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昭和56

愛のコリーダ,悪女,あした天気になれ,あなたひとすじ,E気持,ウェディング・ベル,A面で恋をして,エスピオナージ,大阪ごころ,お嫁サンバ,風立ちぬ,羯徒毘璐薫狼流,悲しみ2(too)ヤング,悲しみは雪のように,哀しみ本線日本海,完全無欠のロックンローラー,キッスは目にして,キミに決定,君は天然色,ギンギラギンにさりげなく,グッドラックLOVE,恋のぼんちシート,恋=Do!,心の色,琥珀色の日々,SOMEDAY,サヨナラ模様,サンセット・メモリー,シティ・コネクション,少女人形,シルエット・ロマンス,白いパラソル,シンデレラ・サマー,ジェームズ・ディーンのように,すずめ,スニーカーぶるーす,スマイル・フォー・ミー〔止まらないの〕,すみれ色の涙,スローなブギにしてくれ(I want you),セーラー服と機関銃,センチメンタル・ジャーニー,抱かれたいもう一度(LOVE THAT WAS LOST),チェリーブラッサム,チャンス,ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校編)DESIRE,鳥の詩,長い夜,渚のラブレター,夏の扉,眠れぬ夜[たとえ君が],ハイスクールララバイ,函館本線,ハリケーン,春咲小紅,ハロー・グッバイ,フィジカル<Physical>,ふたりの大阪,ブギ浮ぎI LOVE YOU,ブルージーンズメモリー,鳳仙花,望郷酒場,街角トワイライト,まちぶせ,守ってあげたい,めぐり逢いふたたび,メモリーグラス,もしもピアノが弾けたなら,夢の途中,ヨコハマ・チーク,ルビーの指輪,RomanceLook at me],ロンリー・ハート,Physical

 

愛のコリーダ(2019.6.27)

昭和56年,詞:ケニー・ヤング,曲:チャズ・ジャンケル,唄:Quincy Jones

 「I hold you, I touch you」と始まる歌。

 タイトルは昭和51年の日仏合作映画『愛のコリーダ(L’Empire des sens)』の日本語タイトルから取られているそうだ。

 元々,英語のリスニングは一生懸命聞き取ろうとしてようやく一部が聞きとれるくらいだからボーッと聞いていると何を言っているのか全く分からないのだが,この歌はボーッと聞いていても「愛のコリーダ」を何度か連呼しているのが解る。どのような文脈でこの言葉が出てくるのか解らないので歌詞を見ると,「Ai no corrida」となっている。「corrida」はスペイン語で「闘牛」と意味だそうだ。「Ai no」は日本語らしい。ここだけ解っても全体が解ったことにはならないが,詳しく知りたいと思うほどこの曲に魅かれたわけではない。

 ところで,上に英語のリスニングができないと書いたが,ある時期以降,周囲からは私が英会話がそれなりに出来ると思われていたようだ。恐らく,私が米国で働いていたことがあることを知っていて,外国人と会話しているのを見てそのように思ったのだろう。

 実際の私は,専門の話ならば思うことは言える。これは論文を書くのがほとんど英語だから当然だろう。しかし,聞くほうになると専門の話でも怪しくなる。但し,聞き取れなくても専門の知識で聞き取れなかった箇所を補い,必要に応じて質問することもできる。しかし,専門外の,それも初めてのことに関しては一気にレベルが下がる。流暢に?会話しているように見えるのは話題を自分の得意分野に移す技術(解らないことはたとえ聞かれても無視するという強心臓)とテレパシー能力が向上したからだろう。会話の最終相手がどう言ったのかわからなくても,こんな意味のことだろうという想像力が発達したのだ。想像が間違っていても,重要な誤りならば会話の続きで修正されていく。ただ,想像した意味が正しいときでも,どのように話したかは聞き取れていないので,Repeat after me.といわれても繰り返すことはできない。

 英語を聞くようになったのは国際会議に出席するようになってからだ。国際会議といっても研究発表会で,講演者が研究結果を発表しそれに関して若干の質疑がある。最初の頃は,それほど論文は書いていなかったが,英語の論文はそれなりに読んでおり,専門の英単語の知識はあったと思う。会議では予稿集というのがあり,講演内容の梗概(要旨と表現されている場合などもある。名前は違ってもその意味の違いを考えずに単純に要約を書いている場合も多い。)会議の前日には予稿集を読み,当日の質問を考えるという予習をした。しかし,最初の頃は講演はほとんど聞き取れず,スライドを一生懸命見て,こんなことを話しているんだろうと想像していた。当時の私は講演のごく断片だけを聴いていた。例えばcmがセンチミーターズと発音されるのを聞いて,複数のsをきちんと発音するんだと驚いたり,ゲルマニウムはジャーメニウムというのかなどの物質名,1017は何というんだろうとかの数式の読み方などに心を奪われていた。また,multiがマルタイと発音されるなどiをアイと発音する場合があるとは聞き知っていたが,実際にそのような発音を聞くと興奮した。

 話すほうではth, s, f, h, v, b, r, lなどの発音不良で通じなかったことは何度もあるが,発音よりもアクセントの間違いのほうが影響が大きいと感じた。

 このような時期を経て,ようやく話題を選べればある程度会話ができるようになった。それでもnative speakerよりは外国語として英語を話している者とのほうが会話しやすい。

 

悪女(2013.2.19)

昭和56年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき

 「マリコの部屋へ電話をかけて」と始まる歌。振られ女の歌だと思うが正確にはわからない。詞中の「あのこ」は「マリコ」であることは間違いないが,「あなた」がやや不明確だ。素直に解釈すれば「あなた」は何らかの関係がある男性,「あの娘」はその男性がこっそり付き合っている女性ということであろう。悪女の振りをして,あなたが私から離れ「あの娘」のところに行ってしまうのを待っている。私は涙を流しながら。というところだろうか。「帰れるあてのあなたの部屋も」とあるので何らかの関係と書いたが,同棲中ということであろうか。

 「男と遊んでる芝居続けてきたけれど」というのは,男が自分から離れていきやすいようにという彼女の優しさなのか,やせ我慢なのか,見栄をはっているのだろうか。中島みゆきの他の歌から想像するとやせ我慢かと思うのだが,歌詞から私が受ける感じは見栄だ。

 私にとっては難解すぎる歌である。

 それにしても,中島みゆきの詞に出てくる男性1)は皆なぜこんなに優しいのだろう。ひょっとしたら全部同一人物かもしれない。優しくされているのに,彼の心は自分にはないということを感じ取ってしまう。しかし,彼の心が自分から離れてしまったというのは自分の思い込みではないのか。単に「絶望的観測をするのが癖です」2)というだけではないのか。

1)      例えば「しあわせ芝居」(昭和52年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:桜田淳子)

2)      「あした天気になれ」(昭和56年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき)

 

あした天気になれ(2013.8.19)

昭和56年,詞:中島みゆき,曲,中島みゆき,唄:中島みゆき

 「なんにつけ一応は絶望的観測をするのが癖です」と始まる歌。「宝くじを買うときは当たるはずなどないと言いながら」過去に一等当選がでた店で買うなどと歌っている。

 この曲はアルバム『臨月』に収録され,『臨月』発売後同月内にシングルカットされた。

このアルバム収録曲では『雪』だけが亡き父親を歌った歌らしく,他と雰囲気が違って純粋に悲しみが感じられるが,他の歌からは全て同じ雰囲気を感じる。このような歌にコメントすると,自分の内に隠した心がさらけ出されるようでうかつにコメントできない恐さがある歌である。恐いもの見たさでまた聴いてみたくなる。

 

あなたひとすじ(2016.9.28)

昭和56年,詞:たかたかし,曲:弦哲也,唄:川中美幸

 「あなたのそばで暮らせるならば なにもいらない欲しくない」と始まる歌。

 レコードやカセットテープを持っていたら,迷わず演歌と書いた棚に並べる歌。

 私は唄わないが,唄いやすそうな歌。ということは私好みということだ。耳を欹てる詞はないが,耳障りな詞もない,気楽に聞ける歌だ。

 

E気持(2014.10.9)

昭和56年,詞:阿木耀子,曲:筒美京平,唄:沖田浩之

 「急に綺麗になったアノコに」と始まる歌。

 アイドルが唄った歌。

 阿木は私より少しだけ年上だが,彼女の感性はこれほど進んでいたのかと驚く。というか私が育ってきた時代の感性のままに留まっているのに対し,彼女は時代と共にその感性を変化させているのだろう。

 私が唄おうと思わない歌だし,意欲を持って聴きたいと思う歌でもない。曲自体は流れていても気にならないどころか,気分が乗って来そうな曲なのだが。

 

ウェディング・ベル(2012.5.13)

昭和56年,詞:古田喜昭,曲:古田喜昭,唄:シュガー

「ウェディング・ベル からかわないでよ」から始まるといってよいのだろうか。歌としては「オルガンの音が静かに流れて(始まる始まる)」が始まりだろうか。

結婚式に出席した女性の歌である。新郎から招待状が送られてきて出席したのだが,結婚相手としてなぜ私を選ばなかったのかと怒りをたぎらせている歌。新婦とは初顔合わせらしく,以前からの知り合いではないようなのでまだ救いがあるのかも知れない。

最後は「くたばっちまえ アーメン」と終わる。

演歌の世界なら,捨てられたことを悲しむか,自分の馬鹿さを嘆くか,耐える女を歌うかのいずれかだろう。呪いの歌というのは,作られてもヒットしそうにない。

この歌では怒りをあらわにしているが,女性が主張し始めたということなのだろうか。メロディーというかリズムというか,曲が軽快で冗談っぽく怨みを述べているので世間に受け入れられたのだろう。

それにしても「お化粧する娘はきらいだなんて」言われて,何を誤解したのだろう。そういえば「爪も染めずにいてくれと」1)とかいう歌もあった。この歌の主人公も,もっと自分を磨けばそのうちに良い人にめぐり合えるだろう。

私の友人が次々と結婚していった当時は神前結婚が多かったように思う。従って披露宴には何度も出席したが,挙式そのものに出席した回数は少ない。教会での結婚式は友人も参列するが,式での座席は指定されたことがない。歌詞にある「一番後ろの席に・・・」というのは,自分でその席を選んだのだろう。

教会での結婚式というとダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスを思い出す2)。「エレーン」と叫ぶダスティン・ホフマンを。

1)山口洋子:「うそ」(昭和49年,曲:平尾昌晃,唄:中条きよし)

2)「卒業」(昭和42年,米映画。日本公開昭和43年)ラスト直前のシーン。

 

A面で恋をして(2015.7.25)

昭和56年,詞:松本隆,曲:大瀧詠一,唄:ナイアガラ・トライアングル

 「A面で恋をして ウインクのマシンガンで ぼくの胸打ち抜いてよ」と始まる歌。

 世代が違うとしか言いようがない。私などから見ると新人類の歌詞だ。お気楽・軽薄に感じる。更にところどころに「a hey」とか「Oh, Baby」などが挿入されているのが軽薄さを倍増させていると感じる。

 

エスピオナージ(2018.1.21)

昭和56年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:アリス

 「Fade Away 足首が冷たくこだまして 凍りつく落日に別離の口づけ」と始まる歌。

 アリスはフォーク・グループと位置付けられているようだが,これはロックだろう。

 歌詞には「拳銃を胸に握りしめたまま」とか「いつかは異国の土になる」などとある。タイトルのエスピオナージは辞書にはスパイ行為というような意味が載っているが,ここでは秘密諜報員というような意味で使われているようだ。

 

お嫁サンバ(2013.6.24)

昭和56年,詞:三浦徳子,曲:小杉保夫,唄:郷ひろみ

 「恋する女はきれいさ」と始まる歌。

 もともと郷ひろみの歌はわざわざ聴こうとは思わなかったし,自分で唄うこともなかった。しかし,この歌はわざわざ聴くことはなかったにもかかわらず,「ちょっとちょっと 待ってよちょっと」とか「1・2・3バ 2・2・3バ お嫁 お嫁 お嫁サンバ」という箇所など強く印象に残っている。

 郷ひろみ自身はこの歌のような路線は卒業していきたいと考えていたかも知らないが,本人がどのように思おうと,私から見ればこのような歌こそが郷ひろみだと思う。

 

大阪ごころ(2017.1.31)

昭和56年,詞:秋田泰治,曲:聖川湧,唄:大月みやこ

 「泣けばあなたが帰るなら 涙涸れても悔いはない」と始まる歌。

 御堂筋,北新地,法善寺,難波が出てくるのが大阪ということなのだろう。

 歌詞に「雨」が登場するが,私が知っている大阪の歌には雨が登場する歌が多い1)ような気がする。

 昔,大阪出身の友人から,大阪に大月楽器とミヤコというレコード販売のライバル店があると聞いたことがある。正確な店の名前は間違っているかもしれないが,その名前を芸名にしたらしい。

1)「お百度こいさん」(昭和35年,詞:喜志邦三,曲:渡久地政信,唄:和田弘とマヒナスターズ),「大阪ろまん」(昭和41年,詞:石濱恒夫,曲:吉田正,唄:フランク永井),「雨の御堂筋」(昭和46年,詞:林春生,曲:ザ・ベンチャーす,唄:渚ゆう子),「ふたりの大阪」(昭和56年,詞:吉岡治,曲:市川昭介,唄:都はるみ/宮崎雅),「浪花恋しぐれ」(昭和58年,詞:たかたかし,曲:岡千秋,唄:都はるみ/岡千秋)と何曲か挙げてはみたが,大阪に雨が多いというより,涙などの縁語として登場しているようで,雨は長崎のほうが多いかもしれない。

 

風立ちぬ(2014.3.19)

昭和56年,詞:松本隆,曲:大瀧詠一,唄:松田聖子

 「風たちぬ 今は秋」と始まると言っていいのだろう。

 当時は仕事が忙しかったし,特に熱心に聴く歌番組も(時間が合わず)聴かなかった。松田聖子も好んで聴く歌手ではなかった。しかし松田はまだ昭和の香を色濃く残している。とくに高音部が良く聞こえるのがよい。「いーまあわああきぃー」の箇所や「今日から私は こころのたーびいびぃとー」というところなど,なかなか良いと感じる。

 詞は「風のインクで」などと理解できない箇所もある。「別れはひとつの旅立ちだから」というので何らかの別れの歌なのだろうということだけは何とか理解できる。どうも平成の歌によくあるように,歌詞は意味が限定されないほうが良いという詞のようだ。歌詞を理解しようとせず,声も楽器のひとつととして聴けば良い曲だ。

 

羯徒毘璐薫狼流(2018.9.22)

昭和56年,詞:翔,曲:Johnny,唄:横浜銀蠅

「真夏の夜にバリバリ かんばんなびかせバリバリ」と始まる歌。

タイトルは「かっとびロックンロール」。

 ロックンロールはキャデラックのオープンカーなどとセットだと思っていたのだが,これは「ライダーきどって」とあるのでバイクの歌のようだ。しかし,「地をはうマシン」とか「ハの字のスリック」などとあるのでシャコタン車のようでもある。「コンポも全開」ともあるし,2ケツバイクで大型ラジカセを担いでいるような感じとは少し違う。

 スピードを出しているような歌詞だが,ドライビングテクニックの描写からは何となく『頭文字D1)のような走り屋ではなく,大音量主体のグループではないかと想像してしまう。

 そういえば昭和55年頃,一時『なめ猫』が流行り,昭和56年には『なめんなよ又吉のかっとびアルバム』という写真集が出る程だった。

1)「頭文字D」(しげの秀一,週刊ヤングマガジン,平成9年〜平成25年,講談社)

 

悲しみ2(too)ヤング(2016.2.13)

昭和56年,詞:網倉一也,曲:網倉一也,唄:田原俊彦

 「こんなはずじゃなかったよね あの夏の日の約束は」と始まる歌。

 最初のこのフレーズの後はテンポアップで「浮かれ気分で砂浜」と続く。

 ところどころ英語が入っているが,この歌詞のような英語の入れ方は,私には軽薄に見える。また言葉「愛」の使い方も「愛」とは何かを深く考えた経験がある者の使い方とは思えない。田原の歌唱も含め,私にはtoo youngというよりchildishと感じられる。

 

悲しみは雪のように(2017.3.22)

昭和56年,詞:浜田省吾,曲:浜田省吾,唄:浜田省吾

 「君の肩に悲しみが 雪のように積もる夜には」と始まる歌。

 「誰もが愛する人の前を」「気付かずに通りすぎてく」と何度も繰り返される。

 曲は,私の身体に染み込んだ種々の旋律からは予想もつかない音が現れ,私にはとても唄えそうもない。しかし,万一この世代の人とカラオケに行く機会でもあれば,練習して唄ってみたいと思う歌。

 

哀しみ本線日本海(2016.10.28)

昭和56年,詞:荒木とよひさ,曲:浜圭介,唄:森昌子

 「何処へ帰るの 海鳥たちよ」と始まる歌。

 「もしも死んだら あなた あなた 泣いてくれますか」ということで,フォーク系ニューミュージック的に唄えそうにも思えるが,森の歌唱は演歌だ。もちろん,浜もそのつもりで書いているのだろう。

 詞も曲も作者が違うが,『越冬つばめ』1)と同じ雰囲気を感じる。

1)「越冬つばめ」(昭和58年,詞:石原信一,曲:篠原義彦,唄:森昌子)

 

完全無欠のロックンローラー(2014.11.21)

昭和56年,詞:高原茂仁,曲:高原茂仁,唄:アラジン

 「ナァ皆 オレってビッグ」とセリフから始まる。台詞は続き「よ〜し そのんとこヨロシク」とセリフが終わり,「朝も早よから髪の乱れをせっせとせっせと整える」と始まる歌。「Aちゃんになりすます」と矢沢永吉になりすましのそっくりさんを目指すのだろうか。「ツッパッテ ツッパッテ」というフレースなどが印象に残る。

 「昼は750ブッとばし」,「夜は夜な夜なディスコでDancin’」と歌っているが「ツイスト ジルバにサンバにドドンパ 秋田音頭です」となんでもアリで最後には「同じアホなら」と阿波踊りのフレーズまで入っている。

 このころ『なめ猫』が流行した。学ラン・ツッパリ・リーゼント・750・ロックンロールとと並べるとなんとなくイメージが重なるところがある。私にとってはリーゼントとロックンロールの関係くらいしか想像できず,他とは無関係だと思うのだが。

 ロックンロールとは何かを正確には知らないのだが,この曲が映画で流れていたらその映画に年老いたプレスリーのそっくりさんが出ていても違和感がないように感じる。

 

キッスは目にして(2013.10.7)

昭和56年,詞:阿木燿子,曲:Beethoven,唄:ザ・ヴィーナス

「罠罠罠に落ちそう」と始まる歌。

メロディーは,編曲はしてあるがベートーベンの『エリーゼのために』で,この旋律は「誘惑の恋私をさそう」というところから始まる。某化粧品キャンペーンイメージソングである。

『エリーゼのために』は,昔,ザ・ピーナッツが『情熱の花』というタイトルで唄っていた。昭和34年外国で編曲・作詞されて歌われていた歌を音羽たかしが訳したものだ。当時ザ・ヴィーナスについては何も知らなかったので始めて聞いたときにはザ・ピーナッツだと思ってしまった。『ピーナッツも引退したと聞いていたのに復帰したか,それにしても引退後,声がかなり変わったなァ』と思ってしまった。誤解したのは「罠罠罠に落ちそう」という箇所が『パヤパヤパヤ』1)と似ていると感じたからだと思う。

1)      「恋のフーガ」(昭和42年,詞:なかにし礼,曲:ずぎやまこういち,唄:ザ・ピーナッツ)

 

キミに決定(2019.4.7)

昭和56年,詞:宮下智,曲:宮下智,唄:田原俊彦

 「ねェ キミキミ サマーガール 恋の相手は お決まりですか?」と始まる歌。

 ファンにステージを観せるための曲だろう。

歌からは込められ思いは何も感じられず,歌詞にちりばめられている英語も含め,軽薄さだけだと感じる。

 ファンが良いというのであれば私には何も言うことはない。

 

君は天然色(2017.4.15)

昭和56年,詞:松本隆,詞:大瀧詠一,唄:大滝詠一

 「くちびるをつんと尖らせて」と始まる歌。

 松本の詞のなかでは解りやすい部類だろうが,やはり私の使う日本語とは異なるようで違和感を持つ箇所がところどころにある。詩人の感性なのかもしれないが,そのような箇所が気になって詞に感情移入できない。

 曲は私の体内を流れているメロディーとは異質だが,これはこれで在ってもよさそうな感じを受ける。新ジャンルの曲なのだろう。

 ずっと聴き続けていればこのような曲にも親しみが湧くようになったのだろが,当時は忙しかったので歌を聴く時間は極めて少なくなっていた。

 「机の端のポラロイド写真に話しかけてたら」とか「思い出はモノクローム」などというのは私の世代に合いそうなのだが。

 私の人生の初カラー写真は恐らく昭和42年のものでそれ以前は全てモノクロだ。「天然色」などという言葉は当時の言葉だろう。総天然色の映画はそれ以前にも観たことがある。

 昭和56年当時は一般的な写真も,テレビも既にカラーの時代だった。天然色などとは言わなかったように思うが,カラーフィルムのCMで『天然色写真』と言っていたのは何時頃のことだっただろうか。当時,私はモノクロ写真は自分でフィルム現像から印画紙への焼き付けまで行っていたが、カラー現像はできなかったのでカラー写真はDPE屋に依頼していた。ポラロイドは撮ったその場でプリントされた写真が得られるインスタント写真だが,ポラロイドフィルムは高価だった。

 当時より少し前,光短パルスの実験をしていたが,高速オシロスコープは米国製のものしかなかった。単発現象だが,メモリースコープではなく,肉眼では信号が見えないので,オシロスコープ画面を高感度フィルムで撮影し,増感現像してようやく実験結果が得られる。1本36枚撮影しても実験条件が不適切で何もデータが得られない場合も少なくなかった。ポラロイドカメラなら1回毎に結果が得られ,超高感度ポラロイドフィルムも存在したが,価格が非常に高く,日常的に使えるものではなかった。

 後に米国の大学で超短光パルスの実験をしたときには,あの高価だったポラロイドフィルムを無制限に使うことができたし,必要に応じてpsの分解能を持つStreak CameraOptical Multi-channel Analyzerの組み合わせで実験毎にデジタルデータが得られた。時期がやや異なるとはいえ,日米の経済力の差を感じた。

 

ギンギラギンにさりげなく(2012.10.29)

昭和56年,詞:伊達歩,曲:筒美京平,唄:近藤真彦

近藤真彦は第23回日本レコード大賞最優秀新人賞受賞。この歌はカレーとフィルムのCMに使われた。

 「覚えたしぐさで熱く見ろ」と始まる。「ギンギラリンにさりげなく」というのは矛盾しているようだが,このサビの部分は印象に残る。昔も歌詞に英語が入るのは無いではなかったが,歌詞中の英語が気になりだしたのはこの頃からではなかろうか。

 たのきんトリオ1)の中では,私には一番印象深い歌手が近藤真彦だ。

1)      たのきんトリオ:田原俊彦,野村義男,近藤真彦

 

グッドラックLOVE(2017.5.18)

昭和56年,詞:小林和子,曲:小田裕一郎,唄:田原俊彦

 「心変わりじゃないね 一人みつめるさよなら」と始まる歌。

 アイドルソング。

歌詞に入っている英語は私には軽薄に感じられる。なぜこんな英語を入れるのだろう。

 

恋のぼんちシート(2015.8.22)

昭和56年,詞:近田春夫,曲:近田春夫,唄:ザ・ぼんち

 「A地点からB地点まで」と始まる歌。

 この間に「ヒト目ぼれ」したらしいが「その人の名は その人の名は ポチ」と,同やら犬の話らしい。

 当時テレビ朝日系列で放映されていた『アフタヌーンショー』の司会川崎敬三とレポーター山本耕一のかけあいがザ・ぼんちの漫才ネタになっていた。『そ〜なんですよ川崎さん』とか『A地点からB地点まで』などだ。

 2番の歌詞は「いつのまにか とても売れていたんです」「なやみながらコトバさがしていたんです」と,本当かどうかは知らないが,針のような話を棒のような話に膨らませるための言葉を捜しながらレポートをしていたというような雰囲気を漂わせている。

 苦し紛れの口癖ではないかと思うような口癖がいつのまにか人気になることがある。たとえば,小西徳郎1)の『何と申しましょうか』などだ。

1)小西徳郎:昭和30年からNHKでプロ野球中継の解説。解説中に「何と申しましょうか」を連発。小西は昭和25年,セントラルリーグの初代優勝チーム松竹ロビンスの監督だった。なお,昭和24年,日本野球連盟がセントラル野球連盟と太平洋野球連盟に分裂したとき,セリーグは読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大阪タイガース・大洋ホエール・広島カープ・西日本パイレーツの7球団,昭和25年には国鉄スワローズも加盟して8球団になった。後に西日本はパリーグの西鉄クリッパースと合併して脱退,松竹は大洋に吸収され6球団となった。パリーグは阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・毎日オリオンズ・西鉄クリッパース,近鉄パールスの7球団であった。昭和25年の日本シリーズは毎日オリオンズが勝ち,小西の松竹は日本一にはなれなかった。

 

恋=Do(2017.5.8)

昭和56年,詞:小林和子,曲:小田裕一郎,唄:田原俊彦

I wanna do!  I wanna do! シャイなハートが欲しい」と始まる歌。

 やはりアイドルソングだろう。「銀河のロケットに二人とびのれば 夜をかけめぐる」「君が腰かけるペーパームーン」などの歌詞も理解不能で私にはコメントできない。

 なお,タイトルは「こいはドゥ」と読ませている。この「=」の意味も理解できないのだが。「は」の意味にしても不明だ。「は」の用例には『お爺さんは山へ柴刈りに』,『ゾウは鼻が長い』,『私はウナギだ』,『ここではきものをぬぐ』などいろいろな用例があるが,どれも合致しそうにない。『わたしは○○です』という用法なのだろうか。「do」の意味は?

 

心の色(2015.12.9)

昭和56年,詞:大津あきら,曲:木森敏之,唄:中村雅俊

 「受話器の向こうから聞こえる涙声」と始まる歌。

 一度聞いただけでは何を唄っているのか理解できない。歌詞を見ても何を訴えているのか解らない。何度も歌詞を読んでみると,新しいタイプの援歌なのだろうかとも思うが,どうも密かな想いを伝える歌のようだ。

 なぜ歌詞の意味が理解しにくいかというと,私には「黄色いツバメ」がすぐには理解できない。そのほか「昇るサンライズ」と『馬から落ちて落馬して』のような表現も気になるし,なぜ「ララバイ」が唐突にこのような箇所に現れるのか理解できない。

 いろいろ考えてみた結果,「黄色いツバメ」は『黄色いカラス』1)のもじりと解釈すれば他の箇所との繋がりがよさそうだ。しかし,「黄色いツバメ」から『黄色いカラス』を連想し,その背景に思い至るまでには普通の人にはかなり時間がかかりそうに思われ,歌を聴いているときにここまで理解できるとは到底思えない。この解釈が正しければ,この歌は恋に破れた少女を元気づけ,応援する歌だろう。そして,「いつだって僕は此処にいる」というのは,親が子供を想う思いとするより,密かに友情以上の想い持つ男友達の歌だとするほうが私の好みだ。

 最後まで解らないのが「ララバイ」だ。ララバイとは子守唄のことだ。貧しいために小さい頃から奉公に出された子供が子守をさせられているときに唄う歌が日本の子守唄の大部分であるのに対し,ララバイは母親がその子を寝かせつけるときに唄う歌だ。それとも「ララバイ」に別な意味があるのだろうか。

1)「黄色いカラス」(昭和50年,詞:みなみらんぼう,曲:みなみらんぼう,唄:ちゃんちゃこ)

 

琥珀色の日々(2019.7.23)

昭和56年,詞:菅原進,曲:菅原進,唄:菅原進

 「ダディダァディダアドゥダァ ダディダァディダアドゥダァ」と始まる歌。

 この部分の歌詞の意味は不明だが,これに続く日本語歌詞では「過ぎ去りし日の忘れた歌が響きわたる」と思い出の歌だ。「時は戻らないけど 君だけを愛する限りなく」ということらしい。

 どちらかというと爽やか系だ。悲しみや恨みなどは感じられない。良い思い出だけを持ち続けているようだ。その分インパクトは弱い。

 

SOMEDAY(2016.11.26)

昭和56年,詞:佐野元春,曲:佐野元春,唄:佐野元春

 「街の唄が聴こえてきて 真夜中に恋を抱きしめた」と始まる歌。

 「『手おくれ』と言われても口笛で答えていた」とのことだが,要するに精神的には子供だったということだ。「だから もう一度 あきらめないで まごころがつかめる その時まで」などとほとんど成長していない。

 豊かな社会が子供の精神的成長を止めてしまったのだろうか。教育のせいなのだろうか。考えが甘い・・・というか自分本位にしか考えることができないようだ。

 

サヨナラ模様(2015.2.15)

昭和56年,詞:伊藤敏博,曲:伊藤敏博,唄:伊藤敏博

 「凍り付いたさよならが あなたの唇 ポトリこぼれ落ちた」と始まる歌。

 「だからねェねェねェねェ」とか「ねェねェねェねェねェねェねェねェ」という個所が記憶に残る。

 詞・曲・歌唱すべてが私好みである。この歌手の他の曲を知らないのが不思議なほどだ。当時は忙しく,歌を聴いている時間がなかった。

 

サンセット・メモリー(2015.10.3)

昭和56年,詞:竜真知子,曲:木森敏之,唄:杉村尚美

 「はるかな夕日 それは 悲しい季節 つらぬいた 愛のシルエット」と始まる歌。

 日本テレビ系で放映されたドラマ『炎の犬』の主題歌とのこと。私はこのドラマを観ていないが歌は耳に残っている。どこかで聴いたのだろう。

 「ブロンズの風の中 見つけたメモリー」のフレーズは印象的なのだが,この箇所の歌詞は最初は聞き取れなかった。杉村の発声が悪いせいではない。「ブロンズの風」と聞こえるのだが何のことか理解できずに,聞き違いだと思ってしまったのだ。「ブロンズ」と聞くとまず銅像のようなものを思い出すが,次に考えて思いつくものは色々あるが,すべて青銅製品だ。この風とはどんな風だろう。この風にあたると非常に痛そうだ。聞き違えたのだろう。

 今では「ブロンズ」色「の風」だろうと一応は思っているのだが,実はブロンズ色の風でもどんな風なのかよく解っていないのだ。私には詩人の感性がないことを再認識させられる。

 歌詞によく解らない箇所はあるが,杉村の歌声は爽やかで,曲も良い。

 

シティ・コネクション(2019.10.18)

昭和56年,詞:ダニー・ロング/佐藤由佳,曲:ミシェル・シミーン,唄:エマニエル

 「ナイト・コネクションしようぜ ベイビー!」と台詞があり,「リング リング 電話がリンギン トウナイト」と始まる歌。

 日本語と英語が混じった歌詞だが,日本語の箇所はネイティブには聞こえない。その意味ではカタカナ日本語?の可愛らしさが感じられるのかも知れない。しかし,私には特に可愛いとは思えない。

私にとってカタカナ日本語で可愛いと感じられたのはアグネス・チャンくらいだ。あとに続くのがロザンナ,可愛いというのとはちょっと違うが欧陽菲菲も悪くなかった。ジュディ・オングの日本語はもうネイティブだし,テレサ・テンの日本語もほぼ完璧なのでカタカナ日本語という印象はない。

挙ったのが女性ばかりなので男性を思い出そうとしたが厚切りジェイソンくらいしか思いつかない。ジェイソンの名がでたのは,たまたま,ついさっきテレビで彼を見たからだ。カタカナ日本語を話す外国人は多数いる。私が話したかったのは,カタカナ日本語の歌が可愛らしく聞こえるという話だった。欧陽菲菲あたりから話がずれたようだ。アダモのような歌手を挙げるべきだったのだろうが,可愛いというイメージからは遠かったので今まで思い出さなかった。

当時のエマニエルは10才くらいではなかろうか。私の感覚ではこの詞を10才の子供に唄わせて商売にしようというのは不適切だ。

 

少女人形(2019.5.3)

昭和56年,詞:浅野裕子,曲:南こうせつ,唄:伊藤つかさ

 「夢を見る人形と みんな私を呼ぶの」と始まる歌。

 「勇気を出して“好き”といいたい」という歌で爽やかな歌だ。爽やか過ぎてオジさんには合わない。当時,既に私はオジさんになっていた。

「中学生くらいを対象にした歌ではないかと思うが,中学生はもっと大人の歌を好むのではなかろうか。

 

シルエット・ロマンス(2014.5.1)

昭和56年,詞:来生えつこ,曲:来生たかお,唄:大橋純子

 「恋する女は夢見たがりの」と始まる歌。

 「あぁあなたに恋心ぬすまれて」と繰り返されるが,やはりこの部分がこの歌のハイライトだろう。

 来生たかおの曲は多くは知らないが,これが来生たかおだと聞くとなるほどなるほどと納得する曲である。

 残念ながら当時の私の心境には合致しなかったようで,詞・曲共サビの部分しか記憶がない。

 

白いパラソル(2019.9.14)

昭和56年,詞:松本隆,曲:財津和夫,唄:松田聖子

 「お願いよ 正直な 気持ちだけきかせて」と始まる歌。

 「あなたを知りたい 愛の予感」と終わる聖子ソング。

 具体的にどこがとは指摘できないのだが,何となく違和感を覚える詞。しかし,松田の唄を聴いても違和感がない。詞・曲・歌手がマッチしているということだろう。

 『赤いスイートピー』1)はこの歌の焼き直しの様に感じるが,私は『赤いスイートピー』のほうが遥かに好みだ。

1)「赤いスイートピー」(昭和57年,詞:松本隆,曲;呉田軽穂,唄:松田聖子)

 

シンデレラ・サマー(2016.1.21)

昭和56年,詞:石川優子,曲:石川優子,唄:石川優子

 「今 南の島には マリンブルーの微風 太陽の光乗せて」と始まる歌。

 健やかに育った若い女性の感性はこのようなものなのだろうとは思うが,私がカラオケで唄う歌としては選択しないだろう歌。

 JAL’81 沖縄キャンペーンソングらしいが,キャンペーンソングとしては悪くないと思う。

 

シンデレラ・サマー(2019.2.12)

昭和56年,詞:石川優子,曲:石川優子,唄:石川優子

 「今 南の島には マリンブルーの微風」と始まる歌。

 最初の描写など,海辺が目の前に見えるようだ。後半は心理描写だが,こちらも手に取るようにわかりやすい。

 特定の人に強いインパクトを与える歌というより,このように爽やかな歌は多くの人に好感を持って迎えられる歌だろう。

 航空会社のCMに使われている。

 

ジェームズ・ディーンのように(2019.8.16)

昭和56年,詞:Johnny,曲:Johnny,唄:Johnny

 「おいでCome on暗い瞳(め)をして」と始まる歌。

 何度も繰り返される「Come on」が印象に残るが,このインパクトが強すぎ,全体では何を歌っていたのか解らない。「しらけていたって時は過ぎるし だまっていても朝はくるけど キラメキ求め走り出すのさ」ということだろうか。とはいえ「とばすぜHighway」というのだから,汗を流してランニングしようという訳ではない。

 曲は私がイメージするロックそのものだ。

 ジェームズ・ディーンの活躍は1950年代なのでリアルタイムでは知らない。昭和30年の映画『エデンの東』は観なかったが,タイトルだけは知っていた。ジェームズはこの年,自動車事故で亡くなったが,この年だけで(一作品は次の年に公開だが)3作品でアカデミー賞にノミネートされている。

 

すずめ(2015.10.24)

昭和56年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:増田けい子

 「別れの話は陽のあたる テラスで紅茶を飲みながら」と始まる歌。

 ピンク・レディ−解散後,増田のソロ最初の歌。ピンク・レディーとは全く感じが異なり驚きのほうが大きく,私の持つケイのイメージには全く合わない。

 中島みゆきの詞は私には解りやすい詞が多いように思うのだが,この詞は理解できない。中島の典型のひとつである別れ歌であることは確かだ。解らないのは「雀」のイメージだ。

 昭和56年頃の雀のイメージを思い出そうとするが,思い出せない。少なくとも小学生のころは雀は身近な小鳥だった。恐らくこの頃には雀の数が昔に比べてずっと減っていたのだろう。もう少し後のことになるが,勤務先の近くには鳩,自宅の近くにはカラスが増え,雀を見ることが極めて少なくなった。

 結局,「雀」で私が思うのは『雀の学校』のような唱歌,『舌切り雀』のような童話,この少し前に流行ったナンセンスクイズの雀シリーズ1),後輩を連れて焼き鳥屋に行ったとき,メニューを見て後輩が『すずめって何ですか?』と聞いたことくらいだ。

 中島みゆきは「すずめ」にどのようなイメージを持っていたのだろう。

1)            「電線に雀が3羽止まっていました。これを鉄砲で撃ちましたが1羽も逃げません。何故でしょう。」答え:「根性があったから。」(設問等,記憶違いがあるかもしれないが,このような論理的答えでないクイズ。駄洒落系もあった。

 

すずめ(2018.8.1)

昭和56年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:増田けい子

 「別れの話は 陽のあたる テラスで紅茶を飲みながら」と始まる歌。

 「あなたの側を 離れたくない なのに なのに ふざけるばかり」と中島みゆきらしい。ピンク・レディーとは対極にある歌だと思うが,中島の歌は増田の希望だったらしい。

この歌でピンク・レディーから脱皮しようとしたのだろう。

 中島は多くの歌手に歌を提供しているが,唄の内に秘めた怨念では中島と対抗できるものはいないだろう。

 

スニーカーぶるーす(2016.6.16)

昭和56年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:近藤真彦

 「ペアでそろえたスニーカー 春夏秋と駆け抜け 離れ離れの冬が来る」と始まる歌。

 「別れの電話取り消せよ」とか「別れても好きさ」とかの歌詞があるのでそのような歌なのだろうが「俺たちはまだ」「青春知らずさ」というのは,『それが青春というもんだ』と言いたくなる。青春真只中だとそれに気づかないのが青春なんだろう。

 歌詞に,呼びかけなのだろうか,何度も「Baby」が出てくるが,いかにも軽薄な感じを受け,当時から好みではなかった。

 

スマイル・フォー・ミー(2016.4.23)

昭和56年,詞:竜真知子,曲:馬飼野康二,唄:河合奈保子

 「Smile for me, smile for you」という言葉が曲の前・中・後にはいるのだが,歌は「止まらないの はずむ心は」と始まる歌。

 典型的なアイドルソングのひとつだろう。河合奈保子ファンなら「あなただけよ」という歌詞を自分に向けて言われたように感じるのだろう。あるいはそう感じる者がファンになるのかも知れない。

 

すみれ色の涙(2018.7.9)

昭和56年,詞:万里村ゆき子,曲:織田啓義,唄:岩崎宏美

 「すみれって すみれって ブルーな恋人どうしが」と始まる歌。

ブルコメが昭和43年に唄った歌のカバーらしいが,ブルコメの唄は聴いた記憶がない。しかし,聴くまでもなく,最後の「そしてひとつぶ すみれ色の涙」など,『ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー ブルー シャトウ』1)のあの声で聴くより岩崎宏美の声で聴くほうがはるかにメルヘンだ。

1)「ブルー・シャトウ」(昭和42年,詞:橋本淳,曲:井上忠夫,唄:ジャッキー吉川とブルーコメッツ)

 

スローなブギにしてくれ( I want you ) (2017.2.24)

昭和56年,詞:松本隆,曲:南佳孝,唄:南佳孝

 「Want you 俺の肩を抱きしめてくれ」と始まる歌。

 「人生はゲーム」という考え方は松本の考え方なのか,片岡義男の小説『スローなブギにしてくれ』(昭和50)の主人公の考え方なのか,小説も読んでいないし,映画かされたのも観ていないので解らないが,私の考えとは違う。

 この曲は映画の主題歌。

 ただ,この曲を聞いた時似た曲を昔聴いた記憶があるような気がして,なぜか懐かしい気がした。

 たとえば昭和37年頃流行した“One More Chance” (日本では藤木孝が唄っていたように思う)などと雰囲気が似ている気がする。誰が唄っていたのかまったく思い出せないのでネット検索したらVictor Woodが唄っているのを発見した。しかしVictor Woodは聴いた記憶がない。Victor Woodだった可能性が無いわけではないが,年齢的にはもっと大人の男性歌手だったように感じるが解らない。

 

セーラー服と機関銃(2015.1.8)

昭和56年,詞:来生えつこ,曲:来生たかお,唄:薬師丸ひろ子

 「さよならは別れの言葉じゃなくて」と始まる歌。角川映画「セーラー服と機関銃」の主題歌である。

 この歌は『夢の途中』1)と異名同曲である。よく聴くとほんの一部だけ歌詞が違うらしいが,ボーッと聞いていると全く同じに歌詞に聞こえる。歌詞もメロディーも同じなのに,

薬師丸の唄と来生の唄は全く違う歌に聞こえる。来生の唄は歌として完成されていると感じるが,薬師丸の唄は映画と不可分だ。映画とのマッチングでいえば薬師丸のほうに軍配を上げる。たまに他人がこの歌をカラオケで唄っているのを聞くことがあるが,来生でもなく,薬師丸でもない,独自の歌になっている場合が多いように感じる。

1)「夢の途中」(昭和56年,詞:来生えつこ,曲:来生たかお,唄:来生たかお)

 

センチメンタル・ジャーニー(2017.11.8)

昭和56年,詞:湯川れい子,曲:筒美京平,唄:松本伊代

 「読み捨てられる雑誌のように 私のページがめくれるたびに」と始まる歌。アイドルソングだろう。

 最後はタイトルどおり「センチメンタル・ジャーニー」と終わるが,この最後と,途中の「伊予はまだ16だから」という箇所が印象に残り,比較的最近流れていた何かのTVCMにもこの箇所が使われていた。

 

抱かれたいもう一度(LOVE THAT WAS LOST(2019.3.10)

昭和56年,詞:Bobby LaKind/Paul Bamere,曲:矢沢永吉,唄:矢沢永吉

 「I had a dream you left my life」と始まる歌。「love that was lost is now found」とあるのでそのような歌なのだろうが,タイトルや歌唱からは歌詞にある「Happiness is all around」という感じを受けない。私には理解できない歌。

 

チェリーブラッサム(2015.3.22)

昭和56年,詞:三浦徳子,曲:財津和夫,唄:松田聖子

 「何もかもめざめてく 新しい私」と始まる歌。「走り出した愛は ただあなたへと続いている」とあり,幸せの絶頂にある歌のように感じられる。つまり,今後は落ちるだけというのが私の感想だ。私がひねくれているだけのことであって欲しい。

 松田聖子の低音は今一つに感じるが,高音はよい。私が感じる美しい声とは違うのだが可愛らしい声だ。低音部を入れずに作曲できないのだろうか。

 

チャンス(2016.7.25)

昭和56年,詞:大貫妙子,曲:大貫妙子,唄:大貫妙子

 「黒のシックなドレス 足をくみかえながら」と始まる歌。

 女心は解らない。街角で声を掛けられるのを待っているのだろうか。

 「何故私を見るの?」とか「追いかけて来るかと振り返ってみたのに」などと見られている(いた)ことを意識しているようだが,典型的な勘違い女ではないのか。

 過去に私の周囲にいた男性で,見ず知らずの女性に声を掛けるのは少数派だ。多くは声を掛けない。一方,印象的な女性に目を向けるのは多数派だ。しかし目を向けるのと声を掛けるのは違う。変なファッション(あるいは顔)だと思って見ていたのかもしれないし,よりありそうなのは見ようとの意識はなく,単なる偶然の視線だ。

 「意地をはってないで 笑いかければよかったのよ」とこれは自分の方が意識していたことを告白しているフレーズだ。自分から「笑いかければよかった」というわけだ。声を掛けられたいとはいっても,自分の好みの男性ならということなのだろうか。あるいは自分の好みには無関係に,声を掛けられることで自分の魅力を確認できる喜びを感じるのだろうか。

 全体を聴いた感じは伝統的な歌とは違うという意味ではニューミュージック。但し,ユーミンに慣れた耳には違和感がない。

 

ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校編)(2019.1.14)

昭和56年,詞:タミヤヨシユキ,曲:タミヤヨシユキ,唄:横浜銀蠅

 「行って来まーす」と一声あってから「今日も元気にドカンをきめたら ヨーラン背負ってリーゼント」と始まる歌。

 曲は私がイメージするロックンロールそのもの。従って懐かしく感じるが歌詞は世代に合わない。私が中・高生だった頃は,地方の小都市だったからか,リーゼントなど見たことがなかった。帽子とズボンに細工をする程度だった。

 この頃横浜銀蠅のメンバーは20歳を超えていたのではないだろうか。私の世代なら20歳ならもうこのような世界を卒業していたと思うのだが。もっとも『嗚呼!!花の応援団』1)が連載されたのが昭和50~54年だから特注学ランなどはこの時期が全盛だったのかもしれない。いずれにせよ,この詞では特定の年代層にしかウケなかったのではないだろうか。

1)「嗚呼!!花の応援団」(どおくまん,昭和50~54年,週刊漫画アクション)

 

DESIRE (2018.8.25)

昭和56年,詞:園部和範,曲:もんたよしのり,唄:もんた&ブラザーズ

 「振り向きざまに 冷たい視線で」と始まる歌。

 もんたのあの声で,「何かがお前をあやつっているのさ」とやけくそ気味に唄っているように聞こえる。しかし,私だけかもしれないが,「DESIRE」の意味というかニュアンスが解らないので,歌詞中に何度も登場するので重要な単語なのだろうが,全体としてよく判らず,イライラ感だけが感じられる。

ひょっとしたら,何が彼女を変えたのか,具体的には解っていないのかもしれない。昔なら,義理・人情などの世間のしがらみが彼女を変えたのかもしれないと思ったところを,彼女のDESIREが彼女を変えたと思っているのだろうか。人は鏡を見るように,自分の価値観で他人の行動理由を推測することがあるように思う。

 

DESIRE(2022.6.1)

昭和56年,詞:園部和範,曲;もんたよしのり,唄:もんた&ブラザーズ

 「振り向きざまに 冷たい視線で いつもと違う 言葉を投げて行った」と始まる。

 何の証拠もないのに,思い込みを深めていく歌。

 「何かがおまえをあやつっているのさ」は当事者とも言えるのでまだいい。しかし「何かが二人をあやつっているのさ」に関してはこの二人は単に見かけただけのようだ。要するにこの二人のことは何も知らないであろうにもかかわらず,自分の思い込みを深めていく。

 世の中が自分を中心に回っているわけではないことには気づいているようだが,皆が自分と同じではないということには気づいていないようだ。

 

鳥の詩(2020.6.20)

昭和56年,詞:阿久悠,曲:坂田晃一,唄:杉田かおる

 「あなたがいた頃は 笑いさざめき 誰もが幸福に見えていたけど」と始まる。

 「人は人と別れて」というのが何度もでてくるので,これが主要テーマだろう。「鳥」はもっと数多く登場する。生物学的な鳥ではなく,何かのメタファーらしいのだが私にはそれを具体的な言葉にすることができない。イメージはなんとなく感じるが,阿久にしては難解な詞だと感じる。

 曲としては最後の「鳥よ 鳥よ 鳥たちよ 鳥よ 鳥よ 鳥の詩(うた)」という箇所が印象的で耳に残る。

 

長い夜(2013.11.20)

昭和56年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春

 「恋にゆれる心ひとつ」と始まる歌。

 私にはついていけない歌だ。歌い方(唄っているときの身体の動き)も私の好みではない。これ以上書くとファンから怒られそうだから止めておく。歌だけ聴いていると上手いと思うが,聴いているうちに,まだ終わらないのかと飽きてくる。私にとってはビールのようなもので,最初の一杯は旨いと思って飲むが,じきに腹一杯になり,別の酒に変更したいと思う。要は私の好みではないということだ。

 食べ物でも,好き嫌いは価格の高低には関係ないし,ノーベル文学賞を受賞した作家の小説でも嫌いなものは嫌いだ。人により好みが異なるので世の中はうまくいくのだろう。

 

渚のラブレター(2023.8.13)

昭和56年,詞:三浦徳子,曲:沢田研二,唄:沢田研二

 「最後の夜だから 少し歩こう 人影まばらな道 二人ならんで」と始まる。

 「今なら取り消せる Baby お前が言った さよなら」ということで別れ話をしているのだろう。喧嘩別れという訳ではなさそうだが,女の心は既に決まっているようだ。男には未練が残っているようだが。

 

夏の扉(2015.4.28)

昭和56年,詞:三浦徳子,曲:財津和夫,唄:松田聖子

 「髪を切った私に 違う女みたいと」と始まる歌。

 何回も繰り返される「フレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!」という言葉が印象に残る。曲・詞ともにアイドルソングとして私なら分類する。私は多くのアイドルソングを歌っているアイドルを歌手には分類せず,アイドルに分類しているのだが,松田聖子はアイドルであり,かつ歌手だろう。演歌歌手が唄うとどんな歌でも演歌になりそうだが,松田聖子が唄うとどんな歌もアイドルソングになりそうな気がする。

 唄が上手くないと歌手ではない。昔の流行歌手は皆唄が上手かった。容姿は千差万別だった。松田聖子は特別上手いとは感じないが,恐らくアイドルソングを歌っているからそのような印象があり,アイドルソング以外でもアイドルソングにしてしまうだけの唄の上手さはあるように感じる。他のアイドルの中には,他の歌手の持ち歌を唄うと歌にならないのではないかと思うようなアイドルもいる。

 アイドルは唄が上手いに越したことはないが,唄は下手でもアイドルになれる。では容姿が重要かというとそうでもないように思う。AKB48のメンバーの容姿がたいしたことないと誰かが言っているのを聞いたことがある。AKB48のメンバー(卒業生・転校生を含む)で人気があるとされているメンバーの写真を見ると,確かに絶世の美少女とは言い難いメンバーも中にはいる。しかし,ファンには絶大の支持を受けている。AKBは人気グループとして例に挙げただけで,実は他のアイドルも似たり寄ったりだ。

 昔は映画スターというジャンルがあった。スターは星で,輝いていた。スターと言えば俳優は端正な顔立ちの二枚目で,女優は美人だった。スタイルはあまり重要ではなかったように思う。(時代劇など)和服は胴長・短足でも粋に着こなすことができた。少しくらい背が低くても,撮影テクニックでカバーできていた。それが,現代劇が主になってくると長身のほうが恰好いいということになった。スターは脚が長いということになった。同じころだろう,二枚目・美人でなくても個性派というのが出てきて,アイドルというのが出てきたのは更にその後だろう。

 大阪万博(昭和45年)以降,テレビでオーディション番組のようなものが相次いで現れ,ここから何人もの歌手が出た。アイドルと言ってもよいかも知れないが当時はまだ,(スター)歌手のオーディションという印象が強かった。私がこれはアイドルとしか呼びようがないと最初に思ったのは○○[女性タレント]だ。歌が下手だと名指しするのを控えて伏字にした。歌が下手だけではなく,容姿も普通だった。しかし人気があった。

 秋元康は『おニャン子』などの経験から『アイドルたる条件は何か』という秘密を探りあてたのだろう。その結果がAKB8だ。秘密が明らかになったからHKTNMBSDNSKEなど次々に人気を博しているのだろう。

 古来『美人は三日で飽きるがブスは三日で慣れる』と言われている。秋元以前にはこの真実を有効活用する術を発見した人間が居なかったのだろう。

 

眠れぬ夜(2020.11.16)

昭和56年,詞:小田和正,曲:小田和正,唄:西城秀樹

 「たとえ君が目の前に ひざまずいてすべてを 忘れてほしいと 涙ながしても」と始まる。「僕は君のところへ 二度とは帰らない」と言っているが,ヒデキらしくない。ヒデキなら『悪い夢は 忘れてしまおう』1)というのが似合っている。

 「それでもいま君が」「入って来たら 僕には分らない」と未練たっぷりだ。ヒデキらしくないと思い作詞者を確認すると小田和正だ。いかにも小田らしいと納得してしまう。作曲も小田だが,ヒデキの歌唱は小田とは違うので,曲の小田らしさは出ていない。

 インターネットでオフ・コースがこの歌を唄っているのを見つけたので聴いてみた。当然ながらオフ・コース盤はオフ・コースそのものだ。やはり編曲と歌唱が印象を変えているのだろう。

 正直に言えば,私はオフ・コース盤のほうが好きだ。いずれにせよ昭和の感性でよく解る歌だ。

1)      「傷だらけのローラ」(昭和49年,詞:さいとう大三,曲:馬飼野康二,唄:西城秀樹)

 

ハイスクールララバイ(2013.12.26)

昭和56年,詞:松本隆,曲:細野晴臣,唄:イモ欽トリオ

 「とにかくとびきりの美少女さ」と始まる歌。

 イモ欽トリオはフジテレビ系のバラエティ「欽ドン!」の「良い子悪い子普通の子」のトリオだ。

 「100%片想い Baby I love you so好き好きBaby」などを聴くとこれがララバイかとも思う。このようににぎやかな歌では子供を寝かしつけることなどできないだろう。もっとも,細野の曲と聞くとこのメロディーはそれほど違和感を覚えない。細野らしいとも感じる。「廊下で振り向いたハイスクール・ララバイ」という詞の意味は不明である。タイトルはこのフレーズから採られており,lullabyとは関係ないのかもしれない。そういえば同時代あるいは後には『あいつとララバイ』(楠みちはる:週間少年マガジン,昭和56年〜),『ララバイ刑事』(テレビ朝日,平成3年)などlullabyと関係が薄そうなところで「ララバイ」が使われている。これらに関しては内容を知らないので「ララバイ」の意味は解らないが,少なくとも曲のタイトルに「ララバイ」とあればlullabyを思い浮かべるのが普通ではないだろうか。そういえば松本隆は私のような年寄りにも解る詞を書くこともあるが,解らない詞を書くこともある。昭和と平成の分岐点に位置する作詞家なのだろう。

 この歌もオリコンで7週連続1位と大ヒットだ。このような歌のヒット,コミックス,ドラマなどから語源と意味がはっきりわからない感覚語が広まっていくのだろうか。『アラレ語』1)ならば造語だが,既存の語を別な意味に使われると理解できなくなる。このようなクレームをつけるのが年寄りの証拠かもしれない。

1)      Dr.スランプ」(鳥山明,週間少年ジャンプ,昭和55年〜)の主人公?「アラレちゃん」の言葉。

 

函館本線(2016.12.27)

昭和56年,詞:たきのえいじ,曲:駒田良昭,唄:山川豊

 「凍りついた線路は今日も 北に向かって伸びてゆく」と始まる歌。

 「窓のむこうは石狩平野」とあるので,既に日本列島内では北にいるのに,更に「北へ 北へ 北へ帰ります」というのだから本当に列島の北端から出てきていたのだろう。「愛の裏切りを」責めずに「ひとり身を引」いて北へ帰る途中だ。

 『自分さえ我慢すればいい』,『郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのも,みんな私がわるいのよ』という昭和の香が残る詞であり曲である。歌唱は平成演歌に近い気もする。

 

ハリケーン(2015.5.28)

昭和56年,詞:湯川れい子,曲:井上大輔,唄:シャネルズ

 「あの娘捜すのさMidnightチュー・チュー・トレイン」とのコーラスで始まる歌。

 「辛いのとメモを残し消えたのさ サヨナラも言わないで」と残された男が「海沿いの町をたずね歩く」歌。

 「あの娘捜すのさMidnightチュー・チュー・トレイン」と「ハリケーン ハリケーン ハリケーン」の箇所が印象に残る。

 ノリの良いロック調の曲で,嫌いじゃない。

 歌詞には「Everyday isザどしゃ降り」などと湯川らしくない英語もどきが入っているのはどのような効果を狙ったものなのだろうか。「Let me show youザまごころ」も同様だ。

 私の印象では詞の状況と曲調がミスマッチなのだが,歌唱のせいか,詞の細部はあまり耳に入って来ない。わたしにはそれが良いのかもしれない。

 

春咲小紅(2016.3.11)

昭和56年,詞:糸井重里,曲:矢野顕子,唄:矢野顕子

 「ほら春咲小紅 ミニミニ見に来てね」と始まる歌。

 私の感性では詞と曲が合わない。この詞に対してこの曲はあまりにもリズミカルに過ぎる。詞も私の感性とは合わない。何となく軽薄な感じを受ける。軽薄だと決めつける程ではないのだが。曲も私の感性とは合わない。私にもう少し音楽的才能があれば具体的に違和感を説明できるのだろうが,私には才能だけでなく知識もない。それでも,少なくとも終止に違和感があるが,それだけではない。要するに私の理解を超えた歌だ。

 

ハロー・グッバイ(2019.5.30)

昭和56年,詞:喜多条忠,曲:大野克夫,唄:柏原よしえ

「紅茶のおいしい喫茶店 白いお皿にグッバイ バイ バイ」と始まる歌。

昭和50年にアグネス・チャンが唄った『冬の日の帰り道』のB面曲「ハロー・グッドバイ」のカバー。柏原は「グッバイ」と唄っているのに対し,アグネスは「Good Bye」とdをきちんと発音しているように聞こえる。

柏原は昭和57年に柏原芳恵と改名した。

「カップにハローの文字が お茶を飲む度行ったり来たり」してるのを見て,「生まれ変われるなら 私こんなかわいいカップになりたい」とメルヘンだ。また,「春のきれいな夕陽になりたい」ともある。

アグネス盤ばB面曲でもあり,ヒットした記憶はないが,柏原盤は彼女にとって7枚目のシングルで最初のヒット曲になり,第23回日本レコード大賞ゴールデン・アイドル賞を受賞した。

アグネスはこの歌の当時は日本語も上手くなっていて,アグネス・ヴォイスは薄まっており柏原の歌唱と大きな差はないがアグネス盤がそれほどヒットしなかったのはアグネスの特徴が薄まったからかもしれない。あるいはこの5年ほどの間に社会情勢が大きく変化し,人々がメルヘンを好むように変わったのかもしれない。

 

ふたりの大阪(2014.6.12)

昭和56年,詞:吉岡治,曲:市川昭介,唄:都はるみ・宮崎雅

 「頬よせあって あなたと踊る」と始まる歌。「ふたりの大阪 ラスト・ダンス」と終わる最後の部分が印象に残る。

 「新地」,「御堂筋」,「淀屋橋」と地名が入った御当地ソングであり,男女のデュエット曲である。作詞者の心の叫びというより,こんな歌を作れば,スナックのカラオケ需要がありそうだということで作られた歌のように感じてしまう。

「ふたりの大阪」というタイトルに似合わず,「忘れはしないわ」とか「きのうのようさ」などと男女とも標準語だ。また,『小ぬか雨降る御堂筋』1)かとおもいきや,「そぼふる小雨の淀屋橋」と雨の降る場所が違う。

『遊女は客に惚れたと言い 客は来もせでまた来ると言う』というのは一世を風靡した篠田実の浪曲『紺屋高尾』の振り出しで,『紺屋高尾』では互いの言葉に誠を見るのだが,この「ふたりの大阪」ではこの先まで行かず,振り出し部分で終わっている印象を受ける。その場限りの営業トークという感じだ。篠田の浪曲が狭い意味での浪花節だとすれば,大阪ではこのようなトークが一般的なのでこのような振り出しになったのではなかろうか。

まあ,スナックのカラオケ用にはいい歌だろう。

 

ブギ浮ぎI LOVE YOU(2018.12.17)

昭和56年,詞:宮下智,曲:宮下智,唄:田原俊彦

 「そうさその顔しぶいもんだネ ファッション雑誌の グラビアみたいさ」と始まる歌。

 曲は悪くないし,詞もハッピーそうでいいんじゃないの。

 でも,あっしには関係のない歌でござんす。

 何かのBGMで流れていても気にならないが,リクエストして聴くことはない歌。このような歌を聴きたいと望む人がいるだろうことは想像できる。

 

ブルージーンズメモリー(2015.11.14)

昭和56年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:近藤真彦

 「俺にはわからないよ お前が何故 ガラスの都会へと旅立つのか」と始まる歌。わたしには最後の「青い稲妻」という箇所が少しだけ記憶に残っている程度の歌だ。

 マッチはたのきんトリオの中では歌が上手いほうだとは思うが,私に言わせれば歌手というほどではない。タレントだろう。アイドルを冠してもよいが単なるアイドルよりは上に感じる。ヒトによってはスターと呼ぶ人もいるだろうが否定はしない。しかし私にとってはスターではない。

松本の詞も私の好みではない。列車での別れなら,『高原の駅よ,さようなら』1)の世代で,新しい?ところだと『なごり雪』2)のほうが好みなのだ。

曲も,筒美の曲の中では,私の評価は上位には来ない。

ヒットメーカーは時代を先取りし,あるいは少なくとも時代と共に進んでいるのだろう。私が時代の変化に置いていかれつつあるようだ。

1)「高原の駅よ,さようなら」(昭和26年,詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一,唄:小畑実)

2)「なごり雪」(昭和50年,詞:伊勢正三,曲:伊勢正三,唄:イルカ)

 

鳳仙花(2016.8.27)

昭和56年,詞:吉岡治,曲:市川昭介,唄:島倉千代子

 「やっぱり器用に生きられないね」と始まる歌。

 「日陰が似合う花だけど」と歌詞のテイストは演歌だが曲は演歌というより歌謡曲と呼びたい。

 「鳳仙花鳳仙花」と繰り返す箇所が耳に残る。

 

望郷酒場(2015.9.12)

昭和56年,詞:里村龍一,曲:桜田誠一,唄:千昌夫

「おやじみたいなヨー 酒呑みなどに ならぬつもりが なっていた」と始まる歌。

一部に南部牛追い唄が使われている。第24回日本レコード大賞ロング・セラー賞受賞。

親の悪い?面を見て,自分はああはならないと思う息子は多いだろうが,親子は似るものだ。似ていない部分もあるのだが,気に入らない箇所ほど親子で似てくるようだ。遺伝なのか環境なのか。この歌では,出稼ぎ?というより定住で都会に移住しているようだから環境は違うのだろう。それでもいつしか「のれん」をくぐっている。酒を飲みつつ故郷を思っている。飲み始めたばかりとは思えない,かなり飲んでいるようだが,酒癖が悪いようには感じられない。このように飲むくらいの楽しみは許されるべき範囲だろう。

 

街角トワイライト(2015.6.27)

昭和56年,詞:湯川れい子,曲:井上忠夫,唄:シャネルズ

 「琥珀色をした首筋に」と始まる歌。

 歌詞を読んでみると解るのだが,歌を聴いても解らない。特に英語の部分が心に入って来ない。私の英語力不足が原因なのだろうが。歌詞を読んで理解しても,特に感銘を受ける訳でなく,聞き取りにくいからと言っても点数が下がるわけではない。

 曲は好きなタイプで,詞は関心が無い内容だが,曲と歌詞は合っていないように感じる。曲からは「She had gone」という悲しみが感じられない。

 

まちぶせ(2013.4.23)

昭和56年,詞:荒井由実,曲:荒井由実,唄:石川ひとみ

 「夕暮れの街角のぞいた喫茶店」と始まる歌。複雑な関係の男女に関する歌。複雑というのは適切な言葉ではないかもしれない。「好きだったのよあなた」というフレーズが印象的。荒井由実というより中島みゆきの世界ではないかとも思うが,「きっとあなたをふりむかせる」と自信過剰?なのはやはりユーミンか。

 計画通りいけばいいが,上手くいかなかったときにはストーカーになるのではないかと心配だ。特に松任谷由実の唄を聴くとストーカーになりそうだ。やはり石川ひとみに歌わせたのが正解だ。「自分から云いよったりしない」と唄っても,石川ひとみならお嬢様の慎みのように感じられるが,松任谷由実だとタカピー1)女がイメージされる。

1)      語源:高飛車

 

守ってあげたい(2014.8.28)

昭和56年,詞:松任谷由実,曲:松任谷由実,唄:松任谷由実

 「You don’t have to worry, worry・・・」とコーラスが入り「初めて言葉を交わした日の」と始まる歌。繰り返される「So, you don’t have to worry, worry, 守ってあげたい」というフレーズが印象的な歌。

 薬師丸ひろ子主演の角川映画『ねらわれた学園』の主題歌である。

 歌詞では「トンボを採った」とか「レンゲを編んだ」などとあるので,かなり小さな子供のころの想い出だ。あのころのように純粋に,やりたいこと・夢に向かって進んで行って,私が守ってあげるから,「’Cause I love you」と言うのだろう。詞も悪いとは言わないが,ユーミンは曲のほうが私は好きだ。曲だけではなく,詞が唄われてより一層すてきになるのが昭和のニューミュージックの特徴だろう。もとい,これは私の個人的嗜好だ。

 荒井由美は曲,中島みゆきは詞が私にとってはより魅力的だった。曲としては新井由美の曲に魅力を感じ,歌声としては中島みゆきの歌声に魅せられていた。

 

めぐり逢いふたたび(2024.7.26)

昭和56年,詞:なかにし礼,曲:浜圭介,唄:杉良太郎

 「ききわけのない子だね この俺をせめないで」と始まる。

 「花も実も結ばない 青春を生きたけど」とか「泣きながら 語りあい さよならの朝が来た」とか,作詞がなかにしだと聞くとなるほどと思う。

 最後は「お前となりたい幸せに」と終わるのだが,叶わぬ願いだということは皆解っている。これこそ演歌の典型的パターンなのだ。

 

メモリーグラス(2012.12.27)

昭和56年,詞:堀江淳,曲:堀江淳,唄:堀江淳

 ハスキーなハイトーンで「水割りをください涙の数だけ」と始まる歌。いままでに聞いたことがない新鮮な歌声だった。「ふられたんじゃないわ」と歌詞にはあるがふられたことは明白だ。解っているからこそ「水割りを」飲んでいるのだ。「あいつなんかあいつなんかあいつなんか」と繰り返すのは酔ってきている証拠だ。

 ワインを飲むと頭が良くなる,ビールを飲むと人が良くなると聞いたことがある。そのとき聞いた話では,日本酒とウイスキーには良い話がなかった。

 わたし自身はアルコールに弱い性質だ。最初はビールをコップ一杯も飲めない程度だった。その後の訓練で,ジョッキ一杯飲めるようになり,更には腹いっぱい飲めるようになった。飲み始めた頃は飲みに行く頻度も少なく,行くときは当時流行っていたカクテルを飲みに行くことが多かった。飲みに出ることが多くなると,経済的事情で店が変わり,一時は日本酒か焼酎を飲んでいた。今でも分類があるのかどうか知らないが,甲類・乙類と分類されており,乙類焼酎が沢山出回り始めたころである。飲みに出かけないよう,部屋にブランデーを置いていた時期もある。水で割ったらアメリカンというようなCMが流れていた時期ではなかったか。それ以前はブランデーは掌で温めて飲むもので,水で割るなどとんでもないというイメージだったのだが。

 比較的最近,ハイボールが流行っているという話を聞いた。そういえば私がウイスキーを飲み始めた頃はストレート,ロック,ハイボールのどれかだった。そのうちにコークハイなんていうのも出てきたが。ウーロンハイなどは知らなかった。もちろんウィスキーベースのカクテルはいろいろあったが作ってもらうにはそれなりの店に行かなくてはならない。しかし,いつからか水割りは珍しいものではなくなった。この歌は水割りが珍しくなくなった時代の歌で,割るとすればお湯割りが定番だった焼酎まで水割りにするようになっていた。当時はハイボールのほうが珍しかっただろう。

 遠距離通勤するようになって,次第に外で飲むことが少なくなり,病気をして一時全く飲まずに居たら今ではアルコール分解酵素がなくなったのか,また飲めなくなってしまった。最近では,少ない量で直ぐに酔うので,昔のように二日酔いとかは全く無く,数時間で醒める程度にしか飲めない。

 昔は水割りが珍しかったと書いたが,私だけの個人的な問題かもしれない。私が行っていた店では,ハイボールや水割りを頼むと,目の前で炭酸水やミネラルウォーターの栓を抜いていた。技術料というか,水割りなどを作る作業代はサービスなのだが,炭酸水やミネラルウォーターは料金に入る。もちろん,酒と同じで酒屋などで買うより高い。当時,水に金を払うことが気に入らなかったのかもしれない。無意識のうちに,同じ金を払うなら炭酸水をと考えていたのだろう。何しろ薄給の時代だったし,水はタダだと思っていたから。

 今では,飲む機会には,可能ならば水割りを選択している。

 

もしもピアノが弾けたなら(2012.9.1)

昭和56年,詞:阿久悠,曲:坂田晃一,唄:西田敏行

 「もしもピアノが弾けたなら」気持ちを伝えることができるはず,「だけどぼくにはピアノがない」。

 西田敏行は私と同世代だ。私が子供の頃はピアノは珍しかった。クラスに1名くらいだろうか,ピアノが弾ける子がいた。昭和30年代も後半になってくると電子オルガンを開発したメーカー関連のオルガン教室があちらこちらにできるようになり,電気オルガン,電子オルガン,電子ピアノなどが多くの家庭に入るようになる。

 阿久悠は大を沢山つけてもよい作詞家だがこの時代にこの詞は共感しかねる。気持ちを伝えることができないのを,ピアノがないからと訳のわからない論理で責任転嫁している。ピアノがなければギターがあるじゃないか,ギターもなければアカペラでもいいじゃないか。あるいはピアノを買うなり借りるなり努力すべきだろう。

 勝手に自分で条件を付け,その条件がクリアできないのは他人のせいだと努力を放棄する風潮,阿久悠はこれに迎合してしまったのではないか。

 念のために「もしもピアノが弾けたなら」をWikipediaで調べたら「少しばかり器用なサービス精神」を持たない不器用な男への応援歌という趣旨のことが書かれていた。応援というのは傷口を舐めてやることなのだろうか。

 「これだけ頑張っているのに『頑張れ』といわれてももうこれ以上頑張れない」というような言葉を聞くことがあるが,このような人は「頑張れ」の意味を誤解しているのだろう。くじけそうな人に対していえる言葉は「頑張れ」以外言いようがないではないか。「頑張らなくてもいい」というのは「負けてもいいよ慰めてあげるから」という意味であり,結局は「骨は拾ってあげるよ」というだけではないのだろうか。こういった人は慰めることができるのだろうか,本当に骨を拾ってくれるのだろうか。

 「まあ,せいぜい頑張ってみて」などという使われ方が増え,「頑張る」の意味が変わってしまったのだろうか。

 物事がうまくいかない場合,柔軟な考えであの手この手を試してみる。精一杯努力してうまくいかなけ場合,とるべき道は二つ,更に努力するか潔く諦めるかだ。うまくいかない原因を他に見つけて自己を正当化したいという欲求は理解でき,自己正当化により心の平安は得られるだろうが自己向上は望めなくなる。潔さとは諦めの早さではない。粘り強く頑張ったと自分自身で思えるからこそ潔くなれるのであると考える。もちろん,粘り強さは手段を問わずということではない。ここには人間としての美学が必要であろう。

 

夢の途中(2012.7.8)

昭和56年,詞:来生えつこ,曲:来生たかお,唄:来生たかお

 「さよならは別れの言葉じゃなくて」とはじまり,最後のほうで「いつの日にか僕のことを思い出すがいい」というメッセージがある。「希望という名の重い荷物を」持って出て行く女性に向けてのメッセージだ。この女性はサブマシンガンをぶっ放しそうにはとても思えない1)。女性というより(精神的に)少女だろう。男性のほうが精神的にはかなり年上で,この少女を包む大きな愛を感じる。これが歌詞を読んだときの印象だ。

 歌として聴いたとき,歌詞の内容は心に浸み込んでこない。来生たかおはこの詞に対して若すぎる気がするし,メロディー・歌唱共にこの歌には合っていないように感じる。メッセージとしての歌でなく,声も楽器としてその演奏を聴くときこの曲はもっとも良い。夢か現か現か夢か,ぼんやりと現実の自分ならきっとしないだろうことをいつのまにかやっているような,夢の途中にいるような曲だ。

 最初のフレーズは中国語の「再見」とかドイツ語の「aufwiedersehen」などと同じだ。 「さようなら」は「左様ならば」で「そういうことならば」という意味だから,「少女が行きたいというならば」で,わざわざ中国語など持ち出さなくても良いのではないかと思う。と考えていて,話が逸れ,別れの言葉としては「そういうことなので」という意味で已然形を使い「左様なれば」というべきではないかと考えてその先が解らなくなった。

1)「セーラー服と機関銃」:詞,メロディーともこの曲と同じ。唄:薬師丸ひろ子。

 

ヨコハマ・チーク(2018.11.19)

昭和56年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:近藤真彦

 「さあ出ておいで君の窓から 朝までの恋の逃避行」と始まる歌。

 まあ,悪くない歌だと思う。但し,歌詞は私の世代から変ってしまっていてよく解らない箇所が多い。「魂がショートし」とはどういう状態なのだろう。その状態をなぜ「ショート」と表現するのだろう。「チーク」とはチーク・ダンスのことだろうがジルバには合わない気がする。「ダンス時速100 km」のあたりも全体的に雰囲気しか伝わって来ない。

 まあ,盆踊りに行ってみたら,昔ながらの炭坑節なのに,ペアで向き合って踊っているカップルを見たので世の中どんどん変わっているようだ。

 

ルビーの指輪(2012.2.21)

昭和56年,詞:松本隆,曲:寺尾聰,唄:寺尾聰

 「くもり硝子の向うは風の街」で始まる歌。「俺に返すつもりならば捨ててくれ」と未練たっぷりな気持ちを格好つけながら告白している。「気が変らぬうちに早く消えてくれ」は沢田研二の「勝手にしやがれ」1)と同じ構図だ。「街でベージュのコートを見かけると」も「わかって下さい」2)と同じ心情だ。

未練たらたら「ウジウジぐずぐず」が男の本性だと喝破した阿川佐和子はたいしたもんだ。誰だったか忘れたが,女は恋愛ファイルに上書き保存し,男は恋愛ファイルに別名で保存すると言っていた。

1)阿久悠:「勝手にしやがれ」(昭和52年)

2)因幡晃:「わかって下さい」(昭和46年)

3)檀ふみ,阿川佐和子:「けっこん・せんか」(文春文庫,2007

 

Romance(2021.6.11)

昭和56年,詞:松本隆,曲:平井夏美,唄:松田聖子

 「Look at me 私をみつめて」と始まる。

 見られていることを意識している女性の歌。「わざとボールを あなたの方へ外して見せた」りしているようだ。

 自意識過剰な女性は見られていないのに見られていると勘違いしたりもするようだが。今の場合は「デートに誘われて」いるようだから実際に見られていたのだろう。「迷うふりしてじらしてごめんね」などと手管を弄している。

 最後は「あなたが好きだと 言わせないで私に だから先に打ち明けて」と,これは昭和以前の女性のたしなみ,というよりずるさだろう。

松本は松田にこのような面があると感じてこの詞を書いたのだろうか。

 

ロンリー・ハート(2018.10.21)

昭和56年,詞:大津あきら,曲:竹田和夫,唄:クリエーション

 「うかれ飛ぶ都会にmoonlight」と始まる歌。

 理解できない歌としか言いようがない。英語のような箇所があるが,私がnative speakerでないからか,何のことか解らない。「So lonely boy in town」とはどんな状況なのか?「噂の恋にケリをつけた」から淋しいのか?

南沙織なら『Say! Do you know what loneliness is? I believe, it’s one of girl’s “Happiness”1)と答えを用意している。

日本語のような箇所も,私はnative speakerなのだが,解らない。例えば「レイディー・マダム」。女性であることは想像できるが,どんな女性なのか解らない。

普通はこのような経験(どんな経験かは不明だが)があれば,これを糧に人間として成長するのではないか。真摯に生きてきた人間にはその年齢に応じた人生の重みが感じられるものだと思う。しかし,この歌から人生の重みは感じられない。

1)「哀愁のページ」(詞:有馬三恵子,曲:筒美京平,唄:南沙織)

 

Physical<フィジカル>(2014.2.2)

昭和56年,詞:S.Kipner & T.Shaddick,曲:S.Kipner & T.Shaddic,唄:Olivia Newton-John

 「I’m saying all the things that I know you’d like」と始まる歌。

 英語は聞き取れないので歌詞を聴くというよりは曲を聴くのだが,単調なリズムが意味もなく聞いているには心地よい。印象に残る歌詞は「physical, physical. I wanna get physicalという辺りだけだった。