明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和41年
哀愁海峡,逢いたくて逢いたくて,逢えるじゃないかまたあした,青い渚,青い瞳,あの娘たずねて,雨の中の二人,雨の夜あなたは帰る,アラ見てたのね,いい湯だな,いっぽんどっこの唄,いつまでもいつまでも,裏町酒場,大阪ろまん,おさらば故郷さん,おはなはんの歌,おまえに,おもいで,思い出の渚,お嫁においで,女のためいき,回転禁止の青春さ,悲しい酒,北国の初劫,君について行こう,今日の日はさようなら,霧雨の舗道,霧の摩周湖,銀色の道,暗い砂浜,恋と涙の太陽(アメリアッチ),恍惚のブルース,ここがいいのよ,この手のひらに愛を,こまっちゃうナ,これが青春だ,今夜は踊ろう,さよなら列車,シビレ節,信じていたい,絶唱,銭形平次,空に星があるように,旅の灯り,旅人よ,遠い渚,なんとなくなんとなく,西銀座五番街,ネオン川,ノー・ノー・ボーイ,バラが咲いた,バラの花嫁さん,二人の銀座,ベッドで煙草を吸わないで,星影のワルツ,星に祈りを,星のフラメンコ,骨まで愛して,ほんきかしら,まだ見ぬ恋人,霧氷,モンキーズのテーマ< (Theme From) The Monkees>,柳ヶ瀬ブルース,勇気あるもの,夕陽が沈む,夕陽が泣いている,夢は夜ひらく[雨が降るから],夢は夜ひらく[いのち限りの],夜空を仰いで,ラブユー東京,レット・キス,ローマの雨,若いってすばらしい,若者たち,笑えピエロ,ワン・ナイト・ワン・キス,(Theme From) The Monkees
哀愁海峡(2016.4.29)
昭和41年,詞:西沢爽,曲:遠藤実,唄:扇ひろ子
「瞼とじてもあなたが見える」と始まる歌。
「私ひとりが身を引くことが」「あなたのため」と昭和の歌謡曲らしい。「未練だきしめ哀愁海峡」という訳だ。ただ,歌詞としては珍しくは感じないし,実生活では実感として感じられるような状況もなく,印象に残っていない歌だ。
当時の記憶はベトナム戦争とインフレだ。もっとも物価上昇以上の速度で収入増があったような印象も持っている。庶民?が豊かになっていった時期のように思う。当時,名古屋の市電は均一料金で,切符を2枚買うと(割引があり)25円だったような気がする。地下鉄も均一料金でこちらは20円だったのではないだろうか。(どちらの料金も資料での確認はできていない。)街のカレースタンドのカレーは50円,学食のカレーが30円くらいだったような気がする。
逢いたくて逢いたくて(2014.7.21)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:宮川泰,唄:園まり
「愛した人はあなただけ わかっているのに」と始まる歌。
園まりは中尾ミエ・伊東ゆかりとともにスパーク3人娘として活動した時期があった。三人の中では中尾が一番活発そうに見えた。唄っていた曲のせいでそのように感じたのかもしれない。一番普通そうに見えたのが伊東ゆかりだ。園まりは一番ぶりっ子に私には見えた。ぶりっ子という言葉は当時なかったかもしれない。私がぶりっ子と聞いて最初に思い出すのが松田聖子だからこの頃の言葉かもしれない。まあ,園と松田のぶりっこぶりは方向が違うが。園まりの唄は,耳元で囁いているように聞こえ,ヘッドフォンで聴くとその雰囲気が倍増する。
逢えるじゃないかまたあした(2020.5.10)
昭和41年,詞:滝田順,曲:鶴岡雅義,唄:石原裕次郎
「夜風が二人を のぞいて行った 道の枯葉が 遠くで泣いた」と始まる歌。
繰り返される「逢えるじゃないか またあした」が印象に残る。
平成6年には川中美幸とのデュエットが発売されているそうだ。裕次郎は昭和62年に亡くなっている。裕次郎の生誕60年の記念として発売されたのかもしれないが,古い録音を使ったのか,私には事情は解らない。
青い渚(2019.1.19)
昭和41年,詞:橋本淳,曲:井上忠夫,唄;ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
「二人で歩いた砂山の どこかに消えたMy lonely first love」と始まる歌。
「なぜかハートがいたむのよ」というのは月並みな言葉だと思うが,このように「ハート」という言葉を使うようになったのは何時からなのだろうか。明治以降であることは確かだと思うが,明治時代ならHerzになりそうな気もするので,ひょっとしたら『Heart Break Hotel』1)以降なのではないか。だとすると極めて新しい言葉ということだ。
それに比べて「恋のおわりはメランコリー」というのは新しく感じ,印象に残った。日本語の中では「ハート」の用例より「メランコリー」の用例の方が新しいのだろう。
1)「Heart Break Hotel」(昭和31年,詞:Mae Boren Axton, Tommy Durden, Elvis Presley,曲:Mae Boren Axton, Tommy Durden, Elvis Presley,歌;Elvis Presley)
青い瞳(2019.8.20)
昭和41年,詞:橋本淳,曲:井上忠夫,唄;ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
「旅路の果ての 孤独な街で 俺は悲しき 恋を知ったのさ」と始まる歌。
「俺は心に誓う 愛の言葉」に対し,「青い瞳が 別れを告げるだけ」ということらしい。
別れを告げられたので恋の火が付いたのだろう。ただ,曲からは恋の炎が燃え上がっている感じは受けない。醒めた感じを受けるのは私だけだろうか。
あの娘たずねて(2015.8.26)
昭和41年,詞:永井ひろし,曲:桜田誠一,唄:佐々木新一
「花の東京のド真ン中 ぐるり回るは山手線」と始まる歌。
「有楽町 いつもあの娘と逢った町」「ところが」「別れ別れの西東」で2番では大阪,3番では高松であの娘を捜す歌。
佐々木新一の声は守屋浩の声のハスキーな部分を艶でコーティングしたような声である。曲も暗い曲ではないので,「涙が泳ぐこの胸は」とあるが,声で笑って心で泣いてという感じである。笑っては言い過ぎだが,『巡礼お鶴』1)のような悲壮感はない。『上海帰りのリル』2)は戦時中,おそらくは終戦時のどさくさで音信不通になったのだろう。こちらのほうが別れた理由が不可抗力に近い分,歌にも哀愁が漂う。それに比べると有楽町で逢っていたこのケースは個人的理由により別れたと思われる。捜しだしてくれるのを待って『昔の名前で出て』3)いる相手ならいいのだが,そうでなければ今ならストーカーと呼ばれてしまうかもしれない。当時はまだストーカーという言葉はなかった。
1)「傾城阿波鳴門」:お鶴は巡礼となって父母(阿波十郎兵衛とお弓)を捜し歩く。
2)「上海帰りのリル」(昭和26年,詞:東条寿三郎,曲:渡久地政信,唄:津村謙)。
3)「昔の名前で出ています」(昭和50年,詞:星野哲郎,曲:叶弦大,唄:小林旭)。
雨の中の二人(2015.2.20)
昭和41年,詞:宮川哲夫,曲:利根一郎,唄:橋幸夫
「雨が小粒の真珠なら」と始まる歌。
最初のたとえは『初雪やこれが塩なら大儲け』と同様の発想ではないかと思うが,この歌詞ではあわててこの真珠を拾い集めたりはしない。拾い集めても誰も買ってはくれないだろうことは解っているようだ。二人の恋のアクセサリーということだろう。「濡れてゆこうよ何処までも」とこのアクセサリーを身につけている。
ハッピーな二人にとって少々の雨など気にならないどころか,恋のアクセサリーというわけだ。
昭和29年,遠洋マグロ漁船の第5福竜丸がアメリカ軍の水爆実験で死の灰を浴び,大きな話題になった。原水爆の実験をしていたのはアメリカだけではない。まだ地下実験になる前の話だ。大気中には死の灰(放射性物質を含む微粒子)が漂っているので雨に濡れると放射能で髪が薄くなるという噂だったが,雨に濡れるのを避ける十分な理由になっていた。(私の周囲の子供たちの間での噂である。)
およそ10年後のこの頃,既に雨に濡れることは単に水に濡れることだと認識されるようになっていたのだろう。
しかし,地域によっては,当時公害と呼ばれた現象1)の一つである大気汚染により,(特に降りはじめには)黒い雨2)が降ったり酸性雨が降ったりで,雨に濡れることを避けた人たちがいたと思う。
1)当時の公害の代表は,水質汚染と大気汚染だった。
2)黒い雨:井伏鱒二の小説「黒い雨」(新潮社,昭和41年)は広島の原爆関連の話だが,この当時の黒い雨は大気中のゴミ・・・恐らくはCH化合物の不完全燃焼で発生したCを中心としたもので,石炭系ではなく,石油系なのでベタベタしていた。PM2.5などより粒子が大きく,遠くまでは飛んでは行かず,発生源の付近でスモッグの元になる。
雨の夜あなたは帰る(2019.3.15)
昭和41年,詞:吉岡治,曲;船村徹,唄;島和彦
「雨の夜(よる)に あなたは帰る そんな気がして ならないの」
「いつも信じて 待ってるわ」とは言っているが,帰って来ないことは解っているのだろう。曲調も諦めが感じられる。それでもなお,ひょっとしたらと思うのだろうか。
誰かに何かを訴えようという歌ではなく,自分自身に訴える,もっとあからさまに言えば独り言のような歌だ。遠距離恋愛が成り立つようになったのは新幹線ができ,収入が増え,汽車賃が払えるようになってからの話だ。ペンフレンドというのはあったが,文通は次第に間隔が開いていくことが少なくなかった。
加賀城は私好みの唄い方だと思うが,ヒット曲が多い訳ではない。私自身も当時はエレキ系の曲により興味を持っており,民謡調はほとんど聴かなかったし,世の中の一部で演歌がもてはやされるようになるには数年早すぎた。時代にほんの少し合わず,良い曲にも恵まれなかったのだろう。はるかに下手な歌を唄って数多くをヒットさせたアイドルも後には多数出ているのだが。
私が上手・下手と感じても実際のヒット状況はこれに対応していないが,これは私自身が社会からズレているのかも知れない。
アラ見てたのね(2015.10.28)
昭和41年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:都はるみ
「さあさ皆さま 恋した時は」と始まる歌。
「あんなこと言ってちゃってちゃって」と繰り返されるのが印象に残る。
『涙の連絡船』1)の次の曲で,作詞・作曲も同じコンビだがはるみの唄い方も含め,曲の印象はかなり異なる。『アンコ椿は恋の花』2)や『涙の連絡船』が典型的なはるみ節だと思う。
1)「涙の連絡船」(昭和40年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:都はるみ)
2)「アンコ椿は恋の花」(昭和39年,詞:星野哲郎,曲:市川昭介,唄:都はるみ)
いい湯だな(2018.5.9)
昭和41年,詞:永六輔,曲:いずみたく,唄:デューク・エイセス
「いい湯だな いい湯だな 湯気が天井から ポタリと背中に」と始まる歌。
群馬県のご当地ソングで,歌われている温泉は草津,伊香保,万座,水上である。
後に,ザ・ドリフターズにより温泉地を変えてカバー1)された。
1)「いい湯だな(ビバノン・ロック)」(昭和42年,詞:永六輔,曲:いずみたく,唄:ザ・ドリフターズ)
いっぽんどっこの唄(2012.3.8)
昭和41年,詞:星野哲郎,曲:富侑栄,唄:水前寺清子
「ぼろは着てても心の錦」と始まる歌。短髪で男っぽい着流しの水前寺清子は新鮮だった。
この年,日産サニーとトヨタカローラが発売された。当時,軽自動車はあったが排気量は360ccで,車体サイズも小さく,便利だが見栄えはやや落ちた。サニーやカローラは1000ccクラスで乗用車という形をしており,価格も40万円ほどで,庶民も自家用車が持てるのではないかと感じさせるものだった。これ以前は乗用車はあまり走っていなかった。
私はこの年の夏,自動車学校に通って運転免許を取ったが,路上教習では名四国道1)を走った。自動車学校からは教官の運転で出る。道幅の広いところで教官と運転交代。信号のある相生橋の交差点を左折して進むと,路上教習最大難関の袋町の交差点だ。T字路で,名四国道から来ると突き当たる形だ。教習生はこの信号のあるT字交差点を右折で名四国道に入るのだ。もちろんオートマなどない時代の話だから,ここで対向車の切れ目を見て出るときにエンストするかが問題なのだ。青の矢印などは出なかった。名四国道を直進し,有料区間の手前で車を止め,教官がUターンしてくれた車に再度乗り,来た路を帰る。袋町の交差点はT字路の左折になるので特に問題はない。相生橋の交差点は右折だが,直進・左折は道幅が極めて狭く,ほとんどの車が右折で,対向車もめったにないのでこれも問題ない。右折後広い場所で教官と運転を交代して自動車学校に帰るというものだった。要するに,ここでは名四国道の交通量の少なさを説明したかったのだ。なお,免許取得に要した経費は1万円ちょっとだったと思う。国立大学の授業料が,年12,000円に上がった年であり,これと同じくらいだった。
前年に発売されたカシオの最初の電子式卓上計算機は38万円だった。この程度の機能の電卓なら,今では名刺サイズで,場合によっては粗品としてもらえるかもしれない。サニーやカローラも40万円くらいだった。現在までに電子機器は2桁以上価格が下がったが,車は値上がりした。
この年,プリンスR380が富士スピードウェイで開催された第3回日本グランプリで2位以下に3周差をつけて優勝した。プリンス自工からは4台のR380 が出場,1・2・3位を独占である。昭和39年の第2回日本グランプリではプリンスはスカイラインGTで出てポルシェ904に敗れた。第3回では1台のR380がポルシェのブロックに専念し,チームプレイでワン・ツー・スリーフィニッシュとなったのである。プリンスはこの年日産に吸収されてしまう。スカイラインも日産の車になってしまった。なお,R380の技術が後のスカイラインGT-RやフェアレディZに生かされている。当時はホンダもF1レースに参戦していた。
1) 名古屋市港区寛政町(現名四町)から四日市市袋町間が昭和38年に開通した。木曽川・長良川・揖斐川にかかる橋を含む約6 kmの区間は有料道路だった。その後,四日市市袋町から同市采女町までの開通が昭和44年,無料になったのは港区寛政町から豊明市栄町までが開通した昭和47年である。現在の国道23号線である。
いつまでもいつまでも(2015.6.2)
昭和41年,詞:佐々木勉,曲:佐々木勉,唄:ザ・サベージ
口笛に続いて「そよ風が僕にくれた 可愛いこの恋を」と始まる歌。
ハッピーソングかと思うが曲調がやや暗い。結局3番では「木枯らしが僕のかわいい あの娘をつれていった」となっており,曲調と詞の内容があってしまった。
ザ・サベージは元々エレキバンドだったらしい。海外のエレキバンドはラジオでよく聴いていたが,日本のエレキバンドはほとんど知らなかった。ザ・サベージを知ったのはこの曲によってである。曲調はこれも当時流行りはじめていたカレッジ・フォーク調である。この曲ではエレキバンドと呼ぶには違和感を持つ。形はグループ・サウンズだが,サウンドの感じがグループ・サウンズと違う。しかし,オリジナルを目指してこのような形になったというより,GS全盛期前の試行錯誤の時代のグループだったのではないだろうか。
裏町酒場(2019.11.20)
昭和41年,詞:水木かおる,曲:藤原秀行,唄:西田佐知子
「酒をのもうと 生きよと死のと あんたなんかの 知らぬこと」と始まる歌。
「男なんかにゃ 欺されないと」強がって生きてはいるが,「弱い女に 帰ってしまう」「酒にこころを しびれさせ」という裏町人生だ。
西田の歌は,強がって生きている雰囲気ではないが,芯の強さを感じ,「弱い女に 帰ってしまう」というようにも感じられない。西田は他の歌でも淡々と唄っているように感じる。当時のバックサウンドが薄いのもこの淡々さを際立たせているようだ。
大阪ろまん(2016.3.16)
昭和41年,詞:石濱恒夫,曲:吉田正,唄:フランク永井
「泣かへんおひとがしのび泣く」と始まる歌。
一番では「好きやねん」,二番では「好きやもん」,三番では「好きやから」を繰り返して最後は「消えたネオンも大阪ろまん」と終わる。ところどころに「堂島」「道頓堀」などの地名や風物が入るご当地ソングになっている。
フランク永井と言えばムード歌謡的ではあるが,少し違い,この歌は普通の歌謡曲と言ってよいだろう。
昭和47年にA面で初めて販売され,昭和52年にも再録発売された『おまえに』1)はこの「大阪ろまん」のB面曲として出たのが最初だ。
1)「おまえに」(昭和41年,詞:岩谷時子,曲:吉田正,唄:フランク永井)
おさらば故郷さん(2019.6.4)
昭和41年,詞;西沢爽,曲:和田香苗,唄:加賀城みゆき
「花の都でせつないときは いつも偲んだ山川なれど」と始まる歌。
「手紙おくれと叫んだ人の 心変わりをうらみはせぬが」とあるが,この時代まではありがちなことだっただろう。
おはなはんの歌(2018.2.10)
昭和41年,詞:横井弘,曲:小川寛興,唄:倍賞千恵子
「いつでも明るく 南の陽射しのように」と始まる歌。
NHKの連続ドラマ「おはなはん」(樫山文枝・高橋幸治)の主題歌。
朝ドラでは最初の女性一代記。『君の名は』1)では放送時間に銭湯の女湯が空になったとの伝説があるが,「おはなはん」では主婦が家事の手を止めるため,水道の使用量が半減したとの伝説がある。朝ドラ人気が定着したのはこれ以降ではないだろうか。関東地区での最高視聴率56.4%を記録し,平均でも45.8%だそうだ。
おまえに(2015.11.20)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:吉田正,唄:フランク永井
「そばにいてくれるだけでいい」と始まる歌。
昭和47年に再発売され,更に昭和52年に再録音されているようだ。たまにはカラオケで唄うこともあるのだが,いつ覚えたのか記憶にない。昭和41年ではなさそうだ。
この年,サンヨー食品が『サッポロ一番しょうゆ味』を発売,以後,インスタント・ラーメンの種類が爆発的に増えることになる。いくつかの先行食品はあるが,現在のインスタントラーメンの元祖と言われている日清食品の『チキンラーメン』が発明されたのが昭和33年である。明星食品が初の粉末スープ別添の『支那筍入明星ラーメン』を発売したのが昭和37年,スープ別添技術は後の種々の味付けを可能とし,焼きそばなどの開発もできるようになった。昭和37年には東洋水産も『マルちゃん』ブランドのインスタントラーメンを発売している。また,エースコックの『ワンタンメン』が昭和38年に発売開始されている。
明星食品が『チャルメラ』を発売したのもこの昭和41年である。昭和43年には『サッポロ一番みそラーメン』が発売されている。
なお,日清食品の『カップヌードル』は昭和46年で,これが本格的カップ麺の元祖だろう。発売当初は従来の袋麺に比べてかなり高価だと感じていた。
おもいで(2015.12.13)
昭和41年,詞:水島哲,曲:平尾昌晃,唄:布施明
「貴女と歩いたあの道に」と始まる歌。
サビの「さよなら初恋 もう二度とは かえらぬ貴女の おもいでを」からも解るように初恋の「おもいで」だ。
「呼んでみたのさ霧の中」と終わるが,このヒットで水島は布施には「霧」が良く似合うと感じたのだろうか,年末にはこのトリオは『霧の摩周湖』1)をだして大ヒットとなる。
1)「霧の摩周湖」(昭和41年,詞:水島哲,曲:平尾昌晃,唄:布施明)
思い出の渚(2016.1.10)
昭和41年,詞:鳥塚繁樹,曲:加瀬邦彦,唄:ザ・ワイルド・ワンズ
「君を見つけたこの渚に 一人たたずみ思い出す」と始まる歌。「あの夏の日」を繰り返して終わる。
グループ・サウンズ(GS)の曲であるのは間違いないが,フォーク・グループとの分化がまだ十分ではない時代の曲だ。加山雄三路線とも言えるだろう。いかにもGSというのはタイガーズやテンプターズ以降だと思う。
お嫁においで(2013.11.26)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「もしもこの舟で君の幸せ見つけたら」と始まる歌。
歌謡曲全体の中では少ないと感じられる求婚歌である1)。昔の歌に求婚歌が少ないのは,見合い結婚が多かったからであろう。見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転したのがこの頃である。戦時中は70%近くが見合い結婚だったが,現在では90%近くが恋愛結婚のようだ。しかし,昭和の年代を通じて愛を誓う歌は沢山あるが,求婚の歌は少ないようだ。
少し前のスター(もちろんこの当時もスターだったが)石原裕次郎はチョイワルあんちゃんで,タフガイであることが魅力の中心だったように思う。これに対して加山雄三はお坊ちゃんのイメージである。大部分の人にとっては(映画での)加山雄三のように暮らすことは夢のまた夢ではあったと思うが,あのような人がいるかもしれないと思うことはできるようになって来つつあった時代であろう。
実際,私の同級生で勉強机を持っていた者は少なく,林檎箱(昔は木箱だった)を机代わりにしていた。夏,クーラーがある場所は滅多になく,教室や下宿にも冷暖房設備はなかった。一部の教室には石炭ストーブがあったが。国立大学の年間授業料が9000円から12000円に上がったのはこの頃ではなかっただろうか。この頃ではなかろうか。私大歯学部の学生が,開通間もない名神高速道路をドライブして京都で湯豆腐を食べて来たなどという噂話を聞いたのは。このころである。大学の教室に暖房装置を備え付ける工事が行われたのは。
従来より安い車が販売され始め,いつかは車が買えるようになるかもしれないから運転免許だけはとっておこうという人が増えたのもこの頃だ。当時自動車学校で普通自動車の免許を取ると,12000円くらいだった。
1) すぐに思いつくのは,「結婚しようよ」(昭和42年,詞:よしだたくろう,曲:よしだたくろう,唄:吉田拓郎),「嫁に来ないか」(昭和51年,詞:阿久悠,曲:川口真,唄:新沼謙二),「麦畑」(平成2年,詞:榎戸若子,曲:唄:榎戸若子,オヨネーズ)くらいだ。
女のためいき(2013.1.4)
昭和41年,詞:吉川静夫,曲:猪俣公章,唄:森進一
「死んでもお前を離しはしない」とハスキーという言葉では形容しきれない独特な声の森進一のデビュー曲。この年の1月に『骨まで愛して』1)が出てこれもこれまでの歌手にない唄い方だったが,その路線を更に強化したような歌唱法だ。「女のためいき」発売は6月だから,『骨まで・・・』を真似たにしては少し時間が足りないように思うし,唄い方もより過激に従来の歌謡曲から外れているので独自にこのような唄い方の路線を目指したのだろう。『あなたのブルース』2)は昭和43年だから,森進一のヒットに続こうとしたのかもしれない。このようにして従来の歌手のイメージが次々と破られていった。
1) 「骨まで愛して」(昭和41年,詞:川内和子,曲:文れいじ,唄:城卓矢)
2) 「あなたのブルース」(昭和43年,詞:藤本卓也,曲:藤本卓也,唄:矢吹健)
回転禁止の青春さ(2015.9.16)
昭和41年,詞:星野哲郎,曲:北原じゅん,唄:美樹克彦
「俺の選んだこの道が 廻り道だというのかい」と始まる歌。
「ゴーゴーゴー レッツ ゴーゴー」という歌詞もそうだが,タイトルからして『前進あるのみ。後戻りはしない。』と粋がっている若者の歌だ。ところが,実際は「雨でスリップするときも フルでとばせぬときもある」などと,良く言えば慎重,悪く言えば臆病さが随所に出ている。というより,全体が「俺はゆくのさマイペース」なのだ。このペースは普通の人のペースよりどう見ても遅く感じられる。「人の真似」はしないと言っているが「ひとり唄ってひとりでほめて」など,周囲に適応できていないことを示している。
曲は歌詞の後半の「ゴーゴーゴー」の箇所に合わせてか威勢がよい。美樹の唄も,当時には珍しかった派手な振り付けを含めて威勢がよい。ところが,歌詞の前半でこれらの威勢の良さが全て自分が何もできないことを自己正当化しようと空元気を出しているものであることが解ってしまう。
当時は経済成長の途中で,多くの人が経済的には将来の夢を見ることができた時代だった。大学入試は今より厳しかったかもしれない。『草食男子』という言葉はなかったので、この方面で想いと現実がずれていたのだろうか。ひょっとしたら,ベトナム反戦運動に積極的に参加できないノンポリの気持ちなのだろうか。
悲しい酒(2013.12.31)
昭和41年,詞:石本美由起,曲:古賀政男,唄:美空ひばり
「ひとり酒場で飲む酒は」と始まる歌。
この歌は美空ひばりの代表曲のひとつだといわれているのではないかと思うが,わたしにとってひばりの代表曲はもっと若い頃に唄った一連の曲だ。例えば『港町十三番地』1)。『港町十三番地』の頃のひばりの声を聴くと,私のボキャブラリー不足で上手く表現できないが,ゾクゾクする。ひばりはいろんなテイストの歌を唄っており,この「かなしい酒」と似たテイストの曲もある。同じテイストの曲の中ではこの曲を代表曲とすることも出来るかもしれないが,『同じ』ではなく『似た』テイストと範囲を広げれば代表曲は『リンゴ追分』2)だろう。
もちろん,この昭和41年頃のほうがひばりの歌唱力も上がっていただろう。ひばりは子供の頃から歌は上手かったし,私のような音痴が彼女の唄を批評することはできないが,私にも好き嫌いならある。「かなしい酒」もこの当時は悪くなかったと思うのだが,ひばりの歌唱は後になると次第に変化してきたように感じる。歌に思いを込めすぎているように感じるのだ。もっとサラッと淡々と唄って欲しかった。坂本冬美が唄う『また君に恋してる』3)のように。
1) 「港町十三番地」(昭和32年,詞:石本美由起,曲:上原げんと,唄:美空ひばり)
2) 「リンゴ追分」(昭和27年,詞:小沢不二夫,曲:米山正夫,唄:美空ひばり)
3) 「また君に恋してる」(平成19年,詞:松井五郎,曲:森正明,唄:ビリーバンバン)平成21年,坂本冬美によりカバー盤が発売された。
北国の初恋(2022.12.15)
昭和41年,詞:若原久生,曲:荒井英一,唄:日野てる子
「北国の さびしい街の 初恋は 睫毛のかげで ほろりと溶ける」と始まる。
最後は「上り列車が さらって行って 遠い都で 散るという」と終わる。
もちろん,散るのは初恋だ。
東京オリンピックも成功裏に終わり,高度成長期1)も真っただ中だったが,高度成長の恩恵は都市部や工業地帯に限られ,地方は高度成長に必要な人材供給減となっていた。集団就職が盛んだったのもこの頃だ。
1) 高度成長期:昭和30年から昭和48年まで,日本の実質経済成長率が年平均で10%前後を記録した。
君について行こう(2015.7.1)
昭和41年,詞:平岡精二,曲:平岡精二,唄:ザ・シャデラックス
「君について行こう どこまでもついて行こう」と始まる歌。
「君」というのがどのような存在か解らないので意味が良く理解できない歌。時代的に言えば左翼のリーダーのようだが,右翼のリーダーやカルト教団の教祖としても通じるような歌詞になっている気がする。
『学生時代』1)などからは特に思想的な背景は感じられないが,宗教的な雰囲気は少し感じられる。そのように見ると「ひとの愛のまこと」などという言葉も宗教的意味合いがあるのではないかと感じられてくる。曲自体は悪い曲ではないと思うが,詞が心の内からでたものでなく,知らず知らずのうちに洗脳していくのにも使われそうで私の好みではない。主義・主張がはっきりしているならば賛成・反対を考えるきっかけとなりうるので良いのだが。
1)「学生時代」(昭和39年,詞:平岡精二,曲:平岡精二,唄:ペギー葉山)
今日の日はさようなら(2018.8.3)
昭和41年,詞:金子詔一,曲:金子詔一,唄:森山良子
「いつまでも絶えることなく 友達でいよう」と始まる歌。
Wikipediaにはスカウトソングなどと書いてあり,そんなジャンルがあるのかと思ったが,確かにボーイスカウトがキャンプファイアーを囲んで唄うなどのときには良いかもしれない。
メロディ・詞・森山の声のマッチングが良い。
霧雨の舗道(2020.2.13)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「銀いろの雨ふる 静かな夜 君と二人で黙って 濡れて行こう」と始まる歌。
当時の岩谷は50歳くらいだろう。当時の加山は30前だ。昔は結婚年齢も低かったから,岩谷にとって加山は子供のような歳だ。私は加山より10歳以上若いが,当時の私にとって30歳というのは十分以上にオジサンで,50歳というのはほとんどオバアサンのオバサンだった。当時の私はこの詞をそんなオバアサンが書いていたとは全く知らなかった。
当時の岩谷の年齢をはるかに超えた今の私なら,全く驚かない。50歳はまだまだ若い。
恐らく,加山に一つのイメージを抱き,それに合わせて書いたのだろう。しかし,「僕と手をつなぐ 小さな手のひらつめたいね」など,大正生まれならさもありなんという箇所がたまに顔をのぞかせる。
曲はいかにも弾厚作だ。
霧の摩周湖(2011.9.25)
昭和41年,詞:水島哲,曲:平尾昌晃,唄:布施明
次年度レコード大賞特別賞。「ちぎれた愛の思い出さえも」と叫んでいた布施明の顔を思い出す。叫ぶといっても美樹克彦が「花はおそかった」で「バカヤロー」と叫ぶのとは違って,また,シャウトとも違ってきれいに伸びる声だった。
平尾昌晃といえば「星は何でも知っている」とか「ミヨちゃん」の歌手だと思っていたがいつの間にか作曲家になっていた。作曲家としてのヒットのほうがはるかに多い。
後日,オリヴィア・ハッセーと結婚したのにはいろんな意味で驚いた。
この年,自動車学校で運転免許をとった。(正確には,最後に県の試験場に行ったのだが。)当時の自動車学校の教習車はクラウンで,もちろんマニュアルミッション,1速以外はシンクロだったと思う。走行中に1速に入れるにはダブルクラッチをつかってギヤの回転数を合わせる必要があった。自分ではもちろん車は持っていなかったが,新し物好きの父親は古い車を持っていた。古〜い映画などをテレビでやっていると,若〜い二谷英明などが乗っている車だ。バッテリー上がり等でエンジンがかからないときのために,クランクハンドルがついていた。前バンパーのところにある孔からこのハンドルを差込み,エンジンを人力で回してエンジンをかけるのである。2・3度使ったことがある。初めて夜,酔った父を迎えにでたとき,ディマースイッチの位置がわからず,ずっとヘッドライトを上げたまま走っていた。このスイッチは足踏み式で,踏むたびにライトが上下を繰り返すのだというのは帰ってから知った。
銀色の道(2014.9.3)
昭和41年,詞:塚田茂,曲:宮川泰,唄:ダークダックス
「遠い遠い はるかな道は」と始まる歌。
いかにもダークダックスという歌である。この歌はザ・ピーナッツとの競作で,最後の「銀色のはるかな道」の箇所はピーナッツの声のほうが好きだが,出だしなどダークのほうが印象に残っているので「唄:ダークダックス」とした。
トップ・テナーに特徴あるメンバーがいる男性グループが多かったが,ダークダックスはゾウさん(遠山一)の低音が印象に残るグループだった。
道を人生の比喩として使うのはよくあるが,銀色の道というと鉄路だろうか。凍てついた冬の道というイメージもある。いずれにしても1番2番では「ひとりひとり」と繰り返され,孤独な旅であり,「つらいだろうか」などと平坦ではない道を示唆しているが,3番では「二人の星よ照らしておくれ」と二人になっており,「近い近い夜明けは近い」と希望が強調されている。人生の応援歌だ。
暗い砂浜(2018.11.24)
昭和41年,詞:寺本圭一,曲;小松久,唄:ヴィレッジ・シンガーズ
「暗い砂浜に来てみても 夏の想い出の跡もなく」と始まる歌。
夏の終わりと共に「消えた恋」の歌。
エレキバンドが唄ったフォークという感じだ。
GS本流はエレキバンドが唄う歌謡曲だと思っているが,ヴィレッジ・シンガーズはこの本流が確立する前のGSといって良いだろう。
元々,良家の子女はピアノとかバイオリンを習うものだと思っていた。トランペットやサックスは音が大きいのでうさぎ小屋に住んでいては近所迷惑で練習もできないし,価格もそれなりにするのでなかなか手が出せない。ギターくらいが手頃だったのでギターを持っている者は多かった。しかし,クラシックギターの練習について行けず,持っているだけという者も少なくなかった。海外からフォークソングとエレキバンドが入って来るとフォークはコードを弾くだけでも形はでき,エレキバンドはリード・セカンド・ベースと分割担当すればよいので,全てを一人でこなすクラシックより低技術でもそれなりに聞こえる。アンプの使用により練習時は音量を絞ることもできるし,低技術でも大きな音を出すこともできる。これがフォークやエレキバンドに若者が集まった理由だろう。
もちろん,寺内タケシのようにテクニックを磨こうという者もいたが。
恋と涙の太陽(アメリアッチ)(2020.6.13)
昭和41年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:橋幸夫
「どうして僕達 いけないの 愛し合ってるのに いけないの」とはじまる。
湖でのレジャーのようだが,モーターボート・水上スキー・ヨットなどが登場している。これらは昔からあったが,このころ流行り始めたように思う。ただ,佐伯孝夫は私より半世紀ほど昔に生まれているので,若い頃このようなレジャーがポピュラーだったとは思えず,なんとなく似合っていないように感じてしまうのは私の偏見だろうか。
マリンスポーツなら橋幸夫より石原裕次郎や加山雄三のほうが似合いそうだ。
この歌は佐伯・吉田・橋トリオでのリズム歌謡1)の5作目。『潮来笠』から入った私にはそれほど良い歌とも思えないが100万枚を売り上げ、『平凡』月刊ランキングで1位を獲得しているらしい。
1)「恋をするなら」「ゼッケンNo.1スタートだ」「チェッ・チェッ・チェッ(涙にさよならを)」「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」
恍惚のブルース(2015.3.27)
昭和41年,詞:川内康範,曲:浜口庫之助,唄:青江三奈
「女の命は恋だから 恋におぼれて流されて」と始まる歌。「あとはおぼろ あとはおぼろ」というフレーズが青江美奈のハスキーボイスと共に記憶に残る。森進一や青江美奈の活躍により,歌謡曲にも美声は必須ではないことが証明された。後に登場するJポップスなど,唄でなくビジュアルで売っていくとい路線まででてくる。美声が望まれるのは聖歌隊とオペラくらいだろうか。
ところで,有吉佐和子の『恍惚の人』1)が出版されたのはもっと後だから,ここでの「恍惚」は有吉の使った『恍惚』とは意味が違う。有吉はそれまで『ボケ老人』と蔑称に近い呼び方をされていた人々に『恍惚の人』と新しい名前を与えた。この言葉は一時使われたが最近では『認知症』と症状で呼ばれるようになった。
このように呼ばれるようになったら,何と呼ばれても解らないのかも知れないが,まだ理解できるうちに,『ボケてきたんとちがう』などと言われるとカチンとくるし,『認知症の疑いがあります』と言われてもショックが大きい。『そろそろ恍惚ですか』なら苦笑して済ますことができそうだが自覚症状があれば苦笑ではすまない。まして,『認知症』すべてが文字通り『恍惚』状態になるわけではない。食べたことを忘れるようになれば,私のように食べることだけが生きがいの人間には恍惚などではなく,飢餓地獄にいるようなものではなかろうか。認知症は患者本人も大変だが,周囲の人間も大変だ。認知症の原因ごとに,それぞれ治療法が進歩することを強く期待している。
1)有吉佐和子:「恍惚の人」(新潮社,昭和47年)
ここがいいのよ(2020.7.25)
昭和41年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:和田弘とマヒナスターズ/田代美代子
「ここ ここ ここがいいのよ あなたのそばが」と始まる。
まあ,最初から最後まで,「ここ ここ」と繰り返すハッピーソング。何かで『新婚歌謡』とあるのを見たことがある。たしかに,新婚家庭と思って聴いて違和感がない。
この手のひらに愛を(2020.7.3)
昭和41年,詞:利根常昭,曲:利根常昭,唄:ザ・サベージ
「まるくあわせたこの手のひらに 僕の愛をのせて君に捧げよう」とはじまる,静かなラブ・ソング。
このバンドはバンド名から想像されるスタイルとは真逆の大人しいスタイルのバンドで,大人しいGSの代表とされていたブルコメよりも大人しく感じる。GSというよりフォーク・グループというような雰囲気だった。今思うと,エレキ・バンドとフォーク・グループから新たにグループ・サウンズというジャンルが脱皮する前のサナギのようなグループだったのかもしれない。
こまっちゃうナ(2013.8.25)
昭和41年,詞:遠藤実,曲:遠藤実,唄:山本リンダ
「こまっちゃうナ デイトにさそわれて」と始まり,かつ終わる歌。
衝撃的な歌声である。衝撃的な歌声という言葉を何度か使った気がしないでもないし,なんでもかんでも衝撃的というべきではないのだろうが,とにかく強く印象に残る歌声だった。今,聴いてみたいと思い音源を捜したが見つけることができなかった。後日の歌唱は見つけたが,このときの声はすでに「どうにもとまらない」1)以降の歌声になっている。
歌詞をみるとやはり時代を感じる。「デイト」という言葉は「渚のデイト」2)のように,もちろんあったがどの程度一般的だったのかは不明だ。一般的になるに従い,言葉は「デート」に変化したのだろう。少なくとも私の周囲では曲名を言うときなど以外に『デイト』などという言葉が使われた記憶がない。もっと古いと『逢引』という言葉があった。もっとも逢引のほうが秘められた印象はある。「デート」というともっとオープンな印象を受ける。ではこのような行動を何と表現していたのかというと記憶にない。周囲ではこのような行動自体がなかったのではないだろうか。何らかの行動があった場合,その行動を直接言っていたのではなかろうか。例えば「映画に行く」など。
「こまっちゃうナお手紙来たけれど」とあるが,当時は手紙が主流だった。電話はかなり普及してきてはいたが,全家庭にあるわけではなく,たまたま相手の家に電話があって,意を決して電話をしても,最初に電話口に出てくるのは親である可能性がかなり高かった。「ドキドキしちゃう」のは手紙を受け取ったほうだけでなく,出したほうも同様あるいはそれ以上だっただろう。
1) 「どうにもとまらない」(昭和47年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:山本リンダ)
2) 「渚のデイト」(昭和38年,唄:コニー・フランシス)
これが青春だ(2019.12.22)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:いずみたく,唄:布施明
「大きな空に 梯子をかけて 真っ赤な太陽 両手で掴もう」と始まる歌。
日本テレビ系ドラマ「これが青春だ」(竜雷太)の主題歌。
「七つの海を 泳いでいこう」などと,大法螺も吹いてはいるが,「怖れ知らない これが若さだ そうとも これが青春さ」と青春賛歌だ。「太陽 両手で掴もう」などというのも本当に掴めるとは思っていないのだろう。法螺というより『白髪三千丈』の類の修辞の一種としての誇張かもしれない。
李白の『三千丈』に関してはいろんな説明を読んだことがある。白髪が伸びたことを誇張して述べたものというのもその一つだが,白髪の本数が増え,それらの長さを足し合わせると三千丈にもなるという解釈を読んだこともある。『千』は数字の1000ではなく,単に多いことを表しているという説もあった。高杉晋作作と伝えられる都々逸『三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい』の『三千世界』は仏教の概念で,『三千』は3,000ではなく1,0003=10億だそうだ。大根を『千六本』に切る場合も1,006本ではない。こちらは中国の『シュンロウブ』と呼ばれる細い大根が語源らしい。元が大根の品種だから『千六本』は大根以外の場合には『千六本』は使わず,『千切り』と呼ぶらしい。これは『繊切り』や『線切り』とも書かれ,細長く切ることで『千』分割すればよいということではない。細長くなく,単に細かくだと『微塵』切りになってしまう。
『白髪三千丈』は漢詩の規則から,これ以外に考えられないというのがあった。漢詩には韻とか平仄とか,ここは対句にするとか,様々な規則がある。この規則に合わせるため,ここは『三千丈』でなければならないという説だ。何で読んだか忘れたので確認はできないが,平仄を合わせるためだったように思う。
今夜は踊ろう(2018.9.27)
昭和41年,詞:荒木一郎,曲:荒木一郎,唄:荒木一郎
「青い星の光が遠くに またたく浜辺には」と始まる歌。
大映映画「今夜は踊ろう」の主題歌。
荒木一郎は日本のシンガー・ソング・ライターとしてはかなり古い方だ。当時の歌手で作曲もするというと加山雄三を思い出すが,作曲のときは弾厚作という名前を使い,作詞の多くは岩谷時子が担当していたように思う。
この頃まで日本のレコード会社は専属の作詞家・作曲家・歌手を抱え,その中でレコード制作をしていたのでレコード会社に属さない者はレコード制作にかかわるのが困難だった。渡辺プロダクションが昭和37年に渡辺音楽出版を設置し,ナベプロ所属の歌手に唄わせる歌を(専属ではない)作詞者・作曲者を集めて音楽出版で制作するようになる。歌手をバラエティに出演させたのもナベプロが初めではないか。
初期のシンガー・ソング・ライターはほとんどがフォーク系だ。GS系にはメンバーに作曲者や作詞者が居る場合も少なくない。しかしこの歌はポピュラー・ソングと言っていいだろう。もちろん踊り易そうな曲なのでダンス音楽と言っても良い。
さよなら列車(2018.7.13)
昭和41年,詞:関沢新一,曲:市川昭介,唄:都はるみ
「赤いランプが もうこれきりと」と始まる歌。
最後の「あんなに あんなに手を振る」からはるみ節全開の「さよなら列車」に続くところが最も印象深いが,「駄目なのね 駄目なのよ」や「馬鹿なのね 馬鹿なのよ」の箇所もやはりはるみ節に続くので,これら全体で都はるみを感じられて,はるみファンには十分楽しめる歌だと思う。
シビレ節(2018.12.22)
昭和41年,詞:青島幸男,曲:宮川泰,唄:植木等
「俺はあの娘にシビレてる バアさんはエレキにシビレてる」と始まる歌。
老若男女がシビレているものを羅列している。エレキは感電している訳でなく,エレキギターだろう。「学生はマンガにシビレてる」と当時の感覚でそんなことでいいのかというのを列挙しているが,中には「おやじはふぐ食って」などと病院に行く方が良いものも入っている。最後は「ハア− シビレチャッタ シビレチャッタ シビレチャッタヨ」と終わる。当時の世の中が想像できる歌。
信じていたい(2020.5.25)
昭和41年,詞:塚田茂,曲:宮川泰,唄:西田佐知子
「信じていたい あなたの言葉 信じていたい ただそれだけよ」と始まる。
「あなたは 青い街角に 消えてそのまま かえらない」「もう一度だけでいいから お願い 逢いたい」という歌。詞の内容と比べて曲はやや軽快に過ぎるように感じるが,西田の歌唱が詞に寄せていてバランスが保たれているようだ。
西田が詞に寄せて唄っているというより,元々,西田の歌唱はハッピーソングより淋しい歌向きだと感じるのは私だけだろうか。
絶唱(2014.2.8)
昭和41年,詞:西條八十,曲:市川昭介,唄:舟木一夫
「愛おしい山場は山こえてどこの空」と始まる歌。
舟木一夫といえば『高校三年生』1)に始まる学園シリーズを思い出す。その後少し違う路線で曲を出しているが,ヒットしているのは青春賛歌あるいは青春の甘酸っぱい思い出ソングという印象を受ける。しかし,この歌は明らかに違う路線でのヒット曲だ。
「なぜ死んだ ああ 小雪」と死別である。死別の歌はいろいろあるが,あからさまに「死」という言葉を使うより,別な表現で死別を表している歌,あるいは死別であることは歌詞からだけでは解らない歌のほうが私の心にはより訴えかけるものが多い。
市川昭介の曲は,悲しみの中にも芯の強さが感じられる曲が多いように思うのだが,この曲はただ嘆き悲しむメロディーだけでで終わってしまう。詞がそのような詞だからかもしれない。
舟木の声は青春賛歌を唄うより,この「絶唱」に合っていると感じる。青春賛歌を唄うにはやや声が暗いと感じるのだが,それでも私は舟木の場合は青春賛歌のほうが好みだ。
とは言え,ヒットしただけのことはあり,悪い歌ではない。
1) 「高校三年生」(昭和38年,詞:丘灯至夫,曲:遠藤実,唄:舟木一夫)
銭形平次(2019.9.18)
昭和41年,詞:関沢新一,曲:安藤実親,唄:舟木一夫
「男だったら 一つにかける かけてもつれた 謎をとく」と始まる歌。
フジテレビ系ドラマ「銭形平次」(大川橋蔵ほか)のオープニングテーマ。これで言い尽くしている。
「今日も決め手の 銭がとぶ」と聞けば,あるいは聞かなくても銭形平次を知っていれば当然わかるだろうが,ルパン三世の銭形警部しか知らない人がいれば,札束や小判が乱れ飛ぶのかと思うかもしれない。しかし,当時は札束などなかったし,小判のような大金は銭とは言わなかった。寛永通寶を礫代わりに投げたのだ。天保通寶のほうが命中したときに痛そうだとは思うが,天保通寶の額面は100文(実勢流通は80文)で寛永通寶の100倍だから,投げるにはコストがかかりすぎたのだろう。
ところで,舟木は「やぼなジュッテは みせたくないが」と明瞭に唄っているが,「花のお江戸」・「神田の明神下」なのだから「十手」は「ジッテ」ではなかろうか。
空に星があるように(2014.10.16)
昭和41年,詞:荒木一郎,曲:荒木一郎,唄:荒木一郎
「空に星があるように」と始まる歌。荒木のデビューシングルで第8回日本レコード大賞新人賞を受賞している。
「空に星があるように」と始まる詞は,未来に向かって輝く希望の星かと思いきや「浜辺に砂があるように」と続き,後まで聴くと「ごく自然なこと」の象徴として挙げられていることが解る。同様に「小さな夢がありました」が「小さな夢は消えました」という意外な展開だ。悲しみの歌なのだが,最後には「秋には枯葉が散るように それはだれにもあるような」と諦観の歌になっている。諦観は演歌のテーマの一つである。
曲は意外性に溢れている。次はこのように展開するだろうという私の予想はことごとく裏切られる。この時代にニューミュージックという言葉はなかったと思うが,これはまさにニューミュージックの始まりと言ってよいだろう。
旅の灯り(2020.3.28)
昭和41年,詞:清水みのる/星野哲郎,曲:陸奥明/叶弦大,唄:小林旭
「何かどこかにありそうな 灯りがひとつ 呼んでいる」と始まる歌。
人生と旅を重ね合わせた歌。青い鳥,母,恋人,友人などが登場するようだが,主題は(人生の)旅だ。
小林旭が「青い鳥」を捜すというのはやや奇異に感じるが,チルチルとミチルが捜した「青い鳥」とは違うものだろう。共通点は『希望』というようなものではないだろうか。チルチル・ミチルと小林旭は同じ『希望』という言葉でも違うイメージを持っているのだろう。
哀愁を帯びた高音が旅の雰囲気をよく出している。
哀愁と書いたが,もちろん悲しみは感じない。悲しみというと湿った感じを受けるが,小林の声は乾いている。私の語彙不足で適切な言葉が見つからないだけだ。
小林のような高音を出してみたいと思うのだが,小林の声は透明で中のものがいろいろ見えるように感じるのに対し,私の声は濁っていて中のものは何も見えない。
旅人よ(2014.3.26)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三とザ・ランチャーズ
「風にふるえる緑の草原」と始まる歌。
何度も繰り返される出だしのメロディーの単調さ,陳腐な歌詞,歌声とは思えない地声の唄,これらを素晴らしいものと感じさせるのが加山雄三だ。転調してからは独創的なメロディーでありこの部分がよいのかもしれない。
岩谷の詞を陳腐だと書いてしまったが,奇を衒った詞よりわかり易い陳腐な歌詞のほうが私は好きだ。
遠い渚(2020.6.24)
昭和41年,詞:橋本淳,曲:すぎやまこういち,唄:シャープ・ホークス
「ふたりで砂に書いた 愛の言葉 冷たく 波が消していく」と始まる。
結局「あなたは もういない」。
「遠い遠い 渚に捨てよう」という想い出の歌。
ただ,詞の淋しさに比較して歌唱が騒がし過ぎるように感じるのは私だけだろうか。
なんとなくなんとなく(2020.6.4)
昭和41年,詞:かまやつひろし,曲:かまやつひろし,唄:ザ・スパイダース
「君と逢った その日から なんとなく しあわせ」と始まる。
「なんとなくなんとなく」と何度も繰り返されるが,実はなんとなくなんてものではなくて,とってもとっても幸せという感じを漂わせている,ハッピーソングだ。ただ,そのハッピー感は爆発しているのではなく,じわじわつぎつぎと溢れてくるという感じの歌。
西銀座五番街(2024.2.5)
昭和41年,詞:米山正夫,曲:米山正夫,唄:西郷輝彦
「若い僕らにゃ夢がある 街の灯りにゃ恋がある そしてあの娘は純粋さ フェアプレーでゆくまでさ」と始まる。
続きは突然年号と場所を「Sixty-six(Sixty six) Sixty-six(Sixty six) ナインティーンシックスティシックス(Sixty six) 西銀座五番街」とコールする。
「金も車もないけれど 若い心ははずんでる」とある。この年,日産サニーが発売された。少し遅れてトヨタがカローラを発売。本格的なモータリゼーションの時代に突入した。庶民でも,小さな玩具みたいな車でなく,乗用車っぽく見える車を所有する希望が出てきた時代だ。
ネオン川(2019.5.8)
昭和41年,詞;横井弘,曲:佐伯としを,唄:バーブ佐竹
「誰が名づけた川なのか 女泣かせのネオン川」と始まる歌。
典型的な演歌。しかし,当時は『演歌』という言葉はなかった。あることはあったのだが使われることは少なく意味も後の意味と違っていたように思う。当時の言葉でいえば日本調の歌謡曲だろうか。
横井の詞を数多く知っているわけではないが,知っている作品はこの歌よりはもう少し明るく,私の好みにあうものが少なからずある。
私と同世代の作詞家だと松本隆が思い浮かぶ。松本の詞は多数知ってはいるが,ついて行けない詞も少なくない。横井は私の親と同世代だ。松本の詞よりも横井の詞により共感する私は古い人間なのかもしれない。
ノー・ノー・ボーイ(2019.2.16)
昭和41年,詞:田邊昭知,曲:かまやつひろし,唄:ザ・スパイダース
「ノー・ノー・ノー・ノー・ボーイ ノー・ノー・ノー・ノー・ボーイ」と始まる歌。
単調なメロディーで後世まで唄い継がれる歌とは思い難い。
詞も,駄目だといわれながらもこれから行くからちょっとだけでもドアの外に出てきてほしいというだけの歌。
もう少し何かないかと思うのだが,当時は電話もままならぬ事情もあったのだろう,窓に小石でも投げて呼び出そうとしたのだろうか。これが精いっぱいの気持ちだったのかもしれない。そんな時代だったということだろう。
バラが咲いた(2012.5.7)
昭和41年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:マイク真木
「バラが咲いたバラが咲いたまっかなバラが」という歌。日本のフォークソング風の歌のはしりである。フォークソング風と書いたのは,浜口庫之助をフォークソングと言って良いかどうかが疑問だからだ。
ハマクラと聞くと歌謡曲を思い出す。「僕は泣いちっち(守屋浩)」「愛して愛して愛しちゃったのよ(田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)」「星のフラメンコ(西郷輝彦)」「夜霧よ今夜も有難う(石原裕次郎)」などだ。そういえば小柳ルミ子が唄った「ジョアジョア誰のもの」というフレーズがあるCMソングも浜口庫之助だ。このCMソングは深津絵里も唄っている。
バラの花嫁さん(2025.3.13)
昭和41年,詞:白鳥朝詠,曲:市川昭介,唄:ジュディ・オング
「何日出嫁 玫瑰姑娘 あなたが好きよ 何日出嫁 玫瑰姑娘 あなたが好きよ きれいなつぼみの 紅バラが 咲いたらお嫁に 参ります」と始まる。
「我喜歓你」などの台詞もあり,結婚を控えたハッピーソングだ。
二人の銀座(2014.5.7)
昭和41年,詞:永六輔,曲:ザ・ベンチャーズ,唄:山内賢/和泉雅子
「待ちあわせて歩く銀座」と始まる歌。
このころのThe VenturesのメンバーはB.Blgle, N.F.Edwards, M.Taylor D.Wilsonである。ベンチャーズの歌謡曲の中ではいかにもベンチャーズらしい曲だ。「僕と私のもの」というあたりなどエレキギターの演奏を聴くと初期のベンギャーズの感じが強く出ている。
唄はすこしベンチャーズに合っていないかも知れないが,山内も和泉も歌手ではないのだから仕方が無い。唄う映画スターという感じも受けず,映画スターが歌を唄ったという印象だ。後には映画スターが唄を歌うことも珍しくなくなるが,当時は歌手が映画に出演することのほうが多かったと感じている。その後はタレントとかアイドルとかに分類される人々が増え,歌手とか映画俳優という範疇には入らない人々が増えているようだ。
ベッドで煙草を吸わないで(2014.11.27)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:いずみたく,唄:沢たまき
「ベッドで煙草を吸わないで」と始まる歌。
昭和53年にはりりィがカバーしてヒットしている。
煙草を吸わないで欲しい理由として「なぜか煙がくすぐったいわ」となっているが,当時は健康のため吸いすぎに注意しましょうなどという話はなかった。
西洋人がたばこと出会ったのはコロンブスが東インド諸島に到着したときである。日本へは南蛮船によりもたらされた。鉄砲伝来以降である。柳生宗徳も沢庵和尚から少しは煙草を離すようにと言われ,何メートルもある長いキセルを使用して沢庵をあきれさせたとか。江戸時代には広まっていたのだ。長谷川平蔵も父の形見の銀煙管を愛用していたようだ。
昭和末期には米国では禁煙運動がかなり進んでいたが,日本では昭和53年に「嫌煙権の確立を目指す人々の会」が発足して嫌煙権という言葉が人の目に触れるようになったが、この言葉が優勢になってきたのは平成に入ってからである。
この歌の当時は受動喫煙症などという言葉は聞いたことがなかった。
ところで,昭和57年には米国からたばこの関税を90%から20%へ下げることを要求され,さらに昭和62年には米国たばこの関税は撤廃されることになる。米国のたばこ産業は国内市場が厳しくなったため,日本に輸出することで活路を見出そうとしたのだ。
昔は関税と為替レートにより高価だった米国たばこが非常に安くなった。同様なことは輸入ウィスキーなどにも言える。
星影のワルツ(2012.9.10)
昭和41年,詞:白鳥園枝,曲:遠藤実,唄:千昌夫
「別れることはつらいけど」という別れの歌。詩の原題は「つらいなあ」。もともとB面曲として発売された。昭和43年にA面曲として再発売され日本有線大賞特別賞を受賞した。
今でも「死ぬ程に」好きらしいが「君のため」仕方なく別れるんだそうだ。私は普通このような台詞には偽善を感じてしまうのだが,千昌夫の唄は素直に聞けた。この歌は,歌謡曲として訛りを感じた最初の歌ではないかと思う。何となく都会の人間より田舎の人間のほうが純粋で素直だという思い込みがあったかもしれない。
『差別』が関係しているといわれたこともあったようだが歌詞にそのようなところがあるようには私には思えない。差別されていると感じている人がこの歌に感情移入するということはありえることだったろう。
歌謡曲の歌詞は標準語が多いが,方言が使われる場合も少なくはない。しかし,大阪弁を除いて発音まで方言というのは全くなかったといってよいと思う。ほとんどの歌謡曲は方言の歌詞でも標準語の発音で歌われていた。当時はまだ方言は強く残っており,異なる方言間では話がほとんど通じなかった時代だ。
この歌の歌詞は標準語で書かれているが,発音というか,唄い方に訛りが残っているように感じられた。
星に祈りを(2015.5.3)
昭和41年,詞:佐々木勉,曲:佐々木勉,唄:ザ・ブロードサイド・フォー
「夜空の星に 祈りをささぐ」と始まる歌。
「喜びの涙があふれていた」「若い二人のゆくてには 今日にもまさる喜びがある」という歌である。
この年,自動車運転免許を取った。母親が入院し,自家用車があると便利だと考えたからだ。免許をとったら父親が車を買った。日活の古い映画でみるような古い車だ。今の車では見ることのない昨日の最大のものは手動でエンジンがかけられたことだ。もちろん乗用車でありセルモーターもついていた。しかし,バッテリーがあがった時にはクランクハンドルをラジエータグリルの下から差し込み,このハンドルを回すことによりエンジンをかけるのだ。二輪車のキックペダルと同じようなものだ。ひょっとしたら二輪車でも今はすべてセルスターターなのだろうか。もちろん,当時のエンジンだから圧縮比は大したことはないとはいえ,手で簡単に回すことはできない。エンジンの圧縮が始まるところまで手で回して,あとは体重をかけてキックスターターの要領でエンジンをかけるのだ。足で簡単にやろうとしたりすると,反発で脚を骨折する恐れもある。チョークレバーを引いたり,プラグを外して拭いたり,いろんなことをして何とかエンジンをかけたのだ。
次に買った車からはクランクハンドルがなかったので,バッテリーあがりの場合には押しがけをよくやった。これはクラッチを切って車を走らせ(坂を下るか,後ろから押す)ある程度スピードがついたところでクラッチを繋いでエンジンを回すのである。
閑話休題。この歌が出たころは,この歌に魅かれるような心境ではなかった。このような曲があることを知っている程度だ。しかし,幸せを謳歌する歌は何かの折に唄えるかもしれない。消えて欲しくない歌だと思う。
ただ,昔は星を見ると祈ろうかという気持ちにもなったが,最近の都会では祈ろうと気持ちになる星が見えない。依然は数えきれないほど多数であることを星の数ほどと言ったりしたが,今では星の数は数えられそうだ。
星のフラメンコ(2012.11.7)
昭和41年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:西郷輝彦
「好きなんだけど離れてるのさ」という歌。
御三家1)の三人とも首から上で発声しているように聞こえる。少し前からこのような発声をする歌手が増えた。御三家のなかではこの西郷輝彦は嫌いだった。理由は電車の中で可愛い女生徒が「西郷輝彦がいい」と言っているのを聞いたからである。似たような話だが,守屋浩は好きではなかったのだが「守屋浩がいい」と可愛い女生徒が話しているのを聞いた後に守屋浩も悪くないと思うようになった。この違いは何によるのか良くは解らない。
この歌は,私が西郷輝彦も悪くないと思うようになった歌である。当時,私がフラメンコギターに関心を持っていたことと関係があるかもしれない。
「好きなんだけど黙ってるのさ」というのは当時,私の周囲では,良くある話だった。「とどかぬ星を恋した僕」というのは,クラスメートであっても「どどかぬ星」と考えるほどの距離感があったということだ。『告る』という言葉はなかった。『告る』と聞くと『チクる』あるいは『密告する』というように聞こえてしまう。『告白する』という言葉はあったが,『罪を告白する』というような用法しかなかったと思う。『打ち明ける』という言葉もあったが,これは自分の友人に『実は・・・』と相談したりするときに使ったように思う。また,『付き合う』という言葉はあったが主に命令形で使われ『顔を貸せ』の丁寧語だったように思う。『男女交際』という言葉があり,『交際する』という言葉は使われた。『ともだちになる』という言葉もあった。で,ともだちになりたいときにとる行動をどのように表現するかについて用例をほとんど思い出さないが,(交際を)『申し込む』といったのではないかと思う。
行動をどのように起こすかというと,待ち伏せするとか,相手の友人を介して校舎の陰に呼び出すとかして『申し込む』のだが,よくあったことなのかどうかは知らない。電子メールはなかったし,電話も一軒に一台以下の時代であり,多分使われなかっただろう。最も多く使われたのは手紙ではなかろうか。相手の机や下駄箱に入れる,家の郵便受けに入れる,自分の友人か相手の友人に託す,すれ違いざまに手渡す,郵送する等々種々の方法があった。いくつかの方法はあったが,「好きなんだけど だまってるのさ」というのが最も多かったのではないかと思う。
1) 橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦。他の御三家と区別するために元祖御三家とよばれることもある。
骨まで愛して(2015.7.29)
昭和41年,詞:川内和子,曲:文れいじ,唄:城卓矢
「生きてるかぎりは どこまでも」と始まる歌。「骨まで 骨まで 骨まで愛してほしいのよ」と終わる。
「骨まで」というのがこれまでにない斬新な表現だ。『死ぬほど』1)や『死んでも』2)よりもインパクトが強い。女歌にもかかわらず,城の力強い歌唱とこの歌詞のインパクトでヒット曲の一つになったのだろう。
1)「死ぬほど愛して」(昭和34年,原題:Sinno’ me moro,詞:Pietro Germi & Alfredo Giannetti,日本語詞:水野汀子,曲:Carlo Rustichelli,唄:Alida Chelli)
2)「女のためいき」(昭和41年,詞:吉川静夫,曲:猪俣公章,唄:森進一)
ほんきかしら(2015.10.7)
昭和41年,詞:岩谷時子,曲:土田啓四郎,唄:島倉千代子
「ほんきかしら」と始まり,男性コーラスが「好きさ大好きさ」と続く。ハッピーな中でも「いつも愛を確かめたい 女ごころ」の歌。
この年,丙午で出生数は前年比25%減だったが,高齢者の死亡減のほうが上回り,日本の人口が1億人を突破した。経済状況は次第に向上し,新三種の神器(3C,Color TV, Car, Cooler)に手が届くかもと考える庶民が増える。日産のサニー,トヨタのカローラが発売され,大衆車ブームが始まったのだ。なお,これより少し前にトランジスタを使った電卓が発売された。片手では持てない大きさで,文字通りの卓上電子計算機だったがユーザーが自由に使える数値メモリは1個しかなかった。それでも価格はサニーやカローラより高かった。この頃か,もう少し後に電卓の価格はサニーやカローラよりわずかに安くなったが,同程度の価格だった。
国立大学の授業料は年間9,000円だったのが12,000円に値上がりした。この金額は当時,自動車学校で普通自動車の運転免許をとるのに最低必要な金額と同程度だったと思う。当時の学生が1食100円だせば,やや贅沢な食事だった(カレーは50円くらいだったと思う)。
私立大学の学費も上がり,授業料値上げ反対の全学ストライキや活動家学生による大学本部の占拠などが行われた大学もある。ベトナム反戦運動など,学生運動も60年安保,70年安保の中間ではあるが,それなりに動員力があった時代である。
まだ見ぬ恋人(2019.10.23)
昭和41年,詞:原とし子/岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「夕暮れの浜辺を 貝殻踏みながら 淋しさにただひとり さまよう」と始まる歌。
東宝映画『レッツゴー若大将』(加山雄三,星由里子)の主題歌。この映画では他に『夜空を仰いで』や『旅人よ』も唄われている。
「まだ見ぬ恋人よ 君と逢うその日まで 僕は行く」と恋に恋する歌で,加山の心の内を歌ったとは思えないが,元は雑誌『平凡』の歌詞募集に応募された歌で,女性が書いた男歌だ。当時の女性が思った男性とはこんな感じだったのだろうか。
霧氷(2013.10.12)
昭和41年,詞:宮川哲夫,曲:利根一郎,唄:橋幸夫
第8回日本レコード大賞受賞曲。「霧氷・・・霧氷・・・思い出はかえらない」と始まる。「冬空に消えた恋」の歌だ。
悪い歌だとは思わないがなぜこれがレコード大賞なのか私にはよく判らない。この年の候補では『絶唱』と『君といつまでも』が大賞候補だろうと思うが,従来の歌謡曲路線なら『絶唱』だろうし,素人系なら『君といつまでも』だろう。加山雄三を素人というつもりは全くないのだが,加山雄三の唄は,フォークソングやエレキバンドの雰囲気がある。地声に近い声で唄っていると感じるのだ。
橋も登場時には鼻声のように聞こえたし,舟木も素人っぽく聞こえたが,それでも流行歌手の中には十分収まっていた。二人の唄だと,私はどちらかというと舟木よりも橋の歌を好んだのだが,この2曲で比較すれば舟木の唄のほうが好きだ。
音楽的にどちらが優れているとか,歌以外の事情とかは判らず,純粋に私的な好みを述べれば,伝統的な歌謡曲としては『絶唱』,新しい歌としては『君といつまでも』がレコード大賞としてふさわしかったのではないか。
1) 「絶唱」(昭和41年,詞:西条八十,曲:市川昭介,唄:舟木一夫)
2) 「君といつまでも」(昭和41年,詞:岩谷時子,曲:弾厚作,唄:加山雄三)
柳ヶ瀬ブルース(2013.7.2)
昭和41年,詞:宇佐英雄,曲:宇佐英雄,唄:美川憲一
「雨の降る夜は心もぬれる」と始まる歌。
歌詞も曲も歌唱も典型的な演歌だろうが,当時は演歌とは呼ばなかったと思う。時代としてはグループサウンズ直前というところだろう。まだ,テナーサックスのムード歌謡という時代だったと思う。海外では電気ギター主体のバンドが全盛・・・私が少し遅れてるかもしれない・・・だった一方で反戦フォークソングの人気も高かった時代ではなかろうか。
「ああ〜ぁああやながぁせのぉよるーぅにないぃていぃる〜ぅ」との歌詞ではあるが美川の唄を聴くと,私には泣いて泣いて落ち込んでいくというイメージは感じられず,一応泣くだけ泣いたらまた元気を取り戻して『火の鳥』のように甦るという,なんとなく元気をくれる歌のように聴こえる。
柳ケ瀬ブルース(2016.7.31)
昭和41年,詞:宇佐英雄,曲:宇佐英雄,唄:美川憲一
「雨の降る夜は 心もぬれる まして一人じゃ なお淋し」と始まる歌。
独特の歌声なのですぐに美川だと判る。
ご当地ソングなのだろうが,「柳ケ瀬」という地名以外に「柳ケ瀬」を連想させる言葉は現れない。地名を他に換えれば全国どこの中小都市の繁華街の歌としても通用しそうだ。と思ったが,演歌が似合わない街には適さないかもしれない。新宿や渋谷のように人が多すぎる街にはやや合わないだろう。
勇気あるもの(2020.4.23)
昭和41年,詞:佐伯孝夫,曲:吉田正,唄:吉永小百合withトニーズ
「この道は 長いけど 歩きながら ゆこう」と始まる歌。
「ごらん 向日葵(ひまわり)は 空へ 空へ 太陽へ」のフレーズが印象的。
最後の「勇気が 湧いてくる 湧いてくる」からもわかるように青春応援歌だが,文部省推薦になりそうな,清く・正しく・美しくという雰囲気で,反抗期の青少年に支持されるかどうかは微妙な感じがする。これには吉永小百合のイメージも関係しているかもしれない。
夕陽が沈む(2019.7.27)
昭和41年,詞:横内章次,曲:横内章次,唄:フォア・ダイムズ
「夕陽が沈む 夕陽が沈む はずかしそうに夕陽が沈む」と始まる歌。
淋しげな曲で,沈む夕陽に人生の悲哀でも感じているのかと思うと,「今日から二人は恋人同士」と何やらハッピーそうだ。
それでも「かなしそうに夕陽が沈む」とあり,何かアンハッピーなことがあるのかと思うが「一番星を二人で待てば」というだけだ。結局「明日の幸せささやきあえば」「うれしそうに夕陽が沈む」と終わる。どんな不幸が訪れるのかと心配していたのに,最初から最後までハッピーだ。それならもっと曲調もハッピーソングにしてほしい。
夕陽が泣いている(2013.5.2)
昭和41年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:ザ・スパイダース
「夕焼け海の夕焼け」と始まる歌。グループ・サウンズのなかでの私の好みではスパイダースは中位だった。そのスパイダースの歌のなかではこの歌の私の評価はかなり上位だ。「夕陽が泣いている」という感覚は解らなくもない。
この頃私が住んでいたところでは夕日は山に隠れていった。子供の頃住んでいたところでは山から太陽が現れ,海に沈んでいった。山は遠くにあるとはいっても手の届くところにあるような気がするが,海から昇る太陽は手の届かない遠方から昇ってきて,海に沈む太陽は手に届かない遠方に行ってしまう感じを強く受ける。
中国に行ったとき,地平線を見たことがあるが,地平線より水平線のほうが私の感傷にはよく合う。
夢は夜ひらく(2015.1.18)
昭和41年,中村泰士・富田清吾,曲:曽根幸明,唄:園まり
「雨が降るからあえないの」と始まる歌。後に藤圭子が歌った『圭子の夢は夜ひらく』と同じ曲だが雰囲気はまったく異なる。どちらもうらみ節だが,藤バージョンは世間に対する怨みを感じるが園バージョンは恨みの中に甘えがある。もちろん歌詞も違うが,歌詞の違いだけでなく歌声,唄う時の表情など全体から受ける印象だ。
1)「圭子の夢は夜ひらく」(昭和45年,詞:石坂まさを,曲:曽根幸明,唄:藤圭子)
夢は夜ひらく(2020.1.17)
昭和41年,詞:水島哲,曲:曽根幸明,唄:緑川アコ
「いのち限りの恋をした」と始まる歌。
園まり,バーブ佐竹などと競作になっている。園の歌とはメロディーが微妙に違うし,歌詞は全く異なる。
「恋にこがれるせみよりも なかぬほたるが身をこがす」とか「恋に涙はつきものと 人はつれなくいうけれど」など,後の藤圭子盤ほどではないが,若干怨み節になっている。
夜空を仰いで(2017.12.13)
昭和41年,詞:弾厚作,曲:弾厚作,唄:加山雄三
「夜空を仰いで 数える星も」と始まる歌。
途中に「さみしいなあ 君がいないとつまんねえや ・・・」と台詞が入る。
東宝映画『レッツゴー!若大将』(加山雄三/星由里子/田中邦衛)の挿入歌。映画の若大将シリーズに良く合っていると感じる。私などには夢のまた夢の別世界の話だった。
ラブユー東京(2013.2.28)
昭和41年,詞:上原尚,曲:中川博之,唄:黒沢明とロス・プリモス
「七色の虹が消えてしまったの」と始まる歌。代表的なムード歌謡のひとつと言ってよいだろう。一二三番共に「シャボン玉のような○○○○涙」と出てきて,「涙の東京」で終わる。「お馬鹿さんね」などと自嘲の言葉も使われ,いかにも昭和の歌という感じだ。
虹はよく見る自然現象のひとつで,イメージも悪くないと思うのだが,歌に現われることは少ないように思う。思いつくのは数曲だ。雨は極めて多いし,雪もよく歌われるのになぜだろう。虹は奈良・平安の時代にも当然あっただろうが,古典の授業で虹の話は習った記憶がない。
シャボン玉は江戸時代からあるようだ。恐らくポルトガルからシャボン(石鹸)が伝わってまもなくからあるのだろう。私が子供のころやったのは言葉通りシャボン液を使ったものだった。基本的には固形石鹸だ。洗濯機はあったので粉末洗剤はあったと思うが,液体洗剤は見た記憶がない。液に松脂を混ぜるなどのテクニックはあったが,専用のシャボン玉液などは使った記憶がなく,壊れやすいシャボン玉しかできなかった。歌詞で比喩に使われているのは,このように儚くすぐ消えてしまうシャボン玉であろう。私が子供のころからあるシャボン玉関係のテクノロジーは金属コイルで作ったリングがストローの前にあり,コイルに含ませた液が表面張力でリングに膜をはり,この膜にストローからの息を吹きつけることによりシャボン玉を作る装置くらいだろうか。
固形石鹸で思い出したが,昔は歯磨き粉というのは本当に粉だった。半練り歯磨き粉というのもサラサラしているわけではないが,粉のようなものだった。今では練り歯磨き以外は見ない。
レット・キス(ジェンカ)(2014.6.17)
昭和41年,詞:永六輔,曲:Rauno Lehtinen,唄:坂本九
「レッツキッス頬よせて」と始まる歌。タイトルは「レット・キス」,歌詞は「レッツキッス」である。
ジェンカはフィンランドのフォークダンスであり,この曲は1960年代にフィンランドで流行した。
フォークダンスといえば,『高校三年生』1)にも『ぼくら フォークダンスの手をとれば』とあるように,高校時代の思い出の一つだろうが,私が高校生だった頃にはこの曲はまだ日本では発売されていなかった。地域によって違うのだろうが,私が通った高校では,フォークダンスの定番は『オクラホマ・ミキサー』(米)と『コロブチカ』(露)だった。当時の教師が意図的に米ソの曲を選定したのかどうかは不明だ。大学祭でもフォークダンスをやっていたが,そこでは『マイム・マイム』(イスラエル)がよくかかっていたように思う。これも主催団体の何らかの意図があったのかどうかは不明だ。当時は曲の国籍など考えたこともなかった。
ローマの雨(2018.2.22)
昭和41年,詞:橋本淳,曲:すぎやまこういち,唄:ザ・ピーナッツ
「胸にのこる ローマの夜 こよいかぎりの 二人の愛」と始まる歌。
「ああ ゆるして わたしは ローマの小鳩」という箇所など,ピーナッツという双子デュオの魅力全開だ。
若いってすばらしい(2019.7.2)
昭和41年,詞:安井かずみ,曲:宮川泰,唄:槇みちる
「あなたに笑いかけたら そよ風がかえってくる」と始まる歌。
タイトルどおり「若いってすばらしい」と終わる青春ソングだ。
50年以上前の話なので,いろいろ混乱しているかもしれないが,私の印象では昭和40年頃まではこのような青春ソングがよくあった。私がここで青春ソングと言っているのは,貧しくとも,清く・正しく・美しくという雰囲気の歌のことだ。例えば青春の歌としての失恋ソングなどは山ほどあるが,ここではそのような歌のことを言っているのではない。例をあげれば『青い山脈』1)だろうか。このような青春ソングは昭和30年代後半からの数年間に特に多かったように思う。『高校3年生』2)のような学園ソングもこのような青春ソングの一種だろう。
私には正確な分析をする能力はないが,この歌は当時の多くの青春ソングとは若干雰囲気が異なる。宮川らしさ(これが何かを分析できないのだが)が出ていると感じる。
1)「青い山脈」(昭和23年,詞:西條八十,曲:服部良一,唄:藤山一郎/奈良光枝)
2)「高校三年生」(昭和38年,詞:丘灯至夫,曲:遠藤実,唄:舟木一夫)
若者たち (2012.7.16)
昭和41年,詞:藤田敏雄,曲:佐藤勝,唄:ザ・ブロード・サイド・フォー
「君の行く道は果てしなく遠い」という歌。フジテレビ系のドラマ「若者たち」の主題歌。森田健作が唄ったのもある。「空にまた陽が昇るとき若者はまた歩き始める」が繰り返されるので最重要メッセージなのだろう。どんなに苦しくても,希望に向かって一歩一歩歩いて行くのが若者だという時代だった。
この頃,何歳くらいを若者と呼んだか,きちんと検証したことはないが私から見れば20歳過ぎはオジさん・オバさんだった。年配者から見れば,未婚者を若者と呼んでいたかもしれない。婚姻年齢は男性27歳,女性24歳くらいだった。当時の25歳の未婚女性は25日のクリスマスケーキと呼ばれたが非常に少なかったというわけでもない。私が生まれた頃の日本人男性の平均寿命は50歳だった。昭和40年でも男女で70歳を前後している。昭和40年頃は55歳以下で定年という企業が半分以上だった。大学進学率は2割程度だった。
で,この年,団塊の世代が18歳くらいだ。若者たちとはこの世代を指しているのではないだろうか。
カラーテレビ,クーラー,自家用車など欲しいものは沢山あった。ベトナム戦争などの影はあったが,高値の花だったこれらのものがひょっとしたら自分にも買うことができるかもしれないと思うことができるようになってきていた。「巨人の星」1)の連載が始まった年である。突っ走る者,一歩一歩着実に進む者,あっちへふらふらこっちへふらふらと進む者,人によって様々だが,スポ根漫画のように険しい路を進む先に希望があるという時代だった。
1)「巨人の星」:週刊少年マガジン,昭和41年〜,原作:梶原一騎,作画:川崎のぼる
笑えピエロ(2019.4.12)
昭和41年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:植木等
「君は僕を笑ってる 僕は君を笑わせる」と始まる歌。
「心は泣くのにいそがしい だから 笑うと涙がでてくるぜ」という歌。
King of Clowns1)と同工異曲のような気がする。当時,顔で笑って心で泣いてというのは珍しいことではなかったが,この歌は泣く為に笑おうと言っているようで,この点がやや新鮮に感じる。
同工異曲と書いたが,後から作られたものが古いものを真似したという意味ではない。もちろんハマクラはニール・セダカの歌は知っていただろう。そんなことを言えば,『街のサンドイッチマン』2)なども同じように感じるが,当然独立に作られたものだろう。古いものを参考にする場合,どこに独自性を発揮するかを考える必要があり,後発ほど制約が増えて難しくなる。人間の感情の種類は限られており,どのような心情が多いかは時代の雰囲気である程度決まってしまうだろうから。だからこそ,歌が時代の雰囲気を写すのだ。
1) 「King of Clowns」(昭和37年,詞:Howard Greenfield,曲:Neil Sedaka,唄:Neil Sedaka)
2) 「街のサンドイッチマン」(昭和28年,詞:宮川哲夫,曲:吉田正,唄:鶴田浩二)
ワン・ナイト・ワン・キス(2020.7.14)
昭和41年,詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助,唄:青山ミチ
「ワン・ナイト 港の町の ワン・ナイト 初恋の夜」と始まる。
従来の歌謡曲とはどこかちがう,海外のポピュラー・ソングとも違う,従来ないタイプの曲だと感じる。詞は繰り返しが多く,単調に感じるが,曲に関する新しい試みは評価されるべきだろう。ただし,この歌が大ヒットしたわけではないので,新しい試みの一つという位置づけで,これが後のJ-POPにつながっていくのだろう。
(Theme From) The Monkees<モンキーズのテーマ>(2018.10.26)
昭和41年,詞:Tommy
Boyce, Bobby Hart,曲:Tommy Boyce, Bobby Hart,唄:The Monkees
「Here we come, walkin’ Down
the street We get the funniest
looks from Every one we meet」と始まる歌。
英国でのビートルズの成功を見て米国で結成されたのがこのモンキーズらしい。私はビートルズにあまり興味はなかったが,新鮮さは感じた。モンキーズのほうは新鮮さよりも,聞き覚えのある感じで安定感を持って聴くことができた。ただ,自分で選んで聴くことはなかった。
何となくジョージ・チャキリスという名前が頭に浮かんだのでひょっとしたら私がウエスト・サイド物語に対して無意識に持っているイメージとこの曲が似ているのかもしれない。