神保孝志トップページ

昭和の歌トップページ

明治大正昭和元年〜昭和6年〜昭和11年〜昭和14年〜昭和16年〜昭和21年〜昭和26年〜昭和29年〜昭和31年〜昭和33年〜昭和35昭和36昭和37昭和38昭和39昭和40昭和41昭和42昭和43昭和44昭和45昭和46昭和47昭和48昭和49昭和50昭和51昭和52昭和53昭和54昭和55昭和56昭和57昭和58昭和59昭和60昭和61昭和62昭和63年〜その他(不明)平成の歌

 

昭和36

明日を呼ぶ港,あの娘の名前はなんてんかな,アンチェイン・マイ・ハート<Unchain My Heart>,磯ぶし源太,上を向いて歩こう,浮気なスー(悲しき恋の物語),笑顔だよお加代ちゃん,エリカの花散る時,襟裳岬〔風はひゅるひゅる〕,王将,大人になりたい<Too Many Rules>,おひまなら来てね,カイマナ・ヒラ,悲しき片想い,悲しき街角,河内音頭鉄砲節〜枕〜,川は流れる,硝子のジョニー,北上夜曲,九ちゃん音頭,九ちゃんのズンタタッタ,霧の中のジョニー<Johnny Remember Me>,禁じられた恋のボレロ,沓掛時次郎,車屋さん,黒い傷痕のブルース,恋しているんだもん,恋の一番列車<Going Home To Mary Lou>,恋の汽車ポッポ,湖愁,子供ぢゃないの<Don’t Treat Me Like a Child>,コーヒールンバ,500マイルも離れて<500 Miles>,ゴンドラの歌,シクスティーン・トン,下町坂町泣ける町,勝利を我等に<We Shall Overcome>,白い花のブルース,GIブルース,十国峠の白い花,じんじろげ,スク・スク,スタコイ東京,スーダラ節,すてきな16<Happy Birthday Sweet Sixteen>,ズビズビズー,青年の樹,惜別の歌,背広姿の渡り鳥,センチメンタル・ガイ,ソーラン渡り鳥,武田節,小さな悪魔<Little Devil>,月のエレジー,手のひらを太陽に,電話でキッス,東京ドドンパ娘,東京の美少年,長良川旅情,並木の雨,夜,日曜はいやよ,24000のキッス,ぬれた瞳,はたちの詩集,花の白虎隊,はるかなる道,パイナップル・プリンセス,パイのパイのパイ,日暮れの小径,ひばりのドドンパ,ひばりの渡り鳥だよ,振り向いたあいつ,北海道函館本線,北海の暴れん坊,北帰行,惚れたって駄目よ,ポケット・トランジスター,モスラの歌,山のロザリア,夕月[鴎が啼いてる磯浜に],夢のデート<Someone Else’s Boy>,ラストダンスは私に,別れの磯千鳥,忘れないさ,Don’t Treat Me Like a Child500 MilesGoing Home To Mary LouHappy Birthday Sweet SixteenJohnny Remember MeKissin’ on the PhoneLittle DevilMoon RiverPlease Mr PostmanSomeone Else’s BoyToo Many RulesUnchain My HeartWe Shall Overcome

 

明日を呼ぶ港(2015.7.27)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「港だヨー 港だヨー 明日を呼ぶ呼ぶ港だヨー」と始まる歌。

 「マドロス」や「波止場」など,現代の歌謡曲では聞かない単語が続く。これらは流行歌に頻出していた単語の定番の一つだった。日活映画のポスターなどが思い出される。しかし「マドロス」などが登場する歌としては末期の歌だろう。

 きちんと調べてはいないが,船舶の大型化と自動化や荷役作業の機械化,あるいは運送手段の多様化(コンテナによる規格化と道路整備によるトラック輸送の増加)などにより船員や港湾労働者の数が減ったのではないだろうか。

 

あの娘の名前はなんてんかな(2015.12.11)

昭和36年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:坂本九

 「あの娘の名前はなんてんかな」と始まる歌。「手当たり次第に名前を呼べば」ということで呼び始めるのだが,「花子さん みどりさん」と始まるのが当時らしい。当時?の典型的な名前といえば,男なら太郎,女なら花子だったのだろうか。

 当時流行?の名前を思い出すためにも,歌詞どおりならべてみると,「みささん のぶ子さん ふみちゃん みっちゃん まりちゃん あいちゃん まさ子さま ひろ子さま てつ子さま すみ子さま いくちゃん りこちゃん あこちゃん かよちゃん きよこちゃん よーこちゃん みちこちゃん れいこちゃん」と呼びかけるが無視され,無反応という歌。歌の最後に無反応の理由が明かされる。

 

磯ぶし源太(2016.6.18)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「水戸を離れて東へ三里」と始まる歌。

 「水戸の白梅日立のさくら」から「鹿島灘」へと抜ける。「旅烏」とあるので当然旅人の歌なのだが,それだけしか解らない。

 大映映画『磯ぶし源太』の主題歌であり,映画を観るなどしてストーリーを知らなければ源太がなぜ旅をしているのかが解らない。映画の思い出と共にならば懐かしい歌になるのであろうが,単に初期の橋幸夫の股旅物シリーズの一曲ということならば忘れ去られることになるのではないか。

 

上を向いて歩こう(2012.10.31)

昭和36年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:坂本九

 「ふへほむふひて あはるこほほよ」という感じの唄。この歌を初めて聴いたときのことを思い出そうとするのだが,全く思い出すことができない。魅かれる歌の順位では当時の歌手の中では私の中では中位以下だった。

 この歌は国内で3ヶ月連続1位という程度にかなりのヒット曲だったが大きな賞などは受賞していないようだ。坂本九の歌唱法が独特であり,当時の審査員には評価されなかったのだろう。しかし,外国ではいろんなタイトルで発売され,とくに「SUMIYAKI」として発売されたレコードは,米国で大ヒットし,ビルボードで3週,キャッシュボックスで4週連続1位を獲得した。これは日本のアーティストとしては初めてのことであり,その後ビルボードにランクインした日本のアーティストはピンク・レディーの37位だ。

 この歌を平成23年の大震災の後に聴いた。津波で何もかも流されてしまった真っ暗な「ひとりぼっちの夜」,「涙がこぼれないように上を向いて歩」く。空には満天の星。「幸せは空の上に」行ってしまった。上を向いて聴いていても涙がこぼれる。

 昔感動した小説を今読んでみるとそれほど感動しないことがある。過去に読んで内容がわかっているからではない。逆に,昔読んだ本を再読して新たな発見に感動することもある。歌も同じだ。同じ歌を聴いてもその時の状況により感じ方は大きく異なる。

 誰かに感動を与えることができれば,誰かの心を癒すことができれば,誰かに勇気を与えることができれば,誰かの幸せをより大きくすることができれば,それは良い歌だ。

 

浮気なスー(悲しき恋の物語)(2016.12.29)

昭和36年,詞:Dion DiMucci & Emie Maresca,訳詩:漣健児,曲:Dion DiMucci & Emie Maresca,唄:スリー・ファンキーズ

 元歌はDionが唄った「Run-Around Sue」という曲らしいが,聴いた記憶がない。

 スリーファンキーズの唄では最初に「浮気なスーと 恋をしたけど 悲しい涙で 僕の心は傷ついた」とあって「オォー オオオオオオオー ・・・・」と続いた後に「浮気な女と云うものは 男心をひくものさ」と始まる歌。

 「悲しき恋の物語」が改題されて「浮気なスー」となったのだが,題名通り悲しき恋の物語である。しかし,イントロの「傷ついた」までこそ悲しみを表しているようだが,「オォー」以降はアップテンポで,悲しさは感じられるのだが,この状況を楽しんでいるかのような雰囲気もある。

 男でも女でも同じだが,浮気な女はいることは確かだろう。相手は自分に気があると思い込む勘違い男や女もいる。この歌の「スー」はこれとは逆に,本人にはその気(自覚)がないにもかかわらず,相手に勘違いされるタイプの女性ではないだろうか。

 

笑顔だよお加代ちゃん(2014.2.4)

昭和36年,詞:三浦康照,曲:三和完児,唄:守屋浩

 「泣いてたネ泣いてたネたしかに泣いてたあの夕暮れは」と始まる歌。

 森進一の登場前は一番のハスキーボイスだったのではないかという感じの守屋浩。ハスキーな高音が特徴的だった。いろんな歌を唄っているが,私はこの系統の歌が好きだ。この系統とは言っても作詞・作曲は違うのだが,シリーズ物ではないかと思う歌が数曲ある。例えば,お加代ちゃんは長いお下げ髪だったのではないかなどと思ってしまう。

 

襟裳岬(2014.11.23)

昭和36年,詞:丘灯至夫,曲:遠藤実,唄:島倉千代子

 「風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ」と始まる歌。

 細いが張りのある島倉の声,淋しい岬に強く吹く風のようだ。歌詞には「こんぶ」を採って生活している女の子が「にくいにくいと怨んだけれど 今じゃ恋しい」と事情は分からないが逢えないらしい「燈台守」を想う様子が歌われている。歌詞中の「霧笛」などの言葉も時代を感じさせる。もちろん,当時は何の違和感もなく聴いていた。

 

王将(2013.10.9)

昭和36年,詞:西條八十,曲:船村徹,唄:村田英雄

 「吹けば飛ぶよな将棋の駒に」と始まる歌。将棋棋士坂田三吉の歌である。

 浪曲師らしい村田の声と歌い方は勝負師坂田をよく表している。

 『江戸八百八町』というのは,何で知ったか思い出せないが,なぜか知っていたが,「浪花八百八橋」というのはこの歌で初めて知った。ついでに言えば『京都八百八寺』という言葉もある。

 ところで,坂田は大阪(堺)出身のはずだが(日本橋で丁稚奉公をしている),歌詞に関西弁の名残がないのは西條八十が関西弁に不案内だったのだろう。いい加減な似非関西弁を使うより,ずっと好感が持て,勝負師坂田を客観描写しているように感じられる。

 ところでが多くなってしまうが,Wikipediaで坂田三吉を見ていたら,北島マヤ1)のモデルは坂田三吉だと書いてあった。全く予想していなかった内容なので驚いたが,要するに美内がたまたま将棋一筋の坂田のことを知り(連載開始のはるか前から知っていたのだろう),同様なキャラクターとして演劇一筋の北島マヤを造形したというだけのようだ。私の解釈によれば○○一筋という人物なら誰でもいいように思えたので安心だ。

1) 「ガラスの仮面」(美内すずえ:昭和51年〜,花とゆめ)の主人公。

 

おひまなら来てね(2013.2.21)

昭和36年,詞:枯野迅一郎,曲:遠藤実,唄:五月みどり

 「おひまなら来てよネ私淋しいの」と始まる歌。歌詞に出てくる「私」がどういう人物かは不明である。「酒場の花でも浮気なんかいやよ」というのは,『所詮私は酒場の花だけど,浮気はしないでね』というのか『たとえ相手が酒場の花だとしても,浮気はしないでね』というのか良く解らない。おそらく後者なのだろうが,「私」も「酒場の花」の匂いをプンプン放っている。

 Wikipediaには「それまでの歌手にはなかったチャーミングな美貌とともに,きれいな『ちりめんビブラート』を生かしたこの歌は大ヒットとなる」と書かれている。「それまでの歌手にはなかった」はWikipediaも筆が滑ったのではないかと思うが,この項に関しては根拠を示せなどとはコメントされていないのでWikipediaも認めているのかもしれない。しかし,これは書き手の主観が加味されているように思う。「ちりめんビブラート」という言葉は知らなかったが,イメージは解らなくもない。しかし,五月みどりの歌声をこのように感じたことはない。縮緬という言葉で表せず,もっと艶っぽく聞こえる。

 この年,トヨタはパブリカを発売。しかし,私の家の近くでは見ることがなかった。家の近くではまだ馬が荷車を引いて歩いていた。荷車を引くのを手伝っている犬もいた。

この頃,原付1種(50cc以下)の免許試験は適正だけだったといっても良いだろう。右折・左折等の手信号をさせられるが,これで耳が遠いか,手は十分動くかなどをチェックしていたのだろう。

原付2種(125cc以下)はクランクを通って8の字に入り,また最初のクランクを戻って終りだった。筆記試験もあったと思う。自動二輪の実技試験は後部座席に試験管を乗せての試験だった。当時私は免許を持っていなかったので一部間違いがあるかも知れないが。

そういえば,当時良く見かけたオート三輪などの方向指示器は兔の耳のようなものが横に飛び出す形だった。乗用車や大型二輪にもこの兔の耳のような方向指示器がついていたように思うが,もっと古い話かもしれない。もっと前にもフラッシャーはあった気がする。

フラッシャーとは現在のウィンカーのことだが,いつ名前が変わったのだろう。

 いつ名前が変わった?のか不明なものは多い。たとえばBMWはベー・エム・ヴェー,ベー・エム・ベー,ベムベなどと呼ばれていたと思うのだが,いつのまにかビー・エム・ダブリューになっているようだ。

 ホンダのCBシリーズが出始めたのがこのころだろうか。いろいろ出揃うのはもう少し後だ。

 

カイマナ・ヒラ(2018.10.23)

昭和36年,詞:C.E.キング,曲:C.E.キング,唄:エセル中田

 「Iwaho makou i ka po nei」と始まる歌。

 「KAIMANA HILA kau mai iluna」などと韻を踏んでいるのかも知れないが,言葉が判らないので何とも言いようがない。曲はいかにもハワイアンだ。スチール・ギターとウクレレを含むハワイアン・バンドは当時いくつもあった。

 

悲しき片想い(2016.1.23)

昭和36年,詞:SchroederM.Hawker/漣健児,曲:SchroederM.Hawker,唄:弘田三枝子

Wow wow wow wow yeah yeah」と始まる。意味のある歌詞の最初は「こんな気持ちがどんなに淋しいものか」だ。原曲はHelen Shapiroが唄ったYou Don’t Know。 

片想いの淋しさを歌っている。片想いとは、まだ未告白の状態だ。告白後ならば失恋であり,ある程度の付き合いの後,相手に一方的に去られるのも失恋と言う場合もあるようだが,後者は捨てられたというべきだろう。別れとは『愛しながらも運命にまけて』1)という場合だろう。もっとも,飽きて別れることもあるだろうから,悲しみと共にかどうかは解らないが,互いに納得して別れるのが別れだろう。

 片想いの状態はまだ夢が持てる。愛することは愛されることより幸せである。想いを寄せることができる人がいるということは最も幸せな状態ではないのだろうか。

 今は「悲しき片想い」かもしれないが,現実の厳しさを知った後には懐かしき片想いになるだろう。

1)「君は心の妻だから」(昭和44年,詞:なかにし礼,曲:鶴岡雅義,唄:鶴岡雅義と東京ロマンチカ)

 

悲しき街角(2017.6.27)

昭和36年,詞:マックス・クロク/Del Shannon,訳詞:漣健児,曲:マックス・クロク/Del Shannon,唄:飯田久彦

 「街角で別れた あの娘はいまどこにいる」と始まる歌。

 「どうしてあの娘と 逢えないのだろう」という歌だ。

 途中の「ワー・ワー・ワー・ワー・ワンダー」あたりと,最後の「ラン・ラン・ラン・ラン・ランナウェイ」という箇所が印象に残っている。

元歌はDel ShannonRun away。元歌は聴いたことがあるという程度。飯田のほうをよく聴いた。

 

河内音頭鉄砲節〜枕(2021.6.13)

昭和36年,詞:鉄砲光三郎,曲:鉄砲光三郎,唄:鉄砲光三郎

 「エ〜さては一座の皆様へ ちょいと出ました私は」と始まる。

 ところで,私の現在の住居は,私が子供だった頃は山だった。この山を削り,谷を埋めて宅地造成をしたところだ。新興住宅地なのでいろんなところからやって来た人がいる。地域でも世話をしてくれる人がいて盆踊りが開催されていた。そこでかかっていたのが河内音頭だった。私の前住地の盆踊りでは地域の盆踊り歌以外に郡上踊りの曲がよくかかっていた。主催者の中にそれらの地域の出身者がいたのだろう。

 というわけで河内音頭には馴染がある。大楠公なども登場していたように思うが,歌詞の詳細は覚えていない。現在では主催者のなかにその人物がいなくなったのだろう。地域の盆踊りで河内音頭がかかることはない。それどころか,ここ何年も雨やコロナで盆踊りは中止が続いている。

 

川は流れる(2015.8.24)

昭和36年,詞:横井弘,曲:桜田誠一,唄:仲宗根美樹/ヴォーチェ・アンジェリカ

「病葉(わくらば)を今日も浮かべて」と始まる歌。第3回日本レコード大賞新人奨励賞受賞。

仲宗根のけだるそうな,ものうそうな歌声。田舎から夢を抱いて都会へ出て来たが,思い通りにならぬことばかりで,「思い出の橋のたもと」で疲れ果てて川を見る。それでも最後には「嘆くまい あすは明るく」と気持ちを奮い立たせようとしている。

このころはまだ,皆(少なくとも私の周囲は)貧しかった。『ALWAYS三丁目の夕日』は昭和33年,『ALWAYS三丁目の夕日’64』は昭和39年の話だが,これらは東京の話で,地方はもっと遅れていた。昭和35年,池田内閣は国民所得倍増計画を閣議決定した。昭和36年からの10年間で国民総生産を倍増させようという計画だ。

これは想像だが,貧乏人の方が失うものが少ないほど打たれ強いのではないだろうか。思い通りにいかない辛さに慣れているのではないだろうか。「ささやかな望み破れて」も「錆びついた夢のかずかず」に絶望することなく,かといってバラ色の未来を信じるほど楽天的でもない。当時の多くの人の共感を得た歌だろう。

 

硝子のジョニー(2013.6.26)

昭和36年,詞:石浜恒夫,曲:アイ・ジョージ,唄:アイ・ジョージ

 「黒い面影夜霧に濡れて」と始まる歌。

 第3回レコード大賞歌唱賞を受賞しており,これがプロの歌手の唱だと感じる。好き嫌いは別にして,上手い。たまにカラオケで歌うことがあるが,とてもとても彼のようには唄えない。まあ,当然か。

彼の印象はラ・マラげーニャ1)などが非常に強いのだが, Wikipediaによれば彼がドドンパの親ということなので驚きだ。

歌詞だが,当時流行の名前「ジョニー」2)が登場しているが私には話が良く見えない詞だ。恋の夢・淡い夢の歌ということだが,観念的な感じを受け,私には十分に心を込めることができない。

1)      La Maragueña」(昭和34年?,詞:B.E.Ramirez/G.P.Galindo,曲:B.E.Ramirez/G.P.Galindo,唄:Trío los Panchos)昭和34年はTrio los Panchosが初来日した年である。昭和35年の紅白歌合戦ではアイ・ジョージが初出場でこの歌を唄っている。

2)      「内気なジョニー」「ジョニーエンジェル」「霧の中のジョニー」などの歌があった。「ジョニーへの伝言」などもあるが一寸時代が違うか。

 

北上夜曲(2011.9.23)

昭和36年,詞:菊地規,曲:安藤睦夫,唄:多摩幸子/和田弘とマヒナ・スターズ

「匂い優しい白百合の,濡れているよなあの瞳」で始まる歌である。マヒナ・スターズというとムード歌謡という印象なので,やはり当時は流行歌から歌謡曲に変わっていたのだろう。

 中学2年のとき,学校から鈴鹿の山へキャンプに行った。そのとき,キャンプファイアーで歌ったように思う。当時は山登りは代表的なレジャーの一つだった。私が通った小学校の遠足も,生桑山や垂坂山へ行っていたように思う。生桑山には毘沙門天が祀られており,垂坂山には山頂に今上天皇・・・という大きな石碑があったように記憶している。登る途中に防空壕跡と言われていた洞窟があった。これらはほんの少し盛り上がっただけの丘だが,鈴鹿山脈にもよく行った。地域の子供会の世話役が小学生を連れて行くのだが,湯ノ山まで電車で行き,それから歩いたことが多かったように思う。小さい子がいるときには湯ノ山駅から湯ノ山温泉までバスがあり,これに乗る。大石とか蒼滝までだが御在所ヶ岳山頂まで行くこともある。表道,中道,裏道と3本の主要な登山道があり,約1000mの標高である。裏道は最も緩やかだが距離が長く,中道が最も距離が短い。小学生は皆身軽でらくらく走り降りてくる。後に,といってもまだ小学生のころだが,ロープウェイで湯ノ山温泉から山頂まで行けるようになった。当時は鉄塔の高さ(ケーブルカーから地表までの距離)が東洋一だと言われていた。

 北上夜曲と聞くと「白い花の咲く頃」「山のロザリア」「石狩川悲歌」などを連想する。

 

九ちゃん音頭(2016.7.27)

昭和36年,詞:青島幸男,曲:ダニー飯田,唄:坂本九

 「花が咲く時ゃ風が吹く」と始まる歌。

 二番は「好きなあの娘にゃひじ鉄くらい」,三番は「金がある時ゃひまがない」と始まり,「とかくこの世はままならぬ」という歌。

 これらの言葉は昔からある言葉のような気がする。たとえば『月に叢雲花に風』などだ。しかし出典は何かと問われると答えられない。二番や三番の言葉は学校では習わないだろう。どうも私はこれらの言葉をこの歌で知ったのではないだろうか。

 

九ちゃんのズンタタッタ(2014.12.1)

昭和36年,詞:青島幸男,曲:青島幸男,唄:坂本九/ダニー飯田とパラダイス・キング

 「ズンタタッタ ズンタタッタ ズンタタッタ ズン」と始まる歌。意味のある歌詞は「聞いてくれ聞いてくれ話さなきゃいられねーんだ」と始まる。

 「丘の上の白い家の」17歳の娘が犬を連れて散歩してるので,自分も親にねだって「コリー」を買ってもらって,同じ時間に散歩したとか,ストーカーもどきのことをしている。犬をつかっての小細工は上手くいかなかったが,最後はハッピーエンドになる。

 コリーというのが時代を感じさせる。昭和32年からTBS系で「名犬ラッシー」という米国テレビドラマが放映され,その主人公のラッシーがコリーだったので当時コリーは人気があった。スピッツを飼っている家も近所にあった。スピッツは小型だがよく吠える。コリーは大型だが大人しい。

 無関係だが,松島アキラという歌手がいて,彼の愛称がスピッツだった。

 

禁じられた恋のボレロ(2018.3.5)

昭和36年,詞:漣健児,曲:宮川泰,唄:水原弘

 「恋に目ざめ せつなさ知り」と始まる歌。

 詞も曲も私には合わない。

 「いのちをかけた」くらいまでは何とかついていけるが「情熱の嵐」となるともうついて行けない。私だったらせいぜい『燃えて身を焼く恋心』1)程度だ。曲に関してもヨナ抜き音階の単純なリズムのほうが私の耳に合う。

1)「無情の夢」(昭和11年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:児玉好雄)昭和35年に佐川ミツオが唄っている。

 

沓掛時次郎(2017.9.5)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「すねてなったか 性分なのか」と始まる歌。

 北原謙二は鼻の奥から声を出しているのではないかと思うような声だったが,橋幸夫の声はもっとスタンダードな鼻の前の方にかかった声だと思う。もちろん二人ともそのようなことは無いのだろうが,私の耳には従来の歌手とは異質な声に聞こえ,それを上手く表現できないのでこのような表現になってしまった。・・・まあ,藤島桓夫や菅原都々子のような独特の声の歌手がいなかったわけではないのだが。

 沓掛時次郎は長谷川伸が昭和3年に発表した戯曲の主人公。何度も映画やTVドラマ化されている。昭和36年には市川雷蔵主演の大映映画と島田正吾主演のフジテレビ『新国劇アワー』での公開がある。この歌は映画のほうの主題歌。

 昭和37年から43年までTBS系で放映されたテレビコメディ『てなもんや三度笠』で藤田まことが演じたあんかけの時次郎はこの沓掛時次郎のパロディだろう。

 てなもんや三度笠を思い出したらこのテレビ番組のスポンサーだった会社のCMとクラッカーを思い出してしまった。

 

車屋さん(2017.2.26)

昭和36年,詩:米山正夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり

 「ちょいとお待ちよ車屋さん」と始まる歌。

 内緒で車屋に恋文を託したのに,粗忽者の車屋は返事をどこかへ失くしてしまったという歌詞の表面通りの歌だろう。『やぎさんゆうびん』1)などと同じようなコミカル・ソングの位置づけで良いと思う。

1)「やぎさんゆうびん」(昭和28年,詞:まど・みちお,曲:團伊玖磨

 

黒い傷痕のブルース(2019.6.1)

昭和36年,詞:John Schachtel,訳詞:水島哲,曲:John Schachtel,唄:小林旭

 「霧降る夜の この街角に 今日もまた おれひとり」と始まる歌。

 ゆっくりと流れる物悲しいメロディーと小林旭のややハスキーな高音が「心の傷あと」を感じさせる。

 アメリカの曲だが,ヒットしたのは日本でだけらしい。

 歌に合わせて同タイトルの日活映画(小林旭・吉永小百合)が作られている。

 

恋しているんだもん(2014.3.21)

昭和36年,詞:西沢爽,曲:市川昭介,唄:島倉千代子

 「小指と小指からませて」と始まる歌。

 泣き節といわれた島倉だが,「幸福いっぱい空いっぱい」とこのようなハッピーさであふれた歌も歌っている。

「地球もちっちゃな星だけど」などというのは,米ソの宇宙開発競争が激しかった当時だからの発想かも知れない。昭和36年はガガーリンがボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行をした年だ。宇宙飛行中のガガーリンの言葉として「ここには神は見当らない」というのと,地球帰還後の「地球は青かった」というのが有名である。

 

恋の汽車ポッポ(2017.10.26)

昭和36年,日本語詞:ホセ・しばさき,曲:ポール・アンカ,唄:森山加代子

「急いで急いで走って汽車ポッポ」と始まる歌。

『じんじろげ』のB面。原曲のタイトルは『The Train of Love』らしいが原曲は聴いた記憶が無い。

彼氏に会ううために汽車に乗っている。浮き立つ心が伝わって来る歌。

 

湖愁(2012.12.29)

昭和36年,詞:宮川哲夫,曲:渡久地政信,唄:松島アキラ

「悲しい恋のなきがらは」とはじまる歌。この歌には湖・白樺・小鳩・星・東京などの言葉が入っているが,どの単語も昔の歌によく出てくる単語だ。しかし,失った恋の悲しみをこらえるために唄うには奇を衒った歌よりも,聞きなれた言葉のほうが心を癒してくれる。

松島アキラは第3回日本レコード大賞新人奨励賞を受賞した。

 この年,人類初の有人衛星が地球一周に成功した。ソ連のガガーリン飛行士は「地球は青かった」と言ったそうだ。もちろんロシア語だっただろう。昭和38年に女性として初めて宇宙飛行をしたテレシコワ飛行士は「ヤー・チャイカ」1)と言ったと伝えられている。

1) 当時,「わたしはカモメ」と訳されていた。

 

コーヒールンバ(2011.10.22)

昭和36年,詞:J.M.Perroni・中沢清二,曲:J.M.Perroni,唄:西田佐知子

 「昔アラブの偉いお坊さんが」と始まる曲。原曲のタイトルはMolendo Cafe。西田佐知子の曲では「エリカの花散るとき」とか「故郷のように」というような曲のほうが好きだが,この曲には強い衝撃を受けた。曲そのものではなく,初めてハイファイアンプの大音量で聴いた曲がこれだ。

 ステレオレコード自体は昭和33年に発売されているらしいのだが,現在私の手元にあるCDに収録されている「コーヒールンバ」はモノラルなので,そのとき聴いたレコードはモノラルだったはずだ。ハイファイアンプは流行はしていたが,自宅にはなく,あったとしても狭い家なのであんな大音量で聴くことは許されなかっただろう。とにかく衝撃だった。後年,初めてウォークマンでステレオ音楽を聴いたときも衝撃はあったが,この「素敵なリズムコーヒー・ルンバ」という衝撃が大きかった。

 少し前から,HiFiアンプが流行りだし,当時のことだから全て真空管アンプだったと思うが,2ウェイとか3ウェイのスピーカーで,まだ,コンポーネントステレオという感覚はなかったと思う。私のような貧乏人の道楽息子はそんなセットをそろえる金も置く場所もないので,せいぜいスピーカに電球をつけたり,RCフィルタで低音カットする程度だった。

 当時,レコードやラジオ放送ではダイナミックレンジが抑えられているとの話だった。大きな信号では過変調のAM波になって音が歪み,レコードは渦巻状の溝に音が刻まれているが,振幅が大きくなりすぎると隣の溝との間隔が十分取れないということだった。それで,再生時に小さい音はより小さく,大きい音はより大きく,要するにダイナミックレンジを拡げてやるとよいということだった。これを簡単に行うのが電球である。スピーカに並列に小さな電球を接続すると,アンプ出力の一部が電球に流れる。大きな音のときは電球のフィラメント温度が上がり,抵抗が高くなって電球に分流する信号が減少して,スピーカに流れる信号が増大するということだ。音とともに電球がピカピカして,何となく気分が良い。後のステレオアンプなどについていたVUメータのようなものはなかった。周波数特性に関してはコンデンサと可変抵抗で簡単なフィルタをつける程度だ。一応,負帰還をかけて帯域を広げる技術はあったと思うが使ったことはない。凝る人はスピーカとスピーカボックスに凝っていたように思う。

 FM放送は東京オリンピックのころだろうから,この頃はまだなかった。新幹線も東名・名神の高速道路もなかった。

 当時のステレオ放送はNHKなら第1と第2,民放なら二つの曲(東海地方ではCBCと東海ラジオ)で左右のチャンネルをそれぞれ放送していた。最初に「この音が中央から聞こえるように左右のボリュームを調整して下さい」と放送があり,その後右から左か左から右かは忘れたが,汽車が走る音がしてステレオだということを感じてから音楽番組が始まったように思う。

 

ゴンドラの歌(2022.6.3)

昭和36年,詞:吉井勇,曲:中山晋平,唄:佐川ミツオ

「命短し 恋せよ乙女」と始まる歌。

大正5年に松井須磨子が唄った歌のカバー。当時はリバイバルと呼んでいて,カバーという言葉は使われていなかったと思う。当時はリバイバル・ブームで,佐川はオリジナル曲も唄ってはいたが,リバイバル・ソングを何曲も唄っていた。井上ひろしなどもリバイバル・ソングを唄っている。このシリーズ記事を書き始めた当時はオリジナルの発表が重要と考え,カバー盤は記載せずオリジナル盤だけを記載してきた。しかし,私が生まれる前の歌をある程度の数知っているのは当時のリバイバル・ブームで聴いていたからだ。リバイバルだということでこの時代に記載しなければこの時代に流行った歌の一部が欠落してしまう。もっと時代が下るが,ゴールデン・ハーフなど私の印象に残っているのは誰かのカバーを唄っているのが多いので,カバー盤を記載しなければ,歌手名自体が記録から抜け落ちてしまう。同一曲を競作で何人かの歌手が唄った例もある。これについては,これまで最も売れたレコードや最初に発売されたレコードなど,明確な統一基準ではなく,そのときの気分で選んで記載してきた。今後は,カバー曲なども記載して行こう。

 

シクスティーン・トン(2019.6.29)

昭和36年,詞:Merle Travis, 訳詞:井田誠一,曲:Merle Travis,唄:フランク永井

 「エーン ヤッサノサ エンヤサ 俺らの荷物はおもいぞ重いぞ」と始まる歌。

 テネシー・エイミー・フォード,ザ・プラターズ,スティービー・ワンダーなどを始めとして多くのカバーがあるらしい。ソ連の赤軍合唱団まで唄っているらしい。ポピュラーミュージック系ジャズのスタンダードと言える曲。もちろんフランク永井の歌もカバーだ。

 江利チエミがカバーした『テネシー・ワルツ』のように外国の歌が原曲の場合,基本は原語で唄うのだが一部日本語でも唄うスタイルはこの頃までで,以後は外国曲でも完全日本語訳(日本語歌詞)でカバーされることが多くなる。

 

下町坂町泣ける町(2019.5.5)

昭和36年,詞:横井弘,曲:佐伯としを,唄:春日八郎

 「どうした どうした どこ行った」と始まる歌。

 苦労の末に「俺の町」に「帰ったに」,「死ぬまで待つと」言っていたのに「嘘つき屋」,「戻って来るのが お人好し」という歌。昔言い交した相手は既に・・・。

 当時は遠隔地間の連絡手段は郵便くらいで,離れて暮らすということはこの歌のような可能性も高かった。恐らくハッピーエンドになる確率は低かっただろう。

 

白い花のブルース(2017.10.15)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:平野こうじ

 「想いをこめて 白い花 投げれば落ちよ あの胸に」と始まる歌。

 最後は「わかれた人の 恋しさよ」と終わるのだが,タイトルを見ただけでなんとなく雰囲気を感じる。白い花は別離の歌によく似合う。

 

GIブルース(2017.9.19)

昭和36年,詞:Roy C.Bennett,日本語詞:みナみカズみ,曲:Sid Tepper,唄:坂本九

 「こきょうを離れてはるばるGIさ」と始まる歌。佐々木功バージョンもあり,こちらの日本語詞はレイモンド服部で「ラインの景色も悪くはないけど」と始まる。原曲はElvis Presleyが唄った「G.I. Blues」で,こちらは「They give us a room with a view of the beautiful Rhine」と始まる。

 プレスリーの代表曲の一つだと思うのだが,原曲をリアルタイムで聴いた記憶はあまりない。後になって聴いたり動画を観たりしたことはもちろんある。当時の私は外国のポップスはラジオで聴いていたがNeil SedakaPaul Ankaなどの記憶は鮮明にあるがElvis Presleyの記憶はあまりない。私が聴いていた番組で流されなかったか,当時の私の関心が薄かったからだろう。

 当時は欧米のポップスを日本語歌詞でカバーする(当時はカバーするとは言わなかったが)ことが少なくなく,ラジオやテレビでも流れていた。この曲だと私には佐々木功のイメージなのだが,手元の歌本にあったのが坂本九バージョンだったのでこちらを代表に選んだ。

 カバー曲と言えば,リバイバルと呼ばれて昔の歌を唄うことも少なくなかった。私は佐川ミツオや井上ひろしの唄で生まれる前の歌を知った場合も多いのだが,このHPでは基本的には日本の古い歌は原曲の発表年に掲載するようにした。

 

十国峠の白い花(2019.4.9)

昭和36年,詞:石本美由紀,曲:宮田東峰,唄:島倉千代子

 「旅の乙女の 悲しい恋に 雲も泣いてる あかね空」と始まる歌。

 「スカイラインの 観光バスに 君と揺られて 超えた丘」とある。当時,自家用車は極めて珍しく,観光バスでの旅行が普通だったのだろう。

 この歌ができた経緯は知らないが,観光バスのガイドが唄うための歌のように聞こえる。

 ところで,曲のタイトルというか地名だが,「ジッコクとうげ」のはずだが島倉は「ジュッコクとうげ」と唄っているように聞こえる。

 『十中八九』なども『ジッチュウハック』と発音していない例に出合うことは珍しくない。水前寺清子も『イッポンがジッポンに』1)を『ジュッポン』と唄っているようだ。この発音の違いは地域差なのだろうか。

 そういえば,中森明菜の『十戒(1984)2)を黒柳徹子も『ジュッカイ』と紹介していたように思う。時代と共に『十手』などの『ジッ』は消滅しつつあるのだろうか。舟木一夫も『ジュッテ』3)と唄っていたようだ。

1)「いつでも君は」(昭和42年,詞:星野哲郎,曲:小杉仁三,唄:水前寺清子)

2)「十戒(1984)」(昭和59年,詞:売野雅勇,曲:高中正義,唄:中森明菜)

3)「銭形平次」(昭和41年,詞:関沢新一,曲:安藤実親,唄:舟木一夫)

 

じんじろげ(2011.12.3)

昭和36年,詞:渡舟人,曲:中村八大,唄:森山加代子

出だしこそ「ちんちくりんのつんつるてん」と意味が一応解る歌詞だが,途中からは「ジンジロゲヤジンジロゲドレドンガラガッタホーレツラッパノツーレツ・・・」と意味不明の歌。そういえば他にも「ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ」なんていう歌もあった。

このような歌も唄っていたが,当時の森山加代子(だけではないが)は訳詩で洋楽を唄っていることが多かったように思う。いずれにせよ,彼女や渡辺トモコなどをテレビで観るのは好きだった。テレビはザ・ヒットパレードだっただろうか。この番組ではスマイリー小原が印象的だった。この番組の影響でポピュラーミュージックのラジオ番組を聴き,当時のポップスが耳に残っているのだろう。

 

スク・スク(2019.3.12)

昭和36年,詞:Rojas Suarez Rigoberto,日本語詞:音羽たかし,曲:Tarateno Rojas,唄:ザ・ピーナッツ

 「ヤイ ヤイ ヤイ みんな好き スク・スクのリズム」と始まる歌。

 「踊りましょ スク・スクのおどり」とあるのでダンス音楽だ。

 当時の私は踊るというと盆踊りくらいしか思いつかない子供だったので,踊りの記憶は全くない。『ルイジアナ・ママ』1)にはジルバ,マンボ,スク・スク,ドドンパ,チャチャチャ,ロックン・ロールが登場する。この前後には多くのダンス音楽が輸入された。ツイスト,チャールストン,ロコモーション,ゴーゴー・ダンスやモンキー・ダンスというようなのもあった。もちろんブルース,ワルツ,タンゴなどもあった。これらの中でドドンパだけが和製リズムらしい。よく聴いたリズムもあまり聴かなかったリズムもあるが,私が一番多く聞いたのはドドンパだ。

 スク・スクはこの歌の他にオジサンが「スク・スク」と叫ぶ歌があったように思うが,歌手もタイトルも思い出せない。

1)     「ルイジアナ・ママ」(昭和37年,詞:G.Pitney/漣健児,曲:P.Gene,唄:飯田久彦

 

スタコイ東京(2017.3.24)

昭和36年,詞:北原じゅん,曲:北原じゅん,唄:菊池正夫

 「ハア−俺が東京さくるときに 故郷のおッ母あの言うことにゃ」と始まる歌。

 上京する息子に母親が『電車のドアに挟まれないように』、『きれいな女の子に』「一寸こっちゃ来うなんて持ってる銭こはパーだべさ」,「スリも多いし泥棒も多い」と注意し,「財布もパー,着物もパーそれだばお前はアッパッパ―」と注意する歌。

 菊池正夫のデビュー曲で,菊池正夫は昭和41年に芸名を城卓矢と変えた。

 

スーダラ節(2012.9.3)

昭和36年,詞:青島幸男,曲:萩原哲晶,唄:ハナ肇とクレージー・キャッツ(植木等)

 「チョイト一杯のつもりで飲んでいつの間にやらハシゴ酒」という歌。馬につぎ込んでみてもダメ,女に手を出してもダメというダメ男の歌。「わかっちゃいるけど止められない」というわけだ。

 植木等は無責任男として有名だったが,実際には責任感の強いまじめな男らしい。私の高校の先生と同級生か何かで仲が良かったと聞いたことがある。

 無責任男の人気が高かったこの時代だが,世の中今ほど無責任男が目立っていたわけではないと感じる。私が知らないだけか解らないが,当時,国民は皆勤勉に働いていた。働かなければ食べていけなかったということもあるだろう。難しいことを考えなくても一生懸命働けばそれで責任が果たせたからだろう。

公害問題などに対しこの時期に十分責任を果たしていなかったということも言えようが,まだ多くの国民がその責任を認識するところにまで至っていなかったということもできるだろう。コンビナートの巨大化,金融ネットワークや原発などのようなシステムの巨大化などによりミスやごまかしの影響が巨大化したにもかかわらず人間の責任感が変わらない,あるいは低下してしまったことが最近の無責任さを際立たせているのだろう。

人間を変えるには時間がかかるかもしれないが,教育により,エリートに責任感を叩き込む必要がある。もちろん,子育て放棄などは許されるべきものではなく,そのような人としての基本的態度は幼少期に十分教育する必要がある。

 

ズビズビズー(2014.5.3)

昭和36年,詞:Williams Shepherd & Alan Stanley Tew,訳詞:みナみカズみ,曲:Williams Shepherd & Alan Stanley Tew,唄:森山加代子

 「Zoo-Be Zoo Be Zoo・・・」と繰り返した後「いつもアイ・ラヴ・ユー」となる。

元歌はSophia Lorenの「Zoo be zoo be zoo」。はっきりいうと昭和の歌には珍しい私には理解できない歌である。「あのひととあたしは あつあつ同志なのよ」とあるので,部外者には解らない,二人だけで解りあってる歌なのだろう。

当時の森山の歌には,意味不明の外国語?が入っている歌が多かった1)ように思う。

1)      例えば「じんじろげ」(昭和36年,詞:渡舟人,曲:中村八大,唄:森山加代子)

 

青年の樹(2015.9.14)

昭和36年,詞:石原慎太郎,曲:山本直純,唄:三浦洸一

「雲が流れる丘の上 花の乱れる草むらに」と始まる歌。

石原慎太郎原作のTBS系のテレビドラマ主題歌。ドラマの出演者は大空真弓,勝呂誉など。

1番は「空に伸びろ青年の樹よ」,2番は「森に育て青年の樹よ」,3番は「国を興せ青年の樹よ」と終わる。明確なメッセージを伝える歌である。三浦も『踊子』1)のような抒情的(天城峠が目に浮かぶような唄い方なので,叙景的と言うべきかもしれない)な唄い方ではなく,力強く唄い上げており,後の言葉で言えば援歌になっている。

1)「踊子」(昭和32年,詞:喜志邦三,曲:渡久地政信,唄:三浦洸一)

 

惜別の歌(2015.1.10)

昭和36年,詞:島崎藤村,曲:藤江英輔,唄:小林旭

 「遠き別れに耐えかねて この高楼(たかどの)に登るかな」と始まる歌。

 詞は『若菜集』(明治29年)に「高楼」と題して収められており,曲は昭和20年に作られた。作曲者は当時学徒勤労動員に駆り出され兵器工場で働いていた学生であったとのこと。昭和36年に『北帰行』のB面として発売された。

 藤村の元の詩は,妹が「とほきわかれに たへかねて」とはじめ,「かなしむなかれ わがあねよ」と姉に対するメッセ―ジである。これに答えて姉は「わかれといへば むかしより」と続けている。さらに妹・姉とあってその跡の妹が「きみがさやけき めのいろも」となっている。これらを選び出し1・2・3番の歌詞にしたもので,このとき「かなしむなかれ わがあねよ」が「悲しむなかれ我が友よ」と変えられている。藤村の詩では妹の言葉に「したへるひとの もとにゆく」とあるので嫁に行くのである。

 明治初期,嫁に行くということは今生の別れという覚悟であったのであろう。

 作曲者がこの曲を作ったころは先の戦争の敗色濃厚となっていたころである。親しい人との永久の別れがいつ突然やってくるのかわからない状況での作曲である。

 小林がこの歌を唄ったときはどちらとも状況が異なる。このときの別れはいろいろに解釈できる。ただ,別れに際しての万感の思いは共通だ。

 哀調を帯びた簡単なメロディーと七五調定型詩の歌詞は別れに対する諦観を感じさせる。小林旭の乾いた高音もよい。

 

背広姿の渡り鳥(2017.12.10)

昭和36年,詞:宮川哲夫,曲:渡久地政信,唄:佐川ミツオ

 「辛うござんす他国の雨を 一人旅籠で聞く夜は」と始まる歌。

 「渡り鳥」という言葉からは一匹狼という印象を受けるが,佐川の声は甘え声の印象でギャップを感じた。もっとも歌詞にも「瞼 はなれぬ あの笑くぼ」などと硬派とは言えない歌詞になっている。

 

センチメンタル・ガイ(2019.1.16)

昭和36年,詞:横井弘,曲:佐伯としを,唄:三橋美智也

 「強がる奴ほど泣き虫だって 影をのぞいて雨がいう」と始まる歌。

 2番は「激しい恋ほど儚いものさ 靴に踏まれた花がいう」と始まる。

最後は「あゝ センチメンタル・ガイ」と終わる。

当時は私の人生経験がまだ短かったので,人の世の真理を教えてもらったような気分だったが,その後の人生の中で同様な内容の言葉を何度も目にしたことがあるように思う。それらの出典が何かは知らないが,この歌だということはないだろう。たとえば最初のフレーズは『弱い犬ほどよく吠える』と同工異曲のようにも感じられる。ただ,この詞では最後を「センチメンタル・ガイ」とまとめることで,『弱い犬が吠える』ではなく『強い男が泣く』というように変換されているように思う。ここに作詞者のアイディアがあるのではないかとは思うが,どこかで聞いた感は否めない。

 

ソーラン渡り鳥(2016.1.15)

昭和36年,詞:石本美由起,曲:遠藤実,唄:こまどり姉妹

 「津軽の海を越えて来た」と始まる歌。

 仕事の内容こそ違え,故郷を出て働いている人々が多数いて,そのような人の共感を得た歌だろう。「江差恋しや鰊場恋し」に北の海を思い浮かべ,自分の故郷が南の山でも故郷を思ったのだろう。「愛嬌えくぼに苦労を隠し」とか「辛いことには泣かないけれど」など同じ思いの人々が多数いた時代だと思う。同じ田舎?者が都会に就職するのでも現代とは通信・交通手段が全く違うため,故郷を離れるということの意味が現代とは全く違った。

 

武田節(2014.6.14)

昭和36年,詞:米山愛紫,曲:明本京静,唄:三橋美智也

 「甲斐の山々陽に映えて」と始まる歌。

 民謡調の流行歌だが,新民謡の一つと言ってもよいだろう。山梨県で愛唱されているそうだが,山梨県以外でもよく歌われるのは信玄人気も関係しているのと「人は石垣人は城」などと現代の組織論にも関係しそうなフレーズに魅せられる愛唱者がいるのだろう。

 1番は出陣に際しての言葉のようだが,本田重次の戦地からの手紙1)のようにも聞こえる。

 2番には「人は石垣人は城」との名言が出てくる。

 更に風林火山の詩吟がはいって,3番は居館の躑躅ヶ崎で締めており武田信玄の歌だ。信玄といえば川中島を思い出すが,これが入っていないのは,川中島では上杉謙信も前面に登場してくるからだろう。

1)      日本一短い手紙として有名。徳川家臣の本田が長篠の戦いの陣中から送った手紙で「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」が全文。原文では「お仙痩さすな」だったとか,流布されている文章は多少の改変があるようだが,短いことは違いなく,家族と馬の心配をしている点が武田節と共通している。他の戦国武将にも戦地から子の安否を問う手紙などをマメに書いている武将がいるようだ。

 

月のエレジー(2013.4.25)

昭和36年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:守屋浩

 「胸と胸を合わせ誓い合った恋も」とはじまる歌。守屋浩のややハスキーな声がこの歌の切なさと良くマッチしている。「そうだ月に頼もう逃げた恋を呼んで来ておくれよ」と頼んでみても月は聞いているのかいないのか,知らん振り。

 この唄が浜口の歌だというのは私にとってはやや意外だ。というか私にとっては浜口の歌は,えっこれがハマクラの歌?という驚きの歌ばかりだ。詞も曲もだ。作曲家・作詞家の多くは得て不得手というか,それぞれの得意領域というのがあるような気がするが,浜口は曲数が多いとは言えないかもしれないが,いろんな領域で良い歌を作っている。

 このころ,リバイバル歌謡曲が多数発売されており,外国ポップスの邦訳を日本人歌手が唄ったレコードも多数発売されている。リバイバルを含めた歌謡曲とポップスというのが当時の二つの大きな領域だっただろう。その後,エレキバンドからグループサウンズへの流れとフォークソングからニューミュージックへの流れに別れ,別ジャンルとして演歌が登場する。

 

手のひらを太陽に(2015.2.17)

昭和36年,詞:やなせたかし,曲:いずみたく,唄:宮城まり子&ビクター少年合唱隊

 「ぼくらはみんな いきている いきているから うたうんだ」と始まる歌。

 昭和37年にはNHKのみんなの歌で紹介されている。私が感じるNHKが好きそうな歌だ。

 歌詞には「みみず」「おけら」「あめんぼ」「とんぼ」「かえる」「みつばち」が登場する。「みんなみんな いきているんだ ともだちなんだ」と歌われているが,人間が優位に立ち「ともだち」になれそうな小動物だけを選んで登場させているように感じる。

 人間と利害が対立する動物を登場させてどう対応するかを論じることを避け,きれいごとで収めてしまっているようだ。

 ただ,「いきているから かなしいんだ」と悲しい時に「生きている」ことの意味に気づくことは重要だ。ここにこの歌の意義がありそうだが,曲調が明るく,落ち込んでいるときにこの歌を聴こうという気になるかどうかは疑問だ。気力が上向いてきたとき,更に気力を充実させるためには有効な歌かもしれない。

 

電話でキッス(2015.10.5)

昭和36年,詞:漣健児,曲:Leonard Whitcup/Slugger Wilson Eart,唄:ダニー飯田とパラダイス・キング

「今日はどうして あの娘と逢えないんだろう」と始まる歌。原曲はPaul AnkaKissin’ on the Phone。原曲は「Every night when I’m alone, All I do is call you on the phone」と始まる。

Paul Ankaもパラキンもどちらもよく聴いた。

当時,私が住んでいた地域では電話を引いている家は1割くらいではなかっただろうか。商家にはかなり普及しており,ちょっとした商店には電話があったように思う。もっと電話が普及していた地域もあっただろうが,ほとんど1軒1台なので電話を一人で長時間占有することは許されないことだった。この歌のような状況は日本では原理的に可能というだけで実際には不可能だったと思う。アメリカではこんなことが可能なのかと驚きと羨望と共に聴いていた。

 

東京ドドンパ娘(2016.2.15)

昭和36年,詞:宮川哲夫,曲:鈴木庸一,唄:渡辺マリ

 「好きになったら はなれられない」と始まる歌。

 曲のリズムはタイトルにあるように典型的なドドンパだ。「はじけるリズム」と唄っているが,今の基準で言えばとてもはじけてるとは言えない。渡辺は非常に丁寧に唄っていると感じる。高速ドドンパというのは聞いたことがないので,ドドンパはみんなこんなものなのだろうが,曲もゆったり流れている。

 まあ,盆踊りでもはじけることはあるかもしれないが,阿波踊り程度のテンポは必要ではないだろうか。どうも炭坑節程度のテンポではじけているようで,当時は全てがゆっくりしていたのだろう。

 はじけるというのではないかもしれないが,昔のエンタテイナーは観客のために一所懸命にいろいろやっていたように感じる。これは今の芸人やミュージシャンの一部に比べてのことだ。最近の一部の芸人たちは,客を楽しませることに努力しているというより,自分達が楽しんでいるように見える。

 

東京の美少年(2016.8.29)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「銀座八丁西東 赤いネオンも消えるころ」と始まる歌。

 『南海の美少年』1)や『美少年忠臣蔵』2)などと比較するとやや低調な流行だったと思う。「東京の美少年」から受ける印象がはっきりしないということだろうか。歴史上の人物はイメージがはっきりし,実際に美少年だったかどうかにかかわりなく,美少年と呼んでも違和感を覚えないのだろう。

 タイトルには美少年を含まないが,田原坂に関する『悲恋の若武者』3)などの歌もあるがこちらにも『馬上豊かに美少年』との歌詞がある。しかし流行はやや低調だったように感じる。主人公が歴史上無名?の若者だったからだろうか。

1)「南海の美少年」(昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

2)「美少年忠臣蔵」(昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

3)「悲恋の若武者」(昭和37年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

 

長良川旅情(2018.9.24)

昭和36年,詞:服部鋭夫,曲:山口俊郎,唄:春日八郎

 「思い出たどり岸辺に立てば 波音瀬音 何語る」と始まる歌。

 詞の出だしだけ聞くと島崎藤村の『千曲川旅情の歌』の川を長良川に変えただけではないかと思うが,一応2番には稲葉城,3番には鵜飼などを登場させて無理矢理長良川に寄せているようだ。

 曲は今ではいかにも昭和30年代中期よりも古い感じを受けるが,当時としては聞き馴れた感じの曲だった。

 

並木の雨(2023.8.15)

昭和36年,詞:高橋掬太郎,曲:池田不二男,唄:井上ひろし

 「並木の路に 雨が降る どこの人やら 傘さして 帰る姿の なつかしや」

 昭和8年,ミス・コロムビアが唄った歌のカバー。当時はカバーという言い方はされず,リバイバル・ソングと呼んだ。

 

南海の美少年(天草四郎の唄)(2012.5.15)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「銀の十字架を胸にかけ」で始まる。「十字架」は「クロス」か「クルス」かだが,島原の乱は寛永14年(1673)年から正月をまたいだ約4ヶ月の戦いであり,時代的にもポルトガル語のクルスだろう。もっとも,歌詞には「原の城跡こここそは」とあり回想であることが判るので英語の「クロス」でもおかしくはない。橋幸夫は「クルス」と唄っているように聞こえる。

 天草四郎は豊臣秀頼のご落胤という話もあるようだが,源義経が大陸に逃れてジンギスカンになったというのと同様の話だろう。

 

南国の夜(2017.4.17)

昭和36年,詞:ララ/訳詞:大橋節夫,曲:ララ,唄:大橋節夫

 「月は輝く南の遥かな夢の国よ」と始まる歌。

 ハワイアンの曲。ハワイアンと言えばウクレレとスチールギターだがこれはスチールギターの曲といって良いだろう。

 そういえば10代の頃,ウクレレもスチールギターを持っていた。実家に置いてあったが,後に捜してみたところ,ウクレレはあったがスチールギターはスタンドとアンプだけが残っており,本体は見つからなかった。

 ハワイアンが特に好きだった訳ではない。ウクレレは牧伸二のウクレレ漫談,スチールギターはマヒナスターズの歌謡曲に魅かれたものだ。当時はマヒナ以外にもハワイアン調の歌謡曲は少なくなかった。

 

日曜はいやよ(2016.9.30)

昭和36年,詞:高崎一郎,曲:ハジダキス,唄:西田佐知子

 「そよ風にのって 雲が 雲が 空を流れる」と始まる歌。

 昭和35年のギリシャで制作されたアメリカ映画「日曜はダメよ」(英題は「Never on Sunday」)の主題歌。

 曲は『メロンの気持ち』1)に似ていると感じた。

 映画も観なかったし,詞に関しても特に印象はなかった。今,詞を読んでみると,きっとギリシャはこんな所なのだろうと想像するイメージによく合っている。私のこのイメージは『魅せられて』2)によって私の中に形成されたエーゲ海のイメージだ。

1)「メロンの気持ち」(昭和35年,詞:C.Rigual/ホセ・しばさき,曲:C.Rigual,唄:森山加代子)

2)「魅せられて」(昭和54年,詞:阿木耀子,曲:筒美京平,唄:ジュディ・オング)

 

24,000のキッス(2015.10.26)

昭和36年,詞:荒井基裕,Fuci Lucio, Vivarelli Piero,曲:Celentano Adriano, De Paulis Ebe,唄:藤木孝

 「僕をくるわせる 僕はあの娘が好き あの娘も僕が好き」と始まる歌。元歌はAdrianoCelentanoの「24 MIRA BACI」。

「一秒のキッスを一日続ければ24,000」とあるが不眠不休ならば1時間に1000回,3.6秒に一回ということになる。

藤木孝はツイスト男と呼ばれ,人気絶頂だったと思うが短期間でその歌を聴くことがなくなった。歌手を引退して俳優に転身したのだ。ツイスト系の歌を唄うときのハイテンションを続けることは困難だったのだろうと想像する。

なお,後に出たゴールデン・ハーフ盤(昭和47年)の日本語詞はタカオ・カンベとなっている。雑誌『明星』昭和568月号の付録には藤木孝盤の日本語詞をタカオカンベとしている。荒井基裕はカンツォーネの人らしいからこの歌を日本語に訳したこともありうるだろう。

 

ぬれた瞳(2015.3.24)

昭和36年,詞:宮川哲夫,曲:渡久地政信,唄:松島アキラ

「何か言ったら泣けそうで」と始まる歌。「さざん花さざん花さざん花の」と何度も繰り 返される。別れた娘を思い出している歌だ。

 当時は地元に職がなく,家業を継げない者は都会に就職した。交通が不便なので一度故郷を離れてしまうと簡単には帰ることができない。電話もほとんどない時代である。学校をでて離れ離れになるということは二度と会えないということに等しい。

 「熱い想いを秘めたまま 終わったはかない恋だった」というのは珍しくなかった。当人同士の思いだけでは生活できないのだから仕方がない。はかない恋だったからこそ強く想い出として残っているということもできるが,新たな恋が芽生える出会いの機会がなかったから想い出が強く残ったとも言える。

 

はたちの詩集(2020.3.24)

昭和36年,詞:高月ことば,曲:上条たけし,唄:白根一男

 「花の命の 短さを 初めて知った 哀しさに」と始まる。

 やや長めの台詞があり,中に「初恋なんて どうせ こんなものなんだよ」とあることから実らぬ初恋の歌だと解る。

 初恋という言葉は人によって内容の理解が異なるようだ。いまの場合は二十歳で思い出になっているようなので,それ以前のことなのだろうが遠い過去の話ではなさそうだ。

人によっては,.初恋は幼稚園のときなどという人も居る。幼稚園児と二十歳の若者では同じ初恋という言葉を使っても内容はきっと異なるだろう。私のイメージでは初恋はロウティーンのもので淡いものだ。そのイメージと比べると,この歌ではやや年齢が高く,形見の詩集が残っているということは,それなりの交流があったように感じる。それだけの想い出があればいいではないか。詩集も「焼いてしまおう」などと思わずに大切に保存すればいいではないか。

 

花の白虎隊(2012.2.23)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「会津若松鶴ヶ城」で始まる「飯盛山上十九人」の歌である。

 白虎隊は会津藩が官軍と戦った会津戦争の際,会津藩の16, 7の少年で編成された部隊であり300名以上いたはずだ。官軍に圧倒され,20名の白虎隊兵士は飯盛山に落ちのびる。この歌には1番の後に「南鶴ヶ城を望めば砲煙上がる」と詩吟が入るが,この20名は市中火災の煙を見て鶴ヶ城落城と誤認し自刃した。1名はかろうじて一命をとりとめたが。

 自刃は落城と誤認したからではないとする説もある。戦力の圧倒的な差を目の当りにして,「玉砕しよう」とする意見に「意識不明になって囚われる危惧」の意見が勝ち自刃したというのだ。少年ではあっても武士の覚悟というのはこのように厳しいものだったのだ。

 この戦いでは会津藩の多くの婦女子が戦ってあるいは自刃して亡くなっている。会津藩にとっては玉砕覚悟の総力戦だった。

 橋幸夫は歴史を題材にした歌をいろいろ唄っていた。私は歴史の勉強は「講談」「落語」「浪曲」「歌謡曲」などでやってあとは「映画」や「小説」になった。まあ,嘘も多いが頭には入りやすい。題材が限られているのが難点だが。適切な時期に正しい?歴史を学ぶことも大切だ。このとき,知っている名前がでてくると理解しやすいような気がする。

 

はるかなる道(2019.12.19)

昭和36年,詞:星野哲郎,曲:古賀政男,唄;島倉千代子

 「よろこびの 丘を越えれば かなしみの谷間へつづく 九十九折り」と始まる歌。

 「愛することは 遥かなる道」,「もとへは帰れぬ」,「ふたりじゃ通れぬ 道とは知れど」などとある。当時の島倉の得意分野のひとつに合わせて作られた歌だろう。

 

パイナップル・プリンセス(2015.4.30)

昭和36年,詞:Sherman,日本語詞:漣健児,曲:Sherman,唄:田代みどり

 「パイナップル・プリンセス かわいい パイナップル・プリンセス」と始まる歌。

 詞に「私はワイキキ生まれ」とあるので舞台はハワイだ。

 戦後,日本人の観光目的海外渡航が解禁されたのは昭和39年である。昭和39年には一人年一回500ドルという外貨持ち出し制限があった。1ドル360 円の時代である。というわけで日本人にとってハワイ旅行は夢のまた夢だった。

 観光渡航が可能になった以後も,ハワイは夢の観光地だった。庶民には高価で手がとどかず,金持ちでも500ドルでは豪遊などとてもできなかっただろう。(抜け道があったのかどうかは知らない。)あこがれのハワイを模した?常磐ハワイアンセンターが福島県に設立されたのが昭和41年である。当時,常磐ハワイアンセンターでも遠方から簡単に行ける場所ではなかった。

 この歌が発売された当時,日本からハワイを訪れた人の数は極めて限られていただろうが,真珠湾がハワイにあることや岡晴夫の歌1)によりハワイの名は恐らく誰もが知っていただろう。

 そういえば,当時生のパイナップルは見たことがなかった。全く無いわけではなかったようだが,普通にパイナップルというと病気のときに食べることができるかもしれない缶詰だった。バナナや卵が病気見舞いに使われた時代はこの時代が最後かも知れない。堺屋太一が『巨人 大鵬 卵焼き』2)との言葉を発したのが昭和36年だから,卵は庶民にも日常的に手に入る食材になってきていたのだろう。

 『ムームー』と呼ばれる女性用の衣服が広まったのはこの頃ではないだろうか。これはハワイの衣装だそうだが,この方面の知識のない私には昭和初期の『アッパッパ』とどう違うのかいまだに解らない。

 後に『つなき&みどり』として『愛の挽歌』3)をヒットさせたのはこの田代みどりとブルコメにいた三原綱木である。

1)「憧れのハワイ航路」(昭和23年,詞:石本美由起,曲:江口夜詩,唄:岡晴夫)

2)当時の子供に好かれていたものの代表。野球の読売巨人軍,相撲の横綱大鵬,もうひとつが卵焼きということ。昭和4045年ころがこの言葉の最盛期だろう。

3)「愛の挽歌」(昭和47年,詞:橋本淳,曲:筒美京平,唄:つなき&みどり)

 

パイのパイのパイ(2016.3.13)

昭和36年,詞:渡舟人,曲:神長瞭月,唄:森山加代子

「お山で育った山猿が 東京の空にあこがれて」と始まる歌。コミック・ソングだろう。「ラメチャンタラ ギッチョンチョンデ パイノパイノパイ」などと意味不明なのだが耳に残る。

1番は東京の喧騒に目を廻し,2番では八百屋のかぼちゃの愚痴を聞く。「もしもメロンに生まれたら あたしもスターになれたのに」という訳だ。

3番は「ラーメン,餃子に,肉饅頭・・・・」と,食べ物が羅列され,最後にオチがつくのだが,ネタばらしは許されないだろう。

最初に記載した作曲者は私がこの曲をリストアップしたときに参照した資料に記載されているとおりに書いたのだが,今では何を参照したのか不明だ。

Wikipediaによれば,Henry Clay Work作曲のMarching Through Georgiaという曲が原曲で日本に入ってきたのは明治時代,演歌師の添田知道の詞が大正時代に流行したのが日本での最初の流行とのことである。添田の詞自体が既に流行していた詞を基にしているらしい。

添田の歌自体は平和節あるいは東京節などとあるが,『東京節』のタイトルからも解るようにご当地ソングである。東京節に登場する単語は『丸の内』『日比谷公園』『帝劇』『馬場先門』『東京駅』『浅草』『花屋敷』『すし』『おこし』『てんぷら』『三百万人』『満員電車』等々である。大正時代,東京の人口は300万人だったのだ。

そういえば,中学の修学旅行は関東だったが,当時の東京土産の定番は雷おこしだった。小学校の修学旅行は関西だったが,大阪土産の代表は粟おこしだった。『おこし』が名物だった時代はかなり長いようだ。ついでながら,京都は五色豆と硬い八橋で,あん入り生八橋はまだ売っていなかった。

 

日暮れの小径(2017.7.20)

昭和36年,詞:へてな・たつ,曲:鈴木英治,唄:北原謙二

 「二人で歩いた日暮の小径 きれいに咲いてたユリの花」と始まる歌。

 「いつもあの娘が歌ってた」とあって「ここはどこの細道じゃ」とか「この子の七つのお祝いに」など『とおりゃんせ』が挿入されている。

 北原のデビュー曲。当然だが,北原独特の声なのだが,このような(変な?)声でヒット曲を量産するようになるとは思わなかった。

 

ひばりのドドンパ(2018.12.19)

昭和36年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり

 「わたしはドドンパむすめ いつでも本気で勝負する」と始まる歌。

 歌詞のどこをとっても強烈な印象だが,これらが多すぎて,結局耳に残るのは「ドドンパ ドドンパ ドドンパッときてドドンパ」だ。

 

ひばりの渡り鳥だよ(2017.10.1)

昭和36年,詞:西沢爽,曲:狛林正一,唄:美空ひばり

 「じれったいほどあの娘のことが 泣けてきやんす ちょいと三度笠」と始まる歌。

 ひばりはいろんな雰囲気の歌を唄っているが,この歌は『港町十三番地』1)と雰囲気が似ている。共通点はどちらも流れ者の歌だが『港町〜』では『船が着く日に咲かせた花を 舟が出る夜 散らす風』と『みんな忘れ』てまた次の航海にでる雰囲気だが,『〜渡り鳥だよ』では『逢うに逢えぬと思うほど 逢いたさつのる旅の空』と想い人がいるようだ。女性が唄う男歌の詞としては『〜渡り鳥だよ』のほうが私の好みに合う。

 男歌と書いたが当時のマドロスさんは男性だっただろう。渡世人も,後には女渡世人が登場する話も作られているが,当時まではほぼ男性に限られていただろう。

 曲から受ける雰囲気は二曲はよく似ている。ひばりの歌唱はどちらも良い。

1)「港町十三番地」(昭和32年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄:美空ひばり)

 

振り向いたあいつ(2016.10.30)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

「今夜でもいい いいんだぜ 信号灯の街の角」と始まる歌。

「ラッシュアワーの流れの中で」「出会ったあいつ」の歌。一瞬,「あいつ」とは女性だろうかとも思うのだが,「男の顔さ あの顔は」とあるので男性だ。

結局,『男心に男が惚れて』という感じなのだろうが,背景が理解できず,何となく見た目だけの話のようなので感情移入ができない歌だ。

『明日を呼ぶ港』1)B面曲である。

1)「明日を呼ぶ港」(昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

 

北海道函館本線(2018.11.21)

昭和36年,詞:藤間哲郎,曲:櫻田誠一,唄:三橋美智也

 「都はるかに 今を発車の ああ 函館本線」

 汽車での別れの歌だ。「恋に涙の」とあるので何となく状況は想像できるが「生きて逢えねば ましてなお更に」と今生の別れのようだ。

 当時の私はこの別れの事情など全く考えることはなかった。ただ,汽車に乗って行く所は遠い所だという認識しかなかった。

当時は出征兵士を送るという時代ではないし,集団就職などなら盆・正月に帰省することも(休みと汽車賃の問題で極めて困難だったが)不可能ではなかっただろう。唯一,二度と逢えないかもというのは外国への移民だった。最後は船に乗るのだが,港までは見送りにいけないから最寄り駅で見送ることになる。私の同級生にも南米に移民した者がいる。当時はそのような状況を漠然と考えていた。

今思うと,どちらか一方に縁談があったのだろう。当時は断ることができない縁談があった。それならその後再び逢うことはないというのが普通だ。当時の私は,まだ子供で,そこには考えが及ばなかった。(

北海の暴れん坊(2017.11.9)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫

 「ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン」と始まり,曲の途中にもソーラン節が歌詞・メロディー共そのまま挿入されている歌。

 オリジナル歌詞は「腕にすがって 可愛いじゃないか」と始まる。

 これまでの歌や外見から,北の海に出て行く男としては,橋幸夫は技術はともかく,肉体的にやや頑強さが不足ではないかと感じた。

 

北帰行(2012.7.10)

昭和36年,詞:宇田博,曲:宇田博,唄:小林旭

 「窓は夜露に濡れて」と始まる別れの歌。

 原曲は昭和16年に反抗児であった宇田が校則違反で旧制高校を放校処分になったとき友人に残した曲で,その後旅順高校の(隠れた?)寮歌として歌われていたらしい。旅順高校自体は敗戦により消滅したが,この歌は旅の歌として唄い続けられた。特に,登山愛好家などの間ではよく唄われた。その間に歌詞にはいくつかのバリエーションができたようだ。

 小林旭のこの歌は,原曲の1,3,5番を1,2,3番にしたような歌で原曲の2,4番を省略し,3番はかなり,5番も少し変更されているが,私がみるところ,歌詞の省略・改変によりこの歌の価値を損ねたということは全くない。

 「さらば愛しき人よ」という言葉が入ってはいるが,歌謡曲には少ない硬派な歌詞の歌だ。何人かの歌手が唄ったこの歌をきいたことがあるが,当時の小林旭の唄が一番良い。歌手によっては単なる旅の歌のように聞こえる場合もあるが,小林旭の唄には原曲の反骨精神が残っている。「渡り鳥シリーズ」1)との関係は感じないが,無意識のうちに滝伸次と小林旭を重ねているのかもしれない。懐メロ番組などで唄う小林旭よりも当時の録音のほうが良い。

 懐メロ番組で昔の自分の歌を唄う歌手が昔と唄い方を変えている場合がよくある。私はオリジナルから唄い方を変えて唄われて,新しい歌唱法のほうがよいと感じたことは一度もない。印象では小林旭の変化は意図的ではなく,自然に変ったもののように思うが,歌手によっては昔伸ばしてなかったところを伸ばしたりして聴くに耐えないときもある。懐メロを聴くのは当時の曲をそのままに聴きたい。

1)小林旭が演じる滝伸次を主人公とする日活映画。シリーズで8作ある。共演は浅丘ルリ子だが,浅丘の役名は作毎に異なる。

 

惚れたって駄目よ(2014.8.30)

昭和36年,詞:佐伯孝夫,採譜:和田弘,唄:和田弘とマヒナスターズ

 「惚れたってだめヨ私ウブなんだもの」と始まる歌。1番と3番は明らかに女歌だが2番と4番は男歌だろう。この男歌の部分がどうも言葉使いが女っぽい。ひょっとしたら団令子1)あたりなら言いそうな台詞のようにも聞こえ,全体が女歌なのかとも考え込んでしまう。佐伯ももう少し男っぽい詞にしておいてくれたら私も悩まずに済んだのにと思う。あるいは,このころから男のように話す女学生が現れていてそれを表現したものだろうか。

 マヒナの歌としてはもっと典型的なムード歌謡のほうが好きだ。

1)私は団令子と一回り以上の年齢差があり,団の映画で記憶に残っているものはないのだが,なぜか名前が浮かんだ。実際の団および役柄からくる団のイメージと私が持っている団のイメージは違っているのかもしれない。

 

ポケット・トランジスター(2017.12.31)

昭和36年,詞:ジャック・ケラー,日本語詞:渡舟人,曲:ラリー・コルバー,唄:森山加代子

「私の持っている小ちゃなポケット・トランジスタ 毎晩ヒット・パレード聴くの」と始まる歌。元歌はAlma CoganPocket Transistor。漣健児の詞を飯田久彦も唄っている。

元歌の歌詞は「Oh he just couldn’t resist her with her pocket transistor」と始まる。英語の歌も何度も聴いた記憶があるが,Alma Coganの名の印象は薄いので,ザ・ヒットパレードなどのテレビ番組で日本人歌手が英語で唄っていたのを聴いたのかもしれない。英語の歌詞をカタカナで聞き取り,紙に書いて覚えた記憶はあるが,当時,正確な英文は不明だった。

当時の記憶をたどりながら現在歌詞を見ると,当たらずとも遠からずといったところでそれなりに特徴をとらえて聞き取っていたようだが,意味を理解できるほどの正確さではなかったことが解る。

 この歌詞のトランジスタはもちろんトランジスターラジオである。当時はトランジスターと表記するのが標準だったが、オイルショックの頃,紙の価格が急騰し,学会誌などのページ数を出来るだけ減らそうと,電気学会などではトランジスタと表記すると決めた。

 当時のトランジスターラジオは小さいことと電池消費が少ないことが特徴だった。それまでにあった真空管式のポータブルラジオが弁当箱(ドカ弁サイズ?)位だったのが小さいものでは無理すれば,大きな胸ポケットに入る位になった。音質はほとんど気にされていなかったのではないか。

 もちろん,当時から音質を気にする人たちはいて,その人たちは据え置き型の大きなHiFi(ハイファイ)セットを使っていた。当時の技術では低音を十分に出すには大型スピーカが必要だったからだ。ラジオのステレオ放送もやってはいたが,一つの放送が,右チャンネルを放送する局と左チャンネルを放送する局2局がペアで放送していた。この放送を受信するためのチューナーは二つの放送局が同時に聴けるよう,二つのラジオセットで構成されていた。一つの放送でステレオ放送が可能になったのはFM放送開始後で,大きめのスピーカをつけたラジカセを肩に担いで歩くのが流行ったのは更にカセットテープが発売された後のことである。これもウォークマンにとって代わられるが。

 

モスラの歌(2017.8.6)

昭和36年,詞:由紀こうじ/大槻秀樹,曲:古関裕而,唄:ザ・ピーナッツ

 「モスラヤ モスラ ドゥンガン カサクヤン インドゥムウ」と始まる歌。

 東宝映画「モスラ」の中で使われた,モスラを呼び出す呪文のような歌。 説明不要だとは思うが,モスラはゴジラ・ラドンとともに東宝三大怪獣と呼ばれている。

 Wikipediaによれば,作詞者の由起こうじは田中友幸・本多猪四朗・関沢新一の共同ペンネームで,彼らが書いた日本語詞を大槻秀樹がインドネシア語に訳したとのこと。

 

山のロザリア(2013.8.21)

昭和36年,訳詞:丘灯至夫,曲:ロシア民謡,唄:スリー・グレイセス

 「山の娘ロザリアいつも一人うたうよ」と始まる歌。

 「胸に抱くは形見の銀のロケット」とあるので死別だと思うのだが,「やさしかったあの人」にかける想いを歌った歌だ。抑制された悲しみの表現が,どうにもならない哀しさをよりいっそう訴える。スリー・グレイセスの素人っぽい声・・・もちろん彼女たちは素人ではなく,自然な声というべきであろうか,・・・がよりいっそう「山の娘」によく似合う。

 この歌の歌詞を見ると1番から4番まである。しかし,メロディーの後半は前半の繰り返しなので,歌を聴いていると同じ旋律が8回出てくる。当時は歌声喫茶の全盛期ではないだろうか。歌声喫茶でこの歌が唄われれば,初めて聴いた人でも途中から一緒に唄えるようになる。自分で唄う歌として流行したのであろう。もちろん聴くだけでも歌の哀愁は聴く人の心をうつ。

 

夕月(2017.5.10)

昭和36年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:島倉千代子

 「鴎が啼いてる磯浜に ほのかに浮かんだ夕月が」と始まる歌。

 年末の発売で,昭和37年1月から放映された東京放送TVのドラマ『あの橋の畔(たもと)で』の主題歌。

 『あの橋』とは『数寄屋橋』であり,新版の『君の名は』1)だ。新版ドラマでは再開を約した数寄屋橋を訪れてみると橋は既に取り壊されていたことになっている。実際にも橋は高速道路建設のために昭和33年に取り壊されたらしい。私は後に東京へ行ったとき,数寄屋橋まで行ってみて『何だ,こんな所か』と思って帰ってきたのだが,その時は橋が取り壊されてしまっていたことを知らなかった。橋はあったように思うのだが,あれは何だったのだろうか。

 閑話休題。

 島倉千代子には日本調の歌が合う。当時の声の艶も良く,この歌は島倉の代表曲の一つだろう。

 

ラストダンスは私に(2015.5.30)

昭和36年,詞:D.PomusM.Schuman・岩谷時子,曲:D.PomusM.Schuman,唄:越路吹雪

 「貴方の好きな人と踊ってらしていいわ」と始まる歌。

 「けれども 私がここにいることだけ どうぞ 忘れないで」と釘をさす。越路吹雪の声量でこのようなことを言われたら,ビビッてしまう。それほど迫力がある。にっこり笑って・・・何をされるかわからない恐ろしさを感じる。『愛の賛歌』1)などを唄っているときも迫力があるが,迫力の質が違う。

原曲は昭和35年米国のドリフターズというグループによって歌われた「Save the Last Dance for Me」という曲らしいが,私は知らない。

1)「愛の賛歌」(昭和27年,詞:M.MonnotE.Piaf・岩谷時子,曲:M.MonnotE.Piaf,唄:越路吹雪)

 

別れの磯千鳥(2024.7.28)

昭和36年,詞:福山たか子,曲:フランシス座波,唄:井上ひろし

 「逢うが別れの はじめとは 知らぬ私じゃ ないけれど」と始まる。

 「希望の船よ ドラの音に いとしあなたの 面影が はるか彼方に 消えて行く」と別れの歌だ。男にとっては希望の船出かもしれないが,女の「せつなく残る この思い 知っているのは磯千鳥」という歌。

 この頃,リバイバルソングが流行した。この歌は昭和27年,近江敏郎が唄った歌。

 

忘れないさ(2013.11.22)

昭和36年,詞:三浦康照,曲:山路進一,唄:北原謙二

 「泣かないって約束したのに」と始まる歌。

 独特な声の男性歌手といえばなんと言っても森進一だろう。このハスキー系の声の代表といえば当時は守屋浩,後にもんたよしのりというところだろうか。違う方向の独特な声では藤島垣夫がいた。この藤島系を,やや普通の声よりにしたのが北原謙二だった。藤島垣夫は台詞入りの歌で台詞の部分の発声も独特だったが北原謙二は歌唱中でも普通に近い発声の場合もある。

 最近,出歩くのが少ないということもあるかもしれないが,お下げ髪をほとんど見ない。このころはクラスに数人はいたのではないだろうか。「お下げが風にゆれていた」とあるが,私のお下げ髪のイメージはもっと重量があり,少々の風でゆれることは無いように思う。「綺麗に編んだお下げ髪」とあるので,やはり三つ網なのだろうが,先端が揺れていたということなのだろうか。

 

Don’t Treat Me Like a Child<子供ぢゃないの>(2017.11.29)

昭和36年,詞:John Schroeder/Mike Hawker,曲:John Schroeder/Mike Hawker,唄:Helen Shapiro

Well just because I’m in my teens and I still go to school」と始まる歌。

「子供ぢゃないの」のタイトルで漣健児の訳を弘田三枝子が唄っている。こちらは「ウェル 私はお茶目なハイティーン 先生は駄目だと言うけれど」と始まる。

 私の印象ではConnie Francisの『Too Many Rules1)と似た印象だが,こちらの邦題が『大人になりたい』で,Helen Shapiroのこの歌のタイトルと若干のニュアンスの違いがあり,二つの歌もこの邦題のニュアンスどおりになっている。

1)Too Many Rules」(昭和36年,詞:Gary Temkin, Don Stirling,曲:Gary Temkin, Don Stirling,唄:Connie Francis

 

500 Miles<500マイルも離れて>(2018.6.20)

昭和36年,詞:Hedy West,曲:Hedy West,唄:Hedy West

 「If you miss the train I’m on, you will know that I am gone.」と始まる歌。

 汽車に乗って故郷から500マイルも離れて行く。「A hundred miles, a hundred miles, a hundered miles, a hundred miles」と繰り返される箇所等,故郷(そして恋人)と次第に遠く離れて行く感じがよく出ている。未来に向かう希望よりも,もう戻れないという気分を強く感じる。

 当時の500マイルはかなりの距離に感じただろう。日本でも集団就職が盛んにおこなわれていた時期だ。線路は繋がっているとしても,現実には費用もかかり,錦が飾れるまではと思っていると結局は帰ることができない。

昭和37年にPeter, Paul and Maryがカバーしてヒットした。

 

Going Home To Mary Lou<恋の一番列車>(2016.11.28)

昭和36年,詞:Howard Greenfield,曲:Neil Sedaka 唄:Neil Sedaka

Ding dong ding dong click clack a chugga chugga Ding don ding dong do」と始まる歌。

邦題は『恋の一番列車』で新藤晴男の訳詞もあり,清原タケシが唄った。当時(今も大して変わりはないが),英語のヒアリングは全くできず,印象に残っているのはこの出だしの箇所だ。意味は日本語の詞から想像していた。

こうして書き出してみると,Neil Sedakaの曲をそれほど聴いたという印象はないのだが,記憶に残っている曲を調べてみるとこれもNeil Sedakaだったのかと思う。

 

Happy Birthday Sweet Sixteen<すてきな16才>(2016.4.25)

昭和36年,詞:Howard Greenfield,曲:Neil Sedaka,唄:Neil Sedaka

Tra la la la la la la la Happy birthday sweet sixteen」と始まる歌。

歌詞には「When you were only six, I was your big brother」とあり,6歳のときには既に知り合いで,「big brother」というのだから年上だ。今16歳になり,とっても綺麗だよというような感じだ。ニール・セダカは昭和14年生まれのはずだからこの頃23歳か。10年前には小さな子供だったのに・・・という歌なのだろう。23歳の男性から見た16才の少女の歌だ。

漣健児の日本語詞を弘田三枝子が唄ったときのタイトルは「すてきな16才」だ。日本語の歌詞は「口紅つけて気どってみたの」などとあり,16才の少女の歌に変えられている。

この頃,ミドルティーンやハイティーンであることをタイトルに入れるなどして年齢を強調した歌が何曲もあったように思う。

 

Johnny Remember Me<霧の中のジョニー>(2017.6.2)

昭和36年,詞:Goddard Geoffrey,曲:Goddard Geoffrey,唄:John Leyton

When the mist’s a-rising  And the rain is falling」と始まる歌。詞には似合わぬ軽快なリズムと,ところどころに入る哀愁を帯びた女性コーラスの「Johnny remember me」が印象に残る。

日本語タイトルは「霧の中のジョニー」。漣健児の詞を克美しげるが唄っていた。こちらは「霧がたちこめ冷たい雨が降ると どこか遠くから」と始まる。

 

Kissin’ on the Phone(2017.8.22)

昭和36年,詞:Leonard Whitcup,曲:Earl Wilson,唄:Paul Anka

Every night when I’m all alone」と始まる歌。邦題は「電話でキッス」。                                                                                                                                          

ダニー飯田とパラダイスキングや飯田久彦などが日本語の歌詞で唄っている。

エレキバンドが流行する前は歌詞も聞き取れないのにこのような歌を聴いていた。歌詞が聞き取れないので英語でもイタリア語でも何語でも来いということで聴いていた。ずっと後に私が酒を飲み始めたころ,一時ジュークボックスのある店に通っていた時期がある。EP盤のレコードを機械が捜してきてプレーヤに載せて再生するタイプで,一時のハリウッド映画によく登場したタイプだ。この歌がでてからかなりの年数が経っていたが,まだこの歌のレコードなどもはいっていた。ひょっとしたら60年代のアメリカをイメージした店だったのかも知れないが,気付かずに曲を聴き,ジンライムなどを飲んでいた。

 

Little Devil<小さな悪魔>(2013.12.28)

昭和36年,詞:N.Sedaka & H.Greenfield,曲:N.Sedaka & H.Greenfield,唄:Neil Sedaka

 「Hey little Devil you’re always runnin around」と始まる歌。といってもその前に「Wow wow wow wow yeah yeah yeah hey little devil」とコーラスが入っている。

漣健児の訳詞を飯田久彦が歌っていた。テレビでは飯田久彦を聴き,ラジオではNeil Sedakaを聴いていたように思う。但し英語の歌詞はチンプンカンプン。意味は日本語歌詞から想像していた。

 今,歌詞を文字で見てみると,英語力というか,英語圏の文化に関する知識のなさが身にしみる。「I’m gonna make an angel out of you」などという歌詞を見て,背景が理解できていなことに気付くのだ。天使と悪魔という言葉を聞くとルシファーが思い浮かぶのだが,ルシファーはsatanと呼ばれているように思う。satandevilはどう違うのか知らないが,印象としては格の高い悪魔がsatanのような気もする。

 この歌ではlittle devilは少女だが,キャンディーズは少年を悪魔と歌っている1)。いずれも,自分の心を惑わす相手という程度の意味だろうか。ずっと昔なら,そのような言葉を口にすることすら憚っただろう。信仰心が薄れたのか,惧れを知らずなんでも口にする。本当の悪魔を知らない幼い心が言わせる言葉だろうか。あるいは,そもそもdevilというのは煩悩の元という程度の意味だったのだろうか。

 小悪魔と聞くと,私の世代では緑魔子などを思い起こすのではないだろうか。デビルならばブラックデビル2)だ。

1)      「やさしい悪魔」(昭和52年,詞:喜多條忠,曲:吉田拓郎,唄:キャンディーズ)

2)      「少年ジェット」(武内つなよし,昭和34年〜,ぼくら)昭和34年からフジテレビ系でアニメ放映もされている。ブラックデビルは主人公の少年ジェットの敵。オランダ製のタバコにこの名のものがあるらしいが,私が思い出すのはタバコではない。

 

Moon River(2018.6.2)

昭和36年,詞:Johnny Mercer,曲:Henry Mancini,唄:Audrey Hepburn

 「Moon river, wider than a mile」と始まる歌。

 映画「Breakfast at Tiffany」の中でHepburnが唄った。

 私が聴いたのは昭和37年にAndy Williamsが唄ったバージョンだ。

 マンハッタンには毎日通勤していた時期があったが,地下鉄に乗っていたので地上へはあまり出たことがない。最初に地上に出たとき(その前にもバスと地下鉄の乗り継ぎなどで短時間なら毎日地上には出ているが)に,行ってみたのがティファニーだった。前に行っただけで,ティファニーの近くで昼食を食べた。その時はセントラルパークとジョン・レノンが最後に住んでいたダコタ・ハウスの前にも行ってみた。今はどうか知らないが,当時何かの事件があったのだろうか,新聞に銃撃事件のあった場所の特集のようなものがあり,マンハッタンの地図のいたるところに印がついていたのでなるべく地上を歩き回らないようにしていた。地下鉄も安全とは言えないが,安全区域?というような領域がホームに表示してあり,その領域はカメラで監視しているようだったし,その領域から乗車すると,その車両には制服警官が乗っていることが多かった。中にはpistol sharp shooterなどというバッジをつけている警官もいた。私服警官も少なからずいたようだ。一度,地下鉄の駅構内で,私服警官が拳銃を抜き,バッジを示しながら大声で何か言っているのを見たことがある。容疑者?は大人しく壁に手を付き,後ろからボディチェックを受けていた。

 当時,私が聴いた話では,マンハッタンでの命の値段は20ドルだった。路上でhold upに出逢った時,20ドルくらいを渡すのがベストという意味だ。勿論,財布から20ドル取り出して渡せばよいという訳ではない。有り金は全てとられるのだが,それが多いと後腐れのないようにハドソン川に沈められかねないという意味だ。20ドルくらいなら警察も真剣に相手をしてくれないので後腐れがないということだ。5ドルくらいだと,危ない橋を渡っているのにこれだけかと強盗も満足できないので,腹いせに何をされるかわからないということらしい。・・・その後,20ドルでは済まなくなったと聞いた。

 最初はそんなことは知らないから,初めて大学のカフェテリアにいったとき100ドル札を出したら,レジのおばちゃんにこんな大金持ち歩くべきじゃないと説教されてしまった。

 

Please Mr. Postman(2017.11.19)

昭和36年,詞:Georgia Dobbins, William Garrett, Brian Holland, Robert Bateman, Freddie Gorman,曲:Georgia Dobbins, William Garrett, Brian Holland, Robert Bateman, Freddie Gorman,唄:The Marvelettes

 「Oh yes, wait a minute Mister Postman」と始まる歌。

昭和38 年にThe Beatles,昭和49年にCarpentersが歌っている。最も強く私の記憶に残っているのはCarpenters版だ。というか,他は記憶にないレベルだ。歌集をぱらぱらめくりながら見ていて発見した。

当時のことはほとんど忘れてしまった,というより年代がごちゃ混ぜになってしまったが,第1世代のテレビが故障しはじめ,第2世代のテレビが出ていた頃ではなかろうか。第1世代というのは家庭用テレビの話で,これより前にも街頭テレビがあった。

1世代のテレビはMT管を使った電源トランス付きだったが,第2世代はMT管ではあるがトランスレスになっていた。勿論白黒である。当時のテレビの故障の大部分が,チューナの接点不良と真空管不良であった。チューナの真空管以外にも垂直振幅の真空管も比較的故障が多かった。電器屋に修理を頼むと,やってきてまず掃除をし,画面を見て関係ありそうな真空管を交換してみるというようなやり方で,私でもできそうだった。掃除だけで症状が改善してしまうと,これで金を取るのは申し訳ないと思うのか,よく壊れる真空管を交換していくこともあったように感じていた。

交換した古い真空管は言うとくれた。というかもともと家の物だが。真空管不良は多くの場合エミ減である。真空管はカソード電極をヒータで加熱し,カソードから電子を真空管中に熱電子放出させて正の高電圧をかけたプレートと呼ばれる電極に向けて流す。この電子流を制御格子と呼ばれる電極に印加する電圧で制御するのだが,種々の原因でカソードからの熱電子放出(エミッション)が減ると出力に流せる電流が小さくなるのだ。

エミ減の真空管は用途によってはそのまま使え,熱電子放出はカソード温度上昇により増加するので,カソード・エミッションをどうしても増やしたい場合にはヒータに印加する電圧を上げて1)ヒータに消費されるパワーを増やせば良い。ヒータ断線などの場合でもパルス電流を流して熔接するなどの裏技もあった。

ラジオが普及した当時,並3や並4という真空管を3本あるいは4本使ったラジオの他に,もっと多くの真空管を使った高級品もあり,ラジオ等に使われる真空管の数は機器によりまちまちだった。恐らくこれに対応するためだろう,真空管のヒータ用の電源(A電源と呼ぶ)は6.3Vのものが多かった。このA電源のために初期のラジオやテレビは電源トランスが必要だった。真空管のプレート回路には300V程度の直流電源(B電源)が必要だが,電源トランスにはこの巻線もついていた。制御格子用の電源(C電源)は別に用意せず,バイアス回路と呼ばれる回路でB電源からとっていた。

それがこの時代より少し前から,ラジオは五球スーパー(スーパーヘテロダイン方式)が一般になり,真空管を5本使うラジオが標準となった。いつも5本の真空管を組にして使うなら,それぞれのヒータを直列に接続して100Vで動作するようにすればA電源のトランスが不要になるということで,部品点数減,軽量化ということでこのようにヒータ電圧を設計したトランスレス回路用の真空管2)が作られ,一気に普及した。テレビも必要な回路は決まっているので必要な真空管数は一定だ。また,B電源用には昔から倍電圧整流など,高電圧直流を得る方法は知られていた。せっかくトランスがあるのでトランスで昇圧していたのだ。

 というわけでこの頃から,不良品ということで入手できる真空管のヒータ電圧にいろんな電圧のものがでてきて,違う用途に使おうとするとき,A電源に苦労するようになった。

 ついでながら,当時はまだトランジスタは高価だった。トランジスタが出始めて間もない頃は1個でサラリーマンの月収以上という貴重品だったトランジスタもこのころには買えない値段ではなかったが,高周波用や低周波用でもパワートランジスタはまだ高価だった。1本のリート線が根本から折れてしまったトランジスタもまだダイオードとして使えるととっておいた時代だ。遥かに値段の安い炭素被膜抵抗が断線しても,表面のエナメルを剥ぎ,テスターで抵抗値を測りながら鉛筆を塗って必要な抵抗値のものを創ったりした。現代は機器が故障したら新品と交換するしかない場合が多いが,当時は自分でもいろんなものを修理することができた。・・・トルク・レンチなどというハイカラな工具は持っていないので力一杯回してボルトをねじ切ったりしたことも少なくないが。

1)昔は配電事情が悪く,供給電圧が下がることもあったので電源トランスの1次巻線には90Vなど,配電電圧低下の際に使用するタップが出ていた。ここに電源を接続するだけで2次電圧が上がる。(何の対策もせずにこのような方法で電圧を上げれば,当然種々の部品の寿命は短くなりやすい。)

2)一部の真空管のヒータ電圧は12.6Vであり,ヒータのセンター端子がでていて6.3Vでも使えるようになっていた。

 

Someone Else’s Boy<夢のデート>(2015.6.29)

昭和36年,詞:Athena Hosey, Hal Gordon,曲:Athena Hosey, Hal Gordon,唄:Connie Francis

In the lonely night, I wake up to find someone else’s boy」と始まる歌。その前に当時流行していた「Whoa-oh-oh, whoa, whoa, whoa, whoa, whoa」が繰り返されるが。

日本語タイトルは「夢のデート」。浜口庫之助による日本語詞もある。日本語の歌詞は「夢に見た恋人は友だちの恋人よ」と始まる。

英語の歌詞は私には聞き取れないのだが,歌詞を読むと「Whenever I see them together」とあり,夢に出てくる彼が,カップルで居るのを目にしているようだが,その相手が自分の友達だとは(私の英語力では)読み取れない。これを浜口は「友達の恋人よ」と訳したのだ。この歌は米国ではあまりヒットしなかったらしいが,日本ではヒットした。浜口の詞が当時の日本人の心情に合ったのかもしれない。

当時,欧米ポップスは邦題がつけられて販売されていただけでなく,日本語歌詞も作られ多くの歌手が欧米ポップスを日本語で唄っていた。原語の意味は解らなくても,日本語の歌を聞いてそれを元に原語の歌を聞くということを(少なくとも私は)していた。なかには日本語で唄う外国人歌手もいた。Connie Francisは日本語で唄った歌が多い歌手の一人だという印象が残っている。

 

Too Many Rules大人になりたい(2015.11.18)

昭和36年,詞:Gary Temkin, Don Stirling,曲:Gary Temkin, Don Stirling,唄:Connie Francis

I got home last night at 10 past 2.」と始まる歌。

邦題は「大人になりたい」。漣健児の訳詩で伊東ゆかりが唄った歌詞は「夜遅くに帰るとママからお目玉 いつも10時に寝るの」とあるが原詞は「I got to be in bed at quarter to 10」とあり,少し時間がずれているがメロディーに文字数を合わせる必要があったのだろう。

Connie Francisも聴いたし伊東ゆかりも聴いた。前者はラジオ,後者はテレビで主として聴いたと思う。印象深い「Too many rules, Too many rules, Folks are just fools Making too many rules」の箇所は「Too many rules, Too many rules早く大人になりたい」だ。歌詞が直訳ではないのは当然なのだろうが,邦題も原題からは想像できないタイトルになっている。当時は外国映画のタイトルや洋楽のタイトルの邦題から原題が想像できないものは珍しくなかった1,2)。独自のタイトルをつけた関係者を尊敬する。

その後,独自タイトルをつける手間を省くようになり,外国語をそのままカタカナで表記することが多くなった。

1)「レモンのキッス」:原題「Like I Do」(昭和37年,詞:Dick Manning,  曲:Dick Manning,唄:Nancy Sinatra

2)007は殺しの番号」:原題「Dr. No」(昭和37年,英国映画。監督:テレンス・ヤング,主演:ショーン・コネリー)

 

Unchain My Heartアンチェイン・マイ・ハート(2014.10.12)

昭和36年,詞:Agnes Jones & Freddy James,曲:Agnes Jones & Freddy James,唄:Ray Charles

Unchain my heart Baby let me be」と始まる歌。昭和38年にはTrini Lopezが唄っているらしいがこちらは知らない。

当時はラジオで洋楽をよく聴いた。歌詞の意味など全く解らずに,とはいえ歌手の声を楽器の一種として聴くのではなく歌手が語りかける雰囲気を感じていたのだと思う。

リズム&ブルースという分類に入るらしいが,そんな分類に関係なく,雰囲気に浸っていた。曲が好きだったというより,大人の雰囲気というか,子供時代は卒業したんだというようなそんな雰囲気に浸っていたのだ。

 

We Shall Overcome<勝利を我等に>(2018.7.10)

昭和36年,曲:Charles Albert Tindley,唄:Pete Seeger

 「We shall overcome, We shall overcome, We shall overcome, some day」と始まる歌。

原曲は明冶34年に作られた讃美歌でこれに新しい歌詞をつけたもの。

アメリカの公民権運動で昭和36年にPete Seegerが唄って有名になった。昭和38年にはJoan Baezが唄い更に広く知られるようになった。日本でも上條恒彦,小室等,高石ともやなど多くの歌手が唄っている。反戦集会などでもよく唄われた。