の異なるものがあるが,多くの場合は雰囲気が似ている。この歌には盆踊りと同じような心を感じるのだ。
踊りの音楽でも,フラメンコのように盆踊りと全く似ていない音楽も多数ある。