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明治大正昭和元年〜昭和6年〜昭和11年〜昭和14年〜昭和16年〜昭和21年〜昭和26年〜昭和29年〜昭和31年〜昭和33年〜昭和35昭和36昭和37昭和38昭和39昭和40昭和41昭和42昭和43昭和44昭和45昭和46昭和47昭和48昭和49昭和50昭和51昭和52昭和53昭和54昭和55昭和56昭和57昭和58昭和59昭和60昭和61昭和62昭和63年〜その他(不明)平成の歌

昭和26年〜

目次

昭和26年 あざみの歌,あの丘越えて,アルプスの牧場,江の島悲歌,かわいいかくれんぼ,高原の駅よさようなら,子鹿のバンビ,上海帰りのリル,上州鴉,情熱のルムバ,東京悲歌,東京シューシャインボーイ,東京の椿姫,ニコライの鐘,花の街,巴里の夜,ひばりの花売り娘,船は港にいつ帰る,牧場の花嫁さん,ミネソタのタマゴ売り,めだかの学校,野球小僧,山の端に月の出るころ,連絡船の唄

昭和27年 あゝモンテンルパの夜は更けて,愛の賛歌,赤いランプの終列車,あこがれの郵便馬車,家へおいでよ!<COME ON A MY HOUSE>,伊豆の佐太郎,丘は花ざかり,お祭りマンボ,ギター月夜,ゲイシャワルツ,白樺の宿,ジャンバラヤ<Jambalaya>,テネシー・ワルツ,白虎隊,ふるさとの燈台,ヤットン節,山のけむり,湯の町月夜,リンゴ追分,別れの磯千鳥,COME ON A MY HOUSE<家へおいでよ>,Jambalaya

昭和28年 雨降る街角,五木の子守唄,お俊恋歌,落葉しぐれ,想い出のサンフランシスコ<I Left My Heart in San Francisco>,思ひ出のランプに灯を入れて,想い出のワルツ,ガイ・イズ・ア・ガイ,北風<North Wind>,君の名は,霧のサンフランシスコ<I Left My Heart in San Francisco>,黒百合の歌〔黒百合は恋の花〕,原爆を許すまじ,こんなベッピン見たことない,少年ケニヤの歌,知りたくないの<I Really Don’t Want to Know>,ぞうさん,津軽のふるさと,毒消しゃいらんかネ,花の三度笠,笛吹童子,街のサンドイッチマン,待ちましょう,毬藻の唄,やぎさんゆうびん,雪の降る町を, I Left My Heart in San FranciscoI Really Don’t Want to KnowNorth Wind

 

あざみの歌(2013.2.22)

昭和26年,詞:横井弘,曲:八洲秀章,唄:伊藤久男

 「山には山の愁いあり」と始まる歌。昭和24年からNHKのラジオ歌謡で放送されていたらしい。蛇足をつけずに名曲であると終わってしまうほうがよいのは解っているのだが。

 詞中で「あざみの花」に例えられている女性に対する秘めた想いを歌った歌だが,その女性はどんな人だろうか。私が知っているアザミは,花はともかく,葉に特徴がありやや近寄りがたい。綺麗なバラにはとげがあると言われるが,バラに比べるとアザミの美しさは控えめだ。妖艶なバラなら見たことがあるが,妖艶なアザミはみたことがない。歌詞には「百合」も登場するが,百合よりも「あざみに深きわが想い」と歌われている。ユリは艶やかさと清楚さを兼ね備えているがアザミはその葉からして清楚とは言いがたい。「花園に咲きしあざみの花」ということだが,あざみの花園ではないだろう。

 作詞者が考える美人の基準があり,この女性はその基準からすれば異質だが,とても魅かれるということなのだろう。美人の基準というのは一応あるようだが,これは時代と共に変わる。もちろん地域(異民族というような意味)によっても異なる。個人的な好みになれば千差万別であるからこそ世の中が平和なのだ。

 この作詞者の立場の故か,性格の故か,この女性に対する想いは秘めたままにされているが,思わず詞となってあふれ出てくる。この想いを奏でるメロディーがまた作詞者の性格を表しているようでとても素晴らしい。

 

あの丘越えて(2013.4.26)

昭和26年,詞:菊田一夫,曲:万城目正,唄:美空ひばり

 「山の牧場の夕暮れに」とはじまる歌。「イヤッホーイヤッホー」が印象的。映画の主題歌だが,私はこの映画を観ていないと思う。全く記憶がない。

 出だしなど,まだ幼さが感じられる声で,とても可愛らしく聞こえるが,一部,後のひばりの声も入っており,このとき14歳くらいだろうが,大人になりかけというのだろうか。他の歌手の14歳くらいの唄とその後の唄を比較すると,作詞・作曲がよいのかも知れないが,ひばりは成長過程が良く解る。もちろん,最初は下手だったなどというつもりは毛頭ない。上手ななかで進化していったのだ。

 この歌を後に美空ひばりが唄ったのを聞いたことがあるが,出だしから大人のひばりの声であった。古いレコードのひばりの声のほうが,この歌には断然良い。

 1番から4番まで「ただひとり」ということばが毎回でてくる。「ただひとり」の淋しさが歌声にも滲み出ているが,「イヤッホーイヤッホー」と聴くと淋しさには負けない若さが感じられ,良い歌だ。

 

アルプスの牧場(2012.12.30)

昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦

 「雲がゆく雲がゆくアルプスの牧場よ」と始まる歌。「レイホー」とか「ハイホー」とかいう箇所が印象的だった。ヨーデル部分が高音なので曲全体が高音の曲のような印象を持っていたが,今聴き直してみるとそれほど高いキーではない。

 この年には日本初の民間放送ラジオ局が開局した。中部日本放送と新日本放送(現・毎日放送)である。少し遅れたが年内にはラジオ東京(現・TBSラジオ)も開局した。

 私は当時生まれてはいたが,生活実感の記憶はない。想像しかできないが当時の世相は戦後の復興に向けて,明るい未来に向けて希望がみなぎっていたのだろうか,私の想像をはるかに越えてこの歌は明るい歌である。あるいは希望を求めて人々はこのような明るい歌を求めたのだろうか。暁テル子のような元気を求めていたのだろうか。

 この年のNHKラジオの正月特別番組として第1回紅白歌合戦が放送された。第3回までは正月のラジオ番組だったのだ。昭和28年は正月に第3回,年末に第4回と2回開催され,以後年末番組となった。

 

江の島悲歌(2016.7.28)

昭和26年,詞:大高ひさを,曲:倉若晴生,唄:菅原都々子

 「恋の片瀬の浜千鳥 泣けば未練のますものを」と始まる歌。

 詞は七五調の定型詩であり,「夢なき」・「遥けき」・「哀しき」・「真白き」など文語が使われていることで古風さを強く感じる。曲調も戦前の曲のように感じる。

 

江の島悲歌(エレジー)(2020.4.19)

昭和26年,詞:大高ひさを,曲:倉若晴生,唄:菅原都々子

 「恋の片瀬の 浜千鳥 泣けば未練の ますものを」と始まる。

 配置されている言葉は論理の上からはその場所にその言葉が必然かと問われれば必然ではないと言わざるをえないような言葉が並んでいる。しかし,全体として眺めれば確実にある種の気分を醸し出すのに役立っている。昔はこのような美文調というような歌も少なからずあった。

 しかし,この歌の最大特徴は菅原の歌声だ。上手く説明は出来ないが,菅原の歌声を知っている人に対しては説明不要だろう。

 

かわいいかくれんぼ(2014.3.22)

昭和26年,詞:サトウ・ハチロー,曲:中田喜直

 「ひよこがね お庭でぴょこぴょこかくれんぼ」と始まる歌。二番は「すずめ」三番は「こいぬ」のかくれんぼだ。

こどものころはどれも身近にいた。縁日でひよこを売っていたし,実際に鶏を飼っていたこともある。玉子は高価で買うことなど思いもよらなかったし,肉類は飼っていた鶏以外食べた記憶はほとんどない。食べ物は多くが自給自足だった。もっとも狭い庭の家庭菜園では全部をまかなうことはとても出来なかったが,母の実家が農家で,ときどき農作物を送ってきていた。今では養鶏をしているところくらいしか鶏を飼っているところはないだろうし,養鶏場では飼い方が違う。ひよこが庭を走り回っていることなどないだろう。

雀もどこにでも居た。今の住まいの辺りも昔は多くの雀が居ただろうが,いまは烏が大きな顔で空を支配している。あの雀はどこへ行ってしまったのだろう。今の家の近くでも春には鶯がなき,たまに庭に飛んできたりするが雀は見ない。百舌の速贄は見るが,百舌自体は見た記憶はない。

犬も飼っていたことがある。最後に飼っていたブルドッグが白髪になり,白内障で眼もよく見えなくなり,最後に老衰で死んでからは動物を飼うのを止めた。

父親が動物好きだったのかも知れない。兔を飼っていたこともあるし,カナリヤや十姉妹などの小鳥も飼っていたこともある。そういえば魚も飼っていた。私がある程度大きくなってからは(贅沢はできないが)食べるものに困るということはなくなっていたが,それ以前は人間が食べるのにも大変だった時代に,動物の餌代も大変だったのではないだろうか。まあ,当時の動物は粗食だったのだろうが。

こどものころ,この歌は私のお気に入りだったのだろう。なぜか強く記憶に残っている。あと,『かなりや』と『叱られて』は嫌いな歌としてこの3曲が強く心に残っている。後の2曲は聴くととても悲しい気持ちになったのだ。

 

高原の駅よ,さようなら(2012.7.11)

昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:小畑実

 「しばし別れの夜汽車の窓よ」と列車での別れの歌である。しばしの別れとは口先で「またの逢う日を目と目で誓い」とは言っているがもう二度と逢うことはないのだろう。映画化もされている。この曲ができたときに既に映画の内容が決まっていたのかどうか知らないが,伝え聞く映画の内容とこの歌は少し合わない気がする。映画では諸般の事情で愛し合う二人が別れることになるので悲恋物語ともいえるのだろうが三角というか四角関係の話で,典型的な昔のメロドラマのような気がする。映画も観ずにこのような感想を述べることは許されないかもしれないが,看護婦の話になったのは歌詞内の「高原」に引かれたのではないだろうか。昔は高原と聞くと結核療養所を連想したのではないだろうか。

 小畑実はこの歌を甘い声で唄っており,なかなか良い曲だ。

 子供の頃,流行歌歌手というと小畑実のような歌い方をするものだと思っていた。もちろん他の歌手も知ってはいたが,岡晴夫,津村謙,藤山一郎など,皆同じように思っていた。区別できるようになってきたのはずっと後だ。

 

子鹿のバンビ(2014.2.5)

昭和26年,詞:坂口淳,曲:平岡照章,唄:古賀さと子

 「子鹿のバンビは かわいいな」と始まる唄。

 「バンビ」自体は昭和17年のデズニーアニメの主人公の名前であり,かつアニメのタイトルである。日本公開は昭和26年,日本語吹き替え版は昭和30年である。字幕を読んだとは思えないので,私が観たのは日本語吹き替え版だろう。

 この歌は映画に使われたわけではなく,映画を見た坂口が刺激を受けて作詞したらしい。

 詞ではバンビの幼い頃の様子だけが歌われており,だからこそ「子鹿」なのだろう。この映画の後,「子鹿」のことを「バンビ」という言い方が生じたように思う。同じデズニーアニメでも『子象』のことを『ダンボ』という言い方は一般化しなかったようだ。こちらのほうは『耳がダンボになる』という表現に残った。これも若い人には通じないかもしれない。

 

上海帰りのリル(2011.12.7)

昭和26年,詞:東条寿三郎,曲:渡久地政信,唄:津村謙

 「リル リル どこにいるのかリル 誰かリルを知らないか」という曲である。歌詞に若干不可解な点があるが名曲である。「ハマのキャバレーにいた」のは確かなのだろうか。四馬路で「なにも言わずに別れた」のだから上海に居たのは確かだが,ハマのキャバレーは「風の噂」ということか。歌の第一印象は横浜のキャバレーにいて,一緒に海を見た間柄という印象だったのだが。

 小さい子供のころ,キャバレーなどという言葉の意味は知らなかったが,リルが人の名前で,そのリルを捜し続けていることは良くわかった。

 このころよく食べた記憶があるのはトマトだ。狭い庭に植えてあるトマトの実を毎日毎日食べたように思う。トマトは嫌いだというわけではなく出されれば食べるが,金を払って食べる気はせず,決して注文することはない。庭になっているのを採って食べるものだという気がしている。要は飽きたのだ。でも,トマトジュースなら買って飲むこともある。

 

上州鴉(2016.4.26)

昭和26年,詞:山本逸郎,曲:島田逸平,唄:瀬川伸

 「銀の朱房にねぐらを追われ 旅を重ねた上州鴉」と始まる歌。

大河内伝次郎主演の大映映画「上州鴉」の主題歌。私自身は映画も観ておらず,この歌に特別な思いはない。大河内伝次郎は私が子供の頃,声帯模写でよく真似られていた俳優だが,私にはその物まねの方が馴染がある。

 瀬川伸は瀬川瑛子の父親で,親子二代でNHKの紅白に出場している。瀬川瑛子には『むすめ上州鴉』1)という歌がある。

1)「むすめ上州鴉」(平成11年,詞:吉岡治,曲:岡千秋,唄:瀬川瑛子)

 

情熱のルムバ(2020.11.18)

昭和26年,詞:藤浦洸,曲:万城目正,唄:高峰三枝子

 「嘆きの空の 夕焼けは ばらの花より なお紅い」と始まる。

 藤浦には『さよならルンバ』1という歌がある。「ルムバ」のほうが古い表記ではないかと感じたのだが,少し検索してみると,例えば『さよならルンバ』の後にも,昭和24年に『嘆きのルムバ』という二葉あき子の曲が出ているようだ。この頃,表記が揺れていたのかも知れない。

 歌詞としてはタイトルの「情熱」のイメージから「紅い」「ばら」を登場させたのかと思う程度で,最も私の印象に残ったのは「ルムバ」か『ルンバ』かという所だ。

1)「さよならルンバ」(昭和23年,詞:藤浦洸,曲:仁木多喜雄,唄:二葉あき子)

 

東京悲歌(2022.6.4)

昭和26年,詞:高橋掬太郎,曲:飯田三郎,唄:三條町子 

 「まぶたとじれば まぶたに浮かぶ」と始まる。

 こう書いたが,「瞼とづれば」と始まる歌詞も見たことがある。こちらのほうは他の歌集では「君は答えず」となっているところは「君は答へず」となっているなど、旧仮名で書かれているようだ。新仮名は昭和21年のGHQの指令以後だと思っていたが,この頃はどうだったのだろうか。

 実際のレコードでは「瞼とづれば」と唄っているように聞こえる。ということは高橋は文語で詞を書いたのに,誰かが口語に直したのだ。文学作品の仮名遣いなどを勝手に変えてはいけないと思うのだが,世の中の考えはそうではないようだ。

 大映映画「東京悲歌」の主題歌。映画は知らないが,すれ違いを繰り返すメロドラマのようだ。

 

東京シューシャインボーイ(2012.5.16)

昭和26年,詞:井田誠一,曲:佐野雅美,唄:暁テル子

 「さぁあさ皆さん東京名物とってもシックな靴磨き」という歌。「鳥打帽子に胸当ズボン」というようないでたちは年端の行かない少年のイメージで,戦災孤児との印象を受ける。「シューシャインボーイ」などと英語を使っているのも,「シュッシュッシュッシュッシュッー」と韻を踏んでいるのかもしれないが,客の多くが進駐軍将兵だったことがあるかもしれない。

 ときどき来てくれるお嬢さん。今日は来てくれるかとささやかな期待を持って客を待っている。「チョコレート」「チューインガム」「コーラ」などをくれることもあるらしい。このお嬢さんはどんな仕事をしているのかと思ってしまうが,このシューシャインボーイは無邪気にチョコレートなどに喜んでいるようだ。曲調も暁テル子の唄い方も極めて明るいところが救いだ。

 悲惨な状況に落ち込むのではなく,復興に向かっていくエネルギーをくれる歌だ。

 

東京の椿姫(2019.10.20)

昭和26年,詞:東条寿三郎,曲:渡久地政信,唄:津村謙

 「窓うつ風の ためいきか 更けてネオンの 点る街」と始まる歌。

 酒場の女の歌か。「その名は 知らない」というのだから,見かけただけなのかもしれない。しかし「いつか寂しく 浮かぶ顔」とか「夢にしみこむ 古い傷」ともあるので見かけたとしてもたった一回ということはないだろう。

 デュマの小説では椿姫は高級娼婦をモデルにしているらしい。

 この歌では「さすらいの 君いずこ」とあるので現在の消息は不明のようだ。しかし,消息不明なのでなおのこと気にかかるということなのであろう。リル1)のようにさがして歩くのだろうか。

1)「上海帰りのリル」(昭和26年,詞:東条寿三郎,曲:渡久地政信,唄:津村謙)

 

ニコライの鐘(2019.11.17)

昭和26年,詞;門田ゆたか,曲:古関裕而,唄:藤山一郎

 「青い空さえ 小さな谷間 日暮はこぼれる 変わらぬ夢を」と始まる歌。

 「思い出しても かえらぬ人の」などとあるが,どういう状況かよく解らぬ状態がしばらく続く。最後近くに「恋に破れた 乙女は今宵 何を祈るか」とでてきて,そういうことかと納得する。

 詞は全体的に,哀調を帯び悲しい歌になっているが,曲はところどころ勇壮さが滲み出ているような気がしてさすが古関だ。詞と曲を合わせると,悲しみに打ちひしがれているというより,「ニコライの 鐘」に元気をもらっているように感じる。

 門田は『東京ラプソディ』1)でも「ニコライの鐘」を歌詞に入れている。何か心に残る想い出のようなものがあったのだろうか。私も出張で東京に行ったとき,わざわざ遠回りしてニコライ堂の前を通ったことがあるが,特別な思い出はない。

1)     「東京ラプソディ」(昭和11年,詞:門田ゆたか,曲:古賀政男,唄:藤山一郎)

 

花の街(2012.11.1)

昭和26年,詞:江間章子,曲:圑伊玖磨

 「七色の谷を越えて流れていく」という歌。中学か高校で習ったのは確かなので,音楽としては教える価値がある歌なのだろう。確かにいわゆる演歌調ではなく歌いにくい歌で,このような歌を練習すれば私ももう少し音を外さなくなるかもしれない。

 しかし,この歌を習ったときには特別な感情は起きなかった。ありふれた詞だと思ったのだ。

 この歌は戦災で焼け野原になり,それこそ「花より団子」で花を愛でるなどの余裕の無かった東京で,このような街があったらいいと江間が幻想の街を歌ったものだそうだ。私が住んでいたのは東京に比べればはるかに田舎だが,父はサラリーマンだったので生活は大変だったのだろう。時期は聞き忘れたが,給与の一部が製品の現物支給だった頃もあったらしい。小学生以前の記憶は曖昧で年代を混同してしまっているかもしれないが,社宅に狭い庭があり,そこには花壇などはなく,ねぎ・たまねぎ・なす・きゅうり・トマト・キャベツ・じゃがいも・さつまいも・とうもろこしなどが植えられていたし,一部ではニワトリも飼っていた。もちろん畑といえるような広さはなく,ほんの2・3本の苗を植えてあるだけだったが。

 現在ならば花を植えたいと思えば幾らでも植えられる。自宅付近を歩くと花が咲いている家がいくつもある。庭が無くても植木鉢やプランターなどいろんな形で花がある。花があるのに慣れてしまい,そのようなことにことさら幸せを感じることは無いが,このようなささやかなしあわせこそ,失ったときにその大きさを知るのであろう。

 当時の多くの人の心の中に,この歌で歌われているような街に対する憧れがあったのであろう。

 

巴里の夜(2021.6.14)

昭和26年,詞:藤浦洸,曲:原六朗,唄:二葉あき子

 「水と情けは流れてゆれて 末はどこかで 消えるものなの」と始まる。

 「も一度あのひとに 逢えるなんて」「夢のよな お話ね」とちゃんと分かってる。

 それでも「あきらめられなくって あいたくて」という歌。結局「ひとりで帰りましょう」と終わり,ハッピーエンドにならず消化不良の感はあるが,これが現実なのだろう。

 

ひばりの花売り娘(2020.3.25)

昭和26年,詞:藤浦洸,曲:上原げんと,唄:美空ひばり

 「花を召しませ ランララン 愛の紅ばら 恋の花」と始まる。

 美空ひばりはどんな歌を唄っても,ずっと昔からその歌を自分の持ち歌として唄ってきたように唄っている。

 歌謡曲の題材として『花売り娘』が流行った時期がある。と思ったがすぐに思い出すのは31)しかない。『東京の花売娘』がヒットした昭和21年には実際には花売娘はいなかったらしい。それが歌のヒットと社会の安定化により花売娘が登場した。商売相手は進駐軍である。昭和24年には80人ほどいたらしい。ほとんどが小学生で,昭和27年の児童福祉法改正に伴い,50人ほど補導されたとか。

 要するに,花売娘は花屋のような華やかな商売ではなく,マッチ売りの少女のような哀しい商売なのだ。

 ところで,3番の歌詞に「レビューまくぎれ 千代紙や 投げたテープの うつくしさ」とある。そういえば昔の歌謡ショーでは舞台の歌手に向かってテープが投げられていた。昭和40年ころまでは盛んだったように思うが,歌手の顔にあたると危険ということで,時々自粛要請が出ていた。最後は昭和563月,高知でのコンサートで松田聖子の左目に当たった事故で,これ以後テープは投げられなくなった。

1)「ひばりの花売り娘」の他に,「上海の花売娘」(昭和14年,詞:川俣栄一,曲:上原げんと,唄:岡晴夫),「東京の花売娘」(昭和21年,詞:佐々詩生,曲:上原げんと,唄:岡晴夫)

 

船は港にいつ帰る(2024.7.29)

昭和26年,詞:高橋掬太郎,曲:細川潤一,唄:岡晴夫

 「風の便りも 二月三月 絶えて聞かねば 尚恋し」と始まる。

 出港してから便りも来ない。「船は港に いつ帰る」という歌。

 このケースでは再び逢うことは叶わないかもしれない。戦後初期はこのような状況を唄った歌が少なくなかった。当時の物資輸送は列車と船だった。

 

牧場の花嫁さん(2023.8.16)

昭和26年,詞:藤浦洸,曲:万城目正,唄:高峰三枝子

 「みどりの山の森のかげ 赤いかわらの牧場(まきば)小屋」と始まる。

 この歌は過去に聴いた記憶がない。最近はインターネット経由で簡単に聴くことができるが,聴いてみても特別な感興が起きない。「花嫁さんを 待ちわびて 吹くは角笛 愛の唄」などという箇所からもハイジの世界1)などがイメージされて,遠い世界の話のように感じてしまう。

 松竹映画『情熱のルムバ』主題歌。

1)「アルプスの少女ハイジ」:原作・ヨハンナ・スピリ。昭和49年からフジテレビ系でアニメ放送。

 

ミネソタのタマゴ売り(2012.2.24)

昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:利根一郎,唄:暁テル子

 「コッコッコッコ コケッコ」で始まりメロディーは違うが歌詞は同じ「コッコッコッコ コケッコ」で終わる歌。笠置シヅ子の「買い物ブギ」のように関西人のノリで元気の良い曲だ。ただし,この歌の詞は「タマゴに黄身と白身がなけりゃお代はいらない」と関西弁ではない。「なけりゃ」というのはどこの言葉だろう。当時タマゴはかなりの高級品だっただろう。

 昭和26年のことは覚えていないが,昭和30年ころタマゴの価格は現在と大差なかったように思う。給料は20倍くらいに上がっているので相対的にはかなり値下がりしている。

昔はタマゴは高級品で,病気見舞いなどにも使われた。栄養があると思われていたのだ。

 昭和36年,子供が好きなものとして「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が流行った。この当時もタマゴの価格はほとんど変っていないと思うが,収入が増えて弁当のおかずなどに入れられるようになった。当時の弁当のおかずでタマゴ以上のものを思いつかない。基本は佃煮とか野菜の煮物系,竹輪・蒲鉾系,魚もあったように思うが肉系はポピュラーではなかった。私が小学生の頃,学校給食にたまに出る肉といえば鯨肉だった。

1)村雨まさを:「買い物ブギ」

 

めだかの学校(2012.9.4)

昭和26年、詞:茶木滋,曲:中田喜直

 「めだかのがっこうはかわのなか」という歌。川の中にあるのは不思議ではない。「みんなでおゆうぎしているよ」というので低学年のクラスのようだ。「だれがせいとかせんせいか」というのはどういうわけだ。これでは学校ではないではないか。

 学問や学習は教師ありの学習と教師なしの学習とに分類できると思うが,学校というのは教師から生徒が学ぶ場所である。教師なしの学習の例としては友人や先輩あるいはけんか相手から種々学ぶ場合である。学ぶ側が積極的であれば誰からでも学べるのだ。家庭内で学ぶのは学校と同じく教師ありの学習だろう。

 私の考えでは塾は教師なし学習が望ましい。詳細を論じる余裕がないので誤解を受けるかもしれないが,現在の社会問題のいくつかは教育が十分に機能していないことが原因だろう。機能していないのは教師ありの教育も教師なしの教育も同様だ。

 学校で教師と生徒,家庭で親と子供,これらを皆,同じ人間などということ言い出してからおかしくなったのではないか。結果的に教師も生徒も質が落ち,親も子供も変なのが増えた。「同じ」ということを間違って解釈した一例がこの「めだかの学校」ではないか。

 

野球小僧(2016.6.19)

昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦

 「野球小僧に逢ったかい」と始まる歌。

 そういえば,子供の頃野球系の遊びはよくやった。硬式はもちろんしたことが無いが,軟式野球も滅多にしたことがない。当時でも野球ができるのは学校の校庭くらいしかなかったし,用具も揃わなかった。

 ソフトボールは野球より狭い場所ででき,そのような空き地は結構あったのでよくした。ボールは使い古してフニャフニャになっており,素手で捕っても問題ないのでグローブが全く無くても,バットとボールさえあれば出来る。人数が足りなければキャッチャーなしの盗塁なしや3角ベースなど,いろんなやり方があった。最低ならキャッチボール,キャッチボールでもランナーを置いたものなどもやった。

 昭和26年のプロ野球は既にセ・パの2リーグになっていた。セリーグには読売ジャイアンツ,大阪タイガース,名古屋ドラゴンズ,広島カープ,国鉄スワローズ,松竹ロビンス,大洋ホエールズ,パリーグには阪急ブレーブス,南海ホークス,西鉄ライオンズ,近鉄パールズ,大映スターズ,毎日オリオンズ,東急フライヤーズがあった。現在まで全く変わらすにそのままの形で残っているのは読売ジャイアンツだけだ1)。他は合併や名称変更しながら現在も残っている。新たに創設された球団は東北楽天ゴールデンイーグルスだけだ2)。当時から野球人気は続いているのだ。球団の親会社を見ると日本の儲かり産業の変遷が解るような気がする。

1)広島カープは広島東洋カープと微修正。

2)近鉄バッファローズとオリックスブルーウェーブが合併してオリックスバッファローズにときに,楽天ができた。選手の多くは近鉄とオリックスからの移籍だった。

 

山の端に月の出るころ(2017.12.11)

昭和26年,詞:矢野亮,曲:利根一郎,唄:小畑実

 「静かに暮れゆくホウ峠の空に」と始まる歌。

 唄いながら随所に「ホウ」という掛け声のようなものを何度も入れる歌詞になっていて,やや変わった詞になっている。

 「君と仰いだ愛の星」などと「甘い想い出」を思い出しているようだが,思い出し方が深刻ではなく,詞全体では景色を歌っているだけのように感じられる。

 目の前の現実を生き延びるのが精いっぱいで,想い出に浸っていては生きてはいけない時代だったということか。ウジウジと過去を思い続けているわけではない。束の間に景色に気を休めていたら突然昔の想い出が甦ってきたのだろう。

 

連絡船の唄(2013.6.27)

昭和26年,詞:大高ひさを,曲:金海松,唄:菅原都々子

 前奏から演歌全開と感じる曲だが,当時は演歌とは言わなかった。菅原都々子の歌声も演歌とは一寸ちがう。

 歌は「思い切れない未練のテープ」と始まり,これも演歌の世界だ。リアルタイムで好んで聴くには当時の私は幼すぎたが,今聴いても悪くない歌だ。世の中が演歌になる世界だったのが,現在ではこの歌詞のような別れというのがほとんど見られない世の中になってしまったようだ。演歌以外の人気が高まり,演歌の地位が相対的に下がるのは仕方がない。

 菅原都々子の歌声は子供にも印象に残る独特のものだったが,この歌の最後の「連絡線よ」のまえに微かに「ハァ」とため息のようなものが入っている。青江三奈の『伊勢左木町ブルース』のようにあからさまに入っているならそのように作られた歌かと思うが,この歌のようだと私には違和感が残る。

 ちあきなおみや森昌子が唄ったのを聴いたことがある。ちあきの歌は演歌ではないように聞こえるが森の歌は完全に演歌だ。どちらもそれぞれ良い。結局,詞と曲が私の好みに合うということだろう。

 

あゝモンテンルパの夜は更けて(2012.4.26)

昭和27年,詞:代田銀次郎,曲:伊藤正康,唄:渡辺はま子・宇都美清

 「モンテンルパの夜は更けて」と始まり,「強く生きよう倒れまい日本の土を踏むまでは」と終わる。フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた戦犯死刑囚がつくり渡辺はま子に郵送した歌である。

 戦犯とされた人には冤罪の人も多かった。伝説かも知れないが,日本兵の食事もままならない中,捕虜に「牛蒡」を食べさせて,後に「木の根」を食べさせられたとの証言で「捕虜虐待」を認定されたりなどである。モンテンルパでは既に10数名が処刑されていた。昭和27年には100名以上の日本人戦犯が収容されており,その約半数が死刑囚だった。

手紙を受け取った渡辺は早速レコーディングし,大ヒット曲となる。渡辺は当時国交のなかったフィリピンではあったが,種々の困難を越えてモンテンルパまで慰問に行く。日本人戦犯は昭和28年,キリノ大統領の特赦により釈放され帰国した。

 昭和27年,太平洋のマーシャル諸島付近で初の水爆実験が米国によって行われた。マーシャル諸島は第一次世界大戦後,日本の委任統治領だったところである。

 

愛の賛歌(2015.3.17)

昭和27年,詞:M.MonnotE.Piaf・岩谷時子,曲:M.MonnotE.Piaf,唄:越路吹雪

「あなたの燃える手であたしを抱きしめて」と始まる歌。原曲はフランスのシャンソン歌手エディオット・ピアフの「Hymne a l’amour”(昭和25)

この歌を聴いたのはずっと後だ。もちろん私が大人になる前だが,私がテレビで観た越路吹雪は既にオバさんだった。もっとも今の私よりずっと若かったはずなのだが,子供の眼にはオバさんに見えたのだ。

この歌を初めて聴いたころ,わたしは既に流行歌を聴いていたが,日本の流行歌での男女の歌は恋の成就に障害がある歌が多く,オバさんがこんな歌を唄うのかと驚いた。何かわからないが迫力を感じたのだ。もちろん,日本の歌謡曲にも愛の歌はあったが,薄っぺらに聞こえていた。この歌に匹敵する迫力で迫ってくる歌は『天城超え』1)まで登場しないのではなかろうか。

1)     「天城越え」(昭和61年,詞:吉岡治,曲:弦哲也,唄:石川さゆり)

 

赤いランプの終列車(2012.6.20)

昭和27年,詞:大倉芳郎,曲:江口夜詩,唄:春日八郎

 「白い夜霧の灯りに濡れて」と始まる。「ベルが鳴るベルが鳴る」というところとか,最後の「赤いランプの終列車」というところなどが印象的な歌。

当時は汽車での別れというのが極めて一般的だった。今のようにドアが自動?でプシューと閉まってアナウンスと発車のベルだけで音もなくスーと出て行くだけではない。窓も扉も手動だから・・・そう,乗降口は引き戸でなくで開き扉だった。恐らく指定席ではないから,荷物を持って座席までついていき,席を確保してから見送りは下車し,ホームから窓越しに最後の名残を惜しむ。発車のベルが鳴り,蒸気機関車がゆっくりゆっくり動き出す。それに合わせてホームを移動し,ホームの端まで行くとそこで本当のお別れだ。特徴的な蒸気の音と共に少しずつ速度を上げて遠ざかって行く。窓から身を乗り出して手やハンカチをふり,ホームでも手を振るが,見えるのは最後尾の赤いランプだけになる。前奏や間奏も蒸気機関車の雰囲気を出している。

子供の頃知っていた春日八郎はおじさんだったが,今,春日八郎の声を聴くと非常に若い。録音のせいかも知れないが,この歌では声の出し方が後の春日八郎と違うようだ。私が覚えているのは「別れの一本杉」1)の頃の春日八郎の声だ。

1) 「別れの一本杉」(昭和30年,詞:高野公男,曲:船村徹,唄:春日八郎)

 

あこがれの郵便馬車(2019.10.13)

昭和27年,詞:丘灯至夫,曲:古関裕司,唄:岡本敦郎

 「南の丘を はるばると 郵便馬車が やってくる」と始まる歌。

 軽快な歌。

 「うれしい便りは まだか 若者みんなが 待つよ」とあるが,当時は郵便がほとんど唯一の通信手段だったから皆が手紙を待ち望んでいたのだろう。

 ただ,日本で郵便馬車が走っていたという話は知らない。

 欧米では郵便を馬車で運んでいた時代があり,クシコス・ポストのような曲もある。西部劇でも馬車で郵便を運んでいるシーンはよく出て来ていたように思う。日本では時代劇を見ても馬車はほとんど現れず,たまにあっても荷馬車だ。馬車自体が明治以後の極一部の期間,限られた地域で使われただけなのだろう(例えば現代でも,各国大使の信任状奉呈式には使われている)。郵便は飛脚が運んでいたように思う。

 荷馬車は私が子供の頃にはよく見かけた。従って道路にはしばしば馬糞が落ちていた。運動会前には,馬糞を踏むと徒競走で速く走れるというデマ?が流れていた。

 

家へおいでよ!<COME ON-A MY HOUSE>(2020.11.3)

昭和27年,詞:R.Bagdasarian, W.Saroyan, A.Bagdasarian, C.Bagdasarian,音羽たかし,曲:R.Bagdasarian, W.Saroyan, A.Bagdasarian, C.Bagdasarian,唄:江利チエミ

 日本語部分は「家(うち)へおいでよ わたしのお家へ」と始まるが,多くの部分は英語で,かつその多くの部分が「Come on-a my house, ma house come on 」と繰り返されている。もちろん他の歌詞もあるのだが,この印象が強く残る。

 当時の(今もだが)私の英語能力ではとても聞き取れはしないが,何度も何度も繰り返されるを聞き馴染んできて,曲も比較的単調なため身体に馴染みやすい。

 

伊豆の佐太郎(2012.12.16)

昭和27年,詞:西條八十,曲:上原げんと,唄:高田浩吉

 「故郷見たさに戻ってくれば」と始まる歌。いかにも古いと感じさせる曲で,昭和27年とはとても思えない。詞はそれほど古くは感じないが,曲は無声映画の上映時に流されそうな曲だ。この歌は聴いた覚えはあるが,歌詞を見てもところどころしか唄えない。

 この年,日本のアマチュア無線が再開された。日本では大正末期に私設無線電信無線電話実験局が認可されて始まり,真珠湾攻撃の日に運用を禁止された。戦後はGHQにより,サンフランシスコ平和条約が発効するまで日本人のアマチュア無線は禁止されていた。当時は基本的には短波であろう。超短波で使える真空管はあまりなかったのではないか。一地方都市ではあるが,私が住んでいた市では市内で超短波のアマチュア無線局は昭和30年代でも数えるほどだった。昭和40年頃になると超短波の無線局数が急激に増える。

 この年の日本文化放送の開局と同時に,旺文社の赤尾好夫が大学受験教育の格差解消を理念として『大学受験ラジオ講座』を始めた。昭和29年には日本短波放送が開局し,中波の文化放送は関東しか受信できないが,短波放送は全国で受信できるのでこの日本短波放送でも放送されるようになった。ブラームスの『大学祝典序曲』がテーマ曲として使われていた。

 

丘は花ざかり(2021.5.19)

昭和27年,詞:西條八十,曲:服部良一,唄:藤山一郎

 「若い生命の カレンダーを 今日もひらけば 君の顔」と始まる。

 「丘は花ざかり」は同名の石坂洋二郎による朝日新聞連載小説を原作とする東宝映画(

出演:木暮実千代,池部良ほか)。この歌はその主題歌。

 石坂原作の映画はこれまで74作品あるらしい。中には『青い山脈』や『若い人』など,何度も映画化された作品もある。私の記憶にある石坂の作品は戦後の若者が取り戻した明るさを賛美するものが多い。成就しない恋愛が扱われていても暗さを感じない。

 私はこの映画も原作も知らないが,歌は明るく,石坂小説の明るさをよく表していると感じる。

 

お祭りマンボ(2011.10.23)

昭和27年,詞:原六郎,曲:原六郎,唄:美空ひばり

「私のとなりのおじさん」がお祭り好きで最後は「家を焼かれたおじさんとヘソクリとられたおばさん」になり,「いくら泣いてもあとの祭りよ」という歌。

歌詞のなかに「火事は近いよスリバンだ」とあるが,これはもう死語だろう。子供のころはあちらこちらで火の見やぐらを見た。半鐘があるところもあったように思うが半鐘で火事を知らせるのを聞いた記憶がない。しかし,親の時代までは半鐘が生きていたようだ。昭和27年なら誰もが解ったのだろう。時代劇で見る火事の場面では「カンカンカン休カンカンカン休・・・」と続く三つ半鐘しか聞いたことがないように思うが,火元との距離により打ち方は変わるものである。・・・念のため少し調べた範囲では半鐘の音は皆「ジャン」と表現されていた。調べたかったのは半鐘を叩くハンマーみたいなものの名称だが,見つけることはできなかった。撞木というのは違う気がするのでここでは違うと思うがハンマーということにしておこう。何を見ても,火元が遠ければ「ジャンジャン休ジャンジャン休」という二つ半鐘だが近くなると三つ半,もっと近いと四つ半で,燃えている箇所の極近くでは連打でこの連打を摺り半(鐘)というと記述してある。「連打では間に合わないほど切迫した場合,半鐘の中にハンマーを入れて摺り回す様に打ち鳴らすのが擦り半だ」と聞いたことがあるが,このような記述は見当たらなかった。明治・大正期の東京市や東京府の規定でも四つ半鐘の次は連打となっている。

 美空ひばりは歌謡界の女王ということになっている?と思って少し調べてみたが,「女王」という記述のある記事は見当たらない。いずれにせよ昭和歌謡曲を代表する歌手であることは間違いない。極めて多様な曲を唄っている。リアルタイムで聴いた歌もあるし後に懐メロとして聞いた歌もあるが,私自身は初期の歌のほうが好きだ。

 

ギター月夜(2023.7.12)

昭和27年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:霧島昇

 「山に咲く花 色悲し 海で鳴く鳥 歌悲し」と始まる。

 「忘れられない 胸の傷 忘れようとて 旅行けば」という歌だが,当時の社会からこのようなことが一般的だったのかどうか判らない。イメージとしては人々は貧しく旅に出ている余裕などなかったのではないかと思うのだが。ギターを持って旅をしているようだが,「ひとり爪弾く ギターの歌に」という箇所等を聞くと流しのギター弾きというわけでもないようだ。ギターを友に傷心旅行などというのは実家がよほど金持ちなのか。わたしの親戚には趣味で尺八を手作りしたというのはいるが,ギターを手作りしたというのは聞いたことが無いのでギターは買うしかないのだろう。

 自分もこのようなことが出来れば,心の傷が少しは癒されるかもしれないとの憧れを歌ったものかもしれない。

 古賀は大正12年に明治大学予科に入学し,マンドリン倶楽部の創設に参画した。昭和4年,大学卒業後にギター合奏の『影を慕いて』を発表。この歌は後に佐藤千夜子のレコードになっている。だから,当然のことながら、ギターは私の周囲では見なかっただけで,あるところにはあったのだ。

 

ゲイシャワルツ(2012.1.4)

昭和27年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:神楽坂はん子

 「あなたのリードで島田もゆれる」という歌である。ワルツというタイトルどおり3拍子の曲だが,編曲のせいか神楽坂はん子の歌い方のせいか,ワルツという印象が薄い。

 この年,ヘルシンキで開催されたオリンピックに日本は戦後初めて参加している。昭和23年のロンドンオリンピックは連合国に敵対した国ということで参加できなかったので,ロンドンオリンピックと同日に日本水連は日本選手権を開催し,古橋廣之進はロンドン金メダリストより好タイムの世界記録で1位になった。この記録は日本水連が国際水連から除名されていたので公認はされていない。古橋は昭和24年の米国遠征でも世界記録を出し,「Flying Fish of Fujiyama」と称えられ,戦後日本の星だった。

 このような経緯を経て古橋はようやくヘルシンキでオリンピックに出場できたのだ。彼自身は不本意な成績に終わったが,少ない日本からの出場者の中で水泳陣は「苦しい中で,よくやった」といえる成績を残している。私が小さい子供の頃も,体操や水泳の日本勢がオリンピックで活躍していたことが思い出される。

水泳自体は昭和7年のロサンゼルスオリンピック,昭和11年のベルリンオリンピックで活躍した前畑秀子などもいて日本人は大きな期待を持っていたと思う。NHKの「前畑がんばれ」連呼放送もありベルリンでは競泳だけで4個の金メダルを取っている。

ゲイシャワルツとの関係だが,ヘルシンキへ行ったとき,「geisha」というお菓子がいくつかの訪問先で出された。個包装になっており,包装紙には和服の女性が描かれていた。私が日本人ということで特に選んで出してくれたのかと思ったが,空港の売店などでも沢山積んであったので現地では有名なお菓子なのだろう。中身は特徴を忘れるほど普通の焼き菓子だったと思う。

 

白樺の宿(2024.6.24)

昭和27年,詞:横井弘,曲:田村しげる,唄:奈良光枝

 「山鳩の啼く声に 雲が流れる」と始まる。

 「しあわせは雲にのって 行ったよ」「かなしみの影を落として」という歌。

 「さよならも 何も言わずに」

 言いようのない悲しさ・淋しさが漂う歌。

 

テネシー・ワルツ(2012.10.19)

昭和27年,詞:和田寿三・P.W.KingR.Stewart,曲:P.W.KingR.Stewart,,唄:江利チエミ

 「I was waltzing with my darlin’ to the Tennessee waltz」と始まる。たまたま会った昔の友達に恋人を紹介したら盗られちゃったと英語で歌った後,日本語で「さりにし夢あのテネシー・ワルツ」と始まり,盗られてしまった恋人は「今はいずこ呼べど帰らない」と終わる。

本来なら悲しみ全開あるいは怨み骨髄でも良いと思うのだが,ただ去って行った人を思い,過去を偲んでいる。淋しいという気持ちが伝わってくる唄い方である。良い人と人が良いとは同じなのか違うのか。

 この年,韓国の李承晩大統領が漁船立入禁止線(李承晩ライン)を設定した。一方的に設定されたこのラインを超えたということで4000人近い日本人漁師が拿捕抑留されている。あわせて40人以上の死傷者も出ている。

 敗戦後,連合国軍の占領下にあった日本の主権はかなり制限されていた。連合国とは言え,主たる国は米国である。占領下の日本の漁業権はマッカーサーが定めたいわゆるマッカーサー・ラインの内側に限られていた。昭和26年に日本はサンフランシスコ講和条約に署名し,半年後の昭和27年には条約が発効日本の主権が回復され,マッカーサー・ラインも廃止されることになっていたが,その前に李ラインが設定されたのである。

 李承晩は朝鮮の独立運動家であったが,日本の韓国併合条約以前に米国に渡り,一時大韓民国臨時政府大統領として上海に滞在したこともあるが,日本敗戦の昭和20年までは米国暮らしで反日活動をした。戦後半島に戻り,昭和23年大韓民国を建国し,初代大統領となった。強い反日,反共の考えだったようである。昭和24年には対馬領有を宣言し,占領下の日本に対馬の返還を求めている。また,昭和29年のサッカーワールドカップアジア予選では日本選手の渡韓を認めなかったため,本来ホーム&アウェイで行われる試合が2試合とも日本で行われた。

 韓国の反日は李承晩の反日教育の結果だという説もある。どこの国の人も同じだが,個人的には(私から見て)良い人もいれば悪い人もいる。同様に親日家もいれば反日家もいるとおもう。しかし,反日教育がされていれば親日の表明はしにくくなるだろう。李承晩は日本統治下の半島に住んだ経験はなく,反日は観念的なものであったのではないか。実体験から来たものではないために,より過激なものになったのではなかろうか。日本支配下に入った地域のひとびとの中には辛い思いを味わった人も居るだろうがそれ以前より良い思いをした人もいるだろう。いろんな思いがあるが,ひとつは将来の歴史研究に判断を待つしかない,もうひとつの現実対処に関しては昭和40年の日韓基本条約を出発点にすべきであると考える。

 

白虎隊(2015.12.7)

昭和27年,詞:島田馨,曲:古賀政男,唄:霧島昇

 「戦雲暗く陽は落ちて」と始まる歌。

 歴史の授業で習わない地名も,「滝沢村の血の雨に」とか「飯盛山の山頂(いただき)に」などという歌詞から自然に覚えたのだ。

 昭和末期か後期に読んだ作詞講座に,場面が限定されるような語句はできるだけ使用を避けるといったような記述があった記憶がある。それまでの歌詞は場所のイメージが具体的に湧く,各個人にとっては別の地であっても田圃のあぜ道だとか校舎の片隅とか,場面をイメージできる歌詞が多かった。ご当地ソングなどというのもあった。それが,場所が特定できないように書くのが作詞の作法だというのだから驚いたので記憶している。たしかに,平成の歌は(あまり知らないが)場所不明の歌が多いように感じる。グローバリゼーション対応ということなのだろうか。

 曲はレクイエム軍歌のようだ。レクイエム軍歌とは私が今思いついた名前だが,『戦友』1)に代表される一群の歌だ。一応は軍歌のジャンルだが,直接戦意高揚を煽るような歌ではないということだ。曲は行軍にも使えそうな4拍子ではあるが足どり軽くとはいかないややスローテンポで,音程も比較的低い領域をうろうろして,サビの部分の感情も含め,全体として鎮魂の曲だ。詞は七五調で,軽薄さは完璧に排除されている。

 「南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる 痛慟涙を飲んで且つ彷徨す 宗社亡びぬ我事終わる 十有九人屠腹して斃る」2)という詩吟がこの歌の2番と3番の間に挿入されている。この詩は前半は橋幸夫の歌3)にも使われている。

1)「戦友」(明治38年,詞:真下飛泉,曲:三善和気)

2)佐原盛純作の「腹背皆敵将何行」と始まる七言古詩の一部。

3)「花の白虎隊」(昭和36年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫)

 

ふるさとの燈台(2020.3.17)

昭和27年,詞:清水みのる,曲:長津義司,唄;田端義夫

 「真帆片帆 唄をのせて通う ふるさとの 小島よ 燈台の岬よ」と始まる歌。

 変らぬ小島やさざなみを見て,父を想い母を想う。「歳ふりて 星に月にしのぶ」ということだから,かなりの年齢になってからの思いだろう。燈台の灯をみて「流れくる 流れくる 熱き泪よ」といろんな思いが湧いているようだ。

 幸せの中でも何かのきっかけでこのような思いが湧いてくることもあるだろう。しかし,不幸とは言わないまでも,苦労の渦中でこのような思いが湧くほうが多いのではないか。だからこそ「泪」なのだ。

 

ヤットン節(2013.4.12)

昭和27年,詞:不詳,補作詞:野村俊夫,曲:不詳,補作曲:服部レイモンド,唄:久保幸江

 「お酒呑むな酒呑むなのご意見なれどヨイヨイ」と始まる歌。

 「ちっとやそっとの御意見何ぞで酒止められましょか」という歌で要するに酒呑みの歌である。

 これが進化すると『日本全国酒飲み音頭』1)になるのだろうか。どちらの歌も,酒飲みが集まった宴会だと盛り上がるが,年齢によっては知らない人もいるようだが,いずれにせよ非酒呑みはあきれてしまう歌だろう。

1)      「日本全国酒飲み音頭」(昭和54年,詞:岡本圭司,曲:ベートーベン鈴木,唄:バラクーダ)

 

山のけむり(2012.8.23)

昭和27年,詞:大倉芳郎,曲:八洲秀章,唄:伊藤久男

「山の煙のほのぼのと」という歌。NHKのラジオ歌謡であり,一時はのど自慢でも良く聞いた。私がのど自慢を聴いていたのは宮田輝が司会をしていたころだが。

この煙は火山や山火事の煙ではなく,人の営みの煙だろう。人家であれば1軒屋,目視の範囲には隣家もないという程度の山の中だ。あるいは人家もなく,炭焼きなどの煙かもしれない。森の中には一応道はある。「谷の真清水汲み合うて微笑み交わし摘んだ花」とあるので独りではなかった。過去形である。「行きずりの」とあるので,旅人の話だ。「あとふりかえり手を振れば」と別れて旅を再開するところだ。

現代ではこのような山は珍しいだろう。開発可能な場所はどこもかしこも開発されつくしている。と思ったが,山村で人口減少が食い止められない地域もあるようだ。しかし,詞から受けるイメージはこのような限界集落ではなく,峠の茶店のように人が良く立ち寄るところでもない,山奥にひっそりと住んでいる人に関する想い出だ。

このような情景に懐かしさを覚えるが実際には見たことがなく,自分がそのように住むことは思いもよらない。結局このような情景は過去のものになってしまったのだろう。だからこそ,この歌に懐かしさを感じるのだろう。心が平静で,何となく幸せを感じているときこの歌を聴くと最も幸せが感じられるだろう。

 

湯の町月夜(2022.4.30)

昭和27年,詞:高橋鞠太郎,曲:江口夜詩,唄:近江俊郎

 「思いひとつに 影やせて 旅の湯の町 流しのギター」と始まる。

 「未練ふり捨て 別れた二人」だが「今宵も偲ぶ」「心の妻よ 初恋よ」という訳で,偉大なるワンパターンという内容。

 水戸黄門・暴れん坊将軍等々,毎回細かい表現は異なるが大筋はほぼ同じ,結末は全く同じと言ってよいほど。だからこそ毎回安心して観て(途中は観ないでも)いられる。この歌もそのような歌のひとつ。

 

リンゴ追分(2012.2.9)

昭和27年,詞:小沢不二夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり

 「リンゴの花びらが風に散ったよな」という歌で「お岩木山のてっぺんを」と台詞が入る。というか台詞のほうが長いくらいだ。もっとも文字数は少なくても歌の部分は「そぉっとおぉえーえええええぇえーえええーええー」と「え」がどれだけ続いたか判らなくなるほど伸ばしている。民謡には一つの文字を長〜く伸ばすのはある1)が,流行歌でこれほど延ばすのは珍しいように思う。しかしそれが成功している。美空ひばりが「悲しい酒」2)で音を伸ばすのは伸ばしすぎだと思うが「リンゴ追分」は良い。正確には,私に良否は判断できないが,好き嫌いは言える。「リンゴ追分」のほうが好きだ。

 と思っていたら,浪曲でも「あンあンああああーあァあ」とよく伸ばしているし,漢詩や和歌の朗詠でも伸ばすし,次々と伸ばすものを思い出してしまった。

歌詞から亡くなった母親のことを思っている歌のようだが詳細は不明だ。しかし,当時美空ひばりは15歳くらいだろうか。そのように若い娘がこのような歌を唄えば事情はどうであれ,かわいそうに思い,歌も上手いし,ヒットして当然だろう。恐らくではあるが,当時,ほとんどの人は何らかの悲しみを持ちつつ頑張っていたのだろう。状況が詳しく説明されていないだけ,共感しやすかったのではないか。

 昔はリンゴが出てくる歌がいろいろあったがリンゴの種類は少なかったように思う。高級店にはあったのかもしれないが,私がよく見たのは「紅玉」とか「国光」だった。そういえば少し大きな「印度」リンゴもあったがその程度しか覚えていない。

 米国ニューヨークは「Big Apple」と呼ばれているが,ニューヨークで売っているリンゴは小さなリンゴばかりだった。

1)これを書いたとき「新相馬節」を思い出していた。

2)石本美由紀:「悲しい酒」

 

別れの磯千鳥(2014.8.20)

昭和27年,詞:福山たか子,曲:フランシス・座波,唄:近江敏郎

「逢うが別れのはじめとは」と始まる歌。

「逢うが別れのはじめ」という表現は昔からありそうだ。白居易に「合者離之始」という句1)があるらしい。これが漢籍の引用だと知ると,何となく枕草子の「少納言よ 香炉峰の雪いかならん」の場面を思い出し,微笑ましく感じられる。もっとも,この作詞者は清少納言よりはるかに情緒的だ。「磯千鳥」や「かもめ」が登場するのでこの歌が海岸の唄だと解るが,3番になって「ドラの音」が出てくるので場面が港だと解る。「希望の船よ」とあるので,相手は船乗りではなく,船で遠方(恐らく外国)へ旅立つのだろう。当時の交通・通信環境では恐らく二度と逢うことがない,あるいは音信さえ途絶えてしまうのだろう。会者定離はごく最近まで実感としてあった。今でも同様な感情はありうるが『離』の持つ意味が違う。

この曲は昭和36年に井上ひろしがカバーしている。私が主に聴いたのはこの井上版だ。昭和30年代にリバイバルソングが流行った時期がある。井上にはリバイバルソングのヒット曲が何曲もある。というか私が知っている井上の曲はリバイバルソングだけではないだろうか。

1)和夢遊春詩:白氏文集(白居易)

 

Jambalaya(2016.9.23)

昭和27年,詞:Hank Williams,曲:Hank Williams,唄:Hank Williams

 「Goodbye Joe, he gotta go, me oh my oh」と始まる歌。

©1952とあるがこの当時聴いたわけではなく,私にとっては昭和40年代末期のCarpentersの曲だ。歌詞は全くと言っていいほど聞き取れなかったが,曲は軽快で心地よく,気分が良いときに聴けばますます気分がよくなり,気が滅入ったときでも少々の落ち込みなら元気が回復できる曲だ。どうしようもなく落ち込んだときにはうるさく感じるが。

 

雨降る街角(2019.11.8)

昭和28年,詞:東条寿三郎,曲:吉田矢健冶,唄:春日八郎

 「辛いだろうが やぼな事言うでない これきり逢えぬ 二人じゃないさ」と始まる歌。

 「別れ街角」だ。

 「きっと 迎えにゃ来るぜ」と言ってはいるが,言っている本人はどれほど確かなことだと思っているのだろうか。

 当時,このように別れると「これきり逢えぬ」ということは珍しくなかった。だからこそ,別れ・・・空間的に離れること・・・が大きな意味を持っていた。

 

五木の子守唄(2013.1.30)

昭和28年,熊本県民謡,採譜:古関裕而,唄:照菊

「おどま盆ぎり盆切り盆から先きゃおらんと」という感じの歌。このレコードよりもまえに音丸が唄っているらしい。これはお座敷唄で正調はまた違うらしい。西洋音階では上手く表されないということと,歌詞の発音も現代の50音では表現できないということだろう。

 平家の落人と監視に派遣された源氏,その子孫にいたるまで被支配・支配の関係になったのか。子守をさせられている娘は,自分には何の責任もないにも係らず,生まれだけを理由に差別されている。意図的に差別しなくても,親に生活資本がない・・・持たせてもらえない・・・ので結局は同じことだ。「おどんが打死だば道端いけろ」というのは古代ローマ帝国のような街道沿いの墓ではない。山の中だから獣道ではないのか。

 このような貧富の差は,日本では戦後徐々に解消され,一億総中流1)と言われた時代もあった。確かに,昭和28年にはまだ見た目にも極貧と見える人々がいたのが,昭和40年頃にはあまり見なくなった。その後,この歌に見えるほどの貧富の差は生じてはいないが,グローバリゼーションの名の下に,新自由主義的経済システムが普及するとともに所得格差が増えている。実は学力格差も増えている。こちらのほうは,私は「ゆとり教育」と「携帯電話(スマートフォン)の普及」に原因があると考えている。

 所得格差が増えるといっても,大金持ちが増えるのは特に問題ない。所得が正規分布していて平均値が大きくなるだけなら問題ないし,分散が少しくらい大きくなっても問題は小さいと思うが,問題なのは正規分布からずれてくることである。所得の大きなところと小さなところに二つピークがあって,中間の,本来最も人数が多くなければならない(と私は考える)平均的な所得の人の数が減ってしまっているのだ。実は学力も同様で,高学力と低学力の2極分化が進んでいるように感じる。

 どのように対応すれば私が感じている問題点が解消できるのはわからない(政治家のように,できもしないことをできるとは言えないが,もちろん,対策の考えは持っている。実験で証明できたわけでないので,判らないと書いただけだ。例えば学力なら,入試制度を変えるのだ。文理の区別をなくし,国語と数学を必修とする など)が,少なくともこのような問題点を解消しようと努力する政治を望む。

1)      昭和45年の内閣府調査で,自分が「中の下」〜「中の上」と答えた人が9割を越えた。統計的には「下」と答える人の割合が1割以下というのは50年近く続いており,意識の上では中流と考えている人が多いようだ。

 

お俊恋唄(2013.9.19)

昭和28年,詞:吉川静夫,曲:佐々木俊一,唄:榎本美佐江

 「忍び泣きしてからだもやせて」と始まる唄。

 現代では廃れてしまったのではないかと思われる言葉が次々と出てくる。と感じるのは「茶だち塩だちお百度詣り」などの言葉だが,他の箇所にも,他の歌で聞いたような言葉がちりばめられている。他の歌が引用したのではないかという箇所もあるが,他の歌を引用したのではないかという箇所もある。

 ただ,当時は私も幼く,幼い子供に印象を残すような歌ではなかったように思う。榎本美佐江は後にテレビの懐メロ番組で観ているが,『十三夜』1)などを唄っていたのではないだろうか。

1) 「十三夜」(昭和16年,詞:石松秋二,曲:長津義司,唄:小笠原美都子)

 

落葉しぐれ(2013.7.31)

昭和28年,詞:吉川静夫,曲:吉田正,唄:三浦洸一

 「旅の落葉がしぐれに濡れて」と始まる歌。

 子供の頃聴いたことがある。ただ,いつ,何で聴いたのかの記憶はないし,タイトルも知らなかった。

 「男流れのギター弾き」とあるので,流しのギター弾きなのだろう。もちろん私はまだ子供で流しのお兄さんがやってくるような場所に行ったことはなかった。街頭で楽器演奏といえば傷痍軍人だった。アコーディオンが多かったように思う。移動サーカスが来るとか,商店街の大売出しなどにはチンドン屋をよく見かけた。ただ,昭和28年に私が住んでいたところは住宅地だ。住宅地に傷痍軍人はいないし,チンドン屋もあまり来なかったようにおもうので,時期を混同しているかもしれない。繁華街に出ると,店の外に向けて大音量で音楽をかけていた時代はこの時代か,もう少し後の時代だろう。

この年,NHKラジオで『笛吹童子』の放送が始まった。私はこの連続ラジオドラマは一生懸命聴いたが,積極的に流行歌番組を聴くような子供ではなかった。それでも聴き覚えているのは,周囲の誰かが聴いていたのだろうか。

この年,1円未満の通貨が無効になったが,小学校の教材にはもっと後まで1円未満の(模造)貨幣があったような気がする。少なくとも駄菓子屋では,もっとずっと後まで50銭単位の価格だった。偶数個買えば1円単位で支払いできるが,奇数個で50銭という端数がでる商品もあり,そのときは50銭のアメをお釣り代わりにくれた。

多分,昭和40年より後でも,名古屋の市電は切符2枚で25円だったように思う。1枚だと13円だったと記憶している。50銭分の飴はくれなかった。

 

思ひ出のランプに灯を入れて(2024.5.20)

昭和28年,詞:矢野亮,曲:渡久地政信,唄:三條町子

 「淋しくなれば モン・シェール 想い出のランプに 灯をいれて」と始まる。

 「貴方は いつかきっと この胸にかえる」と「なつかしい 面影の あとを追う わたし」ということだが,いつまで待っても無駄なことだろう。

 You tubeにあったレコードの写真には旧仮名でタイトルが書かれていたのでここでもタイトルを旧仮名で書いたが,歌詞は新仮名とした。新仮名自体は昭和21年に内閣告示がでているはずだが。

 この歌についてはよく知らない。ただ,昭和28年にランプを使っていた記憶はないのだが,私が比較的都会に住んでいたからか,この歌が出来たのはもっと古い時代なのだろうか。まあ,ずっとあとでも夜店や夜釣りでのカーバイドランプは見かけたが。

 

想い出のワルツ(2020.10.19)

昭和28年,詞:Sidney Prosen,曲:Sidney Prosen,  唄:雪村いづみ 

Till I waltz again with you  Let no other hold your charms.」と始まる。

 平易な英語の歌詞だといっても私のヒアリング能力では歌詞を聞くというより全体の雰囲気を感じ取る歌。

 「星影蒼き 想い出の夜 君と踊りし 懐かしの夜」と始まる日本語の歌詞もある。

 雪村は三人娘(美空ひばり,江利チエミ,雪村いづみ)の中では最もバタ臭いと感じる。

 

ガイ・イズ・ア・ガイ(2021.4.25)

昭和28年,詞:O.Brand/音羽たかし,曲:O.Brand,唄:江利チエミ

 「I walked down the street like a good girl should」と始まる。日本語歌詞は「わたしのママが言いました『男はみんな狼よ だから おもてでは 知らぬ人に 口をきいては いけませんよ』」と始まる。最後は「わたしだって アヴァンチュールを楽しみたい」というのだからPTA推薦曲というわけにはいかなかっただろう。

 

君の名は(2012.4.14)

昭和28年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:織井茂子

 「君の名はとたずねし人あり」で始まるこの時代では超有名な歌。「忘却とは忘れ去ることなり・・・」という当時は誰もが知っていたナレーションで始まる連続ラジオドラマ「君の名は」の主題歌である。主人公の氏家真知子と後宮春樹という名前が一時流行した。また,岸惠子と佐田啓二で映画化もされ,映画の中で岸惠子が巻いたショールの巻き方が「真知子巻き」という名で流行した。

 空襲の夜知り合った二人は後日「数寄屋橋」で逢う約束をしたのだが,互いに名前も知らず,事情もあり,なかなか逢えない。メロドラマのジャンルで,なかなか逢えない「すれ違い」系の代表である。

 昔は携帯電話などなかったので,約束して,互いにその場に行っていても会えないということがよくあった。

 私が初めて東京へ行ったのは中学の修学旅行だが,そのとき数寄屋橋に行ってみた。感想は,「何だこんなところか」。

 

黒百合の歌(2013.4.1)

昭和28年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:織井茂子

 「黒百合は恋の花 愛する人に捧げれば」と始まる唄で松竹映画『君の名は 第二部』の主題歌。

 『君の名は』はこの時代の国民的メロドラマと言ってよいだろう。この時代,自宅での受動的娯楽は新聞・雑誌・書籍を読むかラジオを聴くか,レコードを聴くくらいだったのではなかろうか。レコードは蓄音機で聴くのだが,それほど普及しておらず,アンプを備えた電気蓄音機(電蓄)となると無い家庭が非常に多かった。ラジオはかなり普及はしていたが,一家庭にせいぜい一台だったのではないか。したがって家族で同じ番組を聴くことが多い。放送局の数も少なかったので結局皆が同じラジオ番組を聴いていたのだ。したがって,同時代に生きた人々の多くがこの連続ラジオドラマの内容を知っていた。

 『君の名は』の主人公は春樹と真知子であるが,この歌はユミという登場人物の歌である。ユミは春樹に心を寄せるのだが・・・。もちろん,春樹と真知子が簡単にハッピーエンドに向かうわけではない。

 織井茂子もいい。私もこのドラマを聴いていたにもかかわらず,ユミがどのような娘だったのか記憶にないが,織井茂子の唄を聴くと情熱的でワイルドな少女を想像する。映画のキャストを見てみると,春樹は佐田啓二,真知子は岸惠子,ユミは北原三枝が演じている。『君の名は』1)は真知子の歌だが,織井茂子はこれらをはっきりと唄い分け,どちらも聴かせる。

1)      「君の名は」(昭和28年,詞:菊田一夫,曲:古関裕而,唄:織井茂子)

 

原爆を許すまじ(2012.1.25)

 昭和28年,詞:浅田石二,曲:木下航二

 「故郷の街焼かれ」ではじまり,1番から4番まで「ああ許すまじ原爆を,三度許すまじ原爆を」というフレーズが繰り返される。反原爆歌である。昭和29年の第五福竜丸事件1)以後多くの場所で歌われるようになった。

 「ゆるすまじ原爆を」と唱える,これで原爆廃絶を達成できるのだろうか。

 原爆被害の悲惨さを訴えるのなら,私は「長崎の鐘」のほうに軍配を上げる。日本文化の伝統からいえばあからさまに言わずに,かつ明確に伝えるという意味で「長崎の鐘」のほうが心をうつ。しかし,「言わなきゃ解らない」人が増えてきた結果がこの歌だろう。最近では「言っても通じない」人が増えているのではないかと憂慮している。

1)ビキニ環礁での米国の水爆実験の際,米軍から指定された危険水域の外で操業していた多くの漁船が被曝した。水爆の威力が予想以上だったのだ。被曝した一隻である静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」に乗っていた久保山さんは約半年後に亡くなった。米国は見舞金を出したが,死因が被曝によるものと認めたわけではない。同様に被曝した他の人々が亡くなっていないことを理由としている。

 

こんなベッピン見たことない(2013.6.2)

昭和28年,詞:関根利根雄・石本美由起,曲:古賀政男,唄:神楽坂はん子

 「(こんなベッピン見たことない)とかなんとかおっしゃって」と始まる歌。()内は男性(コーラス)なのだが誰が唄っているのかわからない。

 リアルタイムで聴いたことがあるかどうか,全く記憶にないが,懐メロ番組で聴いたことがある。

 ベッピンは「別品」であり,特別な物を表す言葉だったのが後に人に対しても使われるようになり,「品」に「嬪」を当てることもあるようになり,主として女性に使われるようになり「別嬪」が一般的になったらしい。

 「嬪」は後宮の官名らしい。Wikipediaで「後宮」を調べると,唐の制度では内官として四夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻という官があったとのこと。四夫人とは貴妃・淑妃・徳妃・賢妃だ。楊貴妃は夫人の一人だったということだ。「嬪」の格は「夫人」の下ということだ。

 律令時代の日本でも中国の制度を真似てこのような制度があった。嬪は格としては4番目で,この格は親の身分によって決まっていたらしい。平安時代には嬪は女御と呼ばれるようになる。更衣は女御の下,更衣の下が御息所だ。このような雑学も源氏物語などを読もうと思うとほんの少しだが理解に役立つ。

 御息所といえば,紫式部はどのようなきっかけで六条御息所を思いついたのだろう。近くにモデルがいたのだろうか,あるいは自分自身の内に見たのだろうか。

 この歌で使われている「ベッピン」はもちろん美しい女性という意味である。酒席での言葉なので,言葉通りかどうかは不明だ。それでも「お世辞でないならうれしいわ」などと言いながら「アラどうしましょどうしましょ」とその気になってきたのか,振りをしているのか,よくわからない歌だ。まあ,お遊びの歌であろうから深く考えないほうが良いのだろう。

 

少年ケニヤの歌(2017.3.13)

昭和28年,詞:井田誠一,曲:いずみたく,唄:ビクター児童合唱団

 「ウーウーウーウー ウーウーウウーウー アフリカだ ジャングルだ ウー アッ」と始まる歌。

「少年ケニヤ」は山川惣冶により昭和26年から新聞連載された冒険小説。昭和28 年に文化放送でラジオドラマ化された。列テレビドラマになっている。この間,漫画化・映画化・アニメ化などもされている。

 確実な根拠までは見つけられていないのだが,この歌はラジオドラマのときの主題歌らしい。テレビドラマでも同じ歌が使われていたと思うがこちらはテイチク児童合唱団とか。

1次資料で確認したわけではない。

 曲のほうだが,「青い瞳に 薔薇の頬」あたりが『丸い地球の水平線に』1)とよく似ているのでこの付近から別の歌に変ってしまいそうだ。私の頭の中は上書き保存されたがかすかに古いデータも消えきらずに残っているといる状況ということだ。

1)「ひょっこりひょうたん島」(昭和39年,詞:井上ひさし・山元護久,曲:宇野誠一郎,唄:前川陽子とひばり児童合唱団

 

ぞうさん(2014.8.12)

昭和28年,詞:まど・みちお,曲:團伊玖磨

 「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね」と始まる歌。詞は昭和23年だ。

 私が子供のころにはこの歌を聴いた記憶がない。象そのものは絵で見たこともあるし,動物園には本物の象がいた。鼻が長いのは当然と感じており,何の疑問も感じていなかった。

 象と言えば印象に残っているのは『ダンボ』1)だ。こちらは耳が大きいのだが,動物園で見た象も他の動物に比べて耳が大きいのだが,特に印象には残らなかった。しかし映像でみたダンボの耳は強く印象に残った。動物園の象では鼻に強い印象が残った。鼻の筋肉を自由に操れて,物を掴んだりできることである。帰宅後,鏡を見ながら努力してみても自分の鼻は孔を広げるくらいしか操作できない。鼻孔を広げる訓練は,その後私が『にらめっこ』をするときの強力な技になって実った。

 象に関して私に強い印象を与えたのは『象は鼻が長い』という文だ。私が知ったのは三上が同名の本2)を出したはるか後のことなのだが,この文を知ってから日本語に興味を持った。そのときにウナギ文3)なども知ったのでこの項の最初に「詞は昭和23年だ」と書いてみた。

 中学のときの国語の先生の一人は漢字の書き取りに熱心な先生だった。別の先生は文法に熱心な先生だった。中学なので口語だが,活用語の活用や助動詞の接続など,表で書けるようなものはすべて暗記するよう求められた。要するに詰め込みである。面白味は感じなかったが後の受験には役立った。一方,『象は鼻が長い』とか『私はウナギだ』などは,英語に直訳できそうない文で,日本語と外国語の違いに気づき,日本語が面白いと感じるようになった。

 教育は興味を持たせることが最善の教育だろうが,なかなか困難である。ある時期の詰め込み教育も役に立つ場合がある。但し,万人の役に立つとは限らないところが問題だ。例えば日本史の年号など,かなり暗記した。これも詰め込みだが,後に外国人を日本の歴史遺産などを紹介する際にはこの年号はかなり役立った。一方,同様に詰め込んだ世界史の年号は有効活用できなかった。世界史で学んだ固有名詞が日本での発音(主として原語に近いものと中国語の日本式読み)なので英会話の間にこの固有名詞がでてきてもすぐには気づかないし,自分でも会話の中で固有名詞が入れられないのだ。

 ぞうさんの歌詞に戻るが,2番では「だれがすきなの」と尋ねられて「かあさんが すきなのよ」と答えている。微笑ましい歌だ。

1)「ダンボ」(昭和16年,ディズニー映画。日本公開は昭和29年。)

2)「象は鼻がながい」(三上章、昭和35年,くろしお出版)

3)ウナギ文。例:俺はウナギだ。

 

津軽のふるさと(2016.4.9)

昭和28年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり

 「りんごのふるさとは 北国の果て」と始まる歌。

 タイトルは津軽っぽいのだが,曲はバタ臭い感じを受ける。津軽を感じるのは歌詞の内容だけだ。歌詞自体も津軽を離れて都会に出て久しく,完全に都会の水に染まっているように感じる。

 津軽は田舎であれというわけではない。西洋風で何が悪いと言われれば,何も言い返せない。しかし,あまりにも雰囲気が異なるのではないか。都会で成功した者の歌に聞こえる。

 当時の方言や訛りはひどかった。ラジオくらいしか標準語?を聞く機会がない。携帯ラジオはあったかもしれないという程度で,ラジオと言えば部屋の中に据え付けられたものだった。標準語はラジオを聞いているから聞けば解る。しかし,話せないのだ。標準語を話しているつもりでも,聞いている者には理解できない。私が英語を話すようなものだろうか。

 私の両親は新潟出身だった。親の実家に行くと実家の人々の言葉はほとんど理解できなかった。私と従姉弟は当時北九州に住んでいた。親の実家の人々は私の言葉は解るが,私の従姉弟の言葉は解らないと言っていた。思い当たる違いは従姉弟の母親が新潟生まれでないことだけだ。私の言葉には新潟県人の特徴が現れていたのだろう。

 三重県の小学校に転校したとき,先生の言葉は理解できたが同級生の言葉はほとんど解らなかった。大学生になったときでも,全国から学生があつまり,過半数の学生の言葉に理解できない言葉が多くあった。

 テレビの普及と日本列島改造による交通網の発達が言葉の共通化に大きな貢献をしたのだろう。

 「りんごのひとりごと」1)などからリンゴが北国で作られていることは知っていた。子供の頃,両親の実家から盆暮にいろんな食料品を送ってくれていた。

 まず,金が無い。預金封鎖が解けたといってももともと預金などないから関係ない。父親が勤めていた会社でも給与の一部が会社の製品の現物支給だったこともある。これを物々交換などで食料品に換えたり,猫の額ほどの土地に野菜などをつくったり,魚釣りに行ったりと,食材確保が大変だったのだ。田舎から送られてくる物で私が好きだったのは祖母が漬けた茄子の味噌漬けだった。リンゴも送ってくれていた。段ボールなどない時代だから,当時リンゴ箱と呼んでいた木の箱に緩衝剤として籾殻が詰められていた。柿も同じようにして送ってきていた。どちらも新潟産だと思っていたのだが,柿は母親の実家で採れたもの,リンゴは父親の実家が買って送ってくれたものらしい。恐らくリンゴは長野産だったのだろう。

 リンゴ箱と言えば,10年以上後,大学生になった頃,下宿でリンゴ箱を食卓兼勉強机にしている同級生がいた。電気炬燵は売っていたが大して暖かくなく,暖房器具など持っていない学生も少なくなかった。もちろん教室に冷暖房はなかった。歯学部の学生など,自家用車を乗り回している学生もいたが,机を持っていない学生も自分は中流以上と思っていたのだろう。

1)「りんごのひとりごと」(昭和15年,詞:武内俊子,曲:河村光陽)

 

津軽のふるさと(2019.12.8)

昭和28年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり

 「りんごのふるさとは 北国の果て」と始まる歌。

 「あの頃の想い出 あゝ 今いずこに」「あゝ 津軽の海よ 山よ いつの日もなつかし」と故郷を懐かしむ歌だ。離れ離れになった恋人も,家族も何も登場しない。ただただ故郷の山や海を懐かしむ。余計な雑念?が入らないだけに故郷への想いがより深く感じられる。

 

毒消しゃ,いらんかネ(2020.9.12)

昭和28年,詞:三木鶏郎,曲:三木鶏郎,唄:宮城まり子

 「毒消しゃいらんかねー」と一声あり,「わたしゃ雪国 薬うり」と始まる。

 雪国とあるだけだが,薬売りとなれば越中富山だろう。富山の置き薬は江戸時代からあったようだ。

 「目の毒 気の毒 河豚の毒」というフレーズが繰り返されていることからもわかるように,一種のコミックソングだ。

 一年中旅をしているので,「惚れちゃいけない 他国もの 一年たたなきゃ 合えやせぬ」とか「好いたお方が待ってても 雪がとけなきゃ帰りゃせぬ」などと恋はできないようだ。

 「胸がいたいは恋わずらい」というフレーズはあるが,これに効く薬があるのかどうかには触れられていない。

 

花の三度笠(2023.6.7)

昭和28年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:小畑実

 「男三度笠 横ちょにかぶり おぼろ月夜の 旅がらす」と始まる。

 小畑の声がいかにも優男で,「野暮な白刃にゃ からだを張るが」などとあっても似合わない。

 昭和中期以降,懐メロ番組に登場した小畑がこの歌を唄うのを聞いた記憶が無い。小畑の代表曲とは思われていなかったのだろう。

 

笛吹童子(2015.7.17)

昭和28年,詞:北村寿夫,曲:福田蘭堂,唄:テイチクミチル児童合唱団

 「ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラリロ 誰が吹くのか不思議な笛だ」と始まる歌。歌のタイトルを「笛吹童子の歌」としているものも見たことがある。

 最初に福田蘭堂により尺八が前奏の一部として演奏される。当時は子供の頃から尺八の音色に馴染んだのだ。福田蘭堂という名前は珍しく感じ,強く印象に残った。

 NHKラジオドラマ「笛吹童子」の主題歌である。このころは何も時間に縛られていなかったので放送は欠かさず聞いた。

 これは何度も映画化されている。最初の映画は主役兄弟萩丸と菊丸を東千代之介と中村錦之助が演じた。中村(後に萬屋と改名)錦之介のデビュー作である。

 

街のサンドイッチマン(2012.12.4)

昭和28年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:鶴田浩二

 「ロイドメガネに燕尾服」という歌。

 子供の頃,流行歌の歌手になりたいと思っていた頃がある。その頃,家におもちゃのようなテープレコーダがあった。一応は磁気テープに録音できるというものだが,どのような規格だったのか,その後買ったテープレコーダとは互換性の無いテープだった。小さなオープンリールというのか,8ミリフィルムのような形の磁気テープだった。録音時間を長くするためにテープ速度も遅く,音質もわるかった。付属品としてクリスタルマイクがついていた。補助入力端子などは無かったと思う。とにかくラジオのスピーカーの前にこのマイクを置きエアーチェックもどきを行っていろんな歌を覚えた。

 もちろん,歌手を目指していたくらいだから,自分の歌を吹き込んで聴いたこともある。子供ながらに才能があったのだろう,そこで私が発見したのは,自分の歌は自分で思っているほど上手くなく,はっきり言えば下手だということだ。最初はテープレコーダが悪いのかとも思ったが,何度やり直しても同じだし,ラジオの録音などはそれらしく聞こえる。

 結局,流行歌手になることは諦めたのだが,その後何年かして,テレビで『しりとり歌合戦』1)というのを観てこれに出たいと思い,『いろは』どの文字から始まる歌でも唄えるように勉強した。『あ』や『な』などから始まる歌は沢山あるのだが,いくつかの文字で始まる歌は数が少なかった。『ろ』から始まる歌の数も少なかった。この「街のサンドイッチマン」がその一曲だ。結局しりとり歌合戦にも出場はしなかったが。

 ところで,最近の若者で『サンドイッチマン』を知らない者がいるらしい。そういえば最近あまり見ないが,歌舞伎町あたりには居そうな気がする。チンドン屋のほうが少ないのではないだろうか。チンドン屋は鐘と太鼓をチンチンドンドンと鳴らしながら商店などの宣伝をし,多くの場合,クラリネットなどのメロディー演奏が可能な楽器の演奏者も一緒に町内を練り歩くのであり,同時に,あるいは個別に,身体の前後に宣伝看板をぶら下げて歩くのがサンドイッチマンである。看板にサンドイッチされているというわけだ。プラカードを持っていることも多い。要するに歩く広告塔である。

 この歌は,戦後没落して生活のためにサンドイッチマンをやらざるを得なくなった元連合艦隊司令長官の子息をモデルにして作られたとのことである2)。戦後はこのような階級の激変があったのである。

1)      勝ち抜きしりとり歌合戦:日本テレビ系,昭和39年〜?。もっと古いような気がするが・・・。

2)      サンドウィッチマン:Wikipedia

 

待ちましょう(2019.10.7)

昭和28年,詞:矢野亮,曲:渡久地政信,唄:津村謙

 「待ちましょう 待ちましょう やがて来る その日まで」と始まる歌。

 一番はこのように希望がありそうなことを言っているが「夢の あと追いながら 待ちましょう 待ちましょう」と希望は願望であり夢であることが判っているようだ。,二番になると「二度と来ぬ さだめでも」と希望が更に薄くなっている。それでも「待ちましょう 待ちましょう」なのだ。

 状況は解らないが,待っているのは女のような気がする。

 ありそうな状況としては舟で漁に出たまま戻らぬ夫を待つ妻などが思いつくが,曲はバタ臭く,詞も歌声もハイカラすぎるようだ。源氏物語のような妻問婚の世界も時代が合わない気がする。出稼ぎなどは田舎から都会へだろうが,待っているほうに田舎臭さが無い。都会で待つとすれば,時代は合わないが出征か,あるいは外国へ行ってしまったのか。一番ありそうなのがネオン街の女性が心に残った客の再訪を待つというのだが。

 いずれにせよ,当時の経済・交通・通信事情では一旦離れ離れになると捜し出すことは至難の業で,待つしか術がなかったのだろう。

 

毬藻の唄(2022.3.27)

昭和28年,詞:いわせひろし,曲:八州秀章,唄:安藤まり子

「水面をわたる 風さみし」と始まる。歌詞は雑誌『平凡』当選歌詞。

 「浮かぶ毬藻よ なに思う」と問いかけてはいる。毬藻が思うのは「恋は悲しと 嘆きあう」とおきまりのパターンだ。これはアイヌの恋毬藻伝説を歌にしたものだ。同時に当時最新の研究成果であった毬藻の浮き沈みに関しても述べられており,北海道観光宣伝の一端を担う歌になったのではないか。

 戦前にも毬藻ブームはあったが,当時再び毬藻人気が上昇しており,毬藻を採ることは禁じられてはいたが,窃盗が多かった。

 昭和29年,昭和天皇が阿寒湖に行幸された際,毬藻を献上しようとしたところ『これは国の宝である』と仰せられ,御受け取りになられなかった。これを伝え聞いた鳩山一郎総理は秘蔵の毬藻を返し,三木武夫運輸大臣も阿寒湖を訪れ毬藻を湖中に戻した。

 昭和30年から毬藻返還運動がおこり,多くの毬藻が故郷に帰った。

 

やぎさんゆうびん(2014.9.24)

昭和28年,詞:まど・みちお,曲:團伊玖磨

 「白やぎさんからお手紙ついた黒山羊さんたら読まずに食べた」と始まる歌。

 どちらも読まずに食べてしまった後「さっきの手紙のご用事なあに」と返信をし続け,無限に続かせることができる歌である。

 昔はほとんどの物が天然素材を使って作られていたので,食用になるものが多かっただろう。飢餓に苦しめられ,革靴を食べようとした話などを聞いたことがある。非常食用に熊本城では壁に瓢箪を埋め込み,畳には芋の蔓を織り込んだとか。お手玉に小豆を入れたりなどの工夫などもあったようだ。

 反芻動物は植物繊維が消化できると聞いたことがあるので,昔ながらの和紙などはヤギなら当然消化できるのだろう。羊皮紙なら羊の皮だろうから,人間でも消化できるのかも知れない(未確認)。しかし,昭和30年前後に一般的に使われていた紙は,現在では茶色に変色してしまっているのが多いのではないか。これらの紙には製造時に使用した薬品(酸?)が残留しておりそのせいで変色・腐食するのだと聞いたことがある。そうだとすると,添加物を含む食品ということになり,ヤギが食べるのには適していなかっただろう。

 私は電子メールを使い始めた当時,操作ミスで着信メールを消去してしまい,「さっきのメールのご用事なあに」というメールを恥を忍んで送信したことがある。(受け取ったメールが直ちに読めず,使用されている文字コードが何かを調べていて誤って消してしまうなど。)

 

雪の降る町を(2012.10.8)

昭和28年,詞:内村直也,曲:中田喜直,唄:高英男

 「雪の降るまち」を「想い出」・「哀しみ」・「空しさ」などと共に歩く歌。歩くとは歌詞にはないが,私が受けたイメージだ。曲の速さから,降り始めたところではなく,既にある程度積もっているので,一歩一歩踏みしめながら歩いているのだろう。しかし吹雪という降り方ではなくしんしんと降っている。「想い出」・「哀しみ」・「空しさ」が湧き出てくるが,もう少し頑張ればこの先に「幸せ」・「春」・「新しき光」などがあるだろうと期待している。

 「雪が降るまち」と「雪の降るまち」をそれぞれ英訳するとどのようになるのか興味はあるが全く解らない。「まち」「町」「街」から受ける感じを英訳すると自分なりには違う単語が浮かぶが,ここで使われている「が」と「の」は,雰囲気は確かに異なるのだが意味上どのような違いがあるのか明確に説明できない。用法としては連体修飾する場合に「が」が「の」に変わっても良いようだが。英訳するとき,節と句で訳し分ければ同じニュアンスになるのだろうか。もっとも,英語でも節と句のニュアンスの違いは良く解らない。

 この歌とは無関係だと思うが,「雪が降る町」1)とか「雪の降る街」2)など,タイトルが似た別の歌もある。

1)      「雪が降る町」(平成4年,詞:奥田民生,曲:奥田民生,唄:ユニコーン)

2)      「雪の降る街」(平成24年,詞:aimerrhythm,曲:黒田晃太郎,唄:Aimer

 

I Left My Heart in San Francisco<想い出のサンフランシスコ><霧のサンフランシスコ>(2018.6.11)

昭和28年,詞:ジョージ・コウリ―,ダグラス・クロス,曲:ジョージ・コウリ―,ダグラス・クロス

 「I left my heart in San Francisco」と始まる歌。

 多くの歌手が唄っているようで,私が聴いたのは誰が唄ったものなのか記憶にない。

 ここに書いた歌詞の前に「The loveliness of Paris  Seems somehow sadly gay」と始まる部分がある盤もある。というかこの部分から始まる盤の方が多いような気もする。

 いずれも最後は「Your golden sun will shine for me」と終わる。この箇所はSan Fransisco(に残してきた恋人?)に対する強い想いが感じられる。

 

I Really Don’t Want to Know<知りたくないの>(2012.6.13)

昭和28年,詞:Howard Barnes, 曲:Don Robertson, 唄:Eddy Arnold

 「How may arms have held you」で始まる歌。菅原洋一が日本語で歌って大ヒットした。「あなたの過去などしりたくないの」というあの歌1)だ。私が英語版を聴いたのはこれよりも後だ。「even if I ask you Darling don’t confess」「I really don’t want to know」というところは同感だ。知らぬが仏ということがある。秘密は墓場の中まで持っていくのが良い。全く秘密が無くなってしまうとロス・インディオスの歌2)のようになる。

1)「知りたくないの」(昭和40年,詞:Howard Barnes,訳詞:なかにし礼,曲:Don Robertson,唄:菅原洋一)

2)「知りすぎたのね」(昭和43年,詞:なかにし礼,曲:なかにし礼,唄:ロス・インディオス)

 

North Wind<北風>(2012.1.5)

昭和28年,詞:Rod Morris ,曲:Rod Morris,唄:Slim Whitman

 「Well once I met a pretty little girl and she was fair to see」という曲である。昭和28年にこの曲を聴いていないことは確かだ。後に一部レイモンド服部作詞で昭和39年に北原謙二が唄っている。私が聴いたのはこれだろう。その後も誰か違う歌手が唄っているのを聞いた記憶がある。歌詞が聞き取りやすかったように記憶している。

 昭和28年はラジオで「笛吹童子」の放送が始まり,昭和39年は東京オリンピックの年である。