明治,大正,昭和元年〜,昭和6年〜,昭和11年〜,昭和14年〜,昭和16年〜,昭和21年〜,昭和26年〜,昭和29年〜,昭和31年〜,昭和33年〜,昭和35年,昭和36年,昭和37年,昭和38年,昭和39年,昭和40年,昭和41年,昭和42年,昭和43年,昭和44年,昭和45年,昭和46年,昭和47年,昭和48年,昭和49年,昭和50年,昭和51年,昭和52年,昭和53年,昭和54年,昭和55年,昭和56年,昭和57年,昭和58年,昭和59年,昭和60年,昭和61年,昭和62年,昭和63年〜,その他(不明),平成の歌
昭和52年
愛する人へ,愛の終着駅,愛のメモリー,赤い絆(レッド・センセーション),あずさ2号,あせるぜ,雨やどり,雨の物語,あんたのバラード,アン・ドゥ・トロワ,愛しのティナ,い・に・し・え,イミテイション・ゴールド,ウィ・ウィル・ロック・ユー<We Will Rock You>,演歌チャンチャカチャン,ウォンテッド(指名手配),お元気ですか,お化けのロック,思い切り橋,想い出の樹の下で,俺はぜったい!プレスリー,おんな港町,帰らない,案山子〔元気でいるか〕,かざぐるま,カスマプゲ,勝手にしやがれ,悲しきメモリー,カルメン’77,河のほとりに,硝子坂,帰郷,季節風,気絶するほど悩ましい,北国の春,北へ,気まぐれヴィーナス,キャンディ,銀の雨,九月の雨,洪水の前,恋人よ〔訳もしらず〕,秋桜,コスモス街道,孤独のマラソン・ランナー,西海ブルース,サクセス,さよならをいう気もない,さらば青春の時,しあわせ芝居,しあわせ未満,思秋期,傷心,昭和柔道侠伝の唄(最后のダンスステップ),暑中お見舞い申し上げます,シンプル・ラブ,ストレンジャー<The Stranger>,そんな女のひとりごと,そんな夕子にほれました,旅の終わりに,だけど・・・,暖流,中央フリーウェイ,沈黙,津軽海峡・冬景色,てぃーんずぶるーす,デンセンマンの電線音頭,時のいたずら,飛梅,渚のシンドバッド,憎みきれないろくでなし,人間の証明のテーマ,熱帯魚,能登半島,ハイサイおじさん,Hi-Hi-Hi,初恋草紙,冬が来る前に,冬の稲妻,ふるさとはどこですか,ブーメランストリート,ブランデーグラス,ブルー・スカイ,ヘッドライト,北北東の風,星の砂,マイ・ピュア・レディ,マイ・ラグジュアリー・ナイト,迷い道,真夜中のヒーロー,身も心も,むさし野詩人,もう一度一から出なおします,やさしい悪魔,UFO,夢先案内人,ワインカラーのときめき,わかれうた,わな,The Stranger,We Will Rock You
愛する人へ(2017.5.6)
昭和52年,詞:岡本おさみ,曲:南こうせつ,唄:南こうせつ
「君のきれいな胸 とてもあったかい」と始まる歌。
「正義はまたからぶりさ」とは何のことかよく解らない。「街は病気だね」と言っているので何か社会的な問題意識を持っているのだろうが「なんにもできないから 愛の唄をうたっていくよ」と社会正義を貫こうという姿勢は見えず,個人的な愛へと逃避している。
自分の無力感を歌ったものだろうか。
愛の終着駅(2017.8.3)
昭和52年,詞:池田充男,曲:野崎真一,唄:八代亜紀
「寒い夜汽車で 膝をたてながら」と始まる歌。
恐らく膝を机にして書いたのだろう,夜汽車で書いた「あなたのこの手紙」を読みながら,「帰ってきてよ」と願う歌。
第19回レコード大賞最優秀歌唱賞。最優秀かどうかはともかく,私が聴いても上手いと思うので,当時の私の感覚はレコ大の審査員の感覚とそれほどずれてはいなかったのだろう。他の歌唱賞は『秋桜』の山口百恵,『思秋期』の岩崎宏美,『津軽海峡・冬景色』の石川さゆりだが,皆上手い。
愛のメモリー(2014.4.27)
昭和52年,詞:たかたかし,曲:馬飼野康二,唄:松崎しげる
「愛の甘いなごりにあなたはまどろむ」と始まる歌。「美しい人生よ」と始まるサビの部分では「この世に大切なのは愛し合うことだけと」と叫び,「星になる日が来てもあなたと離れはしない」と叫ぶ。
痛快な曲だ。
愛をこれほどまで高らかに歌い上げている曲はほかに『愛の賛歌』などしか思い出さない。
赤い絆(レッド・センセーション)(2016.6.13)
昭和52年,詞:松本隆,曲:平尾昌晃,唄:山口百恵
「レッド・センセーション・・・」とコーラスが入った後,「泣きながらラッシュ・アワーの 人ごみを縫うように走る」と始まる歌。
「赤い絆」はTBS系テレビドラマ『赤いシリーズ』の第6作で,この歌はその主題歌である。
当時は仕事が終わると飲みに行き,深夜に帰宅という生活だったのでテレビは観ていなかったが,歌謡曲は聴いていた。松本の詞もこのころはまだ解りやすい気がするし,平尾の曲は山口の声の特徴をよく引出し,私の好みとは違うのだが,良い曲だと感じる。
あずさ2号(2015.1.5)
昭和52年,詞:竜真知子,曲:都倉俊一,唄:狩人
「明日私は旅にでます」と始まる歌。第19回日本レコード大賞新人賞。
「さよならは いつまでたっても とても言えそうにありません」と胸の内を明かしながら,「8時ちょうどの あずさ2号で 私は 私は あなたから旅立ちます」と決意を述べる。
世間ずれしてなさそうに見える兄弟デュオの声と歌詞がマッチして名曲だと思う。
歌手は唄で勝負すべきで,顔は関係ないとは思うのだが,同じ兄弟でも『フィンガー5』や『ぴんから兄弟』がこの歌を唄ってもマッチングがよくないように思うので歌手の容姿と歌には少しは関係があるのではないかとも思ってしまう。
『ビリーバンバン』なら少しは合うかなどとも思ってしまうので,私が歌手に持つ印象は,聴き慣れたそれぞれの持ち歌の雰囲気によって作られているのだろう。
あせるぜ(2019.5.28)
昭和52年,詞:阿部敏郎,曲:阿部敏郎,唄:阿部敏郎
「小学校の時に席を並べたあいつが」と始まる歌。
世間からあいつと自分が比較される歌。1番は「佐藤さんちのお坊ちゃん 今年医学部卒業ですって それにひきかえ阿部さんちの子は 売れない歌うたって」と言う具合だ。
2番は田中さんちのお坊ちゃんは可愛い嫁さんと子供がいるのに,阿部さんちの子は「やっぱり男も顔が悪いと人生駄目だわねぇ」と噂される。
このように続いていって最後はいずれも「あせるぜ」と終わる。歌詞は散文なので,メロディーにのってはいるようだが歌とラップの中間のような感じだ。
「頭が悪けりゃ顔がいいとか,顔が悪けりゃ性格いいとか 人間だれでもひとつくらいは とりえが欲しいわねえ」と噂される自虐ネタのコミック・ソングと言えるだろう。
雨やどり(2013.10.3)
昭和52年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:さだまさし
「それはまだ私が神様を信じなかった頃」と始まる歌。
たまたま雨宿りにやってきた男性と,後に偶然初詣で再会し,家に連れて来ると「もしももしも出来ることでしたれば この人をお嫁さんにちょうだいませませ」と展開していく歌。
このような歌を何と表現するのか知らないが,長い歌でストーリー性が強い。『戦友』1)が浪曲,『おさななじみ』2)が物語・小説の歌謡バージョンだとすればこの歌は落語の歌謡バージョンと言えるかもしれない。どの歌も紙芝居にしたらこうなるだろうという絵が目に浮かぶ。平家物語を語る琵琶法師の系譜をひきついでいるのかも知れない。
そんなことを考えていたら,タイトルは知らないが『いちれつらんぱんはれつして日露戦争始まった』と始まる歌を思い出した。『東郷大将ばんばんざい』と『いち』から『とう』まで数字が並んでいるので数え歌の一種だろうが,これもストーリー性が強い。クロパトキンという名前はこの歌で覚えた。
1) 「戦友」(明治38年,詞:真下飛泉,曲:三善和気)
2) 「おさななじみ」(昭和38年,詞:永六輔,曲:中村八大,唄:デューク・エイセス)
雨の物語(2017.9.17)
昭和52年,詞:伊勢正三,曲:伊勢正三,唄:イルカ
「化粧する君の その背中がとても 小さく見えて」と始まる歌。
雰囲気は悪くない歌だが,歌詞全体の意味がよく理解できないのが私にとっては難点だ。
「ぼくの部屋のドアに」「とても悲しい物語」と書いてあったのだろうが,その部屋に入ってきたのは「肩を濡らした君」だ。ドアの表記をよく見もせず,「胸はずませて入って」きたのは君だ。普通なら入ってきた君のほうが「悲しい物語」だと後から解るのだろう。しかし,この歌詞は僕が悲しいようにしか思えない。君が入ってきたから僕の悲しい物語が始まったということなのだろうか。「君の心のくもりガラス」とはどういう意味なのだろう。
あんたのバラード(2015.9.10)
昭和52年,詞:世良公則,曲:世良公則,唄:世良公則&ツイスト
「あんたにあげた愛の日々を 今さら返せとは言わないわ」と始まる歌。
第8回世界歌謡祭グランプリ曲。
唄い方の特徴から印象に残っている歌だが,私とは住む世界の違う人の歌で,歌詞が心に響くことはなかった。「酔いどれ男と泣き虫女」だそうだが,私の世代にいた「酔いどれ男と泣き虫女」とは同じ文字で表わされても人種が違うように感じる。私の世代だと,このような男女は貧困と不可分な印象を持つが,この歌では何となくバブリーな印象を受ける。
後に,日本はバブル期に入るが,このバブル期にもバブルを満喫できず,私のように僅かなおこぼれを受けた者もいるし,ほとんどバブルとは無関係に過ごした人もいるのだろう。
アン・ドゥ・トロワ(2017.10.12)
昭和52年,詞:喜多条忠,曲:吉田拓郎,唄:キャンディーズ
「あなたの胸に耳をあてれば それは真夜中の時計のひびき」と始まる歌。
「アン・ドゥ・トロワ 踊りましょうか」とくればワルツでも踊るのかと思うが曲は4拍子だ。
詞も曲もそれぞれは悪いとは思わないが,詞と曲のマッチングはあまりよくないように感じる。「すべてを燃やす夜が來る」などの詞はキャンディーズファンには合わないのではなかろうか。曲もキャンディーズにはもっと華やかで元気の良い曲が似合うように思う。
愛しのティナ(2018.2.20)
昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
「燃える太陽がおまえをブロンズに変えるのか」と始まる歌。
夏の海をイメージさせる歌。歌の良し悪しはよく解らないが,好き嫌いでいえば好きな部類の歌。詞も嫌いではないが,曲のほうが好きだ。
い・に・し・え(2019.4.5)
昭和52年,詞:武田清一,曲:武田清一,唄:日暮し
「遠いいにしえの 恋の想い出に 眠れずに」と始まる歌。
昔の想い出に浸っている歌。現在が充実していないのだろう。過去を美化しているだけかもしれないのだが。
「いにしえ」というとはるか遠い過去のような気がする。現在の私にとっては少なくとも50年以上前から奈良時代位までの広い範囲に感じる。古い方が奈良時代なのは『いにしえの奈良の都の八重桜』が影響しているように思う。近い方は,数10年前なら『ちょっと前』なのだ。しかし当時の私はまだ若かったので15年位前からいにしえと感じたかもしれない。作詞者にとっては「いにしえ」はせいぜい10年前の話,おそらくもっと近い過去のことなのだろう。しかし,誰にとっても,もう戻ることのできない過去なのだ。
イミテイション・ゴールド(2016.11.24)
昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「シャワーのあとの 髪のしずくを 乾いたタオルで拭きとりながら」と始まる歌。
「ごめんね 去年の人と又比べている」という歌。
いろんな文献によると,女より男のほうが過去を引きずるらしいのだが,阿木は男性的なのだろうか。
何度か繰り返される「ア・ア・ア イミテイション・ゴールド」という箇所が強く印象に残るのだが,宇崎のメロディーと山口の歌唱のせいだろう。
演歌チャンチャカチャン(2017.12.27)
昭和52年,唄:平野雅昭
「チャンチャカラッタン チャンチャカ・・・」と前奏に合わせて唄い,最初は「暗い浮世のこの裏町を」1)と唄い出し,「チャーンカ ラッチャンチャンチャン」を挟んで「覗く冷たいこぼれ陽よ」と続ける。この調子で1番は唄いきるのだが,2番は「おかしなおかしな演歌のメドレー」ということで,『緑の地平線』(楠木繁夫)から1フレーズづつ「チャーンカ ラッチャンチャンチャン」を挟みながら(数え間違えが無ければ)14曲を一気にメドレーで唄う。最後は『わたし祈ってます』(敏いとうとハッピー&ブルー)だ。次は「変態性・なみだの操」ということで『涙の操』2)をベースに多数の曲を挟む形で唄いきる。この中には,例えば「雨がしとしと しとぴっちゃん」などというような箇所が随所にあり『せんせい』(森昌子)と『子連れ狼』(橋幸夫)の混合のようなフレーズもあり,「しとぴっちゃん」だけしかないのを1曲とカウントするかどうかと悩む部分も少なくない。特にこの部分は歌詞は『子連れ狼』なのだがメロディーは『せんせい』だから困ってしまう。『なみだの操』が何度も登場するのは当然?だが,『あなたにあげる』(西川峰子)なども何度か登場する。
演歌メドレーは「私しっちゃかめっちゃかだ」と終わるが,そのとおりしっちゃかめっちゃかな歌だ。
歌手は違うがアイドル曲版とでも言えるようなもの3)も作られている。
1)「裏町人生」(昭和12年,詞:島田盤也,曲:阿部武雄,唄:上原敏/結城道子)
2)「なみだの操」(昭和48年,詞:千家和也,曲:彩木雅夫,唄:殿様キングス)
3)「ソウルこれっきりですか」(昭和51年,唄:マイナー・チューニング・バンド)
ウォンテッド(指名手配)(2017.10.25)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンク・レディー
「私の胸の鍵を こわして逃げて行った」と始まる歌。
詞に共感するところは無いし,曲も可もなく不可もなくというところだがピンク・レディーがステージ上で唄うことにより,また聴いてみたいというよりまた観たいと感じさせる。ピンク・レディーは歌手というよりエンタテイナーなのだろう。もちろん彼女らの歌は決して下手ではないのだがエンタテインメントの力が強すぎるのだ。振り付けの良さもあったのだろう。やや複雑だが真似できない程ではない。特にステージ上を広く飛び回るわけではないので狭い場所で真似ができる。山本リンダの真似には広い場所が必要だし,キャンディーズでは動きが少なすぎて振り付けを真似ても見栄えがしない。
お元気ですか(2018.3.11)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:清水由貴子
「お元気ですか 幸福ですか お返事下さい 気にしています」と始まる歌。
「お元気ですね 幸福ですね お返事ないのは そうなのですね」と言いつつ「私はだけどちょっぴり不幸 不幸感じて悩んでいます」とストレートに思いを綴っている。これで返事が無ければ,諦めるしかないだろう。もちろん,そのような最悪の可能性も解っている,というより,最悪の結果を予想しているからこその歌詞になっているのだろう。
清水にはもっと長い間活躍して欲しかった。せめて,もっと幸せなヒット曲を唄わせてやりたかった。
お化けのロック(2017.11.18)
昭和52年,詞:阿木耀子,曲:宇崎竜童,唄:郷ひろみと樹木希林
「移転届けはまだだけど」と始まる歌。
「柳の下から引っ越してきたよ」とあるが,柳の下に出るのは幽霊だろう。
私の中ではお化けと幽霊は別物だったのだが,いつの間にか区別が曖昧になってしまった。
一般的かどうかは解らないが私が思うお化けと幽霊の違いは,直接の接触が可能かどうかだ。その意味では妖怪・変化や怪物はお化けの一種である。刀で切り付ければ傷を負わせることができそうだ。幽霊は基本的には死霊だが,生霊も含まれるだろう。ただし怨霊であることが条件のような気がする。守護霊は幽霊とは呼ばないと思う。幽霊は見えることもあるが,身体的直接接触はなく,風を感じたり音を聞いたりする程度だ。
妖怪は生まれた時から妖怪で,未知の種族である。お化けの場合,元は動物が多いが器物もなりうる。年を経てそのような能力が身についたもののようで若いお化けは少ない。幽霊は元は人間で,老若男女には関係がないが,若い女性のほうが有名になりやすい傾向にある。
昔はそれぞれ例を挙げることができたのだが,鬼太郎やQ太郎が登場したころから類別が困難なものが出て来たように思う。
思い切り橋(2020.5.5)
昭和52年,詞:山田孝雄,曲:浜圭介,唄:内山田洋とクール・ファイブ
「ここは長崎長崎 思い切り橋」とサビから始まる。
「難し過ぎます 大人の恋は」などと難しそうな詞もあるが,結局「あ・・・あ・・:あ 夜が泣かせる」などいかにもクール・ファイブだ。
想い出の樹の下で(2017.11.6)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:筒美京平,唄:岩崎宏美
「私は忘れない 私は忘れない 晴れた日の想い出の樹の下を」と始まる歌。
『ロマンス』1)や『センチメンタル』2)はオリコン1位を獲っているのにこの歌はオリコン7位止まりだ。同じ年に出された『思秋期』3)は第19回レコード大賞歌唱賞や第8回日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞している。社会や専門家の評価と私の評価はずれているようだが,私はこの歌が岩崎の初期の歌の中ではベストだと思う。冒頭の伸びのあるハイトーンを聴いているだけで心地よい。
1)「ロマンス」(昭和50年,詞:阿久悠,曲:筒美京平,唄:岩崎宏美)
2)「センチメンタル」(昭和50年,詞:阿久悠,曲:筒美京平,唄:岩崎宏美)
3)「思秋期」(昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:岩崎宏美)
俺はぜったい!プレスリー(2018.3.18)
昭和52年,詞:やまだあつし,曲:山鉄平,唄:吉幾三
「俺は田舎のプレスリー 百姓のせがれ」と始まる歌。
まあ,歌といって良いのかどうか微妙だが。今ならヒップホップ・ミュージックというのかも知れない。当時はラップと言っていたのではないか。
ラップの誕生は1960〜70年頃のニューヨークらしいが,それ以前から世界中にあったのではないか。日本では昭和後期からだろうか。
細かいことを知らないので何とも言えないが,川上音二郎のオッペケペー節などもラップの一種と言えるとすれば明治時代か。。
和歌でも節をつけて詠み,漢詩も朗詠し,長唄や小唄なども勿論唄だし,御詠歌も歌だろう。物売りでも,金魚・竿竹・焼芋など特徴的なメロディーのついた売り声があった。
韻を踏んだり,リズムを付けたり,節をつけたりなどは珍しくなく,語り物でも琵琶などの伴奏が入ったり,浪曲でも浪花節・関東節など節があった。
『にひばりつくばをすぎていくよかねつる』などにも節がついていたとすれば日本武尊の時代からということになる。
おんな港町(2017.11.27)
昭和52年,詞:二条冬詩夫,曲:伊藤雪彦,唄:八代亜紀
「おんな港町 どうしてこんなに 夜明けが早いのさ」と始まる歌。
途中に早口の箇所があったりして,昔ながらの日本調歌謡曲とはかなり趣が異なると思うのだが,八代亜紀が唄うと,八代演歌に聞こえる。それだけ八代の個性が強いということか。
帰らない(2019.7.21)
昭和52年,詞:つのだひろ,曲:つのだひろ,唄:清水健太郎
「帰らない帰らないって言ってた お前の濡れた瞳が」と始まる歌。
「本当に別れるつもりなの いつもの嘘と言って欲しい」と,今までも何度も同じようなことがあったらしい。心は残っても,もう関係修復はできないと判断したのだろう。
状況のわりには明るい曲調だが,清水の歌声には哀愁が漂い,心残りが現れている。
無関係な年寄り(現在の私)からすれば,双方の我儘だろう,勝手にしろと言いたいが,それが若さなのだろう。当時の私はこのようなことを考えることもせず,ただ聞き流していた。
案山子(2017.5.30)
昭和52年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:さだまさし
「元気でいるか 街には慣れたか」と始まる歌。
一人田舎から都会に出て行った家族を思う歌。連絡が無いのは元気な証拠なのだろうが,「手紙が無理なら電話でもいい “金頼む”の一言でもいい」,「おふくろに聴かせてやってくれ」とある。
この歌に限らずさだまさしの詞は(他の多作作詞家の詞も同様だが)何となくフィクションぽく聞こえる。たとえば「手紙が無理なら電話でもいい」とあるが,私の感覚では電話はよほどのことが無ければ掛けられなかった。どこの家にも電話があるという状況ではなかった(私も電話は無かった)し,遠距離電話の料金も高かった。さだまさしは電話が身近な都会に住んでいたのだろう。しかし,登場人物の心情に共感できるところがあるからヒット曲となるのだろう。
かざぐるま(2017.8.20)
昭和52年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春
「私の心は 貴方のうでの中」と始まる歌。「まわれ風車 風車 いつまでも」というフレーズが印象に残る。
松山千春とはもちろん個人的な知り合いではないが,個人的に知っていたとしても親しい友達にはなれそうにない。親しい友達とは酒を飲み,カラオケを唄いところだが,一緒にカラオケに行って『め~ぐる めぐる季節の中で』1)などと唄われたら,唄う元気を失くしてしまう。
この歌の歌詞とメロディーの組み合わせが最適かどうか,やや疑問に思うが,松山の歌の中では嫌いではない部類の歌だ。
1)「季節の中で」(昭和53年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春)
カスマプゲ(2017.12.8)
昭和52年,詞:鄭斗守,訳詞:申東運,曲:朴椿石,唄:李成愛
「海が二人を引き離す とても愛しい人なのに」と始まる歌。?
典型的な演歌と感じるのだが,過去の歌で似たような歌がすぐには思い出さない。演歌と分類される歌を集めて,エッセンスを混ぜ合わせるとこのような歌になるのではないかと感じる。インパクトが大きいわけではないが,聞いて懐かしさと安心を感じる歌だ。
勝手にしやがれ(2012.7.2)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二
第19回日本レコード大賞受賞曲。「壁ぎわに寝がえりうって」カッコつけて「寝たふりしてる間に出て行ってくれ」と出て行くのを無視しておいて窓から女が「ふらふらと行くの」を見る。夜更けだが,バーボンを飲みながら「派手なレコードかけて朝まで」騒ぐぞという歌。最後の「アア アアア・・・・」のフレーズが印象的。不器用で口下手な男の典型ではなかろうか。
昭和32年に試験放送が始まった日本のカラーテレビは昭和35年に本放送が開始された。その後20年かけ,カラーと白黒の混在時期を経てこの昭和52年に日本のテレビ放送が原則カラー放送になった。例外は過去の番組の再放送などだけになった。この歌を唄いながら帽子を投げる沢田研二をテレビで何度も観た。途中で腕を前方に振り下ろし人を指す仕草は「独りで」を表しているのかどうか良く解らないが,ザ・タイガースの時代にも似た振りがあってそれなりに決まっていた。しかし,最後の両手を挙げて腰を振るのは阿波踊りかフラダンスの出来損ないのようで私にはカッコイイとは思えなかった。「お手上げだ」との諦めを表現していたのだろうか,朝まで騒ぐ壊れた男を表現していたのかもしれない。
悲しきメモリー(2018.10.19)
昭和52年,詞:小谷夏,曲:筒美京平,唄:郷ひろみ
「よせよ口紅をそんな色にしても」と始まる歌。
「よせよ 想い出を拾い集めても 時計はもとにはもどらない」と失恋した女性を慰めている歌。状況に対して曲調が明るすぎるのはしょせんは他人事だからかも知れないが,ここは励ますためにあえて軽快な曲に仕上げたのだろう。編曲者が付けたのだろうが,イントロの一部など,昔聴いたことがあるような感じがして,気楽に聴くことができる。
カルメン’77(2014.3.14)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンクレディー
「私の名前はカルメンです」と始まる歌。これより前に「カルメーン カルメーン カルメーン」とコールされるが,これも歌詞の一部だとすればこれが歌の始まりになる。
ピンクレディーとして『S・O・S』に次ぐ3枚目のレコードになるだろう。
この1・2年のピンク・レディーのハードワークは,想像するだけだが,非常に厳しいものだったのだろう。しかし,世の中のサラリーマンもまだハードワークの時代だった。『24時間戦えますか』というCMが出たのは昭和53年である。働くだけに限らない。『5時から男』という別なCMもあった。バブル景気の真ん中で,仕事も遊びも全力でという時代だった。
私は,個人的にはバブルとは無縁に過ごしたが,企業に就職した同級生の中には月数100時間の残業時間という者はざらにいた。ボーナスの額も一桁違っていた。使う暇が無いので通帳残高が増えるだけだという友人もいたし,毎晩接待という友人もいた一方で残業時間は多いがサービス残業がほとんどという友人もいた。今もそうかも知れないが,サラリーマンは身体が命という時代だった。当時はブラック企業などという言葉はなかった。私の職場も,残業手当などはなかった。後には裁量労働制などという言葉で表現されるようになった。
河のほとりに(2019.8.14)
昭和52年,詞:谷山浩子,曲:谷山浩子,唄:谷山浩子
「河のほとりに ふたり坐れば さざ波のかすかな 歌がきこえる」と始まる歌。
やさしい声と歌唱。
キャンパス・フォークのような印象だが,もっと個人的な歌だ。
「あなたが好きです」というのが主題だが,相手は当然「ふたり坐れば」の相手だろう。しかし,「あなた」は河に対して呼びかけているようにも聞こえる。想いを直接伝えたいが,それには恥じらいも感じ,河に託して伝えているような感じを受ける。
爽やかな歌だ。
硝子坂(2013.11.16)
昭和52年,詞:島武実,曲:宇崎竜童,唄:高田みづえ
「悲しいのでしょうと夢の中」と始まる歌。
「かな しい」とか「みし らぬ」などと切れないはずのところで切って唄っているのは宇崎の指示なのだろう。「いじわるな あなたは」「手招きだけを くりかえす」などと本当にこんなことをする男がいたら許せないと思う歌詞だが,「夢の中」なのだろう。ガラスの天井ならば,女性の昇進を阻む目に見えぬ壁という意味で,簡単には壊れないというイメージだが,「硝子坂」は簡単に壊れてしまいそうというイメージなのだろうか。つるつる滑り,登れない坂というイメージなのだろうか。それともその下にある奈落の暗闇が透けて見え,恐ろしくて登れないというイメージなのだろうか。
最後は「きらきら消えた硝子坂」なので,結局,坂を登る前に「硝子坂」は消えたのだ。
淡い夢と消えた坂。高田みづえの見た目によく似合う。
現実の高田みづえは鉄板のような坂を登っているのだろう。
帰郷(2016.4.18)
昭和52年,詞:阿木耀子,曲:宇崎竜童,唄:郷ひろみ
「夜中に爪を切ってはいけないと」と始まる歌。
「帰郷」する歌ではなく、「故郷にいる恋人」を想う歌。
どうも私には難解すぎる歌詞だ。今,歌詞を読み返してみると「空には満月 書きかけている日記帳には三日月飛び散る」というのは夜,日記帳の上で爪を切っているのだろうと読めるが,当時は何の意味か不明だった。結局「想いだけが千里の道を帰る」というのは故郷に帰らないということで,故郷に帰らないことから親の死に目にも会えない,恋人にも・・・と半ば予感しているということなのだろう。
最初の夜爪のことわざ(迷信?)に耳を奪われ,当時意味不明だった言葉の羅列は覚えられなかった。音として面白ければ自然に覚えてしまうが,そのようなこともない。従ってこの歌はほとんど忘れてしまっていた。
ところでこの夜爪の話は当時どの程度広まっていたのだろうか。
季節風(2018.8.22)
昭和52年,詞:有馬三恵子,曲:筒美京平,唄:野口五郎
「どんなに愛してみたところで 実るあてない恋だから」と始まる歌。
松竹映画『季節風』(野口五郎,大竹しのぶ)の主題歌。
実らぬ恋は昭和の歌のテーマのひとつだ。「暮す世界が違う二人」の恋が実らぬのは普通だが,「二人は別れを告げるために こんな街角にいる」というのは意外だ。もっと意外なのは「いつ今日の痛みを なつかしい顔で 思い出せるのか」と別れるときにこれが後に想い出になることを考えている。以前なら,時が経てばいざ知らず,少なくとも別れるときはもう二度と恋などしないと思うのが普通ではなかったか。
気絶するほど悩ましい(2017.9.29)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:梅垣達志,唄:Char
「鏡の中で口紅をぬりながら」と始まる歌。
「うまく行く恋なんて恋じゃない」と何度も繰り返されるが,これが阿久悠の考えなのだろうか。
このような詞が人の心をとらえるのは,読み手が感情移入できるときだけだろう。「涙いっぱいにためながら あなただけはわかる筈」などという「嘘つき女」とつきあうことは珍しくないことだからヒットしたのだろうか。私にはよく解らない。
北国の春(2013.6.19)
昭和52年,詞:いではく,曲:遠藤実,唄:千昌夫
「白樺青空南風」とはじまる歌。第21回日本レコード大賞ロング・セラー賞受賞。
北国から都会へでて5年,母親からの小包などの小さなきっかけで故郷を想い,「故郷に帰ろかな」という歌。
昭和30年代までの代表的な歌謡曲のテーマだ。もちろん,今でも故郷に帰ろうかと想う人もいるだろうが,今は交通機関が発達していて,帰ろうと思えば直ぐに帰ることが出来る。それよりも先ずは電話するだろう。昔は手紙くらいしか連絡の手段が無かったから望郷の思いもひとしおだっただろう。
米国で仕事をしていたとき,一緒に仕事をしていた中国人がこの歌を日本語で覚えたいと言ってたので教えてやった。この歌は彼の渡米前に中国で流行っていたそうだ。オリジナルが日本の曲だということは彼も知っていた。代わりに私は中国語を教えてもらっていた。私は一時この歌の中国語バージョンを練習したことがあるが,途中で挫折した。
初めて中国に行ったとき,中国の歌謡曲?のカセットテープを何本か買ってきた。どんな歌がいいのか解らないので,店員に,中国で今人気の歌手の歌といって選んでもらったのだが,中にはいくつか日本の歌だと私が認識している歌の中国語訳が入っていた。大陸で購入したのだが,発売元は香港の会社になっていた。香港返還前の話だ。歌詞はもちろん聞き取れないが,歌詞カードがあるのでその漢字から意味を想像してみると,恋愛系,望郷系が多く,歌のテーマはどこでも似たようなものだと感じた。
さて,この歌だが,名曲のひとつだろう。ただ,千昌夫のこの歌の歌唱は時と共に変化してきた。私は初期の唄い方が好きだ。
北へ(2018.1.19)
昭和52年,詞:石坂まさを,曲:叶弦大,唄:小林旭
「名もない港に 桃の花は咲けど 旅の町には やすらぎはないさ」と始まる歌。
小林の高音部のややハスキーな声は彼独特のものだ。
詞を読むと,北海道あたりへひっそりと流れて行きそうなのだが,小林の唄を聴くとシベリアまでも行きそうな雄大さを感じる。これは『北帰行』1)や『惜別の歌』2)の印象を私が引きずっているからかもしれない。
1)「北帰行」(昭和36年,詞:宇田博,曲:宇田博,唄:小林旭)
2)「惜別の歌」(昭和36年,詞:島崎藤村,曲:藤江英輔,唄:小林旭)
気まぐれヴィーナス(2016.12.25)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:森田公一,唄:桜田淳子
「去年のトマトは青くて固かったわ」と始まる歌。
花の中3トリオも高校を卒業してしまった年だろうか。桜田はトリオの中で最も後のアイドルソングに近い歌を唄っていた。後の時代のアイドルの多くに比べれば桜田の歌は悪くないが,唄を聴かせるために唄っているようには感じられない。桜田ファンにとっては桜田淳子が唄っているということが重要なのだろう。
とはいえ,70年代のアイドルは後のアイドルが束になってようやく対抗できる程度には個人的な魅力があった。もちろん個人的な好みはあり,個人の中でのランキングはあったが。
キャンディ(2019.11.14)
昭和52年,詞:松本隆,曲:原田真二,唄:原田真二
「キャンディ アイ・ラブ・ユー 目覚めてよ 窓を越えて 僕は来た」と始まる歌。
曲は悪くないと思うのだが,松本の詞はどうも私には合わない。私には「イバラに囲まれ眠る」ひとを起こしに行くシチュエーヨンなど思いもよらない。万一このお伽噺のような状況になったと夢想してもその後の展開も松本の詞のようにはならないだろう。「誰にも君の髪 さわらせたくない 死ぬまでぼくのものさ」などとあるが。私なら『さわらせたくない』『死ぬまで離れたくない』と思っても「ぼくのもの」と自分の所有物のようには思わないだろう。このような差が積み重なって松本の詞は私には合わない。
原田の唄声も好きにはなれない。これは慣れだけの問題かもしれない。森進一なら聞き馴れているのだが,森の声と原田の声の違いは何処にあるのかはよく解らない。
銀の雨(2020.1.11)
昭和52年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春
「貴方と暮らしたわずかな時間 通り過ぎれば楽しかったわ」と始まる歌。
「これ以上私がそばにいたなら あなたがだめになってしまうのね」と別れるようだ。女が自発的に身を引くのかと思えば,「ごめんと私に いってくれたのは 貴方の最後のやさしさですね」と男の方から別れを切り出したようだ。松山の爽やかな声に惑わされるが,どうも男の方に自己中のニオイを感じる。
「貴方の夢が かなう様に 祈る心に 銀の雨が降る」と女を泣かせてまで,どんな夢を持っているのだろうか。
九月の雨(2015.2.12)
昭和52年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:太田裕美
「車のワイパーすかして見てた」と始まる歌。
『木綿のハンカチーフ』1)は共感できるがこの歌には共感できない。「さっきの電話であなたの肩の近くで笑ったひとは誰なの」という感覚は私の感覚ではない。それに「September rain rain」というのは何だ?と思ってしまう。もちろん「九月の雨」というのはいいのだが、なぜここが英語なのだ。全く理解できない。June brideならイメージが浮かぶが,September rainでは特にイメージが浮かばない。
結局,時代の感性に私がついていけなくなったということだろうか。
1)「木綿のハンカチーフ」(昭和50年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:太田裕美)
洪水の前(2021.1.26)
昭和52年,詞:岡田冨美子,曲:筒美京平,唄:郷ひろみ
「悩ましすぎる きらめきすぎる」と始まる。
私には理解できない歌。早口言葉のような唄を聴いて解らないだけでなく,歌詞を文字で読んでも解らない。
「謎めいている 美しすぎる 涙を 涙を流し 罪ほろぼしをしてほしい」あるいはこの箇所と同じ旋律に乗せられている部分が主要メッセージなのだろうが,タイトルとの関係が解らない。
郷ひろみをステージで観るだけで満足というファンのための歌ではなかろうか。
恋人よ(2019.3.8)
昭和52年,詞:つのだひろ,曲:つのだひろ,唄:清水健太郎
「訳もしらず別れる恋人よ それはきっと男のせいさ」と始まる歌。
冒頭部だけを聞くと『みんな私が悪いのよ』という昭和の歌かと思うが,少し進むと「だからいつも言っていた 俺を信じるなと」と,どうも開き直りの歌のようだ。ただ,曲は爽やかな曲なので騙してやろうという悪意は感じられない。ただ,悪意が感じられないということは罪悪感を感じているようには思えないということでもあり,「悪いのは男のほうさ」と終わるが,これは口先だけに聞こえる。
戦後も30年以上経過し,罪悪感の感じ方も変わりつつあるのだろう。
秋桜(2012.4.29)
昭和52年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:山口百恵
「うす紅の秋桜が秋の日の」と始まる曲。阿木燿子の詞と山口百恵のイメージギャップも魅力的だったが,山口百恵のイメージどおりのこの曲も名曲だ。昭和53年にはさだまさしも自分のアルバム「私花集」に収録している。「此頃涙もろくなった母が」とか「何度も同じ話くりかえす」の箇所,あるいはこれら以外も歌詞はいかにも「さだまさし」だ。
山口百恵といえば千家和也と阿木燿子を思い出すが,ふたりとも山口百恵の魅力をうまく引き出している。さだまさしと谷村新司も数は少ないが山口百恵のよさを十分引き出している。あるいはかなりイメージの異なる曲に対応できる山口百恵が凄いのだろうか。
天才美空ひばりも種々のジャンルの曲に積極的に挑戦しているが,成功しているのは2・3のジャンルだというのが私の感想だ。
コスモス街道(2015.10.1)
昭和52年,詞:竜真知子,曲:都倉俊一,唄:狩人
「バスを降りれば からまつ林」と始まる歌。
「右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中仙道」とあるのでおおよその位置が解る。その避暑地を「愛の想い出」を胸に独りで訪ねている歌だ。街道沿いにコスモスがさいているのだろうか。
過去に私が暮らしたことがある地域には松林はなかったが旧街道沿いの松並木はあった。道沿いに線状に咲いているコスモスはなかったが,面状のコスモス畑といってよいような所はあった。歌詞とは一致しないが,雰囲気は想像できる。同時に心情も想像できる。
ひとつの小さな疑問は「コスモスの花は今でも咲いていますか」と現在咲いているかどうか判っていない様子であることだ。バス停からコスモス街道までの途中の気持ちを歌ったのだろうか。能因の歌1)のように実体験ではないのではなかろうか。もちろん,世の中の歌の多くが実体験でないことは百も承知していて,それは悪いことではないが,実体験だと思わせることが重要ではないだろうか。
「右は越後へ行く北の道」の箇所でのテンポチェンジなど曲も悪くないし狩人の唄も良い。しかし,私は「中仙道」と聞くと「旧中山道」を思いだし,これから「1日中山道」と連想が続き,この歌の感傷が薄れてしまう。
孤独のマラソン・ランナー(2020.2.8)
昭和52年,詞:自切俳人,曲:自切俳人,唄:自切俳人とヒューマン・ズー
「若者が走るよ 街のビルの谷間を」と始まる歌。
「みんなが声をかける」が「わき目のふらずに 前だけを見つめて 若者が駆けて行く 振り向きもしないで」。
やがて海に出て,海岸を走っているとき,ふと立ち止まり,いつまで自分は走り続けるのだろうと考えるが,再び走り出す。
若者はオリンピックのマラソンで優勝することを目指しているのではないようだ。ある目標実現を目指して人生を走っているのだろう。目標は,少し前なら大学改革だったかもしれないが,よく解らない。ただ,私には作者がこのランナーに共感しているようには感じられず,『さびしからずや道をとく君』1)という目で見ているのではないかという気がする。
なお,自切俳人とは北山修のペンネームだ。
1) 「やは肌のあつき血汐に触れもみでさびしからずや道をとく君」:与謝野晶子(「みだれ髪」,明治34年)
西海ブルース(2020.3.19)
昭和52年,詞:永田貴子,曲:尾形よしやす,唄:内山田洋とクール・ファイブ
「港の雨に 濡れてる夜は 思い出すんだ 白い顔」と始まる歌。
「忘れられずに ひとりなく」「君とうたった 西海ブルース」ということなのだが,インパクトが弱い。「帰えらぬ人」の事情が不明なので感情移入のしようがない。詞全体に具体性がなく,誰にでも合うようにという考えなのかもしれない。
それでも前川はいつもの調子で,おそらく感情をこめているのだろうが,淡々と唄っているように感じる。歌によってはこの淡々さがより哀しみを増幅するのだが。
サクセス(2016.7.21)
昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
「ブラインド一杯開けた部屋には」と始まる。
「ここまで来たらサクセースサクセース」の箇所などが印象に残る。
いつも聴いていたい曲ではないが,たまにはこのような曲を聴きたくなる気分のときもある。
歌詞は私の理解を超えており,コメント不能だ。歌詞がもっと共感できるものならもっと好きになったかも知れない歌。しかし,当時,歌を聴くときは呑んでいるときが多かった。酔っぱらってくるとアップテンポの曲にはついていけなくなる。当時の私には合わない曲だったのだろう。今,私に合わないのは,私の年齢のせいだろう。
さよならをいう気もない(2023.12.31)
昭和52年,詞:阿久悠,曲;大野克夫,唄:沢田研二
「ハイヒールのかかとが折れて歩けない」とはじまる。
阿久にしては難しい詞。最初の1フレーズは恋に破れたことを表しているのかとも思うが確信は持てない。何となく消化しきれない歌詞が続いて「さよならをいう気もない 悲し過ぎて」と終わる。
私には理解できない歌なのでコメントしようがない。
さらば青春の時(2015.3.19)
昭和52年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:アリス
「振り向かないで歩いてゆける」と始まる歌。
雰囲気的には後の『昴』1)系統の歌。詞が観念的過ぎて当時は特に私の印象に残らなかった曲だが,これが後の『昴』に結実したのであろう。私は『昴』に軍配を上げる。
1)「昴」(昭和55年、詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:谷村新司)
しあわせ芝居(2015.10.22)
昭和52年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:桜田淳子
「泣きながら電話をかければ」と始まる歌。
とても優しいあの人。恋人だと思っていたのに「気づいてしまった」。「電話してるのは私だけ あの人から来ることはない」。
『宝くじを買うときは 当たるはずなどないと言いながら買います』1)という中島みゆきだからこんなことに気づくのだろう。というより,思い過ごしだろう。他により重要な予定があれば,無理なお願いは聞いてもらえないはずだ。いつも優しく付き合ってくれるということは,十分に自信を持って良い。猜疑心の強すぎるのはよくない。
1)「あした天気になれ」(昭和51年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき)
しあわせ未満(2019.9.10)
昭和52年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:太田裕美
「20才まえ ぼくに逢わなきゃ 君だって違った人生」と始まる歌。
「ついている奴 いない奴」,「棘のあるバラ れんげ草」,「陽のあたる人 かげる人」と「人間なんて2通り」と対比しているのが印象的。
「家柄のいい もっと利巧な男さがせよ」などと言っているし,他の箇所でも自分をついて「いない奴」に分類しているように聞こえるが,「君は連いて来るんだね」とついていないなどとは言えないのではないか。それとも,相手が「バラ」ではなかったのでついていないと思っているのだろうか。
「アパートも見つからなけりゃ良かったよ」などと言っているが,昔なら貧乏だけれど幸せだという歌になる状況だ。それでも「しあわせ未満」などと言っているのは,金がなければしあわせではないと思っているからか。そして金がないのはついていないからだと思っているのか。
何でもかんでも不平たらたら男の歌のような印象だが,実は幸せな自分に気づいているのだろう。だからこそ,太田の唄は爽やかで,幸せそうだ。向上心を持ち続けるのならいいのだが,不満ばかりを口にしていると本当に不幸になっちゃうよと忠告したい。
思秋期(2017.1.26)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:岩崎宏美
「足音もなく行き過ぎた 季節をひとり見送って」と始まる歌。
歌詞にもあるが,18から19になる頃の歌。
阿久悠と三木たかしなら外れはないと思うのだが,「青春はこわれもの 愛しても傷つき 青春は忘れもの 過ぎてから気がつく」はやや客観的すぎるように感じる。このように思うのは18・19の歌い手ではなく,作詞者が年寄り目線で眺めているかのように感じてしまう。青春と呼ばれるような年齢を過ぎてしまった者には共感できる詞であっても,当事者はそのときこのように感じるのだろうか。曲も,岩崎宏美は上手に唄ってはいるが,転調するところなど素人には唄いにくそうだ。
岩崎宏美の唄は高音もよく出ていて,やや哀愁を帯びた歌唱は「思秋期」というタイトルにもマッチしていて良い。
傷心(2019.12.15)
昭和52年,詞:大友裕子,曲:大友裕子,唄:大友裕子
「貴方の後姿 だんだん小さくなる 一度も振り返らずに 去っていくのね」と始まる歌。
「貴方となら 死んでもいいと思った」のに,という訳で「傷心」ということになる。「傷心」と聞くと悲しみに打ちひしがれているような印象を受けるが,唄は力強く,悲しみに溢れてはいるが「今更 呼びとめたって どうにもならない」と解っている。メソメソするのではなく,自ら心の傷に塩を塗り込み,痛みで悲しみを忘れようとしているかのようである。
ついにこのような強い女性が現れたかとも思ったのだが,よくよく聞いてみると力強いのは歌であって歌詞を個々に見ると弱さが滲み出ている。結局『やせがまん』の歌だ。しかし,従来は『やせがまん』は男性的特性だったように思う。やはり時代は性差を小さくする方向に動いているようだ。
昭和柔侠伝の唄(最后のダンスステップ)(2019.10.15)
昭和52年,詞:あがた森魚,曲:あがた森魚,唄:あがた森魚&緑魔子
「私の名は朝子です。」からはじまる台詞があり,続いて「今宵かぎりのダンスホール」と唄が始まる。
「昭和柔侠伝」は昭和45年から10年間にわたり漫画アクションに連載されていたバロン吉本の劇画『柔侠伝』シリーズ中の1シリーズ。他にも『現代柔侠伝』や『日本柔侠伝』などいくつかのシリーズがある。
当時は毎朝,喫茶店で朝食を食べていた。(時代が混乱しているかもしれない。昭和45年だと,私は金欠病だった。収入の大部分が予約している全集やなどの書籍代に消えていた。卒業する先輩から電気炬燵をもらって,冬少しは暖をとれるようになったのは次の年だ。喫茶店に通いだす前は朝食は食べていなかったか,大学の食堂で食べていたのだろうがあまり記憶が無い。
私が通っていた喫茶店だが,漫画雑誌がおいてあった。ビッグ・コミック,週刊漫画,漫画アクション,少年サンデー,少年マガジン,ジャンプにチャンピオンにキング,花とゆめ,マーガレット,少女フレンド,よいこなど,大抵の漫画雑誌があった。もちろん,ビック・コミック・オリジナルとか別冊マーガレットなどもあった。多くの漫画を見たように思うが,『昭和柔侠伝』はタイトルしか覚えていない。毎週待ち望んで続きを読むというほど私の心をとらえることがなかったのだろう。
歌詞には「もうすぐ外地へお出征ね あたしも最後のパアマネント」などとあり,時代が解る。パーマ禁止などは歴史?で学んだが,同じく歌詞にある「夜会服」,「めとろ」,「キネマ」などどの時代の言葉かよく解らない。東京メトロなど今でもありそうだし,キネマ旬報などという雑誌もある。ただ,最初の台詞に「身長は百六十三センチです」とある。私のイメージだと,当時なら身長は尺貫法で言っていたのではないかと思うがどうなのだろう。男性なら六尺はあろうかという大男などと言いそうに思うが,女性はメートル法だったのだろうか。戦艦大和の主砲は四十六サンチ砲だし,零戦に装備されていたのは二十粍機銃だから,メートル法が一般的だったのだろうか。当時の言葉を生で聞いたわけではないので語感がわからない。pH(ペーハー)がピーエイチさらにピーエッチに変わったとかBMW(べーエムヴェー)がビーエムダブリューに変ったのは変化前後の両時代を生きているので何となく感じが解るのだが。そういえばキネマもシネマに変ったのだろうか。
閑話休題。「昭和柔侠伝の唄が掲載されてい本を何冊か持っているので,そのような歌本系を買っていた時期に流行していたのだろう。しかし,当時私が聞いていた歌番組で聴いた記憶はほとんどない。私の住む世界と違う世界で聴かれていたのだろう。
暑中お見舞い申し上げます(2012.2.15)
昭和52年,詞:喜多條忠,曲:佐瀬寿一,唄:キャンディーズ
タイトルどおり「暑中お見舞い申し上げます」と始まる歌。「なぜかパラソルにつかまりあなたの街まで飛べそうです」と,彼はこの場にいないのに,ハッピーさ全開の曲。「メリーポピンズ」を思い出しているのはキャンディーズではなく,作詞者だろう。とにかくキャンディーズの曲はハッピーハッピー心うきうきというイメージがある。
人気絶頂だったキャンディーズだが,この年の夏突然「普通の女の子に戻りたい」と解散宣言,実際昭和53年には解散してしまう。
当時,ピンクレディーも人気があったが,私の周囲にはキャンディーズやピンクレディーのファンだと自称する人間はいなかった。キャンディーズは私たちより少し若い世代の男性,ピンクレディーは私たちよりはるかに若い女の子に人気があったようだ。まあ,私たちの世代の場合,これらのファンであっても公表はしない隠れファンだったのだろう。
シンプル・ラブ(2017.9.3)
昭和52年,詞:松本隆,曲:佐藤健,唄:大橋純子&美乃家セントラル・ステイション
「シンプル・ラブ 考えすぎねあなた」と始まる歌。
「幸福ならいいの」と居心地のよさに溺れることを勧めているような歌詞だ。このようなことが可能になったのは社会が豊かになったからで,苦しいことからの逃避が可能になったからだろう。昔は逃避が不可能だった。
あるいは社会が盤石でとてもひっくり返せそうにない。既存の社会の階段を登って行くのも諦めてしまったということなのだろうか。
いずれにせよ覇気を失った若者が増え始め,バブル期を経て世界における日本の存在感の低下の元になったのではなかろうか。
そんな女のひとりごと(2017.6.24)
昭和52年,詞:木未野奈,曲:徳久広司,唄:増位山大志郎
「お店のつとめは はじめてだけど」と始まる歌。
女歌で歌詞に共感はできないが,状況は理解できる。曲も唄いやすそうだし,飲みながら気分によっては唄ってもいいかと思う歌。
そんな夕子にほれました(2014.6.7)
昭和52年,詞:海老名香葉子,曲:山路進一,唄:増井山太志郎
「やさしい言葉 暗い過去」と始まり「そんな夕子にほれました」と終わる歌。
薄幸そうな女に惚れた歌。女はナイトクラブ勤めのようだが,男は客だろう。ホステスとボーイのようには感じられない。いずれにせよ男歌だと感じるのだが「白いお鍋が光ってた」という詞には違和感を覚える。まあ,男でも「お鍋」とは言うこともあるだろうが,どうも,私にはこの詞が心から出てきたのではなく,頭から出てきたような感じがして共感ができない。
旅の終わりに(2016.8.25)
昭和52年,詞:立原岬,曲:菊池俊輔,唄:冠二郎
「流れ流れて さすらう旅は」と始まる歌。
作詞の立原岬は五木寛之の別名だそうだ。五木寛之ならもっと意外性のある詞を書くかと思いきや,陳腐な演歌の詞だ。ところがその使い古された言葉の並びが聴いていて安心でき,心地よい。曲も意外性が少なく,聴きやすい。冠二郎の唄はやや力が入りすぎのようにも聞こえるが,悪くはない。
だけど・・・(2021.10.1)
昭和52年,詞:島武実,曲:宇崎竜童,唄:高田みづえ
「とめどない涙は 誰の為」と始まる。
「やるせない鼓動は 誰の為」とか「馴そめぬ口紅 誰の為」とかいろいろあり,どれも「ほら 恋を指差して 早く早くと騒いでる」「だけど・・・」というのがタイトルになっている。
結局「あゝ あー」と言うだけで終わる。歯がゆいようだが微笑ましい。
暖流(2014.7.15)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:石川さゆり
「私これで帰りますと席を立った」と始まる歌。「南国土佐の昼下がり」と終わる土佐の歌だが,『津軽海峡・冬景色』では青函連絡船という場面が強烈に印象付けられるのに対し,この歌ではサビの「これで心が晴れました あなたなしで生きることに決めました」というメッセージは伝わってくるが「土佐」は別に土佐でなくてもいいようだ。
私は『天城超え』1)などよりこちらのほうが好きだが。
1)「天城超え」(昭和61年,詞:吉岡治,曲:弦哲也,唄:石川さゆり)
中央フリーウェイ(2017.2.22)
昭和52年,詞:荒井由美,曲:荒井由美,唄:ハイ・ファイ・セット
「中央フリーウェイ 調布基地を追い越し 山にむかって行けば」と始まる歌。
「きこえない 風が強くて」とあるのでオープンカーなのだろうか。サニーやカローラが発売されて自家用車が大衆に普及するまでは,アメリカ映画に出てくるオープンカーにあこがれていたような気がする。
歌詞に「フロント・グラス」とあるが日本語ならフロント・ガラスだろう。関東ではガラスをグラスというのだろうか。そういえばステンド・ガラスよりステンド・グラスのほうが一般的な気もしてきたが,私はグラスと聞くとワイン・グラスなどを思う。
ところで,フロント・ガラスは英国で何と呼ぶかは知らないが,米国ではwindshieldだ。
沈黙(2022.10.20)
昭和52年,詞:松本隆,曲:筒美京平,唄:野口五郎
「はじめから あなたは愛を 戯れとわりきっていた」と始まる。
そんな関係だったが「男は静かに旅立つものさ」と突然私は旅立つ。「どんな気がする どんな気がする 恋人を待ってる夜の長さは」「あなたは悔やんでベッドで泣くね」「二人の愛の幕が降りたよ」と解釈してみたが,この解釈で良いのだろうか。
外部からこの二人の関係を見ると,最初は双方が戯れと思っていた。しかし,途中から男が本気になり,女が本気にならないので別れることにする。逢えなくなって悔やむだろうと思っているようだが,それは男の内面が鏡に映っているだけだ。恐らく女は何も感じず,次の戯れに向かうのだろう。
津軽海峡・冬景色(2011.10.8)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:石川さゆり
「上野発の夜行列車おりた時から」でレコード大賞歌唱賞。FNS歌謡祭最優秀グランプリ。
石川さゆりのデビューは古いのだが,「丘の上ひなげしのはなが」と衝撃的な歌声を披露したアグネスや「先生,先生,それは先生」の森昌子に比べると印象は薄く,その後もヒット曲に恵まれていない。しかし,この歌は違った。最後の「あァあア〜,津軽海峡,ふゆげ〜しき」の「ア」など,ゾクゾクする。
青函連絡船には数回乗った。初めて乗ったのは昭和46年だった。行きは北陸線で行き,帰りは青函連絡船を降りたのが青森駅で,皆が座席確保のために走るのにつられ,荷物を抱えて走って上野行きの夜行急行列車に乗った。国鉄のミニ周遊券というので特急は特急運賃を別に払わなくてはならないが,急行はミニ周遊券だけで乗れたからである。急行「八甲田」の座席は硬い座席で,「疲れた〜」という印象しか残っていない。東京から名古屋まで高速バスで帰ってきて,名古屋に入ったところで降りて地下鉄に乗り換えれば早く帰れたのだが,市内に入るあたりから大渋滞,このことも疲れた原因かもしれない。
最後に乗ったのは昭和62年だと思う。このときは青函連絡船が廃止されるという話を聴いていたので,ぜひ上野発の夜行列車から青函連絡船に乗り換えたいと思った。このときは歌のイメージと若干ずれるが寝台車を利用した。ブルートレインに乗ったはこのときが最初で最後ではないかと思う。
てぃーんずぶるーす(2015.4.26)
昭和52年,詞:松本隆,曲:原田真二,唄:原田真二
「駅に走る道は雨で」と始まる歌。
一言で言えば私の好みではない。一番私の好みに合うのば曲だろう。曲は単調ではあるが,単調な曲に対する私の評価は低くない。詞や歌唱とのマッチングの問題だ。
問題は詞だ。軽薄さを感じる。「誰も知っちゃないさ 若さ それがこんなに傷つきやすいものだと」が繰り返されるがこれは何だ。「傷つきやすい」ことを主張するのは甘えだ。主張はしないが「傷つきやすい」ことが伝わるように書くのが作詞家だろう。「知っちゃないさ」の表現も,小学校・中学校で国語の勉強をいい加減にやってきたはいてぃーんを感じさせる。これが作詞者の意図かもしれないが,その必要性が理解できない。
歌唱も好みではない。発声,ブレスの位置など私好みではない。
松本が詞を書いたヒット曲は極めて多い。Wikipediaでは原田を早熟の天才と紹介している。そのコンビネーションだからそれなりの歌なのだろうが,私が慣れ親しんだ歌と違い過ぎてついていけない。そういえば,昔も人々がビートルズを絶賛していたころ,私にはビートルズの良さが解らなかった。
デンセンマンの電線音頭(2015.11.15)
昭和52年,詞:田村隆,曲:不詳,唄:デンセンマン・伊東四朗・小松政夫・スクールメイツジュニア
「電線にスズメが三羽止まってた」と始まる歌。
ナンセンスソングという言葉は聞いたことがないが,そのような歌で一種のコミックソングだろう。2番は「勉強は国語算数理科社会」,3番は「裏山に突然UFOが飛んで来た」。
そのほか「キャンディーズ淳子に百恵にひろみくん」などという詞もある。
ナンセンスクイズの『電線にとまった雀』シリーズの流行に乗じて作られた歌だと思うのだが,この曲が元でナンセンスクイズが流行したような気もして,細かいことは忘れてしまった。
なお,デンセンマンはNET系列で放映されていたバラエティ『みごろたべごろ笑いごろ』に登場したキャラクターである。
時のいたずら(2019.6.25)
昭和52年,詞:松山千春,曲:松山千春,唄:松山千春
「時のいたずらだね 苦笑いだね 冷たい風が今 吹き抜けるだけ」と始まる歌。
「今日はやけに君が 大人に見えるよ」とか「昔愛した人を 思い出しただけさ 今さら言えないよ それは君だと」と詞に思いが具体的に書いてあるので解りやすい。唄声も透明で美しい。私にはキーが高すぎるので唄おうをとは思わないが,曲も長すぎず,良い曲だと思う。
飛梅(2019.5.1)
昭和52年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:さだまさし
「心字池にかかる 三つの赤い橋は 一つ目が過去で 二つ目が現在(いま)」と始まる歌。舞台は大宰府。
想い出の歌。やや饒舌過ぎると感じる点もあるが、情感はある。
「三つ目の橋で君が 転びそうになった」とか「君は神籤を引いて 大吉が出る迄と も一度引き直したね」というのはその後を暗示している。「登り詰めたらあとは 下るしかないと 下るしかないと 気付かなかった」のはやや解説が過ぎるように感じるが,気付かなかったのは君なのか僕なのか,この箇所からだけではよく解らない。
結局,今では「東風(こち)吹かば,君はどこかで,想いおこしてくれるだろうか」という状況になっている。
「来年も二人で来れるといいのにねと 僕の声に君は 答えられなかった」のは,君はあのとき既にこうなることを知っていたのか。今では僕も解っている。それでもなお「どこかで想いおこしてくれるだろうか」というのだ。
今日から年号が平成から令和に変った。『令和』の出典は万葉集らしい。「東風吹かば」の元歌は菅原道真。道真は平安時代の人。『令和』の出典となった万葉集の梅見も大宰府だがこちらの主人公大伴旅人は飛鳥・奈良時代の人なので,旅人が観た梅は道真の飛梅ではない。
渚のシンドバッド(2014.8.23)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンクレディー
冒頭に「アアア アアア … … アア渚のシンドバッド」とあって「ここかと思えばまたまたあちら 浮気なひとね」と始まる歌。
まさにピンクレディーという曲。多くのステージでさぞかし忙しかっただろうし,激しく動きながらも歌唱のレベルは高い。アイドルでありかつ歌手であるといえよう。ただ,ピンクレディーがピンクレディーらしく唄える歌というとそれほど多くないように感じる。その点で本来の歌手とは少し違うような気がする。その意味ではピンクレディーはアイドルエンタテイナーというべきかもしれない。
憎みきれないろくでなし(2015.12.8)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:大野克夫,唄:沢田研二
「昨日は昨日で どこかで浮かれて」と始まる歌。
「こんなに真面目に愛しているのに 昨日や明日は関係ないだろう」との詞が象徴するように,「ろくでなし」の歌だと認識作詞されている。このような者が増えてきていたからなのか,時代の先取りだったのかはよく解らない。しかし阿久が「憎みきれない」と付けたことでその後このような生き方が正当化されていったのではなかろうか。
私は純愛もののほうを好むので,この歌は評価が低い。曲は演歌耳の私にとって予想を裏切る展開が多く,これはこれで新しいものということでそれなりに評価できるのではないだろうか。但し,予定調和のほうが私には心地よい。
人間の証明のテーマ(2015.5.26)
昭和52年,詞:西條八十,英詞:角川春樹・ジョー山中,曲:大野雄二,唄:ジョー山中
「Mama Do you remember the old straw hat you gave to me?」と始まる歌。
森村誠一の「人間の証明」の映画化時の主題歌。映画のCMがテレビで頻繁に放映され,麦わら帽子が飛んで行く映像と『母さん 僕のあの帽子どうしたでせうね』との西條の詩の一節が引用されていたのが印象的だったが,映画は観ていない。
詞はすべて英語である。西條八十の詩の英訳だそうだが,原詩も読んだことがない。しかし元が日本語だからだろうか,英語は平易である。しかし,日本語の歌詞なら,(歌詞,曲,歌手にもよるが)聞き流していても意味が聞き取れるのに対し,私の英語力では英語の歌はよほど何回も聴いたもの以外は意味が伝わって来ない。だから日本で作るのにわざわざ英語にすることはないと思うのだが・・・。
この歌は中国で『草帽歌』のタイトルで日本以上の大ヒットだったそうだ。映画のタイトルは『人証』というらしい。最初から海外進出を狙って英語の歌詞にしたのなら大したものだ。
歌詞が嫌いな英語であるにもかかわらず,嫌いな歌ではない。歌詞を西條八十の詩に置き換えて同じメロディーならもっと好きになるかと尋ねられるとビミョーなので,これはこれで良いのだろう。
熱帯魚(2018.12.15)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:川口真,唄:岩崎宏美
「ああ 今夜はもう帰りません私」と始まる歌。
歌を聴く場合,私の場合は大きく分けて3種類の立場で聴く。多くの場合は歌い手と共感しつつ聴く。もちろん,私は『東京のバスガール』1)ではないが『昨日心に留めた方 今日は綺麗な人連れて』という詞を聴いて自分がバスガールだったら共感できるかどうかという観点で聴く。風景をみているように聴く歌もある。『冬景色』2)のような歌は提示された場面を想像して,作詞者の意図とは無関係に(この場景を切り取った時点で作詞者の思いが反映しているのは確かだが)自分の思いで聴く。『若いお巡りさん』3)ならお巡りさんの立場で聴くこともできるし,アベックの立場で聴くこともできるだろうが,私なら映画を観ているかのように傍観者として聴いているだろう。『男傘』4)のように歌い手ではなく『俺のこぶしで貴様の胸を どんと一発 どやしてやろか』と言われるほうの立場で聴くことが出来る歌もある。
この歌ではなぜか私は歌い手の立場に立てないし,唄いかけられている相手の立場にも立てない。違和感があるのだ。私が持つ岩崎のイメージに合わないからかもしれない。また,『いけない娘だと噂されてもいい』5)なら言われている立場を妄想できるのは状況の詳細が描写されていないからだろう。「叱られてもいい なじられてもいい」だけなら同じような妄想も可能かも知れないが,この歌では「カクテル」「ピアニスト」「熱帯魚」「キャンドル」などと私には無縁の言葉が多数ちりばめられており,無意識のうちに自分とは無関係な世界の話に見えるのだろう。『月の沙漠』6)を聴いても,登場する王子様の気持ちになれないのと同じような理由なのかもしれない。
結局傍観者として聴くことになるが,ハラハラして,早く帰れと言いたくなる。唄の上手い岩崎なのに,残念ながら私には共感できない歌だ。
1)「東京のバスガール」(昭和32年,詞:丘灯至夫,曲:上原げんと,唄:コロムビア・ローズ)
2)「冬景色」(大正2年,文部省唱歌)(「さ霧消ゆる湊江の」と始まる歌。)
3)「若いお巡りさん」(昭和31年,詞:井田誠一,曲:利根一郎,唄:曽根史郎)
4)「男傘」(昭和39年,詞:松井由利夫,曲:大沢浄二,唄:井沢八郎)
5)「青い果実」(昭和48年,詞:千家和也,曲:都倉俊一,唄:山口百恵)
6)「月の沙漠」(大正12年,詞:加藤まさを,曲:佐々木すぐる)
能登半島(2013.12.22)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:石川さゆり
「夜明け間近北の海は波も荒く」と始まる歌。
「夜明け間近」という時刻にもかかわらず,かなり激しい思いを込めて唄い出すのは「浪も荒く」を表現しようとしているのだろうか。出だしからかなりのインパクトである。
「十九なかばの恋しらず」が「十九なかばで恋を知り」というのは初恋ということなのだろう。「十九なかば」というのはかなり遅い気がするが,遅い分,「胸の奥で急に何かはじけたよう」になり,情熱的になったのだろう。サビの部分は石川らしい,よい声だ。
ハイサイおじさん(2016.9.26)
昭和52年,詞:喜納昌吉,曲:喜納昌吉,唄:喜納昌吉&チャンプルーズ
「ハイサイおじさん(ハーイ)ハイサイおじさん(アッヌガッ) ゆうびぬ〔昨夜の〕三合ビン小 ぬく〔残〕とんな」と始まる歌。
オジサンと青年の掛け合いのような唄。方言が理解できないので,聴くだけでは意味が解らない。曲は沖縄の旋律なのだろうか,独特の雰囲気を持っていて再度聴きたくなる中毒になりそうだ。
この歌は昭和51年には沖縄で流行していたようであるが,全国に知れ渡ったのが昭和52年ということである。
ネットで少し検索すると,この歌のモデルのオジサンの話がいろいろあるようだが,どれが本当かは歌詞とは関係がなさそうだ。
Hi-Hi-Hi(2018.9.20)
昭和52年,詞:森雪之丞,曲:森雪之丞,唄:あおい輝彦
「Hi-Hi-Hi 春になったら Hi-Hi-Hi 忘れかけてた Hi-Hi-Hi歌も歌えるさ」と始まる歌。
青春ソングといって良いのだろう。この時代を反映してだろうか,ハッピーソングだ。
「忘れかけてた歌」というのが何を意味しているのか不明だが,今がハッピーならそれでいいというのがこの当時の社会の雰囲気なのか。
初恋草紙(2016.1.20)
昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「口紅だけはさしましょう 冬の光が集まるよう」と始まる歌。最後の「私の恋が今消えてゆきます」が印象に残るが,阿木は『横須賀ストーリー』1)があれだけヒットしたのになぜこのような詞にしたのかよく理解できない。千家和也の路線から変えてみたが,変えすぎたと思ったのだろうか。
これまでの山口の歌に比べると,この歌で初恋?とやや疑問に感じる。口紅をさすようになってから初恋?と思うが,阿木の初恋と私の初恋は概念が違うのかもしれない。
この歌はオリコンで最高4位を獲得している。『イミテイションゴールド』2)は最高2位だが,私はこの2曲のできはもっと大きな差があると感じる。
1)「横須賀ストーリー」(昭和51年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)
2)「イミテイションゴールド」(昭和51年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)
初恋草紙(2018.3.4)
昭和52年,詞:阿木耀子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「口紅だけはさしましょう 冬の光りが集まるよう」と始まる歌。
阿木・宇崎コンビが百恵に提供した歌は少なくなく,歌のテイストのバラエティも非常に広く,百恵のいろんな面を引き出した。しかし,私が百恵を理解していないのかもしれないのだが,この詞は百恵には難解だったのではなかろうか。私には「私の恋が 今 消えてゆきます」の箇所の字面だけしか理解していないように聞こえる。これは宇崎の曲のせいかもしれない。
もちろん,宇崎は阿木の詞を十分理解しており,百恵も詞を十分表現して唄っていて,詞を誤解しているのは私だけという可能性もある。
冬が来る前に(2012.8.27)
昭和52年,詞:後藤悦治郎,曲:浦野直,唄:紙ふうせん
「冬が来る前にもう一度あの人とめぐり逢いたい」という歌。
歌詞からは甘かったかどうかはわからないが,切ない夏の想い出。
春には学生生活の終了などに伴う別れがある。しかしまた,新しい出会いの予感もある。しかし,春から夏にかけようやく新しい出会いがあっても秋には終わってしまう。ほんのひと夏の想い出だけを残して。
夏にはあれだけにぎわった海岸も,今は寂しい秋の夕暮れ。今年のクリスマスは独りで過ごすのだろうか。どうしてうまく話せなかったのだろうか,もう一度逢えたら今度はうまく話せるかもしれない。
人はこのようにして成長していく。
冬の稲妻(2014.1.28)
昭和52年,詞:谷村新司,曲:堀内孝雄,唄:アリス
「あなたは稲妻のように」と始まる歌。
私の感性では『チャンピオン』1)に通じると感じる曲だ。(『昴』などとは方向が違うという意味。)この歌に関しては詞より曲が好きだ。この詞でも「You’re Rollin’ Thunder」などと英語が入っているが,もともと,意味不明な言葉が入っている詞はあまり好まない。「Rollin’ Thunder」が人を傷つけるだろうか。Thunder and lightningと言うが多くの場合thunderはlightningの前兆だ。光が見えないうちから音だけが聞こえる。光と音が共に認識できる場合にはいうまでもないが光速のほうが大きいので光が先だ。「私の心を引き裂いた」のと「私の体を突き抜けた」のとの前後関係とか,稲妻が貫いたら立ちつくすなんてものではないだろうとか,いろいろと不審に思う点がある歌詞だ。
あまり文句を書き連ねるとアリスのファンからクレームが来るかも知れない。平成の歌では,歌詞の意味が解らない歌もある。歌詞を見ずにメロディーに載せて唄われているのを聴くだけでは意味を理解しにくい歌は多い。アリスは時代を先取りしていて,私が遅れているだけかもしれない。
文句を書き連ねてしまったが,この歌はアリスの曲の中では好きな曲の一つだ。もちろん,歌詞を変えたらもっと良くなるなど大それたことは思わない。このままの歌詞で好きな歌の一つなのだ。なぜかは解らないが,メロディー,恐らくは4ビートのリズム,が私の身体の奥にある何かに共鳴しているのではないだろうか。
1) 「チャンピオン」(昭和53年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:アリス)
ふるさとはどこですか(2018.2.7)
昭和52年,詞:中山大三郎,曲:うすいよしのり,唄:テレサ・テン
「ふるさとはどこですかと あなたはきいた」と始まる歌。
逆に「ふるさとはどこですか」と聞いたとき,「瞳をかがやかせ」「話した」ので「ふたりしていかないかと」言われているように感じたのに,「ただひとり帰るのね」という歌。
『連れていって』と言いだせないのは昔の女性ということだろうか。
アグネス・チャンや欧陽菲菲などが唄う日本語には特徴があるが,テレサ・テンが唄う日本語には全く違和感がない。なおかつ古風な女性を感じさせるところが人気の秘密だろう。
ブーメランストリート(2017.3.20)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:三木たかし,唄:西城秀樹
「ブーメラン ブーメラン ブーメラン ブーメラン きっとあなたは戻ってくるだろう」と始まる歌。
当時西城秀樹が好きだったわけではないが,歌番組でよく聞いた。
最近ではブーメランは加えた攻撃が逆に戻って来るというような意味で『予想外に戻ってきた』ような文脈で使われてもいるようだが,本来のブーメランは意図的に自分の元に戻って来るように投げるものだろう。
この歌では「ああ あなたが駆けて行く」と書かれているだけで理由は明示されていない。どうも「あなた」の都合で去って行ったようなのだが,「きっとあなたは戻って来る」と歌っている 。戻って来ることを確信して放ったということなのだろうか。また,ストリートとはどのような意味なのだろう。意味のよく解らない歌だ。
ブランデーグラス(2017.7.18)
昭和52年,詞:山口洋子,曲:小谷充,唄:石原裕次郎
「これでおよしよ そんなに強くないのに 酔えば酔うほど 淋しくなってしまう」と始まる歌。
シチュエーションが解りやすく,古い時代の歌に分類できるだろう。
しかし,裕次郎が唄ってこそ様になる歌だ。この歌にあこがれて私が唄ってみても似合わない歌になってしまうだろう。
ブルー・スカイ(2019.2.10)
昭和52年,詞:財津和夫,曲:財津和夫,唄:チューリップ
「Oh! Blue sky blue sky この空の明るさよ」と始まる歌。
恋人と別れた後の淋しさを歌っている。ほとんど全編で「なぜ僕のこのかなしみ 映してはくれない」とあまりにも明るい空にうらみごとを言っているようだが,「この空の明るさにまぎれながら生きてゆこう」とポジティブ思考もないわけではない。これは大空の爽やかさに少しなりとも感化されたのだろう。
大自然は心を癒してくれる。
ヘッドライト(2015.6.25)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:徳久広司,唄:新沼健治
「北へ走ろう お前と二人」と始まる歌。1番は「悲しみのヘッドライト」,2番は「しあわせのヘッドライト」と終わる。2番の後半は繰り返されるので記憶に残る。
徳久広司で「北へ・・」と聞くと『北へ帰ろう』1)を思い出してしまう。『北へ帰ろう』では『愛しき人よ別れても 心はひとつ』と独り旅だが,この「ヘッドライト」では「今夜からは二人だけだよ」と二人旅だ。傷ついた心で向かうのは北が多い。この歌では「つらいことばかりの東京は捨てたよ」とある。
昭和30年代から40年代にかけては地元では仕事がないので都会に出た。昭和50年代にもこのようなことがあったかもしれないが,印象としては田舎では食えないという理由より都会で一旗揚げよう,あるいは都会の方が魅力的に見えるということで上京していた。しかし,夢に見る東京と現実の東京は違うことも多かっただろう。
昭和30年代は新幹線もなく,故郷へ帰りたいと思っても田舎では食べていけないので帰ることはできなかったが,昭和50年代は国も豊かになり,この歌では自動車で北へ向かっているようだ。
この歌では状況は良いわけではなさそうだが「春もあるだろう」と期待しているようにも見え,最後も「しあわせのヘッドライト」と前向きで終わっている。
新沼の声も良く出ており,消費カロリーが多そうなのでカラオケでこれを歌えばまた一杯飲めるかと思うのだが音域が合わないので諦めている。
1)「北へ帰ろう」(昭和50年,詞:徳久広司,曲:徳久広司,唄:徳久広司)
北北東の風(2018.11.17)
昭和52年,詞:天野滋,曲:天野滋,唄:N.S.P
「北で生まれた僕が 寒さにふるえて」と始まる歌。
「かなわぬ夢ばかり追いかけてばかりより 今のこのひとときを たいせつにしよう」と時代の雰囲気をよく表していると思う。ただ,少し言い過ぎたのかと思ったのか「遠くの方ばかり過去のことばかりより 今のこのひとときを たいせつにしよう」と修正を加えているが,結局「かなわぬ夢」のフレーズを繰り返し,夢を追いかけてもかなわないという思いに陥っている。
星の砂(2014.10.5)
昭和52年,詞:関口宏,曲:出門英,唄:小柳ルミ子
「二度と出来ない恋を捨て あなた遠く」と最初から高音パワー全開で印象的なフレーズが始まる。その後ようやく1番の歌詞だろう「嫁ぐ日 岬に一人たたずみ」と始まる。
詞は演歌である。「二人は運命(さだめ)にさかれ 私は遠く 石垣へ」嫁に行かねばならない。「海に流れがあるならば 届けて欲しい 星の砂」という歌だ。
デビュー以来,出す曲出す曲がヒット曲だった小柳だが,この歌は久々のヒットと言ってもいいかもしれない。デビュー後しばらくは安井・平尾あるいは山上・平尾の歌が多かったのが作詞・作曲を新コンビが担当した歌が増えていた。人気が落ちてきたから作詞・作曲を変えたのか,作詞・作曲を変えたから人気が落ちたのかはわからないが,宝塚出身の小柳自身はポップス系の歌あるいはミュージカルなどに関心があったと聞いたことがある。小柳自身のイメージも『私の城下町』1)の頃に比べると大きく変わってしまって同一人物か疑いを持つほどだ。
関口宏の詞はほとんど知らないが,このような詞を書く一面を持っているのかと興味深い。出門の曲もあまり知らないが,この曲からは何となく昔のヒデとロザンナの曲と同じ雰囲気を感じる。
1)「私の城下町」(昭和46年,詞:安井かずみ,曲:平尾昌晃,唄:小柳ルミ子)
マイ・ピュア・レディ(2016.10.26)
昭和52年,詞:尾崎亜美,曲:尾崎亜美,唄:尾崎亜美
「ちょっと走りすぎたかしら」と始まる歌。
化粧品会社のCMに使われていた。
歌の前半はあまり記憶が無いが,最後の「たった今 恋をしそう」だけが耳に残っている。
「ノートに書いた テレフォン・ナンバー」と電話機にメモリがついていない時代の歌だ。もちろん,携帯電話などもなかった。
私が学生時代,電信電話公社で実習を受けた。そのときの交換機はステップ・バイ・ステップ交換機だった。友人の実家付近はまだ自動交換機が導入されておらず,交換手が手動で電話交換をしていた。都会の一部はクロスバー交換機が導入し始められていた時代である。電子交換機が導入されたのは昭和47年に東京の銀座局からである。
現在も活躍しているデジタル交換機が初めて導入されたのは昭和57年の東京・大手町局だった。
この歌の当時,私は電話契約していなかったのでよく解らないが,電話局のサービスで短縮ダイヤルはあったように思う。しかし,新型電話機の機能だったのか,電話局の新回線でのサービスだったのかよく解らない。もちろん,電話機に電話帳機能などはなかった。よく掛ける番号は手帳(取外し可能な電話帳・住所録がついているものが多かった)に記入して持ち歩いていた。
マイ・ラグジュアリー・ナイト(2016.2.12)
昭和52年,詞:来生えつこ,曲:来生たかお,唄:しばたはつみ
「物語は始まったばかり」と始まる歌。
印象的な歌詞は「恋はゲームじゃなく生きることね」だが,この箇所のメロディーの盛り上がりが中途半端に感じる。全体的に歌詞の高揚に比べて曲が落ち着いていすぎる感じを受けるのだが,私の感想としては歌詞の方が高揚し過ぎているようだ。
いずれにせよ,この詞には共感しづらい。
迷い道(2013.8.14)
昭和52年,詞:渡辺真知子,曲:渡辺真知子,唄:渡辺真知子
「現在・過去・未来 あの人に逢ったなら」と始まる歌。
壊れてしまった愛に思いを残している歌。「いかさま占い」などしても意味は無いだろう。私が言うまでもなく,本人も十分解っている。「扉を開けているの今もあなたの為に」というのもわからないでもないが,過去は帰らないだろう。「ひとつ曲がり角ひとつ間違えて」しまったのが取り返しのつかない結果をもたらしたのだ。
後悔するより前に向かって進めといいたいが,私も役に立たない後悔をすることがあるのでそう簡単にも言えない。歌にして唄えば少しは気が紛れるだろう。
真夜中のヒーロー(2025.1.27)
昭和52年,詞:小谷夏,曲:筒美京平,唄:郷ひろみ
「時計の針がひとつになると のどが渇(かわ)くし からだがほてる」と始まる。
「迷(ま)い子の あゝぼくの青春」とか「センチメンタル ブルー」という言葉が何度も現れる。どこがヒーローかさっぱりわからない。最後のほうには「ぼくはきれいになれるね」とあり,きれいになることを目指しているようにも聞こえるが,どうも私には思いが伝わってこない。
身も心も(2017.4.13)
昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
「犬の遠吠えひとしきりはげしく」と始まる歌。
私などには実生活の感覚というより,映画を観ているような歌だ。
スローな曲が聴きたい気分のときにはこの曲もそのひとつに入れてもよいと感じる曲。
ところで,このグループの歌はブギなのだろうか。私はブギとは何ぞやということなど考えたこともなく,イメージするのは笠置シズ子なのだが『買い物ブギ』1)などとこの歌の共通点はさっぱり解らない。ひょっとしたら『スローなブギ』2)というのはこういう曲なのだろうか。
1)「買い物ブギ」(昭和25年,詞:村雨まさを,曲:服部良一,唄:笠置シズ子)
2)「スローなブギにしてくれ」(片岡義男,野性時代,昭和50年8月,角川書店),野性時代新人文学賞受賞。昭和56年には浅野温子主演で映画化もされており,南佳孝による主題歌もヒットしている。
むさし野詩人(2014.11.17)
昭和52年,詞:松本隆,曲:佐藤寛,唄:野口五郎
「繁華街から静かな道へあなたの涙たどっていくよ」と始まる歌。第9回日本有線大賞功労賞受賞。
松本にしては解りやすい詞だ。恐らく歌手によって書き分けているのだろう。「お見合いの事悩んだあなた」というのは時代を感じる。当時はまだ見合いを断りにくい雰囲気が残っていたのかもしれない。
「あの時ぼくがなぐったら あなたはついてきたろうか」とあるがついては来なかっただろう。適切な言葉があれば,なぐらなくてもついてきたかもしれない。おそらく20才では適切な言葉をかけることができなかったのだろう。そして彼は詩人になった。
もう一度一から出なおします(2015.7.23)
昭和52年,詞:星野哲郎,曲:叶弦大,唄:小林旭
「雨の長崎を あとにしたときは」と始まる歌。「あき子はもう一度一からでなおします」と終わる。
マイトガイと呼ばれていた当時ならこのような女歌は唄わなかっただろうが,『昔の名前で出ています』1)など,女歌も素晴らしい。ややハスキーな高音が良いのだろう。
この時代には次第に減ってきていた古い女性イメージに対するオジさんの郷愁だろうか。
1)「昔の名前で出ています」(昭和50年,詞:星野哲郎,曲:叶弦大,唄:小林旭)
やさしい悪魔(2013.4.17)
昭和52年,詞:喜多条忠,曲:吉田拓郎,唄:キャンディーズ
「あの人は悪魔私をとりこにする」とはじまる歌。
このような「悪魔」の使い方はNeil Sedakaの”Little Devil”1)を思い出させる。N.Sedakaの場合はlittle girlを悪魔に例えているが,キャンディーズの歌では少年だろう。本歌取りなのか,パスティーシュなのか,オマージュなのかエピゴーネンなのか良くわからない。キャンディーズファンがどの程度N.Sedakaや飯田久彦を知っていたかというと,あまり知らなかったのではないだろうか。私の語感ではイミテーションがこのような作品を評する最低ランクの言葉だが,この詞はイミテーションよりは高く評価する。「私を夢中にする」というところも,普通なら「夢中にさせる」というところだろうがあえてこうしているのだろう。
日本人にとって「悪魔」はあまり馴染みがないのではないだろうか。私は何となく字面からくる印象だけで,緑魔子を連想するくらいだ。よくわからないものを出すのが作詞者の意図かも知らないが,私はよくわからないものよりよくわかるもののほうが好きだ。
1) “Little Devil” (昭和36年,詞:N.Sedaka & H.Greenfield,曲:N.Sedaka & H.Greenfield,唄:Neil Sedaka)。当時,漣健児の訳詞を飯田久彦が歌っていた。
UFO(2013.2.12)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:都倉俊一,唄:ピンク・レディー
台詞と言うか掛け声というか判らないが,「ゆーふぉー!」という一声から始まる。その後メロディーにのせて「手をあわせて見つめるだけで」と始まる。
アイドルというのは昔からいたと思うが,この頃からおおきく変質したように思う。一番の変化は唄うときの振り付けだ。と,例を東海林太郎(アイドルではないと思うが)の直立不動から書き始めてみたら,結構激しい動きの歌手を何人も思い出してしまったので消してしまった。多くは間奏のときに特に激しい動きをしていたようだが。結局,分析はできなくなってしまったが,印象ではキャンディーズに始まり,ピンクレディーでピークに達し,その後次々引き継がれAKB48などに至っていると思う。ピンクレディーの特徴は,歌詞に似合わぬ年端もいかぬ子供までがその振り付けを真似したことにあると思う。
この当時,カラオケはあった。このころから急速に普及が始まる端境期と言っても良いかもしれない。もちろん,画のない,音だけのカラオケで,歌詞は歌詞本を見ながらということになる。画のでるカラオケが出始めるのが昭和57年頃である。
カラオケが普及する前は宴会芸というのがあった。宴会があると『何か』をやってみせなければならない。嘘か本当か知らないが,柳家金語楼はこのために手ぬぐいを考案し,特許か実用新案かを申請したとのことだ。その手ぬぐいを頭から被ると,右と左の横顔が男女に分かれており,一人芝居に使うものだそうだ。歌を唄うというのは中でも比較的ポピュラーだったが99%以上がアカペラであった。
で,カラオケはまだまだ十分には普及していなかったが,この宴会でピンクレディーを振り付で唄うのが流行った。子供から大人まで,ピンクレディーの真似が流行ったということだ。
宇宙人は掌を合わせて愛を交わすという古い映画をテレビで観たことがある。この歌の出だしはそこから採っているのではないかと思うのだが,残念ながらタイトルも俳優も覚えていない。この台詞は人妻(兄嫁ではなかったか・・・)を誘惑するときに使われていた。洋画であることは確かだ。宇宙人でもETは指先を使っていろいろやるようだが,ETの上映は昭和57年だからこの歌よりもかなり後のことだ。
夢先案内人(2012.12.21)
昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵
「月夜の海に二人の乗ったゴンドラが」と始まる歌。「横須賀ストーリー」で山口百恵に新しい世界を拓かせた阿木・宇崎コンビが次に百恵に与えた曲は「初恋草紙」である。「横須賀ストーリー」の大ヒットでこの路線で続けようというのが私のような素人の考えることだが,阿木・宇崎コンビは百恵の別な可能性を見つけたのだろう。「初恋草紙」を与えてみたが「横須賀ストーリー」のような大ヒットにはならなかった。しかし,二人は信ずるところがあったのだろう,再びこの「夢先案内人」を与えてまた別な百恵の力を引き出している(ちょっとインパクトは弱いが)。その後も,このコンビは山口百恵にいろんな曲を与え,彼女の魅力を最大限に引き出した。
千家和也は山口百恵にキワドイ詞を与え,彼女の力を引き出したが大きな路線変更には成功しなかったように思う。
それにしても,千家や阿木の詞を歌いながらさだ3)や谷村4)の詞まで歌いこなしてしまう山口百恵には感心してしまう。絶頂期に引退してしまうのも伝説となった原因だろう。
1) 「横須賀ストーリー」(昭和51年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)
2) 「初恋草紙」(昭和52年,詞:阿木燿子,曲:宇崎竜童,唄:山口百恵)
3) 「秋桜」(昭和52年,詞:さだまさし,曲:さだまさし,唄:山口百恵)
4) 「いい日旅立ち」(昭和53年,詞:谷村新司,曲:谷村新司,唄:山口百恵)
ワインカラーのときめき(2016.3.8)
昭和52年,詞:阿久悠,曲:森田公一,唄:新井満
「自由という名の お酒は美味しい」と始まる歌。
「美しい女は しばっちゃいけないよ」「僕のあなたに したいけれども」が主題だろう。もちろん美しくない女は縛っても良いという意味ではく,一般的に女は美しく,その女を束縛してはいけないという意味だろう。女性を解放せよというのだから,文字通りのウーマン・リブに賛同する男の歌のようだ。本音では自分だけのものにしたいが,建前では自由にさせなければいけないと,心からの賛同ではなく,観念的な賛同のようだ。
わかれうた(2012.10.24)
昭和52年,詞:中島みゆき,曲:中島みゆき,唄:中島みゆき
「途にたおれて誰かの名を呼びつづけたことがありますか」と始まる歌。「誰がなづけたか私にはわかれうたうたいの影がある」とあるが,誰が名づけたのでもない,自分自身がそう思っているだけだろう。「アザミ嬢のララバイ」から5曲目,次第に暗さを増してくる中島みゆきである。
頭のよい,多感でかつ悲観的に物事を観る少女が,些細なことから世の中に背を向け始め,世をすねて自分の殻に閉じこもっていく。硬い観念の殻に。しかし,ちょっとした社会との接触での社会の予想外の反応に,その殻を少しづつ剥いでみるとその殻に対する社会の反応も悪くない。次第に暗闇に通じる奥の殻を剥いで社会に曝すようになる。
硬い殻ではあっても薄くなると時に殻の中の明るい本性が見えるようになる。しかし賢い元少女は直ぐに本性丸出しなどという無作法な真似はしない。なぜなら,自分が受け入れられたのが暗く硬い殻の部分だと知っていたから。
その後はいろんな殻を纏ったり脱いだり,自由自在にあやつるようになった。
中島みゆきはデビュー前からコンテスト荒らしなどしていて必ずしも世間に背を向けていたわけではない。初期にテレビ出演が少なかったのも周到な計画の内かも知れない。彼女の経歴が意図したものであろうと無かろうと,彼女はいまや歌姫などではなく,女王である。ブルースの女王ですら世代により異説1)もあるようなので女王は何人居てもよい。音楽の国は沢山あるのだから。
1) 私は「淡谷のり子」だと思っていたが,「青江三奈」という意見もあるようだ。
わな(2015.8.19)
昭和52年,詞:島武実,曲:穂口雄右,唄:キャンディーズ
「スカートの裾ひるがえして帰ってくればいいさ」と始まる歌。
よく解らない歌だ。どうもこの言葉は「あの人」が言っている言葉らしい。歌詞の中で印象に残る箇所のひとつが「・・・・冷たい・・だったかな」だ。どうも何となくうまくいっていないようだ。「あの人は花の名教えてくれる 微笑み返してくれる」「紅茶を入れてもくれる タマネギむいてもくれる」といろいろやってくれているようなのに。そしてもうひとつの印象的な箇所「でも あいつはしくじった」となる。最後には「ああ あたしもしくじった」となる。訳がわからない。「しくじった(fall in love)」と続くので,罠にかかってfall in loveということなのだろうか。それとも罠にかけるつもりがfall in loveでしくじったということなのだろうか。とりこにするつもりがとりこになってしまったということなのだろうか。
そもそもこのような問題で「わな」を仕掛けるという発想がないので,どんな罠なのか理解できない。こんな人間が罠にかかるのかも知れない。
The Stranger<ストレンジャー>(2019.1.12)
昭和52年,詞:Billy Joel,曲:Billy Joel,唄:Billy Joel
口笛を含む数フレーズの悲しげなイントロに続き,アップテンポで「Well, we all have a face that we hide away forever」と始まる歌。
Strangerとは誰もが持っているもう一つの顔のことらしい。
私はいまだにロックとは何かが解らないのだが,説明はできないにもかかわらずこれは詞も曲もロックだと感じる。
We Will Rock You<ウィ・ウィル・ロック・ユー>(2018.6.16)
昭和52年,詞:Brian Harold May,曲:Brian Harold May,唄:Queen
「Buddy you’re a boy make a big noise」と始まるが,これらの歌詞よりも,その前に始まる2拍床を踏み鳴らし次の一拍は手拍子で更に休止が一拍,計4拍が繰り返されるリズムと,途中で何度も繰り返される「We will we will rock you」が極めて印象的だ。