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明治大正昭和元年〜昭和6年〜昭和11年〜昭和14年〜昭和16年〜昭和21年〜昭和26年〜昭和29年〜昭和31年〜昭和33年〜昭和35昭和36昭和37昭和38昭和39昭和40昭和41昭和42昭和43昭和44昭和45昭和46昭和47昭和48昭和49昭和50昭和51昭和52昭和53昭和54昭和55昭和56昭和57昭和58昭和59昭和60昭和61昭和62昭和63年〜その他(不明)平成の歌

 

昭和14年〜

目次

昭和14年 愛染草紙,愛染夜曲,愛馬進軍歌,あの子はたあれ,一杯のコーヒーから,大利根月夜,おさるのかごや,からすの赤ちゃん,汽車ポッポ,九段の母,くろがねの力,島の船唄〔小島離れりゃ〕,上海の花売娘,出征兵士を送る歌,純情二重奏,空の勇士,旅のつばくろ,父よあなたは強かった,チャイナ・タンゴ,ちんから峠,追憶〔星影やさしく〕,ないしょ話,仲よし小道,長崎物語,懐かしのボレロ,古き花園,兵隊さんよありがたう,ほんとにほんとに御苦労ね,港シャンソン,名月赤城山

昭和15年 暁に祈る,荒鷲の歌,お島千太郎旅唄,お玉杓子は蛙の子,加藤隼戦闘隊,落葉松,紀元2600年,燦めく星座,月月火水木金金,湖畔の宿,蘇州夜曲,誰か故郷を思わざる,隣組,新妻鏡,目ン無い千鳥,森の小径,ユー・アー・マイ・サンシャイン< You Are My Sunshine >,りんごのひとりごと,別れ舟,You Are My Sunshine

 

愛染草紙(2016.4.5)

昭和14年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:霧島昇/ミス・コロムビア

 「流れくる流れくる 君がやさしの歌声かなし」と始まる歌。

 松竹映画『愛染かつら完結編』の主題歌。

 明治の三大メロドラマと言えば貫一お宮の『金色夜叉(こんじきやしゃ)』,武男と浪子の『不如帰(ほととぎす)』,お蔦主税の『婦系図(おんなけいず)』だが,『愛染かつら』と『君の名は』はそれぞれ戦前・戦後を代表するメロドラマだろう。『愛染かつら』は戦前ものだが戦後も何度かリメイクされている。病院長の息子で医師の津村浩三と子持ち未亡人看護婦の高石かつ枝を主人公とする物語。松竹で映画化されたときには上原兼と田中絹代が演じている。主題歌の『旅の夜風』1)や挿入歌の『悲しき子守唄』2)が大ヒットした。

『愛染かつら前篇』,『愛染かつら後編』,『続愛染かつら』の後に作られたのがこの歌を主題歌とした『愛染かつら完結編』だ。戦後も映画とテレビでそれぞれ数回リメイクされている。

 歌詞に「結ぶ縁(えにし)の愛染かつら」とあるが,この木は長野県上田市別所温泉にあるそうだ。縁結びの木らしいが詳しくはしらない。この木が縁結びの木になったのは映画『愛染かつら』のヒット以降のようだ。

1)「旅の夜風」(昭和13年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:霧島昇/ミス・コロムビア)

2)「悲しき子守唄」(昭和13年,詞:西條八十,曲:竹岡信幸,唄:ミス・コロムビア)「旅の夜風」のB面。

 

愛染夜曲(2016.5.27)

昭和14年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:霧島昇/ミス・コロムビア

 「愛染かつらの咲く春を なんで嵐がまたねたむ」と始まる歌。

 松竹映画『続愛染かつら』の主題歌。

 松竹の『愛染かつら』シリーズは『愛染かつら完結篇』で終わるが,戦後になり昭和23年に大映で『新愛染かつら』が作られ,昭和29年には再び大映で『愛染かつら』が作られた。昭和37年には松竹から『愛染かつら』『続愛染かつら』が作られている。

 戦後のメロドラマと言えば『君の名は』だが,これは菊田一夫の脚本で数寄屋橋での出会いが発端である。昭和37年にはまたまた菊田一夫で『あの橋の畔で』といかにもの名のテレビドラマが作成されこれもヒットし映画化もされた。

 

愛馬進軍歌(2014.1.18)

昭和14年,詞:久保井信夫,曲:新城正一,唄:永田紘次郎/長門美保

これはキングレコードである。コロムビアは霧島昇ほか,ビクターは徳山ほか,ポリドールは東海林太郎ほか,テイチクは藤山一郎,タイヘイは阿部幸次などが吹き込んでいる。各社競作ということだ。

 「くにをでてから幾月ぞ」と始まる歌。詞・曲共に公募である。詞の公募担当は後の硫黄島で有名な栗林忠道中将(当時騎兵大佐)とのこと。(Wikipediaによる。)

軍馬の歌であるから,軍歌の一種だろう。曲は軽快である。詞は現場から生まれたというより,観念的というか,こうだろうと想像して書かれた詞のように感じられる。漢語を多用したりすれば勇壮に感じられるのだろうし,文語ならば格調高く感じられるのだろうが,そのような技法を駆使するわけでなく,一応七五調にはなっているが,口語の散文である・・・と私には感じられる。「ぞ」などという助詞が使われているが。

 

あの子はたあれ(2013.10.31)

昭和14年,詞:細川雄太郎,曲:海沼實

 「あのこはたあれたれでしょね」と始まる歌。

 原詩では「だあれだれでしょね」となっていたのを海沼の音が汚いとの意見で「たあれ」になったとのこと。今では「誰」はほとんど「だれ」と発音すると思うが,昔は「たれ」とも発音したのだろうか。そういえば,『黄昏』の語源は「誰ぞ彼」だという説を聞いたことがあるから,むかしは「たれ」だったのだろう。昔の文書は濁点の表記がなく,この歌も歌詞表記は濁点なしだが,唄うときには海沼の意図に反して濁音で唄われていたのかもしれないなどと思ってしまう。

 幼児(ひょっとしたらまだ乳児かもしれない)をつれた母親が,その子よりも少し大きな子を見て,幼児に語りかけている様子が目に浮かぶ。

 歌詞には「ミヨちゃん」や「ケンちゃん」が現れる。この時代,このような名前がポピュラーだったのだろうか。例示はしないが,もっと後のうたでも「ミヨちゃん」の出現率はかなり高いように思う。

 

一杯のコーヒーから(2012.1.20)

昭和14年,詞:藤浦洸,曲:服部良一,唄:霧島昇/ミス・コロンビア

 「一杯のコーヒから夢の花咲くこともある」で始まる歌。

 この年,ドイツ軍がポーランドに攻め込み第二次世界大戦が始まった。日本は昭和12年の盧溝橋事件の収拾ができぬまま支那事変を戦っているうちに,米国からハル・ノートを突きつけられ昭和16年に米英に宣戦布告する。

 このような年だが,「二人の胸のともしびが」ついたりしていてまだまだ幸せな人は沢山居たようだ。もちろん,「男女7歳にして席を同じうせず」の時代だったと思うのだが,禁じられればなおさら甘美な思い出となるのだろう。

 

大利根月夜(2013.9.14)

昭和14年,詞:藤田まさと,曲:長津義司,唄:田端義夫

 「あれをご覧と指差すかたに」と始まる歌。

 平手造酒の歌である。自嘲の歌と言っても良いだろう。あるいは後悔の歌と言えるかもしれない。おそらく(天保水滸伝などに登場する)平手自身は後悔などしていなかっただろう。飯岡の助五郎一家との喧嘩(でいり)は,ここが死に場所と心を定めて行ったのであろう。

 田端は軽やかに歌っていて,やくざの用心棒の歌には聞こえない。なぜかは知らないが,私が小さな子供の頃,町内演芸会でオバちゃんたちが団体でこの歌にあわせて踊っていた光景を覚えているような気がする。馴染みがある歌だ。

 長津は後にも三波春夫が唄った平手造酒の歌1)を作曲している。こちらのほうは三波が元浪曲師だったせいだろうか,浪曲っぽいつくりになっている。勝太郎の浪曲との整合性は三波の歌のほうが良い。

1)      「大利根無情」(昭和34年,詞:猪又良,曲:長津義司,唄:三波春夫)

 

おさるのかごや(2014.4.15)

昭和14年,詞:山上武夫,曲:海沼實

 「エーッサエーッサエッサホーイサッサ おさるのかごやだホイサッサ」と始まる唄。

 もちろん知っている歌だが,今となっては私にとってほとんど唄う機会がない歌だ。

 子供の頃,電車ごっこはしたことがあるが,駕籠屋ごっこはしたことがない。しかし,もっこで土を運んだことはある。校庭整備に生徒も駆り出されて,校庭の凹んだ部分に高い部分から土を削って運んだのだ。このときなど,駕籠の代わりに使えそうな道具があったのだが,かごやごっこをするような年齢ではなかったのだろう。

 おさるの駕籠屋どころか,人が担ぐ駕籠にも乗ったことはないが,お猿電車には乗ったことがある。遊園地などにあった子供が乗る電車で,運転席にはお猿さんというものである。蒸気機関車風のものもあったが,もちろん猿は運転席に座っているだけで,運転は人がリモートコントロールしている。

 その後,子供の私の関心は団体で乗る乗り物よりは個人で乗るものに移った。自動車とか飛行機だ。これらもリモートコントロールされていたが,自走する(電気)自動車に初めて乗って以来,自分でコントロールするもののほうがはるかに好きになった。自転車を除けば,初めて大人用の本物?の乗り物を自力でコントロールしたのは遊園地の池のボートだった。

 

からすの赤ちゃん(2014.8.8)

昭和14年,詞:海沼實,曲:海沼實

 「からすの赤ちゃんなぜなくの」と始まる唄。2番は「めえめえ山羊さんなぜなくの」,3番は「まいごの鳩さんなぜなくの」だ。なき声はそれぞれ「かあかあ」「めえめえ」「ほろほろ」だ。

 そもそもこれらの動物は日本に昔からいるのかどうかだが,カラスは八咫烏1)の例もあり,昔からいたのだろう。

山羊に関しては古いものをすぐには思い出さない。九州・沖縄ではその飼育歴はかなり古そうだが,日本の大部分では江戸時代でもまだ山羊の飼育はされていなかったのではなかろうか。山羊は繁殖力が強いそうだから,本州に昔から野生の山羊がいたら種々の昔話にもっと登場するのではないかと考える。

Wikipediaによれば鳩は1500年程前に渡来した外来種となっているが,1500年も前からいたのなら十分昔から日本にいたことになる。

これらのなき声をこのように表記するようになったのはいつのことだろうか。山鳥が「ほろほろ」となくのは昔からだが,この当時も鳩は「ほろほろ」とないたのだろうか。

この歌ができた当時はカラス,山羊,鳩は身近にいたと思われる。もちろん「こけこっこのおばさん」も身近にいた。

1)八咫烏。神武天皇を大和の橿原まで案内したとされる

 

汽車ポッポ(2014.2.26)

昭和14年,詞:富原薫,曲:草川信

 「汽車汽車ポッポポッポ シュッポ・・・」と始まる唄。

 この擬音から解るように蒸気機関車だ。私が子供だった頃は,私鉄の電車はもちろんあったが国鉄は蒸気機関車だった。「畑もとぶとぶ家もとぶ」というが新幹線などに比べれば兔と亀くらいの違いがあるかもしれない。「トンネルだトンネルだうれしいな」と子供は喜ぶが,直ぐに窓を閉めないと煙が窓から入ってきて真っ黒になる。

 SLの形は美しい。各部の機能が解るというか,懸命に努力して走り出し,かつ走る感じを受ける。機能を最高に発揮するための美ということだろう。ディーゼルや電気機関車は機関車が頑張っているという気分が伝わりにくい。

 

九段の母(2012.10.4)

昭和14年,詞:石松秋二,曲:能代八郎,唄:塩まさる

 「上野駅から九段までかってしらないじれったさ」という歌。後に二葉百合子も唄っている。

 ひょっとしたら,若い人にはわからないかもしれないが,九段というのは靖国神社がある場所である。靖国神社は戦死した軍人を主に祀った神社である。宗教的あるいは法的にこの神社がどのようなものであるのか正確なところは知らない。しかし,戦死したら靖国神社に祀られるとほとんどの日本人が考えていたと思う。この歌は戦死した息子に会って金鵄勲章を見せるために(恐らく地方から)靖国神社に参詣する母親の歌である。

 靖国神社は中央線であれば飯田橋とか市ヶ谷が最寄の駅だろう。都営新宿線の九段下ならもっと近いが,この路線の新宿−岩本町間開通は昭和55年である。東京地理教育電車唱歌1)50番に靖国神社がでているので,市電は近くを走っていたはずだ。しかし,ようやく上野駅についたのであろう母親は東京は初めて,言葉もうまく通じない・・・当時の方言や訛りは今とは比較にならない・・・。「杖を頼りに一日がかり」というのはひょっとしたら歩いたのかもしれない。昔は数里くらい歩くのは普通だった。

 金鵄勲章などもらうより,・・・思いはあっても口には出せない。「神とまつられもったいなさに母は泣けますうれしさに」と涙の言い訳をしなければならない時代だった。

 実際に戦死者の魂が靖国神社に眠っていると信じているひともいるだろうし,信じていないひともいるだろう。しかし信じていない人がこの神社を冒涜したり,参拝する人を非難したりすることは許されないことだろう。また,政争の具にすることも許されないことだ。日本の近・現代史を学べば,靖国神社に対する種々の思いが生じるかもしれないが,この地は英霊が眠る聖なる地であり,神道の一神社ではない。この母親もお念仏を唱えている。

1) 「東京地理教育電車唱歌」(明治37年,詞:石原和三郎,曲:田村寅蔵)

 

くろがねの力(2012.4.8)

昭和14年,詞:浅井新一,曲:江口源吾,唄:霧島昇・伊藤久男・松原操・二葉あき子

 作曲者の江口源吾は江口夜詩の本名である。

この曲は「清新の血は朝日ともえて」と始まり「ちーから〜ァちーから〜ァくろがーァねのちーから〜」と終わる。小学校の運動会で行進の際によくかかっていた。しかし,運動会の練習で入場行進の練習はなぜあんなに長かったのだろう。組み立て体操などよりはるかに長い時間が行進の練習に当てられていた。行進曲は歌のないレコードだった。1番の歌詞の「皇国の盾ぞ」や3番の歌詞の「神国日本」などが不適切と考えられていたのであろう。

 昭和14年にはノモンハンでソ連軍と戦い大敗したが,国民に詳細は知らされなかった。この戦いに関しては日ソ共に大きな戦果を上げたと誇大発表しているようである。日本軍の兵士が勇敢に戦ったのは事実だろう。航空戦で日本が優勢だったのも事実だろうが,地上戦では圧倒されたというのが事実ではなかろうか。日本軍の戦車は装甲が薄く簡単に撃破されたようだ。この戦いはソ連側は国としての戦いであり,日本側は軍の出先の戦いで,政府が決めた戦いではなかった。その結果かどうかは知らないが,投入兵力に大きな差があったようだ。結果はソ連が戦闘目的を達成したのだから日本は負けたのだ。

 日本軍の指導者には間違った考えが広まっていたようだ。それは100100中の砲1門で1001中の砲100門と対等に戦えるという確率論を誤用した精神論である。これは確率論の基礎を理解していないから生じる誤りである。無数にある標的を撃破した個数で戦果を決めるなら,100100中の砲1門と1001中の砲100門は引き分けだ。消費した砲弾当たりの標的撃破数で戦果を決めるなら100100中の砲1門の圧勝だ。しかし,互いに向き合って撃ち合う戦闘なら最初の1発で100100中の砲1門の部隊は全滅する。これに対して1001中の砲100門を持つ部隊は損傷1門で,損害は1/100という軽微なものになり後者の圧勝だ。

 科学技術が万能だと考えるのは間違いだが,基本的な科学的知識は誰もが持っていないと騙されることがある。

 

島の船唄(2016.8.11)

昭和14年,詞:清水みのる,曲:倉若晴生,唄:田端義夫

 「小島離れりゃ船唄で 今日も暮れるか海の上」と始まる歌。

 「明日(あす)は明日(あした)の風が吹く」と「一人もの」の気楽な生活を唄った歌。

 気楽さを歌ってはいるが,淋しさも感じさせ,痩せ我慢の歌だろう。せめて「浜千鳥」と「唄を仲間にくらそうよ」と唄っている。

 

上海の花売娘(2014.5.24)

昭和14年,詞:川俣栄一,曲:上原げんと,唄:岡晴夫

 「紅いランタン仄かにゆれる」と始まる歌。「あゝ上海の」ときて最後に「花売り娘」という箇所が印象的。録音のせいか,私が聞いたこの曲より,後の『憧れのハワイ航路』1)のほうが岡の声の出方が良いように感じる。

 歌自体は,花売娘に対する個人的感情を歌ったものではないだろう。上海の情景を描写するように歌われており,かつ焦点は花売娘に当たっている。上海の街を描いた絵のようで,その絵の中に花売娘がいるようだ。

 岡晴夫には花売娘シリーズの曲が数曲あるが,私にとって最も馴染み深いのが『東京の花売娘』,その次がこの「上海の花売娘」だ。

1)      「憧れのハワイ航路」(昭和23年,詞:石本美由起,曲:江口夜詩,唄:岡晴夫)

2)      「東京の花売娘」(昭和21年,詞:佐々詩生,曲:上原げんと,唄:岡晴夫)

 

出征兵士を送る歌(2020.4.9)

昭和14年,詞:生田大三郎,曲:林伊佐緒,唄:林伊佐緒

 「わが大君に 召されたる 生命光栄ある 朝ぼらけ」と始まる。

 繰り返される「いざ征け つはもの 日本男児!」が印象に残る。

 歌詞は日本雄辯會講談社が一般公募したもの。ほぼ同じ時期に読売新聞社が公募した『空の勇士』1)はレコード会社5社競作で大々的にプロモートされたが,キングレコードだけは林伊佐緒を始めとする専属歌手総動員で「出征兵士を送る歌」を押した。

 当時のマスコミは新聞社はもちろん,出版社も軍国歌謡の製作に力をいれていた。

1)「空の勇士」(昭和14年,詞:大槻一郎,曲:蔵野今春)

 

純情二重奏(2012.11.30)

昭和14年,詞:西條八十,曲:万城目正,唄:霧島昇/高峰三枝子

 「森の青葉の蔭に来て」と始まる歌。終りは「亡き母恋し」である。映画の主題歌で,出演は高峰三枝子や木暮実千代などである。昭和42年に倍賞千恵子や倍賞美津子の出演でリメイクされている。

 リメイク版の粗筋を読んだが,どうも歌詞としっくり来ない。映画の話を忘れて歌詞を読むと,「亡き母恋し」が4回繰り返され,これが最大のテーマであろう。「君もわたしも孤児の」とか「旅路はてなき孤児ふたり」とあるのが状況を知るための参考になる。しかし,孤児と聞くと児童と呼ばれる程度の年齢を想像してしまう。歌詞からは児童から少し大人に近づいた少年・少女のイメージなのだが,残念ながら霧島昇も高峰三枝子も,私がテレビで観ていた当時は既にオジさんオバさんになってしまっており,歌のイメージとギャップがある。

 結局,どういう歌なのか理解はできないのだが,曲自体は私の身体に浸み込んでおり,歌詞の意味とは無関係に聞いていて心が安らぐ曲だ。

 昭和15年には東京でのオリンピック開催が決まっていた(戦争のために開催されなかった)。そこでこの昭和14年に日本放送協会はオリンピックを中継するため,浜松高等工業学校の高柳健次郎教授を招きテレビの実験を行った。映像は鮮明だったらしい。

 

空の勇士(2020.3.9)

昭和14年,詞:大槻一郎,曲:蔵野今春

 「恩賜の煙草をいただいて 明日は死ぬぞと決めた夜は」とはじまる。

 陸軍航空隊の歌である。当時の日本には空軍がなかった。代わりに帝国陸軍と帝国海軍がそれぞれ航空部隊を持っていた。描かれているのはノモンハン事件らしい。「世界に燦然と輝く陸の荒鷲」なととあり,「無敵の翼とこしへに」とあるように,航空戦は圧倒的に有利に戦いを進めたようだが,地上戦ではソ連軍より日本軍のほうが多く戦死しているようだ。更に,第二次ノモンハン事件ではソ連軍は第一次の教訓を生かし,大量の人員と物量を投入し,戦術も修正してきたようだ。空での戦いも最初は日本軍の消耗率は10:1だったのが3:1になった。地上軍も第23師団が壊滅するなど負け戦になったt。しかし,後の調査によれば,日本軍よりソ連軍のほうが戦死者数は多かったようだ。物量作戦に負けたのだ。

 100発1中の砲100門と1発必中の砲1門が戦えば,最初の一撃で99門対0門になって勝敗が決まるという普遍の真理がここでも現れているように感じる。・・・日本兵の錬度が高かったわけではない。物量を無視する精神論が問題だと言いたい。

 尚,歌詞は読売新聞社の公募でレコードは5社競作で発売されている。歌手はコロムビア:霧島昇・藤山一郎・二葉あき子・松原操・渡辺はま子,ビクター:徳山l・波岡惣一郎・四家文子,ポリドール:奥田良三・関種子・東海林太郎・小林千代子,テイチク:桜井健二・鬼俊英・服部富子・中村征子,タイヘイ:立花ひろし・渡辺光子となっている。

 

旅のつばくろ(2017.2.12)

昭和14年,詞:清水みのる,曲:倉若晴生,唄:小林千代子

 「茜い夕陽の他國の空で」と始まる歌。

 「泣いちゃいけない笑顔をみせて」と昭和の痩せ我慢の思想に沿った歌だ。昭和の思想と云っても,末期にはこの思想は薄れていたように感じる。この思想の始まりがいつかは解らない。『武士は食わねど高楊枝』などという言葉もあったようだから江戸時代以前だろう。

 しかし,私は「旅のつばくろ」と聞くと『サーカスの唄』1)を思い出す。こちらのほうが遥かに馴染み深い。

1)「サーカスの唄」(昭和8年,詞:西條八十,曲:古賀政男,唄:松平晃)

 

父よあなたは強かった(2013.7.27)

昭和14年,詞:福田節,曲:秋本京静,唄:伊藤久男,霧島昇,二葉あき子,松原操

 「父よあなたは強かった」と始まる歌。戦時歌謡というべきなのだろう。

 「敵の屍とともに寝て泥水すすり草を噛み」とか「骨まで凍る極寒を」「クリークに三日も浸かって」とか「十日も食べずに」とかあってついには「今日は九段の桜花」1)になってしまっている。このように悲惨な戦場を描いた詞で将兵の士気が高まるとはとても思えず,反戦歌のようにも聞こえるが軍歌に分類されているようだ。詞は朝日新聞が公募したもので,作詞者は一般女性とのこと。作詞者は戦場の悲惨さを訴える歌として書いたのだろう。ただ,反戦歌と見なされることを恐れ,最後に,このような困難に耐えて「よくこそ勝って下さった」と結んだので公募の一等になったのだろう。最後の5番に「一億民のまごころをひとつに結ぶ大和魂」などと書いたのも軍が気に入った理由かもしれない。

 私には反戦歌としか聞こえない歌だ。

1)     「九段」は戦死者の霊が祀られた靖国神社のある場所。「貴様と俺とは同期の桜・・・見事散りましょ国のため」(「同期の桜」より)。年寄りには注の必要などないだろうが,若い人のために念のため。戦死して靖国神社に祀られているのだ。

 

チャイナ・タンゴ(2016.11.11)

昭和14年,詞:藤浦洸,曲:服部良一,唄:中野忠晴

 「チャイナ・タンゴ 夢の唄」と始まる歌。

 「紅の提灯」は「べにのちょうちん」と唄っているが『港シャンソン』1)などで『赤いランタン』と唄われているものと同じものだろう。私などは『赤提灯』と聞けば低価格の呑み屋を想像するが,当時は『赤い提灯』で中国を連想したのだろうか。『赤いランタン』が多くの歌で中国を表すのに使われているようなので,当時も『赤いランタン』のほうがより強く中国を連想したのだろう。

 他にも「チャルメラ」,「クーニャン」,「ジャンク船」,「紅の窓」,「青いひすいの玉ゆれて」などが中国をイメージさせる言葉として使われている。特別な事件が発生するわけではなく,ただ異国情緒を感じさせる歌だ。

1)「港シャンソン」(昭和14年,詞:内田つとむ,曲:上原げんと,唄:岡晴夫)

 

ちんから峠(2014.7.2)

昭和14年,詞:細川雄太郎,曲:海沼實

 「ちんからほい ちんからほい ちんから峠のお馬はほい」と始まる歌。

 荷物運びに馬が用いられていた時代の歌であろう。「ちんから」は馬につけた鈴の音か?

 当時は道路も整備されておらず,馬は広く使われていた。昭和30年代の町では馬の背に荷を乗せて運ぶのは見たことがなかったが,荷馬車はしばしば見た。大八車やリヤカーを引く手伝いをする犬もよく見た。

 昭和30年代の末期,高校には馬で通勤している先生もいた。当時でも珍しかったが,馬に鈴はついていなかった。高校には『ふんどし』というあだ名の先生がいたが,褌を愛用しているとのうわさだったが真偽は知らない。小学校の修学旅行でも褌着用の児童はいなかったが,銭湯などでは年配の人には褌着用の人もいた。

 現在滋賀県に「ちんから峠」と名づけられた峠があるらしいが,これはこの歌が有名になってからつけられた名前らしく,歌ができたときにはそのような名の峠が実在したかどうかは不明のようだ。具体的にはどの峠というのではなく,当時はあちらこちらでこのような光景がみられたのであろう。

 『雨降りお月』1)では傘がないときには「シャラシャラシャンシャン鈴つけたお馬にゆられて濡れていく」とある。これは嫁入りの様子だ。

1)      「雨降りお月」(昭和4年,詞:野口雨情,曲:中山晋平)。大正14年の「雨降りお月さん」に歌詞が追加され,タイトルも微修正された。

 

追憶(2016.9.11)

昭和14年,詞:古関吉雄,曲:スペイン民謡

 「星影やさしく またたくみ空」と始まる歌。

 原曲はアメリカの讃美歌『Flee as a Bird (to Your Mountain)』だということは確かだが,この『Flee as a Bird』の原曲がスペイン民謡か?ということらしい。

 この歌自体は学校で習ったのだろうが,いつのことか記憶にない。

 詞自体は「ああ なつかしその日」と終わり,過去を懐かしんでいる歌で年寄りじみているが,曲も含めた歌全体から受ける印象は少女趣味のように感じる。よく受け取れば,全世代に好まれそうだが,悪く受け取れば全世代受けを狙ったようにも感じる。

 私の受け取り方は中間で,聴くには良いが自分では積極的には唄わないというものだ。積極的に唄うには忘れてしまいたい過去が多すぎる。

 

ないしょ話(2013.3.27)

昭和14年,詞:結城よしを,曲:山口保治

 「ないしょないしょないしょの話はあのねのね」と始まる歌。「ぼうや」から「かあちゃん」への内緒のお願いの歌だ。母親を絶対的に信頼している幼児の様子が眼に浮かぶ。

この歌は結城よしを19歳の作品だが,私が19歳のときにもこのような光景を目にしたことがあったかもしれない。しかし,私にはこのように言葉として定着させることができる感性は持っていなかった。

 

仲よし小道(2013.5.29)

昭和14年,詞:三苫やすし,曲:河村光陽

 「仲よし小道はどこの道」と始まる歌。「いつも学校へ」「ランドセル背負って」通うのだが,「お手手をふりふりさようなら」などという詞などから,低学年の児童だろう。

 私が小学校に入ったのはこれより大分後のことだ。しかし,通学路の雰囲気などは今の道よりもはるかにこの詞の道に近い。

 最初に入った小学校は,自宅の目の前にあった。門から入るには校庭を半周しなければ入れなかったが,それでも通学路というほどの距離ではない。その後,父親の転勤で転校したのだが,最初に入った小学校の記憶はほとんど残っていない。

自宅から新しい小学校へは距離があり,ここでは通学団が組織されていて,登校時は町内の全小学生が集まって登校した。とは言え,各学年2名以下くらいの小さな町である。歌詞にあるように「お歌をうたって」ではなく,黙々と歩いた。自転車が通るのがやっとという道を通り,やや広い道,更に広い道に出て歩く。広い道といっても,自動車が走ることがあったかどうか,荷馬車やリヤカーはときどき通っていたが,リヤカーがすれ違うのがやっとという道である。一番広い道にはたまにオート三輪などが通っていたと思うがほとんど記憶がない。

自由に歩けたのは下校時だ。学年により終業時間が異なるので,学年ごとに帰ることになるが,特別な決まりはなく,自由だ。道草してはいけないという決まりはあったと思うが。

学校から家までには,自然が沢山あった。今思えば「カラスノエンドウ」だろうが,道端のマメで笛を作って吹きながらとか,歌は唄わなかったが音楽はあった。植物は忘れたが,中空の茎を持つ植物で縦笛のようなものを作ったこともある。

通学路での遊びといえば,ランドセルを持たせるのとか,歩数制限をするのなどがあったが,遊びの名前も遊び方も忘れてしまった。多分,ジャンケンで負けたらランドセルを持たされるとか,動けないとかいうのだと思うが,何歩進むのかなど詳細を全く思い出さない。

学校から帰るとランドセルを放り出して遊びに行くのが普通だった。

時代が違うからか,住んでいる地域が違うからか解らないが,私が子供の頃は友達の家の前で大声で「○○君遊ぼう」というのが最も普通だった。それがいつのまにか「ごめんください」と友達を呼び出して普通の会話の声で「遊べる?」というのを聞くようになり,さらには事前に電話で約束するようになった。どうも最近は家の前まで来てから携帯電話で呼び出すようだ。

通学路には小川もあり,農業用水もあり,大きな川もあったが,学校帰りに水辺で遊んだ記憶はない。大きな川の土手をダンボールを橇代わりにして滑り降りるというようなことはやったが。水辺に遊びに行くのは一旦自宅に帰って身軽になって,それなりの遊び道具を持ってからである。

 

長崎物語(2013.1.26)

昭和14年,詞:梅木三郎,曲:佐々木俊一,唄:由里あけみ

「赤い花なら曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に雨が降る」という歌。江戸幕府の鎖国政策で混血児がバタビアに追放された。その一人「お春」の歌である。

イタリア人の父と日本人の母から生まれたお春は白い肌と青い目を持つ美しい少女だったという。長崎で育ち,15歳でバタビアへ渡ったが,望郷の想い断ち難く,手紙を書く。歌詞に「つづる文さえつくものを なぜに帰らぬ ジャガタラお春」とあるが,帰りたくても帰れなかったのだ。『・・・・ あら 日本恋しや ゆかしや みたや みたや』

貴族院議員竹腰与三郎は「『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」といったらしいが,いまでは。

ジャカルタ古文書館にはお春の遺言書が残っており,遺産の分配法などが書かれていてかなりの財産家として死んだようである。

以上のお春に関する情報はWikipediaの「じゃがたらお春」には書かれている内容の一部である。この歌が発表された当時はこのようなことを知っている人が多数いて,この歌から多くの人がお春の境遇に想いをはせたのだろう。

今ではお春のジャガタラ文は偽作だとされており,ジャカルタ古文書館にあるお春の遺言書には遺産の分配法などが書かれていて,かなりの財産家として死んだらしい(Wikipedia情報)。

曼珠沙華は彼岸花のことである。この花には総数1023の別名(中・韓・英米・学名を入れて1054)があるというサイト1)を見た。私が子供の頃,この花は「ベロマガリ」と言っていたと思うが,この別名(方言)リストには載っていなかった。リストにある「シタマガリ」あるいは「ベロアレ」が最も近い名前のようである。ということは私は「1024番目の別名の発見者」かもしれない。なお,「ベロ」は「舌」を指す方言である。

この歌では「あかい〜はななぁらまんじゅうしゃあげぇ〜」と唄われているが,藤圭子は「赤く咲くのはケシの花」と唄い,山口百恵は「まんじゅしゃか」と唄っていた。

1)     熊本国府高等学校PC同好会:「ヒガンバナの別名(方言)」http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/higan_name.html

2)     「圭子の夢は夜ひらく」(昭和45年,詞:石坂まさを,曲:曽根幸明,唄:藤圭子)

3)     「曼珠沙華」(昭和53年,詞:阿木耀子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)

 

懐かしのボレロ(2017.1.15)

昭和14年,詞:藤浦洸,曲:服部良一,唄:藤山一郎

 「南の国 唄の国 太鼓を打て 拍子をとれ 楽しき今宵」と始まる歌。

 ボレロはスペインの舞曲らしい。言われてみればフラメンコの雰囲気が感じられる。

しかし私は藤山一郎の歌声に典型的な昭和初期の歌謡曲を感じる。『歌謡曲』という言葉は昭和中期に一般的になったのではないかと思う。昭和初期にも少なくない流行歌手がいて,もちろん藤山もその中の一人なのだが,流行歌から歌謡曲へと変ったころ,歌謡曲へ受け継がれたものが最も多いのが藤山の唄ではないかと思う。私がこのように感じるのはNHKの紅白の影響が大きいかもしれない。

 

古き花園(2016.12.10)

昭和14年,唄:詞:サトウハチロー,曲:早乙女光,唄:二葉あき子

 「古き花園には 思い出の数々よ」と始まる歌。

 松竹映画『春雷』の主題歌らしい。この映画については何も知らないが,出演者を調べてみると知っているのは田中絹代,小暮美千代,笠智衆しかいない。

 詞に使われている言葉には時代を感じる。曲には懐かしさを感じる。戦後にもこのような雰囲気の流行歌は少なからずあったように思う。

 

兵隊さんよありがたう(2016.7.6)

昭和14年,詞:橋本善三郎,曲:佐々木すぐる

 「肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは」と始まる歌。

 朝日新聞の公募で佳作に選ばれた歌。このとき一席に選ばれたのは『父よあなたは強かった』だ。

 今の時代に聴くからかもしれないが,「お国のために戦死した 兵隊さんのおかげです」と明るく唄われても違和感を持つ。おそらく,歌詞がいろんな幸せを列挙しているので曲自体も明るい曲になってしまったからだろう。「兵隊さんのおかげです」という言葉がとってつけたように感じる。兵隊の苦労を始め多くのことが無視されており,あまりにも無邪気過ぎる歌詞だと感じる。

 当時,マスコミはこのような歌をよい歌として選んでいたのだ。

 

ほんとにほんとに御苦労ね(2015.4.13)

昭和14年,詞:野村俊夫,曲:倉若晴生,唄:山中みゆき

 「やなぎ芽をふくクリークで 泥にまみれた軍服を」と始まる戦時歌謡。もちろん真面目な歌である。洗濯をし,乾パンを食べ,馬をいたわり,妻へ手紙を書く兵隊に対して「ほんとに ほんとに ご苦労ね」という歌だ。

 『いやじゃありませんか軍隊は』と始まる軍隊小唄1)はこの歌の替え歌である。後にザ・ドリフターズが『ほんとにほんとにご苦労さん』2)という替え歌を歌っている。

 実はこの歌はほとんど聴いたことが無い。替え歌の軍隊小唄は何度も聴いたのだが。

1)「軍隊小唄」(昭和19年?,詞:?,曲:倉若晴生)

2)「ほんとにほんとにご苦労さん」(昭和45年,詞:なかにし礼,曲:倉若晴生,唄:ザ・ドリフターズ)

 

港シャンソン(2016.10.13)

昭和14年,詞:内田つとむ,曲:上原げんと,唄:岡晴夫

 「赤いランタン夜霧に濡れて」と始まる歌。

 外国航路だろうか,出港前日の船乗りの歌。昭和30年代までは船乗りの歌が結構な数あった。

 同じ岡晴夫でも『紅いランタン ほのかにゆれる』と始まれば『上海の花売り娘』1)だ。

 それにしても『支那の夜』2)にも『柳の窓にランタンゆれて』とランタンが登場する。当時の中国ではランタンが印象的だったのだろうか。

1)「上海の花売娘」(昭和14年,詞:川俣栄一,曲:上原げんと,唄:岡晴夫)

2)「支那の夜」(昭和13年,詞:西條八十,曲:竹岡信幸,唄:渡辺はま子)

 

名月赤城山(2012.6.7)

昭和14年,詞:矢島寵児,曲:菊地博,唄:東海林太郎

 「男ごころに男が惚れて」と始まり,「澄んだ夜空のまんまる月に」というフレーズが印象的な歌。当時赤城山といえば国定忠治の物語だ。「月」や「雁」が歌詞に詠み込まれている。

 賭場に八州回りに踏み込まれ,本拠地である赤城山に戻ったがそこにも手が回り,信州に逃げる際の赤城山での子分との別れの場面での台詞での新国劇の台詞:(定八)「雁が鳴いて南の空に飛んで行かあ。」(忠治)「月も西山へ傾くようだ。」などは当時は誰もが知っていただろう。

 東海林太郎はいつも正装して直立不動で歌っていたイメージがあり,長ドスに三度笠という姿で唄うのは想像できない。この歌自体が登場人物ではなく,活動弁士が説明しているような歌だ。橋幸夫や氷川きよしには似合わない。

 

暁に祈る(2012.5.27)

昭和15年,詞:野村俊夫,曲:古関裕而,唄:伊藤久男

「あーあーぁあの顔でーあーの〜声でー」という戦時歌謡。映画の主題歌だそうだ。

詞は兵士としての建前を守りつつ,戦地の兵士の気持ちを言外にうまく表している。言葉通りに受け取るも良し,言外の意味を想像するも良しとする作詞の工夫があるようだ。メロディーも判りやすくて良い。古関裕而の「栄冠は君に輝く」のような曲は聴くと元気が出る。この「暁に祈る」も元気が出るメロディーだ。「栄冠は君に輝く」は元気が出るだけだがこの「暁に祈る」は歌詞付きで聴くといろんな想いが去来し涙も出る歌だ。

この曲とは全く無関係だが,戦後「暁に祈る事件」というのが有名になった。戦後,日本兵が収容されていた捕虜収容所で捕虜の管理を委任されていた日本人将校(憲兵曹長?)が,強制労働として与えられたノルマを果たせなかった日本兵をリンチして多数殺害したとされる事件だ。極寒の地で一晩中立ち木に縛りつけていたので明け方には頭が垂れ,祈っているように見えたことからこの名がある。しかし,この事件は最初に報じた新聞社の誤報だとか。とは言え,類似の事件は多数あったという元捕虜の証言もある。

誤報かどうか私には判断できないが,この新聞社は自社で考える「正義」を振りかざす傾向があるので,誇大報道である可能性はある。日本軍の将校・下士官にも兵を労わり助けた話がいくつもあるが,兵を虐待した話も多く,このような事件は起こるはずはないと言いきれないところが残念だ。戦時下のような異常時にはどのようなことも起こりうるので,戦争自体を起こさせないようにしなければならないが戦争反対を叫ぶだけは心もとない。政治の力と戦時下のような非常時にも国民の自覚に期待したい。

平成23年の津波も悲しい異常事態だったが,被災者が忍耐強く秩序を保ったことは賞賛に値する。残念ながら政治のほうは右往左往だった印象を受ける。

 

荒鷲の歌(2012.7.30)

昭和15年,詞:東辰三,曲:東辰三,唄:波岡惣一郎

 プロ野球楽天金鷲の歌ではなく軍歌のほうである。海軍航空隊の歌だろう。

「見たか銀翼」と始まるが,当時の主力は九六式陸上攻撃機,一部九五式陸上攻撃機が使われたのだろう。戦闘機は九六式艦上戦闘機であろうか。これらは全て全金属の単翼である。当時は木製布張りの複葉機から単葉機に移り変わる時代だった。銀翼というのはメタリックシルバーというところだろうか。1番は赤とんぼ(複葉機)を見下し,技術の高さを誇っているようだ。主として防衛力を歌っている。2番は南京が出てくる版と重慶が出てくる版とがある。爆弾を抱いて南京へ飛ぶような歌詞だが,あからさまに爆撃とはかかれていない。3番に「金波銀波の海超えて」とあるので海軍かと思っただけだ。

 ところでバナナの叩き売りで「金波銀波の海超えてやってきました門司港・・・」というのを聞いたことがあり,「金波銀波」はこの歌が出典かと思ったのだが,念のため調べてみたら「漢書」礼楽志にあるらしい1)。由緒正しい言葉だったのだ。

 3番には「正義の日本」とあるが軍歌である以上「正義」と書くのは当然であるし,攻撃に参加した搭乗員も正義の戦いと信じていたのだろう。もちろん,爆撃されたほうから見れば正義とは言えないだろう。何が正義かは時代と社会と立場で決まるものである。

 昭和15年は神武天皇即位紀元2600年ということでこの年制式採用された零式艦上戦闘機は重慶爆撃に参加している。ゼロ戦の性能は当時世界一で,搭乗員の錬度も高く,向かうところ敵なしだった。

 1) 長澤規矩也編:「新漢和中辞典」(三省堂,昭和42年)

 

お島千太郎旅唄(2012.9.24)

昭和15年,詞:西條八十,曲:奥山貞吉,唄:伊藤久男,二葉あき子

 「春のあらしに散りゆく花か」という歌。

 この歌自体は,持っている歌本に楽譜が載っていたので昔から知ってはいたが,「お島千太郎」については何も知らず,歌詞の意味も十分理解できなかったので,特別な思い入れ等はない歌だった。

 「お島千太郎」については今でもよく知らないのだが,調べてみると昭和40年の東映映画に「新蛇姫様 お島千太郎」というのがある。美空ひばりと林与一の映画だ。「お島千太郎」1)という歌まであるようだが知らなかった。こちらの歌は台詞入りで状況の理解が少しはしやすいが,元の映画の筋が複雑なので映画を観た人にしかわからず,自分にこのような状況が生じることは考えられないため共感は生じない。

 もちろん,自分には絶対に生じない状況の映画でもハラハラドキドキする場合はたくさんある。映画や小説のような状況に自分が置かれることは滅多にあるものではないのだが。昭和15年にも映画があったのだろうし,それを観た人ならこの歌を聞いて映画の情景が眼に浮かぶのだろう。

 とにかくこの曲は悪くはないのだが,歌詞はいまひとつ私の心を打たない。

1)      「お島千太郎」(詞:石本美由起,曲:古賀政男,唄:美空ひばり)

 

お玉杓子は蛙の子(2013.12.6)

昭和15年,詞:永田哲夫/東辰三,曲:ハワイ民謡,唄:灰田勝彦

 「お玉杓子は蛙の子 鯰の孫ではないわいナ」と始まる唄。

 二番は「でんでん虫」,三番は「蛸入道」,四番は「薄(ススキ)の穂」が出てくるほか,「アー イナ イー アマーイ アイナ カプ アーナラ」などと私には理解できない言葉が続く。

 いつどこで聴いたのか不明だが,『リパブリック賛歌』1)の『Glory, glory, hallelujah!』というコーラス部をベースにしたメロディーに載せたこの歌詞の歌を聴いたことがある。面白い歌詞だと思って聴いたのだが,灰田勝彦のハワイ民謡盤はずっと後になって聴いて,それまでは『リパブリック賛歌』のメロディーで唄うものだと思い込んでいた。

1)      The Battle Hymn of the Republic」(江戸時代末期,詞:Julia Ward Howe,曲:William Step

 

加藤隼戦闘隊(2014.12.7)

昭和15年,詞:田中林平/朝日六郎,曲:原田喜一/岡野正幸

 「エンジンの音轟々と 隼は征く雲の果て」と始まる歌。

 この歌は陸軍の戦闘機「隼」を歌ったものだと思っていた。ところがWikipediaによるとこの歌が先にあり,新鋭機に「隼」と名付けたらしい。紀元2600年(昭和15年)に海軍が制式戦闘機として採用したのが零式戦闘機である。この年,陸軍飛行第64戦隊第1中隊(隊長:丸田文雄中尉)の部隊歌として作られたのがこの歌らしい。当然隊長の名は加藤ではないし,戦闘機名の「隼」ではなかった。「隼」は戦闘機の比喩だったのだ。紀元2601年(昭和16年)に陸軍が制式戦闘機として採用したのが一式戦闘機である。一式戦闘機は第64戦隊にも配備され対英米戦の緒戦であるマレー作戦で活躍したことを受け昭和17年に陸軍航空本部は一式戦闘機の愛称を「隼」と命名した。

 作詞者・作曲者に関しては見る資料ごとに異なる記述がある。ある歌集には作詞:加藤部隊,作曲:陸軍軍楽隊とある。別の歌集には作詞:丸田文雄,作曲:森屋五郎とある。Wikipediaでは第64戦隊第1中隊(通称丸田部隊)の田中林平准尉の発案で部隊歌を作ることになり歌詞を公募し田中林平准尉と旭(朝日?)六郎中尉の合作が選ばれた。作曲は丸田隊長が南支那方面軍軍楽隊の守屋五郎隊長に依頼した。曲は長調の勇壮な曲だが、丸田隊長は4番の調子を変えることを希望し,この希望を受けて岡野正幸軍曹が部隊の犠牲者を忍ぶ4番のメロディーを短調で作った。この歌が披露されると第64戦隊全体に支持され,中隊の歌から戦隊の歌へと昇格した。加藤建夫はこの戦隊の4代目の戦隊長である。昭和16年に戦隊長として着任するとともに第64戦隊に一式戦闘機が配備されたのだ。加藤は昭和17年戦死(戦死後2階級特進して少将になる)したが,その後9代目の戦隊長まで一貫して「加藤隼戦闘隊」を名乗り続けている。

 成立過程を知って,これまで感じていた疑問が解けた。歌詞に「胸に描きし赤鷲の」とあるのが不思議だったのだ。私なら「隼」を書くと思ったのだ。5番の歌詞も「世界に誇る荒鷲の」となっていて,なぜ隼ではないのかと不思議だった。この曲ができた時にはまだ「隼」と呼ばれる戦闘機はなかった。

 

落葉松(2016.5.11)

昭和15年,詞:北原白秋,曲:井上武士

 「からまつの林を過ぎて からまつをしみじみと見き」と始まる歌。

 最近はこのような林の中を歩いたことがない。子供の頃は,林ではないが,旧街道1)の松並木が,新しい道の開通で寂れてしまった場所があった。

『コスモス街道』2)ではコスモス街道の側にはからまつ林があったようだが,私が知っていた旧街道の松並木は松は松だが落葉松ではない。

落葉松の実物は記憶にない。落葉松林をインターネットの画像で見ると私の記憶の松並木とは全く異なる。

落葉松林を歩けば「世の中よあわれなりけり 常なけどうれしかりけり」などという気持ちになるのだろうか。恐らく私が歩いたときのような子供なら,たとえ落葉松林でもそのようなことは感じなかっただろう。年齢とそのときの心の有り様で共感できるかもしれない歌である。

1)曲里の松並木:北九州市八幡区。昭和46年市指定史跡。旧長崎街道の一部。

2)「コスモス街道」(昭和52年,詞:竜真知子,曲:都倉俊一,唄:狩人)

 

紀元2600(2014.1.10)

昭和15年,詞:増田好生,曲:森義八郎

 「金鵄輝く日本の榮ある光身にうけて」と始まる歌。

 曲も詞も公募の歌で,ある意味では皇国史観全開の歌である。近世の建国なら,種々の記録が残っているだろうが,建国の歴史が古過ぎ,特定の年月に建国を決めることができないので神話上の年月を採用したという事情は理解できる。「紀元は2600年」というのも神話ということだ。科学的根拠が弱いという批判はあるかもしれないが,1000年も前から伝承されてきた神話を基に決めることは,何も根拠のない日をいい加減に選んで決めるよりもはるかに良い。国威を発揚しようという詞も,基本的には悪くない。

「正義凛たる旗の下 明朗亜細亜うち建てん」などという箇所は,アジアに対して悪意を持っているようには思えないが,小さな親切おおきなお世話ということもあるので,現代的感覚からは最適な言葉とは言い難い。自分の正義が相手にとっても正義であるとは限らないことは当時も当然のことだったのだろうが,それに気付くには世界に関する情報が不足していたのであろう。当時としては良い歌ということで多くの公募から選ばれたのであろうが,現在では時代錯誤と言われても仕方がない歌である。

 

燦めく星座(2013.9.6)

昭和15年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:灰田勝彦

 「男純情の愛の星の色」と始まる歌。

 この歌については「金の星」は陸軍の象徴であることから陸軍からクレームが付けられたと聞いたことが,恐らく誤って印象に残り,長い間陸軍の歌だと誤解していた。「燃える希望だ憧れだ煌めく金の星」というのは陸軍に対する憧れをうたったものと,歌詞を十分吟味することなく誤解していたのだ。

 陸軍が問題にした箇所は「金の星」ではなく「愛の星」の箇所だったらしい。クレームを受けての改訂版では「愛の星の色」→「清い星の色」,「春を呼んでは夢見てはうれしく輝くよ」→「若い兵士の喜びを讃えて輝くよ」と改定,二番は更に大きく改定されており,元の歌詞が残った箇所も「生きる命は一筋に」→「国に捧げて一筋に」などとなっているが「金の星」の箇所は元の歌詞どおり残されている。私が昔聞いたのは,この改訂版だったのかもしれない。

リアルタイムで聴いたわけではないので以前は『男の純情』1)とよく混同していた。二つの歌の詞が似ていると感じ,混同することがあったのだ。

今回,念のため「煌めく星座」について調べてみて,これが高峰秀子の『秀子の応援団長』という野球映画の挿入歌であることを初めて知った。その後は「思い込んだら命がけ」という箇所などから『ゆけゆけ飛雄馬』2)を連想してしまう。

野球少年(青年?)の歌として聴くなら,灰田の唄は爽やか過ぎて汗臭さが感じられない。若い頃の高峰秀子には清潔なほうが合っていたのかもしれない。

1)      「男の純情」(昭和11年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:藤山一郎)

2)      「ゆけゆけ飛雄馬」(昭和43年,詞:東京ムービー企画部,曲:渡辺岳夫,唄:アンサンブル・ボッカ)日本テレビ系テレビアニメ「巨人の星」主題歌。でだしが「思い込んだら試練の道を」である。昭和52年には「新・巨人の星」が放映され,主題歌は「行け行け飛雄馬」と表示が改定されると共に歌手もささきいさおに替わった。

 

月月火水木金金(2012.3.25)

昭和15年,詞:高橋俊策,曲:江口夜詩

「朝だ夜明けだ潮の息吹き」で始まる歌。「海の男の艦隊勤務月月火水木金金」なので海軍の歌。軍歌の一つだろうが,歌詞には「明日の戦さ」と言う言葉以外に直接的な戦闘に関する単語は現れず,1週間休みなしに訓練に明け暮れているたくましい男の歌になっている。

この年は皇紀2600年である。神武天皇の即位から2600年ということだ。キリスト紀元より660年古いことになっている。この年に疑いがあるなどど論じることは,1週間でこの世界をつくることができないことの証明を試みるようなものである。

この年,海軍が新しい艦上戦闘機を採用した。名称には採用年度をつけることになっているので紀元2600年の00から,零式艦上戦闘機と呼ばれる。いわゆるゼロ戦である。

ゼロ戦は当時の戦闘機では世界一だったと思う。格闘性能,航続距離,攻撃力など確かに世界一だったが,防御力は弱かった。エンジン性能は最高とまではいかなかったが,機体を軽くし,空気抵抗を減らす工夫が随所になされているほか,操縦索にも工夫1)がなされていて格闘性能が極めて高かった。攻撃力では,当時の戦闘機が機関銃を装備していたのに対し,ゼロ戦には機関砲2)の装備もあった。搭載弾数は少なかったが,命中すれば威力は大きかった。月月火水木金金の訓練の成果もあり,当時は天下無敵の戦闘機だった。

重力を利用することができる急降下性能に関してはやや弱点があったようだ。軽くするために機体強度に難点があり,全加速で高高度から急降下すると空中分解の危険があったようである。

最も弱かったのは防弾性能であろう。被弾時のパイロットの保護,燃料タンクの保護,消火設備などが十分とはいえなかった。

また,超軽量化のため,製造工程数が多く,大量生産にもやや難があった。

そういえば,バブルの時代の少し前,モーレツ社員という言葉があった。月月火水木金金と休みなく働く,他国からワーカーホリックといわれたような企業戦士のことだ。

ゼロ戦の防御性の改善が遅れたのは,被弾ということを想定することが困難な環境にあったのだろう。事故(あるいは津波)ということを想定することが困難な環境にあって,事故対策の検討をほとんどしていなかった原発と同じ構造のように思われる。

50年以上経ち,間に敗戦を経験していながら,日本人はあまり変っていないようだ。もっとも,最近の非正規雇用ではモーレツに働く意欲は出ないだろうし,働こうにも働ける環境にないかもしれない。ゼロ戦の時代は国力不足で防御性能まで手が回らなかったということがあるかもしれない。しかし,原発の時代には事故対策を検討する余力はあったはずだが。

1)操縦者が操縦桿を動かすと操縦索で引っ張られて舵が動く。以前の飛行機では操縦桿の移動と舵の動きは比例しているのだが,舵の効き具合は舵の動きだけでは決まらず航空機の飛行速度にも依存する。高速になるほど舵の効きがよくなる。操縦索の剛性を減じ,操縦桿の移動が同じなら,舵にかかる力が強い高速飛行時には(舵の効きが良いので)舵の動きを小さくし,舵にかかる力が弱い,低速飛行時には(舵の効きが悪いので)舵の動きを大きくするようになっていた。昇降舵に使われていた。

2)銃弾は金属の塊。砲弾は内部に火薬が詰まっていて当たれば爆発する弾。

 

湖畔の宿(2011.10.17)

昭和15年,詞:佐藤惣之助,曲:服部良一,唄:高峰三枝子

 「山の寂しい湖に」で始まり,歌詞は寂しさを感じさせるのだが曲・歌い方とも後の演歌のような雰囲気はない。2番と3番の間にやや長い台詞があるが,これはないほうが私は好きだ。高峰三枝子の台詞も棒読みで女優とは思えない。

 高峰三枝子の映画は見ていないし,「三時のあなた」のイメージしかない。私とは30歳ほど年の差があり,・・・。

 「昨日の夢と焚き捨てる古い手紙のうすけむり」というのには魅力を感じる。今はダイオキシンとかでこんなこともなかなかできない。シュレッダーにかけるのではあまりにも風情がない。「ひとり占うトランプの青いクィーンの寂しさよ」というのも抑制された心情を歌っていて,そう考えるとメロディーも悪くない。戦時下であまり暗い曲は作ることができなかったのかもしれない。

 

蘇州夜曲(2013.10.24)

昭和15年,詞:西條八十,曲:服部良一,唄:霧島昇/渡辺はま子

「君がみ胸に抱かれて聞くは」と始まる歌。

『シナの夜』が映画化されたときの主題歌。中国を感じさせるメロディーである。李香蘭の唄もあるようで,私が聴いたのはもっと後だから,誰の唄を聴いたのか判らない。「接吻しよか」などとあるが,前後を入れると「髪に飾ろか接吻しよか 君が手折りし桃の花」となる。そういうことだ。それにしても,当時は「接吻」という言葉が一般的だったのだろうが,歌詞にこのような言葉を使った歌を他には知らない。公には口にしない言葉だったのだろう。もちろん歌のなかでは「くちづけ」と訓読みされている。

戦時中の中国を歌った歌は,戦後の中国では禁止されたり解禁されたりしているようだ。歌自体に中国に対する悪意があるとは思えないが,そのようなことを論じてもしかたがない。軍歌などと同様,聞きたくない人に聞かせないのはマナーであろう。しかし,このような歌は消滅させるべきだという意見には賛成しかねる。

 

誰か故郷を想わざる(2012.1.7)

昭和15年,詞:西条八十,曲:古賀政男,唄:霧島昇

 「花摘む野辺に日は落ちて」で始まる曲。望郷の歌である。詞と曲の組み合わせが素晴らしい。口には出さないが「苦しいこと・悲しいこと」がある中,昔のこと・故郷のことを想い出し,という雰囲気の詞に,「頑張るぞ」と言葉に出さず態度で示す曲がついている。

 昭和の時代,このような故郷があったから頑張れたのではないか。「花摘む野辺」や「小川の岸」はいたるところにあった。「幼馴染」もいた。都会に出て苦しい思いをしたとき,故郷のことを思って力を取り戻していたのではないだろうか。

 

隣組(2013.5.18)

昭和15年,詞:岡本一平,曲:飯田信夫,唄:徳山l

 「とんとんとんからりと隣組」という歌。

 昭和15年に内務省から「部落會町内會等調整整備要綱」というのが出され,銃後の守りを固めるために制度化されたのが隣組であり,回覧などによる連絡のほか,供出・配給等のとりまとめ,防空など種々の活動を行っていたが昭和22年,GHQにより廃止された。思想等の相互監視の役割も果たしていたかもしれない。江戸時代の五人組制度と似ているようで違いが私には良く解らない。廃止されたとはいえ,現代でも自治会とか町内会とかがあり,私が住んでいる地域も組制度だ。行政とは組長−自治会長−連合自治会長という形で市などへ繋がっている。

 現代とこの歌との大きな違いは「格子を開ければ顔なじみ」というところだろうか。家の近所で,格子戸がある家はかなり少ない。ほとんどの玄関が扉である。また,一寸開けたくらいでは簡単に家中が見えるわけではない。自治会で各種行事があるし,ゴミ当番とか町内清掃などの共同作業もあるが,これらの自治会活動に参加する人はほとんどの家で決まっている。たとえば,奥さんが出てくる家は常に奥さんの出席で,他の家族の顔を見ることがほとんど無い。なかなか顔なじみというわけにはいかない。昔は,先祖代々同じ場所に住んでいて隣近所は幼馴染ばかりだったのかもしれない。

 回覧板は今でも回している。他の家のことを良くは知らないが,現在,隣近所と味噌醤油の貸し借りは少ないだろう。ちょっとコンビニやスーパーに行けば何とかなる。

 そういえば,一時米国で暮らしたが,この隣組制度のようなものは無かった。あったのだが無視されたのかも知れないが。このような制度は日本独特の制度なのかもしれない。

 

新妻鏡(2013.3.15)

昭和15年,詞:佐藤惣之助,曲:古賀政男,唄:二葉あき子/霧島昇

 「僕がこころの良人なら君はこころの花の妻」と始まる歌。映画「新妻鏡」の主題歌である。この映画の主題歌はもうひとつあり,それが『目ン無い千鳥』1)である。

 この映画に関しては粗筋を読んだことがあるだけだが,そうしばしばあるような状況ではない設定でのメロドラマということだろうか。話の展開はハラハラ・ドキドキかもしれないが,このような設定は私には感情移入できない。映画の粗筋を知らいうちはこの歌詞をいろいろ自由に解釈できて,「たとえこの眼はみえずとも」というのは『愛と死を見つめて』のような話だろうか,あるいは『壺坂霊験記』のような話だろうかと思い巡らしていたが,知ってしまった後はそのインパクトが強すぎて他にイメージを膨らませることができなくなってしまった。

1)      「目ン無い千鳥」(昭和15年,詞:サトウ・ハチロー,曲:古賀政男,唄:霧島昇/松原操)

 

目ン無い千鳥(2012.11.20)

昭和15年,詞:サトウ・ハチロー,曲:古賀政男,唄:霧島昇/松原操

ミス・コロムビアという覆面歌手として昭和8年にデビューした松原操は昭和14年に霧島昇との結婚により本名は坂本操となった。内務省からカタカナ芸名禁止の指令によりミス・コロムビアから本名(?)の松原操で唄った歌である。

「目ン無い千鳥の高島田」という歌。映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」のB面曲。「新妻鏡」は事故で失明した富豪の娘が騙され・・・という話だ。

せっかくの高島田も「見えぬ鏡」である。その上この結婚相手は金目当てであった。

この年はドイツがヨーロッパで向かうところ敵なしで快進撃を続けており,イタリアも参戦した。勝ち馬に乗ろうというのであろうか日独伊三国軍事同盟が成立した。中国では汪兆銘の親日南京政府ができる。

この年は皇紀2600年で,この年に正式採用された海軍の艦上戦闘機が零式艦上戦闘機である。米国のルーズベルト大統領は科学者動員令を発令,3万人の科学者をカーネギー研究所に集め軍事技術を集中的に開発し始めた。

日本ではこのゼロ戦の後継機の開発が遅れた。ゼロ戦の大成功で慢心してしまったのだろうか,技術的・経済的体力が足りなかったのだろうか。

 

森の小径(2013.7.17)

昭和15年,詞:佐伯孝夫,曲:灰田晴彦,唄:灰田勝彦

 「ほろほろこぼれる白い花を」と始まる歌。

 この歌は大学に入学して間もない頃,同級生から教えてもらった。彼はこの歌を森重久弥のように唄った。感じたのは「白い花の咲く頃」1)と同じ雰囲気だ。直ぐに覚えた。

 その後,かなり時間が経ってから灰田勝彦の唄を聴いた。灰田勝彦は,彼らしくこの歌を唄っており,私がこの歌に対して持っていたイメージを大きく変えた。

 歌詞は重いものではないが,私としては灰田のように軽く唄いたくはない。もう少し感傷的に唄いたい。

 まあ,どのように唄おうと,良い歌(私が好きな部類の歌)であることは間違いない。

1)      「白い花の咲く頃」(昭和25年,詞:寺尾智沙,曲:田村しげる,唄:岡本敦郎)

 

りんごのひとりごと(2014.4.6)

昭和15年,詞:武内俊子,曲:河村光陽

 「わたしはまっかなリンゴです」と始まる歌。「リンゴかわいいひとりごと」と終わる。

 そういえば子供の頃はほとんどが赤いリンゴだった。青リンゴはある程度大きくなってから見たような気がする。もちろんブルーのリンゴではない。黄緑色というのであろうか。黄色いリンゴもあった気がするが,時代は良く覚えていない。なんと言っても子供の頃の主役は国光か紅玉だった。印度林檎もあったのだが高価だった。

 私が子供の頃は毎年,親戚から,木箱で林檎を送ってきていた。所謂林檎箱でだ。この林檎箱では,別な親戚から柿も送ってきていた。林檎箱は比較的よく見る箱だったのだが,最近見たことがない。私が大学生になった頃はこの林檎箱を机代わりにつかっていた友人がいたといえば大きさが想像できるだろうか。机と言っても椅子に座って使う机ではなく,正座して使う机だ。

 現在では富士などの大きな林檎が普通だが,80年代の半ばにニューヨークで勤務していたときに彼の地で見た林檎は,ビッグアップルというニューヨークの別名にもかかわらず,紅玉サイズの小さな林檎ばかりだった。

 何と言っても,私が子供の頃の果物といえばりんごが最もポピュラーなものだったような気がする。みかんや夏みかんも珍しくはなかった。八朔もあったかもしれないが少し時代が新しい気がする。オレンジはなかった。いちじくやびわ,あるいは柿などの木がある家も珍しくはなかった。梨も珍しくはないが長十郎が多く,二十世紀というのもあったがすこし高かった。葡萄はいわゆる甲州葡萄だったように思う。デラウェアなどはみたことがなかった。バナナはあったが高価で,パイナップルは缶詰しか見たことがなかった。キウイなどは聞いたこともなかった。西瓜はポピュラーだった。メロンはあったが極めて高価だったように思う。安いメロンはなかった。瓜はあったが,これをメロンとは呼ばなかった。プリンスメロンを初めて見た時には,これは瓜ではないかと思ったものだ。

 

別れ舟(2013.1.17)

昭和15年,詞:清水みのる,曲:倉若晴生,唄:田端義夫

 「名残りつきない果てしない」と始まる唄。船で出かける男の歌である。舟とあるので船より小さい気がするが。

後に残す「君」というのがどのような「君」か不明だが,印象は年頃の女性だ。自分は「夢は汐路にすてて行く」と強がりを言っているが,未練を感じている様子が滲み出ている。「時節の来る迄は故郷で便りを待つがよい」などというべきではないだろう。端々から滲み出ている雰囲気から「時節」は来そうにない。待っているうちに年老いてしまうではないか。『おれなど忘れてしあわせつかめ』1)というべきではないだろうか。

 内地ではどうにもならず,大陸か南洋へ行って一旗揚げようという雰囲気が出ているが,このようにウェットな性格では結局成功はしないのではないか。

 この年はドイツが快進撃を続けているといってよいだろう。日本も戦時色が濃くなり,電気の使用制限(暖房用電熱器,家庭用電気冷蔵庫などの禁止)が始まった。とはいえ,家庭用電気冷蔵庫など普通の家にはなかったが。名古屋ではマッチが配給になり,高知から米が配給になり,これが次第に広まっていく。東京では食堂・料理屋での米食が禁止された。修学旅行も禁止され,・・・『贅沢は敵だ』ということになった。

1)      「無錫旅情」(昭和61年,詞:中山大三郎,曲:中山大三郎,唄:尾形大作)

 

You Are My Sunshine<ユー・アー・マイ・サンシャイン>(2015.11.4)

昭和15

 「You are my sunshine.  My only sunshine.  You make me happy when skies are gray.

と始まる歌。

 米国映画の挿入歌らしい。昭和37年にはレイ・チャールズが唄ってヒットしたらしいので私もその頃聞いたのかも知れない。

 安西マリアの『涙の太陽』1)ではどうも自分を太陽のように燃えていると表現しているようだということに気付いたとき,違和感を持った。恋愛相手を太陽に例えるほうが普通ではないかと感じたのだ。恋愛相手を太陽に例えた歌があったはずだと考え,最初に思い出した歌がこの歌だ。

1)「涙の太陽」(昭和48年,詞:湯川れい子,曲:中島安敏,唄:安西マリア)