明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明)
昭和33年〜
昭和33年 赤い夕陽の故郷,明日は明日の風が吹く,おーい中村君,お座敷ロック,思い出さん今日は,俺は淋しいんだ,女を忘れろ,からたち日記,銀座九丁目水の上,月光仮面は誰でしょう,好きな人,凧々あがれ,ダイナマイトが百五十屯,だから云ったじゃないの,泣かないで〔さよならとさよならと〕,西銀座駅前,花笠道中,羽田発7時50分,星は何でも知っている,待ち呆けさん,無法松の一生,夕焼けとんび,夜霧の滑走路,夜がわらっている,別れたっていいじゃないか,別れの燈台
昭和34年 哀愁のからまつ林,浅草姉妹,あれから十年たったかなァ,潮来船頭さん,大川ながし,大利根無情,おもいで日記,お別れ公衆電話,可愛い花,黄色いさくらんぼ,ギターを持った渡り鳥,銀座旋風児,黒い落ち葉,黒い花びら,グッド・ナイト,古城,サッちゃん,死ぬほど愛して,少年ジェットの歌,白い小ゆびの歌,情熱の花,誰よりも君を愛す,忠太郎月夜,爪,東京ナイト・クラブ,南国土佐を後にして,ひとみちゃん,まぼろし探偵,山に祈る,山の吊橋,夜霧に消えたチャコ,夜霧の空の終着港(エアー・ターミナル),夜空の笛,ローハイド,Rawhide
赤い夕陽の故郷(2013.9.24)
昭和33年,詞:横井弘,曲:中野忠晴,唄:三橋美智也
「おーぃ」と一声あり,「呼んでいる呼んでいる赤い夕陽の故郷が」と始まる歌。
三橋美智也の歌で私が知っている歌は,故郷がらみが多いような気がする。調べれば実際は違うのだろうが,印象では故郷を偲び,最後は母親のことを思って終わる印象なのだ。この歌でも,2番では「懐かしい面影」とか「二人の夢」などという言葉がでてきて,ひょっとしたらと思わせるが,結局は「雲よ行くならおふくろさんに」と母親への思いで終わっている。
ところで,雲は大抵西から東へ流れて行く。故郷が東にあるというのは現在どの辺りにいるのだろうと思う。これは今,初めて気づいた点で,当時は全く気付かなかった。単純に故郷を偲ぶ歌だと思っていた。
東京や大阪など,日本の南北で言えば中央付近,東西で言えば東側に大きな都会があり,当時はそのような大都会に職を求めて出る若者が多数いた。
明日は明日の風が吹く(2024.12.3)
昭和33年,詞:井上梅次,曲:大森盛太郎,唄:石原裕次郎
「風はきままに 吹いている 鳥はきままに 鳴いている」と始まる。
同タイトルの日活映画の主題歌。
誰かが言っていた。裕次郎の映画のほとんどは裕次郎人気に支えられただけのB級映画だとか。私は,この歌の歌詞も曲もB級だと追加しておこう。
念のために言っておく。私はこのようなB級作品が好きなのだ。
高級和洋中華は好き嫌いが言えるほど食べた経験がないが,B級グルメはいろいろ食べている。芥川賞作品より,直木賞作品のほうが好きだ。(直木賞がB級という意味ではないが。)クラシックより演歌が好きなのだ。
この曲だが,メロディを聞くだけで石原裕次郎や小林旭の時代が思い出される。歌詞も、1番に風・鳥が登場すれば2番は雲・月ということで何の新しさもないが,安心していられる。
「意地と度胸の 人生だ」とか「後へはひけぬ 男の意地だ」など当時の日活映画の雰囲気が出ている。意地や度胸という言葉は同じでも後の東映映画などとは少し違う気がする。
おーい中村君(2012.4.18)
昭和33年,詞:矢野亮,曲:中野忠晴,唄:若原一郎
「おーい中村君 ちょいとまちたまえ」で始まる歌。いつも一緒に飲みに行っていたのに,結婚したら伝書鳩のように帰るなあ,たまには付き合えよ,嫁さんには俺が謝ってやるからさ,というような歌。
いつごろまでだろうか。最も手軽な憂さ晴らし・楽しみは酒を飲むことだった。飲む・打つ・買うのうち飲むのが最後に残ったのだ。盆と正月,それに祭りのときはおおっぴらに沢山飲め,普段でも何かと理由をつけて・・・時には・・・時にはではないかもしれないが・・・理由もなく飲んだものだった。次第に皆豊かになり,自家用車を持ったり,他のレジャーに金がかけられるようになり,飲む文化は廃れていった。
文化は地域や階層によって異なる。いろんな文化があった。
昔は宴会の途中で飯を食う奴はいなかった。いまでも大抵,料理の最後にご飯類は出される。飯を見ると,これでお開きかという印象で感じが悪い。
酒で遊ぶ奴がいる。私は先輩から,酒はあるだけ飲んでもいいが,こぼしたりしてはいけないと教えられた。ビールかけや一気飲みはもってのほかだ。まあ,一気飲みにちかい飲み方はないでもなかったが,それは少ない酒で酔うためだった。すきっ腹で飲むのも,酒が五臓六腑に染み渡るというのもあるが,大量に飲まなくても酔いやすいからだ。
「お流れ頂戴」の文化も壊れているようだ。まあ,私もこのような店には行く機会がないからかもしれない。インターネットで「お流れ頂戴」を検索してみても,私の学んだ文化とは違う説明がなされているのでどうしようもない。
そういえば,宴会の最後にはコップや杯にビールや酒を少し残し,飲みきれないほど頂きましたと形で示すのが主催者への礼儀だった。料理が少し残っているのも,食べきれないほど頂きましたという意味だった。今では何となく様子が違うように感じる。
お座敷ロック(2021.9.3)
昭和33年,詞:関沢新一,曲:米山正夫,唄:五月みどり
「一目惚れした お座敷で 窓のネオンも 赤い顔」と始まる。
三味線も小唄も踊りもダメだが「まことがありゃ それでいいんでしょ」という歌のようだ。
「いやな客にも 笑い顔 芸者ぐらしよ ゆるしてね」とか言っているが「まこと」なんぞありゃしないように感じてしまう。
思い出さん今日は(2018.2.5)
昭和33年,詞:星野哲郎,曲:古賀政男,唄:島倉千代子
「目隠しした手を優しくつねり」と始まる歌。
島倉にしては珍しくハッピーソングかと思ったが,最後は「あの日は遠い夢だもの」と思い出の歌だった。よく見るとタイトルからそう書いてある。「雨の舗道で泣いている」とはあるが,島倉にしては楽しそうに唄っている。思い出を楽しんでいるようだ。
俺は淋しいんだ(2013.8.5)
昭和33年,詞:佐伯孝夫,曲:渡久地政信,唄:フランク永井
「赤い灯 青い灯 ともる街角に」と始まる歌。
「あの娘を捨てて 俺は行く」というのは「赤い灯 青い灯 ともる街角に あの娘を捨て」るのか,「赤い灯 青い灯 ともる街角に 俺は行く」というのか,この部分だけを聞いただけでは判らない。「赤い灯青い灯」で「街角」とくれば単なる街のネオンではなく,赤線・青線をイメージするのは私だけではないと思う。そのようなところに「あの娘を捨てて」という前者はありえない,特に私のイメージでは清純路線の佐伯孝夫にはありえないと思うのだが,歌詞の他の部分を総合すると自分が街に行くのではなく,街にあの娘を捨てるようだ。
もっとも,佐伯孝夫に対する私のイメージは橋幸夫や吉永小百合の歌などから植え付けられたようだ。佐伯孝夫はいろんな詞を書いている。
もちろん,この歌が流行っていたころ私がこのように感じていたわけではない。訳もわからず聞いていただけだ。「さようならさようなら俺は淋しいんだ」というフレーズが印象的だった。当時の社会をよく知っていなければ,この歌詞は十分には理解できないようだ。
女を忘れろ(2021.1.8)
昭和33年,詞:野村俊夫,曲:船村徹,唄:小林旭
「ダイス転がせ ドラムを叩け やけにしんみり する夜だ」と始まる。
「忘れろ 忘れろ 女なんかはヨ」という歌。
「呑んでくだ巻け」などとあり,酔い潰れる寸前かとも思わせるが,小林の澄んだ高い声は爽やかで「荒れてみたいぜ 荒れさせろ」とあっても荒れている雰囲気は全くない。
『酔ってない』というのは酔っている証拠。「荒れてみたい」というのは荒れていない証拠だろう。
スクリーン内の小林同様,粗野なのは表面だけらしい。
からたち日記(2011.9.21)
昭和33年,詞:西沢爽,曲:米田信一,唄:島倉千代子
細いが張りのある声が印象的だった。
「からたち からたち からたちの花」と「日記」という歌詞は出てこないので,「くちなしの花」などとの混同で「からたちの花」というようなタイトルかと思ってしまう。松竹映画の主題歌らしいので,映画を観ていれば「日記」というタイトルも納得できるものなのだろう。
当時は映画の全盛期だった。松竹のほか,日活・大映・東映・東宝・新東宝など多数の映画会社があった。大映や東映はプロ野球球団も持っていた。大映はパリーグだったが,7球団あったパリーグを6球団にして試合ができない球団をなくすために,昭和32年,最下位チームを消滅させるということで消滅してしまった。
この頃になるとテレビの歌番組を観ていたような記憶があるが記憶違いかもしれない。玉置宏の司会のイメージが強いが番組名も覚えていない。「一週間のご無沙汰です」と「お口の恋人ロッテ」というフレーズを思い出すので「ロッテ歌のアルバム」だったのだろうか。積極的に観るというより,他に観たい番組がないときに観ていたのだろう。
銀座九丁目水の上(2016.6.5)
昭和33年,詞:藤浦洸,曲:上原げんと,唄:神戸一郎
「夢の光よシャンデリア」と始まる歌。
「銀座九丁目は水の上」というフレーズが印象に残っているが,当時の私は歌詞の意味を理解していなかっただろう。その後懐メロ番組などでも聴いた記憶はなく,私にとってはワンフレーズしか記憶がない歌だ。
現在,歌詞を読んでみると,外国航路の船の上の話のようだ。銀座に土地勘もなく,当時銀座付近にこのような船が停泊していたのかどうかも全く知らない。
月光仮面は誰でしょう(2016.2.8)
昭和33年,詞:川内康範,曲:小川寛興,唄:近藤よし子,キング小鳩会
「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている」と始まる歌。
KRテレビ(現TBS)系で放映された川内康範原作の連続テレビ映画「月光仮面」の主題歌。
大瀬康一演じる私立探偵祝十郎が月光仮面だということは誰もがみんな知っていただろうが,設定ではクラーク・ケントとスーパーマンが同一人物(宇宙人?)だということ同様,周囲の人は知らないことになっていた。・・・・月光仮面はスタントマンが演じていた箇所もあるらしいので,そういう意味の「誰でしょう」という川内の遊び心だったというのは考え過ぎだろう。
大瀬康一はこのとき21才のはずだ。歌詞には「月光仮面のおじさんは」となっているが,視聴者として想定していた年齢層から見れば21才は当時も今も十分オジサンだろう。当時は子供はオニイサンなどと呼ばずに,見えたとうりに,素直にオジサンと呼んでいたのだ。
大人の目からみれば,低予算で作られた映画だということは明らかだっただろうが,子供たちには大人気番組だった。普通の番組だと思ったが,子供に視聴させることが好ましくない番組と言われていたらしい。
月光仮面は颯爽とオートバイで登場するが,これはホンダ・ドリームC70である。これは空冷4サイクル2気筒250tである。ホンダは昭和35年のドリームCB72までは型名としてモデル番号を使っていたのではないかと思うが,以降はCB250やCB750などのように数字はおおよその排気量を示すようになった。
好きな人(2020.4.12)
昭和33年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:藤本二三代
「夜霧の中の 影の様に 涙の中に 浮かぶ顔」とはじまる。
「わたしがこんなに 愛していると なぜなぜあなたは 知らないの」という歌。
いろんな言葉が使われているが,いまひとつ感情移入ができないのは「あなた」がどんな人物なのか全く想像できないからではないか。架空の相手に対して好きだ好きだといっているように感じてしまう。
凧々あがれ(2018.7.4)
昭和33年,詞:松村又一,曲:遠藤実,唄:藤島桓夫
「村の噂がつらいなら」と始まる歌。
「凧凧あがれ 天まであがれ」ぐらいしか鮮明な記憶がないが,「一旗揚げずにおくものか」と「恋し故郷よ しばしの別れだ」という歌。
田舎では仕事がなくてどうにもならない。都会に出ればなんとかなるのではないかということだろう。
ダイナマイトが百五十屯(2013.6.8)
昭和33年,詞:関沢新一,曲:船村徹,唄:小林旭
「烏の野郎どいていな とんびの間抜けめ気をつけろ」と始まる歌。
三橋美智也の歌を例外として,一般には歌の出だしから高音で入るというのは歌謡曲には少ないと思うが,この歌は珍しく高音から始まる。「ダイナマイトがヨーホホホォダイナマイトがひゃくごじっトン」のフレーズが印象的。
最近では『十手』のように『じって』というように発音されていたものが『じゅって』のように発音されることが多くなったようだが,小林旭は「ごじっとん」と発音している。
歌詞ではダイナマイトをかんしゃく玉だといっているが,かんしゃく玉は最近これで遊んでいる子供を見たことがない。私が子供の頃は,かんしゃく玉を学校に持ってきてはいけないとか,ポケットに入れて遊んでいてはいけないとか関連の注意が小学校で何度も聞かされたように思う。
子供が遊ぶ火薬は,もちろん花火はあったがこれは夏の夜しかやらないものだった。2B弾というのは昼間遊んだ。これは頭がマッチの頭のようになっており,マッチ箱でこすって火をつけるとしばらくして爆発するもので,本格的な戦争ごっこをするには迫力満点だが,人に向かって投げつけるのは禁止されていた。水に投げ込んでも爆発して,水柱があがるので,私がよく遊んだのは模型の戦艦を池に浮かべてそれにむかって投げつける遊びだった。友人と互いに相手の船に向けて投げつけあうのだ。プラモデルというのはまだなかったので,模型の船というのは全て木製だった。動力はゴム。電気モーターはあったがマブチモーターが出る前で(少なくとも私たちの手に入る前)で,モーターの力は弱かった。焼玉エンジンはあったが,もっと年上で資金力のある者しか使えなかった。
よく遊んだと書いたが,2B弾は私の小遣いで買うには高く,これは完全に消耗品なので,そう頻繁に遊べたわけではない。電池ももちろん充電式ではないので,電池を使わないヨットなどでもよく遊んだ。
ただ,池の真ん中で動力がストップしたときは大変だった。風で岸に吹き寄せられるのを待ちつつ,石を投げて波で船を岸に近づけようとするのだが,なかなか上手くはいかなかった。あとは長い棒とか紐の先に石をつけたものを使った。もちろん小さな池なのでどうにもならなくなったことはない。
他の火薬といえば,おもちゃのピストル用の火薬である。よく使ったのは小型連発拳銃用のロール火薬だ。ロール火薬と書いたが,正式名称は知らないし,当時何と呼んでいたのかも記憶がない。弾丸は出ないのに弾とよんぢたかもしれない。運動会のスタートピストルはもっと大きかったがこれも火薬を使っていた。一発(2連発だった。フライングがあると続けて撃てる。)づつ火薬を装てんする。この火薬を,量を減らして帯状に連結したものをロールにしたもので,引き金を引くと撃鉄が火薬を打って音,煙,臭い,少しの光などが出る。ロール火薬を使う拳銃はいわゆるダブルアクションに近いかたちで,引き金を引いていく途中で自動的に撃鉄が持ち上がると同時に新しい火薬がセットされるようになっていた。
爆竹とかクラッカーは見たことがなかった。恐らく無かったのだろう。
だから云ったじゃないの(2012.6.26)
昭和33年,詞:松井由利夫,曲:島田逸平,唄:松山惠子
「あんた泣いてんのね」と一言あって直ぐに,「だから云ったじゃないの」と始まる歌。
客の言葉を真に受けて待っているがその客は来ない。ママと女の子ひとりくらいの港町の小さな酒場・・・というイメージだ。
この前後,船乗りに関する歌がいろいろあった1)。船乗りを渡り鳥にたとえ,港町の酒場の女とのロマンスなど,沢山あったと思うのだが具体的には思い出すものが少ない。この歌にはカモメが出てくるが,客を渡り鳥ではないカモメにたとえているのだろうか。そういえば,船員や旅人を渡り鳥にたとえても雁とか燕とか具体的な鳥にたとえた例を直ぐには思い出さない。渡り鳥のなかに,ペンギンのように空を飛ばない「マドロス」という種類がいるかのようだ。
もっとも,陸を旅する渡世人は旅鴉と言った。
1)「港町十三番地」,昭和32年,詞:石本美由紀,曲:上原げんと,唄:美空ひばり
「俺は待ってるぜ」,昭和32年,詞:石崎正美,曲:上原賢六,唄:石原裕次郎
「霧笛が俺を呼んでいる」,昭和35年,詞:水木かおる,曲:藤原秀行,唄:赤木圭一郎
泣かないで(2012.12.10)
昭和33年,詞:井田誠一,曲:吉田正,唄:和田弘とマヒナスターズ
「さよならとさよならと街の灯りがひとつずつ」と始まる歌。同じタイトルで異なる歌が他にも複数あるが・・・。ここで取り上げているのは「明日の晩もあえるじゃないか」と終わるムード歌謡である。スチールギターの音を聴くとマヒナスターズを思い出す。そしてマヒナスターズといえばボーカルの松平直樹だ。クールファイブの前川清や東京ロマンチカの三條正人のようなものだ。いずれもリーダーよりずっと目立っている。
「霧が流れるビルの影」とあるのでかなりの都会だろう。と言っても今のような高層ビルではないだろう。「車を早くひろおうよ」とタクシーに乗るようだ。このころは乗用車は極めてと言っていいほど少なかった。私は子供だったのでタクシーに乗るなどは急病にでもなって病院に連れて行かれるのに乗ったくらいではなかろうか。実際にはそのような急病はなかったし,急病のときは医者が自家用車で往診してくれていた。近所には,私の知る限りでは業務用のオート三輪は何台もあったが,乗用車はこの医院に1台・他に1台計2台しかなかった。後のバブルの時代には高校生くらいでもタクシーを利用したりしていたようだが,私は高校生になっても,バスに乗り遅れたり,満員で積み残されたりしたら走ったものだ。
当時,わたしの家の近くで,ビルといえそうなのは,病院と銀行それぞれ1軒づつしかなかった。私は小学生なのだから,この歌のような状況になる可能性はまったくなかったが,もっと大人になっていても,街の様子はこの歌のようではなかった。住んでいた市の中心街は私の行動範囲からは外れていたので,市の中心にはビルも建ち,タクシーも流していたのだろう。中学生になって行動半径が広がると,警察や銀行でビルといってよいようなものが市の中心部にはあることを知った。自宅の最寄駅は木造の小屋のようなものだったが,市の中心部の駅は鉄筋コンクリートだったように思う。通常は自宅の最寄駅の駅前商店街で日用品は揃い,貸本屋などもあったのでそれで十分だった。
西銀座駅前(2016.12.17)
昭和33年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:フランク永井
「ABC XYZ これは俺らの口癖さ」と始まる歌。
刺激を求めて地下鉄で西銀座へと来た男の歌。「恋は苦手の淋しがりや」といっているが,この言葉には観念的な恋への憧れが隠れていそうに感じる。「若い二人はジャズ喫茶」へ向かっているらしいが,自分は馴染の「クラブ」に行くのだろう。
当時の私はお子様ランチにあこがれる精神年齢だったかもしれない。この歌が何を歌っているのか理解できなかった。実は今でも本当の所はよく解らない。
花笠道中(2013.4.6)
昭和33年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり
「これこれ石の地蔵さん西へ行くのはこっちかえ」とはじまる歌。一番では地蔵さんに尋ねるが,二番では案山子さんにたずね,「だまって居ては判らない」と冗談っぽく文句を言う。「いとし殿御」というのが三回現れ,「こころの中は」判らないようだが何となくウキウキしている若い娘の様子が良く出ている。後のひばりは貫禄がありすぎるが,この頃はまだまだ可愛い娘だった。いろんな種類の歌を唄いこなす美空ひばりはやはり天才なのだろう。
この年,日清食品が「チキンラーメン」を発売する。初のインスタントラーメンである。東京タワーが完成し,読売ジャイアンツの長島茂雄がデビュー戦で国鉄スワローズの金田正一に4打席連続フルスウィングで三振を喫したが,夏にはジャイアンツの4番を打つことになる。
巨人・大鵬・卵焼き,巨人といえばONだ。長島に国民栄誉賞を授与するのに反対する人間はいないだろう。美空ひばりも平成元年に授与されている。
羽田発7時50分(2013.2.4)
昭和33年詞:宮川哲夫,曲:豊田一雄,唄:フランク永井
「星も見えない空淋しく眺め」と始まり「ああ羽田発7時50分」と終わる歌。当時どの程度のヒットだったのかわからないが最後の部分だけを覚えている。
戦後の日本では連合国による航空禁止令のために民間人を輸送するための航空会社の設立はみとめられていなかった。ノースウエスト,パンアメリカン,英国海外航空,カンタス等7社の乗り入れがあったが,全て連合国の航空会社であった。日本の航空会社ができたのは昭和26年の日本航空である。東京−大阪1日3往復だ。料金は6,000円で,これは大卒初任給程度の高額である。昭和26年には国鉄初乗り運賃が5円から10円に変わった年である。初乗10円というのは昭和41年に20円になるまで続く。
昭和33年には,国鉄は東京―大阪間に特急「こだま」を投入する。もちろん新幹線の開通どころか予算すらついていない時代なので在来線である。所要時間は6時間50分だった。それまでは特急「つばめ」または「はと」で東京−大阪間は7時間30分かかっていたのだ。運賃は990円,特急料金が800円だった。昭和39年に新幹線ができて「ひかり」で4時間の距離になるが,料金も次第に上がってくる。昭和39年には運賃1180円,「こだま」の特急料金1100円,「ひかり」は1300円(何れも2等料金)であった。昭和40年には「ひかり」を3時間10分に高速化し,再度値上げになる。
昭和33年頃は,飛行機に乗るなど一般人には夢のまた夢だっただろう。
星は何でも知っている(2012.8.16)
昭和33年,詞:水島哲,曲:津々美洋,唄:平尾昌晃
「星は何でも知っているゆうべあの娘が泣いたのも」と始まる歌で,「あの娘を泣かせたのはおいらなんだ・・・」と台詞が入る。
平尾はロカビリー三人男1)の一人として有名だった。日劇ウェスタンカーニバルの熱狂的なファンの映像が今でもテレビで流れることがある。平尾の唄で「ダイアナ」2)や「恋の片道切符」3)などを聴いた。当時は渡辺プロの歌手が多数外国の歌を日本語訳で唄っていた。
平尾はその後作曲家としての活動に重点を移し数多くのヒット曲を生み出している。
1) ミッキー・カーチス,山下敬二郎,平尾昌晃
2) 「ダイアナ」(昭和33年,詞:P.Anka,訳:音羽たかし,曲:P.Anka,,唄:平尾昌晃
3) 「恋の片道切符」(昭和35年,詞:音羽たかし,曲:Hunter・J.Keller,唄:平尾昌晃
待ち呆けさん(2019.12.11)
昭和33年,詞:星野哲郎,曲:浜口庫之助,唄:島倉千代子
「ちん ちん 鎮守の鳥居の陰で 待ち呆けさん」と始まる歌。
からたち日記のB面。
「どこかで狐が コン コン」と「あれほど約束しておいて」タイトル通り待ち呆けだ。「しのび泣き」などと言っているが,詞も曲もコミカルなので「肝は冷えるし 淋しゅはあるし」とはあるが,苛立ちや悲しみはあまり感じられない。
無法松の一生(2012.10.13)
昭和33年,詞:吉野夫二郎,曲:古賀政男,唄:村田英雄
「小倉生まれで玄海育ち」という歌。時代は明治から大正にかけて,人力車夫松五郎と陸軍大尉吉岡の遺族(未亡人と息子)との交流を描いた話。「泣くな嘆くな男じゃないかどうせ実らぬ恋じゃもの」という一節から少しだけ事情がわかるとはいえ,歌詞には太鼓がでてくるだけで,歌詞からだけではほとんど事情がわからない。経緯の説明をすることはできないが,要するに松五郎は二人に対する秘めた思いを込めて祇園太鼓を叩くのである。無法者の純愛物語である。
坂本冬美1)も悪くはないが,同じ主題で比べるなら,僅差で村田に軍配を上げよう。
小倉祇園祭に行ったことがあるが,そのときは新幹線だった。無法松に思いをはせるより,ただ暑かったという記憶が残る。その上このときは新しい靴を履いていて,それが微妙に痛かったのが歩くにつれて次第に痛みが増し,散々だった。
関門国道トンネルの開通がこの昭和33年である。
1) あばれ太鼓(昭和62年,詞:たかたかし,曲:猪俣公章,唄:坂本冬美)
夕焼けとんび(2012.1.30)
昭和33年,詞:矢野亮,曲:吉田矢健治,唄:三橋美智也
「夕焼け空がマッカッカ」で,別れた兄を想う歌。歌詞からは兄ちゃは東京へ行ったらしい。高度成長期には田舎から都会へどんどん若者が出て行った。新幹線もなく,簡単に故郷に帰ることはできなかった。
この年,本田技研工業からスーパーカブが発売される。その前にはカブという自転車につけるエンジンを販売していた。当時の原動機付自転車とは文字通り自転車にエンジンを後から追加でつけたものだった。陸王を筆頭に大型のオートバイはあった。小さなものでは125ccクラスもあった。125cc以下が原動機付自転車と分類され50cc以上は第2種,50cc未満は第1種原動機付自転車だった。似たようなのに125cc〜250ccくらいのスクーターというのがあった。正式な区別は知らないがどちらも二輪車で,私は以下のように区別していた。オートバイは車輪が大きく,馬のように跨るもので,クラッチレバーを使ってギヤチェンジしながら走る。スクーターは車輪が小さく,椅子に腰掛けるように乗り,遠心力を利用した自動クラッチ・自動変速である。
スーパーカブは原付らしい原付ではなく,最初からエンジン付で設計されたオートバイとスクーターの間のような新種の二輪車だった。多分,自動クラッチだがミッションは足で操作していたと思う。当時は免許も持っておらず,実際に真近に見たわけでもなく,専門雑誌を見たわけでもないが何となくそのように覚えている。
自転車に竹を挿して遊んでいたのはこの頃ではないだろうか。もう少し前かも知れない。
何のことか解らない人のために説明すると,割った竹はよく撓う。これを車体に固定して一端を車輪の中に差し込んでおくと,車輪の回転と共にスポークに押されて撓り,これが外れて次のスポークに当たるときに音がでる。車輪の回転にあわせてタタタタタタ・・・と音がでる。この音をエンジン音に見立てるのだ。もちろん抵抗は増えるが原付に乗っているような気分が味わえるというお話。
日本の技術は物まねばかりという人もいたようだが,スーパーカブなどは物まねとは決して言えない独自技術である。
夜霧の滑走路(2022.9.17)
昭和33年,詞:横井弘,曲:飯田三郎,歌:三船浩
「いま一度 もう一度 ただ一度 君に逢いたい」と始まる。
空港での別れだが,「君をかくして ひっそりと 泣いているやら 窓灯り」とあり,君は既に機中に在るようだ。「霧が埋(うず)める あゝ 滑走路」と終わる。
当時の航空運賃は極めて高価だったので,私には無関係の別世界の話だった。
私が現役で勤務していたころ,当初は北海道への出張などは列車だった。飛行機を使う場合には飛行機を使わなければならない理由を書いて申請し,事前に許可を受ける必要があった。それが,青函連絡船が廃止される頃からだろうか,北海道へは飛行機での出張が基本になり,列車を使う場合にはその必要性の理由を付し,事前申請しなければならなくなった。航空運賃が下がり,各種特急などができるなど,列車の運賃が高騰したせいだ。
夜がわらっている(2023.11.28),
昭和33年,詞:星野哲郎,曲:舩村徹,唄:織井茂子
「酒があたいに惚れたのさ ふられたあたいに 惚れたのさ」と始まる。
「きらいさ きらいさ 酒なんて大きらいさ」,「きらいさ きらいさ 愚痴なんて 消えちゃいな」,「きらいさ きらいさ 恋なんて まッぴらだ」とあるところなど昭和中期の歌を感じさせる。
このころ,終戦直後の耐乏生活は終わったとはいえるだろう。しかし,私が住んでいた地域の特性もあるだろうが,学年で数えるほどの別格金持ちを除けば,皆貧しかった。まわりを見ても皆同程度に貧しいので子供の私には貧乏の自覚はなかったが。
しかし,産業界では,昭和31年度の経済白書のなかに『もはや戦後ではない』との言葉があり,これが流行語になった。
昭和31年には,川崎市・四日市市・岩国市・新居浜市に石油コンビナートを建設することが決定された。昭和33年に三井化学・岩国が最初に稼働を始め,以下順次稼働を開始する。
昭和23年に米国のベル研究所で発明されたトランジスタだが,日本でも技術導入して研究・製造がはじめられた。昭和29年,東京通信工業がトランジスタを発表したときに初めてトランジスタを「石」と表すことが決められた。(真空管は「球」と呼ばれ,「球」の数で税金が異なったため,税金対策としてダイオードは「石」に含めないこととした。)
トランジスタラジオの開発がすすめられ,それまでの真空管式ポータブルラジオ製造会社が昭和32年頃には多く倒産し,昭和35年第4四半期に絶滅した。東京通信工業が社名をソニーと変更したのは昭和33年である。
別れたっていいじゃないか(2015.4.20)
昭和33年,詞:西條八十,曲:上原げんと,唄:神戸一郎
「別れたっていいじゃないか 泣くこたぁないじゃないか」と始まる歌。
自分自身に言い聞かせている歌だろう。「花もしぼむさ 小鳥も死ぬのさ」とニヒルな感じを漂わせているが最後は「男涙は黙って流すさ」と『愛別離苦』の苦しみから逃れようとして逃れることができないでいる男の歌であることが解る。
このような苦しみは人間であるからこその苦しみであり,『煩悩即菩提』と言ってよいのだろう。ここでの『即』は『=』の意味ではない。念のため。
別れの燈台(2020.9.11)
昭和33年,詞:高橋掬太郎,曲:吉田矢健治,唄:春日八郎
「別れ 別れ辛さに 唇かめば」と始まる。
「旅ゆく鳥も いつか帰るよ 故郷の空へ」それなのに,自分はいつ帰ることができるのだろう。「逢わずにいよが 変らないのが 男のこころ」というのだが,当時は今に比べて時間がゆっくり流れていたのだろうと感じる。なによりも曲がゆったり流れている。
今,人生は長くなったはずなのに,毎日を忙しく生きている。平成の歌には早口言葉のように歌詞を早口でまくしたてる歌が少なくない。
もっとも時間がゆったちと流れていたのは時と場合による。船乗りのようだから,毎日のルーチン作業のときにはゆったりとした時間が流れていたかもしれないが時には超多忙な時間も過ごしたのだろう。
哀愁のからまつ林(2017.12.4)
昭和34年,詞:西沢爽,曲:船村徹,唄:島倉千代子
「涙あふれて はり裂けそうな 胸を両手で 抱きしめる」と始まる歌。
詞はどんな理由で別れたのかを伏せ,ただ去って行った男のことを想っていることだけが述べられている。そこには詳しい訳は不明だが哀愁だけが漂い,泣き節と言われる島倉の声と歌唱法がこの歌とよくマッチしている。
浅草姉妹(2013.3.25)
昭和34年,詞:石本美由起,曲:遠藤実,唄:こまどり姉妹
「なにも言うまい言問橋の水に流した」と始まる歌。こまどり姉妹のデビュー曲である。洋のザ・ピーナッツと和のこまどり姉妹は女性デュオの草分けだろう。『困った困ったこまどり姉妹』1)など吉本芸人のギャグにも名を残している。
曲は当時としても『古い』と感じさせる曲である。詞も私には強く訴えるものはなかった。私の実生活とは違う世界の話だと感じていたのだろう。発表当時はほとんど関心をもっていなかった。『ソーラン渡り鳥』2)のヒット後,こんな歌もあったのかと聴いたのがこの歌だ。そのときの感想は『ソーラン渡り鳥』のほうが私の好みに合うだった。
和菓子でも洋菓子でも美味しいものは美味しいし,それぞれ新作もある。しかし,和菓子の新作は,目立たないように思う。和風でも洋風でも良い歌は良い歌なのだが,当時のわたしは洋風の歌により魅かれていた。
1) 島木譲二:他に「しまったしまった島倉千代子」「まいったまいったマイケルジャクソン」などが有名。「待った待った松田聖子」,「わかったわかった若乃花」などもある。
2) 「ソーラン渡り鳥」(昭和36年,詞:石本美由起,曲:遠藤実,唄:こまどり姉妹)
あれから十年たったかなァ(2022.8.13)
昭和34年,詞:矢野亮,曲:渡部実,唄:春日八郎
「暗い下宿の 四畳半」と始まる。
昔の想い出が語られ「ああ もう十年 たったかなァ」と終わる。
最後は「すぎてしまえば 早いもの」と「なつかしく 思い出し」やはり「ああ もう十年 たったかなァ」と終わる。
十年経ってこのような述懐とは。昔は時間がゆっくり流れていたようだ。
潮来船頭さん(2018.1.11)
昭和34年,詞:吉川静夫,曲:渡久地政信,唄:和田弘とマヒナスターズ
「あの娘十八 おいらは二十歳」と始まる歌。
「嫁に行くそな 東京の人に」「それでいいんだ いいんだよ」と運命には抗えないと諦める昭和の歌だ。
大川ながし(2019.12.3)
昭和34年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり
「月は東に 月は東に 陽は西に」と始まる歌。
大川端の宵の状況を歌ってはいるが,主題は「君と二人の エー 傘の中」ということだろう。このような状況であるからこそ,今宵見るもの皆いとおしという状況なのか。
曲の特徴は語尾の母音を伸ばすメロディーが多用されているところだと思うが,これは米山の好みなのかもしれない。語尾ではないが,挿入されている「エー」も長く,唄に自信がないと唄えないだろう。さすがひばりだ。
大利根無情(2012.11.28)
昭和34年,詞:猪又良,曲:長津義司,唄:三波春夫
「利根の利根の川風よしきりの」という歌。「止めてくださるな妙心殿,落ちぶれ果てても平手は武士じゃ・・・」などと台詞も入る。
私には玉川勝太郎の天保水滸伝が最も馴染み深いが,講談などでも有名な平手造酒だ。北辰一刀流の剣客平手は酒乱により御玉ヶ池の道場を去り,笹川繁蔵の客人となる。飯岡助五郎との出入りの知らせを受け,労咳静養中(でも止められている酒を飲んでいたが)の妙円寺から,止めるのを振り切って大利根河原に馳せ参じ,笹川方ではただ一人討ち死にする。病による死期を覚った平手が,最期に敵を引き付け用心棒としての役割を果たしたということであろうか。
昔は芝居や映画・小説・歌謡曲・浪曲・講談などのコラボレーションであったが最近は浪曲・講談はめっきり減り,代わりに,コミック・アニメ・ゲームなどが入っている。マルチメディアによる共作で広く人々に知られるのであろう。
おもいで日記(2017.12.20)
昭和34年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:島倉千代子
「指がつめたい人は心が燃えてるんだって」で始まる台詞が最初にある。
歌は「忘れな草の青い花」と始まる。
「きれいな恋の想い出だけを」とか「ここでさよなら いったっけ」あるいは「心変りをうらむより」などという詞から大よその状況は推察される。
島倉の声質は薄幸な女性を唄うのに合っている。
お別れ公衆電話(2012.10.2)
昭和34年,詞:藤間哲郎,曲:袴田宗孝,唄:松山惠子
交際を続けると男のためにならないと「なにも言わずにこのままそっと」姿を消すため「汽車に乗ろうと思った」はずだったのにいつのまにか電話をかけていた。携帯電話やテレホンカードなど無い時代で公衆電話だ。「飛んで来ないでそのまま居てよ逢えばもろくなる」別れの言葉をせめて電話で。プラットホームではベルが鳴る。
平成の歌をほとんど知らないが,このような状況は昭和の歌ではときどき見られるが平成では少ないのではないだろうか。携帯電話など無い時代のほうが人生の味わいが深かった。
可愛い花(2023.10.24)
昭和34年,詞:音羽たかし,曲:シドニー・ベシェ,唄:ザ・ピーナッツ
「プティット・フルール 可愛い花 その花のように いつも愛らしい」と始まる。
ザ・ピーナッツのデビュー曲。当時流行りだった外国ポップスの日本語でのカバー。
というか,ナベプロが流行らしたのだろう。この年の6月,フジテレビ系でザ・ヒットパレードという番組がスタートした。この頃まで,歌手・作詞家・作曲家はそれぞれレコート会社の専属で,歌手は同じ会社の作詞家・作曲家の歌を唄うことが普通だった。(映画俳優も各映画会社の専属だった。)ここからは私の想像だが,ナベプロの歌手が唄う歌がないので,外国の歌をカバーさせることにし,これを歌わせる場所としてテレビ番組を一つ作るというのが渡辺晋の計画だったのだろう。
レコード会社専属ではない歌手の初期のヒット曲には『黒い花びら』1)『ハイそれまでヨ』2)『恋のバカンス』3)などがある。
渡辺晋・美佐夫妻のどちらがどのような役割を果たしたのか,私の様な下界の人間には知る由もないが,昭和37年に渡辺音楽出版が設立され,この会社がフリーの作詞家・作曲家に曲作りを依頼し,渡辺プロダクションあるいは関係プロダクションに所属する歌手に唄わせ,レコード会社にレコード盤の制作のみを依頼するという方式が確立された。これによりレコード会社が専属の作詞家・作曲家・歌手でレコードを作るしかない時代が終わった。
1) 「黒い花びら」(昭和34年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄;水原弘)
2) 「ハイそれまでヨ」(昭和37年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:植木等)
3) 「恋のバカンス」(昭和28年,詞:岩谷時子,曲:宮川泰,唄:ザ・ピーナッツ)
黄色いさくらんぼ(2012.8.7)
昭和34年,詞:星野哲郎,曲:浜口庫之助,唄:スリー・キャッツ
「若い娘は うっふん お色気ありそで うっふん」という歌。「うっふん」の箇所が意味深だ。最初に惹くだけ気を惹いておいて,あとは知らん顔。ひょっとしたら変な想像したんじゃないの?などとシラバクレている歌。
星野がこのような詞を書くというのは少し意外だが,昔はこのような思わせぶりジャンルというようなものがあった。「大いたち」という看板に釣られて見世物小屋へ入ってみると大きな板に赤い液体が・・・というようなものである。お色気系を想像させておいて実はそうではないというものが多かった。なぞなぞ,替え歌などいろんなものがあった。温泉街などで,・・・裸の・・・写真とか言われて買ったのは良いが,期待して開けてみたら相撲の写真だったというような詐欺まがいのものもあった・・・かどうかは不明だが,このようなコントはあった。
ギターを持った渡り鳥(2013.7.25)
昭和34年,詞:西沢爽,曲:狛林正一,唄:小林旭
「赤い夕陽よ燃えおちて」と始まる歌。
小林旭の日活映画『渡り鳥シリーズ』を観ていた人には懐かしい歌なのだろうが,私はリアルタイムでは観ていない。
後にテレビでいくつかの映画を観た。日活映画専門?のケーブルテレビだ。当然のことながら,小林旭も浅丘ルリ子も若い!!もちろん宍戸錠も渡辺美佐子も若い。当時映画は観なかったが,映画スターの写真は雑誌で見ていた。自宅においてあった記憶はないので,恐らく床屋などで見たのだろう。
銀座旋風児(2018.2.16)
昭和34年,詞:吉沢ひかる,曲:小川寛興,唄:小林旭
「風が呼んでるマイトガイ」と始まる歌。
「銀座旋風児」は小林旭と浅丘ルリ子が共演した日活映画のタイトル。シリーズには松原智恵子との共演もある。映画は渡り鳥シリーズでは地方を渡り歩いていた小林旭の都会版。
この映画をケーブルテレビで観たことがあるが,私にとっては若い小林旭と浅丘ルリ子を見たことが収穫だった。
黒い落葉(2016.5.25)
昭和34年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:水原弘
「黒い落葉が夜の銀座を」と始まる歌。
『黒い花びら』1)のヒット後『黒い〜』がシリーズ化され,これはその第2弾だ。しかし『黒い花びら』のインパクトには到底及ばなかった。
この歌の歌詞には東京弁?の気取りが感じられる。永にしてみれば別に気取っているわけではないという意識だろうが,私などは気取ってると感じ,それだけで(自分で)唄うのが気恥ずかしくなってしまう。
私にとって水原弘は『君こそわが命』2)までは『黒い花びら』の歌手だった。
1) 「黒い花びら」(昭和34年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:水原弘)
2) 「君こそわが命」(昭和42年,詞:川内康範,曲:猪俣公章,唄:水原弘)
黒い花びら(2011.12.21)
昭和34年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:水原弘
第1回レコード大賞。「黒い花びら静かに散った」はいいのだが「今は亡いあのひとああ初恋」というのは水原弘とはミスマッチのように思う。「初恋」というのがイメージに合わない。当時はそのようなことは全く思わなかったが。
小学校から中学校へかわるときに転居した。川一つ隔てていて間にもう一つ中学の校区が入った校区なので自転車でいける距離だ。実際中学に入った当時は小学校の同級生の家に自転車で遊びにいったりした。この程度の距離なのだが,小学生時代の遊びは全くしなくなった。微妙に言葉も違っていたように思う。
小学生の頃,「ぐッぴッぱ」という遊びをよくした。
ジャンケンのことを「あいけん」といっていた。「じゃんけんぽん」と1小節ではなく,「あいけんもってやってほい」と2小節かけてじゃんけんをしていた。ジャンケンのときの掛け声はいろんなパターンを聞いたことがある。私の母親は「わんとーせ」と行っていたとのこと。現在住んでいるあたりで小学生が「さいしょはぐー・・・」とやっているのを聞いたこともあるがこれはテレビの影響だろう。
「ぐッぴッぱ」はあいけんで勝ったほうから攻撃開始。攻撃は,「ぐッ」「ぴッ」「ぱッ」のいずれかの掛け声と同時に「ぐー」「ちょき」「ぱー」を出す。防御側は同時に無言で「ぐー」「ちょき」「ぱー」のいずれかを出す。両者同じになれば攻撃側の勝ちだ。第1攻撃で勝負がつかなければ攻守交替。
なお「ぐッ」「ぴッ」「ぱッ」は掛け声であり,それぞれの拳を指す言葉は「ぐー」「ぴー」「ぱー」である。「ぴー」は人差指と中指だったか人差指と親指だったかあまり記憶がないが,後者のほうが多かったように思う。
足でやるのもあった。「ぐー」は両足をそろえ,「ぴー」は片足を後ろに上げた「けんけん」状態,「ぱー」は両足を開いて立つ形である。手をつかう「ぐッぴッぱ」は攻撃のタイミングが攻撃側の作戦で自由に選べた。守備側の意表をつくタイミングを見計らって攻撃できるのである。足でやるのは2回ジャンプ後攻撃であり,4拍子で勝負が進む。1小節で1勝負だ。手でやるときは攻撃の瞬間だけに掛け声を出すが,足のときは常時声が出ている。掛け声は覚えていない。記憶違いかもしれないがかすかに想い出す例を書いてみれば「ぐーぐーぱー休」と4拍子で3回ジャンプするのにあわせて「ぐつぐつばった」などである。「ぴー」にかんしては「みっき」などという言葉を思い出すが,いくつかの名前があったのか,適当に言っていたのか記憶がない。足でやるのを「ぐッぴッぱ」とは言わなかったような気がするので別の名前があったかもしれない。
3択対3択の勝負では,名前は忘れたが両手をつかうものもあった。「両手を挙げる,片手を下げる,両手を下げる」の3択である。手を挙げるといっても頭の上まで上げるわけではなく,肘だけ,動作を小さくする必要がある場合などは手首だけを動かす。攻撃側と同じ形になれば負けというルールなら「ぐッぴッぱ」と同じだが,二人合わせて上に2本の手が残れば攻撃側の勝ちというルールだったと思う。
グッド・ナイト(2014.1.17)
昭和34年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:松尾和子・和田弘とマヒナスターズ
「Good Night Good Night, Sweetheart Good Night」というコーラスがあってから,松尾和子が「なんでもない様に街角で」と唄いだす。気だるいような,退廃的にも聞こえる松尾和子の唄は,子供だった当時の私には理解できなかった。しかし,最後にもでてくる「Good Night Good Night, Sweetheart Good Night」は子供心にも刻み付けられた。
ムード歌謡・ムードコーラスは様々な歌手やグループが唄っており,一大山脈をなしている感があるが,なかでもひときわ高く聳えているのが松尾&マヒナだろう。ムード歌謡といえばテナーサックスが流れれば石原裕次郎,スチールギター,レキントギターなら東京ロマンチカ,スチールギターならマヒナスターズというのが私の感覚だ。
グッド・ナイト(2018.2.2)
昭和34年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:松尾和子/和田弘とマヒナスターズ
「Good night, good night, sweet heart good night」とコーラスで始まり,終わる。唄?は「なんでもない様に街角で」と始まる。逢えずに恋焦がれている状態のようだが,そのような歌詞はあまり耳にはいらず,最初と最後の英語コーラスだけが強く印象に残る歌。
古城(2011.9.21)
昭和34年,詞:高橋掬太郎,曲:細川潤一,唄:三橋美智也
当時,一番歌が上手いのは三橋美智也だと思っていた。かといって三橋美智也のファンだったわけではない。
昭和34年9月26日,伊勢湾台風で小学校の講堂が全壊した。講堂内には卓球台が何台もあり,よく卓球をしたものだった。この講堂は翌年の卒業式のときにも再建されておらず,卒業式は教室で行われたように記憶している。
「崩れしままの石垣に,哀れを誘う病葉や」という歌詞は心に残り,歴史的には逆順だが,自分の中では「荒城の月(土井晩翠)」,「千曲川旅情の歌(島崎藤村)」,「春望(杜甫)」,「夏草や・・・(松尾芭蕉)」などに惹かれるようになった原点であろう。
そろばん屋(珠算塾を当時このように呼んでいた。算盤を売っていたわけではない。)の先生から台風で水没したカメラをもらい,レンズを利用して望遠鏡を作ったりした。
サッちゃん(2014.2.25)
昭和34年,詞:阪田寛夫,曲:大中恩
「サッちゃんはね サチコっていうんだほんとはね」と始まる歌。
この歌で歌われている「サッちゃん」は阿川佐和子であるという説は有名だ。阪田が阿川弘之と親しかったとかで,子供の頃の阿川佐和子をよく知っていたというのは確かな話らしい。
まあ,モデルがだれであろうと,可愛いい歌だが,三番では「とおくへいっちゃう」ようだから三番まで唄うと淋しい歌になってしまう。私が子供に唱ってやったことはないが,唄うとしたら2番までだ。
死ぬほど愛して(2015.6.14)
昭和34年,原題:Sinno’ me moro,詞:Pietro Germi & Alfredo Giannetti,日本語詞:水野汀子,曲:Carlo Rustichelli,唄:Alida Chelli
「Amore, amore, amore, amore mio」と始まる歌。日本語詞も同じく「アモーレ アモーレ アモーレ アモレミーオ」と始まる。
イタリア映画『刑事』の主題歌。映画は観ていないし,この歌をまともに聴いた記憶もないのだが,出だしの部分はよく覚えているが原語で聴いたのか日本語だったのかの記憶もない。曲自体は後に購入した楽譜を持っているので,一応は知っている。また,映画のポスターにでもなっていたのだろうか,クラウディア・カルディナ―レが走っている場面は記憶がある。
ロザンナの「Amore, amore mio」1)の叫びを初めて聞いた時,最初に思い出したのがこの歌だった。
1)「愛の奇跡」(昭和43年,詞:中村小太郎,曲:田辺信一,唄:ヒデとロザンナ)。歌詞には記載されていないようだが,ヒデのスキャットに被せてロザンナが叫ぶ。「ララララ ララララ(アモーレ)ララララ ララララ(アモーレミオ)ララララ ララララ(ティアモティアモティアモ)ララララ」という感じだ。
少年ジェットの歌(2018.10.8)
昭和34年,詞:武内つなよし,曲:宮城秀雄,唄:ひばり児童合唱団
「勇気だ力だ 誰にも負けないこの意気だ ヤア」と始まる歌。
漫画「少年ジェット」(作:武内つなよし)は雑誌『ぼくら』に連載されていた。
昭和34年からフジテレビ系でアニメが放映された。
少年ジェットのパートナーはジャーマン・シェパードのシェーンである。
名犬リンチンチンもシェパードだった。他に名犬ラッシーというのもあったがこれはコリーだった。大型犬が主役級でテレビに登場していた時代だ。この頃,国内で流行していた飼い犬はスピッツではなかっただろうか。日本の家・屋敷は狭く,大型犬を飼うには適さないということだろう。そういえば松島アキラの愛称はスピッツだった。近所にスピッツを買っている家があったが,見た目は小型で可愛いのだが,キャンキャンとよく吠えていた。
白い小ゆびの歌(2020.1.31)
昭和34年,詞:関沢新一,曲:古賀政男,唄:島倉千代子
「白壁土蔵の つづく路 烏が三羽 茜空」と始まる歌。
「おさげの髪の」とでてくるが,当時,おさげ髪が登場する歌が少なからずあった。長い髪は洗髪など大変だからだろうか,一クラスに何人もいたわけではないが,おさげの女子が何人かはいた。長いおさげ髪になると学年で数人といったところだった。
情熱の花(2018.2.28)
昭和34年,詞:B.Botokein/音羽たかし,曲:Beethoven,唄:ザ・ピーナッツ
「ララララー ララララー ・・・」と始まる。メロディーは聞き覚えのあるものだが,と思っていると,「私の胸に 今日もひらく」と意味のある歌詞が始まる。このメロディーはバイエルレベルのピアノ教則本によく載っている『エリーゼのために』だ。冒頭のスキャット部はこの曲の途中だった。
『エリーゼのために』は清楚な印象を与えるピアノ曲だが,この歌は詞と編曲により情熱的な印象に変っている。
誰よりも君を愛す(2012.4.6)
昭和34年,詞:川内康範,曲:吉田正,唄:松尾和子・和田弘とマヒナスターズ
「誰にも云われずたがいに誓った」と男性が1番を歌い,「愛したときから苦しみが始まる」と女性が2番を歌う。3番は男女で「あなたがなければ」と唄う曲で,昭和35年のレコード大賞受賞曲である。
「誰よりも君を愛す」などと日本語では言わない。「私は」と主語が入っていないのがやや日本語的だが,目的語も省略するほうがより日本語的だろう。「愛す」と現在形であるのも違和感がある。「愛してる」と現在進行形が自然だろう。そもそも単語の選択が「愛してる」ではなく「好きだ」だろう。要するに「love you」の直訳なのだ。かなり英語の成績がわるい生徒でも「I love you.」は知っているだろう。機会があれば言ってみたいと思っていても日本では違和感がある。だからこそ,このような直訳調の歌詞が入ったこの曲がヒットしたのだろう。
この年,当時の皇太子殿下の御成婚パレードがテレビで放映されたので多くのテレビ受像機が売れた。
忠太郎月夜(2020.12.21)
昭和34年,詞:門井八郎,曲:春川一夫,唄:三波春夫
「辛い浮世の しがらみ格子 義理が情けを 通せんぼ」と始まる。
長谷川伸の戯曲『瞼の母』の料理茶屋『水熊』の場面。番場の忠太郎が生き別れになった母親を訪ねる場面である。歌舞伎や新国劇の他,片岡知恵蔵,若山富三郎,中村錦之介の主演で映画が作られたり,島田正吾,鶴田浩二,坂東鶴之助,中村勘三郎,高橋英樹などの主演でテレビドラマも作られている。
要するに,少ない作品数が,配役を変えて何度も何度も紹介されていた時代だ。この作品のように有名な作品はほぼすべての日本人(幼児は?)がその内容を知っていただろう。
状況説明などしなくとも,リスナーには状況がはっきりわかっていた。
爪(2016.4.3)
昭和34年,詞:平岡精二,曲:平岡精二,唄:ペギー葉山
「二人暮らしたアパートを 一人一人で出て行くの」と始まる歌。
「爪を噛むのはよくないわ」と終わる。
よく解らないが,ジャズの系統なのだろう。この系統の歌はほとんど聴いたことがない。そもそもテレビではやってなかったと思うし,ラジオでは流されていたのだろうが聴かなかった。自然に耳に入ってくる機会もなかった。
東京ナイト・クラブ(2012.6.5)
昭和34年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:フランク永井/松尾和子
低音ムード歌謡のフランク永井とムード歌謡の女王松尾和子である。「なぜ泣くの」と始まり,二人の掛け合いが続く。最後は二人で「東京ナイト・クラブ」と結ぶ。この男女は夫婦ではなさそうだ。女は涙を見せているようだが,この涙が本物かどうかで歌詞の解釈は大きく変る。二人の掛け合いは他愛ないものだが,涙が本物ならこれだけしか言えない女性の悲しい立場が歌われているということになるのだが,作り涙なら男女の種々の状況が想像され,いろんな思いを込めて唄えるのでカラオケで唄うには最適だろう。
東京ナイトクラブ(2020.1.3)
昭和34年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:フランク永井&松尾和子
「なぜ泣くの 睫毛がぬれてる」と始まる歌。
古いデュエット定番曲のひとつだが,これといって語るほどの内容は無い。
同じく古いデュエット定番曲の銀恋1)と比べると,小節の頭の休符のリズムの取り方など難しいように感じるが,上手く唄っている。二人共歌手だから当然か,
1)「銀座の恋の物語」(昭和37年,詞:大高ひさを,曲:鏑木創,唄:石原裕次郎,牧村洵子)
南国土佐を後にして(2012.1.18)
昭和34年,詞:武政英策,曲:武政英策,唄:ペギー葉山
この吹込みが最初ではないらしいが,ペギー葉山が唄って有名になったのが昭和34年。唄いだしはタイトルどおり「南国土佐を後にして」である。
岩戸景気1)とかいって経済成長が続いていたが,今よりはるかに貧しかった。地方の中卒者が集団で都会に就職する集団就職が盛んだった。この歌でも「都へ」でて何年も経ち,国からの便りに故郷を思う。都会へ出て一旗挙げようと意欲に燃えて旅立つ者もいたが,多くは15歳くらいで単身都会の下積み仕事に従事するため泣く泣く旅立ったのだ。一家でブラジルに移民するなどというのもあった。生まれ故郷で豊かな生活をしていれば集団就職や移民はなかっただろう。
貧しくはあったが,不幸だったわけではない。小学校のクラス内に僅かながら金持ちの家の子はいた。もっと少ないが,極めて貧しそうという家も無かったわけではない。しかし,食べ物がないというのが明らかなほど貧しそうな家の数は次第に減ってきており,後の一億総中流時代到来を予感させる時代だった。サラリーマン家庭ならほぼ順調に昇給していたし2),商家もそれなりに繁盛していたと思う。年々生活は豊かになっていく実感があり,将来に希望が持てた。欲しくて変えないものが多数あったが,それらがそのうちに買えそうだという希望が持てたのである。
当時の皇太子殿下の御成婚を機に多くの家庭がテレビ受像機を購入した。自動車はとても買えそうないが,オートバイなら買えるかもという時代になりつつあった。
1)これより前の好景気時代に神武天皇以来の好景気ということで神武景気と名付けたので,このときはそれよりも古い天照大神の天の岩戸を持ち出した。
2)もちろん石炭などのような斜陽産業もあった。
ひとみちゃん(2015.4.11)
昭和34年,詞:水島哲,曲:米田信一,唄:神戸一郎
「ひとみちゃん ひとみちゃん 君のひとみがぬれてると」と始まる歌。
「ひみつの径を歩いたね たった一言“好きなんだ” それも言えない青い空」という歌だ。
この歌には「丘のリンゴの木の下で」とリンゴが登場するが,当時,私の周りで最もポピュラーな果物がリンゴとカキとミカンだった。神戸一郎には『リンゴちゃん』1)という歌もあった。しかし,リンゴの木は近所では見たことがなかった。小学校の学区内にナシの先祖と言われているイヌナシの自生地とアイナシの自生地があり,天然記念物ということで小学生の頃見学に行ったことがある。
1)「リンゴちゃん」(発表年?,詞:西沢爽,曲:狛林正一,唄:神戸一郎
まぼろし探偵(2014.7.1)
昭和34年,詞:照井範夫,補作:山本流行,曲:渡辺浦人,唄:上高田少年合唱団
「赤い帽子に黒マスク 黄色いマフラーなびかせて」と始まる歌。
漫画は昭和32年から少年画報で連載されている。昭和34年にはラジオ東京で連続ラジオドラマとなり,数か月遅れでKRT(現TBS)系のテレビドラマになった。その主題歌である。
思い返してみると,私の子供時代のヒーローは皆一人だった。いつからかヒーロー戦隊に変ったようだ。
山に祈る(2015.5.15)
昭和34年,詞:清水脩,曲:清水脩,唄:ダーク・ダックス
山で遭難した大学山岳部学生の日誌とその母親の手記を元に制作された合唱組曲。
「山の歌」「リュックサックの歌」「山小屋の夜」「山を憶うのか」「吹雪の歌」「お母さんごめんなさい」の6曲と,曲と曲の間および曲内の間奏中の朗読で構成されている。
「山を憶うのか」の一節「なぜ 山に登るのか 山がそこにあるから」(聞く者には 「なぜーなぜー」と聞こえる。)はマロリー1)の言葉として当時は誰もが知っている言葉だった。
朗読される手記には,先発隊を二人で追いかけていたが,パートナーの体調不良で,途中から一人で先発隊を追いかけることになることが記載されている。『あと4時間で皆に合える』と書いた次は『吹雪でトレースわからず』だ。ビバークの様子も手記が朗読される。初めは『三月五日。午前七時十五分。依然として吹雪おさまらず。』『今朝,ビタミン剤五ケのむ。食欲はない。乾パン十枚あるから倹約して食うつもり。ハムはシラーフの下なので出せない。』とやや余裕があるようだが,『十二時二十五分。依然,吹雪はげし。…寒い。かまんが大切。』となり,『シラーフもシラーフ・カバーもぬれている。下半身ぬれて苦しい』,『十五時十五分。吹雪おとろえず。視界きかず。』となり『下半身凍って動かない。』更には『手の指,凍傷で,思うことの千分の一も書けず。全身ふるえ。ねむい。』と続く。
元は長野県警本部が遭難防止を訴えるために作成した「山に祈る」という小冊子とのことである。
この頃,ハイキングはメジャーなレジャーのひとつであり,難易度は種々あったが山登りを好む人が多かった。
1)George Herbert Leigh Mallory: イギリスの登山家。エベレスト登頂目前で行方不明になる。
山の吊橋(2013.5.27)
昭和34年,詞:横井弘,曲:吉田矢健治,唄:春日八郎
「山の吊橋ァどなたが通る」と始まる歌。終わるのは「ホレユーラユラ」である。もちろん聴いたことはあるのだが,憶えているのは最初と最後だけだ。当時の私には印象が薄かった。今,歌詞を見直して,「鉄砲うち」とか「のんべェ炭焼き」などが登場していることがわかるが興味が湧かないので,当時も同じだったのだろう。
夜霧に消えたチャコ(2014.4.14)
昭和34年,詞:宮川哲夫,曲:渡久地政信,唄:フランク永井
「俺のこころを知りながら」と始まる歌。
低音が魅力のフランク永井だがこの曲は特に低音が魅力だとは感じない。むしろ高音のほうに魅力がある。
当時は歌詞の意味を理解することができなかったのか,強い印象は残っていない。
今,歌詞を読んでみると,歌詞の背景あるは状況に関していくつかの可能性が想像できるが,どの可能性が現実であったとしても共感できるものはない。
夜霧の空の終着港(エアー・ターミナル)(2021.8.6)
昭和34年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:和田弘とマヒナスターズ
「最後のつばさを 待ちながら ことなくあれと祈ってる」と始まる。
一番には「標識灯もうるんでて あぁ・・・もって来いの晩だぜ」とあるが何のことが解らないが二番には「二人っきりで話すには あぁ・・・もって来いの晩だぜ」とあり,ようやく何にもって来いかが解る。
当時は航空運賃も高価で私には関係の無い世界の歌だった。
夜空の笛(2024.10.19)
昭和34年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:守屋浩
「チイタカタッタ チイタカタッタ 笛の音が」と始まる。これは1番,2番,3番ともである。
「ヤイヤイヤイ ヤイヤイヤイ ヤイヤイヤイヤイヤイ」というフレーズも1番,2番,3番に使われているので,このフレーズと最初のフレーズが印象に残る。
1番では「僕の姉さんの 住んでる遠い国」とあり,2番,3番も姉さんが登場する。以下は私の印象だが,姉さんが遠くに嫁に行ってしまって恋しいという雰囲気ではなく,自分が仕事のために一人で都会にでてきており,故郷を恋しく思っている歌のようだ。
当時は電話もあまり普及しておらず,たとえあったとしても遠距離通話は非常に高価だった。汽車に乗って行くとしても,当時の列車は速度も遅く,大仕事だった。一度離れて暮らすことになると,手紙がほとんど唯一の連絡手段だった。
ローハイド(2014.5.23)
昭和34年,詞:西沢爽,曲:D.ティオムキン,唄:小坂一也
「ローレン ローレン ローレン」の繰り返しから始まる歌。
昭和34年からNET系で放映された米国のテレビドラマ。西部劇である。テレビの主題歌としてはN.ワシントン作詞の英語の詞をフランキー・レインが唄っていたらしいが,当時は知らなかった。
単調なメロディー,牛を追う掛け声,鞭の音だけが印象に残り,英語も日本語も歌詞に関する記憶がない。
Rawhide<ローハイド>(2018.6.8)
昭和34年,詞:Ned Washington,曲:Dimitri Tiomkin,唄:Frankie Laine
「Rollin’ , rollin’,
rollin・・・」と始まる歌と言っていいのだろう。
米国テレビ西部劇「Rawhide」の主題歌。日本ではNET(現テレビ朝日)系で放映された。
「Move ‘em on, head ‘em up, Head ‘em
up, move ‘em on, Move ‘em on, head ‘em up Rawhide!」
やこれに続く箇所など、当時は(実は今でも)何と言っているか聞き取れなかったが,リズムというか,次第に高揚してくる調子が印象的だった。
鞭の音も記憶に残っている。