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昭和の歌曲名索引

平成の歌

 

昭和元年〜

目次

昭和元年 思い出した

昭和2年 赤蜻蛉,慶應大学應援歌,ちゃっきり節,雪山賛歌

昭和3年 アラビアの唄,君恋し,出船,出船の港,道頓堀行進曲,波浮の港,私の青空<MY BLUE HEAVEN>

昭和4年 雨降りお月,十日町小唄,東京行進曲,紅屋の娘,鞠と殿様

昭和5年 祇園小唄,酋長の娘,すみれの花咲く頃,唐人お吉の唄

 

思い出した(2018.3.24)

昭和元年,詞:添田知道,曲:鳥取春陽

 「思い出した思い出した思い出した 去年の3月花の頃」と始まる歌。

 何となく,突然思い出し,インターネットで捜してみたが表題の曲しか見つからなかった。昭和30年代中頃に小林旭が唄っていたような気がしたのだが確認できなかった。捜しているうちに,笑福亭鶴光が唄っていたという情報もあったが,私には記憶がない。

 私の記憶ではもっとアップテンポだったように思うが,昭和初期に比べると後期では全てがアップテンポになっているのでその流れに従っているのだろう。

 

赤蜻蛉(2012.2.20)

昭和2年,詞:三木露風,曲:山田耕筰

詞は大正10年。「夕焼け小焼けの赤とんぼ」という童謡。「負われて」は,月並みだが「追われて」だと思っていた。「帰ってみれば恐い蟹」1)と同じだ。「ねえや」も実の姉のことだと思っていた。私の家には「ねえや」などいなかったのでそのような語彙を持っていなかった。そういえば子供の頃遊びに言った友達の家でも「ねえや」を見たことがない。昭和初期は「ねえや」がいる家が多かったのだろうか。

 日本語のアクセントは強弱ではなく高低でつける。歌は言葉のアクセントに合わせたメロディーをつけるべきでこの歌の「赤トンボ」の箇所のメロディーが良い例だというようなことを三島由紀夫が言ったというような話を聞いたような気がするが,これは私の聞き間違いだろう。「赤」ならメロディーは正しいが,「赤トンボ」となった場合の発音とこの歌のメロディーは合わない。

1)「此は如何に」。「浦島太郎」文部省唱歌,明治44年。

 

慶應大学應援歌(2014.3.18)

昭和2年,詞:堀内敬三,曲:堀内敬三

 「若き血に燃ゆるもの」と始まる歌。「慶應 慶應 陸の王者慶應」と終わる。

 歌詞は文語調で少し漢語を混ぜてあり,勇壮な行進曲で,校名に類するものが入るというのが私が応援歌というものに対して持っているイメージだが,そのイメージにピッタリ合う。慶應には縁もゆかりもないが,好きな歌の一つである。

 

ちゃっきり節(2012.5.4)

 昭和2年,詞:北原白秋,曲:町田嘉章

 「唄はちゃっきり節 男は次郎長」で始まる新民謡。静岡電気鉄道の依頼で狐ヶ崎遊園地のCM ソングとして作られ,昭和6年発売の市丸のレコードにより全国的に知名度があがった。歌詞は30番まであるが,私が知っているのは最初のほうだけだ。後のほうの歌詞を調べても方言が使われていて私には意味が理解できない箇所もある。

 お茶が繰り返し歌われているが,富士山,みかん,髪あぶら,浅間神社,三保の松原,藷,海苔,苺,龍華寺,安倍川餅なども入っている。

 「ちゃっきりちゃっきりちゃっきりよ きゃあるがなくんであめづらよ」が毎回繰り返されるが,「なくんで」の部分は「なくんて」「なくから」などと書かれている歌詞本もある。

 

雪山賛歌(2014.2.1)

昭和2年,詞:西堀榮三郎,曲:アメリカ民謡

 「雪よ岩よ我らが宿り」と始まる歌。曲は『Oh My Darling Clementine』を借用している。

 私が子供の頃は,山歩きは大きなレジャーのひとつだった。子供会でも,有志の大人が引率して山に良く行った。海よりも安全だと思われていたのだろう。

 昭和31年,日本山岳会の登山隊がヒマラヤ山脈のマナスルの登頂に成功し,記念切手が発行されたほどだ。昭和40年代でも,山岳部かワンダー・フォーゲル部が解らないが(恐らくワンゲルだろうが)これから出かけようということで,名古屋駅に集団で集まっている姿を良く見た。これらの人々は本格的に冬山にも挑戦するのだが,私のような本格的素人でも友人と山を歩いた。もちろん素人向きの山である。スキーなどに比べ,費用が安いことも人気の原因のひとつだったかもしれない。

 雪山に登らなくても,この歌はよく唄った。

 その後,某大学のワンダー・フォーゲル部での雪中訓練での事故により『しごき』という言葉が有名になり,人々が豊になり,海外旅行等にも気楽に行けるようになると山の愛好家は減少したようだ。

 なお,登頂成功により記念切手が発行されたマナスルには,イモトアヤコが平成25年に日本テレビの企画で登頂に成功している。

 

アラビアの唄(2012.4.21)

昭和3年,訳詞:堀内敬三,曲:F.フィッシャー,唄:二村定一

 「砂漠に陽が落ちて夜となるころ」という歌。「恋人よアラビアの歌を歌おうよ」というのだが,アラビアの曲といっても思い出す曲がなく,どんな感じの曲か想像がつかない。この「アラビアの唄」中,短調に転調する箇所がある。この短調部分のような感じなのだろうか。

 この年,満州地域の実質的な統治者であった軍閥政治家張作霖が爆殺された。関東軍参謀の河本大作大佐が指揮してこの事件を起こしたということが通説になっている。

 

君恋し(2013.11.10)

昭和3年,詞:時雨音羽,曲:佐々紅華,唄:二村定一

「宵闇せまれば悩みは涯なし」と始まる歌。

昭和36年,フランク永井が唄い第3回日本レコード大賞を受賞している。もちろん,私が何度も聴いたことがあるのはフランク永井盤だ。

 当然かと思うが昭和36年といえば,ほとんどの歌が口語で書かれている。この詞は文語とはいっても口語とほとんど変わりがないような感じだが,ところどころに感じる文語の響きが新鮮に聞こえる。

 「えんじの紅帯ゆるむもさびしや」など,大正を感じさせる。ちょっと曲はモダンに感じるが,詞は竹久夢二の世界ではなかろうか。

 

出船(2012.8.18)

昭和3年,詞:勝田香月,曲:杉山長谷夫,唄:藤原義江

 「今宵出船か お名残惜しや」と始まる歌。船での別れの歌である。親から子,妻から夫,兄弟同士,子から親,更には家族以外の親しい人,何れのメッセージともとれる別れだ。当時は国内でも海峡を隔てた地は船旅になった。ましてや大陸に渡るとなれば船だった。世界初の海底トンネルである関門鉄道トンネルの開通は昭和17年である。電話も通じないので「無事で着いたら便りをくりゃれ」という訳だ。

 大正末期は,第一次世界大戦が終り,世界中で景気が悪かった。日本では関東大震災の後遺症もあり,昭和2年,後に昭和金融恐慌と呼ばれることになる恐慌に襲われた。このときは高橋是清蔵相の決断による現金供給策によって金融不安が解消されたが,昭和4年にはアメリカに端を発する世界恐慌となる。日本でもアメリカの影響を受け,農業恐慌が発生した。要するに不景気だったのだ。

 

出船の港(2012.6.29)

昭和3年,詞:時雨音羽,曲:中山晋平,唄:藤原義江

 「波浮の港」1)は古い歌謡曲という印象を受けるが,この曲は歌謡曲としてはまったく異質だ。また,「出船」2)のような童謡風でもない。オーケストラではなくピアノ伴奏という点が異質に感じるところかもしれない。またピアノが強烈なリズムを刻んでいるがこれが極めて日本的なリズムだ。更に歌もインパクトの強い出だしだ。突然フォルテシモの高音で「ドンとドンとドンと波のり超えて」とはじまる。これ以降の唄でもこのような唄は思い出さない。古いレコードで聴いてもいかにも声量がありそうだ。これは藤原義江しか唄えない歌だろう。

佐藤千夜子盤を聴いたことがあるが,出だしのフォルテシモ(楽譜を見たわけではないのでフォルテかもしれないのだが)は一部十分声がでていないように聞こえた。

1) 「波浮の港」:昭和3年,詞:野口雨情,曲:中山晋平,唄:藤原義江,佐藤千夜子

2) 「出船」:昭和3年,詞:勝田香月,曲:杉山長谷夫,唄:藤原義江

 

道頓堀行進曲(2015.12.31)

昭和3年,詞:日比繁次郎,曲:塩尻精八,唄:内海一郎

 「赤い灯青い灯 道頓堀の」と始まる歌。

 「すまし顔すりゃカフェーの女王」とか「ナフキンたたもよ」などとあるので,カフェーの女給の歌だろう。

 道頓堀といってもお好み焼き屋1)くらいしか行ったことがなく,道頓堀のカフェーなど知らない。道頓堀に限らず,宣伝マッチにカフェーと書いてあるような店に行ったことがない。そこで,少々文献をしらべてみると,Caféとはヨーロッパでは喫茶店,米国では酒を飲ませる店のようだ。日本では,昭和初期,洋酒を飲ませる店のひとつにカフェーと呼ばれる店があったらしい。メイドカフェ風だったのかとも思うが,ナフキンなどがあったということはもう少し高級?だったのかも知れない。

 ということでWikipediaに尋ねてみると,『特殊喫茶(風俗営業)』と書いてある。『女給の化粧・着物が派手で』とあるので,メイド服のようなものを着ていたのかと思ったが着物のようだ。終戦後はかっての遊郭がカフェーと改名するようになったので,昭和初期のカフェーはバーやクラブに改名するようになったとのことである。

 カフェーは女給の接待が売りだが,コーヒーの味が売りの店は『純喫茶』と称したそうである。そういえば,私が喫茶店に行くようになったころには宣伝マッチに『純喫茶』と書いてある店が多かった。当時は『歌声喫茶』など○○喫茶と称するものが何種類もあった。

 最近はカフェーという言葉を聞いたことがない。カフェというような気がする。ナフキンもいつのまにかナプキンになったようだ。

 なお,この曲は昭和52年に海原千里・万里が唄っている。千里・万里はこの歌を最後に解散した。蛇足ながら妹の海原千里の本名(結婚改姓後)が上沼恵美子である。

1)道頓堀:大阪ミナミの繁華街。この名のお好み焼きチェーン店の一軒が私の自宅の近くにもある。

 

波浮の港(2012.2.4)

昭和3年,詞:野口雨情,曲:中山晋平,唄:藤原義江,佐藤千夜子

 「磯の鵜の鳥ゃ日暮れにゃ帰る」という唄い出しで「ヤレホンニサなぎるやら」という曲である。佐藤千夜子盤と藤原義江盤がある。なんとなく大正の香りのする曲だ。「お前は大正の香りを知っているのか」と問われれば「知らない」と答えるしかないのだが,想像する大正の香りということだ。

 この年,アムステルダムオリンピックである。このオリンピックから女子競技が始まった。このオリンピックで人見絹江は800mで銀メダルを獲得している。このとき,金メダルのラトケ(独)と共にゴール後失神してしまい,800mは女子には過酷であると次のオリンピックからは開催種目から外された。女子の800mがオリンピックで復活したのは昭和35年のローマ大会だ。人見絹江は100m200m,走幅跳の公認世界記録をもっていたし,400m,三段跳の未公認世界記録も持っていた。

 なお,日本人がオリンピックのトラック競技でメダルを獲得したのはこの人見絹江の次は平成20年北京オリンピックの男子800mリレーの銅メダルである。

アムステルダムオリンピックでは,このほか織田幹雄が三段跳びで,鶴田義行は200m平泳ぎで金メダルを獲得している。日本のメダルはこのほかに銀1銅1である。

このオリンピックで,アメリカのワイズミュラーが100m自由形と800mリレーで金メダルを獲得している1)。ワイズミュラーはターザン映画の俳優としてのイメージが強い。私が生まれる前の映画のはずだが,子供の頃観た記憶がある。いつどこで見たのだろう。ワニとの競泳シーンなどドキドキしながら観ていた。

1)     ワイズミュラーはこの前のオリンピックでは400m自由形も含めて3種目で金メダルを獲得している。

 

私の青空<MY BLUE HEAVEN(2019.6.20)

昭和3年,詞:George Whiting,訳詞:堀内敬三, 曲:Wlter Donardson,唄:二村定一

「夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空」と始まる歌。印象に残る歌詞は「せまいながらも 楽しい我家」か。

原曲ができたのは大正13年らしい。二村が唄ったのが昭和3年ということだ。戦後榎本健一が唄ったのもヒットした。昭和48年に高田渡がこの歌を唄ったとき,エノケンが唄っていた歌だと思った。

 

雨降りお月(さん)(2012.4.9)

昭和4年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「雨降りお月さん雲の陰お嫁に行くときゃ誰とゆく」という歌であるが,ウィキベディアによると大正14年に発表された「雨降りお月さん」と同じ歌とのこと。レコード化にあたり,短かすぎるということで,別の詩を2番の歌詞として追加したらしい。1番と2番はメロディーも若干違う。タイトルは「雨降りお月」から中山晋平の提案で「雨降りお月さん」に変えたという話がインターネットでいろいろ紹介されているが,原典に当たっていないので( )をつけて「お月(さん)」とした。

 時代が違うからか,地域性なのか解らないが,お嫁に行くときに一人で傘をさして行くというのはよく理解できない。

嫁に行くのが月だとすると月は星が家族・親戚なのだろうが雨だから星も見えず独りで行くということなのだろう。薄雲の陰にあり,暈がかかった月を歌ったのであろうか。だとすると馬で行くことが理解できない。

 孤独な少女が,自分がお嫁に行くことを夢見て,そのときはどんな様子だろうということを,雨の晩に,普段からいろんなことを相談しているお月様・・・雲の陰で見えないが・・・に尋ねている,そして,傘をさして独り歩いていくことを思っている,あるいは馬で行けるかも,などと思っているというのが私の解釈だ。ひょっとしたら嫁に行くことを夢見ているのではなく,明日嫁入りなのに今雨が降っているということかもしれない。嫁ぎ先のことも何も解らず,不安でお月様に相談しているのかもしれない。

今は両家あるいは新郎新婦が式場に集合しての結婚式で,式場で着付けをすることが多いが,昔は自宅で着付けを済ませて婚家に向かったものだ。タクシーのような物に乗るようなこともあったが,文金高島田を結って角隠しをつけると普通の乗用車では頭がつかえる。婚家まで距離があれば普通の駕籠でも頭がつかえそうなので馬で行くというのは理解できる。人力車で行く1)とか舟で行く2)とかいろんな歌がある。

詩とは何かという問いには答える能力がないが,明確な論理性は必ずしも必要とせず,読者の状況に応じていろんな解釈ができる詩も当然あるだろう。雰囲気・気分が読者にとって良ければ(読者が共感できれば)それが良いのだろう。「どんぐりころころどんぐりこ」3)などのように何のことか十分理解できなくても,なんとなく雰囲気を感じれば良いのだろう。

1)      大村主計:「花かげ」(昭和6年)

2)      柴田よしかず:「潮来花嫁さん」(昭和35年)

3)      青木存義:「どんぐりころころ」(大正10年?,曲:梁田貞)正しい歌詞は「どんぐりころころどんぶりこ」

 

十日町小唄(2013.3.28)

昭和4年,詞:永井白,曲:中山晋平

 「越後名物数々あれど 明石ちぢみに雪の肌」とはじまる。

 十日町観光協会のホームページにはこの歌詞が十八番まで記載されているが,私が知っている「来たらお寄りよ」とはじまり「来たら茶も出す酒も出す」という歌詞がみあたらない。私が聴いていたのはだれかが作った替え歌だったのだろうか。

 替え歌だとしても,1番の歌詞にある「着たら」と「来たら」と同音の言葉を使っているところなどは私の好みだが。

 私は民謡も嫌いではないが,民謡とは何かと問われると答えることが出来ない。この歌は民謡風のご当地ソングと言えそうな気もするが,新民謡にはいるのだろう。根拠はないが。

 

東京行進曲(2012.1.21)

昭和4年,詞:西條八十,曲:中山晋平,唄:佐藤千夜子

 「昔恋しい銀座の柳」で始まる歌。二番は丸の内,三番は浅草,四番は新宿が歌われている。Wikipediaによれば佐藤千夜子は日本最初のレコード歌手だとか。生まれる何年も前の曲なのによく知っているのが不思議だ。

 歌詞にカタカナ語が多いがほとんど現在普通に使っている。当時は新しい言葉だったのだろうか。唯一「シネマみましょか」というのが現在はあまり使われない言葉ではないか。但し「キネマ旬報」などは現役だし,映画館の名前としては残っている。「映画」を指す日本語は「活動」「キネマ」「シネマ」「映画」の順に変わってきたのだろう。特定の映画館を指して「シネマに行こうか」ということはあっても「シネマをみよう」とは現在では言わない気がする。

 

紅屋の娘(2016.5.28)

昭和4年,詞:野口雨情,曲:中山晋平

 「紅屋の娘のいうことにゃ サノ いうことにゃ」と始まる歌。

 大正13年に発表され,昭和4年になってレコード化されたらしい。もちろんリアルタイムで聴いたわけではなく,懐メロ番組で聴いた記憶もないのだが,なぜか聞き覚えがある。

 紅屋とは商品である「紅」から解るように,化粧品店だ。日本で棒口紅が初めて作られたのが大正時代,繰り出し式の棒口紅が出たのは昭和になってからのことだそうだ。洋装が次第に珍しくなくなり,化粧のやり方も変わってきて,紅屋は化粧品店に名前を変えた。パーマ屋が美容院と名を変えたようなものだろう。

 余談だが,美容院と病院は,主人と囚人などと同じく,中国人などにとって発音の区別が難しい言葉だそうだ。

 

鞠と殿様(2012.6.8)

昭和4年,詞:西條八十,曲:中山晋平,歌:佐藤千夜子

 「てんてんてんまりてんてまり」という童謡。

 手がそれて紀州の殿様の駕籠の屋根にのり,いつまでたっても戻ってこない。紀州の山で赤いみかんになったらしいという話だ。

明示はされていないのだが,紀州に行った鞠は無礼討ちになった子供の怨霊だとか。昭和4年の作としては題材が古い。何か元になる手鞠唄のようなものがあったのではなかろうか。怨霊の話だなどと聞いてしまうと,この歌は二度と聴きたくないような気分になる。

 鞠が紀州の蜜柑になるという夢物語と解釈すればよいと思うのだが,「明い」みかんではなく「赤い」みかんになっていることも心を暗くさせるが,成仏できたと解釈すべきなのだろう。不運はあったが最後は皆に喜ばれる存在になったと考えるしかない。

 昔の話には現代的感覚では残虐すぎるというような話がよくある。日本の話に限らず,イソップやグリムでも同じらしい。また,子供も残虐なものであるということを聞いたことがある。親の愛情・教育により優しさ・社会性を身につけていくとか。母の胎内で進化の過程を辿るだけでなく,誕生後も人類の社会的進化の過程を辿るのだろう。

 

祇園小唄(2012.5.28)

昭和5年,詞:長田幹彦,曲:佐々紅華,唄:藤本二三吉

 「月はおぼろに東山」で始まる,筝曲のイメージが喚起される和風の名曲。

 1番は春,2番は夏というように京都の四季が歌われ,4番まであり,それぞれ「祇園恋しやだらりの帯よ」と終わる。ストーリーがあるわけではないが,それぞれに「しのぶ思い」,「燃えて身を焼く」「もやい枕に」などと艶かしさを思わせる言葉がちりばめてあり,祇園という街に想像を掻きたてられる。

 七五調の歌は何でも水戸黄門の歌1)で唄えると聞いたことがある。「どんぐりころころ」2)や「ゆうやけこやけ」3)で試してみてなるほどと感心していたのだが,この「祇園小唄」は合わない。詞とメロディーは関係があることを再確認した。

1)      「あゝ人生に涙あり」(詞:山上路夫,曲:木下忠司,歌:里見浩太朗,横内正)

2)      「どんぐりころころ」(詞:青木存義,曲:梁田貞)

3)      「夕焼け小焼け」(詞:中村雨紅,曲:草川信)

 

酋長の娘(2011.11.4)

昭和5年,詞:石田一松,曲:石田一松,唄:いろんな人が唄っているらしい。

「私のラバさん酋長の娘」である。大正末期に作られレコーディングが昭和5年ということらしい。

 歌詞に差別的な言葉が含まれているという話を聞いたことがあるが,どこが該当するのかわからない。「マーシャル群島」という固有名詞が出てくるので,マーシャル群島の人々がこの歌詞を不快に思うなら封印するべきだろうが,そうでなければ特に問題となりそうなところはないというのが私の見解だ。

 言葉に敏感なのは良いことだと思うのだが,「使ってはいけない言葉」を決めて,それに違反した者を強く糾弾するというのには大きな抵抗を感じる。最近「ばか」1)という言葉を使ってしつこく非難されていた大臣がいたが,それが不当だと思えばそう思っていれば良いだけでせいぜい一言二言注意すればよいだけである。何度も何度もこの問題を話すマスコミや野党の人々には,「そんなことよりもっと重要なことがあるだろう」と言いたい。

後になっての注(2012.1.2)

1)       後になってこの記事を読み直して,当時は誰もが知っている内容だと思ったので詳細を書かなかったが,自分自身どのような文脈で「馬鹿」発言があったのか忘れてしまっていた。うろ覚えだが完全に忘れる前に書きとめておく。

津波の話で,「友人の中にも避難しなかったバカがいた」というような内容だったと思う。被害者を「バカ」呼ばわりしたという非難だったと思う。直接聞いたわけではないが,報道されている内容からは,友人を惜しむ言葉だったと私は感じた。あのような悲惨な状況の中で,「『被害者を冒涜する言葉』を発する人間がいる」と受け取る発想が理解できない。

 

すみれの花咲く頃(2012.3.26)

昭和5年,詞:Fritz Rotter・白井鐵造,曲:Franz Doelle

 宝塚歌劇団の「すみれのは〜な さく〜ころ」という歌である。タイトルどおりの歌詞を書いても追加情報にならないが,他に想い出すことがない。原曲は昭和3年らしい。

 この年,日本橋三越で「お子様洋食」(「お子様定食」かも)というのが食堂メニューに登場したらしい。翌年には上野松坂屋で「お子さまランチ」が出されるようになったとのこと。価格は30銭くらいらしい。この頃,うな丼50銭,かけそば10銭,カレーライス25銭程度だったようだ。キリンビールは34銭とのこと。

 この年には芝浦製作所が初の国産電気冷蔵庫を発売している。価格は720円。

昭和308月まで福岡県八幡市(現北九州市八幡区)に住んでいた。この頃の記憶はほとんどないのだが,電車で出かけるとデパートがあり,そこにお子様ランチがあった。きちんと旗も立っていたと思う。デパートは小倉にあり,ここで初めてエスカレータに乗ったような気がするが記憶はあやふやだ。記憶力が弱いのかもしれないが,アルバムに写真として残っていることは記憶として残っているものが多い,恐らく,アルバムを見た時点で記憶が再構築され,定着していったものだろう。どこかに街頭テレビを観に行った記憶はあるのだが,場所は思い出せない。

 

唐人お吉の唄(2013.3.16)

昭和5年,詞:西條八十,曲:佐々紅華,唄:藤本二三吉

 「駕籠で行くのはお吉じゃないか」とはじまる歌。昔々聞いたことがある記憶があり,インターネットでさがしたが,出てくるのは佐藤千夜子盤ばかり。青江三奈のカバーも佐藤盤だった。ここで取り上げている歌は『唐人お吉小唄・明烏編・(藤本二三吉)』としてYouTubeにあった。リアルタイムでは知らない歌なので,とりあえず私の(間違った記憶かもしれない)記憶に従い,この小唄のほうの話である。なお,佐藤千夜子盤は『唐人お吉の唄(黒船編)』というらしいが私が初めて聞く歌だった。

 お吉は下田で芸妓をしており美貌で評判だった。幕末に開国した際,下田に米国総領事館が設置された。総領事のハリスの求めに応じて奉行所の斡旋で総領事館へ出仕したのがお吉である。奉行所からは支度金として大金が支払われている。奉行所・お吉共に妾としての出仕であることを了解していたものであろう。しかし,ハリスは当時体調を壊しており,看護人を求めていたという話もある。どちらが真実かは判らない。お吉は三日で奉公を辞している。

この実話をもとに小説や映画がいくつか作られている。これらの中ではハリスの一目惚れに始まり,お吉は1年間奉公したとか・・・,いろいろ脚色されているようだ。

3番の歌詞にある「泣くになかれぬ明烏」はお吉が下田の芸妓時代『新内明烏のお吉』との異名があったことによるものであろう。曲は唱歌でもなく後の流行歌でもなく,俗曲の名残を強く留めている。